日本映画レビュー──1951年
製作:松竹大船
公開:1951年3月21日
監督:木下恵介 製作:月森仙之助 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 音楽:木下忠司 美術:小島基司
キネマ旬報:4位
新時代の空気で故郷を総天然色に染め上げる名作
日本初の長編カラー映画作品。
最初に見たのは40年前で、日本初総天然色映画というよりも内容に感銘を受けた作品。改めて見直して、半世紀以上経ってなお、木下惠介の制作意図を超えて様々な見方・考え方をさせられる。
女性映画として見た場合は、ストリップを芸術と思い込まされている少々おつむの軽い女の悲喜劇で、故郷の人々の嘲笑にも気づかずに、それでも戦後の新しい時代を強く生き抜く解放された女の姿として描かれた。そこには、偏見を超えた父娘の愛情が木下らしい情感によって共感を呼ぶ。
一方で、終戦によって新しく持ち込まれた価値観、民主主義・文化・芸術といったものが、学校でのフォークダンスや唱歌といった既成の道徳的形式主義から抜け出せず、カルメンの踊りが芸術か猥褻かといった文化論よりも遥かな通俗に、笠智衆の校長、佐野周二の作曲家を含めた村人たちが存在する。その中でも自然体で接する姉の望月優子が清々しい。
もう一つは、新しい時代に農村に依然として残る日本的土俗ないしは封建主義で、結局のところカルメンことおきんの凱旋は受け入れられず、故郷に錦を飾ることのできなかったおきんは小さな嵐を巻き起こしただけで、東京に生き場所を求めるしかない。彼女は好きだった佐野にオルガンを戻してあげ、都会の新時代の空気で故郷を総天然色に染め上げてはみたものの、結局のところ父親以外の誰からも感謝はされない。
そうした戦後間もない頃の日本の精神風土をよく描いた作品で、初のカラー映画ということもあって浅間山麓でのオールロケの自然の風景と、高峰秀子・小林トシ子の(当時としては)大胆なセミヌード姿が鮮やかな色彩で描かれる。
名女優・高峰秀子のそれこそ体当たりの演技なくしては生まれなかった作品で、時代的に演出に若干の立ち芝居的な難はあるものの、初カラーというだけでなく長く映画史に残る名作。 (評価:4.5)
公開:1951年3月21日
監督:木下恵介 製作:月森仙之助 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 音楽:木下忠司 美術:小島基司
キネマ旬報:4位
日本初の長編カラー映画作品。
最初に見たのは40年前で、日本初総天然色映画というよりも内容に感銘を受けた作品。改めて見直して、半世紀以上経ってなお、木下惠介の制作意図を超えて様々な見方・考え方をさせられる。
女性映画として見た場合は、ストリップを芸術と思い込まされている少々おつむの軽い女の悲喜劇で、故郷の人々の嘲笑にも気づかずに、それでも戦後の新しい時代を強く生き抜く解放された女の姿として描かれた。そこには、偏見を超えた父娘の愛情が木下らしい情感によって共感を呼ぶ。
一方で、終戦によって新しく持ち込まれた価値観、民主主義・文化・芸術といったものが、学校でのフォークダンスや唱歌といった既成の道徳的形式主義から抜け出せず、カルメンの踊りが芸術か猥褻かといった文化論よりも遥かな通俗に、笠智衆の校長、佐野周二の作曲家を含めた村人たちが存在する。その中でも自然体で接する姉の望月優子が清々しい。
もう一つは、新しい時代に農村に依然として残る日本的土俗ないしは封建主義で、結局のところカルメンことおきんの凱旋は受け入れられず、故郷に錦を飾ることのできなかったおきんは小さな嵐を巻き起こしただけで、東京に生き場所を求めるしかない。彼女は好きだった佐野にオルガンを戻してあげ、都会の新時代の空気で故郷を総天然色に染め上げてはみたものの、結局のところ父親以外の誰からも感謝はされない。
そうした戦後間もない頃の日本の精神風土をよく描いた作品で、初のカラー映画ということもあって浅間山麓でのオールロケの自然の風景と、高峰秀子・小林トシ子の(当時としては)大胆なセミヌード姿が鮮やかな色彩で描かれる。
名女優・高峰秀子のそれこそ体当たりの演技なくしては生まれなかった作品で、時代的に演出に若干の立ち芝居的な難はあるものの、初カラーというだけでなく長く映画史に残る名作。 (評価:4.5)
製作:松竹大船
公開:1951年10月3日
監督:小津安二郎 製作:山本武 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:1位
結婚をめぐる社会通念から解放された自由な女性像を描く
28歳で独身の紀子(原節子)の結婚を軸に展開するホームドラマ。結婚を人生の目的とはしない自立した女性像、家族・因習から独立した自由意志による結婚、家族の生滅流転のサイクルといった重層的なテーマを持っていて、よく噛むほどに味わいのある作品となっている。
とりわけ女と結婚をめぐる社会通念、女の幸せや結婚適齢期、良縁、玉の輿といったものから解き放たれ、自由な女性像を紀子に託しているのが新鮮で、終戦を境に古い殻から脱皮した新しい女性像を模索する小津のヒューマニズムと先進性に驚かされる。
もう一人、結婚から自由な女性に紀子の親友で築地の料亭の娘・アヤ(淡島千景)を配置し、結婚した女学校の友達と優劣を争わせるのが面白い。
職場の上司(佐野周二)が左団扇の中年男の縁談を勧めるが、それを触媒に紀子は戦死した次兄の親友で、子持ち男寡・謙吉(二本柳寛)との結婚を選ぶ。
これを紀子の心に空いた次兄の空白を埋めるものとの解説もあるが、紀子と謙吉が『チボー家の人々』について語るシーンがあり、二人がそれぞれに抱える人生の欠落感が共鳴し合った結果に感じられる。
人生はさまざまな生滅を繰り返し、その一つが次兄の戦死であり、謙吉の妻の死、友人たちの結婚、両親の老いと隠居がある。
それらを総括して、大和に隠居した両親の周吉(菅井一郎)と志げ(東山千栄子)が麦畑を眺めながら、紀子の結婚により家族の一つのサイクルを終え、紀子と長男・康一(笠智衆)が新たなサイクルを引き継いだことを語るのだが、全体を覆う無常感が作品に深い陰影を与えている。
『東京物語』(1953)と配役が重なっているが、夫婦の東山千栄子と笠智衆が本作では母子というように年齢が逆転しているのが面白い。 (評価:3)
公開:1951年10月3日
監督:小津安二郎 製作:山本武 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:1位
28歳で独身の紀子(原節子)の結婚を軸に展開するホームドラマ。結婚を人生の目的とはしない自立した女性像、家族・因習から独立した自由意志による結婚、家族の生滅流転のサイクルといった重層的なテーマを持っていて、よく噛むほどに味わいのある作品となっている。
とりわけ女と結婚をめぐる社会通念、女の幸せや結婚適齢期、良縁、玉の輿といったものから解き放たれ、自由な女性像を紀子に託しているのが新鮮で、終戦を境に古い殻から脱皮した新しい女性像を模索する小津のヒューマニズムと先進性に驚かされる。
もう一人、結婚から自由な女性に紀子の親友で築地の料亭の娘・アヤ(淡島千景)を配置し、結婚した女学校の友達と優劣を争わせるのが面白い。
職場の上司(佐野周二)が左団扇の中年男の縁談を勧めるが、それを触媒に紀子は戦死した次兄の親友で、子持ち男寡・謙吉(二本柳寛)との結婚を選ぶ。
これを紀子の心に空いた次兄の空白を埋めるものとの解説もあるが、紀子と謙吉が『チボー家の人々』について語るシーンがあり、二人がそれぞれに抱える人生の欠落感が共鳴し合った結果に感じられる。
人生はさまざまな生滅を繰り返し、その一つが次兄の戦死であり、謙吉の妻の死、友人たちの結婚、両親の老いと隠居がある。
それらを総括して、大和に隠居した両親の周吉(菅井一郎)と志げ(東山千栄子)が麦畑を眺めながら、紀子の結婚により家族の一つのサイクルを終え、紀子と長男・康一(笠智衆)が新たなサイクルを引き継いだことを語るのだが、全体を覆う無常感が作品に深い陰影を与えている。
『東京物語』(1953)と配役が重なっているが、夫婦の東山千栄子と笠智衆が本作では母子というように年齢が逆転しているのが面白い。 (評価:3)
製作:大映京都
公開:1951年1月13日
監督:吉村公三郎 製作:亀田耕司 脚本:新藤兼人 撮影:中井朝一 美術:水谷浩 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:3位
戦後再出発を拒む旧弊を京都・祇園に象徴させる
祇園を舞台に男たちから金を巻き上げて、身代を潰すとパトロンを乗り換えるという芸妓を京マチ子が爽快に演じる。
君蝶(京マチ子)は茶屋・靜乃家の娘で芸妓。茶屋は芸者を引退した母・きく(滝花久子)が営むが、亡くなった檀那に義理立てする古風な女で、そのために借金をし、結核で倒れた茶屋のもう1人の芸妓の面倒も見ているため、君蝶は金稼ぎに奔走。
妹の妙子(藤田泰子)にだけは堅気を通させようと、茶屋仲間の菊亭の息子で恋人の孝次(小林桂樹)との仲立ちをするが、菊亭の女将・千代(村田知英子)が靜乃家を蔑んで結婚を許さない。
君蝶は復讐とばかりに千代の檀那(進藤英太郎)を奪い、家の借金の穴埋めまでさせる。ついに千代と大喧嘩となり、優柔な孝次は張り倒すで大暴れ。因果応報で捨てた男(菅井一郎)に出刃で刺され入院するも、妙子と孝次は東京へ出立で君蝶の願いは成就するというお話。
終始強調されるのは、戦争で焼け残った京都が戦後日本の民主的再出発から立ち遅れていることで、君蝶はそうした旧体制に組み込まれながらも、旧弊に立ち向かい、妹には新生の道を歩ませようとする。
劇中、旧体制にいる者たちが京都弁を話すのに対し、妙子と孝次だけは標準語を話すが、不思議と違和感がない。その2人が、京都を離れて東京に向かうのも象徴的。
映像や美術も凝っていて、祇園の中を君蝶が裾振り乱して出刃で追い駆けられるシーンが見どころ。花柳界の一端を覗けるのも楽しい。 (評価:2.5)
公開:1951年1月13日
監督:吉村公三郎 製作:亀田耕司 脚本:新藤兼人 撮影:中井朝一 美術:水谷浩 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:3位
祇園を舞台に男たちから金を巻き上げて、身代を潰すとパトロンを乗り換えるという芸妓を京マチ子が爽快に演じる。
君蝶(京マチ子)は茶屋・靜乃家の娘で芸妓。茶屋は芸者を引退した母・きく(滝花久子)が営むが、亡くなった檀那に義理立てする古風な女で、そのために借金をし、結核で倒れた茶屋のもう1人の芸妓の面倒も見ているため、君蝶は金稼ぎに奔走。
妹の妙子(藤田泰子)にだけは堅気を通させようと、茶屋仲間の菊亭の息子で恋人の孝次(小林桂樹)との仲立ちをするが、菊亭の女将・千代(村田知英子)が靜乃家を蔑んで結婚を許さない。
君蝶は復讐とばかりに千代の檀那(進藤英太郎)を奪い、家の借金の穴埋めまでさせる。ついに千代と大喧嘩となり、優柔な孝次は張り倒すで大暴れ。因果応報で捨てた男(菅井一郎)に出刃で刺され入院するも、妙子と孝次は東京へ出立で君蝶の願いは成就するというお話。
終始強調されるのは、戦争で焼け残った京都が戦後日本の民主的再出発から立ち遅れていることで、君蝶はそうした旧体制に組み込まれながらも、旧弊に立ち向かい、妹には新生の道を歩ませようとする。
劇中、旧体制にいる者たちが京都弁を話すのに対し、妙子と孝次だけは標準語を話すが、不思議と違和感がない。その2人が、京都を離れて東京に向かうのも象徴的。
映像や美術も凝っていて、祇園の中を君蝶が裾振り乱して出刃で追い駆けられるシーンが見どころ。花柳界の一端を覗けるのも楽しい。 (評価:2.5)
製作:八木保太郎プロダクション、日本教職員組合
公開:1952年5月1日
監督:今井正 製作:若山一夫、戸田金作、浅野正孝 脚本:八木保太郎 撮影:伊藤武夫 音楽:大木正夫
キネマ旬報:8位
共助の精神だけでは解決できないものが残る
無着成恭が刊行した学級文集『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』が原作。
戦後間もない山形県の貧しい農村を舞台に、無着成恭が教え子たちにありのままの生活を語らせた様子を描いたもので、貧困や農作業の手伝いで欠席しがちな生徒たちに学習の重要性を教え、貧困の根源的問いと課題についてともに考え、解決のために実践する。
結論的には共助の必要性を説くが、それが忘れられた現代からすれば、非常に新鮮で純粋な精神を蘇らせてくれるが、それが理想論に過ぎず、貧困のために売られていった子供たちの行く末や、両親を失くした生徒を継続的に支えられるわけではないという現実は描かれず、無着が立てたテーマ設定の根本的解決には至っていない。
現実を回避して共助だけを謳った結末にいささか甘さと疑問は残るが、それでも今井は民主主義社会における共助の精神を訴えたかったということだろう。
無着役の木村功を始め、その父・滝沢修、東野英治郎、殿山泰司、金子信雄、西村晃、北林谷栄といった俳優陣は、本人とは気づかぬ農民ぶりで、子供たちの自然な演技を含めてセミドキュメンタリーと見紛うばかりの演出は見事。
客観的なロングショットと、時折映し出される子供たちの顔のアップも主観的な効果をうまく引き出している。
本作で改めて気づかされるのは、描かれる中学生たちが戦時中は国民学校で軍国教育を受けた世代で、まともな教育を受けなかったために学力が低下しているという事実。戦争で父親を亡くした子供は、戦後も貧困による家庭・教育環境の低下を二重に受けていて、戦争の影響が世代間の学力格差に及んでいることに考えさせられる。 (評価:2.5)
公開:1952年5月1日
監督:今井正 製作:若山一夫、戸田金作、浅野正孝 脚本:八木保太郎 撮影:伊藤武夫 音楽:大木正夫
キネマ旬報:8位
無着成恭が刊行した学級文集『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』が原作。
戦後間もない山形県の貧しい農村を舞台に、無着成恭が教え子たちにありのままの生活を語らせた様子を描いたもので、貧困や農作業の手伝いで欠席しがちな生徒たちに学習の重要性を教え、貧困の根源的問いと課題についてともに考え、解決のために実践する。
結論的には共助の必要性を説くが、それが忘れられた現代からすれば、非常に新鮮で純粋な精神を蘇らせてくれるが、それが理想論に過ぎず、貧困のために売られていった子供たちの行く末や、両親を失くした生徒を継続的に支えられるわけではないという現実は描かれず、無着が立てたテーマ設定の根本的解決には至っていない。
現実を回避して共助だけを謳った結末にいささか甘さと疑問は残るが、それでも今井は民主主義社会における共助の精神を訴えたかったということだろう。
無着役の木村功を始め、その父・滝沢修、東野英治郎、殿山泰司、金子信雄、西村晃、北林谷栄といった俳優陣は、本人とは気づかぬ農民ぶりで、子供たちの自然な演技を含めてセミドキュメンタリーと見紛うばかりの演出は見事。
客観的なロングショットと、時折映し出される子供たちの顔のアップも主観的な効果をうまく引き出している。
本作で改めて気づかされるのは、描かれる中学生たちが戦時中は国民学校で軍国教育を受けた世代で、まともな教育を受けなかったために学力が低下しているという事実。戦争で父親を亡くした子供は、戦後も貧困による家庭・教育環境の低下を二重に受けていて、戦争の影響が世代間の学力格差に及んでいることに考えさせられる。 (評価:2.5)
製作:東宝
公開:1951年11月23日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄 脚本:田中澄江、井手俊郎 撮影:玉井正夫 音楽:早坂文雄 美術:中古智
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
見どころは疲れた主婦を好演する原節子
林芙美子の原作。朝日新聞連載中に急逝したために未完となったが、成瀬巳喜男によるオリジナルのラストは、林ファンならずとも疑問に感じるハッピーエンドとなっている。このラストを受け入れられるかどうかで評価は割れるが、「めし」を作るだけの結婚生活に疲れた妻を演じる原節子の好演を台なしにしている。
この作品の見どころは、小津作品でお馴染みの良家の子女とはかなり趣きの異なる女を演じる原節子。下町娘の役なのだが、上品な話し方まで変えられないのは御愛嬌か。脇の俳優陣もなかなかよく、杉村春子の下町の母がいい。
当時の大阪がロケされており、記録映画としても楽しめる。 (評価:2.5)
公開:1951年11月23日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄 脚本:田中澄江、井手俊郎 撮影:玉井正夫 音楽:早坂文雄 美術:中古智
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞
林芙美子の原作。朝日新聞連載中に急逝したために未完となったが、成瀬巳喜男によるオリジナルのラストは、林ファンならずとも疑問に感じるハッピーエンドとなっている。このラストを受け入れられるかどうかで評価は割れるが、「めし」を作るだけの結婚生活に疲れた妻を演じる原節子の好演を台なしにしている。
この作品の見どころは、小津作品でお馴染みの良家の子女とはかなり趣きの異なる女を演じる原節子。下町娘の役なのだが、上品な話し方まで変えられないのは御愛嬌か。脇の俳優陣もなかなかよく、杉村春子の下町の母がいい。
当時の大阪がロケされており、記録映画としても楽しめる。 (評価:2.5)
製作:新星映画社・前進座
公開:1951年7月7日
監督:今井正 製作:松本酉三、宮川雅青 脚本:岩佐氏寿、平田兼三、今井正 撮影:宮島義勇 美術:久保一雄
キネマ旬報:5位
物語は重苦しいが戦後の東京の映像が貴重
東宝争議後、カンパを募って左翼系映画人により作られた作品で、ニコヨン労働者とその家族が主人公。徹頭徹尾、貧困をテーマにしているので、いささか食傷するかもしれない。
復員してきた元旋盤工(河原崎長十郎)が妻(河原崎しづ江=山岸しづ江)と幼い子供2人を抱え、職業安定所で日雇いの仕事を探すも求職者で溢れ、家賃も払えず追い出される始末。妻子は姉妹を頼って郷里に帰り、男は定職を見つけるものの給料日が待てず前借を申し込み逆に失職。元のニコヨン生活に戻るという出口のない貧困スパイラルで、仲間(中村翫右衛門)の誘いで水道管泥棒を働く。
妻子は生活できずに無賃乗車で再び上京、思い余った男は一家心中を覚悟し、窃盗の金で最後の宴を張り、子供たちと遊園地の最後の一日を過ごす。
ところが長男が水に嵌ってしまい、必死に助けたことから思い直し、最後に希望で終わる。
ストーリーは読める展開で、ラストもある意味ではこの手の作品にありがちな定番だが、今井正の手堅い演出で見通せるものの、地を這うような重苦しいトーンはいささか息苦しい。
おそらくは江東区あたりの焼け跡が舞台となっていて、戦後間もない東京の様子、アメ横・上野駅周辺、総武線、谷津遊園などの貴重な映像が見られるのが、大きな見どころとなっている。 (評価:2.5)
公開:1951年7月7日
監督:今井正 製作:松本酉三、宮川雅青 脚本:岩佐氏寿、平田兼三、今井正 撮影:宮島義勇 美術:久保一雄
キネマ旬報:5位
東宝争議後、カンパを募って左翼系映画人により作られた作品で、ニコヨン労働者とその家族が主人公。徹頭徹尾、貧困をテーマにしているので、いささか食傷するかもしれない。
復員してきた元旋盤工(河原崎長十郎)が妻(河原崎しづ江=山岸しづ江)と幼い子供2人を抱え、職業安定所で日雇いの仕事を探すも求職者で溢れ、家賃も払えず追い出される始末。妻子は姉妹を頼って郷里に帰り、男は定職を見つけるものの給料日が待てず前借を申し込み逆に失職。元のニコヨン生活に戻るという出口のない貧困スパイラルで、仲間(中村翫右衛門)の誘いで水道管泥棒を働く。
妻子は生活できずに無賃乗車で再び上京、思い余った男は一家心中を覚悟し、窃盗の金で最後の宴を張り、子供たちと遊園地の最後の一日を過ごす。
ところが長男が水に嵌ってしまい、必死に助けたことから思い直し、最後に希望で終わる。
ストーリーは読める展開で、ラストもある意味ではこの手の作品にありがちな定番だが、今井正の手堅い演出で見通せるものの、地を這うような重苦しいトーンはいささか息苦しい。
おそらくは江東区あたりの焼け跡が舞台となっていて、戦後間もない東京の様子、アメ横・上野駅周辺、総武線、谷津遊園などの貴重な映像が見られるのが、大きな見どころとなっている。 (評価:2.5)
製作:大映京都
公開:1951年11月2日
監督:吉村公三郎 製作:永田雅一 脚本:新藤兼人 撮影:杉山公平 美術:水谷浩 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:7位
藤壺役の木暮実千代の美貌にはいささか戸惑う
紫式部の同名長編小説が原作。新藤兼人の脚色により換骨奪胎され、1年半の物語に凝縮されている。谷崎潤一郎が監修、高島屋の衣装協力という大作で、光源氏に長谷川一夫、藤壺・木暮実千代、葵の上・水戸光子、淡路の上・京マチ子、紫の上・乙羽信子。他に大河内傳次郎、東山千栄子、加東大介等。
光る君が薹が立った二枚目、長谷川一夫なのはお約束で仕方がないとしても、木暮実千代の美貌の女にはいささか戸惑う。童顔とはいえ、乙羽信子の幼女も無理がある。
映画なのでそこは目を瞑るとしても、台詞回しがバラバラで、中には現代口語調のぶっきら棒な言い回しもあって、美術や衣装ほどには雅が足りないのも若干興を削ぐ。
物語は光源氏の女遍歴を描くもので、帝と桐壷(相馬千恵子)の子として生まれるが、産後の肥立ち悪く母に死なれ、帝がその面影を求めて入内させた藤壺を光源氏もまた求めてしまい、子供まで作ってしまうというもの。
譬えればカサノバで、政務をする間もなく女漁りに勤しみ、いったい誰の血を引いたのだろうと考える間もなくベッドが変わる。その長谷川一夫のスケコマシぶりに違和感がないのは流石天下の二枚目の演技。
葵の上、藤壺、淡路の上と次々に失い、頼れるのは紫の上だけ。おまけに淡路の上には自分が帝にしたのと同じ不義の子まで作られてしまい、イケイケだった女遍歴もしっぺ返しを喰らうという、因果応報の味付けで教育的なのはさすが新藤兼人。もっともこの後、紫の上と愛人関係になってしまうのだが…
長々しい『源氏物語』のエッセンスを約2時間で手短かに味わえるという、コンビニエンスな作品だが、中身もコンビニ・クオリティ。 (評価:2.5)
公開:1951年11月2日
監督:吉村公三郎 製作:永田雅一 脚本:新藤兼人 撮影:杉山公平 美術:水谷浩 音楽:伊福部昭
キネマ旬報:7位
紫式部の同名長編小説が原作。新藤兼人の脚色により換骨奪胎され、1年半の物語に凝縮されている。谷崎潤一郎が監修、高島屋の衣装協力という大作で、光源氏に長谷川一夫、藤壺・木暮実千代、葵の上・水戸光子、淡路の上・京マチ子、紫の上・乙羽信子。他に大河内傳次郎、東山千栄子、加東大介等。
光る君が薹が立った二枚目、長谷川一夫なのはお約束で仕方がないとしても、木暮実千代の美貌の女にはいささか戸惑う。童顔とはいえ、乙羽信子の幼女も無理がある。
映画なのでそこは目を瞑るとしても、台詞回しがバラバラで、中には現代口語調のぶっきら棒な言い回しもあって、美術や衣装ほどには雅が足りないのも若干興を削ぐ。
物語は光源氏の女遍歴を描くもので、帝と桐壷(相馬千恵子)の子として生まれるが、産後の肥立ち悪く母に死なれ、帝がその面影を求めて入内させた藤壺を光源氏もまた求めてしまい、子供まで作ってしまうというもの。
譬えればカサノバで、政務をする間もなく女漁りに勤しみ、いったい誰の血を引いたのだろうと考える間もなくベッドが変わる。その長谷川一夫のスケコマシぶりに違和感がないのは流石天下の二枚目の演技。
葵の上、藤壺、淡路の上と次々に失い、頼れるのは紫の上だけ。おまけに淡路の上には自分が帝にしたのと同じ不義の子まで作られてしまい、イケイケだった女遍歴もしっぺ返しを喰らうという、因果応報の味付けで教育的なのはさすが新藤兼人。もっともこの後、紫の上と愛人関係になってしまうのだが…
長々しい『源氏物語』のエッセンスを約2時間で手短かに味わえるという、コンビニエンスな作品だが、中身もコンビニ・クオリティ。 (評価:2.5)
製作:大映京都
公開:1951年9月7日
監督:新藤兼人 脚本:新藤兼人 撮影:竹村康和 美術:水谷浩 音楽:木下忠司
キネマ旬報:10位
新藤兼人の自伝だが愛妻物語ではなく愛夫物語
新藤兼人の自伝的作品で、監督デビュー作。下積み時代、新藤を支えた最初の妻・久慈孝子とその死、新藤が脚本家として独り立ちするきっかけを与えた溝口健二との出会いなどが描かれる。
昭和16年、戦争の影響で映画会社は縮小を余儀なくされ、東京撮影所の脚本研究生・沼崎(=新藤、宇野重吉)は下宿屋の娘・孝子(乙羽信子)と駆け落ち同然に京都に転居する。
京都撮影所の坂口監督(=溝口健二、滝沢修)から依頼を受けて脚本を書き上げるが、「これはシナリオではありません、筋書です」の言葉に絶望。孝子が坂口に頼んで1年間の猶予をもらう。沼崎はシェイクスピアなどの戯曲を読み漁り、川で子供たちと遊んで、シナリオの勉強をする。
沼崎は、再び坂口に与えられたチャンスをものにするが、孝子は結核に倒れ帰らぬ人となる。
孝子のお蔭で脚本家として独り立ちし、その話をもって監督デビューを飾るという感動ストーリーなのだが、新藤がどこまで孝子を愛していたかは不明で、内容的にはタイトルの愛妻物語ではなく、孝子による愛夫物語となっている。
実際、戦後すぐに新藤は再婚するが、孝子との美談を映画にした後、孝子を演じた乙羽と愛人関係になる。乙羽を3人目の妻とするのは、2人目の妻との1972年の離婚後で、乙羽とは20年間の愛人生活だったことになる。
滝沢修演じる坂口監督が溝口健二そっくりでウケる。 (評価:2.5)
公開:1951年9月7日
監督:新藤兼人 脚本:新藤兼人 撮影:竹村康和 美術:水谷浩 音楽:木下忠司
キネマ旬報:10位
新藤兼人の自伝的作品で、監督デビュー作。下積み時代、新藤を支えた最初の妻・久慈孝子とその死、新藤が脚本家として独り立ちするきっかけを与えた溝口健二との出会いなどが描かれる。
昭和16年、戦争の影響で映画会社は縮小を余儀なくされ、東京撮影所の脚本研究生・沼崎(=新藤、宇野重吉)は下宿屋の娘・孝子(乙羽信子)と駆け落ち同然に京都に転居する。
京都撮影所の坂口監督(=溝口健二、滝沢修)から依頼を受けて脚本を書き上げるが、「これはシナリオではありません、筋書です」の言葉に絶望。孝子が坂口に頼んで1年間の猶予をもらう。沼崎はシェイクスピアなどの戯曲を読み漁り、川で子供たちと遊んで、シナリオの勉強をする。
沼崎は、再び坂口に与えられたチャンスをものにするが、孝子は結核に倒れ帰らぬ人となる。
孝子のお蔭で脚本家として独り立ちし、その話をもって監督デビューを飾るという感動ストーリーなのだが、新藤がどこまで孝子を愛していたかは不明で、内容的にはタイトルの愛妻物語ではなく、孝子による愛夫物語となっている。
実際、戦後すぐに新藤は再婚するが、孝子との美談を映画にした後、孝子を演じた乙羽と愛人関係になる。乙羽を3人目の妻とするのは、2人目の妻との1972年の離婚後で、乙羽とは20年間の愛人生活だったことになる。
滝沢修演じる坂口監督が溝口健二そっくりでウケる。 (評価:2.5)
公開:1951年12月7日
監督:大庭秀雄 製作:小出孝 脚本:柳井隆雄 撮影:長岡博之 音楽:吉沢博
キネマ旬報:9位
八木隆一郎原作の同名ラジオドラマの映画化。
会津の鶴ヶ城址が舞台。
急峻な堀は、華厳の滝、三原山と並んで自殺の名所と観光ガイドが説明する場面から始まるが、その自殺の名所近くに住む伊村(笠智衆)は、自殺志願者を見つけると思い留まらせるという、いわば命の番人。
その夜は、地元女学生(桂木洋子)と子供を亡くしたシングルマザー(淡島千景)の二人を助けるという自殺の当り日だったが、女学生は伊村の次男坊(佐田啓二)のガールフレンドで、市会議員(北竜二)の息子に凌辱されて妊娠、それを苦にしての自殺未遂。地元紙記者の長男(三國連太郎)が糾弾記事を書いたため、セカンドレイプの娘を連れて次男が伯父(小沢栄太郎)の寺に遁世。
シングルマザーは自棄になって酒場の酌婦となり、それに怒った長男が酒場で大暴れ。雨降って地固まるで、シングルマザーは経験を生かして地元医院の看護婦に。市会議員に丸め込まれた女学生の父親(宮口精二)も告訴。立ち直った女学生も家に帰り、めでたく自殺未遂の二人は再出発となる。
以前、相前後して自殺を止められ伊村家で知り合った男女が、結婚して子を成した報告に訪ねてくるが、これぞ伊村が命の番人を辞められない理由。
長年の功績を市長から顕彰されるが、その場で件の市会議員とも仲直り。すべてが丸く収まったかに見えるが…告訴の件はどうなった? 示談か?
女学生と次男は絆を強め、シングルマザーは長男といい仲になるが、最後はうやむやな大団円で、これぞ日本的なハッピーエンドかと思うと情けない。
伊村のサポートをする妻役・杉村春子の名演が光るが、それにしてもラストシーンはプロローグに戻り、自殺の名所を説明する観光ガイドで締めてほしかった。 (評価:2.5)
武蔵野夫人
公開:1951年9月14日
監督:溝口健二 製作:児井英生 脚本:依田義賢 撮影:玉井正夫 美術:松山崇 音楽:早坂文雄
大岡昇平の同名小説が原作。
武蔵野の中流家庭を舞台にした不倫劇で、恋ヶ窪、村山貯水池が登場することから小金井辺りが舞台。主人公の武蔵野夫人・道子(田中絹代)は両親亡き後、実家の家屋敷を継ぎ、見合い結婚した大学の仏語講師・秋山(森雅之)と暮らす。復員した従弟の大学生・勉(片山明彦)を引き取り下宿させるが、不仲な夫婦仲から急接近。勉の求愛に対し、貞淑を貫く。
一方、秋山は近隣に住む道子の従兄の実業家・大野(山村聡)の妻・富子(轟夕起子)と不倫。大野が借金の抵当に入れた道子の家屋敷の権利書を持ち逃げしたと騙し、富子と駆け落ちを図るが、道子は自分が死ねば抵当権が消滅すると考え、遺産の大部分を勉に遺す遺書を書いて自殺する…という物語。
二組の不倫を通して、敗戦を境にした価値観の転換を描き、古き良き武蔵野を道子に仮託する。愛なき結婚生活を送る道子は、自由恋愛という戦後の新しい息吹を感じながらも、土地を中心とした家族制度や道徳観から離れることができず、自滅していくことになる。
これと対照的なのが奔放な性格の富子で、夫婦に縛られず感情のままに戦後の自由な空気を満喫する。
自由恋愛を姦通というところが時代を感じさせて生々しいが、敗戦による価値観の変化に翻弄される登場人物そのままに、監督の溝口がテーマに振り回されているのが可笑しい。
秋山の自由恋愛論が空理空論で、自由や男女平等について、上手く咀嚼できない終戦後の日本の文化人たちの混迷を絵に描いたような作品。溝口自身、変わりゆく時代をどう捉えたら良いかわからず、変化の必要性は感じつつも、姦通、自由恋愛、道徳、婚姻、家族制度の泥沼にはまり、誓いという良くわからない言葉に救いを求めている。 (評価:2)
銀座化粧
公開:1951年4月14日
監督:成瀬巳喜男 製作:伊藤基彦 脚本:岸松雄 撮影:三村明 美術:河野鷹思 音楽:鈴木静一
井上友一郎の小説が原作。
銀座を舞台にした風俗もので、子持ちのバーのママの日常の出来事を描く小品。
主人公は5歳の息子と暮らす銀座ベラミイのママ・雪子(田中絹代)。落ちぶれた戦前の常連客・藤村(三島雅夫)と縁が切れずに小遣いをせびられている。雪子に二号の口を紹介しようというのが、二号になって成功している静江(花井蘭子)で、紹介されたのがベラミイの客・菅野(東野英治郎)で、下心が見え見えでオジャンに。
客に飲み逃げされたり、店の営業資金で苦労する毎日が続く中、静江の知人の男・石川(堀雄二)に東京見物の案内をすることに。これが好青年で雪子は恋心を抱くが、店のホステス・京子(香川京子)に一日代理を頼んだところが、二人が出来てしまい、今日も変わらぬ息子との生活が続くというもの。
雪子の多少のさざ波交じりの平々凡々とした日々同様、映画も平々凡々で今ひとつぼんやりした感じ。見どころは、かつて銀座にあった三十間堀川や三原橋、東京見物で回る国立博物館などの貴重映像を楽しむくらいか。 (評価:2)
ブンガワンソロ
公開:1951年10月19日
監督:市川崑 製作:佐藤一郎 脚本:和田夏十、市川崑 撮影:横山実 美術:河野鷹思 音楽:飯田信夫
ブンガワンソロはジャワ島のソロ河のことで、劇中、南方戦線とクレジットされるが、ジャワ島が物語の舞台になっている。
脱走日本兵3名がジャワ島住民の家に潜伏する話で、脱走兵の一人(池部良)が家の娘(久慈あさみ)と恋仲になるものの、脱走兵探しの憲兵隊がやってきて、恋人の手引きで逃走中に死んでしまうという悲恋物語。
しかも、その前日が1945年8月15日で、終戦の報が一日早ければ悲劇も起きなかったろうにという、臭いシナリオになっている。
冒頭はジャワ語(?)で始まるものの、それでは具合が悪いので住民一家が片言の日本語を話せるという設定になるが、それも次第に難しい日本語も話すようになるのがひそかな楽しみどころ。一家は全員日本人の俳優で、父親に小沢栄、母親に高橋豊子、妹に若山セツ子が扮している。
サトウキビを刈るシーンは奄美群島だろうか? どうにもジャワ人に見えない日本人俳優を始め、全体にエセ感の漂う作品で、センチメントだけが頼りの何がテーマなのか企画意図のさっぱりわからない作品。
マラリヤに罹る脱走兵に伊藤雄之助、屋根から落ちて死ぬ間抜けな脱走兵に森繁久彌。落馬して合流する軍曹に藤田進、憲兵隊長に山形勲と役者は揃っている。 (評価:2)
お遊さま
公開:1951年6月22日
監督:溝口健二 脚本:依田義賢 撮影:宮川一夫 美術:水谷浩 音楽:早坂文雄
谷崎潤一郎の『芦刈』が原作。「芦刈」は謡曲の演目で、原作はこれがモチーフになっている。
謡曲「芦刈」はハッピーエンドだが、もとになっている『大和物語』148段はバッドエンド。本作は『大和物語』同様にバッドエンドとなっている。
物語は、独身男・慎之助(堀雄二)が見合いの席でお静(乙羽信子)よりも姉のお遊(田中絹代)に惚れてしまうというもの。お遊は粥川家の若後家で跡取り息子を産んでいる。お遊も慎之助に気があり、姉思いのお静は二人の気持ちを察して慎之助と結婚。お遊に操を建てて夜伽をしない。
3人の奇妙な関係が続くが、粥川家の跡取り息子が病死。それを機にお遊は実家に帰され、お静の操を知って伏見の蔵元と再婚。一方、お静は慎之助の子を産むが死んでしまう。
慎之助は赤子をお遊に託し、お遊は二人の子を育てる決心をする…という不自然なストーリーの上に良くわからない話。
谷崎潤一郎がこんな酷い話を書くのかと原作を読むと、ラストを除けば概ね原作通り。もっともお遊は谷崎お得意のカリスマお嬢様で、慎之助とお静はお遊を崇める存在。お遊を演じる田中絹代が美貌もカリスマ性もないオバサンで、これが最大のミスキャスト。
もとより原作は男視点で女性向きではないので、これを無理やりお遊を主人公とする女性映画に仕立てたシナリオと演出が大失敗。
劇中、謡曲「芦刈」を歌うシーンがあり、慎之助が妻に贈る歌に対してお遊が妻の返歌をし、お静が席を離れる。3人の関係を表す溝口らしい演出なのだが、説明不足も甚だしく「芦刈」を知らないと意味を持たない。
唯一見どころとして残るのは宮川一夫の美しいモノクロ映像という、悲惨な作品になっている。 (評価:1.5)
愛と憎しみの彼方へ
公開:1951年1月11日
監督:谷口千吉 製作:田中友幸 脚本:谷口千吉、黒澤明 撮影:玉井正夫 美術:北辰雄 音楽:伊福部昭
寒川光太郎の小説『脱獄囚』が原作。
原作のせいなのか脚本のせいなのかわからないが、ストーリーがあまりに安っぽい。演出も同様に安直で、これだけのスタッフとキャストを揃えながら、こんな作品しか作れなかったのが悲しくなるほどの出来。
あと4か月で網走刑務所を仮出所できるという模範囚が、同房の囚人に騙され、妻が浮気していると思い込んで脱走の仲間に加わる。妻は二人が初めて出会った場所にいるはずだという訳の分からない理由でその小屋に向かうが、妻も脱獄したならきっとその小屋に向かうはずだと、民生委員の男と出かける。なんだかよくわからない登場人物たちの思い込みを軸に、当然の如く、脱獄犯は妻と一緒にいる民生委員を間男だと思い込んで、猟銃で追いかける。
ラストシーンでは、肺炎の子供を看護する男を見て、自分よりは民生委員の方が父親に相応しいと、三船敏郎は一人かっこよく去っていくが、間男じゃないとわかったのにこれもなんだか間抜け。
もう一人間抜けなのが、模範囚を担当していた看守の志村喬で、脱走してからも「あの男が脱獄する訳がない。きっと何か訳がある」と言って、脱獄犯を捕まえに行く大量の刑務官(これも訳がわからない)を押しとどめようとし、脱獄犯を包囲して拳銃をぶっ放す(これも訳がわからない)警察隊を説得しようとする。看守が警官と一緒に追いかけるのも訳がわからないが、広大な北海道なのに脱獄囚を的確に追跡する刑務官や警察隊にも恐れ入る。
思わず早送りしたくなるが、途中でこれは北海道の観光映画なのだということに気付き、まあ、それもありかと思うお粗末。
模範囚の妻に水戸光子、民生委員に池部良。 (評価:1.5)
白痴
公開:1951年5月23日
監督:黒澤明 製作:小出孝 脚本:久板栄二郎、黒澤明 撮影:生方敏夫 美術:松山崇 音楽:早坂文雄
ドストエフスキーの同名小説が原作。
完成時4時間25分を2時間46分にカットして公開したといわれるが、それでも長い。 黒澤が監督したとは思えないくらいに出来に悪い作品で、そもそもの企画コンセプトに問題があったと思わざるを得ない。
原作は19世紀のロシアを舞台にしたもので、ロシアを北海道、貴族の家庭を資産家の家庭に置き換えるという安直な設定変更のまま、主人公が白痴になった原因が戦犯処刑の恐怖にあり、しかもその白痴自体が癲癇とごっちゃになっているという訳の分からなさ。
ロシア貴族の物語を北海道の資産家に置き換えたところで、宗教・思想・風習・生活様式・行動規範・民族性等々がそのままキャラクターに引き継げるわけがなく、世界観はかけ離れ、台詞は浮きまくり、登場人物は記号化していて、エキセントリックで理解不能。
下手な新劇の翻訳劇を見るようで、頭の中で19世紀ロシアの貴族社会に翻訳し直して見ないと、観客の側が白痴化する。
戦犯処刑を目撃したことから人格が初期化(白痴化)されてしまった主人公(森雅之)が、北海道に復員する。主人公の家は大牧場主だったが、死んだと思って牧場を横領していた家(志村喬、東山千栄子)に引き取られる。これに家の娘(久我美子)と、囲われ者の女(原節子)、女を恋する金持ち息子(三船敏郎)、女を持参金付きで貰い受ける婚約者(千秋実)が絡み、愛憎劇が繰り広げられるが、ほとんど茶番劇にしか見えない。
約2時間のカット分はテロップで説明され、ストーリーもちぐはぐで、白痴=純真というテーマが空しく札幌の雪に舞う。
各俳優とも演技が舞台でもこれはないだろうというくらいに大仰で、京劇のようにやたら目をひん剥いた演技をする。珍しく悪女を演じる原節子が見どころといえば見どころで、江戸川乱歩の黒蜥蜴のような扮装と、顔は写さないがカンラカラカラと高笑いする声はある意味、聴き逃せない。 (評価:1.5)