日本映画レビュー──1973年
製作:東映京都
公開:1973年1月13日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 音楽:津島利章 美術:鈴木孝俊
キネマ旬報:2位
すべての偽善を否定して祭壇に撃ち込まれる銃弾
「仁義なき戦い」の第1作。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
当初続編を予定していなかったために、戦後の混乱期に暴力団に身を投じていった若者たちの物語として、完成度の高い作品に仕上がっている。
本作にはいくつかの見どころがある。第一は、それまで国定忠治や森の石松に代表される義理人情を美化した任侠道を描いてきた映画界に、金と暴力にまみれたリアルで生々しいヤクザの実態を描いた映画を突きつけたこと。
それは実在する暴力団組長をモデルとして、笠原和夫の優れた脚本、深作欣二のドキュメンタリー・タッチのリアリズムに溢れた演出、吉田貞次の手持ちカメラによるニュースフィルムのような迫真の映像によって、まったく新しいヤクザ映画を生み出した。
本作が前年に公開された『ゴッドファーザー』に少なからず影響を受けていたのは確かだが、手持ちカメラによるドキュメンタリー効果は、邦洋画を問わずその後の撮影技法に継承された。編集的には続くストップモーションによる止絵とテロップ挿入によって、ドキュメンタリー効果をさらに上げている。
第二は、広島を舞台として、戦後の闇市から始まる暴力団を中心にした闇社会の社会への浸透を描いていること。
敗戦による無秩序の中で、侠気のある若者が乱暴者を射殺して刑務所に入り、ヤクザの世界に身を投じていくが、暴力団が任侠ではなくシノギによって成り立つ金の組織で、商才のある山守組組長(金子信雄)は暴力を使いながら実業に進出し、競艇場の理事長となっていく。
非合法を背景とした実業組織である現在の暴力団の萌芽が本作には示されていて、そうした中で任侠道を貫こうとする主人公・広能(菅原文太)の姿が悲しく、観客の共感を呼ぶ。
終盤で松方弘樹演じる坂井が主人公の広能に、「のう、昌三。わしらよ、どこで道間違えたんかのう」と語る有名な場面があるが、道はすでに出発点において間違えていたのであって、敗戦による日本人の価値観の変化、精神主義よりも物質主義が戦後暴力団の出発点となっていた。
坂井はこの変質を自身の中に取り込んでいて、死んだ仲間の情婦を妻にして子を設け、企業舎弟の組を立ち上げる。
一方、侠気から刑務所に入り、知り合った若杉(梅宮辰夫)と義兄弟の契りを交わす広能は原理主義者のままで、人望のない山守のために反目する土居組組長を殺し、分裂する組の融和を図ろうとするが失敗する。
仲の良い友達だった坂井と広能は、こうして異なってしまった価値観、失われた仁義のために盃を割ることになる。
第三は、精神から物質へと変質した戦後の暴力団同様、その価値観の変化は日本の社会全体にもたらされたもので、本作が制作された1970年頃は、敗戦から高度経済成長へと進んだ社会の歪みが顕在化した時期でもあった。
公害・環境問題、安全保障問題、政治家・資本家の腐敗、経済格差といった矛盾が現出していて、本作に描かれるヤクザ社会を通して日本人と日本社会の変質を見ることができた。
山守組の抗争で死んでいった者たちに対して、広能だけが哀惜をもって追慕するが、そこに同じように日本の戦後の繁栄のために犠牲となった戦争被害者を重ね合わせることができる。
しかし、そうしたいくつかの見方を超えて、本作は今なおエンタテイメントとして優れた作品で、すべての偽善を否定するように「鉄っちゃん、こんなあ、こがなことしてもろうて満足か? 満足じゃなかろう? わしもおんなじじゃ」と言って、広能は坂井の祭壇に銃弾を撃ち込むシーンが共感を呼ぶ。
菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫が演じるヒロイズムもかっこいいが、本作の陰の立役者は金子信雄で、その演技なくして本作は名作にはならなかった。 (評価:4.5)
公開:1973年1月13日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 音楽:津島利章 美術:鈴木孝俊
キネマ旬報:2位
「仁義なき戦い」の第1作。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
当初続編を予定していなかったために、戦後の混乱期に暴力団に身を投じていった若者たちの物語として、完成度の高い作品に仕上がっている。
本作にはいくつかの見どころがある。第一は、それまで国定忠治や森の石松に代表される義理人情を美化した任侠道を描いてきた映画界に、金と暴力にまみれたリアルで生々しいヤクザの実態を描いた映画を突きつけたこと。
それは実在する暴力団組長をモデルとして、笠原和夫の優れた脚本、深作欣二のドキュメンタリー・タッチのリアリズムに溢れた演出、吉田貞次の手持ちカメラによるニュースフィルムのような迫真の映像によって、まったく新しいヤクザ映画を生み出した。
本作が前年に公開された『ゴッドファーザー』に少なからず影響を受けていたのは確かだが、手持ちカメラによるドキュメンタリー効果は、邦洋画を問わずその後の撮影技法に継承された。編集的には続くストップモーションによる止絵とテロップ挿入によって、ドキュメンタリー効果をさらに上げている。
第二は、広島を舞台として、戦後の闇市から始まる暴力団を中心にした闇社会の社会への浸透を描いていること。
敗戦による無秩序の中で、侠気のある若者が乱暴者を射殺して刑務所に入り、ヤクザの世界に身を投じていくが、暴力団が任侠ではなくシノギによって成り立つ金の組織で、商才のある山守組組長(金子信雄)は暴力を使いながら実業に進出し、競艇場の理事長となっていく。
非合法を背景とした実業組織である現在の暴力団の萌芽が本作には示されていて、そうした中で任侠道を貫こうとする主人公・広能(菅原文太)の姿が悲しく、観客の共感を呼ぶ。
終盤で松方弘樹演じる坂井が主人公の広能に、「のう、昌三。わしらよ、どこで道間違えたんかのう」と語る有名な場面があるが、道はすでに出発点において間違えていたのであって、敗戦による日本人の価値観の変化、精神主義よりも物質主義が戦後暴力団の出発点となっていた。
坂井はこの変質を自身の中に取り込んでいて、死んだ仲間の情婦を妻にして子を設け、企業舎弟の組を立ち上げる。
一方、侠気から刑務所に入り、知り合った若杉(梅宮辰夫)と義兄弟の契りを交わす広能は原理主義者のままで、人望のない山守のために反目する土居組組長を殺し、分裂する組の融和を図ろうとするが失敗する。
仲の良い友達だった坂井と広能は、こうして異なってしまった価値観、失われた仁義のために盃を割ることになる。
第三は、精神から物質へと変質した戦後の暴力団同様、その価値観の変化は日本の社会全体にもたらされたもので、本作が制作された1970年頃は、敗戦から高度経済成長へと進んだ社会の歪みが顕在化した時期でもあった。
公害・環境問題、安全保障問題、政治家・資本家の腐敗、経済格差といった矛盾が現出していて、本作に描かれるヤクザ社会を通して日本人と日本社会の変質を見ることができた。
山守組の抗争で死んでいった者たちに対して、広能だけが哀惜をもって追慕するが、そこに同じように日本の戦後の繁栄のために犠牲となった戦争被害者を重ね合わせることができる。
しかし、そうしたいくつかの見方を超えて、本作は今なおエンタテイメントとして優れた作品で、すべての偽善を否定するように「鉄っちゃん、こんなあ、こがなことしてもろうて満足か? 満足じゃなかろう? わしもおんなじじゃ」と言って、広能は坂井の祭壇に銃弾を撃ち込むシーンが共感を呼ぶ。
菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫が演じるヒロイズムもかっこいいが、本作の陰の立役者は金子信雄で、その演技なくして本作は名作にはならなかった。 (評価:4.5)
製作:斎藤プロ、ATG
公開:1973年12月20日
監督:斎藤耕一 製作:島田昭彦、多賀祥介 脚本:中島丈博、斎藤耕一 撮影:坂本典隆 音楽:白川軍八郎、高橋竹山
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞
日本の戦後史を津軽の風景と共に切り取った傑作
映像派として知られた斎藤耕一の代表作。
ズームレンズを使用した白浪の立つ荒海と風避けの板囲いの映像が、津軽の厳しい自然を映し出す。北国の寒さと風、波飛沫までも感じさせた映像の圧倒的なリアリティは、40年経って観ても変わらない。スチルカメラマン出身の斎藤耕一は、自然の感覚をそのまま切り取れる稀有な監督だった。
本作では全編、曇天の下で撮影され、決して晴れることのない津軽が描写される。それは陰鬱で停滞した世界のどん詰まりの心象の景色。
舞台となるのは日本海に面した十三湖の漁村で、町に暮らすのは兄妹の近親姦で生まれた盲目の少女(中川三穂子)とその母・祖母の一家。観光客相手の酒場の親父(佐藤英夫)。出稼ぎの失業保険で遊んで暮らす男たちと、足が悪いために町に残る若い男(寺田農)。息子が駆け落ちし、一人でシジミを採る漁師(西村晃)。
そこに西村の息子と駆け落ちした女(江波杏子)が、ヤクザに追われる若い情夫(織田あきら)を連れて帰ってくる。江波は海で兄と父を亡くし、立派な墓を立ててやろうと思うが、二人が保険金詐欺を企て失敗して死んだことを知る。
戦後の経済成長に取り残された貧しい故郷。しかし貨幣経済は否応なく故郷の町にも浸透して人心を荒廃させる。繁栄とともに日本人が失ったもの、それを斎藤は津軽の景色の中に描いていくが、西村の漁を手伝う織田が日当にもらうシジミ、金銭では得ることのできない喜びがそれを象徴する。
本作は瞽女に弟子入りした中川が回想を語る形式を採るが、津軽の瞽女は門付けしながら津軽三味線で語り物をする、西洋でいえば吟遊詩人。衰退していく瞽女を引き継ぐ中川が、戦後日本の繁栄の陰画を物語るという悲しい作品だが、日本の戦後史を津軽の風景と共に切り取った傑作でもある。
故郷に居場所が見つけられない江波と、津軽に生き場所を見つける織田。しかし結局、それすらも許されずに映画は終わる。中島丈博との共同脚本。津軽三味線は高橋竹山。 (評価:3.5)
公開:1973年12月20日
監督:斎藤耕一 製作:島田昭彦、多賀祥介 脚本:中島丈博、斎藤耕一 撮影:坂本典隆 音楽:白川軍八郎、高橋竹山
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞
映像派として知られた斎藤耕一の代表作。
ズームレンズを使用した白浪の立つ荒海と風避けの板囲いの映像が、津軽の厳しい自然を映し出す。北国の寒さと風、波飛沫までも感じさせた映像の圧倒的なリアリティは、40年経って観ても変わらない。スチルカメラマン出身の斎藤耕一は、自然の感覚をそのまま切り取れる稀有な監督だった。
本作では全編、曇天の下で撮影され、決して晴れることのない津軽が描写される。それは陰鬱で停滞した世界のどん詰まりの心象の景色。
舞台となるのは日本海に面した十三湖の漁村で、町に暮らすのは兄妹の近親姦で生まれた盲目の少女(中川三穂子)とその母・祖母の一家。観光客相手の酒場の親父(佐藤英夫)。出稼ぎの失業保険で遊んで暮らす男たちと、足が悪いために町に残る若い男(寺田農)。息子が駆け落ちし、一人でシジミを採る漁師(西村晃)。
そこに西村の息子と駆け落ちした女(江波杏子)が、ヤクザに追われる若い情夫(織田あきら)を連れて帰ってくる。江波は海で兄と父を亡くし、立派な墓を立ててやろうと思うが、二人が保険金詐欺を企て失敗して死んだことを知る。
戦後の経済成長に取り残された貧しい故郷。しかし貨幣経済は否応なく故郷の町にも浸透して人心を荒廃させる。繁栄とともに日本人が失ったもの、それを斎藤は津軽の景色の中に描いていくが、西村の漁を手伝う織田が日当にもらうシジミ、金銭では得ることのできない喜びがそれを象徴する。
本作は瞽女に弟子入りした中川が回想を語る形式を採るが、津軽の瞽女は門付けしながら津軽三味線で語り物をする、西洋でいえば吟遊詩人。衰退していく瞽女を引き継ぐ中川が、戦後日本の繁栄の陰画を物語るという悲しい作品だが、日本の戦後史を津軽の風景と共に切り取った傑作でもある。
故郷に居場所が見つけられない江波と、津軽に生き場所を見つける織田。しかし結局、それすらも許されずに映画は終わる。中島丈博との共同脚本。津軽三味線は高橋竹山。 (評価:3.5)
仁義なき戦い 広島死闘篇
公開:1973年4月28日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 美術:吉村晟 音楽:津島利章
「仁義なき戦い」の続編。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
制作時に飯干晃一の連載が追いついていなかったために、村岡組の山中正治(北大路欣也)を主人公とした話にしたため、シリーズでは番外編的な位置づけ。広能(菅原文太)はほとんど出番がない。山中正治は実在の山上光治がモデル。
山中が賭場での喧嘩で刑務所に入る所から物語は始まり、村岡組組員となって組長の姪(梶芽衣子)に手を付け、九州に飛ばされて鉄砲玉となって名を挙げて広島に戻り、姪を餌に村岡に利用されて無期懲役を喰らう。戦争未亡人の姪の再婚話を聞いて脱獄するも、村岡に騙されて最後は自殺するまでが描かれる。
並行して、競輪場の利権をめぐる村岡組と大友組の抗争が描かれるが、第1作の主要メンバーは脇に退き、鉄砲玉として利用された悲しきヤクザ・山中の物語となっているため、ドラマとしての完成度は高い。
山中を演じる北大路欣也、愛人となる梶芽衣子も上手いが、大友組組長の大友勝利を演じる千葉真一の狂犬ぶりが圧倒的で、その演技を見るだけでも価値がある。
3人のキャラクターが立っていて、番外編ながらシリーズ中の名作。梶芽衣子の夫が名誉の戦死を遂げて靖国神社に祀られている特攻隊員で、梶が山中との再婚を許されないという事情も戦後ならではで、第1作で闇市から立ち上がった広能、坂井と対をなす、もうひとつの陰画となっている。 (評価:3)
製作:青幻記プロ
公開:1973年2月24日
監督:成島東一郎 製作:加藤辰次、成島東一郎 脚本:平岩弓枝、成島東一郎、伊藤昌輝 撮影:成島東一郎 美術:下石坂成典 音楽:武満徹
キネマ旬報:3位
沖永良部島の風景と一体化させた成島東一郎の映像美
一色次郎の小説『青幻記』が原作。
中年男(田村高廣)が、生まれ育った鹿児島から母と暮らした沖永良部島の思い出をたどりながら墓参の旅をするという物語。現在と昭和初期の少年時代とが交錯し、心象風景が重なるという演出法がとられていて、カメラマン出身の成島東一郎らしい、リリカルな映像が大きな見どころとなっている。
沖永良部島の自然、とりわけ海の描写が美しく、公開当時この作品を見て、沖永良部島に立ち寄ったという個人的には思い出深い作品でもある。
沖永良部島から鹿児島に嫁いだ主人公・稔の母(賀来敦子)は、出産直後に夫を亡くして船乗り(小松方正)と再婚したために、稔は夫の父(伊藤雄之助)に引き取られる。しかし祖父が死ぬと叔母(山岡久乃)から邪魔者扱いを受け、義父も大阪に行ってしまったため、病弱な母とともに沖永良部島の祖母(原泉)の家に住まうことになる。
半年後、磯で魚取りをしていて潮が満ち、体の弱い母は稔を助けて死んでしまうが、母に思いを寄せていた島男(藤原釜足)の話を通して、蜻蛉のような母の思い出を回想する。
母の死んだ後の稔の物語は語られないが、成長して上京したものの不幸せな人生だったことが墓参に同行する友人(戸浦六宏)によって示唆され、母と暮らした半年間が稔にとっての最良の時であり、今尚その思い出を心の拠り所としているという、母性への憧憬が描かれる。
これ以上はないセンチメンタル・ストーリーで、マザコンと紙一重なのだが、沖永良部島の風景と一体化させた成島東一郎の映像美が、それを超えて抒情に訴える。
病弱な母を演じる賀来敦子が儚げでいい。 (評価:2.5)
公開:1973年2月24日
監督:成島東一郎 製作:加藤辰次、成島東一郎 脚本:平岩弓枝、成島東一郎、伊藤昌輝 撮影:成島東一郎 美術:下石坂成典 音楽:武満徹
キネマ旬報:3位
一色次郎の小説『青幻記』が原作。
中年男(田村高廣)が、生まれ育った鹿児島から母と暮らした沖永良部島の思い出をたどりながら墓参の旅をするという物語。現在と昭和初期の少年時代とが交錯し、心象風景が重なるという演出法がとられていて、カメラマン出身の成島東一郎らしい、リリカルな映像が大きな見どころとなっている。
沖永良部島の自然、とりわけ海の描写が美しく、公開当時この作品を見て、沖永良部島に立ち寄ったという個人的には思い出深い作品でもある。
沖永良部島から鹿児島に嫁いだ主人公・稔の母(賀来敦子)は、出産直後に夫を亡くして船乗り(小松方正)と再婚したために、稔は夫の父(伊藤雄之助)に引き取られる。しかし祖父が死ぬと叔母(山岡久乃)から邪魔者扱いを受け、義父も大阪に行ってしまったため、病弱な母とともに沖永良部島の祖母(原泉)の家に住まうことになる。
半年後、磯で魚取りをしていて潮が満ち、体の弱い母は稔を助けて死んでしまうが、母に思いを寄せていた島男(藤原釜足)の話を通して、蜻蛉のような母の思い出を回想する。
母の死んだ後の稔の物語は語られないが、成長して上京したものの不幸せな人生だったことが墓参に同行する友人(戸浦六宏)によって示唆され、母と暮らした半年間が稔にとっての最良の時であり、今尚その思い出を心の拠り所としているという、母性への憧憬が描かれる。
これ以上はないセンチメンタル・ストーリーで、マザコンと紙一重なのだが、沖永良部島の風景と一体化させた成島東一郎の映像美が、それを超えて抒情に訴える。
病弱な母を演じる賀来敦子が儚げでいい。 (評価:2.5)
製作:崑プロ、ATG
公開:1973年04月07日
監督:市川崑 製作:葛井欣士郎、富沢幸男、大岡弘光 脚本:谷川俊太郎、市川崑 撮影:小林節雄 音楽:久里子亭 美術:西岡善信、加門良一
キネマ旬報:4位
大宮デン助も登場する市川崑のATG異色作
市川崑と谷川俊太郎の共同脚本。小倉一郎、尾藤イサオ、萩原健一と市川作品には異色の配役。
物語は3人の若者が渡世人となり、各地の元締めの食客となって旅をする。その先で、小倉が出奔した父(大宮敏充)と再会し、父がいかさま博打に係わったことから博徒の元締めに義理立てして父を殺す。親殺しの兇状持ちとなり、金で買われた農家の嫁(井上れい子)を連れて、尾藤、荻原とともに生家を訪ねるが、母は飯盛女となり、姉妹は売られ、弟は里子に出されて、一家は離散している。連れ戻しに来た義理の息子を殺した井上を飯盛女に売り、上総に向かうが・・・
本作が描くのは任侠道でもヒーローでも暴力のカタルシスでもない。貧しさのために家を出て、無宿者となってヤクザを頼って食い繋ぐ。一宿一飯の恩義のために親さえも殺さなければならない。そうした社会からはみ出していく下層民の悲しい物語で、市川はそれを公開当時の1970年代にダブらせた。高度経済成長によって総中流化と言われながらも、豊かさから取り残された階層があった。それから40年経ってこの層が拡大・顕在化していることを考えれば、現代にも通じる映画。
『木枯し紋次郎』のTV放映は1972年からで、本作はその直後に撮られている。シーンや撮影技法は『木枯し紋次郎』を髣髴させ、殺陣も無闇にドスを振り回して喧嘩のようですこぶるカッコ悪い。屋内で刀を梁に食いこませたりというリアリティに拘った演出で、任侠映画やヤクザ映画のヒロイズムは欠片もない。
冒頭、長々と仁義を切るシーンがあって、江戸時代の渡世人のルールの説明が面白い。江戸時代の階層について多少の知識があった方が理解が深まる。
年輩の東京人には懐かしい浅草大衆演劇のデン助こと大宮敏充も見どころの一つだが、百姓出の役なのに生粋の江戸弁なのが可笑しい。 (評価:2.5)
公開:1973年04月07日
監督:市川崑 製作:葛井欣士郎、富沢幸男、大岡弘光 脚本:谷川俊太郎、市川崑 撮影:小林節雄 音楽:久里子亭 美術:西岡善信、加門良一
キネマ旬報:4位
市川崑と谷川俊太郎の共同脚本。小倉一郎、尾藤イサオ、萩原健一と市川作品には異色の配役。
物語は3人の若者が渡世人となり、各地の元締めの食客となって旅をする。その先で、小倉が出奔した父(大宮敏充)と再会し、父がいかさま博打に係わったことから博徒の元締めに義理立てして父を殺す。親殺しの兇状持ちとなり、金で買われた農家の嫁(井上れい子)を連れて、尾藤、荻原とともに生家を訪ねるが、母は飯盛女となり、姉妹は売られ、弟は里子に出されて、一家は離散している。連れ戻しに来た義理の息子を殺した井上を飯盛女に売り、上総に向かうが・・・
本作が描くのは任侠道でもヒーローでも暴力のカタルシスでもない。貧しさのために家を出て、無宿者となってヤクザを頼って食い繋ぐ。一宿一飯の恩義のために親さえも殺さなければならない。そうした社会からはみ出していく下層民の悲しい物語で、市川はそれを公開当時の1970年代にダブらせた。高度経済成長によって総中流化と言われながらも、豊かさから取り残された階層があった。それから40年経ってこの層が拡大・顕在化していることを考えれば、現代にも通じる映画。
『木枯し紋次郎』のTV放映は1972年からで、本作はその直後に撮られている。シーンや撮影技法は『木枯し紋次郎』を髣髴させ、殺陣も無闇にドスを振り回して喧嘩のようですこぶるカッコ悪い。屋内で刀を梁に食いこませたりというリアリティに拘った演出で、任侠映画やヤクザ映画のヒロイズムは欠片もない。
冒頭、長々と仁義を切るシーンがあって、江戸時代の渡世人のルールの説明が面白い。江戸時代の階層について多少の知識があった方が理解が深まる。
年輩の東京人には懐かしい浅草大衆演劇のデン助こと大宮敏充も見どころの一つだが、百姓出の役なのに生粋の江戸弁なのが可笑しい。 (評価:2.5)
修羅雪姫
公開:1973年12月01日
監督:藤田敏八 製作:奥田喜久丸 脚本:長田紀生 撮影:田村正毅 音楽:平尾昌晃 美術:薩谷和夫
小池一夫原作、上村一夫作画の同名漫画が原作。監督は藤田敏八。
梶芽衣子の『女囚さそり』に続く復讐もので、タランティーノの『キル・ビル』の原型となった映画で、物語の構造や世界観を含め、バイオレンス、カメラワーク、美術、漫画等の映像表現でも『キル・ビル』に大きな影響を与えている。この手の映画ファンには必見の作品。
時代は明治。明治政府によって徴兵制が敷かれ、それを逃れようとする農民を騙して金を詐欺する4人組に父を殺され、母(赤座美代子)を強姦された娘・雪(梶芽衣子)の復讐劇。4人組は岡田英次、中原早苗、仲谷昇、地井武男。
バイオレンスシーンが凄まじく、『椿三十郎』を凌ぐ必要以上の血しぶきが上がる。腕は飛ぶ、胴体は真っ二つになるで、梶の白い着物が真っ赤に染まり、睨んだ顔に血が飛び散る。和服、雪景色、日本家屋、荒海、庭と極彩色が生える美術とカメラワーク。回想シーンのアップから横に移動し背景に至るカメラワークや、超ズームからの切り替え等、劇画を意識した小気味よい効果的撮影も見どころ。
最大の見どころはやはり梶芽衣子で、殺陣のシーンは上手くないが、復讐に燃える美しき目力は梶にしかないもの。『キル・ビル』でタランティーノが栗山千明を使った理由が良くわかる。
西村晃の和尚が児童虐待をしたり、児童ポルノ的シーンもあるので、要注意。
出演は、他に黒沢年男、根岸明美、中田喜子、松崎真、小松方正。 (評価:2.5)
製作:日活
公開:1973年11月3日
監督:神代辰巳 製作:三浦朗 脚本:神代辰巳 撮影:姫田真佐久 美術:菊川芳江
キネマ旬報:6位
権力をものともせず男女の生と性を謳歌する神代辰巳の名作
永井荷風『四畳半襖の下張』が原作の日活ロマンポルノの名作。
本作公開の前年に、荷風作といわれる春本『四畳半襖の下張』を掲載した雑誌『面白半分』がわいせつ文書として摘発され、最高裁まで争う裁判となった。
本作は摘発後に製作され、画面内に修整前の黒ベタを入れて性描写規制を嘲笑し、反骨姿勢を打ち出したことが評価された。
内容は花街の料亭を舞台にした枕芸者の物語で、「初見の客には気をやるな」といった、先輩の枕芸者による心得集をテロップに入れながら、初見の客に気をやってしまった芸者(宮下順子)が客(江角英明)と結婚し、置屋の女将となるまでを描く。
中心となるのは宮下と江角のベッドシーンで、太鼓持ち(山谷初男)が女の絶頂を体験しろと首つりさせられるエピソードや、芸者と幼馴染の兵隊との恋物語、心得を教え込まれる半玉の少女の話を織り交ぜて全体が進んでいく。
同時進行する形で、米騒動や日露戦争などの時代の動きが示され、とりわけ幼馴染の兵隊が短い外出許可を得ての慌ただしく短く交わり、出征を前にした今生の別れの契りを交わすなど、国家権力に抑圧される国民を象徴させる。
一方で、それでも枕芸者はたくましく生き、男女の性交渉は米騒動も戦争も関係なく営まれる姿を描き、性を抑圧し性表現を取り締まろうとする権力を揶揄する。
そうした点でポルノ映画として表現の自由を主張した画期的な作品だったが、半世紀近くの歳月が過ぎ、アダルトビデオやネットのアダルト画像が氾濫する世の中となって、本作が作られた頃の時代背景が忘れられてしまえば、ただのポルノチック映画にしか見えないのが残念。
それでも男女の生と性を謳歌する神代辰巳の意図は失われてはおらず、宮下と江角の熱演もあって、作品としては少しも古びていない。 (評価:2.5)
公開:1973年11月3日
監督:神代辰巳 製作:三浦朗 脚本:神代辰巳 撮影:姫田真佐久 美術:菊川芳江
キネマ旬報:6位
永井荷風『四畳半襖の下張』が原作の日活ロマンポルノの名作。
本作公開の前年に、荷風作といわれる春本『四畳半襖の下張』を掲載した雑誌『面白半分』がわいせつ文書として摘発され、最高裁まで争う裁判となった。
本作は摘発後に製作され、画面内に修整前の黒ベタを入れて性描写規制を嘲笑し、反骨姿勢を打ち出したことが評価された。
内容は花街の料亭を舞台にした枕芸者の物語で、「初見の客には気をやるな」といった、先輩の枕芸者による心得集をテロップに入れながら、初見の客に気をやってしまった芸者(宮下順子)が客(江角英明)と結婚し、置屋の女将となるまでを描く。
中心となるのは宮下と江角のベッドシーンで、太鼓持ち(山谷初男)が女の絶頂を体験しろと首つりさせられるエピソードや、芸者と幼馴染の兵隊との恋物語、心得を教え込まれる半玉の少女の話を織り交ぜて全体が進んでいく。
同時進行する形で、米騒動や日露戦争などの時代の動きが示され、とりわけ幼馴染の兵隊が短い外出許可を得ての慌ただしく短く交わり、出征を前にした今生の別れの契りを交わすなど、国家権力に抑圧される国民を象徴させる。
一方で、それでも枕芸者はたくましく生き、男女の性交渉は米騒動も戦争も関係なく営まれる姿を描き、性を抑圧し性表現を取り締まろうとする権力を揶揄する。
そうした点でポルノ映画として表現の自由を主張した画期的な作品だったが、半世紀近くの歳月が過ぎ、アダルトビデオやネットのアダルト画像が氾濫する世の中となって、本作が作られた頃の時代背景が忘れられてしまえば、ただのポルノチック映画にしか見えないのが残念。
それでも男女の生と性を謳歌する神代辰巳の意図は失われてはおらず、宮下と江角の熱演もあって、作品としては少しも古びていない。 (評価:2.5)
製作:現代映画社、ATG
公開:1973年7月7日
監督:吉田喜重 製作:岡田茉莉子、上野昂志、葛井欣士郎 脚本:別役実 撮影:長谷川元吉 美術:内藤昭 音楽:一柳慧
キネマ旬報:7位
テロに傾斜する時代を浮かび上がらせるクールな映像美
二・二六事件によって死刑となった北一輝の物語。タイトルは、北の唱えたクーデターによる憲法停止と戒厳令により国家維新の革命を起こすという思想に因む。
物語は大正10年の安田財閥の安田善次郎暗殺事件から始まり、テロを示唆して財閥から金を脅し取る北の人物像を中心に描かれる。
安田善次郎暗殺事件犯人を始め、北の書いた『日本改造法案大綱』に影響を受けた右翼・軍人たちが、クーデターへの北の参加を促すものの、北は時期尚早と実行には二の足を踏み、口先だけで責任を負おうとはしない。
血気にはやる青年たちは五・一五事件を起こし、続いて二・二六事件が起きるが、逃げて関与しなかった北は青年将校の理論的指導者として逮捕・処刑されるという皮肉な結果となる。
この青年たちをけしかけるだけで直接手を染めようとしない、書斎派で卑怯なたかり屋を三国連太郎が巧みに演じるが、作品的には北の人物像を描いた以上のものはない。
見どころは凝ったカメラワークにあって、接写から広角まで使った遠近感を強調した構図、煽りと俯瞰しかないカメラ移動など、このテロに傾斜する時代を浮かび上がらせてクール。吉田喜重の前衛的な映像美が楽しめる。 (評価:2.5)
公開:1973年7月7日
監督:吉田喜重 製作:岡田茉莉子、上野昂志、葛井欣士郎 脚本:別役実 撮影:長谷川元吉 美術:内藤昭 音楽:一柳慧
キネマ旬報:7位
二・二六事件によって死刑となった北一輝の物語。タイトルは、北の唱えたクーデターによる憲法停止と戒厳令により国家維新の革命を起こすという思想に因む。
物語は大正10年の安田財閥の安田善次郎暗殺事件から始まり、テロを示唆して財閥から金を脅し取る北の人物像を中心に描かれる。
安田善次郎暗殺事件犯人を始め、北の書いた『日本改造法案大綱』に影響を受けた右翼・軍人たちが、クーデターへの北の参加を促すものの、北は時期尚早と実行には二の足を踏み、口先だけで責任を負おうとはしない。
血気にはやる青年たちは五・一五事件を起こし、続いて二・二六事件が起きるが、逃げて関与しなかった北は青年将校の理論的指導者として逮捕・処刑されるという皮肉な結果となる。
この青年たちをけしかけるだけで直接手を染めようとしない、書斎派で卑怯なたかり屋を三国連太郎が巧みに演じるが、作品的には北の人物像を描いた以上のものはない。
見どころは凝ったカメラワークにあって、接写から広角まで使った遠近感を強調した構図、煽りと俯瞰しかないカメラ移動など、このテロに傾斜する時代を浮かび上がらせてクール。吉田喜重の前衛的な映像美が楽しめる。 (評価:2.5)
製作:松竹
公開:1973年08月04日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、宮崎晃、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 音楽:山本直純 美術:佐藤公信
キネマ旬報:9位
リリー初登場篇は浅丘ルリ子と渥美清の絶妙な掛け合い
シリーズ第11作。
マドンナは浅丘ルリ子で、いつも振られてばかりの寅次郎が初めてマドンナに惚れられる。それもあってファンには一番人気の高い作品で、浅丘が演じたドサ周りのキャバレー歌手リリーは、その後も3回登場している。
網走に向かう夜汽車で泣いているリリーを見かけた寅は、町で知り合った後、柴又で偶然再会する。不幸と哀愁を背負った浅丘の演技は素晴らしく、同じ悲哀に生きる泡沫同士ということで、その掛け合いの演技は抜群。とりわけ母と喧嘩し酔客に絡まれて酔って寅屋にやってやってきたリリーとそれを迎える寅のシーンは二人の演技の最大の見どころ。二人の演技だけなら★3。
ただいかんせん、リリーの役どころがネガティブで、本来の人情喜劇的な『男はつらいよ』らしさがなく、人生の辛さばかりを強調するプロレタリア文学好きな山田洋次に先祖返りしていて、個人的には良くできているとは思うが好きになれない。
山田は監督になった当初、シリアスな映画ばかり撮っていて人気が出なかった。その起死回生となったのが『男はつらいよ』で、根にシリアス志向を持つため、家族3部作や学校シリーズ以降で先祖返りしてしまった。『男はつらいよ』でその癖が前面に出てしまったのが本作。 (評価:2.5)
公開:1973年08月04日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、宮崎晃、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 音楽:山本直純 美術:佐藤公信
キネマ旬報:9位
シリーズ第11作。
マドンナは浅丘ルリ子で、いつも振られてばかりの寅次郎が初めてマドンナに惚れられる。それもあってファンには一番人気の高い作品で、浅丘が演じたドサ周りのキャバレー歌手リリーは、その後も3回登場している。
網走に向かう夜汽車で泣いているリリーを見かけた寅は、町で知り合った後、柴又で偶然再会する。不幸と哀愁を背負った浅丘の演技は素晴らしく、同じ悲哀に生きる泡沫同士ということで、その掛け合いの演技は抜群。とりわけ母と喧嘩し酔客に絡まれて酔って寅屋にやってやってきたリリーとそれを迎える寅のシーンは二人の演技の最大の見どころ。二人の演技だけなら★3。
ただいかんせん、リリーの役どころがネガティブで、本来の人情喜劇的な『男はつらいよ』らしさがなく、人生の辛さばかりを強調するプロレタリア文学好きな山田洋次に先祖返りしていて、個人的には良くできているとは思うが好きになれない。
山田は監督になった当初、シリアスな映画ばかり撮っていて人気が出なかった。その起死回生となったのが『男はつらいよ』で、根にシリアス志向を持つため、家族3部作や学校シリーズ以降で先祖返りしてしまった。『男はつらいよ』でその癖が前面に出てしまったのが本作。 (評価:2.5)
製作:東映京都
公開:1973年9月25日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 美術:雨森義允 音楽:津島利章
キネマ旬報:8位
ドキュメンタリータッチに乾いた感じで描かれる第一次広島抗争
「仁義なき戦い」シリーズの第3作。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
第1作の実質的な続編で、広島ヤクザが神戸の暴力団、明石組と神和会の代理戦争、広島抗争に巻き込まれていく過程を描く。明石組と神和会のモデルは山口組と本多会。
広島抗争では、広島の村岡組の跡目争いに呉の山守(金子信雄)がつけ込むが、村岡舎弟の内本(加藤武)が不満を持ち明石組に接近。山守は神和会をバックに付けての戦いとなる。村岡組と山守組のモデルは、岡組と山村組。
実際の抗争をベースにしているために、リアリティはあるが若干組同士の関係が複雑で、展開も早いために注意して見ていないと話がわからなくなるが、大枠はタイトル通りの代理戦争。広島ヤクザの思惑と利害関係が複雑に絡み合って、広域暴力団化していく過程が乾いた感じで描かれていく。
そうした点では、広能組草創期の第1作に比べると、よりドキュメンタリータッチになっていくが、並行して、不良の若者(渡瀬恒彦)が鉄砲玉となってやがて死んでいくドラマが描かれ、戦争で真っ先に失われる若者の命に対比させて、ヤクザの抗争の悲しさと虚しさを代弁させる。
川谷拓三、室田日出男のピラニア軍団も登場。明石組組長には貫録の丹波哲郎。梅宮辰夫、山城新伍、成田三樹夫、小林旭とこわもてが揃う。 (評価:2.5)
公開:1973年9月25日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 美術:雨森義允 音楽:津島利章
キネマ旬報:8位
「仁義なき戦い」シリーズの第3作。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
第1作の実質的な続編で、広島ヤクザが神戸の暴力団、明石組と神和会の代理戦争、広島抗争に巻き込まれていく過程を描く。明石組と神和会のモデルは山口組と本多会。
広島抗争では、広島の村岡組の跡目争いに呉の山守(金子信雄)がつけ込むが、村岡舎弟の内本(加藤武)が不満を持ち明石組に接近。山守は神和会をバックに付けての戦いとなる。村岡組と山守組のモデルは、岡組と山村組。
実際の抗争をベースにしているために、リアリティはあるが若干組同士の関係が複雑で、展開も早いために注意して見ていないと話がわからなくなるが、大枠はタイトル通りの代理戦争。広島ヤクザの思惑と利害関係が複雑に絡み合って、広域暴力団化していく過程が乾いた感じで描かれていく。
そうした点では、広能組草創期の第1作に比べると、よりドキュメンタリータッチになっていくが、並行して、不良の若者(渡瀬恒彦)が鉄砲玉となってやがて死んでいくドラマが描かれ、戦争で真っ先に失われる若者の命に対比させて、ヤクザの抗争の悲しさと虚しさを代弁させる。
川谷拓三、室田日出男のピラニア軍団も登場。明石組組長には貫録の丹波哲郎。梅宮辰夫、山城新伍、成田三樹夫、小林旭とこわもてが揃う。 (評価:2.5)
製作:日活
公開:1973年08月11日
監督:山本薩夫 脚本:武田敦、山田信夫 撮影:姫田真佐久 音楽:佐藤勝 美術:横尾嘉良
キネマ旬報:10位
ソ連軍協力のノモンハン戦闘シーンは三部作最大の見所
昭和初期の中国侵略を描いた五味川純平の同名小説が原作。映画三部作の三。
第三部は昭和12年からの日中戦争を描き、上海事変、南京事件、徐州攻略、14年のノモンハン事件の第二次世界大戦開戦前夜まで。日本の中国侵略が本格化し、戦争が中心となるため第二部のメロドラマは後方に退く。ドラマ的に中心に描かれるのは伍代家次男(北大路欣也)で、兵役を猶予されるも反軍的思想から徴兵されノモンハンの戦線に向かう。ここで出会うのが長女(浅丘ルリ子)の元恋人の将校(高橋英樹)で、映画の後半はノモンハンでの戦闘が中心となる。
この戦闘シーンはソ連モスフィルムとソ連軍の協力で撮影され、三部作で最大の見どころ。主に戦車を中心とした陸戦が広大なロシアの荒野に展開する。描写的には甘いところがあって、戦闘が終了しているのに無駄撃ちの砲撃が繰り返され、映像的効果とはいえリアリティに欠ける。
次男の親友の左翼活動家(山本圭)は召集されて伍代家二女(吉永小百合)と結婚。中国戦線で中国人を殺す葛藤の中で負傷して戦線離脱、共産軍の仲間になる。
中国戦線の描写は全体に左翼偏向している本作の中でも際立っていて、南京虐殺30万人説の立場で、農村に進軍した日本軍が女子供を含めて中国民衆を強姦・皆殺しにするシーンを執拗に描き、あたかも日本軍すべてが残虐な戦争犯罪行為をしていたような印象を与えている。
映画は毛沢東思想が世界を席巻していた時期で、日本でも中国共産党の正当性や歴史認識を無批判に受け入れた報道や映画・評論が主流だった。本作もその典型で、偏った立場から一面的に描かれていることに注意が必要。
日活が起死回生を図った大作だったが、製作費が続かずに三部作で打ち切られたのは、思想性は別にしても残念だった。 (評価:2.5)
公開:1973年08月11日
監督:山本薩夫 脚本:武田敦、山田信夫 撮影:姫田真佐久 音楽:佐藤勝 美術:横尾嘉良
キネマ旬報:10位
昭和初期の中国侵略を描いた五味川純平の同名小説が原作。映画三部作の三。
第三部は昭和12年からの日中戦争を描き、上海事変、南京事件、徐州攻略、14年のノモンハン事件の第二次世界大戦開戦前夜まで。日本の中国侵略が本格化し、戦争が中心となるため第二部のメロドラマは後方に退く。ドラマ的に中心に描かれるのは伍代家次男(北大路欣也)で、兵役を猶予されるも反軍的思想から徴兵されノモンハンの戦線に向かう。ここで出会うのが長女(浅丘ルリ子)の元恋人の将校(高橋英樹)で、映画の後半はノモンハンでの戦闘が中心となる。
この戦闘シーンはソ連モスフィルムとソ連軍の協力で撮影され、三部作で最大の見どころ。主に戦車を中心とした陸戦が広大なロシアの荒野に展開する。描写的には甘いところがあって、戦闘が終了しているのに無駄撃ちの砲撃が繰り返され、映像的効果とはいえリアリティに欠ける。
次男の親友の左翼活動家(山本圭)は召集されて伍代家二女(吉永小百合)と結婚。中国戦線で中国人を殺す葛藤の中で負傷して戦線離脱、共産軍の仲間になる。
中国戦線の描写は全体に左翼偏向している本作の中でも際立っていて、南京虐殺30万人説の立場で、農村に進軍した日本軍が女子供を含めて中国民衆を強姦・皆殺しにするシーンを執拗に描き、あたかも日本軍すべてが残虐な戦争犯罪行為をしていたような印象を与えている。
映画は毛沢東思想が世界を席巻していた時期で、日本でも中国共産党の正当性や歴史認識を無批判に受け入れた報道や映画・評論が主流だった。本作もその典型で、偏った立場から一面的に描かれていることに注意が必要。
日活が起死回生を図った大作だったが、製作費が続かずに三部作で打ち切られたのは、思想性は別にしても残念だった。 (評価:2.5)
しなの川
公開:1973年11月3日
監督:野村芳太郎 製作:樋口清 脚本:ジェームス三木、野村芳太郎 撮影:川又昂 美術:重田重盛 音楽:富田勲
岡崎英生、上村一夫の同名漫画が原作。
新潟県十日町の染物屋の一人娘・雪絵(由美かおる)が、駆け落ちした男好きの母(岩崎加根子)の血を引いて、男たちを狂わせるという物語で、最初に狂わせられた丁稚・竜吉(仲雅美)の視点で物語は進むが、主人公は雪絵。
雪絵が次に狂わせるのは女学校の教師・沖島(岡田裕介)で、駆け落ちして体を結んだ途端に飽きて捨ててしまうという魔性ぶり。
魔性の原点を知るために佐渡に住む母を探し当て、男を泣かすのを目の当たりにするが、実は男に走った原因は父がホモだったためで、自分は間男との子ということを知り、急に母に同情。
ホモの父にも同情して、性の多様性を尊重することこそが個人の生き方の尊厳という結論に至る、半世紀前にして今の時代を先取りする先進的テーマの作品。
もっとも母も娘も多情であるのは間違いなく、2人とも急に聖女のようになってしまって、魔性の女はどうしちゃったんだという、魔性の女好きには不満なエンディングとなっている。
ストーリーは上村一夫テイストのセンチメンタルな男と女の哀しい性が四畳半的情感を誘うのだが、映像的には野村芳太郎の日本の情緒と旅愁がサスペンスタッチのテンポの良い演出・編集と相まって松本清張の物語を予感させてしまい、事件も殺人も起こらないので若干面食らってしまう。
文芸作品に挑戦したものの根っからのエンタテイメント精神は抜けず、由美かおるのこれでもかというくらいの全身ヌードがオマケ的見所。 (評価:2.5)
恋人たちは濡れた
公開:1973年3月24日
監督:神代辰巳 脚本:神代辰巳、鴨田好史 撮影:姫田真佐久 美術:坂口武玄 音楽:大江徹
公開時のプレス資料によれば、5年ぶりに千葉県にある海沿いの故郷に帰ってきた青年が、ドス黒い過去を背負って生きる望みを失い、友情も母との思い出も捨てたということで、街のピンク映画館でアルバイトを始める。
町の若者たちはかつての仲間・克だと言うが、青年(大江徹)は別人だと言って拒否。連れられてきた母さえも他人だと言い張る。そこに青年の5年間の暗い過去があり、別人に成りすます必要があるらしいが、それは10万円で殺人を請け負い、そのために刺客がやってきて殺されるというラストシーン以外には語られない。
おそらくは東京でチンピラとなってヤクザ同士の抗争に利用され、正体を消して故郷に逃げてきたというもので、同級生だった光夫(堀弘一)と出会い、その女友達・洋子(中川梨絵)との間に恋が芽生えるものの、刺客に殺されてしまうというシナリオだったのだろうが、神代はそこから物語性を奪い去り、自己喪失した青年を、帰るべき故郷にも未来にも行き場を失った70年代の若者たちの姿に変えてしまった。
その喪失感、閉塞感、虚無感は半端ではなく、青年は故郷においても喪失した自己を確認できることができず、やみくもに女を犯す内向きなセックスと、堂々巡りの馬跳びの閉塞から抜け出して、新たに漂流を続けようとするが、自己破滅ともいえる刺客の登場で終わりを告げる。
神代が描く若者の喪失感や閉塞感といったものは70年代に限らず、戦争の時代にも、現代にもあり続けているが、未来への希望の持てない現代に対して、自分は何者なのか、どこに向かおうとしているのかといった70年代的な精神の葛藤として、神代は時代の空気を巧みに描き出している。
セックスシーンは戦中の検閲を思わせる黒塗りで局部を隠すのが神代らしいが、権力に対する抵抗の表現そのものに閉塞感があるのが虚しい。
絵沢萠子、薊千露らを起用したセックス描写も土俗的で、ポルノ映画としての官能度が今一つなのも神代らしい。 (評価:2.5)
日本沈没
公開:1973年12月29日
監督:森谷司郎 製作:田中友幸、田中収 脚本:橋本忍 撮影:村井博、木村大作 美術:村木与四郎 特技監督:中野昭慶 音楽:佐藤勝
小松左京の同名小説が原作。
当時最新だったプレートテクトニクス理論を基に作られたSF作品で、劇中当該理論を首相(丹波哲郎)に説明するシーンで、地球物理学者の竹内均が出演している。
マントル対流の速度が早まり、地殻変動によって日本列島が海の中に呑み込まれてしまうという荒唐無稽な物語だが、アイディアが面白くて原作ともども話題になった娯楽大作。
見どころは地震や津波、噴火に日本列島が襲われる特撮シーンで、ちょっとしたパニック映画になっている。一部海底火山噴火等の記録映像が使われているが、ミニチュアセットや実写との合成等が多数使われていて、特撮ファンには贅沢な作品。
地震のシーンはカメラの揺れで撮影されているが、一部テーブルの上のものが動かないのが気になる。
リアリティを求めない作品だが、地殻変動を主に地震と噴火だけで表現しているのが安易で、地盤沈下や崖崩れ等の生活感覚が欲しかった。
終盤のテーマは日本とは何か? 民族とは何か? だが、あまり掘り下げられているとは言い難く、潜水艇操縦士(藤岡弘)と資産家令嬢(いしだあゆみ)の恋愛話でドラマ性を入れるも中途半端。
観終わって特撮以外に感想が残らないのが残念な作品だが、中国やソ連など世界が善良だと信じられた平和ボケの頃と、日本が経済で沈没するとは思いもしなかった良き時代の、そこはかとないノスタルジーを感じることができる。
主人公の田所博士に小林桂樹。日本列島とともに滅びの道を選ぶが、理由が明かされないのが残念。 (評価:2)
男はつらいよ 私の寅さん
公開:1973年12月26日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
寅さんシリーズの第12作。マドンナは岸恵子で画家。
シリーズで最も興行成績が良かったが、出来は今ひとつ。凡作だが、マドンナに寅が自分に惚れているのを知っていて振らせるというイレギュラーな設定が、本作の特色。
マドンナは、結婚はできないけどお友達でいましょうねという、恋愛では一番残酷な台詞を吐いた挙句、その言葉を聞いて旅立ってしまった寅に、なんで友達でいてくれないのかしらと、これまた無神経な台詞を吐き、岸恵子にマドンナとして最低女を演じさせている。
さくらの顔を覚えていた寅の幼馴染(前田武彦)がひょっこり寅屋を訪れ、意気投合した挙句、妹(岸恵子)が一人住まいの実家に行く。
子供の時以来の再会で、幼かったさくらの顔を覚えているというあたりからすでに不自然な設定で、アトリエで大喧嘩した寅が訪ねてきた岸に掌を返したように鼻の下を長くするというのも不自然。渥美清の演技でどうにか誤魔化しているものの、その後の展開を含めて不出来なシナリオになっている。
冒頭、寅ではなく、寅屋の面々が九州旅行に行くという通常とは逆バージョンの設定になっていて、マドンナとの失恋を含めマンネリを打ち破ろうとする意図は窺えるが、成功していない。 (評価:2)
製作:芸苑社
公開:1973年1月15日
監督:豊田四郎 製作:佐藤一郎、市川喜一 脚本:松山善三 撮影:岡崎宏三 美術:小島基司 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:5位
嫁の視点で描かれた、嫁にとっての介護問題
有吉佐和子の同名小説が原作。認知症の老人を扱ったことでベストセラーとなり、タイトルは流行語にまでなった。
40年経って見ると、森繁久彌の演じる老人にあまりにリアリティがなさすぎ、意図して深刻にならないようにコメディ仕立てにしたのかと深読みしてしまう。
もちろん映画はコメディではなくシリアス作品として作られているのだが、40年前はこれほどまでに認知症に対して無理解だったのかと再認識させられる。近作の『愛・アムール』『ペコロスの母に会いに行く』と比較すれば、如何に想像だけで作劇された認知症ドラマであるかがわかる。
認知症を幼児への回帰と勘違いし、森繁もまた幼児化した老人を演じる。その中でも高峰秀子が、介護に疲れる嫁を好演。無理解な夫と保守的な家庭像を田村高廣が演じて、40年前の介護と老人問題に対する日本社会の実像が窺えるのが、本作の唯一の見どころとなっている。そうしたことからも本作が嫁の視点で描かれた、嫁にとっての介護問題であることがわかる。
ラストで亡くなった森繁を偲んで高峰が涙を流すが、その翌日には晴れ晴れとするのが実像であり、ウェットなヒューマン・ドラマに仕上げようとするところに、実は本作が介護問題を扱った映画でないことを露呈している。
留守番に離れに住む全共闘カップル(篠ヒロコ、伊藤高)が、これまた新人類というだけで少しも左翼っぽく見えないところに、本作の記号化された戯画性が見える。 (評価:2)
公開:1973年1月15日
監督:豊田四郎 製作:佐藤一郎、市川喜一 脚本:松山善三 撮影:岡崎宏三 美術:小島基司 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:5位
有吉佐和子の同名小説が原作。認知症の老人を扱ったことでベストセラーとなり、タイトルは流行語にまでなった。
40年経って見ると、森繁久彌の演じる老人にあまりにリアリティがなさすぎ、意図して深刻にならないようにコメディ仕立てにしたのかと深読みしてしまう。
もちろん映画はコメディではなくシリアス作品として作られているのだが、40年前はこれほどまでに認知症に対して無理解だったのかと再認識させられる。近作の『愛・アムール』『ペコロスの母に会いに行く』と比較すれば、如何に想像だけで作劇された認知症ドラマであるかがわかる。
認知症を幼児への回帰と勘違いし、森繁もまた幼児化した老人を演じる。その中でも高峰秀子が、介護に疲れる嫁を好演。無理解な夫と保守的な家庭像を田村高廣が演じて、40年前の介護と老人問題に対する日本社会の実像が窺えるのが、本作の唯一の見どころとなっている。そうしたことからも本作が嫁の視点で描かれた、嫁にとっての介護問題であることがわかる。
ラストで亡くなった森繁を偲んで高峰が涙を流すが、その翌日には晴れ晴れとするのが実像であり、ウェットなヒューマン・ドラマに仕上げようとするところに、実は本作が介護問題を扱った映画でないことを露呈している。
留守番に離れに住む全共闘カップル(篠ヒロコ、伊藤高)が、これまた新人類というだけで少しも左翼っぽく見えないところに、本作の記号化された戯画性が見える。 (評価:2)
日本妖怪伝 サトリ
公開:1973年9月29日
監督:東陽一 製作:高木隆太郎、重松良周、脚本:東陽一、前田勝弘 撮影:田村正毅 美術:下河原香雄、手塚研一
東陽一の初期作品。
森の中で独りぼっちの樵の前に現われ、思うことを次々に言い当て、思うことがなくなると食べてしまうという妖怪を題材に、都会人の孤独を描く。もっとも観念が先走りして、様々なメタファーらしきものを織り込んではいるが整理がつかず、結局何が描きたかったのか空中分解したままでよくわからない。
主人公のあや(緑魔子)は、どうやら恋人を次々にサトリ(山谷初男)に食べられてしまったらしく、痴漢に襲われても許してしまうという空虚な日々を送っている。あやが孤独だから恋人が狙われたのか、あるいはあや自身が孤独を呼び寄せるのか、サトリを友にしている。
あやに新たな恋人・太郎(河原崎次郎)が現れるが、端から空虚男で、二人は生きる目的を探して旅を続け、やがて文無しになるとあやが欲しいという赤い靴を買うために東京に戻って物乞いする。
あやの精神科医(佐藤慶)と病院の患者たち、理想国家造りのために募金活動をしている二人の青年、第二のサトリの存在、サトリを利用しようとする芸能プロダクション社長(渡辺文雄)など道具立ては豊富だが、どれもジグソーパズルのキーになるピースでありながら、パーツが足りな過ぎて繋がらず、絵にならないのが残念なところ。
太郎が花屋の女店員にメモを渡し、カーネーションと一緒に何やら書き込んだメモを返す諜報員ごっこをするが、あれはいったい何だったのか?
焚火の栃の実が弾けてサトリの目を潰すように人間は思わぬことをすると言って、今度は募金の羽根の針で残りの目を潰すが、これも何か意味があるか?
最後は太郎の子を宿したあやがステーキ肉を買って頑張ろう! で終わるが、肝腎のサトリの意味が最後まで分からない。
見どころは、モーツァルトの『レクイエム』をバックにした冒頭の東京夜景の空撮。 (評価:2)
十六歳の戦争
公開:1976年8月19日
監督:松本俊夫 製作:山口卓治 脚本:山田正弘、松本俊夫 撮影:押切隆世 美術:大谷和正 音楽:下田逸郎
公開時の記憶には、秋吉久美子の初主演映画と全裸シーンのことしかなかったが、43年ぶりに再見したら秋吉久美子の幽霊の話だった。
舞台は愛知県豊川。戦前海軍工廠があり、1945年8月7日の空襲で約2500名が犠牲となっている。この時、女子挺身隊の一人、16歳のみずえ(秋吉久美子)が赤ん坊を残して死に、友人の保子(瑳峨三智子)がその子を三歳まで育てる。
物語は孤児として育った青年・有永甚(下田逸郎)がヒッチハイクで豊川にやってきて、あずな(秋吉久美子の2役)と出会い、スピリチュアルなインスピレーションからあずなの家に投宿。初めはあずなの母・保子が甚の母、すなわちあずなとは異父兄で、戦争で精神を病んだ伯父(ケーシー高峰)が実は母の先夫で甚の父ではないかとあずなは考える。そのため甚を捨てた保子に反発し自殺まで考える。
甚も保子を母だと思うようになり、みずえに憑依したあずなから真実を知るというのが大まかな物語。もっとも終盤は幻想的になり、あずなそのものがみずえの幽霊だったのか、はたまたすべては甚の白昼夢だったのかという終わり方になっている。
あずなの家の食事に招待されて、いきなりエスカルゴとワインというのに思わず失笑するが、これも幻想ないしは白昼夢だからこそか。
シナリオ的には完成度が今一つで、新人の秋吉はともかく下田逸郎の演技が下手すぎて映画にならない。さらに下田逸郎の音楽が青春過ぎて、悲惨な戦争モノには全くマッチしてなく、エンドマークの後のホワイト画面で2コーラス延々と歌い続ける意味が分からない。
秋吉久美子の可愛らしさ演出も今一つで、ヌードも思いっきりはいいがそれほどでもない。 (評価:2)
エロスは甘き香り
公開:1973年3月24日
監督:藤田敏八 脚本:大和屋竺 撮影:萩原憲治 音楽:樋口康雄 美術:徳田博
桃井かおり主演の日活ロマンポルノ作品で、監督は藤田敏八。通常のロマンポルノを期待すると違うかもしれない。
個人的にはロマンポルノにはやはり性愛をテーマに描いてほしく、ポルノシーンさえあればテーマは何でもよいとは考えない。当時、監督にしても観客にしても往々にして勘違いしていたのは、ポルノに名を借りて政治や社会派の映画が製作され、それが前衛だと持て囃されたこと。ポルノは、ポルノを観に来る観客を満足させることが第一義で、その延長に派生する深遠を描くのが本来の在り方。真に優れたポルノ作品は、性愛を人間の原点に据え、男女の業や性(さが)を描くのに成功している。
本作の主人公は高橋長英で、売れないカメラマン。桃井の暮らす米軍ハウスに転がり込む。米軍ハウスは横田や立川の基地外に進駐軍用に建てられた民間貸家。さらに漫画家志望の谷本一、ホステスの伊佐山ひろ子が同居して奇妙な男女4人の共同生活が始まる。
セックスシーンのお膳立ては整って、あとは藤田の好きなように映画が作られるが、要は閉塞した若者4人の鬱屈した青春が描かれるわけで、ポルノ映画として少しも楽しくない。せいぜいが桃井の裸と喘ぎ声くらいが見どころで、しかし桃井も伊佐山も気だるさが売りの女優で、人気ポルノ女優のような色気もセックスアピールもない。つまりポルノ映画として肝腎のものがない。
青春映画としてみた場合は、閉塞する4人がそれぞれの殻を破り、4人の間の壁を取り払うことになるが、それはフリーセックスによってもたらされる。そうして閉塞を打破できたのかどうかは疑問が残るが、取り敢えずは一歩前進。高橋が憧れるバーのママ、川村真樹が山谷初男とデートしているのを見て逃げ出すところで終わるが、このラストは意味不明。高橋の自立を意味しているのか?
ポルノと青春の間の壁を越えられない中途半端なロマンポルノ映画。 (評価:2)
パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻
公開:1973年03月17日
演出:高畑勲 製作:稲田伸生 脚本:宮崎駿 作画監督:大塚康生、小田部羊一 音楽:佐藤允彦 美術:小林七郎
東宝チャンピオンまつりの併映作品で、39分の小品。宮崎駿原案・脚本・画面設定(演出は高畑勲)でファンには評価の高い作品だが、幼児向きに作られているためにストーリーは平板で退屈。アニメーションというよりはキャラクターの動きで見せるカートゥーンに近い。
ただカートゥーンとしてはディズニーのコミカルさはなく、パンダの可愛らしさだけで見せているが、バンク(使い回し)が多いこともあって動きが単調で飽きる。
前年の秋、上野動物園にカンカン、ランランがやってきて、パンダブームに便乗して作られた前作の続編。この時、宮崎の長男・吾朗は5歳で、自分の子供が喜ぶようにパンダが主役の動物アニメを作ったと思われる。つまり、本作は5歳の時に観るべき作品で、幼児に見せるには健全で楽しい。
『雨ふりサーカス』はミミ子の家にサーカスの子トラが迷い込む。大雨が降って洪水が起きてサーカスの動物を助けて、という話。
ジブリアニメを見慣れた目からは、かなり動きに乏しいが、昔はこの程度だったという妙にほのぼのとした安心感と温もり、懐かしさがある。 (評価:2)
現代任侠史
公開:1973年10月27日
監督:石井輝男 脚本:橋本忍 撮影:古谷伸 美術:鈴木孝俊 音楽:木下忠司
のっけから、パンナム機のタラップを降りる健さん(高倉健)が着流し姿の上に、スチュワーデスから日本刀を受け取るというジャポニズムに、思わずのけぞる。
説明によれば、健さんはペリリュー島で戦死したヤクザだった父親の形見の刀を持ち帰ったということで、当時は畿内持ち込み荷物の規制も緩く、刃物類は機内に預けることができたので、それを踏んだ表現なのだろうが、日本刀を持ち込めたのかどうかはわからない。
シーンは変わって国内線で関西ヤクザ(内田朝雄、安藤昇)が上京。旧羽田空港ターミナルを人相の悪い連中が風を切って出てくるのが恐れ入る。当時は空港ビルもヤクザ映画の撮影に協力的だったのだろうか。
所変わって京王プラザホテルの大会議室。ノミ屋を生業とする全国ヤクザが統一組織を立ち上げ、胴元の資金力を強化し、安定したノミ屋を目指そうという、これまた噴飯な相談。関西ヤクザが東京の弱小ノミ屋をM&Aして市場の独占を図る魂胆で、その片棒を担ぐのが東京の現実主義ヤクザの小池朝雄。当然気骨ある江戸っ子ヤクザが異を唱え、抗争に発展するという流れ。
健さんの亡父はこの気骨ある江戸っ子ヤクザの組長で、健さんは遺言により弟分(郷えい治)に地位を譲って堅気となり、銀座の寿司屋の大将に収まっているというから微笑ましい。
しかし、抗争激化で弟分の組長始め組の幹部(成田三樹夫、夏八木勲)が相次いで討ち死に。最後は仇討ちせねば男が廃るとばかり、ペリリュー島から持ち帰った刀を手に、関西の組長たちの後ろ盾となっている政界の黒幕(辰巳柳太郎)の屋敷に斬り込み、任侠にあらざる関西ヤクザと黒幕を滅多切り。健さんも弾とヤッパで討ち死にし、ストップモーションで終わる。
本作の目玉の一つは、健さんの恋人役の梶芽衣子。女囚さそりでも修羅雪姫でもない、美人週刊誌記者のお嬢さんというのが肩透かし。
二人のラブストーリーはノミ屋の抗争とは交わらないので、なくてもいい。随所に無理があるというか任侠ラブコメのようで、誰のシナリオかとエンドクレジットを眺めると何と橋本忍だったという珍作。
寿司職人の田中邦衛が寿司を握るのに、大将の健さんが寿司を握るシーンがないのも寂しい。 (評価:1.5)
ゴジラ対メガロ
公開:1973年03月17日
監督:福田純 製作:田中友幸 脚本:福田純、関沢新一 撮影:逢沢譲 音楽:真鍋理一郎 美術:本多好文
ゴジラ第13作。東宝チャンピオンまつりで公開。
冒頭はアリューシャン列島の水爆実験で、1作目の原点回帰か? と思わせる。しかし、その影響で南海の怪獣島に異変が起き、日本のどこかの湖が地割れで水がなくなってしまったという段になると、もう無茶苦茶。怒ったレムリア大陸とともに沈んだ海底人が地上人に戦いを挑み、彼らの神獣カブトムシ型メガロを繰り出して、地上人が開発したロボットを水先案内人として奪うと、開発者の若者がそれを取り戻してゴジラを呼びにやり、海底人は昔からの友達だったM宇宙ハンター星から前作登場のガイガンを応援に呼ぶ。
前半はカーチェイスや、メガロがダムを破壊する特撮シーンなど飽きさせないが、怪獣同士の戦いが始まるところまでくると完全にお子様路線踏襲で、メガロ・ガイガン組対ゴジラ・ロボット組のプロレスの試合となり、実際怪獣の操演もプロレス選手を真似したポーズと技の応酬となる。ゴジラの飛び蹴りが飛び出すに至っては、もう怪獣映画ではない。
ウルトラマンや仮面ライダー、特撮ヒーローものといったTVの影響を受けているが、ウルトラマンだって3分間しか戦わないし、他のヒーローも30分ドラマでは最後の見せ場は5分程度。それをTVサイズの格闘で30分も延々と見せられると欠伸が堪え切れない。映画とTVの違いもわからずにこんな退屈な演出をする監督なのか、それともプロデューサーの意向なのか、ゴジラシリーズの悲しい黄昏をダメ押しする。 (評価:1.5)