日本映画レビュー──1975年
製作:近代映画協会
公開:1975年5月24日
監督:新藤兼人 製作:新藤兼人 構成:新藤兼人 撮影:三宅義行
キネマ旬報:1位
作品の裏に隠された映画監督としての実像と紆余曲折が面白い
溝口健二の映画関係者39人にインタビューし、多数の資料を基に、溝口の人物像と作品について浮かび上がらせるドキュメンタリー映画。
溝口の伝記というだけでなく、日活向島撮影所や日活大将軍撮影所のカメラマンや監督など、当時の撮影方法の話なども出てきて、日本映画史の証言録としても興味深い話が多い。
インタビューには川口松太郎や永田雅一、宮川一夫、依田義賢、増村保造、森赫子、入江たか子、山田五十鈴、木暮実千代、田中絹代、浦辺粂子、中村鴈治郎、小沢栄太郎、進藤英太郎など、鬼籍に入った人や香川京子、京マチ子、若尾文子などが答えていて、名監督といわれる溝口健二に対する、それぞれの思いや評価がそこはかとなく汲み取れる。
とりわけ、溝口の下層の女への執着と、それを描いた作品に佳作が多いこと、評価されるまでの道程が長かったこと、官尊民卑の保守的な価値観の人間で、戦時中は中途半端な作品が多く、戦後は新しい価値観に馴染めなかったこと、自らのリアリズムに忠実で時代劇や貴族社会を描く映画では演出家としてお手上げだったことなど、映画監督としての紆余曲折が面白い。
俳優に対して演出上の指示がなく、まず「動いてみてください」から始まり、演技を見ながら毎日のように台詞が変更されるといった、構想ありきではなく、状況の中で作品を作り上げていく手法など、溝口作品の背景を知ることができる。
クライマックスは溝口に思いを寄せられていた田中絹代のインタビューで、田中が映画を撮ることになった時の「田中の頭では監督は出来ません」のエピソードについての話がなかったのは残念。ただ、田中の演じる女が溝口の理想像だったのではないかという答えに、監督をすることになった田中への理想像の崩壊を溝口が口にしたのかもしれないと想像したりもする。
映画好きには面白いドキュメンタリーだが、結局のところ溝口健二に終始してしまう作品で、没後半世紀以上も経過してしまえば、溝口作品を知らない人には余り価値がない。 (評価:3.5)
公開:1975年5月24日
監督:新藤兼人 製作:新藤兼人 構成:新藤兼人 撮影:三宅義行
キネマ旬報:1位
溝口健二の映画関係者39人にインタビューし、多数の資料を基に、溝口の人物像と作品について浮かび上がらせるドキュメンタリー映画。
溝口の伝記というだけでなく、日活向島撮影所や日活大将軍撮影所のカメラマンや監督など、当時の撮影方法の話なども出てきて、日本映画史の証言録としても興味深い話が多い。
インタビューには川口松太郎や永田雅一、宮川一夫、依田義賢、増村保造、森赫子、入江たか子、山田五十鈴、木暮実千代、田中絹代、浦辺粂子、中村鴈治郎、小沢栄太郎、進藤英太郎など、鬼籍に入った人や香川京子、京マチ子、若尾文子などが答えていて、名監督といわれる溝口健二に対する、それぞれの思いや評価がそこはかとなく汲み取れる。
とりわけ、溝口の下層の女への執着と、それを描いた作品に佳作が多いこと、評価されるまでの道程が長かったこと、官尊民卑の保守的な価値観の人間で、戦時中は中途半端な作品が多く、戦後は新しい価値観に馴染めなかったこと、自らのリアリズムに忠実で時代劇や貴族社会を描く映画では演出家としてお手上げだったことなど、映画監督としての紆余曲折が面白い。
俳優に対して演出上の指示がなく、まず「動いてみてください」から始まり、演技を見ながら毎日のように台詞が変更されるといった、構想ありきではなく、状況の中で作品を作り上げていく手法など、溝口作品の背景を知ることができる。
クライマックスは溝口に思いを寄せられていた田中絹代のインタビューで、田中が映画を撮ることになった時の「田中の頭では監督は出来ません」のエピソードについての話がなかったのは残念。ただ、田中の演じる女が溝口の理想像だったのではないかという答えに、監督をすることになった田中への理想像の崩壊を溝口が口にしたのかもしれないと想像したりもする。
映画好きには面白いドキュメンタリーだが、結局のところ溝口健二に終始してしまう作品で、没後半世紀以上も経過してしまえば、溝口作品を知らない人には余り価値がない。 (評価:3.5)
製作:松竹
公開:1975年8月2日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
キネマ旬報:5位
結婚することのない永遠の妻リリーの設定に成功
寅さんシリーズ第15作。マドンナは第11作「寅次郎忘れな草」のリリー役・浅丘ルリ子で、2回目の登場。
シリーズの中でもよくできた作品で、寅次郎とリリーの関係を軸にした泣かせる話となっている。もっとも泣かせる話としてよくできている分、ほとんど笑いどころがなく、ペーソスには溢れているものの喜劇としては今ひとつなのがやや不満なところ。
前半は蒸発したサラリーマン(船越英二)と寅の二人旅で、八戸から青函、函館、長万部、札幌、小樽と移動、函館からはリリーが加わった三人旅となる。
渥美清と浅丘ルリ子の息の合った演技で、これに絡む船越英二が名演技を見せ、本作の見せ所となっている。
船越が30年ぶりに初恋の人に会うというのが導線になっていて、これがもとで寅とリリーが喧嘩、柴又で再会して仲直りし、喧嘩するほどに仲の良いところを見せる。
船越は寅の生き方に自由を見出し、仕方なくサラリーマン生活を送る多くの観客の共感を代表する。
一方、リリーはさくらに言われて寅との結婚を承諾するが、寅はそれを冗談だと言って退ける。このシークエンスでの会話が絶妙で、寅が分をわきまえ、リリーと一緒になることが二人に幸せをもたらさないことを直感している。
シリーズは寅の失恋物語で、結婚したら終わってしまうが、本作で山田洋次は寅に決して結婚することのない永遠の妻にリリーを設定することに成功したわけで、その後、心の妻としてリリーがシリーズに登場することになる。
完成度の高いシナリオで、これに演出と演技がうまく嵌っている。
プロローグの夢のシーンは海賊船で、米倉斉加年と上條恒彦がゲスト出演しているのも見過ごせない。 (評価:3.5)
公開:1975年8月2日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
キネマ旬報:5位
寅さんシリーズ第15作。マドンナは第11作「寅次郎忘れな草」のリリー役・浅丘ルリ子で、2回目の登場。
シリーズの中でもよくできた作品で、寅次郎とリリーの関係を軸にした泣かせる話となっている。もっとも泣かせる話としてよくできている分、ほとんど笑いどころがなく、ペーソスには溢れているものの喜劇としては今ひとつなのがやや不満なところ。
前半は蒸発したサラリーマン(船越英二)と寅の二人旅で、八戸から青函、函館、長万部、札幌、小樽と移動、函館からはリリーが加わった三人旅となる。
渥美清と浅丘ルリ子の息の合った演技で、これに絡む船越英二が名演技を見せ、本作の見せ所となっている。
船越が30年ぶりに初恋の人に会うというのが導線になっていて、これがもとで寅とリリーが喧嘩、柴又で再会して仲直りし、喧嘩するほどに仲の良いところを見せる。
船越は寅の生き方に自由を見出し、仕方なくサラリーマン生活を送る多くの観客の共感を代表する。
一方、リリーはさくらに言われて寅との結婚を承諾するが、寅はそれを冗談だと言って退ける。このシークエンスでの会話が絶妙で、寅が分をわきまえ、リリーと一緒になることが二人に幸せをもたらさないことを直感している。
シリーズは寅の失恋物語で、結婚したら終わってしまうが、本作で山田洋次は寅に決して結婚することのない永遠の妻にリリーを設定することに成功したわけで、その後、心の妻としてリリーがシリーズに登場することになる。
完成度の高いシナリオで、これに演出と演技がうまく嵌っている。
プロローグの夢のシーンは海賊船で、米倉斉加年と上條恒彦がゲスト出演しているのも見過ごせない。 (評価:3.5)
製作:綜映社、映画同人社、ATG
公開:1975年11月8日
監督:黒木和雄 製作:大塚和、三浦波夫 脚本:中島丈博 撮影:鈴木達夫 美術:木村威夫、丸山裕司 音楽:松村禎三
キネマ旬報:2位
捨ててきた故郷への哀惜のドラマ
中島丈博の半自伝的作品で、昭和30年代の高知県が舞台。脚本家を目指す映画好きな青年(江藤潤)が、故郷を捨て、東京に旅立つまでを描く。
本作の最大のテーマは、四国の片田舎の村が青年を掴まえて離さない磁場のようなもので、それは地縁や血縁によって青年を絡め取り、自由を奪い、鬱屈させる。青年の家で飼っているメジロがそれを象徴していて、青年が家を出る日、メジロを自由の身にして空に旅立たせる。
愛人の間を渡り歩く父(ハナ肇)、ヒロポンで頭のいかれた娘(桂木梨江)と同棲しようとする祖父(浜村純)、その血筋から息子を守ろうとして偏愛する母(馬渕晴子)。桂木は誰とでも寝て、その二人の兄は犯罪者。長兄が収監されると弟(原田芳雄)が兄嫁(杉本美樹)と寝るという淫蕩一家。テーラーを営む障碍者の友人は、娼婦からも相手にされず、憐れむ母と近親相姦。
青年はそうしたドロドロした男女の人間関係をシナリオに書こうとするが、歌声運動に参加する恋人(竹下景子)はそれを不純だと軽蔑し、志の高い物語を書くようにいう。その竹下も左翼運動にかぶれていて、オルグの男と寝てしまう。
そうした青年を縛る磁場から抜け出そうとし、母を騙して家出するが、それを強盗殺人で指名手配中の原田が中村駅で万歳と共に送り出す。
このシーンで初めて、青年の村が若者たちを縛り付ける既存の社会そのもので、そこから抜け出そうとして抜け出せず自滅してしまった原田と、磁場を振り切って抜け出そうとする主人公の二人の物語であることが明らかになる。
作中で原田がかつて大阪に出て故郷に戻ってきたことが語られるが、物語の主人公は脚本家になって磁場を脱出することに成功した中島丈博自身で、捨ててきた故郷への哀惜のドラマとなっている。 (評価:3)
公開:1975年11月8日
監督:黒木和雄 製作:大塚和、三浦波夫 脚本:中島丈博 撮影:鈴木達夫 美術:木村威夫、丸山裕司 音楽:松村禎三
キネマ旬報:2位
中島丈博の半自伝的作品で、昭和30年代の高知県が舞台。脚本家を目指す映画好きな青年(江藤潤)が、故郷を捨て、東京に旅立つまでを描く。
本作の最大のテーマは、四国の片田舎の村が青年を掴まえて離さない磁場のようなもので、それは地縁や血縁によって青年を絡め取り、自由を奪い、鬱屈させる。青年の家で飼っているメジロがそれを象徴していて、青年が家を出る日、メジロを自由の身にして空に旅立たせる。
愛人の間を渡り歩く父(ハナ肇)、ヒロポンで頭のいかれた娘(桂木梨江)と同棲しようとする祖父(浜村純)、その血筋から息子を守ろうとして偏愛する母(馬渕晴子)。桂木は誰とでも寝て、その二人の兄は犯罪者。長兄が収監されると弟(原田芳雄)が兄嫁(杉本美樹)と寝るという淫蕩一家。テーラーを営む障碍者の友人は、娼婦からも相手にされず、憐れむ母と近親相姦。
青年はそうしたドロドロした男女の人間関係をシナリオに書こうとするが、歌声運動に参加する恋人(竹下景子)はそれを不純だと軽蔑し、志の高い物語を書くようにいう。その竹下も左翼運動にかぶれていて、オルグの男と寝てしまう。
そうした青年を縛る磁場から抜け出そうとし、母を騙して家出するが、それを強盗殺人で指名手配中の原田が中村駅で万歳と共に送り出す。
このシーンで初めて、青年の村が若者たちを縛り付ける既存の社会そのもので、そこから抜け出そうとして抜け出せず自滅してしまった原田と、磁場を振り切って抜け出そうとする主人公の二人の物語であることが明らかになる。
作中で原田がかつて大阪に出て故郷に戻ってきたことが語られるが、物語の主人公は脚本家になって磁場を脱出することに成功した中島丈博自身で、捨ててきた故郷への哀惜のドラマとなっている。 (評価:3)
製作:東映東京
公開:1975年07月05日
監督:佐藤純彌 脚本:小野竜之助、佐藤純彌 撮影:飯村雅彦 音楽:青山八郎 美術:中村修一郎
キネマ旬報:7位
スピードを落としたら爆発する日本製パニック映画の佳作
『タワーリング・インフェルノ』等のパニック映画全盛期の日本製パニック映画の佳作。他に『日本沈没』等があるが、40年ぶりに観ても、本作の息もつかせぬストーリー運びと演出は健在。警察の対応など、それはないだろうというシナリオや、特撮技術に若干の古さを感じるが、爆弾発見後のシーンは固唾を飲む。
物語は正体不明のテロリスト三人組(高倉健、山本圭、織田あきら)が、新幹線に爆弾を仕掛けて身代金を要求する。爆弾は時速80キロ以下にスピードが落ちると爆発するというもので、満員の新幹線はノンストップで東京から博多まで走り続けなければならない。ほかはすべてが運休し、疾走する新幹線の博多までのチキンレースが始まる。
新左翼運動家・倒産した零細工場主といった当時の世相を反映させているが、エンタテイメントとして観る場合にはこの邦画的ウエットさは余分。全体には、任侠路線からの転換を図っていた東映と佐藤純弥の反権力・アウトロー的な雰囲気がよく出ていて、警察は相当嫌らしく描かれている。
高倉健が警察の目を騙しながら身代金を手に入れるシーンもよくできているが、テロリストとなると健さんのアウトロー的ヒーローも若干歯切れが悪い。
運転指令室長に宇津井健、運転士に千葉真一が主要キャスト。志穂美悦子、多岐川裕美、北大路欣也等、一瞬だけ登場する俳優を見分けるのも楽しい。 (評価:3)
公開:1975年07月05日
監督:佐藤純彌 脚本:小野竜之助、佐藤純彌 撮影:飯村雅彦 音楽:青山八郎 美術:中村修一郎
キネマ旬報:7位
『タワーリング・インフェルノ』等のパニック映画全盛期の日本製パニック映画の佳作。他に『日本沈没』等があるが、40年ぶりに観ても、本作の息もつかせぬストーリー運びと演出は健在。警察の対応など、それはないだろうというシナリオや、特撮技術に若干の古さを感じるが、爆弾発見後のシーンは固唾を飲む。
物語は正体不明のテロリスト三人組(高倉健、山本圭、織田あきら)が、新幹線に爆弾を仕掛けて身代金を要求する。爆弾は時速80キロ以下にスピードが落ちると爆発するというもので、満員の新幹線はノンストップで東京から博多まで走り続けなければならない。ほかはすべてが運休し、疾走する新幹線の博多までのチキンレースが始まる。
新左翼運動家・倒産した零細工場主といった当時の世相を反映させているが、エンタテイメントとして観る場合にはこの邦画的ウエットさは余分。全体には、任侠路線からの転換を図っていた東映と佐藤純弥の反権力・アウトロー的な雰囲気がよく出ていて、警察は相当嫌らしく描かれている。
高倉健が警察の目を騙しながら身代金を手に入れるシーンもよくできているが、テロリストとなると健さんのアウトロー的ヒーローも若干歯切れが悪い。
運転指令室長に宇津井健、運転士に千葉真一が主要キャスト。志穂美悦子、多岐川裕美、北大路欣也等、一瞬だけ登場する俳優を見分けるのも楽しい。 (評価:3)
県警対組織暴力
公開:1975年4月26日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:赤塚滋 美術:井川徳道 音楽:津島利章
昭和39年、架空の都市・倉島市が舞台。取材を基にしたフィクションとのテロップが入り、広島市がモデル。
戦後の闇市から始まるヤクザと警察の癒着がテーマで、大原組の若衆頭・広谷(松方弘樹)と親友である倉島署の刑事・久能(菅原文太)の関係を中心に描く。
企業を隠れ蓑にする川手組が勢力を拡大し、石油基地への転売を偽装してレジャー施設として安価で用地を取得しようとするが、からくりに気づいた広谷と久能が妨害、抗争となる。
川手組を利用して石油基地誘致を推進する市長、市会議員らは、大原組を排除するために県警刑事二課の海田(梅宮辰夫)を倉島署に派遣。大原組との癒着を一掃させるが、反発した広谷がホテルに立て籠もり、久能に投降を説得させる。広谷は投降したように見せかけて海田を拉致したため、久能が射殺。海田は石油会社に転職、久能もまた川手組に消されてしまうというラストで、巨悪が生き残る。
深作+笠原コンビだが、『仁義なき戦い』シリーズに比べると相当にウエット。菅原文太が悪徳刑事ながら情に厚く、暴力団排除よりも均衡の保たれた平和を志向する現実派という設定で、『仁義なき戦い』第1作の松方弘樹との友情を再現。同様に松方が死ぬが、命を奪うのは文太という涙ながらの悲劇となる。ドライな『仁義なき戦い』に比べると昔ながらの任侠映画なので、好みで評価は分かれるが、巨悪の前に敗れるだけのラストはフラストレーションが残る。
『トラック野郎』に繋がる菅原文太のコミカルな演技が見えるのも見どころか。 (評価:2.5)
昭和枯れすすき
公開:1975年6月7日
監督:野村芳太郎 製作:杉崎重美 脚本:新藤兼人 撮影:川又昂 美術:森田郷平 音楽:菅野光亮
結城昌治の小説『やくざな妹』が原作。
両親に捨てられ12年前に青森から上京した兄妹が主人公で、身寄りなく寄り添って生きてきた二人の兄妹愛を描く、野村芳太郎らしいヒューマンドラマの佳作。
冒頭、新宿の雑踏の風景から始まり、青森のねぶた祭へと回顧。大都会の中で必死に生きる地方出身者たちの境遇を象徴する演出が上手い。
これと対をなすのが、殺されるヤクザ(下絛アトム)と情婦のトルコ嬢(伊佐山ひろ子)で、ともに福岡の出身であることから互いに身を寄せ合うが、この二組の地方出身者が新宿で出会い、大都会の中で押し潰されて行く哀歌となっている。
高度経済成長期に上京した地方出身者たちの、都会の繁栄の陰に生きる孤独と孤独な者同士が求め合う人間の絆がテーマとなる。
兄(高橋英樹)は新宿の繁華街を管轄する警察署の刑事で、妹(秋吉久美子)は専門学校生。ところが、金持ち息子(松橋登)に遊ばれて兄に別れさせられた妹は、専門学校をやめ、ヤクザと付き合っている。それを知った兄は、妹とヤクザを別れさせようとするが、妹は金持ち息子と復縁した上にヤクザと組んで恐喝。そこにヤクザが殺されて、妹が容疑者に急浮上する。
妹が信じられなくなった兄は遂に妹に手錠をかけ…と半ばミステリー風に物語は進むが、テーマはあくまでも兄妹愛で、嫌疑が晴れて兄は妹を疑わなければならない職業に嫌気がさし、新天地を求めてさらに故郷から遠く大阪へと妹と共に旅立つ。
兄に心を寄せる飲み屋の女(池波志乃)も新宿に置き去りにされ、みんな枯れすすきになってしまうという寂寞としたラストとなる。
妹思いの優しい兄と、兄ではなく異性の愛情を求める妹の相克を高橋英樹と秋吉久美子が好演する。 (評価:2.5)
製作:大映
公開:1975年09月06日
監督:山本薩夫 製作:伊藤武郎 脚本:田坂啓 撮影:小林節雄 音楽:佐藤勝 美術:間野重雄
キネマ旬報:3位
政治家のそっくりさんが登場、政界ダム汚職事件の顛末
徳間康快がオーナーだった時の大映映画作品。石川達三の同名小説が原作で、1965年の九頭竜川ダム汚職事件がモデル。監督は社会派・山本薩夫だが、実際の事件を基にした原作がよくできているためか、似たような山本作品の中では格段に良い。
登場人物はすべて仮名だが、時の総理・池田勇人(久米明)、佐藤栄作(神田隆)、田中角栄(中谷一郎)、河野一郎(河村弘二)がよく似ている。金融王・森脇将光役の宇野重吉と政界のマッチポンプ・田中彰治役の三國連太郎が抜群の演技。
官房長官・仲代達矢、首相夫人・京マチ子 、鹿島建設専務役・西村晃と役者がそろい、電源開発総裁役・永井智雄の酔っぱらった演技もいい。
事件に関与した建設会社は鹿島建設。秘書官(山本学)の転落死、業界紙社長(高橋悦史)の殺害など、実際にあった事件をなぞっている。
物語は民政党(自民党)総裁派の政治資金(賄賂)を作るために、福流川ダム(九頭竜川ダム)建設を竹田建設(鹿島建設)に実際の見積価格よりも5億円多く落札させ、その5億円を献金させるというもの。この談合工作に首相夫人が絡み、電力開発(電源開発)総裁の人事、不正の証拠を摑んだ業界紙社長、不正をネタに政治家を操ろうとする金融王の駆け引きが面白い。
政治家だけでなく、政治家と癒着している大手新聞の政治記者への批判も忘れない。 (評価:2.5)
公開:1975年09月06日
監督:山本薩夫 製作:伊藤武郎 脚本:田坂啓 撮影:小林節雄 音楽:佐藤勝 美術:間野重雄
キネマ旬報:3位
徳間康快がオーナーだった時の大映映画作品。石川達三の同名小説が原作で、1965年の九頭竜川ダム汚職事件がモデル。監督は社会派・山本薩夫だが、実際の事件を基にした原作がよくできているためか、似たような山本作品の中では格段に良い。
登場人物はすべて仮名だが、時の総理・池田勇人(久米明)、佐藤栄作(神田隆)、田中角栄(中谷一郎)、河野一郎(河村弘二)がよく似ている。金融王・森脇将光役の宇野重吉と政界のマッチポンプ・田中彰治役の三國連太郎が抜群の演技。
官房長官・仲代達矢、首相夫人・京マチ子 、鹿島建設専務役・西村晃と役者がそろい、電源開発総裁役・永井智雄の酔っぱらった演技もいい。
事件に関与した建設会社は鹿島建設。秘書官(山本学)の転落死、業界紙社長(高橋悦史)の殺害など、実際にあった事件をなぞっている。
物語は民政党(自民党)総裁派の政治資金(賄賂)を作るために、福流川ダム(九頭竜川ダム)建設を竹田建設(鹿島建設)に実際の見積価格よりも5億円多く落札させ、その5億円を献金させるというもの。この談合工作に首相夫人が絡み、電力開発(電源開発)総裁の人事、不正の証拠を摑んだ業界紙社長、不正をネタに政治家を操ろうとする金融王の駆け引きが面白い。
政治家だけでなく、政治家と癒着している大手新聞の政治記者への批判も忘れない。 (評価:2.5)
青春の門
公開:1975年2月15日
監督:浦山桐郎 製作:藤本真澄、宮古とく子、針生宏 脚本:早坂暁、浦山桐郎 撮影:村井博 美術:村木与四郎 音楽:真鍋理一郎
五木寛之の同名小説の「第1部 筑豊篇」が原作。
筑豊炭田の伝説的な男を父に持つ主人公の半生記で、本作・筑豊篇はその少年篇。ヤマの仲間を助けるために死んだ父、その後の母子家庭の貧困生活、母の病気、父の親友のヤクザの扶助を受けて、大学進学のために東京に旅立つまでを描く。
映画は主人公の成長と戦前から戦後にかけての大きく変わる日本の現代史を並行して語り、主人公の人生を通した叙事詩の構成をとっている。
早坂暁の脚本は半生記ものにありがちなダイジェスト感がなく、過不足なくよくできている。浦山桐郎の演出も緩みなく、炭鉱の町に生きる人々を活写して上手いが、3時間はいささか長い上に自立するまでの物語はプロローグ的印象が否めない。
見どころはむしろ父(仲代達矢)とヤクザの親友(小林旭)の侠気にあって、少年(田中健)の父親代わりとなってからの小林の演技がなかなかいい。
もう一つのドラマは女手一つで息子を育て上げる母(吉永小百合)で、夫同様のヤマの女の気骨を見せるが、吉永の演技が『キューポラのある町』から進歩してなく、ただの教条的で気の強い女でしかなく、本物の母にはなりえてない。
30歳となってベッドシーンやオナニーシーンにも挑戦するが、今ひとつ演技にリアリティがなく、清純派女優の壁のようなものが見えるのも見どころか。
大竹しのぶのデビュー作で、公開時にさんざん演技派の女子高生とパブリシティで書立てられたが、大根ならぬ芋っぽさがあって、幼馴染の少年に再会し境遇を語るシーンは体当たり演技で頑張っている。
米人を恋人に持つ音楽教師を演じる関根恵子は、ショパンの葬送を吹替えなしで弾くために猛特訓したというエピソードも当時あった。
藤田進のロートルヤクザぶりもよく、随所に見せどころが散りばめられていて、長尺を飽きさせずに見せるが、全体に散漫な印象しか残らないのが残念。 (評価:2.5)
製作:俳優座映画放送、四騎の会
公開:1975年10月04日
監督:小林正樹 製作:佐藤正之、岸本吟一 脚本:稲垣俊、よしだたけし 撮影:岡崎宏三 音楽:武満徹
キネマ旬報:4位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
日本人の働き蜂が問題視された時期の作品だが・・・
井上靖の同名小説が原作で、1972年にフジテレビの連続ドラマ(全8話)として放映されたものを再編集した劇場版。
加藤剛のナレーションでストーリーを繋ぐが、全体で4時間近い長編となっていて冗長感は否めない。
パリ出張中に癌に罹っていることを知った建設会社社長の主人公(佐分利信)が、仕事のためにがむしゃらに生きてきた半生を振り返り、残された時間(1年間ということになっている)を如何に過ごすべきか悩むという物語。
パリで見かけた美しい夫人(岸恵子)が死神となって現れる幻視に見舞われ、その後に癌を知るが、現地の知人夫妻(山本圭、佐藤オリエ)に誘われた1週間の休暇旅行にこの夫人が同伴し、古い建築物を巡りながら悠久の時を発見し、主人公が本来望んでいた生き方を発見する。
その中で夫人=死神が彼を死の恐怖から解き放ち、悠久の時と和合した生の喜びを教えることになる。
帰国した主人公は、癌で余命1か月の先輩を見舞い、死を前にして仕事の呪縛から自由となった精神の安寧と、仕事に捧げた人生が失敗だったという述懐を聞く。
主人公は会社を休んで孫と遊び、生家を訪ねて失われた人生を取り戻そうとするが、会社で事業継続の危機が起き、思いがけず癌摘出手術が成功して死神が去っていく。パリ夫人が帰省して共に旅行をする約束だったが、死神から自由になった主人公は夫人を振って仕事人生に戻る。
結局、彼の真の人生はパリの1週間にしかなかった、人間は死を前にしないと真の人生を見ようとしないという結末。
制作は、日本人の働き蜂・ワーカーホリックが問題視された時期で、本作もその思想に則っている分、テレビドラマらしい通俗感は免れない。
見どころは当時のパリや、ブルゴーニュ地方、スペインの観光地の様子。たまには、現実の生活に流されている今の生き方が、本来望むものかどうかを考えてみようというテーマ。今は昔ほどには仕事に精を出さなくなったが、ただ遊んでいればそれで人生を生きることになるのかという視点は、当時の社会にも本作にもない。
癌を本人告知しないのが、当時は当たり前だったことも、本作を見る上では必要な知識。 (評価:2.5)
公開:1975年10月04日
監督:小林正樹 製作:佐藤正之、岸本吟一 脚本:稲垣俊、よしだたけし 撮影:岡崎宏三 音楽:武満徹
キネマ旬報:4位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
井上靖の同名小説が原作で、1972年にフジテレビの連続ドラマ(全8話)として放映されたものを再編集した劇場版。
加藤剛のナレーションでストーリーを繋ぐが、全体で4時間近い長編となっていて冗長感は否めない。
パリ出張中に癌に罹っていることを知った建設会社社長の主人公(佐分利信)が、仕事のためにがむしゃらに生きてきた半生を振り返り、残された時間(1年間ということになっている)を如何に過ごすべきか悩むという物語。
パリで見かけた美しい夫人(岸恵子)が死神となって現れる幻視に見舞われ、その後に癌を知るが、現地の知人夫妻(山本圭、佐藤オリエ)に誘われた1週間の休暇旅行にこの夫人が同伴し、古い建築物を巡りながら悠久の時を発見し、主人公が本来望んでいた生き方を発見する。
その中で夫人=死神が彼を死の恐怖から解き放ち、悠久の時と和合した生の喜びを教えることになる。
帰国した主人公は、癌で余命1か月の先輩を見舞い、死を前にして仕事の呪縛から自由となった精神の安寧と、仕事に捧げた人生が失敗だったという述懐を聞く。
主人公は会社を休んで孫と遊び、生家を訪ねて失われた人生を取り戻そうとするが、会社で事業継続の危機が起き、思いがけず癌摘出手術が成功して死神が去っていく。パリ夫人が帰省して共に旅行をする約束だったが、死神から自由になった主人公は夫人を振って仕事人生に戻る。
結局、彼の真の人生はパリの1週間にしかなかった、人間は死を前にしないと真の人生を見ようとしないという結末。
制作は、日本人の働き蜂・ワーカーホリックが問題視された時期で、本作もその思想に則っている分、テレビドラマらしい通俗感は免れない。
見どころは当時のパリや、ブルゴーニュ地方、スペインの観光地の様子。たまには、現実の生活に流されている今の生き方が、本来望むものかどうかを考えてみようというテーマ。今は昔ほどには仕事に精を出さなくなったが、ただ遊んでいればそれで人生を生きることになるのかという視点は、当時の社会にも本作にもない。
癌を本人告知しないのが、当時は当たり前だったことも、本作を見る上では必要な知識。 (評価:2.5)
公開:1975年2月8日
監督:田中登 脚本:いどあきお 撮影:森勝 美術:川崎軍二 音楽:坂田晃一
キネマ旬報:10位
阿部定事件を題材に描く日活ロマンポルノ作品。
定と吉蔵が尾久の待合に投宿してから事件までを中心に、定の逃走、逮捕までが描かれるが、事件が事件だけにセックスシーンは多いが、定が包丁を持ち出してからは股間が凍り付いてしまって、ポルノ映画としての用をなさない。そのことは田中登も百も承知だったはずで、ロマンポルノに名を借りただけの阿部定事件顛末記となっている。
もっとも実録物としてはよく出来ていて、定が「合い惚れってあるんですねぇ」を強調していることからも、昭和11年当時、男女間にあるのは家同士の婚姻か金銭による関係、はたまた純粋な性欲で、定にとって性欲を中心に回っていたことが劇中で説明される。
その定が恋愛に目覚めて吉を独り占めして待合で愛欲に塗れた二人だけの世界を作るが、若干、定サド、吉マゾ的なところがあるほかは、吉の真情が今一つ伝わって来ない。
定の生い立ちを紹介するシークエンスは、駆け足過ぎて必要だったのか今一つピンとこないし、逃走後の定の描写も通り一遍。
吉の心の葛藤、定の逃走後の心情を描いてほしかったが、タイトル通りの実録に留まってしまったのが残念なところ。
宮下順子が独特の色気で定を演じているのが見どころ。待合のしょぼくれた感じや昭和初期を感じさせるカメラワークがいい。 (評価:2.5)
アフリカの光
公開:1975年6月21日
監督:神代辰巳 製作:金原文雄、岡田裕 脚本:中島丈博 撮影:姫田真佐久 美術:横尾嘉良 音楽:井上堯之
丸山健二の同名小説が原作。
道東の港町でアフリカ行きの遠洋漁船に乗ろうとする青年の物語。アフリカすなわち雌伏雄飛の夢で、草原を駆けるキリンの映像も挿入されるが、漁船なので駆けるのはインド洋でアフリカ大陸ではないが、それが夢の夢たるところ。
主人公の青年(萩原健一)には中年の相棒(田中邦衛)がいて、ともにアフリカを目指すが、時は冬。春にならないと遠洋漁業の船は帰って来ず、酒場で町の漁師と喧嘩をしたり、漁を手伝ったりして船を待つ。酒場の女(桃井かおり)や漁師の娘(高橋洋子)と懇ろになるが、病気で倒れた相棒は故郷に帰ることになってアフリカの夢から脱落。
やがて春になって遠洋の船が帰港するが、酒場の女の紹介でヤクザ(藤竜也)の手伝いをしていた青年は、遠洋漁船の船主たちに拒否されて船に乗れず。ヤクザが賭博開帳で逮捕され、客だった漁師たちに袋叩きにされた青年は、アフリカの夢叶わず汽車に乗る。
現状打破を夢見ながらも果たせずに挫折する青年を描く70年代的な作品で、厭世的な映像描写と主人公たちがぼそぼそと喋る閉塞的なセリフ回し、映像と口の合わないアフレコの倦怠感と、神代節全開。
撮影地は羅臼で、流氷と雪に閉ざされた海が青年の鬱屈を映す。二年後にアフリカの船に乗ったという字幕が僅かな希望の光となっている。 (評価:2.5)
桜の森の満開の下
公開:1975年5月31日
監督:篠田正浩 製作:佐藤一郎、市川喜一 脚本:富岡多恵子、篠田正浩 撮影:鈴木達夫、美術:朝倉摂、内藤昭 音楽:武満徹
坂口安吾の同名小説が原作。
鈴鹿峠に棲む一人の山賊(若山富三郎)が旅人を襲い、美女(岩下志麻)を攫って妻とする話。ところがとんだ悪女で、山賊の女たちを一人(伊佐山ひろ子)を残して殺させ、夜伽の条件で山を下りて都で暮らすことになる。女は都人の首を取ってこさせて、それで人形遊びを始めるが、山賊は慣れない都の暮らしに疲れ、鈴鹿峠に帰る決心をする。
女は都に戻ることを密かに誓いながら山賊に同意し山道を行くが、その下を通ると気が狂うという満開の桜の木の下を近道する。
案の定、山賊は背中に背負った女が鬼に変化する幻覚を見て絞め殺してしまう。女は桜の花びらに変わり、男の姿も消えてひっそりとした森だけになってしまうという怪異譚。
満開の桜と狂気、山の静寂と都の喧騒、その中の人間の孤独がモチーフになっていて、うたかたの人間存在が描かれる。
ロケ地となった吉野山の静寂とした森と爛漫の桜が幻想的で、平安絵巻のように描かれる京の町ともども映像美が見どころ。
山賊が攫う女の顔が見えて岩下志麻と分かった途端、鬼よりも恐ろしい女というのがすぐに了解される。生首で人形遊びをするのも違和感なく、山賊もたじろぐ圧倒的な存在感に目を奪われて、男の孤独と虚無を吹き飛ばしてしまう。 (評価:2.5)
吶喊
公開:1975年3月15日
監督:岡本喜八 製作:岡田裕介、古賀祥一 脚本:岡本喜八 撮影:木村大作 美術:植田寛 音楽:佐藤勝
戊辰戦争における東北での戦いを描いた幕末・維新もので、農民出の2人の若者が主人公。
1人は奥州の貧農の青年・千太(伊藤敏孝)で、戦乱の世を好み、仙台藩の下級武士の細谷十太夫(高橋悦史)が、博徒や百姓らを集めて組織したカラス組に加わる。
もう1人は偶然知り合った官軍の密偵・万次郎(岡田裕介)で、やはり西国の農家の出。金のためなら旧幕側にも情報を提供するいわば二重スパイで、どちらの味方か訝る千太に、時代の流れは止められないとどちらにも与しない実利主義を貫く。
本作が制作されたのは70年安保後で、千太はいわば新左翼の反権力、万次郎はノンポリの現実派。そうした二つの時代を重ね合わせて、70年安保の青春を総括して見せたともいえる。
万次郎は主義主張よりも私利が大事とばかりに、官軍の軍用金奪取を千太に持ちかけ、千太を騙して囮に使ってまんまと軍資金を独り占めするという世渡り上手の抜け目のなさ。
一方の千太はカラス組とともに敗走を続け、成り行きから鶴ヶ城に籠城。遊女のテル(千波恵美子)を見出してキンタマを復活させ、再出発の第一歩を記す。
同じく籠城した万次郎は娘隊士を見つけて追いかけるが、逆に娘子隊に追い詰められてキンタマの復活はままならないというラスト。時代の波に翻弄される二つの青春を描く。
2人に絡む女に伊佐山ひろ子、土方歳三に仲代達矢。語りの老婆に坂本九も隠れた見どころか。 (評価:2.5)
男はつらいよ 葛飾立志篇
公開:1975年12月27日
監督:山田洋次 製作:島津清、名島徹 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:高田三男 音楽:山本直純
寅さんシリーズの第15作。マドンナは樫山文枝で大学の考古学研究室助手。東大が映るので大学は東大であることがわかる。
樫山文枝ではマドンナとして不足と考えたのか、はたまたマンネリから若い観客を呼び込もうという魂胆か、アイドル歌手の桜田淳子が旅先の恩人の娘として登場する。
恩人の墓参りで出会った住職(大滝秀治)に無学を歎くと、学問を始めるのに年齢は関係ないと教えられ、柴又に戻って一念発起、学問を志すというのが話の中心。下宿人のマドンナに手ほどきを受けるが、彼女の師(小林桂樹)との仲を誤解して、失恋したと思った寅が旅に出るという変則パターン。
もっとも美人で知的で清純なマドンナというパターンを踏んでいるので、リリー編を除くと、マンネリ感は否めない。
ストーリー的にもやや強引なところがあり、全体に会話がギクシャクしていてシナリオの出来は今ひとつ。桜田淳子の隠し子騒動も会話が不自然で、マドンナが家庭教師につく話も相当に無理がある。
小林桂樹は上手いのだが、サラリーマン物の小林桂樹そのままで、大学教授としてのリアリティに欠けるのも大きな欠点になっている。
それでも何となく見せてしまう山田洋次の演出力は、プログラム・ピクチャーの監督としては立派。 (評価:2.5)
製作:東映東京
公開:1975年2月15日
監督:深作欣二 脚本:鴨井達比古 撮影:仲沢半次郎 美術:桑名忠之 音楽:津島利章
キネマ旬報:8位
水戸出身のヤクザが茨城弁でないのに大きな違和感
藤田五郎の同名小説が原作。
服役中に30歳で投身自殺した水戸市出身のヤクザ、石川力夫の一生を描いた実録物で、ヤクザになるまでは水戸市の知人のインタビューと写真で補う。
親分に対して刃傷沙汰を起こすという仁義に外れたヤクザの物語で、深作は兄弟分や恩義ある者に対して、仁義にとことん背く狂犬の姿を浮き彫りにする。本作にあるのは屑なヤクザが、ヤクザ社会の中でも屑となる屑人間のニヒリズムで、そこから得るものは何一つない。
世の中にはどうしようもない屑がいることを描きたかったのか、救いようのない世の中を描きたかったのか、あるいは1970年代のニヒリズムを石川力夫に代弁させたかったのか、40年経った今となってはどうでもよい。
石川はヤクザの道を踏み外し、関東から追放され、大阪でヘロイン中毒となり、献身的に支えた女も自殺する。そうして奈落に落ちていく石川を演じる渡哲也の迫真の演技が見ものだが、ヤク中で生気を失い黒ずんだ顔は、リアル過ぎて見てられない。
水戸出身の石川が茨城弁でないのに大きな違和感がある。茨城弁なら、もう少し彼の人物像が見えたのかもしれない。
破滅的人生を鑑賞したい人向き。 (評価:2)
公開:1975年2月15日
監督:深作欣二 脚本:鴨井達比古 撮影:仲沢半次郎 美術:桑名忠之 音楽:津島利章
キネマ旬報:8位
藤田五郎の同名小説が原作。
服役中に30歳で投身自殺した水戸市出身のヤクザ、石川力夫の一生を描いた実録物で、ヤクザになるまでは水戸市の知人のインタビューと写真で補う。
親分に対して刃傷沙汰を起こすという仁義に外れたヤクザの物語で、深作は兄弟分や恩義ある者に対して、仁義にとことん背く狂犬の姿を浮き彫りにする。本作にあるのは屑なヤクザが、ヤクザ社会の中でも屑となる屑人間のニヒリズムで、そこから得るものは何一つない。
世の中にはどうしようもない屑がいることを描きたかったのか、救いようのない世の中を描きたかったのか、あるいは1970年代のニヒリズムを石川力夫に代弁させたかったのか、40年経った今となってはどうでもよい。
石川はヤクザの道を踏み外し、関東から追放され、大阪でヘロイン中毒となり、献身的に支えた女も自殺する。そうして奈落に落ちていく石川を演じる渡哲也の迫真の演技が見ものだが、ヤク中で生気を失い黒ずんだ顔は、リアル過ぎて見てられない。
水戸出身の石川が茨城弁でないのに大きな違和感がある。茨城弁なら、もう少し彼の人物像が見えたのかもしれない。
破滅的人生を鑑賞したい人向き。 (評価:2)
製作:松竹
公開:1975年10月25日
監督:山田洋次 製作:島津清、名島徹 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:岡田京子
キネマ旬報:9位
ほろ苦さしか残らない山田洋次の都会人的農本主義
岩手県松尾村を舞台に、全国各地を巡演する統一劇場のミュージカルを青年団が主催し成功させるという物語。
ミュージカルは農村における若者の離農がテーマで、映画もほぼ同じテーマで似通った人物や物語の設定になっている。つまり映画と劇中劇のミュージカルはタイトル通りに「同胞」で、統一劇場のPR映画といってもそれほど的外れではない。
農村の若者、土への回帰といった農本主義は、都会の労働者へのシンパシー同様、山田洋次らしいプロレタリア讃歌で、徹頭徹尾物語はそこからブレない。
公開当時は、すでに高度経済成長のピークを過ぎ、オイルショック、円高不況へと向かっている時代で、劇中に登場するように農村の若者たちも乗用車を乗り回すようになっている。山田洋次の農本主義はノスタルジーになりつつあり、だからこそ本作を制作したのだが、統一劇場のミュージカル同様、時代に抗うだけで多くの若者たちの共感は得られなかった。
そうした点で本作は過去の遺物となっていて、今となっては懐かしさというよりは惨めさとほろ苦さしか残らない。
主催費用60万円のリスクを青年団が負えるかどうかを巡って会議は紛糾し、決断力に欠けた青年団長(寺尾聰)は煩悶する。しかし、やらないで後悔するよりは、失敗して後悔する方がましだという結論になり、主催を決定する。幸福とは目的に向かっている時に得られるといった「青年の主張」、一人ひとりの力は小さくても、力を合わせれば何事かをやり遂げられるというチャレンジ精神を謳ってハッピーエンド。
統一劇場の営業マンを倍賞千恵子を演じるが、そこはかとなく胡散臭いところもあって、とりもなおさず劇中劇のシーンが退屈。
村を出て新宿に暮らす青年に下條アトム、それを追って村を出る娘に市毛良枝。岡本茉莉の純朴な田舎娘ぶりがサイコー。 (評価:2)
公開:1975年10月25日
監督:山田洋次 製作:島津清、名島徹 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:岡田京子
キネマ旬報:9位
岩手県松尾村を舞台に、全国各地を巡演する統一劇場のミュージカルを青年団が主催し成功させるという物語。
ミュージカルは農村における若者の離農がテーマで、映画もほぼ同じテーマで似通った人物や物語の設定になっている。つまり映画と劇中劇のミュージカルはタイトル通りに「同胞」で、統一劇場のPR映画といってもそれほど的外れではない。
農村の若者、土への回帰といった農本主義は、都会の労働者へのシンパシー同様、山田洋次らしいプロレタリア讃歌で、徹頭徹尾物語はそこからブレない。
公開当時は、すでに高度経済成長のピークを過ぎ、オイルショック、円高不況へと向かっている時代で、劇中に登場するように農村の若者たちも乗用車を乗り回すようになっている。山田洋次の農本主義はノスタルジーになりつつあり、だからこそ本作を制作したのだが、統一劇場のミュージカル同様、時代に抗うだけで多くの若者たちの共感は得られなかった。
そうした点で本作は過去の遺物となっていて、今となっては懐かしさというよりは惨めさとほろ苦さしか残らない。
主催費用60万円のリスクを青年団が負えるかどうかを巡って会議は紛糾し、決断力に欠けた青年団長(寺尾聰)は煩悶する。しかし、やらないで後悔するよりは、失敗して後悔する方がましだという結論になり、主催を決定する。幸福とは目的に向かっている時に得られるといった「青年の主張」、一人ひとりの力は小さくても、力を合わせれば何事かをやり遂げられるというチャレンジ精神を謳ってハッピーエンド。
統一劇場の営業マンを倍賞千恵子を演じるが、そこはかとなく胡散臭いところもあって、とりもなおさず劇中劇のシーンが退屈。
村を出て新宿に暮らす青年に下條アトム、それを追って村を出る娘に市毛良枝。岡本茉莉の純朴な田舎娘ぶりがサイコー。 (評価:2)
トラック野郎 御意見無用
公開:1975年8月30日
監督:鈴木則文 脚本:鈴木則文、澤井信一郎 撮影:仲沢半次郎 美術:桑名忠之 音楽:木下忠司
ヤクザ映画スターだった菅原文太が、当時ブームだったデコトラ運転手に扮して話題となり大ヒットした作品で、シリーズ化された第1作。
主役はデコトラで、冒頭デコトラが他の車を押しのけて街道を疾走するシーンから始まる。桃次郎(菅原文太)と九州のトラック野郎(佐藤允)のトラック対決、人助けのためのパトカーぶっちぎりレースと、その後のシリーズのパターンとなる骨組みができ上がっている。
桃次郎が好きになるマドンナに中島ゆたか、桃次郎に思いを寄せる女トラック野郎に夏純子と『男はつらいよ』に比べるといささか軽量級だが、親友やもめのジョナサン・金造の愛川欽也、その妻・春川ますみが脇を固める。
盛岡のドライブイン「くるまや」のウェイトレス(中島ゆたか)を桃次郎が見初め、純愛の炎を燃やすが訳ありで、東京の金持ち娘と思いきや、恋人のトラック運転手(夏夕介)が起こした死亡事故の分割慰謝料をその家に収めていることがわかり、別れようとしている二人の仲を取り持つ。
金造夫婦が捨て子を引き取ったりといった人情話を絡ませ、東映らしくトルコ嬢との下ネタや喧嘩の派手な立ち回りも入るごった煮エンタテイメント。
『仁義なき戦い』を意識した手持ちカメラで、カメラを回転させたり大きく傾けた構図などもあるが、酔って見にくいだけで必然性がなく効果も薄いのが、いかにもやっつけ仕事。
小麦粉で真っ白になった文太がちょっと可愛い。 (評価:2)
メカゴジラの逆襲
公開:1975年3月15日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:高山由紀子 特技監督:中野昭慶 撮影:富岡素敬 音楽:伊福部昭 美術:本多好文
ゴジラ第15作。東宝チャンピオンまつりで公開。
前作の続編ということで、適役メカゴジラが再登場。
オープニングは前作の対決シーンのダイジェスト風フィルム使い回し。真鶴から天城山と、伊豆半島が舞台。目新しさはないが、監督に本多猪四郎が復帰したのが目玉。子供向け路線から大人向けに修正し、主人公(佐々木勝彦)とマッドサイエンティスト(平田昭彦)の娘(藍とも子)との恋物語も絡ませながら、サイボーグ問題をテーマに入れたが、肝腎のゴジラの影が薄くて、バトルシーンもメリハリのないお約束になってしまって退屈。
宇宙人たちは、前回海に沈んだメカゴジラのスペース・チタニウムを回収して天城山中に秘密基地を建設。動物を意のままに操る技術を開発した日本人の天才マッドサイエンティストを仲間に引き入れて、娘を操縦装置としてチタノザウルス、メカゴジラを使って地球制服を企むが、ゴジラが引き寄せられてくる。
新怪獣チタノザウルスの弱点が超音波など工夫はあるが、準主役のメカゴジラが突っ立って他の2怪獣のバトルを眺めているだけというのもいただけない。本多演出で原点がえりを狙っても、ロボットに宇宙人という組み合わせには無理がある。
藍とも子の偽物おっぱいシーンがある。中丸忠雄も出演。 (評価:2)
鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い
公開:1975年7月12日
監督:吉田憲二 製作:三浦波夫、宮川孝至 脚本:岩本芳樹 撮影:大津幸四郎 美術:横尾嘉良 音楽:真鍋理一郎
タイトルと高橋洋子に魅かれて公開時に観たが、その時も対して印象に残らなかった作品。改めて観ると、40年以上の歳月を経て、相当に黴が生えている。
貧しい田舎の生活を逃れて上京した男女(田中健、高橋洋子)が知り合い、当時の流行歌『昭和枯れすすき』のように身を寄せ合うも、女が男友達にレイプされて妊娠しまい、堕胎に失敗して死んでしまうという青春残酷物語。
『昭和枯れすすき』だけでなく『神田川』など、オイルショック後の高度成長への反動からの貧乏自慢が流行った頃で、本作もその延長上にあるが、田中健の考え出した想像の国レシポルコというユートピア幻想と、その夢にすがる高橋洋子、そして夢は夢であって、本当のユートピアは現実の中の二人の愛にあるという、なんとも背中のムズムズする結論で幕を閉じる。
二人の愛の巣にこそユートピアが存在するというのは70年代的ユートピア幻想で、そうしたユートピア幻想が大真面目に語られた時代が懐かしくもあるが、彼女の境遇を傷ついたカモメに象徴し、カモメを保護し、狭い籠で飼いながら、彼女の死後、カモメに思いを託して大空に解放してやるという、これも70年代的センチメンタリズムで締めくくるが、シナリオも登場人物もあまりに黴だらけで、今となっては共感するものが何もない。
盲人の役の萩原健一も、上京者? のあがた森魚も何のために登場したのか皆目わからない。 (評価:1.5)