海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1979年

ルパン三世 カリオストロの城

製作:東京ムービー新社
公開:1979年12月15日
監督:宮崎駿 製作:藤岡豊 脚本:宮崎駿、山崎晴哉 作画監督:大塚康生 美術:小林七郎 音楽:大野雄二

名作の様々な要素をパッチワークしたカトゥーンの集大成
 モンキー・パンチの漫画『ルパン三世』が原作で、オリジナル脚本。
 ポール・グリモー監督のアニメーション『やぶにらみの暴君』(1952)をパクったとされるが、オープニングの金庫破り、カーチェイスに始まり、全体的に何かの映画で見たようなシーンが続く。
 クラリスが修道院を出て後見人のカリオストロ伯爵の屋敷に囲われ、結婚を迫られるという設定もルイス・ブニュエル監督の『ビリディアナ』(1961)によく似ていて、名作の様々な要素をパッチワークのように繋ぎ合わせて作られている。
 それでも本作が楽しめるのは、よくできたシナリオ構成とディズニー以来のカトゥーン演出とアクション表現の集大成といえるものになっているからで、エンターテイメントとしては本家の『やぶにらみの暴君』を超えるものになっている。
 次元と共にカリオストロ公国にやってきたルパン。花嫁衣装で逃げるクラリス王女が城に連れ去られるのを見て、王女を助けるために城に忍び込むが、本当の目的は城に眠るお宝。しかし、同じ穴のムジナ不二子がクラリスの侍女としてすでに入り込んでいた。
 城の地下では世界中の通貨の偽札が造られているが、ルパンが目指すのはそれではなく、伯爵と王女がそれぞれに持つ指輪を時計塔にセットすることでお宝が出現する仕掛け。湖に沈む古の遺跡がそれとあって、ルパンは持ち帰れないというオチ。
 それでもルパンは王女の心を盗んだという、これもどこかで聞いたような台詞で幕となる。
 終始、ルパンは己の欲望のためではなくお姫様を救出するナイトの役割というのが本作の人気の秘密で、『ルパン三世』の他の映画作品とを峻別する決定的な要因となっている。
 結局、ルパンはお宝を手にすることなく、王女の心だけを盗んで身を引くという、これも『ローマの休日』(1953)で、ストイックな処女崇拝のテイストとなっている。
 カリオストロをロリコン伯爵と嘲笑するルパンも、最後はロリコンになってしまうというのが宮崎駿らしい。 (評価:3)

製作:キ​テ​ィ​・​フ​ィ​ル​ム
公開:1979年10月06日
監督:長谷川和彦 製作:山本又一朗 脚本:レナード・シュレイダー、長谷川和彦 撮影:鈴木達夫 音楽:井上堯之 美術:横尾嘉良
キネマ旬報:2位

個人でも原爆が作れることを認知させたアナーキーなエンタメ
 ​中​学​の​理​科​教​師​が​原​爆​を​作​る​と​い​う​奇​想​天​外​な​エ​ン​タ​テ​イ​メ​ン​ト​映​画​。​公​開​当​時​、​日​本​で​も​こ​ん​な​エ​ン​タ​テ​イ​メ​ン​ト​が​作​れ​る​の​か​と​思​っ​た​記​憶​が​あ​る​。​当​時​の​評​価​と​し​て​は​★​3​.​5​の​秀​作​だ​っ​た​が​、​観​直​し​て​み​る​と​粗​も​目​に​つ​き​、​蛇​足​気​味​の​ラ​ス​ト​も​あ​っ​て​評​価​を​下​げ​た​。​そ​れ​で​も​、​面​白​さ​は​今​も​変​わ​ら​な​い​。
​ ​理​科​教​師​(​沢​田​研​二​)​は​原​爆​製​造​を​計​画​し​、​老​人​に​化​け​て​交​番​の​警​官​(​水​谷​豊​)​か​ら​拳​銃​を​奪​取​。​続​い​て​、​教​師​の​乗​っ​た​社​会​科​見​学​?​ ​の​バ​ス​が​戦​争​で​息​子​を​亡​く​し​た​老​人​(​伊​藤​雄​之​助​)​に​皇​居​前​で​ジ​ャ​ッ​ク​さ​れ​、​刑​事​(​菅​原​文​太​)​と​協​力​。​海​か​ら​原​発​に​潜​入​し​て​プ​ル​ト​ニ​ウ​ム​を​奪​取​し​、​原​爆​を​製​造​。​女​装​し​て​国​会​の​ト​イ​レ​に​原​爆​の​ダ​ミ​ー​を​置​き​、​警​察​に​挑​戦​状​。​第​一​の​要​求​は​ナ​イ​タ​ー​中​継​の​延​長​。​第​二​の​要​求​を​思​い​つ​か​ず​、​ラ​ジ​オ​の​D​J​(​池​上​季​実​子​)​に​公​募​さ​せ​て​ロ​ー​リ​ン​グ​・​ス​ト​ー​ン​ズ​日​本​公​演​を​要​求​。​原​爆​製​造​費​用​に​借​り​た​金​の​返​済​を​サ​ラ​金​業​者​(​西​田​敏​行​)​に​迫​ら​れ​、​第​三​の​要​求​は​5​億​円​。​逆​探​さ​れ​、​東​急​百​貨​店​で​追​い​詰​め​ら​れ​る​と​原​発​の​爆​破​解​除​と​引​き​換​え​に​脱​出​。​対​策​本​部​に​乗​り​込​ん​で​原​爆​を​奪​取​し​、​D​J​と​と​も​に​車​で​逃​走​。​ス​ト​ー​ン​ズ​の​公​演​の​日​、​刑​事​と​最​後​の​対​決​・​・​・​と​い​っ​た​目​ま​ぐ​る​し​い​展​開​。
​ ​原​爆​を​題​材​に​し​な​が​ら​日​本​映​画​に​あ​り​が​ち​な​テ​ー​マ​重​視​で​は​な​く​、​理​科​教​師​は​無​目​的​な​オ​タ​ク​。​ア​ク​シ​ョ​ン​と​ス​ト​ー​リ​ー​中​心​の​ハ​リ​ウ​ッ​ド​的​エ​ン​タ​テ​イ​メ​ン​ト​に​徹​し​て​い​る​の​が​新​鮮​だ​っ​た​。​カ​ー​ア​ク​シ​ョ​ン​シ​ー​ン​も​見​も​の​。
​ ​ア​パ​ー​ト​で​原​爆​を​作​る​の​で​被​爆​は​当​然​で​、​そ​れ​は​ラ​ス​ト​に​繋​が​っ​て​い​く​。​当​時​、​プ​ル​ト​ニ​ウ​ム​さ​え​あ​れ​ば​個​人​で​も​原​爆​を​作​る​こ​と​が​で​き​る​と​い​う​点​が​シ​ョ​ッ​キ​ン​グ​で​、​そ​の​後​、​テ​ロ​リ​ス​ト​に​よ​る​核​物​質​・​爆​弾​の​移​動​が​問​題​と​な​っ​た​。
​ ​作​品​内​容​は​相​当​に​ア​ナ​ー​キ​ー​で​、​人​に​よ​っ​て​は​ヒ​ン​シ​ュ​ク​も​の​。 (評価:3)

製作:松竹、今村プロ
公開:1979年4月21日
監督:今村昌平 製作:井上和男 脚本:馬場当 撮影:姫田真佐久 美術:佐谷晃能 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:1位
ブルーリボン作品賞

明確には描けなかったオイディプス・コンプレックス
 佐木隆三の同名ノンフィクション小説が原作。1963年から翌年にかけて起きた西口彰事件がモデル。
 5人の連続殺人を犯しながら全国を逃亡し、日本中を震撼させた稀代の殺人鬼が逮捕され、刑事の尋問によって事件の経過と犯人の生い立ちを辿る構成になっている。
 犯人・榎津巌(緒形拳)は五島のクリスチャンの漁師の家に生れるが、戦時中船を徴発され、一家は別府で旅館業を始める。国家神道の時代にクリスチャンということで迫害を受け、それに抵抗しなかった父(三國連太郎)への反感からか、巌はグレて詐欺罪で実刑を受ける。
 巌の自我のベースには模範的なクリスチャンである父との確執があり、父を乗り越えようとして足掻くオイディプス・コンプレックスを今村は主題に据えている。
 妻(倍賞美津子)が父と情を通じているのではないかと疑い、父の偽善に歯向かうが、その刃は父ではなく無関係の第三者に向けられる。ラストで面会に訪れた父が、おまえは本当に憎い私は殺せず、憎しみのない人間しか殺せないという台詞で、巌のオイディプス・コンプレックス=父への復讐の敗北を表す。
 今村が目指したのは、この稀代の殺人鬼の軌跡をドキュメンタリーとして描くことで、そのリアリズムの中から巌のパーソナリティ、オイディプス・コンプレックスの輪郭を浮かび上がらせることができると考えたに違いない。
 『人間蒸発』や前作『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』ではドキュメンタリー手法が成功しているが、すでに死刑執行を受けている西口彰では疑似ドキュメンタリー手法を取らざるを得ない。
 緒形拳は今村の期待に応えて殺人犯のパーソナリティに肉薄しているが、本人になることはできず疑似ドキュメンタリーというドラマでしかない。
 それが演技によるドラマの限界であり、殺人犯のオイディプス・コンプレックスと事件との関連性は明確にはなっていない。
 金銭目的で殺される男に殿山泰司、垂水悟郎、殺される弁護士に加藤嘉、旅館の母娘殺しに小川真由美、清川虹子。 (評価:2.5)

製作:にっかつ
公開:1979年2月17日
監督:神代辰巳 製作:三浦朗 脚本:荒井晴彦 撮影:前田米造 美術:柳生一夫 音楽:憂歌団
キネマ旬報:4位

底辺で蠢く男女のドロドロした愛憎を描くには大阪弁が合う?
 中上健次の短編小説『赫髪』が原作。
 千葉ナンバーの車が走り、勝浦の住居表示があって、撮影は千葉の海際と思われるのに、原作に沿ってか舞台は関西、和歌山あたり。舞台設定はどこでもいい内容なので、九十九里と思しき砂浜が映るたびに気になる。
 主人公は地場の建設会社で働く土方上がりのトラック運転手で、赫い髪の女はヤクザのヒモから逃げた風俗嬢らしく、金も教養もない底辺で蠢く男女のドロドロした愛憎を描くには、やはり関西弁が合うということか? あるいは和歌山でロケする制作費が出なかったということか。
 物語は、ドライブインでインスタントラーメンを啜る赫い髪の女を運転手の男が捨てネコのように拾い、アパートで同棲生活を始める。
 性器にシャブを打たれ、DVから逃げてきたといった女の話に、運転手の男は女の影にちらつく前の男に嫉妬しながら交合を重ねる。二人の関係が愛情なのか、単なる性欲なのか、それとも相半ばする愛欲なのかわからないままに男は煩悶するが、成り行きから仲間の男に女を抱かせたことから、嫉妬が女への愛であることに気づき、女の出て行ったアパートに帰って孤独と喪失感に襲われる。
 そこに女が買い物袋を抱えて帰宅し、迷いの取れた男の愛欲の日々が再びスタートする。
 男女の性愛を洞察する作品だが、物語の大半はこのふたりの愛欲のシーンで、次第にゲンナリしてくるが、それもテーマとロマンポルノなので仕方がない。
 映像的にも頑張っていて、『四畳半襖の裏張り』(1973)同様のボカシ処理を施した、リアルなSEXシーンが見どころといえば見どころ。
 冒頭のダンプの行き交うトンネルを赫い髪の女が歩いてくるシーン、ダンプが荷台の土を落とすのをズームレンズで捉えるショットが、これから始まる男の内的世界に観客を引き摺り込むようでいい。 (評価:2.5)

製作:松竹
公開:1979年12月28日
監督:前田陽一 製作:大谷信義 脚本:前田陽一、南部英夫、荒井晴彦 撮影:坂本典隆 美術:森田郷平 音楽:田辺信一
キネマ旬報:4位

親と子の愛と絆を確かめるライト・コメディ
 自分の子かどうかわからない子供を押し付けられた男(渡瀬恒彦)と同棲女(桃井かおり)が、子連れで父親捜し&養育費稼ぎの旅に出るという物語で、前田陽一らしい軽妙なコメディに仕上がっている。
 発端は、樹木希林が二人のアパートに現れ、子供の母親がブラジルに駆け落ちし、置き手紙にあった父親の下に連れてきたと押し付ける。手紙には父親の可能性がある5人の男の名が記され、本当の父親を捜しに旅立つが、それが養育費稼ぎになると気付き、集金して回る。
 政治家(曽我廼家明蝶)とその秘書(河原崎長一郎)、慶應ボーイの新郎(吉幾三)、元プロ野球選手(小島三児)、死んだ船荷役の親方の妻(吉行和子)と巡り、最後の吉行和子は意に反して養育費ではなく、子供を引き取る。
 関門海峡を渡り始めた二人が、子供への愛着断ちがたく引き返すところで終わるが、二人と子役との演技も、更にはシナリオも演出も両者の間に流れる愛情を描いてなく、ストーリー上の必然とはいえ、ドラマ的には必然性が感じられないのが大きな欠点で、前田陽一のコメディだからお約束と理解するしかないというのが残念なところ。
 ただ、これまた前田陽一らしいほのぼのとした嫌味のなさもあって、良質のコメディとして気楽に楽しめる。
 並行して、当時流行った桃井かおりのルーツ捜しの旅にもなっていて、遊女の娘だったという親と子の愛と絆を確かめる物語になっている。 (評価:2.5)

天使のはらわた 赤い教室

製作:日活
公開:1979年1月16日
監督:曾根中生 製作:海野義幸 脚本:石井隆、曾根中生 撮影:水野尾信正 美術:柳生一夫 音楽:泉つとむ

ロマンティックでノスタルジーな気分にさせるポルノ映画
 石井隆の劇画『天使のはらわた』が原作の映画第2作。曾根中生が監督した日活ロマンポルノの佳作。
 主人公はエロ雑誌の編集長・村木。ブルーフィルムの上映会で、レイプされる女・名美と運命の出会いを感じ、彼女を探し求めるという物語。電話の声からラブホテルで働いていた女を探し当て、告白するものの、少女淫行容疑で警察に捕まり、待ち合わせをすっぽかす。
 名美はヤケクソで行きずりの男と寝て姿を消す。3年後、結婚した村木は暴力バーのママとなっている名美と再会し、男にぼこぼこにされながらも、なお名美に求愛して物語は終わる。
 村木を蟹江敬三、名美を水原ゆう紀が演じるが、運命の女に心を奪われるヤクザだが純真な男を演じる蟹江が上手く、本作を単なるポルノ映画以上の余韻あるものにしている。
 曾根中生の演出もポルノシーンはポルノシーンとしてきちんと見せながら、エロに飽いた村木が初心だった頃に女に求めていたもの=昔の記憶を名美の中に見出していく心情を描くが、当初初心な新人編集者が、3年後にはすれっからしになっているというエピソードを取り込んで、村木の心情との対照を巧みに描く。
 水原は運命の女というには顔がくどいが、暴力バーのママがなかなか堂に入っていて後半はいい。水原は宝塚出身で『本陣殺人事件』『金閣寺』等を経てロマンポルノに転身。セックスシーンも頑張っている。
 ポルノ映画だが、女に対して初心だった頃を男に思い出させ、ロマンティックでノスタルジーな気分にさせてくれる。 (評価:2.5)

製作:プロダクション群狼
公開:1979年12月1日
監督:柳町光男 製作:柳町光男、中村賢一 脚本:柳町光男 撮影:榊原勝己 美術:平賀俊一 音楽:板橋文夫
キネマ旬報:7位

底辺から脱出することも消滅すらできない苦しみ
 中上健次の同名小説が原作。
 新宮から上京した予備校生の主人公のモデルは原作者の中上自身で、新聞配達をしながら町内のブラックリストの地図を作成していくというのが、19歳の青年(本間優二)の鬱屈した精神でもある。
 原作が純文学なので、個人の内面をどのように受け止めるかというのは難しいが、柳町は社会の底辺に生きるという、中上のアイデンティティの基礎にある被差別部落の視点から、舞台となる北区王子に吹き溜まる人々を描いている。
 主人公が見る世界は底辺から見上げる世界で、集金に応じない人間や喧嘩ばかりしている夫婦、立小便する女、そして希望のない新聞販売店主(山谷初男、原知佐子)とそこで働く青年たちを描く一方で、集金人にケーキと紅茶を出してくれる一家にプチブル的な偽善者の視線を感じてしまう。
 そうした青年の見るミクロ的社会を地図に描き、青年の下した判定に基づき、個々に嫌がらせの電話をかけていくが、最終的には町そのものを破壊するガスタンク爆破や列車の爆破予告にエスカレートする。
 その様子は、イスラム過激主義のテロリストの環境と通じたものがあり、社会が常にテロや重大犯罪の温床を孕んでいることをこの19歳の少年に感じさせる。
 原作が発表された1973年の少し前に、同じ19歳の永山則夫の連続ピストル射殺事件があって、創作に与えた影響もあったのかもしれない。
 中年のクズのような同僚(蟹江敬三)が貢ぐ売春婦(沖山秀子)は、自殺しようとして身体障碍者となっているが、その女が孕んだことを知って同僚は生れてくる子供のために強盗を働く。女は再び自殺を図ろうとしても死ぬことができず、底辺から脱出することもできず消滅すらできない苦しみだけを残して物語は終わる。 (評価:2.5)

天使のはらわた 名美

製作:にっかつ
公開:1979年7月7日
監督:田中登 製作:結城良煕 脚本:石井隆 撮影:森勝 美術:菊川芳江 音楽:アビリス

ポルノだが、戦慄迷宮並みのホラーと田中登の耽美がみどころ
 石井隆の劇画『天使のはらわた』が原作の映画第3作で、曾根中生に代わり日活ロマンポルノの名匠、田中登が監督。
 名美は女性週刊誌の記者で、強姦された女性のその後のルポルタージュを書いている。当然のことながら取材は強引で二次レイプに等しい。見ていてもむかむかしてくるが、彼女を諫めるのが元名門出版社の編集者だった村木で、今はエロ雑誌の小さな出版社を興して、名美同様に強姦被害者を調査している。
 名美は村木の素性を探るうちに、妻が強姦被害者であったことを知り、取材を始める。村木の調査目的は行方不明の妻を探すため。妻のためと思い村木が出世のために家庭を顧みない留守に妻は強姦され、その強姦魔をその後も家に引き入れていた。
 名美の取材は被害者の気持ちになりきるというものだったが、建前に過ぎないことを知り、被害者を追体験するうちに次第に自分が被害者そのものであると思い込む。
 レイプシーン中心の前半から、村木の過去話になる辺りから物語は面白くなり、富士急ハイランドの戦慄迷宮並みの病院に名美が迷い込む段になって、前半のポルノ映画はほとんどホラー映画になってしまう。被害者の看護婦が腹を裂かれ、死体が浮かぶホルマリン槽で犯されるシーンは耽美派の田中の本領発揮。
 村木は精神が崩壊した名美を守ろうとするが、ここからは名美の幻想と現実が入り乱れて、何が実際のストーリーかわからなくなり、田中の幻想マジックが冴える。
 地井武男が誠実な村木を演じる。生意気そうな名美に『遠雷』の鹿沼えり。ストリップ小屋のオカマ風の男を演じる草薙良一がいい。 (評価:2.5)

英霊たちの応援歌 最後の早慶戦

製作:テレビ東京
公開:1979年11月3日
監督:岡本喜八 製作:田中寿一、東陽 脚本:山田信夫、岡本喜八 撮影:村井博 美術:竹中和雄 音楽:佐藤勝

優等生的なワンパターンな演技がいささか鼻に付く
 太平洋戦争中に戸塚球場で行われた出陣学徒壮行早慶戦を題材に、学徒出陣した野球選手たちやその他のスポーツ選手らが海軍特攻兵として散っていった様子を描く戦争ドラマ。
 主人公は永島敏行演じる早大捕手で、海軍予備兵に応召したため早慶戦には出場せず、高雄・マニラを経て学徒出陣兵らの教官となり、偵察機で特攻機を指揮して帰投する中尉という設定。
 マニラ以来の特攻戦で戦死した元学生らが実名で登場し、クライマックスでは最後の特攻戦となる鹿屋基地が舞台となる。
 記録映像を織り交ぜながら、太平洋戦争の過程を追うが、あくまで学徒出陣の学生に焦点を絞ったドラマは岡本喜八らしい、見ごたえのあるドラマとなっている。
 悲壮感だけでなく、恋愛や家族愛を織り交ぜ、鹿屋特攻兵の宿泊所となる学校の黒板に銀座の商店地図が共同で描かれ、死を目前にした彼らの青春のささやかな思い出となる。
 もっとも、永島敏行を始め、勝野洋、竹下景子、大谷直子といった当時の青春スターたちの優等生的なワンパターンな演技がいささか鼻に付くところもあって、今ひとつ心が入らない。
 ラストで、ボールを握りしめて敵艦に突入というのもいかにも芝居がかっていて、岡本喜八の反戦の思いが過剰に感情移入していて、もう少しナチュラルなドラマにできなかったのかと惜しまれる。
 明大落研の学生を演じる山田隆夫、慰安婦となる大谷直子など、ストーリーに変化はつけているもののキャラクター的にはいささか定番で、昭和の黴の生えた映画を見せられている感は否めない。
 早大野球部部長に東野英治郎、屋台の親父の殿山泰司が味のある演技。 (評価:2.5)

製作:東映京都
公開:1979年5月26日
監督:工藤栄一 脚本:神波史男、松田寛夫 撮影:中島徹 美術:佐野義和、高橋章 編集:市田勇 音楽:柳ジョージ
キネマ旬報:10位

友達で結びつく現代的なチンピラたちの青春映画
 「仁義なき戦い」5部作、「新仁義なき戦い」3部作に続く、深作欣二以外が監督した初めての「仁義なき戦い」。完全な番外編として作られたフィクションで、福岡と大阪が舞台となる。
 物語の中心となるのは福岡・竜野組組員(宇崎竜童、松崎しげる)と大阪・浅倉組組員(根津甚八)の3人の親友で、根津は宇崎の妹(原田美枝子)と結婚する。
 ところが上部団体・石黒組若頭の跡目争いが起き、浅倉組組長(金子信雄)と若頭(成田三樹夫)が仕掛けた抗争に3人が巻き込まれてしまう。竜野組組長(小松方正)殺害を手引きした根津は宇崎から片輪にされた挙句、捨て駒にされて原田と悶々とした日々を送る。組を潰された宇崎は金子を殺して自滅。松崎は上京して歌手になる。
 根津は逃亡中の竜野組代貸(松方弘樹)と成田に復讐し、自滅するという破滅的ラストで終わり、いわばヤクザに身を投じた3人の若者の悲劇を描く。
 シナリオはよくできていて、ドラマチック。もっとも、深作シリーズのドキュメンタリー・タッチとは180度違うフィクション感が濃厚で、カメラワークも普通の劇映画の撮り方で、「仁義なき戦い」とはまったく作風の異なる別物の青春映画になっている。
 広能の一本筋の通った任侠道、深作シリーズが大人のヤクザ社会を描いたのに対し、工藤栄一は友達で結びつく現代的なチンピラの若者たちを描く。
 それは東映の主要俳優陣で固めた深作シリーズに対し、宇崎・松崎・根津・原田といった青春派で固めたキャスティングからも両作品が好対照であることを示している。
 さて、それでは工藤版「仁義なき戦い」に70年代の新しい青春像を見いだせたかというと、単なるチンピラの破滅的人生以上のものにはなっていない。
 ラスト近く、食堂で萩原健一が根津に絡んでくるシーンが、なかなか味のある見せ場。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎春の夢

製作:松竹
公開:1979年12月28日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆、栗山富夫、レナード・シュレイダー 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

アメリカ人版のフーテンの寅も心は同じ
 寅さんシリーズの第24作。マドンナは香川京子で、帰国子女(林寛子)の母で未亡人。年増マドンナを若手の林寛子でアシストする。
 シナリオに『太陽を盗んだ男』(1979)、『蜘蛛女のキス』(1985)等のレナード・シュレイダーが加わり、アメリカ人版フーテンの寅が虎屋に下宿するというダブル寅次郎でマンネリ打破を狙った作品。
 このフーテンのアメリカ人セールスマンに扮するのがハーブ・エデルマンで、『ザ・ヤクザ』(1974)、『スパルタンX』(1984)に出演しているが、日本語の発音がなかなか上手い。
 マドンナ母娘以外は英語がわからないという、柴又の言語ギャップをコメディに仕立てるが、このアメリカ人が寅次郎同様に短気で口が悪く、商売道具の鞄も扮装も寅次郎そっくりというのが可笑しい。
 寅がマドンナに惚れるのが短兵急でいつもの過程が端折られているが、アメリカ人の方もさくらに惚れて振られるという、寅次郎との相似形を作っている。
 日本とアメリカの男女関係の違いがテーマになっていて、感情をストレートに口に出すアメリカ人に対して、以心伝心引き際を知って相手を思いやるのが男の真心と、日本の男の恋愛観を寅次郎に語らせる。
 最後にはともにフラれた二人が虎屋を出て行くが、アメリカ人がパスケースにさくらの写真を忍ばせているシーンがあって、表現方法こそ違え、どちらのフーテンの寅も心は同じというラストになっている。
 アメリカ人の夢想の中で、倍賞千恵子がオペラ『蝶々夫人』のアリアを歌うシーンがあるが、抜群の歌唱力でちょっとした聴きどころ。 (評価:2.5)

製作:櫂の会、鐵プロ、俳優座映画放送
公開:1979年10月20日
監督:村野鐵太郎 製作:佐藤正之、村野鐵太郎、太田六敏 脚本:高山由紀子 撮影:高間賢治 美術:横尾嘉良 音楽:松村禎三
キネマ旬報:6位

残された娘や村人たちへの視線や共感のなさが不遜
 森敦の同名の芥川受賞作が原作。
 大学をやめ職を転々としながら放浪する青年(河原崎次郎)は、鶴岡の住職の紹介により湯殿山注連寺を訪れる。一時期栄えた注連寺も今は破れ寺で、割り箸を作る老人の寺男(滝田裕介)しかいない。やがて雪に閉ざされバスも通わぬ季節となるが、青年はひと冬を寺男と大根汁だけで過ごすことになる。
 青年は山村の娘・文子(友里千賀子)と知り合うが、文子の母は寺男の許嫁だったが、余所者の後を追って村を出て、一人で戻ってきて文子を生んで死んだ。文子は育てられた祖母と暮らすが、青年に一緒に村を出ようと誘う。そんな折、村の若後家(片桐夕子)が余所者の密造酒買い(河原崎長一郎)と駆け落ちしようとして吹雪で凍死する。
 村を出た女は不幸になって戻ってくると言い伝えられ、月山は村人たちが還っていくべき天国、黄泉の国でもある。冬が終わり月山が望める春となり、寺を出る青年に寺男は、ここでひと冬を過ごした者は再び帰ってくると言って、物語は終わる。
 ラストの晴れた空の下に月山を望む景色を除けば、冒頭から終始陰鬱な風景が続く。それとは対照的に、注連寺の天井に描かれた絵には春の草花が並び、雪に閉ざされた冬の山村が月山の懐に抱かれた黄泉の国であり、春の訪れ=天上の夢であることが示される。
 注連寺の即身仏についても語られ、それが黄泉の国と繋がる村の象徴でもあるが、青年は即身仏となる自分を想像しながらもそれを為すことはできない。そうして青年は山を下りることになるが、それが放浪の末の生者の国への帰還を意味するのだとすれば、どことなく青臭い独りよがりでしかなく、残された娘や村人たちへの視線や共感のなさに不遜さえ感じてしまう。
 いずれにしても制作意図は不明で、何を描きたかったのかよくわからない。 (評価:2.5)

銀河鉄道999

製作:東映動画
公開:1979年08月04日
監督:りんたろう 脚本:石森史郎 作画監督:小松原一男 音楽:青木望 美術:椋尾篁

メーテルのオブラートで包む松本的サルマタケの世界
 松本零士の同名漫画が原作。この年の日本映画興行第1位で、主題歌をゴダイゴが歌い大ヒットした。『宇宙戦艦ヤマト』(1977)に続いてアニメ映画の一般興行に先駆的役割を果たした。
 脚本に映画出身の石森史郎、アニメ出身の市川崑が監修。見せ場とキャラクター紹介を繋いだストーリーでシノプシスを見せられている感は否めないが、ラストシーンは石森らしく情感に溢れる。
 見どころは当時2万円でセル画が売れたメーテルを筆頭にエメラルダス等の松本美女キャラと、ハーロックなどの個性的なキャラ。そして、SL999が飛び立ち宇宙を走るシーン。
 母を殺した機械伯爵を捜して仇討を果たす物語で、通常は仇討といえば父なのだが母であるところが松本らしい。作品は松本=少年の憧憬を描いていて、ひとつはメーテル=マザコン=年上の女性への憧れ。母の仇討もこの延長にある。もう一つは、ハーロック=強い男への憧れで、これは強い父への憎しみであるオイディプス‐コンプレックスの裏返し。オイディプス‐コンプレックスは同時に母への性的思慕でもあり、メーテル=マザコン=年上の女性への憧れと表裏をなす。
 石森はこれを少年が乗り越えなければならないものとして描くが、この松本的サルマタケの世界を受け入れられるかどうかが評価の分かれ目になる。リアルな『男おいどん』よりは、メーテルというオブラートに包まれている分、ファンタジーに身を任せることもできる。
 りんたろうの演出は手堅くファンタジックに描くが、999の描き方が物足りない。音楽はコンセプトがなくTV並みで、映画音楽になりきれてない。 (評価:2)

製作:新日本映画
公開:1979年6月30日
監督:山本薩夫 製作:持丸寛二、伊藤武郎、宮古とく子 脚本:服部佳 撮影:小林節雄 美術:間野重雄 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:9位
毎日映画コンクール大賞

冒頭の数分間で2時間半のすべてが語られる
 山本茂実の同名ノンフィクションが原作。
 明治期、岐阜・飛騨地方の農家の娘たちが諏訪・岡谷の製糸工場に出稼ぎに出された女工哀史で、岐阜・長野県境の難所、野麦峠を越えることからの象徴的な地名。
 富国強兵のための国策上の主要産業となった製糸工業で搾取される貧しい農民の娘たちという、日本のプロレタリアートの先駆けともなった労働者たちだけに、鹿鳴館の舞踏会シーンから始まり、西洋婦人や華族の婦人たちの絹のイブニングドレスの裾がアップにされ、続いてその絹を紡ぐために野麦峠へ向かう新人の女工たちの履く雪靴のシーンへと変わる山本薩夫の演出は上手い。
 もっとも山本薩夫作品だけに、この数分間のシーンが本作2時間半のすべてを語っていて、その後の物語はある種の予定調和と言ってよく、冒頭シーンの詳説を長々と見せられることになる。
 主人公は大竹しのぶで、女工のライバルに原田美枝子。二人は業務成績優秀で、経営者(三國連太郎)のボンボン(森次晃嗣)から目をかけられるが、恋人争いは原田の不戦勝。妊娠して妻の座を得たかに思えたが、ボンボンは銀行家の娘と政略結婚して捨てられる。工場を追い出されて帰郷するが、野麦峠で流産。
 一方の大竹は結核になり、兄(地井武男)が迎えに来て背負子で帰郷するものの、これまた野麦峠で果てる。
 野麦峠の茶屋の婆さんを北林谷栄が演じて上手いが、原田のことを振り返り、「これじゃ野麦峠ではなく、野産み峠じゃ」という台詞に座布団1枚。
 この間、不器用な女工が諏訪湖に入水したり、横領の濡れ衣を着せられた山本亘と古手川祐子が心中したりと、強欲非道な資本家と虐げられる労働者という、山本薩夫らしいエピソードが繰り返される。
 これら悲劇の演出はベタすぎるほどに臭く、それも山本薩夫らしいが、あまりに芝居がかっていて感情移入どころか白けてしまうのが残念なところ。
 他の女工に友里千賀子、津田京子、岡本茉利。大竹の両親に西村晃、野村昭子。博労に小松方正。 (評価:2)

総長の首

製作:東映京都
公開:1979年3月24日
監督:中島貞夫 脚本:神波史男、中島貞夫 撮影:増田敏雄 美術:井川徳道 音楽:森田公一

ストーリーとテーマが水と油のちぐはぐな青春群像
 昭和10年代の浅草が舞台。関東大震災の孤児兄弟を中心に物語は展開するが、明確な主人公はなく、青春群像劇のような構成。
 花森組血桜団の若者たちと侠友会小池組との抗争を軸にするが、最後に血桜団が全滅してしまい、ヤクザ映画としてはカタルシスもヒロイズムもない。
 ストーリー的には焦点が定まってなく、アナキズムの臭いも漂わせつつ、語り手に婦人雑誌の記者(夏純子)を持ってくるなど、シナリオに統一性がないため、ヤクザの抗争以外に何が描きたかったのかよくわからない。
 小池組組長(梅宮辰夫)はヤクザ連合の侠友会の代貸で、総長の跡目を狙うために花森組潰しを図って賭場荒しをする。
 これに血桜団が報復したことから、小池組が血桜団団長・八代(小池朝雄)を刺殺。アナキストで中国から帰国した矢代の弟・順二(菅原文太)が跡を継ぎ、団員の卓(清水健太郎)が侠友会総長に発砲したため、全面報復となる。
 団員の若者たち(ジョニー大倉、三浦洋一)は次々殺され、順二と小池が相討ち。花森組組長(安藤昇)も死んで、虚しいヤクザ抗争は終わる。
 意図としては血桜団若者を昭和初期のアナキストにダブらせているが、対する権力がヤクザ連合では、チンピラをアナキストに比定するのに無理がある。
 権力に立ち向かって花と散る血桜団の悲劇という見立てだが、ストーリーとテーマが水と油のちぐはぐな青春群像になってしまった。 (評価:2)

未来少年コナン(劇場版)

製作:日本アニメーション
公開:1979年9月15日
監督:佐藤肇 製作:大橋浩一 プロデューサー:中島順三、足立和 脚本:今戸栄一 音楽:藤家虹二

宮崎駿の得意とするコミカルなアクションが随所に見られる
 1978年4月~10月に放映されたTVシリーズ(全26話)を123分に編集したもの。アレグサンダー・ケイのSF児童小説"The Incredible Tide"(途方もない潮流、邦題:残された人びと)が原作。監督の佐藤肇、脚本の今戸栄一はTVシリーズにはノータッチで、音楽も劇場用に変更された。そのせいもあって、全体にちぐはぐな感じで、オープニングも止め絵の連続で手抜き感が漂う。
 TVシリーズの監督は宮崎駿、作画監督は大塚康生で、演出には高畑勲と早川啓二が参加しているが、TV放映の再編集版だけに、宮崎の得意とするコミカルなアクションが随所に見られる。後の『インディー・ジョーンズ』を彷彿とさせるようなスリリングな絵コンテとレイアウト、スピード感あふれる演出の連続で、当時の日本のアニメーションの演出水準の高さが窺える。
 宮崎が得意とする飛行シーンや高所シーンも、同じ年に公開された『ルパン三世 カリオストロの城』の屋根を伝うアクションシーンなどに共通するものが見られる。
 ストーリーは『ルパン三世 カリオストロの城』同様のお姫様救出作戦で、キャラクターシフトもよく似ていて、お約束として安心してみられるが、映画用にディテールを省いて再構成しているのでかなり凡庸。
 2008年に磁力兵器によって地球が滅び、大洪水の20年後、生き延びた人々の物語。太陽光エネルギーの博士を拉致し、世界征服を目論むインダトリアの野望を、少年コナンが阻止するまで。
 見どころは宮崎の演出だが、テーマ曲が作品にそぐわず、BGMで使われると急に演歌っぽくなる。 (評価:2)

製作:ヨシムラ・ガニオンプロダクション
公開:1979年11月17日
監督:クロード・ガニオン 製作:ユリ・ヨシムラ=ガニオン、クロード・ガニオン 脚本:クロード・ガニオン 撮影:アンドレ・ペルチエ 音楽:深町純 美術:橋本敏夫
キネマ旬報:3位

無力なアジテーションと色褪せたスクラップブックの匂い
 タイトルは主人公の女性の名。日本在住のカナダ人監督によるドキュメンタリータッチの劇映画でATGが配給し、当時話題となった。
 30年以上たって見返すと、描かれるのはステレオタイプの日本女性像で、内容的には遺物というか化石を見ている感じがする。
 当時は、社会の殻から抜け出せない日本女性を描くということでそれなりに意味があったが、振り返ると外国人であるクロード・ガニオンを含め、製作に携わった日本人妻やスタッフの中に、日本女性に対する固定観念というか偏見に近いものがあって、だから日本の女はダメなんだ、日本の社会は閉鎖的なんだ、日本の女たちよ日本の因習から抜け出せ、自立せよといった、愚民女を導く俺様的なアジテーションがあって、でも、この映画とは裏腹に現実に社会の壁や因習に立ち向かい、切り拓いてきた女性たちがいて、それは30年たつと見えてくる実像で、本作のアジテーションがいかに無力だったかがわかる。
 主人公のKeikoは23歳で処女。高校の恩師を呼び出し、酒の力を借りてヴァージンを捨てる。喫茶店で一目ぼれした男をアパートの部屋に上げてステディな仲となるが、実は男は妻子持ちで、泣いて男と別れる。
 勤めるアパレルデザインの会社の同僚の男が好意を寄せるが、別れた男が心に残り、同情するレズの先輩の女と新しい家を借りての共同生活を始める。女からは独立して一緒にブティックを始めようと誘われるが、実家の両親から勧められた気の乗らない縁談に、今の生活が続けられるわけでもないと会社を辞めて結婚する。
 俳優に素人を使って自然な会話によるドキュメンタリー風な映像を作った点が面白く、当時もそれが評価された。そうして等身大な女性像を造形していくが、、共感した女性もいたかもしれないがあまりにステレオタイプで通俗。自らの手で希望の芽を摘む、現状に甘んじる女性を描いて何の意味があったのか?
 賞味期限が短く黴の生えた作品で、色褪せたスクラップブックの匂いがする。先輩の女を演じるきたむらあきこが地味だがいい。 (評価:2)

製作:あんぐる、ATG
公開:1979年12月15日
監督:東陽一 製作:有馬孝、工藤英博 脚本:東陽一、小林竜雄 撮影:川上皓市 美術:綾部郁郎 音楽:田中未知
キネマ旬報:8位

女に料理を作ってやるのが九州男らしくない
 見延典子の同名小説が原作。
 学校にも行かず仕送りを止められた早稲田の女子学生が、バイトと男に明け暮れるという物語。
 最初の相手は早大卒のルポライターで、取材で留守がち。半年も放っておかれたためにバイト先の男となし崩し的にステディな関係となり、男は結婚する気満々だが女は前の恋人が忘れられず、金を無心されたのをきっかけに二人とも捨て、引っ越しをして再出発するという流れ。
 ストーリーは定番なので、主人公の女子学生の感受性のあるナイーブな心情の揺れ動きを如何に描けるかがポイントだが、繊細さよりもむしろ怠惰で傲慢な印象を与える桃井かおりが演じるために、まったりとした、今時の女子学生はどうしようもないという作品になってしまった。
 桃井は演技が上手くなく、怠惰な口調と表情、仕草の存在感だけが頼りの女優で、完全なるミスキャスト。
 本来は女の自立を描くはずが、主体性なく男とバイトを次々と変えていく、単に堕ちていくだけの受け身の女にしか見えないのが残念なところ。
 なぜそんな状況でも大学生であり続けるのかも描かれないでは、再出発のラストシーンも空しい。
 この手の作品にありがちなチンピラ的ルポライターに、これもありがちな森本レオ。もう一人の鹿児島出身の男を奥田瑛二が演じるが、女に料理を作ってやるフェミニストというのが九州男らしくない。
 下宿の大家と妻の美容師に伊丹十三、加茂さくらで、これまた定番な夫婦を演じる。 (評価:2)

男はつらいよ 翔んでる寅次郎

製作:松竹
公開:1979年8月4日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:出川三男 音楽:山本直純

結婚できない寅を片輪者のように決めつける差別性
​​​ ​​​シ​​​リ​​​ー​​​ズ​​​第​​​23​​​作​​​。​マ​ド​ン​ナ​は​桃井かおり​。
 今回のテーマは結婚で、冒頭より結婚相手が見つからない寅次郎を寅屋一家が嘆くという導入。満男の作文がそれに輪をかけて、怒った寅が旅に出るがどうみても分は寅にある。
 北海道でのマドンナと寅の不自然な出会いなど、無理やりな展開はその後も続いてシナリオの出来は相当に悪い。これに輪をかけるのが​マ​ド​ン​ナ​・桃井かおりで、親の決めた結婚に反抗して寅屋を駆け込み寺にするが、自分の夢を叶える叶えると再三言うわりには何が夢なのかさっぱりわからず、夢に夢見るだけの薹の立った少女でしかないのが辛い。
 田園調布に住むマドンナのお姫様ぶりはともかく、婚約者の金持ちボンボンが家出して安アパートでカップヌードルを啜るというのもあり得ない設定で、安アパートでカップヌードルしか啜れないプロレタリアートからすれば馬鹿にした話で、成城に住む山田洋次の感覚のずれ方が何とも言えない。
 最後は婚約者との仲をとりもってマドンナに惚れかけた寅が失恋するというパターンだが、善いオジサン過ぎて失恋色は薄い。仲人まで頼まれて、旅に出るのを思い直し善いオジサンに徹する寅が僅かな見どころか。
 そもそも、冒頭での結婚できない寅を片輪者のように決めつけるリベラル山田洋次の封建・保守性が表れた作品で、シリーズで時折顔を覗かせるヒューマニスト山田洋次の差別的な一面が覗ける。 (評価:1.5)