海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1995年

製作国:フランス、イタリア、ギリシャ
日本公開:1996年3月23日
監督:テオ・アンゲロプロス 製作:エリック・ウーマン、ジョルジオ・シルヴァーニ、フィービ・エコノモプロス 脚本:テオ・アンゲロプロス、トニーノ・グエッラ、ペトロス・マルカリス 撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス 音楽:エレニ・カラインドロウ
キネマ旬報:2位

オデュッセウスの目を通しても答えの見つからない問い
 原題"To Vlemma Tou Odyssea"で、オデュッセウス(ユリシーズ)の目(look)の意。
 ホメロスの『オデュッセイア』をモチーフに、オデュッセウスの地中海の旅を20世紀のバルカン半島の旅に置き換えたもの。
 オデュッセウスとなるのはテオ・アンゲロプロス自身であり、映画監督の主人公はマナキス兄弟の幻の処女作を求め、放浪の旅に出る。
 マナキス兄弟はバルカン初の映像作家で、1905年に祖母を撮影した60秒の記録映画が最初のフィルムとされている。オスマン帝国のカメラマンなどで、バルカン戦争や第一次大戦の歴史的事件を記録し、文化・生活を含む東欧の貴重な映像を数多く残し、兄のヤナキは1954年、弟のミルトンは1964年に歿している。
 主人公はギリシャからアルバニア、マケドニア、ルーマニア、セルビア、最後は戦火のボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォに辿りつき、マナキス兄弟の未現像のフィルムを手に入れる。
 この間、様々な人々に出合いながら、マナキス兄弟の記憶、自らの過去の記憶が錯綜し、混じり合いながら、バルカンの戦争の百年を俯瞰する普遍的視点へと移っていく。それがタイトルのオデュッセウスの目であり、サラエボに始まりサラエボに終わる、歴史に学ばない愚かな人間の繰り返しを見つめる視点となっている。
 奇妙で象徴的なのは、現代のサラエボの濃霧の中で子供たちが見えるはずのない雲の形を言い合う場面で、霧の中では戦闘は行われないから平穏だというものの、直後に悲劇は霧の中で起き、霧に隠れてしまう。
 子供たちは霧の中に何を見ていたのか? どのような希望を見い出そうとしていたのか? という問いとともに、探し当てたフィルムに映っていたものもまた霧に隠れていて、オデュッセウスの目を通しても、答えの見つからない問いそのものを示している。
 本作は映像的にもよくできていて、冒頭の海に浮かぶ白い帆船がモノクロから青みがかった白に移り替っていくシーンが秀逸。アルバニアの寒々とした風景、とりわけルーマニアのコスタンツァの港で、解体されたレーニン像の首がクレーンで吊るされるシーンが印象的で、それに続いてドナウ川を船でレーニン像を運ぶシーンがいい。船から川岸の人々を舐めていくシーンはアンゲロプロスらしい長回しで、計算されたモブシーンは絶品。
 約3時間は長いが、それに耐えられる出来となっている。
 アンゲロプロスの絶望に満ちた作品だが、公開の翌年、セルビアによるサラエヴォ包囲は解かれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は終結した。 (評価:4)

トイ・ストーリー

製作国:アメリカ
日本公開:1996年3月23日
監督:ジョン・ラセター 製作:ラルフ・グッジェンハイム、ボニー・アーノルド 脚本:ジョス・ウェドン、アンドリュー・スタントン、ジョエル・コーエン、アレック・ソコロウ 美術監督:ラルフ・エグルストン 音楽:ランディ・ニューマン

子供目線で作られた大人にも楽しめる王道CGアニメーション
 原題"Toy Story"で、命を持った玩具が主人公のファンタジー。
 制作したピクサー・アニメーションを世に知らしめたことでも歴史的だが、今尚古びないCGアニメーション技術に改めて驚かされる。その後、ピクサーを含めたくさんのCGアニメーションが作られたが、映像的にけっして見劣りしないし、むしろ演出やシナリオでは本作を超えられたものはない。子供にも大人にも楽しめる王道のアニメーション。
 本作のアイディアの優れたところは、子供の誰しもが思うトイの擬人化で、「おもちゃのチャチャチャ」同様に人間の知らないところで玩具が人格を持って動き出すという、子供目線。
 玩具のオーナーであるアンディは、よくある気まぐれで我儘な子供だが、最後まで玩具が生きていることに気付かない。
 アンディの誕生日に人気者の宇宙ヒーロー、バズの新しい玩具がやってくる。アンディの一のお気に入りだったカウボーイのウッディは主役交代の危機とばかりにバズに対抗心を燃やし、ふとしたはずみで家の外に追い出してしまう。家族と食事に出かけることになり、バズともども迷子になり、必死で帰還を図るというストーリー。
 これにアンディ一家の引っ越しが絡むが、最後にウッディとバズが固く友情で結ばれるという、よくできたシナリオになっている。
 とりわけ生きている玩具の動きが楽しく、GIジョーが偵察部隊として活躍したり、宇宙ヒーロー、バズが当初、自分を玩具だと信じず、自装のロケットや武器が役に立たないことを知って落ち込むシーンなど、玩具の特徴をコミカルに描いている。
 隣の悪ガキ、シドが玩具の解体マニアで、キメラになった玩具も不気味でいい。
 漫画映画らしいアイディアとギャグ、ファンタジーに溢れた好編。 (評価:3)

製作国:アメリカ、日本
日本公開:1995年10月7日
監督:ウェイン・ワン 製作:ピーター・ニューマン、グレッグ・ジョンソン、堀越謙三、黒岩久美 脚本:ポール・オースター 撮影:アダム・ホレンダー 音楽:レイチェル・ポートマン
キネマ旬報:2位

ドブのような街に暮らすドブ鼠のような人々のやさしさ
 原題"Smoke"で、煙草のこと。ポール・ベンジャミン・オースターの小説"Auggie Wren's Christmas Story"(オーギー・レンのクリスマス・ストーリー)が原作。
 "Brooklyn tobacconist store"(ブルックリン煙草店)の店主オーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)と常連客の小説家ポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)の交流を軸に織りなす下町哀愁ドラマ。夢や希望を失った底辺の人々が漂うブルックリンの街角の、紫煙のような物悲しさが本作の最大の魅力となっている。
 ポールは交通事故で妻を亡くし、それからは小説を書けなくなっている。オーギーは毎日同じ時刻、同じ場所にカメラの三脚を立てて、町の様子を写真に撮るのが趣味。同じ風景ながらそれは町が生きている証の記録写真で、そのアルバムを見たポールは偶然映り込んでいた亡妻を発見、再起へのきっかけとする。
 一方、オーギーの前に18年前に別れた妻(ストッカード・チャニング)が突然現れ、不良になった娘に会いに行くが手が付けられない。本当に自分の娘か確信が持てないが、更生させたいという親心は残る。
 ポールが知り合った心根の優しい黒人少年(ハロルド・ペリノー・ジュニア)は、幼い頃に母を亡くし、父は蒸発。その父を見つけた少年は、自分が息子であることを隠して父の店のバイトに雇ってもらい、父の温もりを得ようとする。
 最後にオーギーが見ず知らずの盲目の老婆とクリスマスの夜を過ごし、カメラを手に入れたエピソードが語られ、ドブのような街に暮らすドブ鼠のような人々のやさしさを描いて終わる。 (評価:3)

製作国:アメリカ、イギリス
日本公開:1996年8月3日
監督:ティム・ロビンス 製作:ジョン・キリク、ティム・ロビンス、ラッド・シモンズ 脚本:ティム・ロビンス 撮影:ロジャー・A・ディーキンス 音楽:デヴィッド・ロビンス
キネマ旬報:5位

死刑をめぐる賛否を超えたところにある死を描く
 原題は"Dead Man Walking"で死刑囚のこと。ヘレン・プレジャンのノンフィクションが原作。
 修道女のプレジャンが、死刑囚の精神アドバイザーを務めた経験を基に描いた作品。主演のスーザン・サランドンは海女でみー主演女優賞を受賞。監督のティム・ロビンスは元夫。
 貧民街の修道院で働くヘレンは、カップル殺人と強姦で死刑となった男から、再審請求のための弁護士を雇ってほしいという手紙を受け取ったことがきっかけで、死刑囚の最期を看取ることになる。その間、死刑囚の家庭の苦悶、被害者の両親の反発に直面し、死刑の是非を巡る対立の渦中に身を投じていく。
 ヘレンは死刑廃止論者であり、本作がそのような意図から制作されたことは間違いないが、見終わって持つ感想は、それに対する賛否ではない。死についての死刑囚本人と残される周りの者たちの思いというものが、死刑の是非を超えた遥かな高み、神の領域にあって、賛成論も反対論も世俗的問題でしかない。死刑囚にとっても被害者にとっても死は現実を超えた不可侵の宇宙にあることを知る。
 意図したかどうかに係わらず、映画はヘレンの死との対峙を追うことで、結果的に死刑廃止論を超えたものを描いた。大事なのは死刑の是非ではなく、誰にとっても不可避の死に直面した時に死をどうやって自分に引き寄せるかということにある。
 ヘレンは死刑囚のために死を引き寄せることに成功した。その結果、彼は死刑を受動ではなく能動として捉えていく。ラストシーンでヘレンと被害者の父が人の死を自分のものとして祈る姿が美しい。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1996年1月27日
監督:デヴィッド・フィンチャー 製作:アーノルド・コペルソン、フィリス・カーライル 脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー 撮影:ダリウス・コンジ 美術:ゲイリー・ウィスナー 音楽:ハワード・ショア
キネマ旬報:6位

度肝を抜く殺害方法の猟奇性と嫉妬と憤怒のラストが見どころ
 原題"Seven"で、七つの大罪をモチーフにした殺人事件を刑事2人が解決していくミステリー映画。
 退職間際の老刑事をモーガン・フリーマン、転任してきたばかりの若手刑事をブラッド・ピットが演じるが、退職までseven daysで事件を解決するというのもタイトルに引っかけてある。
 2件の殺人現場にgluttony(暴食)、greed(強欲)の文字が残されていたことからすぐに老刑事が七つの大罪との関連に気付き、犯人の正体もわかることから、あとは残り5件の殺人がどのように行われるのかに興味が移る。
 そうした点ではよくできたシナリオで、2人の演技よりもストーリーを楽しむという王道のミステリーだが、デブ、悪徳弁護士の次は、sloth(怠惰)の前科者、lust(肉欲)の娼婦、pride(高慢)のモデルとややありきたり。見どころは度肝を抜く殺害方法の猟奇性ということになってしまう。
 本作の優れているのは、追い詰められた犯人が犯す残り2件の殺人で、envy(嫉妬)とwrath(憤怒)がキーワードとなるが、wrathでは殺されるのが本人ではないというのが若干残念なところ。
 さらに言えば、犯人が七つの大罪殺人を犯す動機が、腐った世の中への無関心に警鐘を鳴らすというだけで、それ以上の掘り下げがないのも物足りない。
 しかし思いがけない2件の殺人と、犯人が七つの大罪殺人を完成させられるかというラストが最大の見どころとなっていて、娯楽サスペンスとしては一級に仕上がっている。 (評価:2.5)

ダイ・ハード3

製作国:アメリカ
日本公開:1995年7月1日
監督:ジョン・マクティアナン 製作:ジョン・マクティアナン、マイケル・タドロス 脚本:ジョナサン・ヘンズリー 撮影:ピーター・メンジース・Jr 音楽:マイケル・ケイメン

現実離れした破天荒が『ダイ・ハード』の醍醐味
 原題"Die Hard: With a Vengeance"で、"Die Hard"は粘り強く耐えてなかなか死なないという意。副題は「猛烈に」の意。
 第1作に登場したテロリストの兄サイモンが弟の復讐戦とばかりに、マクレーン刑事を指名してニューヨークで爆弾ごっこを仕掛ける。劇中命令ゲームと訳される"simon says"は子供の遊びで、犯人の名に引っかけて使われる。
 マクレーンと巻き込まれた黒人ゼウス(サミュエル・L・ジャクソン)が、犯人のなぞなぞの命令に従ってハーレムを起点にニューヨーク中を走り回される。公衆電話を使って刑事を振り回すというのは『ダーティハリー』のアイディアのパクリだが、大渋滞のニューヨークを車で走り抜け、セントラルパークに飛び込むシーンは本作最大の見せ場。
 地下鉄駅が爆破され、次の標的が小学校に移るとともに、犯人の本当の狙いがわかり、いつも通りのマクレーンとサイモンとの"Die Hard"となる。
 連邦準備銀行の金塊を盗んだサイモンたちの装備品も大掛かりで、工事中の導水管トンネルを抜けて貨物船に金塊を載せて沈めるという現実離れしたチェイスが破天荒で楽しい。
 サイモンは荷抜きして陸路をカナダ国境へ向かい、マクレーンとの最終決戦となるが、"simon says"から始まるノンストップ・アクションこそが『ダイ・ハード』の醍醐味で、導水管からマクレーンが噴射されるシーンや、吊り橋から貨物船に落下するシーンなど、コミカルアクションもあって、良質のエンタテイメントに仕上がっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年9月1日
監督: クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、キャスリーン・ケネディ 脚本:リチャード・ラグラヴェネーズ 撮影:ジャック・N・グリーン 音楽:レニー・ニーハウス
キネマ旬報:3位

中年女のシンデレラ・コンプレックスをストリープが好演
 原題"The Bridges of Madison County"で邦題の意。ロバート・ジェームズ・ウォラーの同名小説が原作。
 原作は日本でもベストセラーとなり、表紙に橋のイラストが描かれていて、それなりの雰囲気があったが、映画で見た時は意外と即物的で、物語ほどには情緒を感じなかった。
 もっとも物語はありふれたハーレクイン的不倫もので、公開から1年ほどして池袋の文芸坐でようやく映画を見た記憶がある。併映が何だったか覚えていない。
 当時の記憶としては、メリル・ストリープの演技が際立っていて、彼女の演技だけで持っている感じがしたが、60歳を過ぎた皺くちゃのクリント・イーストウッドが浮気相手というのが、どうにも納得がいかなかった。
 20年ぶりに見ると、それなりに楽しめて感動的な気がする。気がするというのは、やはりメリル・ストリープが上手く、ラストでローズマン橋に散骨する際に亡くなった彼女の心情というのがセンチメンタルに伝わってくる。"I gave my life to my family. I wish to give Robert what is left of me."(私は家族のために人生を捧げてきた。遺灰はロバートに捧げてほしい)が泣かせる台詞。
 イタリア娘が米兵と結婚してアメリカの田舎町の農場で十数年を暮らす。子供が成長し、気がついた時には彼女の華やかな時は終わっていて、そこに自分の生活とはかけ離れた人生を送るジオグラフィックのカメラマンがやってくる。
 女はいくつになっても、つまらない境遇から救い出してくれる王子様を待っているというシンデレラ・コンプレックスを描くが、メリル・ストリープが垢抜けない百姓女を好演するだけに妙に説得力を持つ。対するイーストウッドはというと、そんな百姓女を相手に王子様になり切ってしまう嘘くささが気になって、ただのスケベ爺にしか見えないのが痛い。
 見る側が、女ならばシンデレラに、男なら王子様になりきれるかどうかが評価の分かれ目。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年10月14日
監督:メル・ギブソン 製作:メル・ギブソン、アラン・ラッド・Jr、ブルース・デイヴィ 脚本:ランドール・ウォレス 撮影:ジョン・トール 美術:ケン・コート、ネイサン・クロウリー、ダン・ドランス、ジョン・ルーカス、ネッド・マクローリン 音楽:ジェームズ・ホーナー
アカデミー作品賞

個人的にはフランス王女役のソフィー・マルソーが見どころ
 原題"Braveheart"で勇敢な心。メル・ギブソンの監督・主演作品。
 約3時間に及ぶ大作で、アイルランドで撮影された大量のエキストラを投入した戦闘シーンは本作の見どころ。
 13世紀末、イングランド支配下のスコットランド独立の英雄ウィリアム・ウォレスの活躍を描く。父と兄を殺されて孤児となり、長じて戦うことを忌避するが、幼馴染の恋人をイングランド兵士に殺されたことから、抵抗運動のリーダーになる。
 頭脳戦でイングランド軍を打ち破り、アイルランド人を仲間に入れ、freedomを旗印にイングランド王エドワード1世との妥協を排するものの、私利に走るスコットランド王侯貴族の裏切りにあって捕まり、大逆罪で斬首される。しかし、ウォレスの遺志を継ぐ者たちによってイングランド支配から脱し、めでたしめでたしというスペクタクル史劇。
 首が飛んだり、斧で頭をかち割ったりという残虐シーンが続くので、一息入れるために、終盤、フランスから嫁入りしたイングランド皇太子妃イザベラとのラブシーンを入れているが、違和感があり過ぎ。このフランス王女をソフィー・マルソーが演じているのも、個人的にはちょっとした見どころ。
 若者のウォレスを中年のメル・ギブソンが演じているのも、若干、無理がある。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年7月22日
監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー 脚本:ウィリアム・ブロイルズ・Jr、アル・ライナート、ジョン・セイルズ、エリック・ロス 撮影:ディーン・カンディ 音楽:ジェームズ・ホーナー 美術:デヴィッド・J・ボンバ、ブルース・アラン・ミラー
キネマ旬報:9位

セミ・ドキュメンタリーにホームドラマはいらない
 原題"Apollo 13"。船長だったジム・ラヴェルの体験記"Lost Moon"(ジェフリー・クルーガー共著)が原作。
 1970年に起きたアポロ13号の事故をセミ・ドキュメンタリー風に再現したドラマ。事故そのものは月面探査を終えて帰ってくるミッションが、月への周回軌道に乗った直後に電気系統のショートにより酸素タンクが爆発。ミッションを諦め、周回軌道を巡って地球に帰還する話で、電力・水の不足の中でいくつかの困難を乗り越えて生還を果たす。当時、このニュースに世界中が注目した。
 この事故の様子とNASAと乗組員が如何に絶体絶命のピンチを切り抜けたかという物語はドラマチックで興味深い。真実に勝るドラマはなく、感動的でもある。
 ただ年月を経ると、月面探査が有人である必要はなく、有人月面探査計画はNASAの予算獲得のためのショー、組織の生き残りをかけたパフォーマンスで、アポロ13号の事故さえもが"successful failure"(栄光ある失敗)とNASAの宣伝の材料にされた感が拭えない。
 ジム・ラヴェルら乗組員に罪はないが、この映画を単純に感動物語として良いのか最後にもやもやしたものが残る。
 映画の前半はこの悲劇を盛り上げるためのホームドラマになっていて不要。アメリカ人の好きなヒーロー物語ではなく、アポロ計画の是非を問う作品になっていれば、別の感動があった。
 トム・ハンクス、ケヴィン・ベーコンが出演。 (評価:2.5)

007 ゴールデンアイ

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1995年12月16日
監督:マーティン・キャンベル 製作:マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ 脚本:ジェフリー・ケイン、ブルース・フィアスティン 撮影:フィル・メヒュー 音楽:エリック・セラ

巨大ダムからのバンジージャンプが圧巻
 原題"GoldenEye"で、劇中に登場する衛星兵器の名称。完全なオリジナルで、5代目ボンド、ピアース・ブロスナンの第1作(シリーズ第17作)。
 これまでのバラエティ的構成の007シリーズに比べて、ストーリー性が強化され、全体として1本筋の通ったスパイアクションものになっている。ボンドガールもお色気路線の賑やかしから、ストーリーに絡むヒロインとなっている。もっともオープニング曲のアレンジは今ひとつぎこちない。
 冒頭、巨大ダムからのバンジージャンプは圧巻で、大きな見どころのひとつ。滑走する小型飛行機に飛び乗るシーンも見応えがある。
 転じて9年後、ソ連は崩壊し、ロシアのマフィアが今回の敵として登場する。殺人的な絞め技を特技とするサド女(ファムケ・ヤンセン)が、最後までボンドを追いかけるが、個性的で強烈なキャラでいい。
 このサド女と将軍がゴールデンアイを乗っ取り、ロシア軍基地を破壊。次にロンドン銀行から金を引き出した後に、ゴールデンアイで証拠隠滅を図ろうとする。
 ボンドの使命はゴールデンアイの奪還で、それに協力するのが破壊されたロシア軍基地の女性プログラマー(イザベラ・スコルプコ)。彼女がボンドガールとなり、危機を救うという活躍をする。
 ボンドガールのイザベラ・スコルプコはポーランド人で、英語の強烈な訛りが可愛い。
 ロシアマフィアのボスはコサック出身で、ロシアにもイギリスにも恨みを懐いていて、ソ連崩壊でマフィアに転じるという背景もポイントで、実は・・・。
 この回からM役にジュディ・デンチ。 (評価:2.5)

ムトゥ 踊るマハラジャ

製作国:インド
日本公開:1998年6月13日
監督:K・S・ラヴィクマール 製作:ラジャーム・バーラチャンダル、プシュパー・カンダスワーミ 脚本:K・S・ラヴィクマール 美術:マヒ 音楽:A・R・ラフマーン

歌と踊り、アクションと3時間弱の長尺ながら飽きない
 原題"Muthu"で、主人公の名。南インド、タミル・ナードゥ州を舞台にした、歌と踊り、アクション、コメディ、ラブストーリーをふんだんに盛り込んだ娯楽大作。個人的には、公開当時に南インド料理店でいつもこのビデオがかかっていたのを覚えている。
 物語は、大地主の館で育てられたムトゥ(ラジニカーント)が、女主人シヴァガーミ(ジャヤカバーラティ)の放蕩息子ラージャー(サラットバーブ)の世話係として一緒に旅回りの芝居を見に行き、ラージャーが女優ランガ(ミーナ)に一目惚れ。ところが財産を狙う叔父アンバラッタール(ラーダー・ラヴィ)が娘パドミニ(スバーシュリー)をラージャーに娶せようとしていて、そうこうしているうちにムトゥとランガが相思相愛になってしまう。
 窮地のランガを助けてムトゥが館に連れ帰ったことからラージャーとの三角関係。謎の聖人とムトゥの出生の秘密、財産を巡るアンバラッタールの陰謀が絡み、最後はインド叙事詩的な結末に至るハッピーエンドとなる。
 ギャグはベタなものが多いが、途中、カンフー映画や『駅馬車』(1939)、『荒野の七人』(1960)などを連想させるアクション・シーンがあったり、レビューを思わせる群舞があったりして、3時間弱の長尺ながら飽きない。
 台詞は舞台となるタミル・ナードゥ州のタミル語を基本に一部英語混じりで語られるが、一時ムトゥとランガが立ち寄る隣の州では違う言語が使われていて、会話が通じないというギャグがあったりして、インドの広大さを知るのも一興。カーストも顔を覗かせる。 (評価:2.5)

バットマン フォーエヴァー

製作国:アメリカ
日本公開:1995年6月17日
監督:ジョエル・シュマッカー 製作:ティム・バートン、ピーター・マクレガー=スコット 脚本:アキヴァ・ゴールズマン、リー・バチェラー、ジャネット・スコット・バチェラー 撮影:スティーヴン・ゴールドブラット 音楽:エリオット・ゴールデンサール

艶めかしいバットマンのお尻のアップは必見
 ティム・バートン『バットマン』からのシリーズ3作目。悪役にはトゥーフェイスとリドラーが登場する。ブルース・ウェインの過去話、サーカス団のディック・グレイソンが初代ロビンとなるエピソードを交えながら、物語の主軸はバットマンの恋物語となっている。
 悪役の怪人たちの完全にイッてしまった狂人ぶりと悪行、猥雑できらびやかなゴッサムシティ、ヒーロー全開のバットマン、派手な舞台装置、カッコよさだけを追求した台詞の数々など、本来のバットマンの楽しさを存分に味わわせてくれる。しかし見終わると、祭りの後の空虚感のように何も残らない。
 カウンセラーの精神科医がウェインに恋するのも今ひとつよくわからないし、二人の恋物語もしっくりこない。納得できるのは、ニコール・キッドマンくらいの美人なら、バットマンに限らず男なら誰でも一目惚れするだろうというくらい。
 ストーリーを度外視すれば、楽しいことは楽しい。屋敷を襲撃されたウェインが二着めのバットマンスーツを着る際の、艶めかしいラバーのお尻のシーンは必見だ。 (評価:2.5)

デッドマン

製作国:アメリカ
日本公開:1995年12月23日
監督:ジム・ジャームッシュ 製作:デメトラ・J・マクブライド 脚本:ジム・ジャームッシュ 撮影:ロビー・ミューラー 音楽:ニール・ヤング

2時間の映画で難解さを観客に求めることに疑問
 原題"Dead Man"で、死者の意。
 19世紀後半、東部クリーブランドの会計士ウィリアム・ブレイク(ジョニー・デップ)が、アメリカ大陸横断鉄道で西部の最果ての町マシーンにやって来るところから物語は始まる。
 列車の乗客は全員ライフルを携えていて、根掘り葉掘り聞いてくる男は、マシーンに行くのは地獄へ行くのと同じだと教える。就職先を訪ねると、他の会計士が見つかったと追い出され、話は噛み合わない。ここらで、これが不条理な物語だと気づくが、出会った花売り娘のベッドで元恋人が銃をぶっ放して娘は退場。ブレイクは元恋人を射殺して逃げ出すが、銃弾を受けていたために失神。
 先住民のノーボディ(ゲイリー・ファーマー)に助けられての逃避行となるが、ノーボディはウィリアムを同姓同名のイギリスの詩人で、魂の故郷へ帰っていく死者だと思い込む。
 ウィリアム・ブレイクの詩を引用するノーボディのセリフは難解で、不条理なストーリーが続くが、大江健三郎が小説『新しい人よ眼ざめよ』の中で読み解いていたのがブレイクの詩だと知れば、本作そのものが同じ文脈にあることがわかり、敢えて理解しようという気が失せる。
 2時間で終演となる映画で、このような難解さを観客に求めることにいささか疑問符が付くが、浅く解釈すれば、この物語はダンテの『神曲』の地獄めぐりの西部劇版で、花売り娘を助ける善人だったブレイクが、色情に誘われ、躊躇なく人を殺すという人間の本性を露わにしていく。
 お尋ね者となったブレイクは、追っ手により瀕死の深手を負い、先住民の村に辿り着いたのち、一人カヌーに乗せられて海の彼方の魂の国へと旅立つ。
 この物語を如何様にも解釈するのは観客に任されているが、少なくとも西部劇のエンタテイメントを期待してはいけない。 (評価:2)

製作国:フランス、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリア
日本公開:1996年4月20日
監督:エミール・クストリッツァ 脚本:デュシャン・コバチェヴィッチ、エミール・クストリッツァ 撮影:ヴィルコ・フィラチ 美術:ミリアン・クレカ・クリアコヴィッチ 音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ
キネマ旬報:3位
カンヌ映画祭パルム・ドール

ユーゴスラビアへの郷愁を描くが記号的で凡庸
 原題"Underground"。ベオグラードを舞台に第二次世界大戦からユーゴ内戦までを描くが、パルチザンが地下室のアジトに籠り、終戦を知らないまま40年間を過ごし、ユーゴ内戦でも地下室が使われたという物語の設定がタイトルの由来。
 3部構成で1941年からの第二次世界大戦、1961年からのチトー政権下、1991年からのユーゴの崩壊と内戦がコメディタッチに描かれる。シリアスなユーゴの歴史を戯画化して描くということに監督の意図があるが、ギャグの質が低く笑えないのが何とも痛い。
 マルコは共産党員で、友人クロを対ナチのパルチザンに入党させ、地下室で武器を製造させるものの、女優の取り合いからクロを騙して終戦を隠し、チトーの側近に昇進。地上ではクロは戦死したことにする。
 ところが事故から地下室が崩壊し、クロたちが地上に出てくるものの、ユーゴ崩壊と内戦でクロは再び地下に潜る。この内戦でマルコと女優はクロの息子に殺され、息子は自殺。クロは地下室の井戸に入水すると、死者たちの住む半島にたどり着く、というのがストーリー。
 クロが内戦時に国連軍にクロアチアかセルビアかと問われ、私はクロで上官は祖国だと答える。この祖国はおそらくユーゴを差し、ファシズムと戦っていたユーゴが、分裂して民族同士が争うことになる歴史の悲劇がテーマとなっている。その分裂を象徴するように、死者たちの住む半島はユーゴの地を離れドナウ川を流れていくという、ユーゴへの郷愁を描く作品になっている。
 テーマ的には非常にわかりやすいが、そこに描かれているドラマは、終戦を知らずに地下に40年間籠っていたというアイディアを除けば記号的で凡庸。それを3時間かけて描くのは、いささか長い。パルム・ドール受賞。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1996年4月13日
監督:ブライアン・シンガー 製作:ブライアン・シンガー、マイケル・マクドネル 脚本:クリストファー・マッカリー 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル 音楽:ジョン・オットマン
キネマ旬報:7位

アカデミー脚本賞は凝り過ぎていて話が掴みづらい
 原題"The Usual Suspects"で、常連の容疑者のこと。カイザー・ソゼという正体不明の伝説の犯罪者によって集められた5人の素行不良者が、麻薬密輸船の火災で1人を残して焼死。生き残った1人が5人の出会いから火災までを捜査官に証言する形で物語は進行する。
 最後は大どんでん返しが待ち構えているが、アカデミー脚本賞を受賞した脚本はいささか凝り過ぎていて、話が掴みづらい。カイザー・ソゼの正体も最後まで明かさないため、事件の全体像の背景が不明のままに終わってしまって、狐につままれた未消化感が残る。
 そもそもusual suspectsが逮捕されて一堂に会したのが偶然なのか、そうでなくカイザー・ソゼの計画ならば、彼と警察との関係はどうなっているのかがわからないまま。
 見終わって釈然としない謎の残るのをよしとするタイプの脚本作りで、それを楽しめないとフラストレーションが残る。
 カイザー・ソゼの相棒となる弁護士がコバヤシだが、日系人ではなくイギリスの俳優なのがちょっと残念。全体に地味なキャスティングで、それなりだがやはり華がないのは寂しい。 (評価:2)

スピーシーズ 種の起源

製作国:アメリカ
日本公開:1995年11月23日
監督:ロジャー・ドナルドソン 製作:フランク・マンキューソ・Jr デニス・フェルドマン 脚本:デニス・フェルドマン 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 音楽:クリストファー・ヤング

スリリングな追跡劇と交尾のための男の誘惑が見どころ
 原題"Species"で、生物分類の種のこと。
 20年前に宇宙から未知のDNA情報が送られてきて卵子に注入したところ、急速に少女(ミシェル・ウィリアムズ)に成長。脅威を感じた研究員が毒殺を試みたところ研究所を脱走し、ロサンゼルスに逃げ込み、種の保存を図るために男と交尾しようとするという物語。
 普段は美女の形態を取る生命体だが、中身は爬虫類のようなイソギンチャクのような怪物で、変態・脱皮を繰り返して成長。長い舌で人間を殺すというSFホラー。
 怪物の名はジル(ナターシャ・ヘンストリッジ)で、これを捕獲・抹殺しようとするのが研究所トップのフィッチ(ベン・キングズレー)、人類学者アーデン(アルフレッド・モリーナ)、分子生物学者ローラ(マーグ・ヘルゲンバーガー)、霊能者ダン(フォレスト・ウィテカー)、そして仕事人プレストン(マイケル・マドセン)の5人。追跡中に最初の2人はジルに殺されてしまうが、最後は下水道に追い込み退治する。
 逃げ回りながらもターミネーターのように無敵で、次々人を殺していくジルとプレストンらの追跡劇がスリリング。加えてジルが交尾のために男を誘惑するセクシャル・シーンが見どころで、人気となってシリーズ化されることになる。
 ラストは怪物の触手の切れ端をドブネズミが食べてしまい、DNA変異を起こして他の鼠を襲うシーンで終わるが、人類と融合できるDNAが鼠にも融合できてしまうのが謎。
 運転技術をどこで覚えたのかとか、随所に都合のいいシナリオだが、そこそこ楽しめる。ベン・キングズレーは『ガンジー』(1982)のガンジー役で、今回は聖者とは正反対の冷酷な科学者役。 (評価:2)

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1996年6月1日
監督:アン・リー 製作:リンゼイ・ドーラン 脚本:エマ・トンプソン 撮影:マイケル・コールター 音楽:パトリック・ドイル 美術:ルチャーナ・アリギ
キネマ旬報:10位
ゴールデングローブ作品賞 ベルリン映画祭金熊賞


すべてをぶち壊すディズニー的ラストシーン
 原題は"Sense and Sensibility"で、1811年に書かれたジェーン・オースティンの同名小説が原作。「分別と多感」「知性と感性」などと訳されている。
 19世紀イギリスの貴族の一家の話で、領主が死んで家督は長男夫婦に引き継がれる。妻と3人の娘は僅かな年金だけを頼りに館を追い出され、親戚のコテージに身を寄せるが、レディは働くことも許されず、貧しい生活を送る。
 分別のある長女(エマ・トンプソン)は行かず後家、多感な次女(ケイト・ウィンスレット)は詩と恋を夢見るという、タイトルそのものを象徴している。三女はまだ子供で、姉二人はいい男を見つけて嫁ぐ以外に現状を抜け出す方策はない。
 というわけで、二人の女の婿取りの話が延々と続くが、愛と現実は別物で、二人が選んだ相手は条件の良い嫁を探さなければ、親からの遺産が貰えないという現実に直面し、貧しい娘二人は失恋して失意に沈む。
 話はくだらないが、まあ、そこまでは可愛いケイト・ウィンスレットもいることだし、世の中やっぱり金だ、愛なんて絵に描いた餅だ、などと現実の厳しさに沈む二人に同情しながら、この先どうなるのだろうと見続けられる。
 ところが、あろうことかラストシーンがとんでもない大どんでん返しで、それまでのメランコリックな気分を一気に吹き飛ばしてしまい、いくらハッピーエンドがいいからって、これはディズニー映画じゃないんだから、こんな展開はないだろう、これじゃ今までの話はいったい何だったんだ、という終わり方をする。
 原作がそうなんだから仕方がないとは言っても、これはない。いっそ、コメディにしてくれれば、それなりに納得はいくが、シリアスでこれはない。
 監督アン・リーと原作者に"Sense and Sensibility"がないことにガッカリしながら、2時間が急に無駄な時間だったと感じる。
 見どころは、デビュー初期のまだ若くて可愛いケイト・ウィンスレット20歳。スネイプ先生アラン・リックマン、トレローニー先生エマ・トンプソン、アンブリッジ先生イメルダ・スタウントンと後の『ハリー・ポッター』に出演するイギリス俳優が出ているのも見どころ。 (評価:2)

ヒート

製作国:アメリカ
日本公開:1996年5月25日
監督:マイケル・マン 製作:マイケル・マン、アート・リンソン 脚本:マイケル・マン 撮影:ダンテ・スピノッティ 美術:ニール・スピサック 音楽:エリオット・ゴールデンサール

強盗と刑事の頭脳戦と思いきや少しもスマートでない
 原題"Heat"で、熱さ、激しさ、追跡などの意。
 ロバート・デ・ニーロが強盗団の頭、アル・パチーノが刑事という演技派二人が共演する犯罪ドラマ。
 現金輸送車から無記名証券が強奪され、手口からプロの窃盗団と睨んだハナ警部補(アル・パチーノ)が出動。マッコーリー(ロバート・デ・ニーロ)率いる強盗団の貴金属倉庫強奪未遂、銀行強盗の銃撃戦を経て、海外逃亡の攻防戦となる。
 ハナとマッコーリーは互いに相手の頭の良さを認め、さては頭脳戦が展開されると思いきや、銀行強盗もマシンガン頼みの野蛮なもので、警官隊の包囲網を札束の入った重い袋を提げてマシンガン片手によく逃げおおせるものだと感心する。
 マッコーリーが海外に高飛びする前に、ホテルで裏切り者を殺すために火災報知機を鳴らすというのも強引で、消防車と群衆に囲まれてどうやって車を出す気かと、その無計画ぶりに呆れる。
 結局、徒歩で空港に向かうが、ここでもハナとの銃による一騎打ちと、少しもスマートではない。
 犯罪者に家族や恋人は足手纏いと孤高を貫くマッコーリーが、恋人ができたために犯罪から足を洗おうとし、刑事の仕事を貫徹するために私生活と家族の犠牲を厭わないハナという、プロに徹する両雄のかっこ良さを描こうとするが、ヒロイズムを誇張しすぎていて鼻につく。
 煩雑なストーリーと人物関係を整理できてなく、3時間見続けるにはいささか疲れるが、デ・ニーロとアル・パチーノの演技が出来の悪いシナリオを救っている。 (評価:2)

FLIRT フラート

製作国:アメリカ、ドイツ、日本
日本公開:1997年3月1日
監督:ハル・ハートリー 製作:テッド・ホープ 脚本:ハル・ハートリー 撮影:マイケル・スピラー 音楽:ネッド・ライフル、ジェフリー・テイラー

大事でもない三角関係の小話を3回繰り返し観せられる
 原題"Flirt"で、浮気者、恋を弄ぶ者などの意。
 ニューヨーク、ベルリン、東京を舞台にした3人の浮気者の話が展開するオムニバスで、それぞれが三角関係にあり、現在のカップルの相手方が外国に旅立つことになり、それに同行するかの選択を迫られるという同じシチュエーションになっている。
 その際、私たちに未来はあるのか? イエスかノーで答えてと相手が迫り、未来が判れば見る必要がないと浮気者が答えて、フライトまでの猶予時間を求める。浮気者はもう一人の恋人に同じ質問をして、銃で撃たれて怪我をしてしまうというストーリーのそれぞれの変化型が描かれる。
 第1話の三角関係は人妻=独身男=人妻、第2話は白人男=黒人男=白人男の妻、第3話は白人男=女=女となっていて、ゲイやレズ、バイに加えて肌の色も違うという多様性を先取りした作品になっている。
 同じ構造のシナリオに基づいて、そのバリエーションを描くという実験映画だが、繰り返し似たような話を観せられるのはいささか退屈で、さして面白くもない三角関係の小話を、大事なことは3回言うとばかりに繰り返し観せられているような気になる。
 とりわけ第3話がわかりにくい話で、主人公の女が拳銃不法所持で警察に追われる過程がよくわからず、話の段取りが繋がらない。白人男を監督のハートリー自身が演じていて、その後に妻となる二階堂美穂が主人公の女を演じるくらいしか見どころがない。 (評価:2)

天使の涙

製作国:香港
日本公開:1996年6月29日
監督:ウォン・カーウァイ 製作:ジェフ・ラウ 脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル 美術:ウィリアム・チャン 音楽:フランキー・チェン、ロエル・A・ガルシア

消費期限があるのは恋だけではなく映画にもあるということ
 原題"墮落天使"。
 『恋する惑星』(1994)の続編で、香港・尖沙咀が舞台。前作同様二組のカップルが登場するが、オムニバス方式ではなく、殺し屋とそのエージェントの女、口の聞けない男と失恋娘の二つのエピソードが並行して語られる。
 エージェントの女(ミッシェル・リー)は殺し屋(レオン・ライ)に恋してしまい、彼の隠れ家に出入りし、ベッドでオナニーをしたり、掃除のゴミを持ち帰って彼の生活を想像する。
 口の聞けない男モウ(金城武)は重慶大廈の管理人をしている父親と暮らしていて、夜中に無断で店舗を開けて押し売りをしている。出逢った失恋娘(チャリー・ヤン)に恋をするが、娘はライバルの赤毛女アレン(カレン・モク)を憎んでいて、失恋娘と一緒にアレンを探し回ることになる。
 フィクションとはいえ、エージェントの女の殺しの目的がわからず、モウの押し売りも荒唐無稽で、出来の悪い子供の空想話を聞かせられているようで萎える。
 広角レンズによる主観中心の非日常感の演出、残像を使ったアクティブな動きなどで映像効果を狙うが、使い過ぎでウザい。
 映像効果や音楽でアバンギャルドでスタイリッシュな映画を演出しているが、外面だけで中身が空疎。『恋する惑星』の二番煎じというよりも出涸らし。
 殺し屋は引退を決めた最後の仕事で失敗。失恋娘が去ったモウは夜の仕事に戻る。新しい恋人ができた失恋娘はモウのことを覚えてなく、出会ったエージェントの女に頼まれてバイクで送っていくシーンで終わる。
 消費期限があるのは恋だけではなく、映画にもあることを教えてくれる作品。 (評価:1.5)