日本映画レビュー──1971年
製作:日活
公開:1971年08月25日
監督:藤田敏八 脚本:藤田敏八、峰尾基三、大和屋竺 撮影:萩原憲治 音楽:むつ・ひろし 美術:千葉和彦
キネマ旬報:10位
終らない夏を描く青春映画の佳作
70年安保後の挫折感と閉塞感を描く青春映画。しかし、この映画に登場する若者たちの鬱屈はいつの時代にも共通で、普遍性のある佳作となっている。大人たちに向けられるはずの牙が、結局のところ自己を傷つけてしまうという青春のアイロニーと悲しみとが全編を貫く。不良役の村野武範とナイーブな青年を演じる広瀬昌助がいい。地井武男、山谷初男、原田芳雄、渡辺文雄のプログラム・ピクチャーならではの肩の力の抜けた演技もいい。
この映画のラストはなんともやるせない。傷つき傷つけ合い、目指す先もなく漂流する青春を、大海原に漂うヨットに仮託する。そして、ねっとりとした夏の残照のように俯瞰する石川セリの気だるい歌が流れる。時代性もあって、若干女性に対して差別的な作品になっている。 (評価:3.5)

公開:1971年08月25日
監督:藤田敏八 脚本:藤田敏八、峰尾基三、大和屋竺 撮影:萩原憲治 音楽:むつ・ひろし 美術:千葉和彦
キネマ旬報:10位
70年安保後の挫折感と閉塞感を描く青春映画。しかし、この映画に登場する若者たちの鬱屈はいつの時代にも共通で、普遍性のある佳作となっている。大人たちに向けられるはずの牙が、結局のところ自己を傷つけてしまうという青春のアイロニーと悲しみとが全編を貫く。不良役の村野武範とナイーブな青年を演じる広瀬昌助がいい。地井武男、山谷初男、原田芳雄、渡辺文雄のプログラム・ピクチャーならではの肩の力の抜けた演技もいい。
この映画のラストはなんともやるせない。傷つき傷つけ合い、目指す先もなく漂流する青春を、大海原に漂うヨットに仮託する。そして、ねっとりとした夏の残照のように俯瞰する石川セリの気だるい歌が流れる。時代性もあって、若干女性に対して差別的な作品になっている。 (評価:3.5)

製作:東宝・俳優座
公開:1971年9月11日
監督:小林正樹 製作:佐藤正之、岸本吟一、椎野英之 脚本:隆巴 撮影:岡崎宏三 音楽:武満徹 美術:水谷浩
キネマ旬報:5位
邦画全盛期の芸達者・個性派が競う高水準の本格時代劇
山本周五郎の時代小説『深川安楽亭』が原作。
江戸・深川の川中島、南蛮船が運んできた禁制品を二階に隠し、与力の黙認のもと、御用商人を通じて大名に納めるというのが、居酒屋・安楽亭の裏稼業。島はいわば治外法権で、町家を繋ぐ木橋は町奉行といえども渡ることができない。安楽亭のゴロツキは地獄に生きるしかない無頼ども。
そこに、恋人(酒井和歌子)を遊女に売られ自暴自棄になった商家の奉公人(山本圭)がやってきて、ゴロツキどもが男の「命棒に振っても娘のためなら」という心意気にほだされて、身請けの金を作ってやるために罠と疑いつつも、男のために「命棒に振っても」と禁制品の運搬を引き受ける。
人に情けなどかけたことのない連中が、無償の行為をすることによって地獄から抜け出すという物語で、小林正樹の秀逸な演出と映像が冴える。
これを支えるのが、当時若手、今から見れば豪華俳優陣で、仲代達矢、勝新太郎、3代目中村翫右衛門、佐藤慶、岸田森、山谷初男、草野大悟、神山繁らの芸達者・個性派が演技を競う。中でも仲代、勝、翫右衛門の演技は抜群で、それを見るだけでも価値がある。
俳優座の栗原小巻が安楽亭の娘役で出ているが、地獄に花というにはややイメージが合わないのが難。
相模川のオープンセットでの撮影で、古典演劇を観る趣きがあって、日本映画全盛期を知る邦画ファンには堪えられない本格時代劇映画。
脚本は仲代の妻、隆巴(宮崎恭子)、音楽は武満徹。 (評価:3)

公開:1971年9月11日
監督:小林正樹 製作:佐藤正之、岸本吟一、椎野英之 脚本:隆巴 撮影:岡崎宏三 音楽:武満徹 美術:水谷浩
キネマ旬報:5位
山本周五郎の時代小説『深川安楽亭』が原作。
江戸・深川の川中島、南蛮船が運んできた禁制品を二階に隠し、与力の黙認のもと、御用商人を通じて大名に納めるというのが、居酒屋・安楽亭の裏稼業。島はいわば治外法権で、町家を繋ぐ木橋は町奉行といえども渡ることができない。安楽亭のゴロツキは地獄に生きるしかない無頼ども。
そこに、恋人(酒井和歌子)を遊女に売られ自暴自棄になった商家の奉公人(山本圭)がやってきて、ゴロツキどもが男の「命棒に振っても娘のためなら」という心意気にほだされて、身請けの金を作ってやるために罠と疑いつつも、男のために「命棒に振っても」と禁制品の運搬を引き受ける。
人に情けなどかけたことのない連中が、無償の行為をすることによって地獄から抜け出すという物語で、小林正樹の秀逸な演出と映像が冴える。
これを支えるのが、当時若手、今から見れば豪華俳優陣で、仲代達矢、勝新太郎、3代目中村翫右衛門、佐藤慶、岸田森、山谷初男、草野大悟、神山繁らの芸達者・個性派が演技を競う。中でも仲代、勝、翫右衛門の演技は抜群で、それを見るだけでも価値がある。
俳優座の栗原小巻が安楽亭の娘役で出ているが、地獄に花というにはややイメージが合わないのが難。
相模川のオープンセットでの撮影で、古典演劇を観る趣きがあって、日本映画全盛期を知る邦画ファンには堪えられない本格時代劇映画。
脚本は仲代の妻、隆巴(宮崎恭子)、音楽は武満徹。 (評価:3)

製作:日活
公開:1971年06月12日
監督:山本薩夫 脚本:武田敦、山田信夫 撮影:姫田真佐久 音楽:佐藤勝 美術:横尾嘉良、深民浩
キネマ旬報:4位
人形と鉄道模型も空を舞う反戦メロドラマ
昭和初期の中国侵略を描いた五味川純平の同名小説が原作。映画三部作の二。
第二部は昭和7年の満州事変から始まり、12年盧溝橋事件の支那事変(日中戦争)まで。前作同様、満州支配と利権拡大を進める財閥・伍代家を中心にした物語で、731部隊や抗日パルチザン、西安事件、国共合作、日本国内では226事件も描かれるが、基本は伍代家の長女(浅丘ルリ子)、次男(北大路欣也)、二女(吉永小百合)のメロドラマ。
長女の恋人(高橋英樹)は関東軍特務機関将校、次男は人妻(佐久間良子)との不倫、二女は左翼活動家(山本圭)との獄中愛と、反戦映画にありがちな設定で、公開当時はあまり疑問を持たなかったが、40年以上経つと、特権階級とエリートとインテリ、社会運動家しか登場しない特殊な人物ばかりの設定に辟易する。
当時の反戦映画の主流はイデオロギー優先で、一般大衆や農民が出てこない。プロレタリア的でありながら実際は一般民衆の立場からは程遠く、本作もその好例。
列車爆破や戦闘シーンには鉄道模型やジオラマを使った特撮もあるが、東宝=円谷のような経験値がないためにややお粗末。人形が空中を舞うシーンなど、もう少し工夫がほしい。
伍代家だけでなく朝鮮人パルチザン(地井武男)のメロドラマもあって、史劇としては物足りない。軍部と民間人も良い人・悪い人の二分法では、戦争の本質は描けない。 (評価:2.5)

公開:1971年06月12日
監督:山本薩夫 脚本:武田敦、山田信夫 撮影:姫田真佐久 音楽:佐藤勝 美術:横尾嘉良、深民浩
キネマ旬報:4位
昭和初期の中国侵略を描いた五味川純平の同名小説が原作。映画三部作の二。
第二部は昭和7年の満州事変から始まり、12年盧溝橋事件の支那事変(日中戦争)まで。前作同様、満州支配と利権拡大を進める財閥・伍代家を中心にした物語で、731部隊や抗日パルチザン、西安事件、国共合作、日本国内では226事件も描かれるが、基本は伍代家の長女(浅丘ルリ子)、次男(北大路欣也)、二女(吉永小百合)のメロドラマ。
長女の恋人(高橋英樹)は関東軍特務機関将校、次男は人妻(佐久間良子)との不倫、二女は左翼活動家(山本圭)との獄中愛と、反戦映画にありがちな設定で、公開当時はあまり疑問を持たなかったが、40年以上経つと、特権階級とエリートとインテリ、社会運動家しか登場しない特殊な人物ばかりの設定に辟易する。
当時の反戦映画の主流はイデオロギー優先で、一般大衆や農民が出てこない。プロレタリア的でありながら実際は一般民衆の立場からは程遠く、本作もその好例。
列車爆破や戦闘シーンには鉄道模型やジオラマを使った特撮もあるが、東宝=円谷のような経験値がないためにややお粗末。人形が空中を舞うシーンなど、もう少し工夫がほしい。
伍代家だけでなく朝鮮人パルチザン(地井武男)のメロドラマもあって、史劇としては物足りない。軍部と民間人も良い人・悪い人の二分法では、戦争の本質は描けない。 (評価:2.5)

製作:松竹
公開:1971年12月29日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
キネマ旬報:8位
放浪する寅次郎になぜ憧れるかを示した作品
寅さんシリーズの第8作。マドンナは池内淳子で喫茶店主。
これまでプログラム・ピクチャーとして90分前後で作られてきた『男はつらいよ』シリーズが、初めて100分を超え、以降、正月と夏の年2回公開になった。
放浪がテーマで、博の父・飈一郎から平凡な生活にこそ幸せがあると教えられた寅次郎が身を固めようと柴又に帰ってきて、子持ち未亡人(池内淳子)に一目惚れ。ところが、金に苦しむ池内に心でしか支えてやれない自分に気づき、無力を悟って旅に出てしまう。自らの限界から恋を諦めるという、いつもの失恋とは違った、空しく悲しい物語。
池内がすべてを放り出して寅次郎のように旅に出てみたいと打ち明けるシーンが見せ場で、子供のいる池内にそれが叶うわけもなく、平凡で幸せそうに見える生活に人は束縛されているという逆説を示す。
それからすれば放浪する寅次郎は自由人で、平凡な生活を送っている多くの観客にとって憧れであり、それが寅さんシリーズが人気となった理由でもあり、シリーズの本質を示した作品となっている。
平凡な生活にこそ幸せがあると教える飈一郎も決して幸せそうには描かれず、寅屋の面々を含めて誰もが寅次郎の生き方に憧憬を持ち、だからこそ寅次郎の存在が気になり、寅次郎は誰からも気に掛けられる存在となっている。
博の母の葬儀にまつわるエピソードが長く、マドンナの登場が遅いのがやや残念。失恋エピソードも約束事が前面に出てきてしまい、若干あざとくなっている。
おいちゃんの森川信はこれが最後の出演。源公の佐藤蛾次郎が交通事故で出演していない。 (評価:2.5)

公開:1971年12月29日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
キネマ旬報:8位
寅さんシリーズの第8作。マドンナは池内淳子で喫茶店主。
これまでプログラム・ピクチャーとして90分前後で作られてきた『男はつらいよ』シリーズが、初めて100分を超え、以降、正月と夏の年2回公開になった。
放浪がテーマで、博の父・飈一郎から平凡な生活にこそ幸せがあると教えられた寅次郎が身を固めようと柴又に帰ってきて、子持ち未亡人(池内淳子)に一目惚れ。ところが、金に苦しむ池内に心でしか支えてやれない自分に気づき、無力を悟って旅に出てしまう。自らの限界から恋を諦めるという、いつもの失恋とは違った、空しく悲しい物語。
池内がすべてを放り出して寅次郎のように旅に出てみたいと打ち明けるシーンが見せ場で、子供のいる池内にそれが叶うわけもなく、平凡で幸せそうに見える生活に人は束縛されているという逆説を示す。
それからすれば放浪する寅次郎は自由人で、平凡な生活を送っている多くの観客にとって憧れであり、それが寅さんシリーズが人気となった理由でもあり、シリーズの本質を示した作品となっている。
平凡な生活にこそ幸せがあると教える飈一郎も決して幸せそうには描かれず、寅屋の面々を含めて誰もが寅次郎の生き方に憧憬を持ち、だからこそ寅次郎の存在が気になり、寅次郎は誰からも気に掛けられる存在となっている。
博の母の葬儀にまつわるエピソードが長く、マドンナの登場が遅いのがやや残念。失恋エピソードも約束事が前面に出てきてしまい、若干あざとくなっている。
おいちゃんの森川信はこれが最後の出演。源公の佐藤蛾次郎が交通事故で出演していない。 (評価:2.5)

野良猫ロック 暴走集団’71
公開:1971年1月3日
監督:藤田敏八 製作:笹井英男、岩沢道夫、真下武雄 脚本:永原秀一、浅井達也 撮影:萩原憲治 美術:千葉和彦 音楽:玉木宏樹
「野良猫ロック」シリーズ最終作。
70年安保後という時代を背景に、体制に反抗し粉砕されてしまう若者たちを描くという、わかりやすいテーマの作品。
以降、次回作の『八月の濡れた砂』(1971)など、藤田敏八の作品は目標を喪失した若者たちの青春映画が中心となり、同じ喪失が売り物の村上春樹デビュー作『風の歌を聴け』(1979、映画1981)が後に続くことになる。
高層ビルが建設される前の新宿西口の空地に巣食うヒッピー集団というのが今回の設定で、フォークゲリラや新宿騒乱の宴の後という空気が冒頭から充満する。
伊豆辺りの町長(稲葉義男)の息子で集団のメンバーの青年(地井武男)が、連れ戻しに来た父親の用心棒の一人を殺害してしまい、居合わせた恋人(梶芽衣子)が冤罪を着せられる。鑑別所に収監された少女は脱走し、青年に会いに伊豆の邸宅に向かうものの拉致されてしまい、他のヒッピー仲間たちが救出に向かうというのがストーリー。
有力者である父親は用心棒と警察権力まで使って若者たちを排除。侵入して少女を救出し、鉱山跡に立て籠もる若者たちと銃撃戦、若者たちはダイナマイトで自爆するという、「あさま山荘」を模したようなクライマックスとなっている。
反体制の若者たちに原田芳雄、藤竜也、常田富士男ら。ザ・モップスの鈴木ヒロミツや堺正章も歌唱シーンで出演し、時代の空気を感じさせる。
不良グループを描く野良猫ロックとしては方向違いだが、70年当時の世相を記録している。 (評価:2.5)

男はつらいよ 純情篇
公開:1971年1月15日
監督:山田洋次 製作:小角恒雄 脚本:山田洋次、宮崎晃 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
寅さんシリーズの第6作。マドンナは若尾文子。
故郷は遠きにありて思うものがテーマで、観光地ロケは五島列島。夫と不仲になって里帰りする宮本信子演じる母子と知り合うエピソードが最初にあって、帰るところがあるから夫と上手くいかないと諭す父(森繁久弥)の言葉で、寅次郎が我が身を振り返るという話になっている。
柴又に帰った寅次郎は人妻の若尾文子に出逢った途端に変節し、夫が現れて例の如く失恋して旅立つというパターンを踏襲するが、人妻だけに若干寅の恋愛・失恋がすっきりしないところがあって、柴又でのストーリーの中心は博の独立話になっている。
公開以来の再見だと思うが、ストーリーの大筋を覚えていることから、印象深いエピソードであったことは間違いなく、ギャグを含めてシナリオはシリーズの中でもよく出来ている。
ラストの柴又駅のホームでさくらが寅次郎を見送るシーンで「故郷は」と寅次郎が言いかけたところでドアが閉まり、後の言葉が聞えなくなるが、続く言葉が「遠きにありて思うもの」であろうことは想像がつく。だからといって室生犀星のこの詩がテーマとして生きているかというと抒情的な雰囲気だけに終わっているのが残念なところ。
タコ社長の妻と子供たちが登場する家庭のシーンがあるのも、シリーズ中の見どころのひとつか。 (評価:2.5)

激動の昭和史 沖縄決戦
公開:1971年7月17日
監督:岡本喜八 製作:藤本真澄、針生宏 脚本:新藤兼人 撮影:山田一夫、村井博、富岡素敬 美術:村木与四郎、小村完 音楽:佐藤勝
1942年8月のガダルカナル上陸から44年7月サイパン玉砕までを記録映像などでダイジェストし、44年3月の32軍の沖縄配置から始まり、45年6月23日の牛島中将自決までを描く。
全体には沖縄戦の経過を丹念に追っていて、通史として見るのにはよくできている。もっとも、通史であるためにディテールの多くが欠けていて、実態を描き切れていない。これをもって沖縄戦の実像とは言い切れず、逆に2時間半では描けない沖縄戦の重みを感じる。
総じて、持久戦を覚悟する32軍と沖縄の実情を理解せずに場当たり的な命令を繰り出す大本営の無能が印象的で、積極派の長野参謀長(丹波哲郎)、現実派の八原高級参謀(仲代達矢)に挟まれて、優柔不断な牛島中将(小林桂樹)の迷走ぶりが良く描かれている。
そうした中で、大田海軍少将(池部良)が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を海軍省に打電するシーンもあるが、「後世特別ノ御高配」が今もって沖縄になされていないことに思い当たる。
映画としては駆け足で、沖縄戦史を知る上では簡便だが、それ以上のものを描けていないことも確かで、沖縄戦の膨大な史実の前に脚本の新藤兼人も監督の岡本喜八も料理しきれなかった感が強い。
東宝俳優陣総出演、火力もふんだんに使った超大作で、見応えは十分。 (評価:2.5)

男はつらいよ 奮闘篇
公開:1971年4月28日
監督:山田洋次 製作:斎藤次郎 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
寅さんシリーズ第7作。夢のプロローグがない初期作品。
冒頭、寅次郎の母・菊(ミヤコ蝶々)がとらやに訪ねてくるところから始まり、寅の嫁取話が中心となる。
菊と喧嘩した寅次郎が、静岡で知的障碍のある娘(榊原るみ)と出会い青森に帰すが、そのままとらやに来てしまう。帰ってきた寅と再会、寅は娘の保護者の如く、就職の世話などをしているうちに、娘が寅の嫁になってもいいというのを真に受けて、すっかりその気になってしまうというのが流れ。
連絡を受けた娘の青森の恩師(田中邦衛)が上京して、娘を連れ帰り、失意の寅が自殺するんじゃないかと心配してさくらが青森ロケに参加する。
本作は知的障碍者に対する差別表現バリバリで、当時の障碍者に対する社会一般の受け止め方をよく表している。それでも脚本の山田、朝間は知的障碍者に対する配慮を示そうとして、冗談で済む寅には「脳が足りない」を使い、娘に対しては「頭が薄い」「目がちょっと変」という言い方をし、恩師には「障碍児」と言わせている。
知的障碍という言い方がまだなかった時代で、白痴、精薄(精神薄弱)、知恵遅れという言葉が問題視される中での2人の苦労が窺えるが、それでも善意の差別感覚が漲っていて、内容的にはやや不適切な作品となっている。
極めつけは、おばちゃんの台詞で、足りない同士の結婚でどんな子供ができるか。
山田は、25年後の1996年に『学校II』で知的障碍児を主人公にした佳作を撮っていて、両作品を見比べれば、本作が山田ではなく、社会そのものの時代性を映していることがわかる。
そうした点を忘れて見れば、ギャグも冴えていて、人情喜劇として十分に楽しめる。
榊原るみのマドンナでは若干役不足だったのか、寅さんの最初の失恋相手、第1回のマドンナ、光本幸子も再登場している。 (評価:2.5)

製作:表現社、マコ・インターナショナル
公開:1971年11月13日
監督:篠田正浩 製作:岩下清、大村允佑、葛井欣士郎 脚本:遠藤周作、篠田正浩 撮影:宮川一夫 美術:栗津潔 音楽:武満徹
キネマ旬報:2位
結局は異教徒が描く神の沈黙でしかない
遠藤周作の『沈黙』が原作。
キリシタンが迫害を受ける日本にやってきたポルトガル人のイエズス会宣教師が、長崎奉行所に捕まり、拷問の末に棄教するまでが描かれる。
モデルはイタリア人神父のジュゼッペ・キアラで、棄教後、江戸の切支丹屋敷に幽閉され、死罪となった岡本三右衛門の名前と妻をもらって80歳過ぎで天寿を全うしている。
キリスト教史の中でも異例な迫害を受けた日本のキリスト教徒たちに対して、なぜイエスは沈黙を続けたのか? がテーマで、司祭自らが踏絵を踏むことでキリシタンたちに救いを与えるという神学論争を描く。
主人公のロドリゴと裏切り者のキチジローは、イエスとユダに比べられ、自らが踏絵を踏んで棄教の汚名を着ることで、イエスや教会を裏切る弱き者たち、キチジローへの赦しを与える。
もっとも、本作で描かれる司祭たちは冒頭から激しやすく、宗教者としての冷静さや人格に欠けていて、拷問されるキリシタンを傍観することへの葛藤が感じられないのが、大きな欠点となっている。後半登場する、切支丹奉行の井上筑後守、フェレイラの神学論争も今ひとつ内容が浅く、全体としては神の沈黙をわかりやすく描いているが、テーマに深みが感じられない。フェレイラを演じる丹波哲郎の演技過剰もいただけない。
原作にはないプロローグからも窺えるのは、篠田正浩がキリスト教ないしはカソリックへの批判を当初から持っていて、このためにキリスト教徒ないしは江戸時代に迫害を受けたキリシタンの視点が欠落していることで、本作が結局は異教徒が描く神の沈黙でしかなく、それが篠田正浩の限界であり、本作の残念なところとなっている。
岩下志麻に見せ場をつくったのも失敗で、演技過剰な上に、娶ったロドリゴがいきなり抱き着くのは司祭の通俗性を示そうという異教徒的な発想で、踏絵を踏んでイエスの苦しみを味わった男と同じとは到底思えない。
大したことではないが、ロドリゴたちには英語ではなくポルトガル語を話させてほしかったが、ポルトガル人の俳優を手配できなかったということか? (評価:2.5)

公開:1971年11月13日
監督:篠田正浩 製作:岩下清、大村允佑、葛井欣士郎 脚本:遠藤周作、篠田正浩 撮影:宮川一夫 美術:栗津潔 音楽:武満徹
キネマ旬報:2位
遠藤周作の『沈黙』が原作。
キリシタンが迫害を受ける日本にやってきたポルトガル人のイエズス会宣教師が、長崎奉行所に捕まり、拷問の末に棄教するまでが描かれる。
モデルはイタリア人神父のジュゼッペ・キアラで、棄教後、江戸の切支丹屋敷に幽閉され、死罪となった岡本三右衛門の名前と妻をもらって80歳過ぎで天寿を全うしている。
キリスト教史の中でも異例な迫害を受けた日本のキリスト教徒たちに対して、なぜイエスは沈黙を続けたのか? がテーマで、司祭自らが踏絵を踏むことでキリシタンたちに救いを与えるという神学論争を描く。
主人公のロドリゴと裏切り者のキチジローは、イエスとユダに比べられ、自らが踏絵を踏んで棄教の汚名を着ることで、イエスや教会を裏切る弱き者たち、キチジローへの赦しを与える。
もっとも、本作で描かれる司祭たちは冒頭から激しやすく、宗教者としての冷静さや人格に欠けていて、拷問されるキリシタンを傍観することへの葛藤が感じられないのが、大きな欠点となっている。後半登場する、切支丹奉行の井上筑後守、フェレイラの神学論争も今ひとつ内容が浅く、全体としては神の沈黙をわかりやすく描いているが、テーマに深みが感じられない。フェレイラを演じる丹波哲郎の演技過剰もいただけない。
原作にはないプロローグからも窺えるのは、篠田正浩がキリスト教ないしはカソリックへの批判を当初から持っていて、このためにキリスト教徒ないしは江戸時代に迫害を受けたキリシタンの視点が欠落していることで、本作が結局は異教徒が描く神の沈黙でしかなく、それが篠田正浩の限界であり、本作の残念なところとなっている。
岩下志麻に見せ場をつくったのも失敗で、演技過剰な上に、娶ったロドリゴがいきなり抱き着くのは司祭の通俗性を示そうという異教徒的な発想で、踏絵を踏んでイエスの苦しみを味わった男と同じとは到底思えない。
大したことではないが、ロドリゴたちには英語ではなくポルトガル語を話させてほしかったが、ポルトガル人の俳優を手配できなかったということか? (評価:2.5)

製作:ほるぷ
公開:1971年5月29日
監督:今井正 製作:内山義重 脚本:鈴木尚之 撮影:中尾駿一郎 美術:川島泰造、平川透徹 音楽:間宮芳生
キネマ旬報:3位
岩下志麻の情念が強すぎて作品意図が伝わらない
大原富枝の同名小説が原作。
江戸中期、土佐藩家老・野中兼山の娘・婉(えん)の女の一生もので、父の失脚後、4歳の時に家族と共に宿毛に幽閉され、40年後、男子の血筋が絶えたのを機に幽閉を解かれる。
原作同様、女の情念に溢れた作品で、婉を演じるのが岩下志麻となると、これはもううんざりする覚悟が必要。
物語は幽閉が解かれる場面から始まり、遡って婉の回想として40年の幽閉生活が描かれる。この間、兄弟姉妹は成熟し、閉ざされた世界の中で性欲を抑えきれない次兄(河原崎長一郎)が近親相姦のために座敷牢に閉じ込められ、婉もまた三兄(緒形拳)への思慕に揺れる。
その思いを転じさせるのが、兼山を敬愛する谷秦山で、文通を通して婉は愛慕の念を抱くという寸法。
回想が終わって幽閉が解かれる場面に戻り、婉は秦山への思いだけが募る。なかなか会えない秦山とようやく巡り合うが、演じるのが冴えない妻子持ちのオッサンの山本学とあっては百年の恋も冷めるところだが、そうならないのが岩下志麻で、山本学はどう見てもミスキャスト。山本学の妻に岸田今日子はしっくりくるのだが。
婉は秦山に言い寄るも撥ねられ、文通で教わった薬学をもとに医者で身を立てるが、婉の身の回りの世話をする秦山の弟子(北大路欣也)の筋肉によろめきながら、藩主が替って幽閉された泰山を訪ねるシーンで終わる。
テーマ的には藩主=権力に翻弄された女の物語で、城代家老の駕籠と往き合った婉がそれを無視して通り抜けるというラストシーンで終わり、今井正らしく不当なる支配者に対する反権力の心意気を描いているが、岩下志麻の情念が強すぎて婉の一面しか描かれず、結局作品意図のよくわからない作品となっている。 (評価:2)

公開:1971年5月29日
監督:今井正 製作:内山義重 脚本:鈴木尚之 撮影:中尾駿一郎 美術:川島泰造、平川透徹 音楽:間宮芳生
キネマ旬報:3位
大原富枝の同名小説が原作。
江戸中期、土佐藩家老・野中兼山の娘・婉(えん)の女の一生もので、父の失脚後、4歳の時に家族と共に宿毛に幽閉され、40年後、男子の血筋が絶えたのを機に幽閉を解かれる。
原作同様、女の情念に溢れた作品で、婉を演じるのが岩下志麻となると、これはもううんざりする覚悟が必要。
物語は幽閉が解かれる場面から始まり、遡って婉の回想として40年の幽閉生活が描かれる。この間、兄弟姉妹は成熟し、閉ざされた世界の中で性欲を抑えきれない次兄(河原崎長一郎)が近親相姦のために座敷牢に閉じ込められ、婉もまた三兄(緒形拳)への思慕に揺れる。
その思いを転じさせるのが、兼山を敬愛する谷秦山で、文通を通して婉は愛慕の念を抱くという寸法。
回想が終わって幽閉が解かれる場面に戻り、婉は秦山への思いだけが募る。なかなか会えない秦山とようやく巡り合うが、演じるのが冴えない妻子持ちのオッサンの山本学とあっては百年の恋も冷めるところだが、そうならないのが岩下志麻で、山本学はどう見てもミスキャスト。山本学の妻に岸田今日子はしっくりくるのだが。
婉は秦山に言い寄るも撥ねられ、文通で教わった薬学をもとに医者で身を立てるが、婉の身の回りの世話をする秦山の弟子(北大路欣也)の筋肉によろめきながら、藩主が替って幽閉された泰山を訪ねるシーンで終わる。
テーマ的には藩主=権力に翻弄された女の物語で、城代家老の駕籠と往き合った婉がそれを無視して通り抜けるというラストシーンで終わり、今井正らしく不当なる支配者に対する反権力の心意気を描いているが、岩下志麻の情念が強すぎて婉の一面しか描かれず、結局作品意図のよくわからない作品となっている。 (評価:2)

製作:創造社、日本ATG
公開:1971年6月5日
監督:大島渚 製作:葛井欣士郎、山口卓治 脚本:田村孟、佐々木守、大島渚 撮影:成島東一郎 美術:戸田重昌 音楽:武満徹
キネマ旬報:1位
観念によって描かれる大島の思想的形式主義もまた虚しい
70年安保の翌年、映画界を含む日本の進歩派が深い挫折に陥っていた中で作られた作品で、保守派による岩盤のような社会構造を突き崩せなかった恨みつらみが本作には充満しているのだが、半世紀経って距離を置いて眺めると硬直的な観念ばかりを振り回していて、批判する儀式同様にシナリオの中に生きた人間が不在であることに気づく。
「テルミチシス」という従兄の輝道(中村敦夫)からの自殺を仄めかす電報を受け取った満洲男(河原崎建三)は、従妹の律子(賀来敦子)と共に南の島に向かうが、再会した律子が冠婚葬祭の儀式でしか会わない親戚の人と呼ぶのをきっかけに、満洲男が桜田家一族の過去の儀式を回顧していく物語となっている。
最初の儀式の記憶は、昭和22年に満洲男が母と満州から引き揚げてきた時に行われた、父の一周忌。その1年前、天皇の人間宣言を聞いた父は日本の未来を悲観して自殺した。
母の葬儀、叔父・勇(小松方正)の結婚式、満洲男自身の結婚式と記憶をたどるが、そこに描かれるのは桜田家一族の歪んだ人間関係で、祖父・一臣(佐藤慶)を頂点にした戦前からの権威主義的な家制度、すなわち日本の封建制度ということになる。
もっとも満洲男を中心に律子、その母・節子(小山明子)、輝道、一臣らの愛憎・愛欲の関係は、複雑怪奇に入り乱れていて、本作がそこに何を描こうとしたのか見出すことができない。
輝道は自らの命を絶つことで桜田家一族の命脈を断つが、象徴的に登場する野球のシーンで、ピッチャー満洲男のボールを受ける者がいなくなった今、そのボールは何処に向かうのかという問いかけで物語は終わる。
戦犯、共産主義者といった記号が散りばめられ、桜田家一族に戦後日本の縮図を試みるが、そのような単純化したアナロジーで総括できるわけもない。
花嫁のいない満洲男の結婚式・披露宴・初夜という儀式の究極的な形式主義を描いて見せ、その発想の面白さには敬服するものの、形式主義によって秩序立てられる戦後体制の虚しさ同様、観念によって描かれる大島の思想的形式主義もまた虚しい。 (評価:2)

公開:1971年6月5日
監督:大島渚 製作:葛井欣士郎、山口卓治 脚本:田村孟、佐々木守、大島渚 撮影:成島東一郎 美術:戸田重昌 音楽:武満徹
キネマ旬報:1位
70年安保の翌年、映画界を含む日本の進歩派が深い挫折に陥っていた中で作られた作品で、保守派による岩盤のような社会構造を突き崩せなかった恨みつらみが本作には充満しているのだが、半世紀経って距離を置いて眺めると硬直的な観念ばかりを振り回していて、批判する儀式同様にシナリオの中に生きた人間が不在であることに気づく。
「テルミチシス」という従兄の輝道(中村敦夫)からの自殺を仄めかす電報を受け取った満洲男(河原崎建三)は、従妹の律子(賀来敦子)と共に南の島に向かうが、再会した律子が冠婚葬祭の儀式でしか会わない親戚の人と呼ぶのをきっかけに、満洲男が桜田家一族の過去の儀式を回顧していく物語となっている。
最初の儀式の記憶は、昭和22年に満洲男が母と満州から引き揚げてきた時に行われた、父の一周忌。その1年前、天皇の人間宣言を聞いた父は日本の未来を悲観して自殺した。
母の葬儀、叔父・勇(小松方正)の結婚式、満洲男自身の結婚式と記憶をたどるが、そこに描かれるのは桜田家一族の歪んだ人間関係で、祖父・一臣(佐藤慶)を頂点にした戦前からの権威主義的な家制度、すなわち日本の封建制度ということになる。
もっとも満洲男を中心に律子、その母・節子(小山明子)、輝道、一臣らの愛憎・愛欲の関係は、複雑怪奇に入り乱れていて、本作がそこに何を描こうとしたのか見出すことができない。
輝道は自らの命を絶つことで桜田家一族の命脈を断つが、象徴的に登場する野球のシーンで、ピッチャー満洲男のボールを受ける者がいなくなった今、そのボールは何処に向かうのかという問いかけで物語は終わる。
戦犯、共産主義者といった記号が散りばめられ、桜田家一族に戦後日本の縮図を試みるが、そのような単純化したアナロジーで総括できるわけもない。
花嫁のいない満洲男の結婚式・披露宴・初夜という儀式の究極的な形式主義を描いて見せ、その発想の面白さには敬服するものの、形式主義によって秩序立てられる戦後体制の虚しさ同様、観念によって描かれる大島の思想的形式主義もまた虚しい。 (評価:2)

懲役太郎 まむしの兄弟
公開:1971年6月1日
監督:中島貞夫 脚本:高田宏治 撮影:赤塚滋 美術:富田治郎 音楽:菊池俊輔
「まむしの兄弟」シリーズ第1作。
菅原文太・川地民夫のチンピラヤクザを主人公とした新機軸のコメディだが、何でもあり、何でも都合良くいくという、肩で風を切って歩きたい男にとっては怖いもの知らずで爽快な主人公となっている。
少年院8回、刑務所4回のお勤めを終えた政太郎(菅原文太)を義兄弟の勝次(川地民夫)が出迎えるところから始まる。二人は無銭飲食などのケチなチンピラだが、その無鉄砲ぶりに山北組が目を付け、対立する暴力団、瀧花組代貸・梅田(葉山良二)を殺すように依頼。ところが梅田の侠気に惚れこんだ政太郎はチンピラからヤクザになる道を選んで彫り物をするが、梅田は山北組に殺されてしまう。
以下はまむしの兄弟の復讐戦で、機関銃あり、ダイナマイトありの展開。コメディという前提から、設定は無茶苦茶、シナリオの整合性・合理性は一切無視。かといって完全なコメディになり切っていないのが恨みで、学芸会シナリオは抜け切れていない。
東映らしく、お色気あり、トルコ風呂あり、人情噺あり、博打あり、喧嘩あり、アクションありの総合娯楽作で、佐藤友美がミニスカポリスに扮しているのもお楽しみの一つ。元ヤクザの安藤昇も山北組の上部団体七友会の幹部役で出演している。
青春スターの川地民夫はともかく、菅原文太の裸は意外と貧弱。ラストシーンでペイントした入れ墨が雨で流れてしまうのが情けない。 (評価:2)

製作:人力飛行機プロ、日本ATG
公開:1971年04月24日
監督:寺山修司 製作:寺山修司、九條映子 脚本:寺山修司 撮影:鋤田正義、仙元誠三 音楽:下田逸郎、J・A・シーザー、柳田博義 美術:林静一、榎本了壱
キネマ旬報:9位
映画館から出ろというが、それで金を取るのは不遜
寺山修司が主宰する天井桟敷が上演した同名の戯曲が原作。
このような前衛的実験映画をどう評価すべきか迷うが、少なくとも前衛的手法以外には評価できるものはなく、見ても退屈。では前衛的手法が評価に値するかも難しく、寺山の独りよがりの映画を見せられているだけで、楽しめる映画になっていないことだけは確か。この作品で観客から金を取るというのは不遜にさえ思える。しかし凡作の★2よりは上に位置する作品で、しかし★1.5しか与えられない作品でもある。
ストーリーというよりは、主人公の一家の状況説明ということになるが、主人公はプレス工で戸塚の都電線路の長屋に一家で暮らしている。祖母は家族に気にかけてもらいために万引きをし、元戦犯の父は現在無職。妹は兎を偏愛して引き籠っている。その主人公が人力飛行機によって現状からの飛翔を幻想するが、結局、地球の重力には勝てない。
本作は劇中劇の形をとっていて、最後に主人公が映画を見て満足しているだけの書斎派に、暗箱から白日の町に出て行動することを求める。映画は所詮は1ヶ月で作られただけの世界だと告発する。(本作の製作期間は1ヶ月だったらしい)
主人公は妹が輪姦されているのを止めるどころか、誘われて遠慮する。抑圧され国家に蹂躙される人々が描かれ、それでも反抗しようとしない腑甲斐ない民衆を主人公に象徴させている。その不甲斐ない民衆の一人が、映画館で満足しているだけで行動しない観客自身なのだと寺山は告発し、町に出ろと挑発するが、それがタイトルの意味でもある。
浅川マキ、美輪明宏も出演しているが、若い美輪が美しい。 (評価:1.5)

公開:1971年04月24日
監督:寺山修司 製作:寺山修司、九條映子 脚本:寺山修司 撮影:鋤田正義、仙元誠三 音楽:下田逸郎、J・A・シーザー、柳田博義 美術:林静一、榎本了壱
キネマ旬報:9位
寺山修司が主宰する天井桟敷が上演した同名の戯曲が原作。
このような前衛的実験映画をどう評価すべきか迷うが、少なくとも前衛的手法以外には評価できるものはなく、見ても退屈。では前衛的手法が評価に値するかも難しく、寺山の独りよがりの映画を見せられているだけで、楽しめる映画になっていないことだけは確か。この作品で観客から金を取るというのは不遜にさえ思える。しかし凡作の★2よりは上に位置する作品で、しかし★1.5しか与えられない作品でもある。
ストーリーというよりは、主人公の一家の状況説明ということになるが、主人公はプレス工で戸塚の都電線路の長屋に一家で暮らしている。祖母は家族に気にかけてもらいために万引きをし、元戦犯の父は現在無職。妹は兎を偏愛して引き籠っている。その主人公が人力飛行機によって現状からの飛翔を幻想するが、結局、地球の重力には勝てない。
本作は劇中劇の形をとっていて、最後に主人公が映画を見て満足しているだけの書斎派に、暗箱から白日の町に出て行動することを求める。映画は所詮は1ヶ月で作られただけの世界だと告発する。(本作の製作期間は1ヶ月だったらしい)
主人公は妹が輪姦されているのを止めるどころか、誘われて遠慮する。抑圧され国家に蹂躙される人々が描かれ、それでも反抗しようとしない腑甲斐ない民衆を主人公に象徴させている。その不甲斐ない民衆の一人が、映画館で満足しているだけで行動しない観客自身なのだと寺山は告発し、町に出ろと挑発するが、それがタイトルの意味でもある。
浅川マキ、美輪明宏も出演しているが、若い美輪が美しい。 (評価:1.5)

遊び
公開:1971年9月4日
監督:増村保造 脚本:今子正義、伊藤昌洋 撮影:小林節雄 美術:間野重雄 音楽:渡辺岳夫
原作は野坂昭如の短編小説「心中弁天島」。
中卒の女子工員(関根恵子)とチンピラ(門正明)が偶然出合ってから死に至るまでの1日を描く青春物語。
主演が関根恵子ということで、映画のタイトルは青い性ものの印象を与えるが、原作のタイトル通りの物語で、将来に絶望した似た者同士の二人が川で心中する、いわば近松物の現代版。
途中までは、チンピラに誘われた少女の危うげな貞操の物語のように見える。並行する二人の回想で、「昭和枯れすすき」的な底なし沼状態の不幸がこれでもかというくらいに語られて、増村保造も関根恵子を主役につまらない作品を撮ったものだと辟易するが、二人がアニキ(蟹江敬三)の毒牙を逃れて逃亡する辺りから、これは十代の性ものではなくて心中ものなのだと気付く。
そこからはまあまあの出来で、女子行員は苦界に売られた遊女で、その境遇からの脱出を望み、そんな女に惚れて、売春組織から一緒に逃亡し、帰る場所もなく道行きを選ぶしかない、貧しい生まれの番頭がチンピラなのだと考えると、合点がいって、それなりに楽しめる。
もっとも1971年の制作とはいえ、少女にはトラック運ちゃんの父の遺した借金と内職の母、カリエスの姉、少年には売春母と、あまりに二人の境遇がひどすぎて、ちょっと引いてしまう。
ゴーゴーホールのフーテン娘に松坂慶子。
併映は『夜の診察室』。 (評価:1.5)

曼陀羅
公開:1971年9月11日
監督:実相寺昭雄 製作:淡豊昭 脚本:石堂淑朗 撮影:稲垣涌三 美術:池谷仙克 音楽: 冬木透
監督は『ウルトラマン』シリーズの実相寺昭雄で、映画では『無常』に続いて撮った作品。
モーテルでスワッピングする大学生カップル(清水紘治・森秋子・田村亮・桜井浩子)から始まり、エロティシズムは静で死姦こそがエロティック、レイプを非とするのは快楽を忘れた現代病、という実相寺の独自の思想が展開される。
清水・森カップルは岸田森の営む農業と性による原初的共同体に参加するが、彼らが目指すのはあらゆる神の娼婦である巫女(花柳幻舟)を抱くユートピア。このユートピアはエロティシズム=静=死であり、幽明の境にある。
映像的には現世がカラーで表現されるのに対し、ユートピアはモノクロで描かれる。実相寺は広角レンズを多用して、現実世界を不確かで幻視的なものに描き、観客を非日常の精神世界へと誘う。
ところが途中で急に学生運動が持ち出され、ストーリーは複雑怪奇なものとなりし、より観念的なものになっていく。実相寺と石堂淑朗にしか理解できない物語で、セクトから離脱し、ユートピアを否定した田村が、日本刀を手に国会議事堂を目指すという、終わり方をする。
ユートピアは変革を必要とせず、したがって進化を止めたユートピアは死そのものである、という劇中のセリフから、70年安保に敗れた学生・大衆が享楽主義に陥るのを戒め、闘争を継続せよ、というように、作品に無理やり解釈を施すことも可能だが、あまり意味はなく、実相寺の不可解な頭の中を覗き見て終わるという作品。
田村に巫女を犯された岸田らは、清浄の島を求めて冥界へと旅立つが、神・性・農耕・冥界・再生産という実相寺の民俗学的嗜好が背景に描かれている。
これまた敢えて「神は死んだ」と解釈すべきかどうか、半世紀を経た今となってはあまり意味がないこと。 (評価:1.5)

製作:東プロダクション
公開:1971年3月5日
監督:東陽一 製作:高木隆太郎 脚本:東陽一、前田勝弘 美術:永沼宗夫、平田達郎 音楽:東陽一、田山雅光
キネマ旬報:7位
饒舌なだけでとりとめのない投げかけに終始
沖縄返還の1年前に公開された劇映画で、一部にドキュメンタリー映画『沖縄列島』のフィルムが登場するように、東にとってはテーマ的には続編。
ただ当時流行りだったとはいえ、観念的・記号的・暗喩的描写のオンパレードで、はたしてそれが本当に観念的・記号的・暗喩的なのかも疑問で、今風にいえば中二病的作品。
それらを紐解くのもバカバカしくて、ただ目の前を流れる映像を無為に眺めるということになってしまうが、なぜか出演陣は今見ると個性的で、河原崎長一郎、緑魔子、伊丹十三、石橋蓮司、蟹江敬三、横山リエ、渡辺美佐子、桜井浩子、さらには東山千栄子まで出ている。
沖縄戦で集団自決のあった渡嘉敷島で生き残った赤ん坊の25年後が河原崎長一郎で、警官に集団暴行を受けながらも、告発しても無駄だと諦める「やさしいにっぽん人」というのが主題。
権力に角付き合わせないのがやさしいのか、やさしさとは優柔不断だったり無気力だったりすることなのか、それをネガティブに捉えるのかそうでないのか、権力に立ち向かうことだけが正義なのか、アジテーションや議論する言葉に意味はあるのかといった饒舌だがとりとめのない投げかけに終始して、それが収束することもなく放り出されたまま映画は終わる。
『沖縄列島』同様、ここでも東はテーマを拡散させただけで、何を描きたかったのか不明瞭。東のドキュメンタリー同様に対象を追いかけるだけに終わっている。
渡嘉敷島の集団自決をキーワードにしながら、それについて何も伝えられていないのが悲しい。 (評価:1.5)

公開:1971年3月5日
監督:東陽一 製作:高木隆太郎 脚本:東陽一、前田勝弘 美術:永沼宗夫、平田達郎 音楽:東陽一、田山雅光
キネマ旬報:7位
沖縄返還の1年前に公開された劇映画で、一部にドキュメンタリー映画『沖縄列島』のフィルムが登場するように、東にとってはテーマ的には続編。
ただ当時流行りだったとはいえ、観念的・記号的・暗喩的描写のオンパレードで、はたしてそれが本当に観念的・記号的・暗喩的なのかも疑問で、今風にいえば中二病的作品。
それらを紐解くのもバカバカしくて、ただ目の前を流れる映像を無為に眺めるということになってしまうが、なぜか出演陣は今見ると個性的で、河原崎長一郎、緑魔子、伊丹十三、石橋蓮司、蟹江敬三、横山リエ、渡辺美佐子、桜井浩子、さらには東山千栄子まで出ている。
沖縄戦で集団自決のあった渡嘉敷島で生き残った赤ん坊の25年後が河原崎長一郎で、警官に集団暴行を受けながらも、告発しても無駄だと諦める「やさしいにっぽん人」というのが主題。
権力に角付き合わせないのがやさしいのか、やさしさとは優柔不断だったり無気力だったりすることなのか、それをネガティブに捉えるのかそうでないのか、権力に立ち向かうことだけが正義なのか、アジテーションや議論する言葉に意味はあるのかといった饒舌だがとりとめのない投げかけに終始して、それが収束することもなく放り出されたまま映画は終わる。
『沖縄列島』同様、ここでも東はテーマを拡散させただけで、何を描きたかったのか不明瞭。東のドキュメンタリー同様に対象を追いかけるだけに終わっている。
渡嘉敷島の集団自決をキーワードにしながら、それについて何も伝えられていないのが悲しい。 (評価:1.5)

夜の診察室
公開:1971年9月4日
監督:帯盛迪彦 脚本:長谷川公之 撮影:中川芳久 美術:山口煕 音楽:伊部晴美
関根恵子主演の『遊び』のおまけ的併映作品で、レコードでいえばB面の作品。本来なら消滅してしまうところが、松坂慶子の初主演作品ということで邦画史に残った。
おまけ作品らしく、内容もいたってお手軽。当時流行った『How To Sex』の奈良林祥やドクトル・チエコといったセックスカウンセラーを父に持つ女子大生役が松坂慶子。
父は性医学のクリニックを開業し、娘は心理学を学びながら、父の手伝いをしているという設定。全体で3つのエピソードからなり、セックスレスに悩む人妻、妻の浮気が心配で貞操帯までつけさせる新婚夫婦の悩みを見事解決。最後は枠物語の松坂慶子が女性不信のポルノ作家と恋愛成就という、テイストとしてはお色気コメディ。
他愛ない物語でVシネマ程度には楽しめるが、時間潰しにしかならない。
もっとも松坂慶子の若き美貌と、『愛の水中花』でレオタード姿を披露した松坂のミニスカートをはじめとする20歳の肢体は楽しめるが、露出は背中ヌードまで。
大人の玩具屋を笑顔で訪ねる松坂の底抜けに健康的な色気が、関根恵子とは好対照で、今でも明るいオバサンの真髄を見ることができる。
父役に高橋昌也、恋人役に峰岸隆之介。 (評価:1.5)

ゴジラ対ヘドラ
公開:1971年07月24日
監督:坂野義光 製作:田中友幸 脚本:馬淵薫、坂野義光 撮影:真野田陽一 音楽:真鍋理一郎 美術:井上泰幸
ゴジラ第11作。東宝チャンピオンまつり用の作品なので、子供向け。主人公は少年で、駿河湾に出現したヘドラとヒーロー・ゴジラが戦うという構図。
製紙工場の廃液による駿河湾田子の浦のヘドロが問題になった時期で、舞台は富士市。ヘドロは隕石による宇宙生命体という設定だが、ヘドロを棲息環境とするという公害がテーマの作品。当時は公害ブームで、光化学スモッグやカドミウムなどの公害問題を歌う歌手も出てくる。ライブシーンではサイケデリックな衣装にゴーゴーを踊るという当時の風俗が描かれていて、それなりに時代性を持った作品だが、全体に古さは否めない。
第1作『ゴジラ』が核問題を扱ったのに対し、公害というテーマ性を復活させたが、廃液を垂れ流す汚い怪獣など誰も怖いともかっこいいとも思わないし、そんなヘドラと泥まみれになって戦うゴジラなど見たくもない。映画全体にこの汚さは付いて回り、低予算とシナリオのひどさからくるTVの特撮並のクオリティで、最後にはゴジラが火焔ジェットで空を飛ぶという禁じ手まで使ってしまった。
監督がゴジラの魅力を理解していない頭でっかちな作品。 (評価:1)
