日本映画レビュー──1937年
製作:新興キネマ
公開:1937年6月17日
監督:溝口健二 脚本:依田義賢 撮影:三木稔 美術:水谷浩 音楽:宇賀神味津男
キネマ旬報:3位
戦後のナイロン靴下よりも昔の女は強かった
今風にいえばシングルマザーの奮闘記で、昭和12年という時代に男に頼らずに自立する女を描いた溝口の先進性が大きな見どころ。
主人公のおふみ(山路ふみ子)は別所温泉の旅館で女中をしているが、ボンボンの謙吉と恋仲で子を宿している。おふみは謙吉と東京に駆け落ちして子供を産むが、謙吉の父が息子を連れ帰ってしまう。
自活しなければならなくなったおふみは赤ん坊・謙太郎を里子に出し、カフェの女給をしながら養育費を稼ぐ。それを知ったアコーデオン弾きの芳太郎(河津清三郎)はおふみに女給をやめさせようと、おふみの叔父が率いる旅芸人一座の漫才師となりおふみとコンビを組み、謙太郎を引き取る。
一座が別所温泉に来ると、旅館の主人となっていた謙吉がおふみに結婚を申し出る。渋るおふみを愛する芳太郎が一芝居打ち、二人は結婚。しかし謙吉の父の横槍でおふみは謙太郎を連れて一座に戻り、再び芳太郎と漫才を組んで幕となる。
おふみは裏切った謙吉に対しては終始冷淡で、芳太郎が自分を愛していることを知っていながら男はもうたくさんと一線を引く。彼女の生き甲斐は息子の謙太郎だけで、シングルマザーとしての意地を貫く。
本作に描かれるおふみは男に啖呵を切る気風で、子供のためなら何事にも動じず爽快ですらある。
母は強しを地で行くが、本作を見ると、戦後のナイロン靴下など問題にならないほど、昔の女は強かったと感ぜずにはいられない。
漫才まで演じる強き母の山路ふみ子が見もの。 (評価:3)
公開:1937年6月17日
監督:溝口健二 脚本:依田義賢 撮影:三木稔 美術:水谷浩 音楽:宇賀神味津男
キネマ旬報:3位
今風にいえばシングルマザーの奮闘記で、昭和12年という時代に男に頼らずに自立する女を描いた溝口の先進性が大きな見どころ。
主人公のおふみ(山路ふみ子)は別所温泉の旅館で女中をしているが、ボンボンの謙吉と恋仲で子を宿している。おふみは謙吉と東京に駆け落ちして子供を産むが、謙吉の父が息子を連れ帰ってしまう。
自活しなければならなくなったおふみは赤ん坊・謙太郎を里子に出し、カフェの女給をしながら養育費を稼ぐ。それを知ったアコーデオン弾きの芳太郎(河津清三郎)はおふみに女給をやめさせようと、おふみの叔父が率いる旅芸人一座の漫才師となりおふみとコンビを組み、謙太郎を引き取る。
一座が別所温泉に来ると、旅館の主人となっていた謙吉がおふみに結婚を申し出る。渋るおふみを愛する芳太郎が一芝居打ち、二人は結婚。しかし謙吉の父の横槍でおふみは謙太郎を連れて一座に戻り、再び芳太郎と漫才を組んで幕となる。
おふみは裏切った謙吉に対しては終始冷淡で、芳太郎が自分を愛していることを知っていながら男はもうたくさんと一線を引く。彼女の生き甲斐は息子の謙太郎だけで、シングルマザーとしての意地を貫く。
本作に描かれるおふみは男に啖呵を切る気風で、子供のためなら何事にも動じず爽快ですらある。
母は強しを地で行くが、本作を見ると、戦後のナイロン靴下など問題にならないほど、昔の女は強かったと感ぜずにはいられない。
漫才まで演じる強き母の山路ふみ子が見もの。 (評価:3)
製作:P.C.L.映画製作所
公開:1937年08月25日
監督:山中貞雄 脚本:三神三太郎 撮影:三村明 音楽:太田忠
キネマ旬報:7位
儚げに転がる紙風船の悲しい映像で見せる庶民劇
山中貞雄の遺作。P.C.L.はPhoto Chemical Laboratoryの略で、戦前の映画会社。のち、東宝に合併。
原作は河竹黙阿弥の歌舞伎脚本『梅雨小袖昔八丈』。
江戸の貧乏長屋を舞台とした庶民劇で、病気で浪人となった侍・海野が暮らしている。妻は内職の紙風船作りで糊口を凌ぎ、夫は亡父の手紙を懐にその友人の武士・毛利に士官の口を頼みに行くが、逃げ回られる。毛利は質屋・白子屋の娘・駒と高級武士との縁談を取り持つが、駒は番頭と恋仲。それを知った海野の隣に住む髪結いの新三は、雨の日に傘を持たない駒を見かけて長屋に連れ帰り、海野の部屋に隠す。
白子屋の用心棒をしているヤクザ・源七と揉めていた新三は、駒を取り戻そうとする源七の頼みを断り、娘のかどわかしを表沙汰にできない白子屋から金をせしめ取る。番頭は駒との駆け落ちを決意し、新三は源七との決闘に臨むが、白子屋の金品の半分を受け取ったことを知った海野の妻は・・・というのが物語の大筋。
非常によくできたストーリーだが、人情ものということもあって若干冗長。冒頭、長屋に住む別の浪人の首吊りに始まり、もうひとりの浪人の悲話に終わるという、戦意高揚の時代にはいささか相応しくない内容。対する長屋の町民たちは、首吊りがあったと言っては縁起直しだと大家に宴会の酒肴を用意させ、新三が手にした大枚で宴会に繰り出すというバイタリティを見せる。
そうした逞しい庶民像を日中開戦の年に山中は描いたが、封切日に召集令状が届き、翌年中国で戦死した。
海野に4代目河原崎長十郎、新三に3代目中村翫右衛門と歌舞伎役者を揃え、長屋の面々の江戸弁が自然。
浪人を象徴するように儚げに風に転がる紙風船や、小道具をアップで写す心象シーン、雨のシーンなど、情感を表現した美しい映像が見どころ。 (評価:3)
公開:1937年08月25日
監督:山中貞雄 脚本:三神三太郎 撮影:三村明 音楽:太田忠
キネマ旬報:7位
山中貞雄の遺作。P.C.L.はPhoto Chemical Laboratoryの略で、戦前の映画会社。のち、東宝に合併。
原作は河竹黙阿弥の歌舞伎脚本『梅雨小袖昔八丈』。
江戸の貧乏長屋を舞台とした庶民劇で、病気で浪人となった侍・海野が暮らしている。妻は内職の紙風船作りで糊口を凌ぎ、夫は亡父の手紙を懐にその友人の武士・毛利に士官の口を頼みに行くが、逃げ回られる。毛利は質屋・白子屋の娘・駒と高級武士との縁談を取り持つが、駒は番頭と恋仲。それを知った海野の隣に住む髪結いの新三は、雨の日に傘を持たない駒を見かけて長屋に連れ帰り、海野の部屋に隠す。
白子屋の用心棒をしているヤクザ・源七と揉めていた新三は、駒を取り戻そうとする源七の頼みを断り、娘のかどわかしを表沙汰にできない白子屋から金をせしめ取る。番頭は駒との駆け落ちを決意し、新三は源七との決闘に臨むが、白子屋の金品の半分を受け取ったことを知った海野の妻は・・・というのが物語の大筋。
非常によくできたストーリーだが、人情ものということもあって若干冗長。冒頭、長屋に住む別の浪人の首吊りに始まり、もうひとりの浪人の悲話に終わるという、戦意高揚の時代にはいささか相応しくない内容。対する長屋の町民たちは、首吊りがあったと言っては縁起直しだと大家に宴会の酒肴を用意させ、新三が手にした大枚で宴会に繰り出すというバイタリティを見せる。
そうした逞しい庶民像を日中開戦の年に山中は描いたが、封切日に召集令状が届き、翌年中国で戦死した。
海野に4代目河原崎長十郎、新三に3代目中村翫右衛門と歌舞伎役者を揃え、長屋の面々の江戸弁が自然。
浪人を象徴するように儚げに風に転がる紙風船や、小道具をアップで写す心象シーン、雨のシーンなど、情感を表現した美しい映像が見どころ。 (評価:3)
公開:1937年11月17日
監督:監督:豊田四郎 脚本:八田尚之 撮影:小倉金弥 美術:河野鷹思 音楽:久保田公平
キネマ旬報:6位
石坂洋次郎の同名小説が原作。
函館のミッションスクールが舞台で、私生児で問題児の女生徒(市川春代)を気にかける若い男性教師(大日向傳)と同僚女性教師(夏川静江)3人の恋愛模様を描く青春映画。
男性教師が女性教師に告白をし、女生徒が淡い失恋を味わうシーンで終わり、エンドマークには「北国篇」のクレジットが被り、続編を撮るつもりだったことがわかる。そうした点では、作品的には中途半端だが、劇中で女生徒が繰り返す「女一人の幸せって世の中にはないものなの?」という問いかけに、豊田が本作で描こうとしていたテーマが見える。
男性教師に恋する女生徒は、ライバルの女性教師への対抗心から男性教師との関係を示唆して妊娠しているという噂が広がる。それに対して処女である証明書を医師に書いてもらうという清純さを持ちながらも、母と喧嘩して男性教師の下宿に泊まりに行くという子供と大人の間の乙女心に揺れる。
その小悪魔的でナイーブな女生徒を市川春代が好演するが、彼女の問いかけの底には、男に従属し結婚に縛られている女の否定と、家との結婚に縛られない自由な男女関係がある。本作には戦前の先鋭的な女性解放思想が見え隠れしていて、続篇が制作されなかった事情もそこにあったと思われる。
そうした開明的な作品を作ろうとした制作者の意図はかなり成功していて、続編が作られなかったことが惜しい。
SLでの東京への修学旅行のシーンも注目で、当時の修学旅行事情や東京の風景も興味深い。
夏川静江の着崩れた着物姿の着こなしもよく、最近の俳優の着せられた感の強い着物姿からはとても新鮮に映る。 (評価:3)
製作:松竹大船
公開:1937年12月2日
監督:島津保次郎 脚本:池田忠雄 撮影:生方敏夫 音楽:早乙女光
キネマ旬報:10位
清純な歌姫・高峰三枝子とチョイ悪・上原謙を見るための映画
浜本浩の同名小説が原作。
オペレッタ華やかなりし頃の大正の浅草が舞台。売れっ子のコーラスガール麗子(高峰三枝子)を巡る物語で、彼女をモノにしようとする劇場の贔屓客・半田(武田秀郎)から守るために、座員の山上(上原謙)が中心となり、楽屋に出入りする画学生・ボカ長(夏川大二郎)の下宿に麗子を隠してしまう。
麗子と親しくなったボカ長は結婚を申し込み、山上次第だと言われるが、麗子の好きな山上は男気で許してしまい、山上を好きな射的場の紅子(藤原か弥子)と浅草を去って関西に向かう。
主人公は当然、上原謙演じる山上で、ヤクザ者にも顔の効くチョイ悪の美青年。それ故、チョイ悪姐さんにはモテるが、清純な踊り子にはお兄さん扱いされる片思いで、妹を好青年に譲り、自らは身を引くという、ニヒルでカッコいい役どころが見どころとなっている。
『カルメン』のオペレッタと大正時代を再現した劇場も大きな見どころだが、フィルムの劣化で全体にぼやけてしまい、映像がシャープでないのが残念なところ。清純な歌姫・高峰三枝子も劣化によるソフトフォーカスのかかり過ぎで、顔の判別がつきにくいほど。
その歌姫を贔屓筋に斡旋売春しようとする女座長役の杉村春子が、嫌らしいほどに上手い。麗子を匿うためにボカ長の滞納下宿代を肩代わりする座員に笠智衆、麗子の先輩の踊り子に坪内美子、座長に西村青児。 (評価:2.5)
公開:1937年12月2日
監督:島津保次郎 脚本:池田忠雄 撮影:生方敏夫 音楽:早乙女光
キネマ旬報:10位
浜本浩の同名小説が原作。
オペレッタ華やかなりし頃の大正の浅草が舞台。売れっ子のコーラスガール麗子(高峰三枝子)を巡る物語で、彼女をモノにしようとする劇場の贔屓客・半田(武田秀郎)から守るために、座員の山上(上原謙)が中心となり、楽屋に出入りする画学生・ボカ長(夏川大二郎)の下宿に麗子を隠してしまう。
麗子と親しくなったボカ長は結婚を申し込み、山上次第だと言われるが、麗子の好きな山上は男気で許してしまい、山上を好きな射的場の紅子(藤原か弥子)と浅草を去って関西に向かう。
主人公は当然、上原謙演じる山上で、ヤクザ者にも顔の効くチョイ悪の美青年。それ故、チョイ悪姐さんにはモテるが、清純な踊り子にはお兄さん扱いされる片思いで、妹を好青年に譲り、自らは身を引くという、ニヒルでカッコいい役どころが見どころとなっている。
『カルメン』のオペレッタと大正時代を再現した劇場も大きな見どころだが、フィルムの劣化で全体にぼやけてしまい、映像がシャープでないのが残念なところ。清純な歌姫・高峰三枝子も劣化によるソフトフォーカスのかかり過ぎで、顔の判別がつきにくいほど。
その歌姫を贔屓筋に斡旋売春しようとする女座長役の杉村春子が、嫌らしいほどに上手い。麗子を匿うためにボカ長の滞納下宿代を肩代わりする座員に笠智衆、麗子の先輩の踊り子に坪内美子、座長に西村青児。 (評価:2.5)
製作:松竹大船
公開:1937年3月3日
監督:小津安二郎 脚本:伏見晁、ゼームス・槇 撮影:茂原英雄、厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:8位
若い娘の溌剌とした生の息吹を体現する桑野通子が眩しい
東京・麹町に住む大学医学部教授の家を舞台にしたコメディで、小宮(斎藤達雄)は淑女たる夫人・時子(栗島すみ子)の言いなりで、行きたくもないゴルフに健康のためだと送り出される。
滞在先からは時子に報告のハガキを出さなくてはならず、一計を案じた小宮はゴルフ仲間にハガキの投函を頼み、助手の岡田(佐野周二)の部屋に泊めてもらう。
馴染みのバーで羽を伸ばしているところに、小宮の家に逗留している姪の節子(桑野通子)が現れて企みは露見してしまうが、アバンギャルドな節子は清元の勉強にと料亭で芸者を揚げることを要求。酔っぱらった節子は岡田に送られての未明の帰宅となる。
これを見咎めた時子が小宮の叱責を要求。裏表を使い分ける小宮は節子にも男らしくないと責められ、挙句にハガキが嘘であることもバレてしまう。追い詰められた小宮は節子の挑発に乗って時子を叩くが、むしろそれが嬉しかったらしく、節子が大阪の実家に帰り、友達(飯田蝶子)から妊娠を知らされると、新婚時代に帰って夫に夜の営みを求めて甘えるという結末。
結婚した途端に初々しさも人間らしさも忘れ、専横を振るう有閑マダムとなる淑女たちの忘れてしまったものを描くが、そうして尻に敷かれた振りをして操縦するのも男の甲斐性と節子に言う小宮の言葉が、強がりにも諦観にも聞こえるのが物悲しくもある。
そうした前時代的な夫婦関係の中で、旧来の女性像を否定して自由奔放に振る舞う節子が眩しく、小津安二郎が描きたかったのはそうした若い娘の溌剌とした生の息吹を体現する、節子の姿だったように思えてくる。
節子を演じる桑野通子が生き生きとしていて良い。『青春残酷物語』(1960)等の桑野みゆきは娘。
自動車の側面に固定したカメラによる走行風景のプロローグ、小宮家の各部屋を貫く長い廊下をカメラの奥行きで捉え、次第に電灯が消えて最後に時子が寝所に入って暗転する演出が印象的。 (評価:2.5)
公開:1937年3月3日
監督:小津安二郎 脚本:伏見晁、ゼームス・槇 撮影:茂原英雄、厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:8位
東京・麹町に住む大学医学部教授の家を舞台にしたコメディで、小宮(斎藤達雄)は淑女たる夫人・時子(栗島すみ子)の言いなりで、行きたくもないゴルフに健康のためだと送り出される。
滞在先からは時子に報告のハガキを出さなくてはならず、一計を案じた小宮はゴルフ仲間にハガキの投函を頼み、助手の岡田(佐野周二)の部屋に泊めてもらう。
馴染みのバーで羽を伸ばしているところに、小宮の家に逗留している姪の節子(桑野通子)が現れて企みは露見してしまうが、アバンギャルドな節子は清元の勉強にと料亭で芸者を揚げることを要求。酔っぱらった節子は岡田に送られての未明の帰宅となる。
これを見咎めた時子が小宮の叱責を要求。裏表を使い分ける小宮は節子にも男らしくないと責められ、挙句にハガキが嘘であることもバレてしまう。追い詰められた小宮は節子の挑発に乗って時子を叩くが、むしろそれが嬉しかったらしく、節子が大阪の実家に帰り、友達(飯田蝶子)から妊娠を知らされると、新婚時代に帰って夫に夜の営みを求めて甘えるという結末。
結婚した途端に初々しさも人間らしさも忘れ、専横を振るう有閑マダムとなる淑女たちの忘れてしまったものを描くが、そうして尻に敷かれた振りをして操縦するのも男の甲斐性と節子に言う小宮の言葉が、強がりにも諦観にも聞こえるのが物悲しくもある。
そうした前時代的な夫婦関係の中で、旧来の女性像を否定して自由奔放に振る舞う節子が眩しく、小津安二郎が描きたかったのはそうした若い娘の溌剌とした生の息吹を体現する、節子の姿だったように思えてくる。
節子を演じる桑野通子が生き生きとしていて良い。『青春残酷物語』(1960)等の桑野みゆきは娘。
自動車の側面に固定したカメラによる走行風景のプロローグ、小宮家の各部屋を貫く長い廊下をカメラの奥行きで捉え、次第に電灯が消えて最後に時子が寝所に入って暗転する演出が印象的。 (評価:2.5)
金色夜叉
公開:1937年6月10日
監督:清水宏 脚本:源尊彦、中村能行 撮影:青木勇
尾崎紅葉の同名小説が原作。小説発表以来、何度も映画化されている中の清水宏監督版。間貫一を夏川大二郎、鴫沢宮を川崎弘子が演じている。
貫一の許嫁・宮が愛情よりも金を選んで富山(近衛敏明)と結婚。熱海の海岸で恨み言を残して貫一は高利貸しの手代となり、富山の借金の棒引きを宮に叩き付けるというお馴染みの復讐劇。
リアリズムの清水宏らしく、「僕の涙で必ず月は曇らして見せる」といった芝居がかった台詞を排除しているが、それでも芝居がかった台詞が多いのは原作ゆえか。
愛情と金とどちらが大事か、という今も変わらぬ不朽のテーマが語られるが、年端のいかぬ少女の宮を演じるには川崎弘子が少々大人びていて、熱海の海岸での浅薄な姿を見せられると、貫一が学業と将来を捨ててまで復讐するに値する女か? と違和感がある。
さらにラストシーンで、貫一が強引に引き留めてくれれば富山と結婚しなかったという宮の言い訳と妊娠告知に、貫一が簡単に宮を赦してしまうのもいささか強引な結末。
見どころは当時の熱海?の海岸風景。
満枝に三宅邦子。佐野周二、佐分利信、笠智衆が高等中学校生役で出ているのも見どころか? (評価:2.5)
公開:1937年11月3日
監督:内田吐夢 脚本:八木保太郎 撮影:碧川道夫 音楽:山田栄一
キネマ旬報:1位
小津安二郎の『愉しき哉保吉君』が原作。内田吐夢の満州抑留中にオリジナル版が改変され、帰国後に再編集された字幕で消失分を補う不完全版のみが現存。
ホワイトカラーのサラリーマンの悲哀を描く話で、京王線の郊外に住む商事会社勤続25年の主人公・徳丸(小杉勇)は家を新築中だが、折からのインフレで建築費が足りずに工事が止まる。そこに会社に定年制が導入されることになり、クビを言い渡される。弱り目に祟り目の徳丸は遂に気が狂ってしまい、自分が庶務部長に出世して何もかも上手くいく幻想に取りつかれるという凡庸な男のコメディ。
前半は徳丸の家族を中心とした他愛のない日常が描かれるが、他愛なさすぎて無駄な描写が多く退屈する。小津安二郎が撮ればもっとディティールに拘っただろうにと、本作が内田吐夢向きではないことを思う。
後半は幻想パートが長く、現実からの転換がどのような編集になっていたのかが気になるが、上述の事情で分からない。
徳丸のサラリーマン信条は誠実であることで、会社に対しての誠実、滅私奉公を説くが、どんなに誠を尽くしても不用になれば会社から捨てられるという、近代資本主義社会の厳しさによって徳丸のアナクロニズムを笑われる。
現代社会に置き換えても意外とサラリーマンの意識は変わっていなくて、テーマの普遍性と先進性には驚かされる。日めくりの卓上カレンダーが既にあったことなど、オフィスの描写も興味を引く。
徳丸の娘(轟夕起子)は当時としては花形の白木屋のデパートガールだが、日給95銭で家計の足しにもならず、恋人の北(江川宇礼雄)は大学は出たけれどのフリーター。
家のキャベツ畑を耕している北の方が、宮仕えの悲哀を味わう徳丸よりも余程人間らしい生き方というテーマなのだろうが、欠損フィルムが多くて全貌が見渡せないのが残念。 (評価:2)
製作:松竹大船
公開:1937年11月11日
監督:清水宏 脚本:斎藤良輔 撮影:斎藤正夫 美術:江坂実、岩井三郎 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:4位
子供に比べて大人の不自然さが目立つ親子もの人情噺
坪田譲治の同名小説が原作。
腕白小僧の小学1年の三平を中心にした物語で、父が会社の不正経理で逮捕されたのをきっかけに、賢兄の善太と母とともに巻き込まれる騒動を描く。
大黒柱を失って、年少の三平は伯父の家に預けられるもホームシックから面倒ばかり起こして家に帰され、母と住み込みで医院に働きに出ようとするも年端がいかずに断られ、さて困ったという矢先に父の無実が証明されて大団円という、いささか都合のいい展開。
左右対称の画面構成や、遠近感を強調した縦の動きなど、カメラワークが特徴的で映像を見ているだけなら飽きない。もっとも演技の方は段取りを追って定型的で、父や母の苦悩する姿がわざとらしく、至って不自然。
それに比べれば子供たちの方が自然な演技をするが、糾弾される父の会社に子供たちが野次馬でいる必然性がなく、演出のためのご都合主義が目立つ。
三平がたらい船で流される川が浅かったり、曲馬団の子供の側転が下手だったりという難点も多いが、親子ものの人情噺を無理やり組み立てた感があって、あざとさが付き纏う。
家や家財まで差し押さえられた父の不正経理の顛末もよくわからず、釈放された理由も説明不足で、いくら子供が主人公とはいえ、子供騙しが過ぎる。 (評価:2)
公開:1937年11月11日
監督:清水宏 脚本:斎藤良輔 撮影:斎藤正夫 美術:江坂実、岩井三郎 音楽:伊藤宣二
キネマ旬報:4位
坪田譲治の同名小説が原作。
腕白小僧の小学1年の三平を中心にした物語で、父が会社の不正経理で逮捕されたのをきっかけに、賢兄の善太と母とともに巻き込まれる騒動を描く。
大黒柱を失って、年少の三平は伯父の家に預けられるもホームシックから面倒ばかり起こして家に帰され、母と住み込みで医院に働きに出ようとするも年端がいかずに断られ、さて困ったという矢先に父の無実が証明されて大団円という、いささか都合のいい展開。
左右対称の画面構成や、遠近感を強調した縦の動きなど、カメラワークが特徴的で映像を見ているだけなら飽きない。もっとも演技の方は段取りを追って定型的で、父や母の苦悩する姿がわざとらしく、至って不自然。
それに比べれば子供たちの方が自然な演技をするが、糾弾される父の会社に子供たちが野次馬でいる必然性がなく、演出のためのご都合主義が目立つ。
三平がたらい船で流される川が浅かったり、曲馬団の子供の側転が下手だったりという難点も多いが、親子ものの人情噺を無理やり組み立てた感があって、あざとさが付き纏う。
家や家財まで差し押さえられた父の不正経理の顛末もよくわからず、釈放された理由も説明不足で、いくら子供が主人公とはいえ、子供騙しが過ぎる。 (評価:2)
恋も忘れて
公開:1937年7月1日
監督:清水宏 脚本:斎藤良輔 撮影:青木勇
本牧のチャブ屋で働くシングルマザー、お雪(桑野通子)の哀しい物語。徹頭徹尾メロドラマなのだが、お涙頂戴の意図が出過ぎているのが大きなマイナス。
お雪の息子・春雄(爆弾小僧)は、母の職業を理由に友達から仲間外れにされ、それが理由で登校拒否。転校初日に水商売然とした母の同行を嫌がり、お雪は初めて不登校の事情を知る。
春雄を大学に行かせることだけを心の支えに嫌な女給の仕事を続けるが、そんなお雪に惚れた店の用心棒の恭助(佐野周二)は、二人を不幸な境遇から抜け出させるために蟹工船(?)で働くことを決意。その前金でお雪の借金を返そうとする。
ところが、苛めっ子には喧嘩で勝てと恭助が春雄にアドバイスしたのが災いし、風邪を押しての小太郎(突貫小僧)との喧嘩で春雄は肺炎になって死んでしまう。
ラストは恭助が春雄のためにも船で立派に働くとお雪に言い残して去るが、お雪と恭助がヤクザ稼業から足を洗い、将来結ばれるであろうとの予感を残し、子を亡くした母の悲劇というよりは、お雪と恭助の再出発の物語となっているのがいい。
母子が住むアパートの階段からのコンポジション、同じカメラ位置での時間経過の表現など、リアリズム且つドラマチックな演出も見どころだが、母の不幸を強調する演出が過剰で、センチメントを通り越して芝居がかり過ぎているのが、全体の品格を落としている。 (評価:2)
雪崩
公開:1937年7月1日
監督:成瀬巳喜男 脚本:成瀬巳喜男 撮影:立花幹也 美術:北猛夫 音楽:飯田信夫
大佛次郎の同名小説が原作。
戦前の映画らしく、身勝手な男と夫に従うだけの女を描いた作品で、原作者はもとより、成瀬巳喜男も何が描きたくてこんなつまらない話を取り上げたのかよくわからない。
結婚した若妻(霧立のぼる)が女中のかしずく事業家の屋敷で窓の外を見やりながらの回想となり、駆け落ち同然の夫(佐伯秀男)との結婚のシーンとなる。回想が終わると、そんな夫が元許嫁(江戸川蘭子)と密会している様子が描かれ、つまんない女だ、結婚は失敗だったという話になり、それでは男の責任が果たせぬと父(佐伯秀男)に叱責される。
対立点は、愛のない結婚生活を続けるのは不誠実か、愛なくても妻を養うのが夫の義務かというもので、戦前的な婚姻の在り方がテーマになっている。
正妻は家名と子孫維持のため、愛人は別に持つのが許された時代で、それに疑問を投げかけたともいえるが、駆け落ち同然で結婚した妻を愛情が覚めたから離縁するという、身勝手夫が主人公では説得力がない。
そんな男とヨリを戻す許嫁も何で、結婚しないのは病弱な弟の万一を考えて婿養子を取るためというあきれ果てた事情。
雪崩を起こすように現実が脆弱なのではなく、登場人物たちの頭が脆弱だから雪崩を起こす。現実を受け入れた夫は仮面の夫婦となるが、やっぱり耐えられないと妻との偽装無理心中を図ろうとするが、それも受け入れてしまう妻に負けて思い留まる。
登場人物の中で精神的に一番強いのは実は妻で、暖簾に腕押し、雪崩も避けて通るというのが、制作者の意図しない結論。 (評価:1.5)