日本映画レビュー──1958年
鰯雲
公開:1958年9月2日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄、三輪礼二 脚本:橋本忍 撮影:玉井正夫 美術:中古智、園眞 音楽:斎藤一郎
和田傳の同名小説が原作。
神奈川県厚木の農村が舞台。姑と暮らす戦争未亡人・八重(淡島千景)の目を通して、実家の兄一家を描く群像劇で、戦前は大地主でありながら農地解放によって没落した当主の悲哀を中村鴈治郎が名演する。
大家族制の下で育った兄・和助は、亡父の命によって3度の結婚をさせられ、子沢山の貧乏暮らしながら前時代的な当主の旧弊とプライドを捨てられない。そんな家の長男・初治(小林桂樹)に嫁の来手もないと、八重が山村の娘・みち子(司葉子)を見つけてくるが、偶然にも継母(杉村春子)が和助の最初の妻、初治の生母だった。
当人同士は意気投合。しかし和助が金もないのに披露宴に拘るために話が進まず、八重の友人(新珠三千代)の料理屋に間借りして結婚してしまう。
和助は分家の一人娘・浜子(水野久美)と三男(大塚国夫)を結婚させて、分家の土地を手に入れようとも企てるが、三男は東京に出る算段。おまけに浜子は銀行員の次男(太刀川洋一)とデキてしまう。
新しい時代に変貌していく家族と、取り残される当主の対照をコミカルに描くが、戦前の大家族制での家族観、結婚観、妻の地位、農家の様子が丁寧に描かれていて、貴重な社会学の歴史資料となっている。
時代性について語り合う淡島千景と中村鴈治郎のシーンが見せ場で、橋本忍の脚本、成瀬巳喜男の演出もよくできている。
新しい時代の女として、八重が妻子ある新聞記者(木村功)と恋愛するエピソードも入るが、本筋とは分離していて、全体の印象を散漫にしている。 (評価:3.5)
製作:松竹大船
公開:1958年1月15日
監督:野村芳太郎 製作:小倉武志 脚本:橋本忍 撮影:井上晴二 美術:逆井清一郎 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:8位
観客に投げられるフェミニズムからの問いかけ
松本清張の同名短編小説が原作。
警視庁の刑事2人が、殺人犯(田村高広)が元恋人(高峰秀子)に会いに行くと考えて佐賀市に出張。元恋人の婚家の向かいの旅館に1週間の張込みをする物語。元恋人は銀行員で3人の継子のいる吝嗇家(清水将夫)の後妻に収まっている。
ベテラン刑事(宮口精二)と組む若い独身刑事(大木実)のモノローグで事件が語られるが、主婦となった女の単調で飽くような日常生活を観察しているうちに、独身刑事は女に同情し、自らの仕事を顧みて配偶者を不幸にするのではないかという思いから、縁談に消極的になる姿が描かれる。
単調になる張込みの描写と並行して、事件の概要と独身刑事の縁談が語られていく橋本忍の脚本は見事で、飽きさせない。
サスペンスものとしてはストーリー性が薄く、野村芳太郎は本作をミステリーではなく、女のドラマとして仕上げている。
ポイントになるのは、平凡な日常を送っていた生気のない女が、元恋人と過ごすための数時間に命を燃やし、生き返ったように輝いて見えたという独身刑事の感慨で、本作は抑圧され解放されない女性を描いたフェミニズムの作品といえる。
その女を演じる高峰秀子が本作最大の見どころで、元恋人との逢瀬のために急くように駆け足で駅に向かい、家族を捨てても恋人と添い遂げようと情熱を燃やす健気な女を好演する。
元恋人が逮捕されて泣き崩れる女のその後を、平凡な日常に戻るだろうという独身刑事の台詞だけで見せない演出が上手い。
独身刑事もまた縁談を受諾するのかしないのか、わからないままにエンドマークとなり、フェミニズムからの問いかけは観客に投げられて終わる。
本作のもう一つの見どころは、プロローグで刑事2人が横浜から汽車に乗り佐賀に向かうまでの旅路で、道中のSLの映像は垂涎モノ。中盤からラストでも汽車の映像が挿入され、車と並行して走るなど、映像的なこだわりも嬉しい。
ベテラン刑事の宮口精二の味わい深い演技もいい。 (評価:3)
公開:1958年1月15日
監督:野村芳太郎 製作:小倉武志 脚本:橋本忍 撮影:井上晴二 美術:逆井清一郎 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:8位
松本清張の同名短編小説が原作。
警視庁の刑事2人が、殺人犯(田村高広)が元恋人(高峰秀子)に会いに行くと考えて佐賀市に出張。元恋人の婚家の向かいの旅館に1週間の張込みをする物語。元恋人は銀行員で3人の継子のいる吝嗇家(清水将夫)の後妻に収まっている。
ベテラン刑事(宮口精二)と組む若い独身刑事(大木実)のモノローグで事件が語られるが、主婦となった女の単調で飽くような日常生活を観察しているうちに、独身刑事は女に同情し、自らの仕事を顧みて配偶者を不幸にするのではないかという思いから、縁談に消極的になる姿が描かれる。
単調になる張込みの描写と並行して、事件の概要と独身刑事の縁談が語られていく橋本忍の脚本は見事で、飽きさせない。
サスペンスものとしてはストーリー性が薄く、野村芳太郎は本作をミステリーではなく、女のドラマとして仕上げている。
ポイントになるのは、平凡な日常を送っていた生気のない女が、元恋人と過ごすための数時間に命を燃やし、生き返ったように輝いて見えたという独身刑事の感慨で、本作は抑圧され解放されない女性を描いたフェミニズムの作品といえる。
その女を演じる高峰秀子が本作最大の見どころで、元恋人との逢瀬のために急くように駆け足で駅に向かい、家族を捨てても恋人と添い遂げようと情熱を燃やす健気な女を好演する。
元恋人が逮捕されて泣き崩れる女のその後を、平凡な日常に戻るだろうという独身刑事の台詞だけで見せない演出が上手い。
独身刑事もまた縁談を受諾するのかしないのか、わからないままにエンドマークとなり、フェミニズムからの問いかけは観客に投げられて終わる。
本作のもう一つの見どころは、プロローグで刑事2人が横浜から汽車に乗り佐賀に向かうまでの旅路で、道中のSLの映像は垂涎モノ。中盤からラストでも汽車の映像が挿入され、車と並行して走るなど、映像的なこだわりも嬉しい。
ベテラン刑事の宮口精二の味わい深い演技もいい。 (評価:3)
製作:松竹大船
公開:1958年6月1日
監督:木下惠介 製作:小梶正治 脚色:木下恵介 撮影:楠田浩之 美術:伊藤憙朔
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞
ラストは非人間性に対するせめてもの木下ヒューマニズム
深沢七郎原作の同名小説が原作。
歌舞伎の定式幕を開くところから始まり、浄瑠璃・長唄がバックに入るといった舞台様式を取り入れた演出になっている。
ラストシーンを除いて、舞台風に演出するため屋外シーンもすべてセット撮影で、伊藤憙朔の美術も大きな見どころ。暗転や振落し、照明効果など舞台を見せるような演出が斬新かつ見事に決まっている。
同時に昔語りの芝居として虚構化され、貧困と姥捨てという物語そのものの持つ陰惨さを薄めてもいる。
唯一のロケであるラストシーンは長野県千曲市にある篠ノ井線・姨捨駅で、蒸気機関車とホームが映し出されるが、若干の不要感はある。
神の山・楢山を信仰する信州の貧しい山村が舞台で、村には70歳になると楢山参りをして人々は神の国に旅立たなければならないという掟がある。69歳の老婆(田中絹代)を抱えた辰平(高橋貞二)は心根が優しく、楢山参りの決断がつかないでいるが、息子(三代目市川團子)が妊娠した嫁を迎え、自らも後妻(望月優子)を娶ったことから口減らしのために姥捨てを決意する。
セット撮影のため楢山参りからのシーンが変化に乏しく、いささか間延びしている。
辰平が老母を捨てた後、隣家の倅(伊藤雄之助)が嫌がる老父(宮口精二)を捨てに来たのに出くわし、谷底に突き落とした息子を非難して揉みあった末に息子ももまた谷底に転落してしまうのが、非人間的物語に対する木下惠介のせめてものヒューマニズムなのだが、母を遺棄した辰平が今更善人ぶるのも欺瞞で、所詮は優等生的ヒューマニストである木下惠介の楢山節考に対する対峙の甘さが出てしまっている。 (評価:3)
公開:1958年6月1日
監督:木下惠介 製作:小梶正治 脚色:木下恵介 撮影:楠田浩之 美術:伊藤憙朔
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞
深沢七郎原作の同名小説が原作。
歌舞伎の定式幕を開くところから始まり、浄瑠璃・長唄がバックに入るといった舞台様式を取り入れた演出になっている。
ラストシーンを除いて、舞台風に演出するため屋外シーンもすべてセット撮影で、伊藤憙朔の美術も大きな見どころ。暗転や振落し、照明効果など舞台を見せるような演出が斬新かつ見事に決まっている。
同時に昔語りの芝居として虚構化され、貧困と姥捨てという物語そのものの持つ陰惨さを薄めてもいる。
唯一のロケであるラストシーンは長野県千曲市にある篠ノ井線・姨捨駅で、蒸気機関車とホームが映し出されるが、若干の不要感はある。
神の山・楢山を信仰する信州の貧しい山村が舞台で、村には70歳になると楢山参りをして人々は神の国に旅立たなければならないという掟がある。69歳の老婆(田中絹代)を抱えた辰平(高橋貞二)は心根が優しく、楢山参りの決断がつかないでいるが、息子(三代目市川團子)が妊娠した嫁を迎え、自らも後妻(望月優子)を娶ったことから口減らしのために姥捨てを決意する。
セット撮影のため楢山参りからのシーンが変化に乏しく、いささか間延びしている。
辰平が老母を捨てた後、隣家の倅(伊藤雄之助)が嫌がる老父(宮口精二)を捨てに来たのに出くわし、谷底に突き落とした息子を非難して揉みあった末に息子ももまた谷底に転落してしまうのが、非人間的物語に対する木下惠介のせめてものヒューマニズムなのだが、母を遺棄した辰平が今更善人ぶるのも欺瞞で、所詮は優等生的ヒューマニストである木下惠介の楢山節考に対する対峙の甘さが出てしまっている。 (評価:3)
公開:1958年10月28日
監督:堀川弘通 製作:藤本真澄、市川喜一 脚本:水木洋子 撮影:中井朝一 美術:河東安英 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:9位
放浪の画家・山下清の『放浪日記』を基に実話を脚色した作品。
戦時中から戦後にかけての山下の放浪生活と、天才画家として一躍有名になるまでが描かれる。水木洋子らしく山下の半生を戦争と絡め、反戦色の強い脚本になっている。
自衛隊が発足した当時の時代性を反映しているが、半世紀以上経つと、放浪の画家としての山下よりも山下を利用して反戦を描くことに比重が傾いていて、評伝としてはいささか中途半端な作品になっている。
軍人批判として司令官(東野英治郎)や憲兵が闇市で物資を流している描写も真実味を欠き、成功後の家族やマスコミの描写もスラップスティックで、コメディとしてはともかく、山下の人となり、作品の背景を知りたい向きには非常に不満が残る。
山下が放浪中の鉄道風景や各地の自然が美しく、その後で見せる山下の牧歌的な切り絵の魅力に重なる。
劇中に登場する阿武田駅は我孫子駅。汲取屋のおばさんに沢村貞子、バスの車掌に団令子、弁当屋の主人に有島一郎、割烹の主人に加東大介、清の母に三益愛ほか、飯田蝶子、三木のり平、柳家金語楼、左卜全と配役は賑やか。新聞記者にクレージィ・キャッツも初出演している。
山下清を演じる小林桂樹の演技が抜群。 (評価:2.5)
一粒の麦
公開:1958年9月14日
監督:吉村公三郎 製作:永田雅一 脚本:新藤兼人、千葉茂樹 撮影:中川芳久 美術:間野重雄 音楽:池野成
福島の中学教師(菅原謙二)を主人公に、中卒で集団就職した子どもたちの一年を追いかける。
丁寧に創られた社会派作品で、農家の次男・三男や娘たちが都市の底辺を支える労働者となる様を描くが、時代は戦後は終わりかけているとはいえ未だ高度成長前で、池田隼人が「貧乏人は麦を食え」と言った直前。時代の精神に合わせて、一粒の麦である子供たちが芽を出し成長していく可能性を描くが、麦同様に社会の厳しさの中で踏まれて行く様子が、音楽を含めてプロレタリアート的。
集団就職列車の様子や、上野駅で職安職員から雇用主に引き渡されていく当時の様子がありのままに描かれているのが興味深い。就職先は町工場や女中で、『三丁目の夕日』のような人情もなく、まるで人身売買のような過酷な現実が待ち受ける。
そうした中で仲間と助け合う子供たちを見守る主人公が、そこに教育者としての道を見出すというヒューマンドラマとなっていて、生真面目過ぎるくらいの作品だが、最後まで一息に見せてしまう。
教師の同僚で妻となる女教師に若尾文子、その父で校長に東野英治郎。浦辺粂子、殿山泰司、上田吉二郎といった芸達者が支えている。
オート三輪や、皇居など当時の東京の街並みなども出てきて、歴史ドラマというよりは記録映画を見ているようで、集団就職という形で労働力が商品化される、戦後の歴史の一コマを実感できる。 (評価:2.5)
製作:東映東京映画
公開:1958年10月1日
監督:家城巳代治 脚本:新藤兼人 撮影:宮島義勇 美術:北川弘 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:5位
最大の見どころはSLや転車台などの貴重映像
SLの釜焚きの青年(江原真二郎)と女工員(丘さとみ)の清く貧しい恋愛を描いた、戦後高度成長期前の作品。湘南っぽい町に暮らす二人は、公休に海水浴に行こうと水着を買いに出かける。
ところが二人で貯めた結婚資金を青年が競輪と酒に溺れる幼馴染み(仲代達矢)に貸してしまったことからひと悶着。デートしながら喧嘩して、結局仲直りというストーリーコンセプトは黒澤明の『素晴らしき日曜日』(1947)をなぞっている。
『素晴らしき日曜日』の中北千枝子同様、丘さとみも妹役の中原ひとみほどには美人ではなく、庶民派青春映画を狙った配役もよく似ている。江原真二郎は2年後、丘ではなく中原と結婚してしまった。
清貧青春映画のノスタルジーが好きならともかく、二人がなけなしの金でデートをする話に今更共感も感動もない。男はすぐに女の金を頼るし、暴力的。金を借りたのが、好きな人妻の亭主の入院費のためだったと知って、良いことをしたと恋人と仲直りするというのも安直。理由も聞かずに金を貸す方も貸す方だが、人妻を助けるために人から返せる当てのない金を借りるのが善行なのか? 疑問が疑問を呼ぶシナリオに、まずは金返せ!だろうと突っ込みを入れたくなる。貧しい二人のために疵物セール品にわざと鋏を入れて安くしてあげる店主の気風も、なんかな~という感じ。
しかし、そうは考えないのが新藤兼人の脚本で、似非善人臭が鼻につくが、物語とは別に当時の物価がわかるのが興味深い。
本作の最大の見どころは、主人公がSLの釜焚きのため、C60などのSLの走行シーンがふんだんにみられることで、車庫に入るシーンで火を落とすところや、転車台などの貴重映像はSLファンならずともため息が出る。 (評価:2.5)
公開:1958年10月1日
監督:家城巳代治 脚本:新藤兼人 撮影:宮島義勇 美術:北川弘 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:5位
SLの釜焚きの青年(江原真二郎)と女工員(丘さとみ)の清く貧しい恋愛を描いた、戦後高度成長期前の作品。湘南っぽい町に暮らす二人は、公休に海水浴に行こうと水着を買いに出かける。
ところが二人で貯めた結婚資金を青年が競輪と酒に溺れる幼馴染み(仲代達矢)に貸してしまったことからひと悶着。デートしながら喧嘩して、結局仲直りというストーリーコンセプトは黒澤明の『素晴らしき日曜日』(1947)をなぞっている。
『素晴らしき日曜日』の中北千枝子同様、丘さとみも妹役の中原ひとみほどには美人ではなく、庶民派青春映画を狙った配役もよく似ている。江原真二郎は2年後、丘ではなく中原と結婚してしまった。
清貧青春映画のノスタルジーが好きならともかく、二人がなけなしの金でデートをする話に今更共感も感動もない。男はすぐに女の金を頼るし、暴力的。金を借りたのが、好きな人妻の亭主の入院費のためだったと知って、良いことをしたと恋人と仲直りするというのも安直。理由も聞かずに金を貸す方も貸す方だが、人妻を助けるために人から返せる当てのない金を借りるのが善行なのか? 疑問が疑問を呼ぶシナリオに、まずは金返せ!だろうと突っ込みを入れたくなる。貧しい二人のために疵物セール品にわざと鋏を入れて安くしてあげる店主の気風も、なんかな~という感じ。
しかし、そうは考えないのが新藤兼人の脚本で、似非善人臭が鼻につくが、物語とは別に当時の物価がわかるのが興味深い。
本作の最大の見どころは、主人公がSLの釜焚きのため、C60などのSLの走行シーンがふんだんにみられることで、車庫に入るシーンで火を落とすところや、転車台などの貴重映像はSLファンならずともため息が出る。 (評価:2.5)
製作:東宝
公開:1958年4月22日
監督:稲垣浩 製作:田中友幸 脚本:伊丹万作、稲垣浩 撮影:山田一夫 美術:植田寛 音楽:團伊玖磨
キネマ旬報:7位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
板妻ほどに松五郎の純情が伝わらないのが残念
岩下俊作の小説『富島松五郎伝』が原作。
同じ稲垣浩監督の1943年版『無法松の一生』に続く2回目の映画化。検閲によるカットを受けた前作の完全版を制作するためのリメイク版で、印象的な人力車の車輪のシーンを始め、映像的にも前作を踏襲している。
もっとも2作を比較して見ると、カットされたシーンを含めて前作の方が出来が良い。
その一番は、未亡人となった軍人の妻・よし子と、彼女に思いを寄せる松五郎のキャスティングの違いにあって、儚げでくずおれてしまいそうな園井恵子のよし子に比べると、高峰秀子のよし子は気丈で、支えてあげたいという男心を呼び起さない。
よし子に思いを寄せる三船敏郎の松五郎も豪放磊落なだけで、繊細な純情を併せ持つ阪東妻三郎の名演には遠く及ばず、車夫が子供に父親のような感情を持ち、夫人に対する同情心が恋慕に変っていく変化が演じられていない。
前作でカットされた松五郎が夫人に思いを語ろうとするシーンも、唐突で野暮ったい上に、その後酒に溺れる様子が下卑ていて、松五郎の純情が伝わらないのが残念なところ。
ヴェネツィア映画祭金獅子賞。 (評価:2.5)
公開:1958年4月22日
監督:稲垣浩 製作:田中友幸 脚本:伊丹万作、稲垣浩 撮影:山田一夫 美術:植田寛 音楽:團伊玖磨
キネマ旬報:7位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
岩下俊作の小説『富島松五郎伝』が原作。
同じ稲垣浩監督の1943年版『無法松の一生』に続く2回目の映画化。検閲によるカットを受けた前作の完全版を制作するためのリメイク版で、印象的な人力車の車輪のシーンを始め、映像的にも前作を踏襲している。
もっとも2作を比較して見ると、カットされたシーンを含めて前作の方が出来が良い。
その一番は、未亡人となった軍人の妻・よし子と、彼女に思いを寄せる松五郎のキャスティングの違いにあって、儚げでくずおれてしまいそうな園井恵子のよし子に比べると、高峰秀子のよし子は気丈で、支えてあげたいという男心を呼び起さない。
よし子に思いを寄せる三船敏郎の松五郎も豪放磊落なだけで、繊細な純情を併せ持つ阪東妻三郎の名演には遠く及ばず、車夫が子供に父親のような感情を持ち、夫人に対する同情心が恋慕に変っていく変化が演じられていない。
前作でカットされた松五郎が夫人に思いを語ろうとするシーンも、唐突で野暮ったい上に、その後酒に溺れる様子が下卑ていて、松五郎の純情が伝わらないのが残念なところ。
ヴェネツィア映画祭金獅子賞。 (評価:2.5)
製作:東宝
公開:1958年12月28日
監督:黒澤明 製作:藤本真澄、黒澤明 脚本:菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明 撮影:山崎市雄 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:2位
ブルーリボン作品賞
雪姫・上原美佐の太股も露わなショートパンツ姿は必見
黒澤作品の中でも肩の力の抜けたエンタテイメント映画。物語的には矛盾点も多くご都合主義だったりするが、細かいことは気にしないという姿勢で作られている。
姫と軍資金を運ぶというのが話の骨子だが、大量の金塊を軽々と運んだり、わざわざガレ場をよじ登ったり、突然人や敵が降って湧いたり、モスラ踊り風火祭りを踊ったりと結構珍妙。しかし、騎馬での戦闘シーンなどアクションシーンは迫力十分で、一難去ってまた一難という、スペクタクル映画のセオリーを確立している。
芸達者な千秋実と藤原釜足が漫才コンビを組み、コメディの演じられない三船敏郎を引き立てながら、映画全体をコミカルに引っ張る。姫は太股も露わなショートパンツ姿で徹頭徹尾お色気を振り撒き、寝姿も披露して観客サービスに抜かりはないという、黒澤には珍しいナンパ系映画。ストーリーがない分をアクションと漫才シーンで穴埋めするが、ガレ場のシーン等も無駄に長く、中盤の藤田進との決闘もシナリオ的には中だるみをなくすために無理やり挿入した感があって、全体が若干冗長。 (評価:2.5)
公開:1958年12月28日
監督:黒澤明 製作:藤本真澄、黒澤明 脚本:菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明 撮影:山崎市雄 音楽:佐藤勝 美術:村木与四郎
キネマ旬報:2位
ブルーリボン作品賞
黒澤作品の中でも肩の力の抜けたエンタテイメント映画。物語的には矛盾点も多くご都合主義だったりするが、細かいことは気にしないという姿勢で作られている。
姫と軍資金を運ぶというのが話の骨子だが、大量の金塊を軽々と運んだり、わざわざガレ場をよじ登ったり、突然人や敵が降って湧いたり、モスラ踊り風火祭りを踊ったりと結構珍妙。しかし、騎馬での戦闘シーンなどアクションシーンは迫力十分で、一難去ってまた一難という、スペクタクル映画のセオリーを確立している。
芸達者な千秋実と藤原釜足が漫才コンビを組み、コメディの演じられない三船敏郎を引き立てながら、映画全体をコミカルに引っ張る。姫は太股も露わなショートパンツ姿で徹頭徹尾お色気を振り撒き、寝姿も披露して観客サービスに抜かりはないという、黒澤には珍しいナンパ系映画。ストーリーがない分をアクションと漫才シーンで穴埋めするが、ガレ場のシーン等も無駄に長く、中盤の藤田進との決闘もシナリオ的には中だるみをなくすために無理やり挿入した感があって、全体が若干冗長。 (評価:2.5)
公開:1958年4月15日
監督:今井正 製作:山田典吾 脚本:橋本忍、新藤兼人 撮影:中尾駿一郎 美術:水谷浩 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:6位
近松門左衛門の浄瑠璃『堀川波鼓』が原作。
実話を基にした戯曲で、江戸詰めの鳥取藩士・小倉彦九郎(三國連太郎)が国許に戻ると留守中に妻・お種(有馬稲子)が京の鼓師・宮地源右衛門(森雅之)と不義密通を働いていたという噂を耳にする。物語は、関係者の証言を基に噂を解き明かしていくというもので、妹・同僚・お種の順に真相が二転三転する形式を採る。
不義密通が明らかとなり、自害しきれぬお種を彦九郎が斬り、養子にしたお種の弟妹とともに京で宮地源右衛門を討ち女敵討ちを果たす。
やむにやまれず不義を働いたヒロイン・お種の悲劇性を描くが、お種に一分の理もないところが辛いところ。不義密通は町人でも死罪で、武家の妻だからという封建体制批判をテーマにすることもできず、ヒューマニスト・今井正としては原作をなぞるだけの中途半端な作品になっている。
原作ではお種が宮地源右衛門の子を身籠り、一族が汚名を着ることになるが、それを描かなかったのがせめてものフェミニズムか。
俳優陣の演技も、作品内でのお種の立ち位置の不明瞭さを反映してかどことなく遠慮がちで、お種に言い寄る金子信雄の嫌らしさと一族・東野英治郎の悪役ぶりを除くと、今一つ。
その中でも、当時、市川崑とドロドロの関係だった有馬稲子の不倫葛藤ぶりが、そう思うと迫真の演技に見える。 (評価:2.5)
白蛇伝
公開:1958年10月22日
監督:藪下泰司 製作:大川博 脚本:藪下泰司 原画:大工原章、森康二 撮影:塚原孝吉、石川光明 美術:岡部一彦、橋本潔 音楽:木下忠司、池田正義、鏑木創
中国の説話『白蛇伝』を題材に作られた79分の日本初のカラー長編アニメーション。
杭州西湖の岬に住む少年・許仙は、大人たちに叱られて飼っていたペットの小さな白蛇を野に捨てる。十数年後、落雷によって白蛇は妖怪に変化。美女の白娘となって許仙を誘うが、これを見抜いた高僧・法海に仲を裂かれる。許仙は白娘を追うが崖から落ちて落命。白娘は竜王に頼んで妖力と引き換えに許仙を生き返らす。そうとは知らぬ法海は白娘を阻み、白娘は嵐の海で溺れてしまうが、許仙が助けようとするのを見て法海は白娘が人間に生まれ変わったことを知り、二人は仲良く船出する、というのが大筋。
ストーリーそのものはよくある異類婚姻譚で、筋を追うだけで物語に膨らみも工夫も情感もなく、説話だからと諦めないと単純すぎてつまらない。
本作は、戦後日本のアニメーターたちが手探りで長編アニメーションを作ったという点に意味があり、冒頭の切り絵や山水画、東洋風の幻想的な絵画表現、ライブアクションによる人物のリアルな動き、ディズニー風のデフォルメした動物等の動き、花火や嵐のシーンなど、アニメーションの様々な技法を試している。
もっともこれらの実験的な試みは裏を返せば、統一感のない作品となっていて、ラブストーリーとしては大人向け、カトゥーンとしては子供向けで観客層も絞られていない。
許仙と白娘の二人が船出して終わるハッピーエンドも、これからどこに行くの? という中途半端さで、メデタシメデタシというお伽噺にはなっていない。
声の出演は森繁久彌と宮城まり子で、二人が様々な声色でキャラクターを演じ分けていて、『まんが日本昔ばなし』の市原悦子と常田富士男の原型ともなっている。とりわけ、宮城まり子が出色の出来。 (評価:2.5)
駅前旅館
公開:1958年7月12日
監督:豊田四郎 製作:佐藤一郎 脚本:八住利雄 撮影:安本淳 美術:松山崇 音楽:團伊玖磨
井伏鱒二の同名小説が原作。
東京・上野駅前にある柊元旅館の番頭・次平(森繁久彌)を中心に世相を描く社会喜劇。モデルの柊元旅館は1990年代まで営業していた実在の旅館で、映画では東上野にある。
戦後の高度経済成長が始まった頃の話で、当時の東京の東玄関・上野駅周辺の旅館も時代の波に大きく変化しつつあった。エピソードとして描かれるのは、従来の個人客から修学旅行や社員旅行の団体客が中心となった旅館の姿で、旅行代理店の指定旅館になれば電話一本で集客が見込め、それまで番頭が旅館前で個人客を客引きして腕を振るう時代が終わりつつあった。
治平はそのような古いタイプの番頭で、旅館女中の私生児として生まれ、昔ながらの旅館のシステムの中で育ち、口八丁手八丁で生き抜いてきた。
時代が変わり番頭の仕事は事務となり、次平のような番頭は求められていない。同様に、上野駅構内で客引きをして旅館に斡旋、紹介料で稼ぐカッパも仕事を失いつつある。
冒頭、駅構内での客引きが禁じられていることがわかるエピソードがあるが、そうした中、カッパに女中を引き抜かれたことから、治平ら旅館の番頭が客引き追放の立て看板を駅前に出してカッパらとトラブルになり、行きがかりから治平が旅館を辞めると言い出すと、これ幸いと旅館の女将(草笛光子)に番頭を追い出される。
古いタイプの番頭として腕を振るえる旅館を求めて山梨・昇仙峡へ旅立つ次平と、それを追ってくる小料理屋の女将(淡島千景)の粋な再出発で幕を閉じる、日本の繁栄と共に去っていく時代と人情への哀愁のドラマとなっている。
番頭仲間に伴淳三郎、フランキー堺、多々良純、柊元の主人に森川信と芸達者を揃え、流れるような会話と筋運びが気持ちいい。
冒頭、当時の上野駅前をパンする風景が貴重。はとバスや単線の中央本線も登場する。 (評価:2.5)
製作:大映東京
公開:1958年06月22日
監督:増村保造 製作:永田秀雅 脚本:白坂依志夫 撮影:村井博 音楽:塚原晢夫 美術:下河原友雄
キネマ旬報:10位
一粒300メートルを走り抜いた時代が今は遠い景色
開高健の同名小説が原作。東京タワーが完成し、日本の高度成長胎動期の作品で、映画にはその気分がみなぎっている。
製菓会社宣伝部に勤める主人公がキャラメルの販売競争を巡ってライバル2社と熾烈な争いを繰り広げる話。当時キャラメルの老舗は森永製菓・明治製菓・江崎グリコで、栄養価の高い商品としてネオン広告塔やテレビCM・景品などの派手な宣伝活動をしていたことを知らないと、たかがキャラメル如きで大騒ぎの滑稽作品に見えてしまう。
ライバル社に親友と恋人ができてしまうというストーリーはご都合主義で、当時としては意味のあった本作も、現在観るとばかばかしくて虚しい。ただ、半世紀前の日本にこうした世俗の時代があったことを記録するということでは多少の意味がある。
増村が描きたかったのは、日本が戦後復興を果たし経済的にイケイケ気分の時に、それに翻弄され人間性を失っていく悲しい人たち。ラストでタレントに逃げられて仕方なく宣伝用の宇宙服を着て街頭を歩く探検隊長・川口浩の姿に象徴され、それでも恋人から笑いなさいといわれてサラリーマン戦士の悲壮な笑みを浮かべるのが悲しい。
現代にも通じる話だが、テーマとしては過去のもので今はもっと根深い。社会派作品は時代を経るとどうしても古びてしまう。
登場人物はみな早口で演出のテンポも忙しないくらいに早く、時代の奔流とそれに乗り流されていく人々を効果的に描く。野添ひとみがCMアイドル役を好演。2年後に川口と結婚するが、川口は51歳、野添は58歳で早世し、この映画と同じように時代を生き急いだ。 (評価:2)
公開:1958年06月22日
監督:増村保造 製作:永田秀雅 脚本:白坂依志夫 撮影:村井博 音楽:塚原晢夫 美術:下河原友雄
キネマ旬報:10位
開高健の同名小説が原作。東京タワーが完成し、日本の高度成長胎動期の作品で、映画にはその気分がみなぎっている。
製菓会社宣伝部に勤める主人公がキャラメルの販売競争を巡ってライバル2社と熾烈な争いを繰り広げる話。当時キャラメルの老舗は森永製菓・明治製菓・江崎グリコで、栄養価の高い商品としてネオン広告塔やテレビCM・景品などの派手な宣伝活動をしていたことを知らないと、たかがキャラメル如きで大騒ぎの滑稽作品に見えてしまう。
ライバル社に親友と恋人ができてしまうというストーリーはご都合主義で、当時としては意味のあった本作も、現在観るとばかばかしくて虚しい。ただ、半世紀前の日本にこうした世俗の時代があったことを記録するということでは多少の意味がある。
増村が描きたかったのは、日本が戦後復興を果たし経済的にイケイケ気分の時に、それに翻弄され人間性を失っていく悲しい人たち。ラストでタレントに逃げられて仕方なく宣伝用の宇宙服を着て街頭を歩く探検隊長・川口浩の姿に象徴され、それでも恋人から笑いなさいといわれてサラリーマン戦士の悲壮な笑みを浮かべるのが悲しい。
現代にも通じる話だが、テーマとしては過去のもので今はもっと根深い。社会派作品は時代を経るとどうしても古びてしまう。
登場人物はみな早口で演出のテンポも忙しないくらいに早く、時代の奔流とそれに乗り流されていく人々を効果的に描く。野添ひとみがCMアイドル役を好演。2年後に川口と結婚するが、川口は51歳、野添は58歳で早世し、この映画と同じように時代を生き急いだ。 (評価:2)
製作:松竹大船
公開:1958年9月7日
監督:小津安二郎 製作:山内静夫 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順
キネマ旬報:3位
原節子が出演していないのが特色といえば特色
里見弴の同名小説が原作。
2人の娘を持つ父親(佐分利信)が長女(有馬稲子)の恋愛結婚に反対しながらも、結局は周囲の応援で娘を祝福するという物語。この手の父娘もので原節子が出演していないのが特色といえば特色だが、今ひとつ精彩を欠く。
むしろ、友人である笠智衆と久我美子の父娘の断絶の方が小津映画らしくて、こちらが主題の作品だったほうが良かったかもしれない。
子供の結婚は親が決めるものという考えが主流だった頃の物語で、自由恋愛という戦後の新潮流の中で苦悶する父親という、当時としては非常に一般的なテーマだったが、今見ると時代の変遷に朽ちてしまったところがあって、博物館の倉庫入りといった内容。
長女の恋人(佐田啓二)が佐分利の会社を突然訪ねてきて、結婚許可を申し出るのも違和感ありありで、ストーリー的にも練れていない感がある。
馴染みの京都の旅館の母娘、浪花千栄子と山本富士子が好演していて、とりわけ山本富士子のおきゃんな娘がいいが、佐分利の妻役の田中絹代が今ひとつ冴えない。
映像的には小津の様式美が徹底されているが、形式的になり過ぎているきらいもあって、とりわけスクリーン中央正面顔の台詞シーンは、他作品に比べて不自然感が強い。 (評価:2)
公開:1958年9月7日
監督:小津安二郎 製作:山内静夫 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順
キネマ旬報:3位
里見弴の同名小説が原作。
2人の娘を持つ父親(佐分利信)が長女(有馬稲子)の恋愛結婚に反対しながらも、結局は周囲の応援で娘を祝福するという物語。この手の父娘もので原節子が出演していないのが特色といえば特色だが、今ひとつ精彩を欠く。
むしろ、友人である笠智衆と久我美子の父娘の断絶の方が小津映画らしくて、こちらが主題の作品だったほうが良かったかもしれない。
子供の結婚は親が決めるものという考えが主流だった頃の物語で、自由恋愛という戦後の新潮流の中で苦悶する父親という、当時としては非常に一般的なテーマだったが、今見ると時代の変遷に朽ちてしまったところがあって、博物館の倉庫入りといった内容。
長女の恋人(佐田啓二)が佐分利の会社を突然訪ねてきて、結婚許可を申し出るのも違和感ありありで、ストーリー的にも練れていない感がある。
馴染みの京都の旅館の母娘、浪花千栄子と山本富士子が好演していて、とりわけ山本富士子のおきゃんな娘がいいが、佐分利の妻役の田中絹代が今ひとつ冴えない。
映像的には小津の様式美が徹底されているが、形式的になり過ぎているきらいもあって、とりわけスクリーン中央正面顔の台詞シーンは、他作品に比べて不自然感が強い。 (評価:2)
製作:大映京都
公開:1958年08月19日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十、長谷部慶次 撮影:宮川一夫 音楽:黛敏郎 美術:西岡善信
キネマ旬報:4位
宮川一夫撮影の砂浜での葬列のシーンが美しい
三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作。主役の学僧に市川雷蔵、悪友に仲代達矢、僧正に中村鴈治郎、父に浜村純、母に北林谷栄、花の師匠に新珠三千代、学僧を迎える遊女に中村玉緒という、今から見れば豪華布陣。
原作を多少アレンジしていて、金閣寺も架空の寺になっている。和田夏十の脚本は学僧の吃音に重きを置いていて、そのためにコンプレックスと周囲からの差別を感じて孤立していくという、放火に至る心理のわかりやすい話になっている。僧正を始めとする寺の僧侶たちの腐敗、叔父と不倫する母、悪友と関係する女たちという、日本の敗戦とそれに伴う周囲の堕落を強調し、世俗化する出家たちの中でそれらを超越した金閣の孤高を学僧自らにシンクロさせる。
純化され、堕落から守るべき存在としての金閣と、それと運命をともにする学僧という金閣寺放火事件や原作に対する解釈の是非は別にしても、生臭坊主の中村鴈治郎の演技などステレオタイプなところがあってやや鼻白む。
シナリオ的にはテーマはわかりやすいが、市川雷蔵の心理描写が薄くてドラマ的にはやや退屈する。学僧の葛藤や金閣に対する美意識が伝わってこないのも物足りない。和田夏十のシナリオは現実主義的でわかりやすいということか。
映像的には寺や建物内が日本的で美しく、とりわけ砂浜での父の葬列のシーンが美しい。カメラは宮川一夫。 (評価:2)
公開:1958年08月19日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十、長谷部慶次 撮影:宮川一夫 音楽:黛敏郎 美術:西岡善信
キネマ旬報:4位
三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作。主役の学僧に市川雷蔵、悪友に仲代達矢、僧正に中村鴈治郎、父に浜村純、母に北林谷栄、花の師匠に新珠三千代、学僧を迎える遊女に中村玉緒という、今から見れば豪華布陣。
原作を多少アレンジしていて、金閣寺も架空の寺になっている。和田夏十の脚本は学僧の吃音に重きを置いていて、そのためにコンプレックスと周囲からの差別を感じて孤立していくという、放火に至る心理のわかりやすい話になっている。僧正を始めとする寺の僧侶たちの腐敗、叔父と不倫する母、悪友と関係する女たちという、日本の敗戦とそれに伴う周囲の堕落を強調し、世俗化する出家たちの中でそれらを超越した金閣の孤高を学僧自らにシンクロさせる。
純化され、堕落から守るべき存在としての金閣と、それと運命をともにする学僧という金閣寺放火事件や原作に対する解釈の是非は別にしても、生臭坊主の中村鴈治郎の演技などステレオタイプなところがあってやや鼻白む。
シナリオ的にはテーマはわかりやすいが、市川雷蔵の心理描写が薄くてドラマ的にはやや退屈する。学僧の葛藤や金閣に対する美意識が伝わってこないのも物足りない。和田夏十のシナリオは現実主義的でわかりやすいということか。
映像的には寺や建物内が日本的で美しく、とりわけ砂浜での父の葬列のシーンが美しい。カメラは宮川一夫。 (評価:2)
陽のあたる坂道
公開:1958年4月15日
監督:田坂具隆 製作:坂上静翁 脚本:田坂具隆、池田一朗 撮影:伊佐山三郎 美術:木村威夫 音楽:佐藤勝
石坂洋次郎の同名小説が原作。
アナクロの青春小説で、時代性を差し引いても普遍性のない凡作。田坂具隆はところどころコミカルに演出しているが、今となっては失笑に近い。
目黒区緑が丘の出版社社長(千田是也)一家の物語で、専業主婦の妻(轟夕起子)、長男(小高雄二)は医者の卵、次男(石原裕次郎)は画家、長女(芦川いづみ)が高校生の5人家族。
次男は父が芸者(山根寿子)に産ませた子で、秘密のはずが本人を含めて全員が知っているという仮面家族。そこに芸者をやめて仲居となった女と同じアパートに暮らす女子大生(北原三枝)が長女の家庭教師でやってきたことから、家庭に波瀾を巻き起こすというドラマ。
仲居には次男の種違いの弟となるジャズ歌手の息子(川地民夫)がいて、長女がファンだったことから、長男=家庭教師=次男、長女=ジャズ歌手の恋愛模様となる。
ここまでなら血縁と恋愛がスクランブルになったよくあるドラマで済むが、今では笑えないセクハラや身障者差別のオンパレードで、すこぶる味が悪い。その上、種違いの兄弟が殴り合って和解、腹違いの兄弟も殴って和解と、ファンタジックな暴力信仰まで登場して、褒めるところがない。
石坂洋次郎らしく一家の台詞もバカ丁寧な山の手言葉、青森出身のリンゴ娘の家庭教師まで感化されて気色が悪く、川地民夫の歌も下手糞。
そんな中で北原三枝が熱演し、2年後に結婚する裕次郎とのキスシーンだけが妙にリアルなのが、せめてもの救いか。 (評価:2)
点と線
公開:1958年11月11日
監督:小林恒夫 脚本:井手雅人 撮影:藤井静 美術:田辺達 音楽:木下忠司
松本清張の同名小説が原作。
博多郊外の海岸で男女の心中死体が発見されるが、関係が浅く、男(成瀬昌彦)が商工省の課長補佐で上司(三島雅夫)の汚職捜査中であったことから、証拠隠滅の他殺を疑う捜査2課刑事(南広)が捜査を開始。
偽装心中には商工省出入り業者夫妻(山形勲、高峰三枝子)が手を貸していることわかるが、夫の裏切りを知った妻が無理心中して真相は闇に葬られるという結末。
時刻表トリックを使ったミステリーとして有名な作品で、東京駅ホームでの4分間の間隙を縫った目撃証言の作為性が、事件解決への鍵となる。
ただ本作では、当初より刑事の見込み捜査が相当に強引で、トリック解明への段取り感が表面に出過ぎていて、ミステリーとしての興趣を削ぐ。
官僚の汚職事件という社会派ドラマにもなってなく、刑事ものとしてのヒューマンドラマになっているわけでもなく、段取りを踏んだミステリー原作の映画化という以外に見どころがないのが何とも残念な作品。
福岡の刑事に加藤嘉、捜査二課係長に志村喬の配役が生きていない。 (評価:2)
製作:新東宝
公開:1958年7月13日
監督:中川信夫 製作:大藏貢 脚本:藤島二郎、石川義寛 撮影:西本正 美術:黒沢治安 音楽:渡辺宙明
設定もストーリーも杜撰で今一つ化け猫に迫力がない
橘外男の小説『怪猫屋敷』が原作。
医師が病気の妻の療養のために故郷の廃屋に引っ越してくるところから物語は始まる。なぜか妻にしか見えない猫老婆が棲みついていて、なぜか首を絞める。そこに檀那寺の住職がやってきて、呪われた家の話を始めるというのが現代篇で、モノクロ。話は江戸時代に飛んでカラーとなる。
家老の屋敷を舞台に話が展開するが、現代のさして大きくもないボロ家が江戸時代の建物、しかも家老の屋敷だというから驚く。その家老が好色なのはともかく、指導碁で負けたくらいで指南役を斬ってしまうほどに短気…というよりは狂気。指南役の若先生も「勝負でござる」の一点張りで大人げないのも笑止。
若くもない指南役の母が家老にレイプされ自害するというトンデモナイ展開となり、愛猫が恨みの籠った血を舐めて化け猫となる。家老は化け猫の幻影に振り回されて息子、その恋人、実母を切り捨てるというのはお岩の引用。話は再びモノクロの現代に戻り、壁に塗りこめられた指南役の骨を供養して化け猫は成仏する。
では化け猫に憑依したのは誰の怨霊かというのが謎で、俳優は家老の老母だが、指南役の母でないと筋が通らない。
最後まで化け猫の正体が不明で、そもそも愛猫自身は殺されていないので、猫の怨霊というには物足りない。
そんなこんなで設定もストーリーも杜撰な上に、化け猫が医師の妻を襲う理由が家老の使用人の子孫だからというとばっちりで、今一つ化け猫に迫力がない。
それでも、中川信夫はそれなりのホラー演出で、プロローグの現代篇は古典的なロングショットながらも思わず背筋に震えが走る。 (評価:2)
公開:1958年7月13日
監督:中川信夫 製作:大藏貢 脚本:藤島二郎、石川義寛 撮影:西本正 美術:黒沢治安 音楽:渡辺宙明
橘外男の小説『怪猫屋敷』が原作。
医師が病気の妻の療養のために故郷の廃屋に引っ越してくるところから物語は始まる。なぜか妻にしか見えない猫老婆が棲みついていて、なぜか首を絞める。そこに檀那寺の住職がやってきて、呪われた家の話を始めるというのが現代篇で、モノクロ。話は江戸時代に飛んでカラーとなる。
家老の屋敷を舞台に話が展開するが、現代のさして大きくもないボロ家が江戸時代の建物、しかも家老の屋敷だというから驚く。その家老が好色なのはともかく、指導碁で負けたくらいで指南役を斬ってしまうほどに短気…というよりは狂気。指南役の若先生も「勝負でござる」の一点張りで大人げないのも笑止。
若くもない指南役の母が家老にレイプされ自害するというトンデモナイ展開となり、愛猫が恨みの籠った血を舐めて化け猫となる。家老は化け猫の幻影に振り回されて息子、その恋人、実母を切り捨てるというのはお岩の引用。話は再びモノクロの現代に戻り、壁に塗りこめられた指南役の骨を供養して化け猫は成仏する。
では化け猫に憑依したのは誰の怨霊かというのが謎で、俳優は家老の老母だが、指南役の母でないと筋が通らない。
最後まで化け猫の正体が不明で、そもそも愛猫自身は殺されていないので、猫の怨霊というには物足りない。
そんなこんなで設定もストーリーも杜撰な上に、化け猫が医師の妻を襲う理由が家老の使用人の子孫だからというとばっちりで、今一つ化け猫に迫力がない。
それでも、中川信夫はそれなりのホラー演出で、プロローグの現代篇は古典的なロングショットながらも思わず背筋に震えが走る。 (評価:2)
悪徳
公開:1958年2月19日
監督:佐分利信 脚本:猪俣勝人 撮影:木塚誠一 美術:伊藤寿一 音楽:佐藤勝
船山馨の同名小説が原作。
商事会社に勤める野心たっぷりの青年・岩瀬(木村功)が主人公。
戦後の混乱から日本が経済復興した時代。加治(佐分利信)が社長を務める会社は、出資した企業を謀って乗っ取るようなアコギで、表は紳士的だが、裏では取り立て屋の榊原(嵯峨善兵)を使って非合法も厭わない。
用心棒の役目を引き受けて加治に取り入る岩瀬は目端が利いて、汚れ仕事を引き受けるうちに加治の裏の姿を学び、己も加治足らんとして悪徳に塗れるという物語。
恋人(水谷良重)の父(織田政雄)を騙して経営するミシン会社の乗っ取りに一役買い、店をとられたバーのママも情報源に利用。挙句は加治の妻(大塚道子)に夫の悪事をバラして寝とってしまうという、野心のためなら女も道具という男。
しかし因果応報、裏切られた恋人の復讐によって加治もろとも岩瀬も滅びるというラスト。
戦後の一時代を切り取った社会派作品だが、今となればつまらない昔話を聞かせられている感じで、ピカレスクのロマンの香りもない。 (評価:2)
錆びたナイフ
公開:1958年3月11日
監督:舛田利雄 製作:水の江滝子 脚本:石原慎太郎、舛田利雄 撮影:高村倉太郎 美術:松山崇 音楽:佐藤勝
石原慎太郎と舛田利雄の脚本で、ジャンル的には社会派ミステリーだが、話は主演の石原裕次郎を中心に組み立てられているため、ドラマ的には破綻していて、ミステリーとしての体裁をなしていない。
恋人をレイプした男を刺殺したために前科者となった主人公を裕次郎が演じるが、お坊ちゃん顔ではセレブな不良大学生でせいぜいで、元ヤクザという設定がどうにもしっくりこない。
これに運送会社を経営する町のヤクザ(杉浦直樹)を一掃しようとする刑事(安井昌二)が絡むが、裕次郎が杉浦の市会議員殺害を目撃したことから証言を依頼。世のはみ出し者を自認する石原がこれを忌避している間に、目撃者仲間が2人殺され、レイプの裏に杉浦と黒幕がいることを知って、私怨から2人に落とし前をつけようとする・・・というのが筋。
スタートから杉浦が多羅尾伴内的な大向こうを意識したような大仰なセリフを吐き、プログラムピクチャー的B級感たっぷりで、それなりなのだが、裕次郎と殺された市会議員の娘・北原三枝が出てくるあたりから裕ちゃんのカッコつけが始まり、多羅尾伴内がただの悪役になってしまう。
この杉浦が逮捕されると、黒幕の手下がアポなしで警察署内に面会に現れ、毒饅頭を差し入れる。これを覚悟の上で杉浦は食うが、大量に食うため毒に当たったのか窒息したのか訳がわからず、おまけに警官は自殺だとほざいて、毒饅頭の出所も捜査せず、刑事はこれで迷宮入りだと諦めてしまう。
それでも裕次郎が警察内部にスパイを発見するが、これが黒幕からアマチュア無線で定時連絡を受けていたという北朝鮮の工作員もどき。
ラストは、黒幕である殺害された議員の政敵と裕ちゃんのタイマン勝負となるが、市会議員のオッサンのくせして仕込み杖を持っていて、裕ちゃんと戦うというのがどう見ても無理がある。
最後は逃げ出すところを乗ってきた車に撥ねられて、さらにその裏に黒幕がいるんじゃないかと普通なら考えるところを、一件落着とばかりに刑事もオッサンの死体をほったらかしにして、傷心の裕ちゃんを慰めてやれと北原三枝にアドバイスするというアンポンタンぶり。
去って行く裕ちゃんの後ろすがたに地面に突き刺さった錆びたナイフがアップとなり、エンドマークがズームインしてくるのを眺めながら、事件はまだ解決しちゃいないぞ! と叫びたくなる。
裕次郎ファンはこれで満足なのか! とエンドマークが空しい作品。 (評価:1.5)
大怪獣バラン
公開:1958年10月14日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 撮影:小泉一 美術:清水喜代志 音楽:伊福部昭 特技監督:円谷英二
黒沼健の小説が原作。
どうすればこれだけつまらない話を1時間半もの映画に出来るのかというのが最大の謎というか見どころで、30分にしかならないストーリーを特撮シーンで引っ張れるだけ引っ張って、膨らましたとしか考えられない。
日本のチベット東北の隠れ里で、秘境の人々に神と崇められている中生代の怪獣バラン、という差別的かつトンデモ設定で、シベリアにしかいない蝶が日本のチベットで発見されたと調査にやってきた研究者がバランに遭遇。理由のわからない暴風に煽られ、踏み潰されて死んでしまうが、チベットの割にはジープが通れるくらいに道は整備されている。
次に仲間と新聞記者がやってきて、今度はなぜかジャングルに踏み込んで、自衛隊まで呼んでバランを追い立て、何とバランは空を飛んで太平洋に逃げてしまう。陸海空と縦横無尽な上に銃弾を撥ね退けてしまう無敵のバランに雨あられの砲弾を浴びせるだけという芸のない攻撃をしかけ、知恵のないアイデアを繰り返すという、1行で済むようなシナリオを1時間近くの映像にして、最後は東京湾で新型火薬なるものを投下。バランが呑み込んで仕留めるという、ナンダカナーのエンド。
冒頭から伊福部昭とは思えない音楽で始まり、本多猪四郎とは思えない演出の酷さ。そもそも、OKが出たのが不思議な企画とシナリオで、本当に本多が作ったのか? と疑念がわく。
その穴埋めを特撮陣がカバーしているのは確かで、ひょっとして特撮映像のプレゼン用に作った映画かと本気で思ってしまう。一部は自衛隊の訓練映像や実際の発破のようなフィルムが使われていて結構リアルだったりする。
配役も今ひとつ。 (評価:1)