海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1985年

製作国:アメリカ
日本公開:1986年4月26日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット、マイケル・ペイサー、ゲイル・シシリア 脚本:ウディ・アレン 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:2位

それが映画だ!というウディ・アレンのしたり顔が見える
 原題"The Purple Rose of Cairo"で、劇中の映画のタイトル名。
 ヒモ同然のDV夫を持つ女の唯一の楽しみは映画。『カイロの紫のバラ』が封切られ、毎日のように映画館に通う。すると映画の中の二枚目冒険家が突如スクリーンから抜け出し、彼女に愛を告白するというファンタジー。
 監督はウディ・アレンなので、ディズニーのようなシンデレラ物語にはならず、スクリーンの映画はストーリーが進まなくなり、登場人物たちも映画館主も映画会社も困り果てるというコメディ。二度と仕事が貰えなくなると冒険家を演じる俳優がやってきて、ファンの彼女を籠絡しようとする。
 同じ顔の冒険家と俳優の両方から迫られ、くすんだ日常を送っている彼女は両手に花で、まさに夢心地。結局、虚像である冒険家とは一緒に暮らせないと、俳優の方を選んで家を出る。冒険家は諦めてスクリーンの中に戻り、映画の公開期間が終わる。ところがいっしょに暮らそうと約束した俳優はハリウッドに去った後で・・・
 つまり、彼女は俳優に騙され利用されたわけで、本作からは2つの教訓が導き出される。映画は観客に決して手に入れることのできない夢を与えるもの。そして映画製作者たちは夢を与える資格のないペテン師だということ。
 ラストは失意の女が映画館に入り、『トップ・ハット』(1935)を見ながらうっとりするシーンで終わるが、良いことも嫌なことも含めて、それが映画だ!というアレンのしたり顔が見えるよう。
 そうした映画にしか夢を見られない、愚図でドジでバカでお人よしな、冴えない女をミア・ファローが好演。
 ラストの彼女の姿は、それが鏡に映った自分自身だといわれているようで、少々腹立たしい。 (評価:3)

製作国:ブラジル、アメリカ
日本公開:1986年7月19日
監督:ヘクトール・バベンコ 製作:デヴィッド・ワイズマン 脚本:レナード・シュレイダー 撮影:ロドルフォ・サヴチェス 音楽:ジョン・ネシュリング
キネマ旬報:3位

ウィリアム・ハートのゲイぶりが堪能できる
 原題"Kiss of the Spider Woman"。アルゼンチンのマヌエル・プイグの同名小説が原作。
 舞台はブエノスアイレスの刑務所で、ゲイのウィリアム・ハートと反体制運動家のラウル・ジュリアが同房となり、ゲイが好きなナチス映画の筋を語って聞かせるが、実は運動家をスパイして組織の秘密を聞き出す密命を受けているという物語。ゲイは次第に運動家を愛してしまう。
 ゲイの語る映画に登場するパリのシャンソン歌手、レジスタンスでありながらナチ将校に恋し、殺されてしまう女をソニア・ブラガが演じるが、運動家の恋人である資産家の娘とゲイのもう一つの映画で男を優しく受け入れる蜘蛛女の3役を演じている。
 刑務所側はゲイを出獄させて尾行し、反体制組織と接触させるが、尾行を知った組織はゲイを射殺して逃亡。ゲイは予め運動家から依頼を受けた際にそれを承諾していた。
 運動家は拷問で気を失いながら、ゲイの語ってくれた映画の中の蜘蛛女=資産家の恋人との幸せな夢を見るという結末。
 本作は混乱の続くアルゼンチンの政情が背景にあって、反体制派、共産主義者とともに同性愛者が敵視される中、ナチ対レジスタンスという政治を越えて愛に生きた映画の物語を語るノンポリのウィリアム・ハートが、自身、愛に殉じる話となっている。
 全編にわたりアカデミー主演男優賞を受賞したウィリアム・ハートの演技が見どころで、スパイから運動家を愛していく心の動きを好演する。とりわけ、運動家が粗相をした時の世話と、差し入れを分けるシーンがいい。
 テーマ的には、運動家が拷問に耐えられるのは愛する女のことを思うからだという台詞があって、これがラストシーンと、愛に殉じたゲイ、シャンソン歌手にシンクロし、愛こそが人を幸せにできるという結びとなっている。 (評価:3)

バック・トゥ・ザ・フューチャー

製作国:アメリカ
日本公開:1985年12月7日
監督:ロバート・ゼメキス 製作:ニール・キャントン、ボブ・ゲイル 脚本:ロバート・ゼメキス、ボブ・ゲイル 撮影:ディーン・カンディ 音楽:アラン・シルヴェストリ

誰でもデロリアンが1台欲しくなる夢物語
​ ​原​題​は​"​B​a​c​k​ ​t​o​ ​t​h​e​ ​F​u​t​u​r​e​"​で​、​「​未​来​に​帰​る​」​。​作​中​、​2​度​、​こ​の​台​詞​が​出​て​く​る​が​、​1​度​目​は​過​去​か​ら​現​在​へ​、​2​度​目​は​現​在​か​ら​未​来​へ​帰​ろ​う​と​し​て​使​わ​れ​る​。
​ ​高​校​生​マ​ー​テ​ィ​の​冴​え​な​い​両​親​の​馴​れ​初​め​は​、​車​に​ぶ​つ​か​っ​た​父​を​看​病​し​た​母​が​同​情​し​た​と​い​う​ナ​イ​チ​ン​ゲ​ー​ル​症​候​群​。​マ​ー​テ​ィ​の​親​友​の​老​人​ド​ク​は​発​明​家​で​、​タ​イ​ム​マ​シ​ン​カ​ー​・​デ​ロ​リ​ア​ン​を​発​明​。​動​力​は​プ​ル​ト​ニ​ウ​ム​発​電​に​よ​っ​て​得​ら​れ​る​厖​大​な​電​力​で​、​テ​ス​ト​中​に​リ​ビ​ア​の​テ​ロ​リ​ス​ト​の​襲​撃​で​ド​ク​は​倒​れ​、​マ​ー​デ​ィ​は​デ​ロ​リ​ア​ン​と​1​9​5​5​年​、​3​0​年​前​の​過​去​に​逃​げ​る​。
​ ​そ​こ​で​出​会​っ​た​の​が​事​故​直​前​の​両​親​で​、​父​の​代​わ​り​に​車​に​ぶ​つ​か​っ​た​マ​ー​テ​ィ​に​母​が​恋​し​て​し​ま​う​。​プ​ル​ト​ニ​ウ​ム​が​な​く​て​未​来​に​帰​れ​な​い​マ​ー​テ​ィ​、​両​親​が​結​婚​し​な​け​れ​ば​マ​ー​テ​ィ​の​存​在​が​消​滅​す​る​と​い​う​危​機​を​、​3​0​年​前​の​ド​ク​と​と​も​に​解​決​す​る​と​い​う​サ​ス​ペ​ン​ス​フ​ル​な​コ​メ​デ​ィ​。
​ ​伯​父​は​刑​務​所​で​服​役​中​、​大​統​領​は​元​映​画​俳​優​の​レ​ー​ガ​ン​、​と​い​う​い​く​つ​か​の​伏​線​が​冒​頭​に​張​り​巡​ら​さ​れ​、​過​去​で​そ​れ​ら​が​回​収​さ​れ​る​が​、​そ​れ​ら​を​編​み​込​ん​だ​シ​ナ​リ​オ​が​上​手​い​。​理​屈​抜​き​で​楽​し​め​る​映​画​で​、​大​ヒ​ッ​ト​し​た​。
​ ​オ​ー​プ​ニ​ン​グ​で​描​か​れ​る​ド​ク​の​実​験​室​の​シ​ー​ン​が​楽​し​い​。​両​親​の​出​会​い​を​変​え​て​し​ま​っ​た​た​め​に​、​現​代​に​戻​っ​た​マ​ー​テ​ィ​の​家​庭​の​変​化​が​い​か​に​も​ア​メ​リ​カ​的​ハ​ッ​ピ​ー​エ​ン​ド​。 (評価:3)

製作国:ユーゴスラビア
日本公開:1986年3月1日
監督:エミール・クストリッツァ 脚本:アブドゥラフ・シドラン 撮影:ヴィルコ・フィラチ 音楽:ゾラン・シミャノヴィッチ
キネマ旬報:5位
カンヌ映画祭パルム・ドール

不寛容な社会・国家の怖さをノンポリを主人公に描く
 原題"Otac na sluzbenom putu"で、邦題の意。
 第2次世界大戦後のサラエボが舞台。チトーを中心とする共産党パルチザンによって建国を果たしたユーゴで、主人公の少年は幸せな家庭生活を送っている。ハンサムなパパ(ミキ・マノイロヴィッチ)は海外出張が多くパリのお土産も買ってきてくれるが、美人のママ(ミリャナ・カラノヴィッチ)がいながら浮気もしているというプチブル的ノンポリ。
 愛人は何時結婚してくれるの? とパパに迫るがキスで誤魔化され、その不満もあってママの兄に、パパが共産党の宣伝漫画がつまらないと言っていたと漏らしてしまう。この義兄が共産党員だったことから党に呼び出され、強制労働に送られてしまう。
 幼い少年は、パパは出張中と思い込まされるが、念願叶ってパパの出張先での家族同居を許され、頑張って党少年団で党とチトーへの忠誠を誓ったりする。
 そうして一家はサラエボへの帰還を許されるという物語で、強制労働の出張先でも相変わらず女癖は直らないパパというように、話はコミカルに進むが、政治に全く関心のない人間がちょっとした不用意な発言から権力の犠牲になってしまうという、不寛容な社会・国家の怖さを描く。
 思想・信条・表現の自由が目に見えない形で脅かされている現代社会にとって、本作は過去の歴史からの警鐘ともなっていて、それを声高に叫ばない制作姿勢が良い。
 パルム・ドール受賞。 (評価:3)

製作国:香港
日本公開:1986年4月26日
監督:リッキー・リュウ 製作:レナード・ホー、レイモンド・チョウ 脚本:シートゥ・チャホン、バリー・ウォン 撮影:ピーター・ゴク

思わずキョンシーを真似たくなるホラーコメディの傑作
 原題は"殭屍先生"で、キョンシーさんの意。キョンシーは古くから伝わる中国版ゾンビだが、本作ではドラキュラのような牙で首筋を咬むことから、英語タイトルは"Mr.Vampire"になっている。
 映画評論家に見向きもされず映画賞にも無縁の作品だったが、本作ほど影響を与えた作品はない。子供たちはキョンシーの真似をし、中国ゾンビの存在を世に知らしめた。その後、人気シリーズとなり、類似作品が作られた。
 キョンシーを操る道士と頭の弱い弟子二人という、香港コメディの王道。富豪から父親の墓の改葬を頼まれるが、キョンシーとなって蘇り、富豪を殺す。富豪がキョンシーとなり、弟子のひとりが咬まれてキョンシーとなりかかり、もうひとりの弟子は女幽霊にとり憑かれ、さらに先祖のキョンシーが大暴れ。富豪の娘、従兄の警官も絡んでドタバタ劇を展開するが、キョンシーを含めて無条件で笑えるホラーコメディの傑作。
 ただし終盤はギャグネタが尽きて、若干冗長気味。
 両手を前に差し出してぴょんぴょん跳ねたり、護符で静止したりというキョンシーの特徴は本作のオリジナルにも関わらず、キョンシー像を定着させてしまった。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1986年9月13日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ、クインシー・ジョーンズ、フランク・マーシャル 脚本:メノ・メイエス 撮影:アレン・ダヴィオー 音楽:クインシー・ジョーンズ
キネマ旬報:6位

紫色の花の美しさに象徴される自尊心のドラマ
 原題"The Color Purple"で、紫の色。アリス・ウォーカーの同名のピュリツアー賞受賞作が原作。
 アメリカ南部ジョージア州の黒人家庭が舞台。物語は1909年、10代のセリーが産んだ父親の子が黒人牧師の家庭に養女に出されるところから始まる。セリーにはこれが二人目で、生き別れとなる二人の子供にラストで再会するまでの物語となる。
 セリーは子沢山のアルバート(ダニー・グローヴァー)の後妻となるが、これが暴力亭主でメイド扱い。名さえ知らずにミスターと呼ばされる。セリーの仲のいい妹ネッティが一時身を寄せるが、アルバートに追い出され、以来会えなくなるが、この時、死ぬまで手紙を送り続けると宣言。しかし手紙はすべてアルバートに隠されてしまうというのが大きな伏線となる。
 アルバートの愛人で歌手のシャグ(マーガレット・エヴリー)が同居したり、アルバートの息子ハーボ(ウィラード・ヒュー)がソフィア(オプラ・ウィンフレー)と結婚したり、ソフィアが白人市長に盾突いたために拷問され屈服されたりといったエピソードが続き、ネッティからの手紙を発見したセリーがついに自立を宣言、伝道師としてアフリカに渡っていたネッティが帰国して再会するまでの40年間が描かれる。
 さまざまな出来事の半生を2時間半の駆け足で描くが、よくまとまった作品で、暴力夫のもとで屈辱的な人生を送っていたセリーが自由と幸せを手にするまでを描くが、白人社会の中での黒人差別が、そのまま黒人社会の中での女性差別と対比され、自尊心をもって白人とも黒人とも戦い続けたソフィアは傷つき、女を武器に男に優位に立つシャグに啓発されて、取り柄のないセリーは自立への勇気を手にする。
 ハッピーエンドで終わるのが如何にもスピルバーグらしいが、さまざまに困難な状況下で人は如何に人としての自尊心を保つべきかという根源的な人間性のドラマになっている。
 カラーパープルは黒人の肌の色や気高さなどを表し、冒頭と終盤にセリーの家の花畑に咲く、紫色のコスモスの花の美しさに象徴される。 (評価:3)

製作国:スウェーデン
日本公開:1988年12月24日
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:ヴァルデマール・ベリエンダール 脚本:ラッセ・ハルストレム、レイダル・イェンソン、ブラッセ・ブレンストレム、ペール・ベルイルント 撮影:イェリエン・ペルション、音楽:ビョルン・イシュファルト
キネマ旬報:5位

好んで宇宙船に閉じこもっているナルシストに見えてしまう
 原題"Mitt liv som hund"で、犬としての僕の人生の意。レイダル・イェンソンの半自伝的小説が原作。
 主人公の小学生イングマル(アントン・グランセリウス)は、父が南洋に行ったきりで、結核の母、兄、愛犬シッカンと暮らす母子家庭。それぞれに性格が個性的で、イングマルはシニカルな小話が大好きで、いつも新聞からネタを集めている。
 彼のお気に入りはスプートニクに乗せられた犬ライカの話で、地球への帰還を想定していない片道切符。孤独なライカが地球を眺めながら何を思っただろうというのがイングマルの最大の関心事で、同じように孤独な自分をライカに譬えて、犬としての僕の人生というのがタイトルの由来。
 ライカに比べれば、自分の運命なんて大したことはないというのがイングマルの生きる指針となっている。
 母の病気が悪化し、叔父の家に居候。叔父を含め村人たちは個性的だが温かい人ばかりで、楽しい毎日を送ることになるが、シッカンを飼えないことだけが心残り。
 仲良くなったサガ(メリンダ・キンナマン)は男の子に交じってサッカーもボクシングもするというボーイッシュな女の子。男の子として振る舞ってはいるが性に芽生えかけていて、イングマルを異性として意識しているが、子供のイングマルはそれに気づかない。
 母が重篤であることにも気づかず、シッカンが薬殺されたことにも気づかず、母が死んでもシッカンとの同居を言い募るイングマルに、サガが現実を突きつけるのがクライマックス。
 そうしてイングマルは大人になったかというと、世界ヘビー級チャンピオンになったインゲマル・ヨハンソンに自分を重ねながら、女の子の服を着たサガとベットで眠っているというメルヘンなラストシーン。
 ラッセ・ハルストレムらしい砂糖菓子のように甘い作品だが、自分をライカに譬えながら、好んで宇宙船に閉じこもっているナルシストに見えてしまうのが残念なところ。
 インゲマル・ヨハンソンは実在のスウェーデンのプロボクサー。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1985年6月22日
監督:ピーター・ウィアー 製作:エドワード・S・フェルドマン 脚本:ウィリアム・ケリー、アール・W・ウォレス 撮影:ジョン・シール 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:5位

これは刑事ものではなくハリソン・フォードの恋愛映画
 原題は"Witness"で証人・目撃者の意。邦題は刑事ものかサスペンスと勘違いするが、実際は恋愛映画。
 アーミッシュの村が舞台で、公開時に観た時は物珍しさに幻惑されたが、再見すると結構乱暴なストーリー。フィラデルフィア市警で麻薬に絡む汚職があり、麻薬課刑事と上司の陰謀で仲間の刑事が惨殺される。主人公の刑事ジョン・ブックが捜査を始めると連中は彼と証人のアーミッシュ少年を殺そうとし、ブックの相棒が殺される。汚職刑事たちは警察組織を挙げてブックを探し出し、最後はライフルを持ってブックを殺しにアーミッシュの村を訪れる。フィラデルフィアは警察を挙げて無法者の集まりで、汚職隠蔽のためなら平気で仲間の口封じをする。
 当時『インディー・ジョーンズ』で人気絶頂のハリソン・フォードのスター映画として作られた感があって、恋もすればアクションもあるといった具合。しかし、命を狙われてそれどころではないのに、ブックも少年の母親である未亡人も強靭な神経で恋愛に励む。結果、本題の麻薬事件の真相は少しも明らかにされず、観客的には事件は未解決。 (評価:2.5)

製作国:台湾
日本公開:1988年12月24日
監督:ホウ・シャオシェン 製作:シュ・クオリャン 脚本:チュー・ティエンウェン、ホウ・シャオシェン 撮影:李屏賓 音楽:呉楚楚
キネマ旬報:10位

大陸反攻を果たせず台湾の土となった外省人への鎮魂歌
 原題"童年往事"で、子供の頃の思い出の意。
 日中戦争終結後、国共内戦で中国大陸を逃れて台湾に移り住んだ一家の物語を、少年の目を通して描く。
 1947年から1965年までのホウ・シャオシェンの少年期の自伝的回想録で、中華民国の公務員だった父が、家族を連れて広東省梅県から台湾の新竹を経て高雄・鳳山で新生活を始めるものの病死。高校生となった主人公・阿孝は仲間を率いて対立するグループと喧嘩の日々を送るが、母が咽頭癌で死亡。恋する女子高生に励まされて大学受験を目指すが、祖母が老衰で死ぬ。
 阿孝を幼い時から可愛がってくれた祖母への思いが物語の主題で、大陸に帰ることを願っていた祖母は慣れない土地と老人ボケで度々迷子となり、願い叶わず台湾で土となる。
 父が同じように望郷の念に駆られていたことを知った阿孝は、大陸への思いを断てなかった父や祖母と、台湾を故郷として育った自分とのアイデンティティの違いに思いを致すという物語になっている。
 もっともホウ・シャオシェンの描き方が淡々としていて、台湾の外省人には言わずもがなのことが、そうでない者にはよく伝わってこない。
 粗末な服でビー玉やコマ回しをするガキンチョの阿孝や輪タクや馬が駈ける当時の町の様子など、ノスタルジーをかき立てる描写が続くが、淡々とし過ぎて間延びともいえる演出は時々眠気を誘う。
 いつか大陸に帰れると信じて台湾に逃れてきた外省人が、大陸反攻を果たせず、無念のままに台湾の土となっていく思いと歴史がもう少し丁寧に描かれていれば良かったが、それはホウ・シャオシェンの映画ではないのだろう。 (評価:2.5)

イヤー・オブ・ザ・ドラゴン

製作国:アメリカ
日本公開:1986年2月8日
監督:マイケル・チミノ 製作:ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:オリヴァー・ストーン、マイケル・チミノ 撮影:アレックス・トムソン 音楽:デヴィッド・マンスフィールド

ミッキー・ロークが惚れる中国人女性ジャーナリストが色っぽい
 原題"Year of the Dragon"で、元ニューヨーク市警委員ロバート・デイリーの同名小説が原作。タイトルは辰年の意味だが、Dragonは中国の龍のことで、怪物の象徴、チャイニーズ・マフィアを指している。
 舞台はニューヨークの中国人街。マフィアのボスの養子となった男(ジョン・ローン)が養父の死をきっかけに、世代交代と実権を狙い、麻薬の利権を握るイタリア・マフィアと対立し、抗争を起こすものの、熱血刑事(ミッキー・ローク)の妨害にあって、最後は自殺に追い込まれる。
 地元警察幹部はチャイニーズ・マフィアと揉め事を起こしたくないという事なかれ主義で、抗争が激化しても刑事の捜査にも非協力的。結局、新世代のマフィアが死んで、再び旧世代体制に戻っただけで、ポーランド人の刑事は飛ばされて、地元警察は事なかれ主義に戻るという物語。
 ジョン・ローンのDragonが暴れまくるものの、長老が支配するという中国四千年の伝統は変わらず、いつまでもニューヨークには中国人街とそれを統治するチャイニーズ・マフィアが強力に存続するという悲観主義を描く。
『ディア・ハンター』で東洋人差別を剥き出しにしたマイケル・チミノらしく、本作では中国人と中国人街に対する蔑視に満ちた作品となっている。
『ディア・ハンター』のベトナム戦争に駆り出されるロシア系アメリカ人同様、本作でも刑事がポーランド系アメリカ人で、チミノはマイノリティをテーマにして、結局のところアメリカ社会の人種の掃き溜めとWASPとの階層社会を描くが、マイノリティ差別をあぶり出そうとするチミノ自身の深層の差別意識が映画に表れていて若干不快にもなるのだが、現状の中国と重ね合わせて見ると、中国四千年の伝統が妙に説得力を持つ。
 刑事が惚れる中国人の女性ジャーナリストが色っぽいが、日系人。 (評価:2.5)

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1986年2月15日
監督:ダン・オバノン 製作:トム・フォックス 脚本:ダン・オバノン 撮影:ジュールス・ブレンナー 美術:ロバート・ハウランド 音楽:マット・クリフォード

切り刻んでも死なないゾンビのコメディ・ホラー
 原題は"The Return of the Living Dead"で、生ける屍の再来の意。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)のパロディ作品で、タイトルには同作品の再来・復活の意味合いがある。邦題には大群という意味の英語"battalion"が使われているが、作品中には登場しない独自のタイトル。
 冒頭で『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はフィクションではなく、実際に軍施設で化学物質によって死体がゾンビ化した極秘事件が基になっているという話が出てくる。その一体が間違って医療会社の倉庫に送られてきて、それが基で隣接する墓地の死体がゾンビ化し、若者グループ、救急隊、警官隊が全滅し、最後は軍が人間もろとも退治するという物語。
 ゾンビ・コメディになっていて、生きた人間の脳みそを食うと痛みがなくなるというゾンビたちは、俊敏な上に話もできて知恵もあり、無線で救急隊や警官隊を呼び集める。
 アイディアとして秀逸なのが、切り刻んでもゾンビは死なないため、焼却炉で焼くと、その煙が化学物質を飛散させて、墓場の死体を甦らせること。
 ヒットしてシリーズ化された。 (評価:2.5)

緑の光線

製作国:フランス
日本公開:1987年4月25日
監督:エリック・ロメール 製作:マルガレート・メネゴス 脚本:エリック・ロメール 撮影:ソフィー・マンティニュー 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

ウザい女だと気がつくと詐欺映画のように思える
 原題"Le Rayon Vert"で、邦題の意。緑の光線は日没時に一瞬見える光で、ジュール・ヴェルヌの同名小説がモチーフとなっている。
 デルフィーヌ(マリー・リヴィエール)が、友達とギリシャに行く予定だったバカンスをキャンセルされるところから物語は始まる。
 内向的な女性で、友達と同じように簡単にアバンチュールを楽しめる性格でもなく、旅行をキャンセルされた理由も別の同行者がデルフィーヌを嫌がったというもので、その後の展開を見ても協調性に欠け、良く言えば孤高、実際はある種の我儘さを持っていて、偏執的な菜食主義を押し通そうとする。
 かといってバカンスをパリで一人で過ごすというだけの自我の確立もなく、バカンスに行けないと言っては泣き出し、可愛そうに思った友達がシェルブールの親戚の家に誘うが、溶け込もうとせず、パリに帰ってしまう。
 思い立ってボーイフレンドのいる山に行くが、構ってくれないのを知ると会わずにパリに逆戻り。今度は友達の親戚の別荘を借りて独りバカンスを始め、スウェーデン人の友達もできるが、やはりうまくいかずにパリに帰ることを決意。駅でたまたま知り合った男と気が合って、滞在中に耳にした緑の光線を見るために岬に誘う。
 緑の光線は、それを見た自分と他人の心の中が見えるようになるという言い伝えで、二人はハッピーエンドで肩を組むが、自分の心の中が見えるようになって自己嫌悪に陥らないのかしらん、と突っ込みを入れたくなる。
 デルフィーヌは悪い娘ではないが、よく言えば不器用、実際は偏狭で、内気でロマンチックな女心を描く佳編のように見せてはいるが、いささかウザい女だと気がつくと、詐欺にかかったように思える。 (評価:2.5)

東京画

製作国:西ドイツ、アメリカ
日本公開:1989年6月17日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:クリス・ジーヴァニッヒ 脚本:ヴィム・ヴェンダース 撮影:エド・ラッハマン 音楽:ローリー・ペッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ

ヴェンダースの聖地巡礼が描く『東京物語』の続編
 原題“Tokyo-Ga“。
 小津安二郎を敬愛するヴィム・ヴェンダースが、映画に描かれた東京に聖地巡礼の旅をするというドキュメンタリーで、『東京物語』(1953)のオープニングで始まり、聖地巡礼の後、『東京物語』のエンディングで終わるという構成を採っている。
 ヴェンダースがテーマにしているのは、「何かを得るということは何かを失うこと」というもので、80年代東京の風景を撮影しながら、そこには小津安二郎の描いた東京がすでに失われていることを知る。
 それでもヴェンダースは映画に描かれた夢の欠片を探し、笠智衆、カメラマンの厚田雄春に話を聞く。ローアングルからの構図、小道具の配置、50ミリの固定カメラで追求する小津のリアリティは、変化する世の中の真実の一瞬をフィルムに定着させる。
 スタッフも小津と一体化してその世界の一部となるため、小津の死とともに無に帰す。
 小津の墓石には無の一文字が刻まれているが、ドイツ人のヴェンダースには東洋哲学の無の概念が今一つ理解できていない。
 映画監督の視点からの小津論として貴重であり、小津にとって映画表現がすべてだったことが感じ取れる。
 もっともヴェンダースの意図を離れて、本作が『東京物語』の喪失を描くよりもむしろ『東京物語』の続編であり、80年代の東京の猥雑さの中に、後ろを振り返らずに前進しようとする東京のエネルギーを感じる。
 それは、今の東京が喪失してしまったものであり、2020年代から振り返れば、本作がヴェンダースによる『東京物語』となっている。 (評価:2.5)

シルバラード

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1986年3月1日
監督:ローレンス・カスダン 製作:ローレンス・カスダン 脚本:ローレンス・カスダン、マーク・カスダン 撮影:ジョン・ベイリー 美術:アイダ・ランダム 音楽:ブルース・ブロートン

古き良き時代のウエスタン活劇を甦らせた正統派西部劇
 原題"Silverado"で、劇中に登場する地名。
 マカロニでもニューシネマでもヴァイオレンスでもなく、黄金期の正統派西部劇を80年代に復活させたウエスタン。『スター・ウォーズ』シリーズ脚本のカスダンによるよく練れたシナリオと演出で、古き良き時代のウエスタン活劇を甦らせた作品となってる。
 4人のガンマンが登場するが、うち1人が黒人マル(ダニー・グローヴァー)というのが現代風。黒人お断りのバーで2人のガンマン、ペイドン(ケヴィン・クライン)とエメット(スコット・グレン)と知り合い、さらにエメットの弟ジェイク(ケビン・コスナー)が加わる。
 正統派西部劇らしく敵は明快で、シルバラードの牧場主マッケンドリックとその一味。マルの父親の土地を奪った挙句、殺してしまう。さらに入植する開拓団を追い出そうと襲撃。これをエメットとジェイクが撃退したのを逆恨みして戦いとなるが、真の悪役はペイドンの親友でシルバラードを牛耳る保安官コッブ(ブライアン・デネヒー)。
 マッケンドリックと裏で繋がっている悪徳保安官で、それを知ったペイドンとの一騎打ちのガンマン対決となる。  随所にかつての西部劇の名作をオマージュしたシーンが用意されていて、西部劇ファンには堪らない作品。
 最後は定番通り、ペイドンがシルバラードの新保安官、マルは妹と街を離れ、エメットとジェイクはカリフォルニアを目指すという、勧善懲悪の正義のガンマン・ストーリーとなっている。 (評価:2.5)

女と男の名誉

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1985年9月28日
監督:ジョン・ヒューストン 製作:ジョン・フォアマン 脚本:リチャード・コンドン、ジャネット・ローチ 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 音楽:アレックス・ノース
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

ニコルソンが美女に惚れられる最大にブラックなコメディ
 原題"Prizzi's Honor"で、プリッツィの名誉の意。プリッツィはイタリア・マフィアのファミリー名。リチャード・コンドンの同名小説が原作。
 プリッツィ・ファミリーの殺し屋チャーリー(ジャック・ニコルソン)がドンの孫娘の結婚式で美女アイリーンを見初め相思相愛となるが、実はアイリーン(キャスリーン・ターナー)も殺し屋で、最後は互いに相手を殺す指令を受けるというブラック・コメディ。
 冒頭、ニコルソンがターナーに一目惚れするのはわかるが、ターナーがニコルソンに惚れるとは到底思えず、何か裏があるのではと先読みするが、そではないというのが本作最大のブラックとなっている。
 チャーリーを主役に物語は進み、マフィアの鼻つまみ者、ドンの孫娘で元恋人のメイローズ(アンジェリカ・ヒューストン)の策略でチャーリーはポーランド系のアイリーンと結婚。メイローズはチャーリーにレイプされたと偽って、自分を勘当した父にチャーリー暗殺を企てさせ、一方、ラスベガスの組織の金を奪った犯人がアイリーンだと突き止め、ドンに密告。最終的にドンはアイリーンを殺す指令を出す。
 それぞれの殺しを請け負うのがアイリーンとチャーリーで、アイリーンは香港逃亡を提案するが、組織の掟に縛られるチャーリーがアイリーンを殺害。ドンの跡目を相続し、メイローズとよりを戻すが、この前に抗争でメイローズの父も死んでいて、メイローズは名誉を回復して組織に復帰、目障りな父もなく、ドンとなったチャーリーの妻となって組織のトップに立つという、実はアイリーンの名誉回復の物語というオチ。
 全体はサスペンスタッチのシリアス・ドラマだが、ストーリーは都合よく、コメディだからと言われれば納得できる。シリアスとしては話が出来すぎ。
 メイローズを演じる個性的な顔のアンジェリカ・ヒューストンがアカデミー助演女優賞を受賞。 (評価:2.5)

台北ストーリー

製作国:台湾
日本公開:2017年5月6日
監督:エドワード・ヤン 製作:ホウ・シャオシェン 脚本:チュー・ティエンウェン、ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン 撮影:ヤン・ウェイハン 音楽:ヨーヨー・マ

若者の閉塞感を描くがシナリオと演出が粗い
 原題"青梅竹馬"で、幼馴染の恋人の意。
 幼馴染の片方は昔リトルリーグのエースで、今は家業の布問屋を継いでいるアリョン(ホウ・シャオシェン)。もう片方は不動産会社で働くキャリアウーマンのアジン(ツァイ・チン)。
 二人がアジンのアパートを観に行くところから始まり、よくわからない二人の関係を描きながら、後半になって漸く惰性で付き合ってきた恋人同士で、アジンはそろそろ結婚を考え、アリョンは野球の挫折から抜け出せないままにいることがわかる。
 登場人物の背景や関係性が説明不足で、物語全体が見通せないという不親切さがネック。
 台北のビル群が何度か映り、ロサンゼルスや東京の話も出てきて、経済成長した台湾で閉塞している若者たちがテーマであることは何となく想像がつく。
 アジンのアパートの部屋は二人の新居として予定していたもので、経済力のあるアジンの収入が前提。そのアジンが失業して目算が狂い、海外移住して再出発しようと提案するが、アリョンはロスも東京も台北も変わらないと言う。その矢先、つまらぬ争いからアリョンが凶刃に倒れてしまうという結末。
 1970年代以降、世界が中国を承認する中で、孤立感を深めながら閉塞感からの脱却を海外に託す台湾の若者たちの心情が、ロスの話やたびたび登場する日本文化や街の看板に表されるものの、結局閉塞状況から抜け出せない苦悩が描かれる。
 テーマは良いのだが、それを見せるためのシナリオと演出が粗いのが残念。 (評価:2.5)

冬の旅(さすらう女)

製作国:フランス
日本公開:1991年11月2日
監督:アニエス・ヴァルダ 製作:ウーリー・ミルシュタン 脚本:アニエス・ヴァルダ 撮影:パトリック・ブロシェ 音楽:ジョアンナ・ブルゾヴィッチ
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

「あっしには関わりのねえことで」と楊枝を咥えて立ち去る
 原題"Sans toit ni loi"で、屋根も法もなくの意。
 モナというヒッピーの娘の死体が発見されるところから物語は始まる。彼女が村に現れたのは数週間前で、彼女と関わった人々の証言から、彼女が村祭りで酔っぱらって凍死するまでの行動を綴るという形式。
 モナ(サンドリーヌ・ボネール)は18歳。ヒッチハイクをし、簡易テントで野宿し放浪するという屋根も法もない自由人。
 彼女の信条は楽して生きることで、時に気儘なアルバイトで食費を稼ぎ、時に施しを受けて放浪を続ける。そんな彼女を自由だと思う娘もいれば、元学生運動活動家の農夫は自由とは孤独に生きることだと諭す。
 そんな忠告も馬の耳に念仏で、不良グループに加わり、生活も心も荒んで力尽きる。
 1980年代にはヒッピー文化も廃れていて、モナの楽して生きるという信条はそれとも違うが、浮浪者ともホームレスとも放浪者、風来坊、フーテンとも言い難く、単に放埓なだけの怠け者でしかない。
 彼女が自由を求めていたというのも穿った見方で、自由とは何かという問いがこの作品にあるようにも思えない。
 ただ孤独であったことは確かで、彼女が自由な生き方を求めていたとすれば、それは空想ないしは幻想でしかなく、人生、世の中はそんなに甘くはないとお説教するだけの作品に終わっていて、「あっしには関わりのねえことで」と真に自由人の木枯し紋次郎なら楊枝を咥えて立ち去る。 (評価:2.5)

マッドマックス サンダードーム

製作国:オーストラリア
日本公開:1985年6月29日
監督:ジョージ・ミラー、ジョージ・オギルヴィー 製作:ジョージ・ミラー、ダグ・ミッチェル、テリー・ヘイズ 脚本:ジョージ・ミラー、テリー・ヘイズ 撮影:ディーン・セムラー 音楽:モーリス・ジャール

世界観と物語性は増したが、設定考証はアナーキー
 シリーズ第3作。原題は"Mad Max Beyond Thunderdome"で、副題はサンダードームを越えての意。サンダードームは主舞台となるバータータウン(Bartertown、物々交換の町)にある競技場の名前。
 核戦争後の砂漠化した世界という設定は前作と同じ。ストーリー性もそこそこあって、前2作に比べてSF的世界観もわかりやすく説明されるが、その分、『マッドマックス』本来のアナーキーさが薄れて、普通の映画になってしまった。
 映画としては前2作と比較して完成度は高くなっているが、パワーという面では落ちている。
 冒頭の砂漠のシーンから映像的クオリティは格段にアップ。自然のシーンも美しいし、バータータウンのモブシーンも格段にいい。蟻地獄や、谷川の村、砂漠を一直線に伸びる鉄路と、なかなかの出来栄え。
 足りないとすれば、マックスが乗るV8エンジン搭載改造車のカーチェイスで、今回は機関車とオフロード車とのチェイスということになるが、終盤のごくわずかしか登場しないし、飛行機に至っては空を飛ぶだけでチェイスにはならない。
 その分をストーリーとアクションで見せて、サンダードームでの決闘を中心としたバータータウン支配者たちとのファイトが中心となるが、やはり『マッドマックス』はこれではないという気分が終始離れない。
 核戦争で荒廃した世界観は前作同様いいのだが、世界の終わりから大した年数も経っていないのに、谷間の村ではそれ以前がすでに神話化しているというのが、ちょっと笑える。制作年にはカセットテープが普及して何年も経ち、CDも出始めているのに、アナログレコードが出てきて、この設定のアナーキーさが素敵。 (評価:2.5)

ヤング・シャーロック ピラミッドの謎

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1986年3月8日
監督:バリー・レヴィンソン 製作:マーク・ジョンソン、ヘンリー・ウィンクラー 脚本:クリス・コロンバス 撮影:スティーヴン・ゴールドブラット 音楽:ブルース・ブロートン 特撮:デニス・ミューレン、キット・ウェスト、ILM

ホームズがかつて愛した少女が登場するオリジナル脚本
 原題"Young Sherlock Holmes"。
 クリス・コロンバスのオリジナル脚本で、パブリックスクール時代にワトソンとホームズが出会い、事件を解決するという設定。アンブリン・エンターテインメント制作らしく、冒頭に伏線を散りばめ、最後にはきっちりと回収していて、『インディ・ジョーンズ』を彷彿させる特撮・アクションシーンで見せ場を作り、エンタテイメント作品としては過不足なく仕上がっている。
 原作の設定やワトソン(アラン・コックス)とホームズ(ニコラス・ロウ)のキャラクター性もきちんと押さえてあり、ゲストキャラの美少女エリザベス(ソフィー・ワード)との3人の若者が事件解決のために活躍する冒険譚となっている。いずれもイギリスの俳優を使っていて、イギリス英語で話す所も隠れたこだわりと見どころ。
 謎の自殺事件が連続し、学校の元教授でエリザベスの叔父が自殺したことからホームズたちが事件解決に乗り出す。敵はエジプト出身の邪教集団で、幻覚を見て自殺した3人はかつてエジプトで共同事業をしていて・・・という復讐話に繋がっていく。
 最後はエリザベスが生贄にされそうになるところを救うという大活劇で、エリザベスはホームズがかつて愛した少女という立ち位置だが、結末は見てのお楽しみ。
 邪教集団が使う毒針で幻覚を見るシーンの特撮が見どころで、とりわけステンドグラスの騎士がユニーク。 (評価:2.5)

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1986年3月15日
監督:シドニー・ポラック 製作:シドニー・ポラック 脚本:カート・リュードック 撮影:デヴィッド・ワトキン 音楽:ジョン・バリー
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

ストリープとレッドフォードのロマンスが退屈
 原題"Out of Africa"で、アフリカを離れての意。アイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)の同名自伝小説(邦題:アフリカの日々)他が原作。
 20世紀初め、デンマーク人のカレン(メリル・ストリープ)は親戚のスウェーデン貴族(クラウス・マリア・ブランダウアー)と便宜上の結婚をし、祖母からアフリカの農場をもらってコーヒー園を経営。夫はほとんど留守の別居状態で、愛人を作り、カレンに梅毒をうつす始末。カレンは女手一つ、キクユ族の助力を得て農園を成功させ、キクユ族の子供たちのための学校を設立するものの、農場が火事になって破産。デンマークに帰って作家となり、アフリカでの体験を本にしましたという回顧録の形式をとっていて、冒頭から過去形でナレーションが入る。
 もっとも中盤からは冒険家(ロバート・レッドフォード)とのラブ・ストーリーが中心となり、ハーレクイン・ロマンスを読むように退屈になってくる。アフリカに着いた途端にロバート・レッドフォードが登場するので、いずれストーリーの先は読めてしまうのだが、期待に違わずロバート・レッドフォードの成長しない二枚目ぶりが否が応でも味わえる。
 メリル・ストリープは上手い。しかし、上手いからといって作品が面白いかというと、この手の女性作家の自伝小説に見られるどうでもいい恋愛話とセンチメンタルな思い出に浸れない向きには、若干苦痛な2時間40分となる。
 アフリカの自然と野生動物の生態を写した映像が大きな見どころで、それをかなり意識した空撮を含むフィルムとなっているが、『生きもの地球紀行』を期待しているわけではないので、延々と見せられると脳が停止する。
 アカデミー賞は作品賞のほか、監督賞・脚色賞・作曲賞・録音賞・美術賞・撮影賞を制覇したが、メリル・ストリープが主演女優賞を獲れなかったのは退屈さのせいか。 (評価:2.5)

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1986年4月12日
監督:ジョージ・A・ロメロ 製作:リチャード・P・ルビンスタイン 脚本:ジョージ・A・ロメロ 撮影:マイケル・ゴーニック 音楽:ジョン・ハリソン

ゾンビの生理学的研究シーンは是非見ておきたい
 ​原​題​は​"​D​a​y​ ​o​f​ ​t​h​e​ ​D​e​a​d​"​(​死​者​の​日​)​。​ジ​ョ​ー​ジ​・​A​・​ロ​メ​ロ​の​ゾ​ン​ビ​3​部​作​の​一​つ​。
​ ​ゾ​ン​ビ​に​支​配​さ​れ​た​ア​メ​リ​カ​で​、​僅​か​に​生​き​残​っ​た​数​人​の​科​学​者​と​そ​れ​を​支​援​す​る​軍​人​グ​ル​ー​プ​、​パ​イ​ロ​ッ​ト​な​ど​の​技​術​者​が​地​下​基​地​に​立​て​こ​も​り​打​開​策​を​研​究​し​て​い​る​と​い​う​設​定​。​ゾ​ン​ビ​と​人​間​の​比​率​は​4​0​万​対​1​と​い​う​話​も​出​て​き​て​、​他​の​生​存​者​と​の​通​信​は​途​絶​え​て​い​る​。
​ ​軍​人​グ​ル​ー​プ​が​支​配​権​を​握​る​が​、​研​究​を​続​け​る​マ​ッ​ド​サ​イ​エ​ン​テ​ィ​ス​ト​の​フ​ラ​ン​ケ​ン​シ​ュ​タ​イ​ン​博​士​は​ゾ​ン​ビ​を​飼​い​馴​ら​そ​う​と​す​る​。​褒​美​に​軍​人​の​屍​肉​を​与​え​て​い​た​こ​と​か​ら​、​怒​っ​た​軍​人​グ​ル​ー​プ​は​科​学​者​た​ち​を​追​放​。​科​学​者​の​一​人​が​地​上​の​ゾ​ン​ビ​を​引​き​入​れ​て​大​混​乱​と​な​り​、​脱​出​し​た​女​性​科​学​者​と​パ​イ​ロ​ッ​ト​、​無​線​技​士​の​3​人​は​ヘ​リ​で​島​を​目​指​す​・​・​・​と​い​う​話​。
​ ​本​作​の​目​玉​は​、​ゾ​ン​ビ​の​生​理​学​的​研​究​。​消​化​出​来​な​い​の​に​人​を​喰​う​の​は​脳​幹​の​本​能​だ​と​か​、​そ​の​本​能​を​制​御​す​れ​ば​人​を​襲​わ​な​く​な​り​、​コ​ン​ト​ロ​ー​ル​可​能​だ​と​か​も​っ​と​も​ら​し​い​理​屈​が​、​解​剖​さ​れ​た​実​験​体​と​と​も​に​説​明​さ​れ​る​。​も​う​一​つ​は​、​内​臓​ぐ​ち​ゃ​ぐ​ち​ゃ​、​血​糊​ベ​タ​ベ​タ​の​グ​ロ​い​シ​ー​ン​で​、​残​酷​描​写​も​多​い​の​で​注​意​が​必​要​。
​ ​怖​い​の​は​ゾ​ン​ビ​よ​り​も​人​間​と​い​う​の​が​テ​ー​マ​の​た​め​、​ゾ​ン​ビ​が​さ​ほ​ど​怖​く​な​い​の​が​残​念​だ​が​、​飽​き​ず​に​見​ら​れ​る​。 (評価:2.5)

製作国:ア​メ​リ​カ
日本公開:1987年3月14日
監督:スチュアート・ゴードン 製作:マイケル・エイベリー、ブルース・ウィリアム・カーティス 脚本:スチュアート・ゴードン、デニス・パオリ、ウィリアム・J・ノリス 撮影:マック・アールバーグ 音楽:リチャード・バンド

頭と胴体を切り離されたゾンビが女の子を襲うのが見どころ
 原題"Re-Animator"で、死体蘇生者の意味の造語。ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの小説"Herbert West–Reanimator"が原作。
 スイスの大学で死体を蘇生する薬を発明した医学生ハーバート・ウェスト(ジェフリー・コムズ)がマサチューセッツの医大研究室に転校。ルームメイトとなったダン(ブルース・アボット)を引き込んで、大学病院の霊安室の死体の蘇生を図るというブラックコメディ。
 それを見咎めた学長(ロバート・A・バーンズ)、脳医学教授ヒル(デヴィッド・ゲイル)も殺されてゾンビとなるが、頭と胴体を切り離されたヒルが、頭を持ちながら学長の娘でダンの恋人メグ(バーバラ・クランプトン)を襲うシーンが見どころ。ヒルがゾンビになってからが面白いが、それまでは段取りを踏むストーリーで起伏がないために若干退屈。ホラーというよりはスプラッターで見せるので、怖くもない。
 最後は霊安室の死体たちがゾンビになって大暴れ。メグが首を絞められて死んでしまい、ダンがメグに憎んでいた死体蘇生薬を注射するというオチ。
 ゾンビたちは単に狂暴化するだけで、人間が噛まれるとゾンビ化するという感染ルールがないと意外とつまらない。 (評価:2)

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1986年10月10日
監督:テリー・ギリアム、製作:アーノン・ミルチャン、脚本:テリー・ギリアム、トム・ストッパード、チャールズ・マッケオン 撮影:ロジャー・プラット 音楽:マイケル・ケイメン
キネマ旬報:8位

情報管理社会を見通す先見性だが、演出とシナリオが20世紀的
 原題は"Brazil"(ブラジル)だが、本作の舞台とは関係ない。テーマ曲として使われているアリー・バホーゾ作曲のサンバ"Aquarela do Brasil"(ブラジルの水彩画、通称:ブラジル)がタイトルの由来。
 未来の情報管理社会がテーマのSFブラックコメディで、監督のテリー・ギリアムはモンティ・パイソンのメンバーの一人。
 情報省の職員がテロリストの名をタイプで打っていたところ、虫が落ちてTuttleがButtleに打ち間違えられてしまう。そのため、実際にいたButtleが逮捕され、バトルの上階に住む女ジルが抗議する。誤認逮捕に気付いた記録局の職員サムが検束局の友人ジャックを訪れるが、バトルは拷問死していて、隠蔽のために逆にジルをテロリストの仲間に仕立て抹殺しようとする。
 サムは普段から自分が銀色の羽根をつけたヒーローになる夢を見ていて、ジルは夢の中に現れる恋する美女そっくり。サムはジルと逃亡を図るも捕まり、拷問され、タトルに助けられてジルと幸せな田園に生き延びる幻想を見続ける廃人となる。
 この時、サムが口ずさむのが南国の楽園「ブラジル」のメロディで、映画の全編にわたって流れる。
 この未来社会が幸福だという描写もあり、対してこの偽善を破壊しようとするテロリストがいて、情報管理社会の未来像の陰画を描く。製作から30年が経ち、IT化やマイナンバー制など情報管理社会の到来が現実となっている今日、本作の先見性は鋭く、サイバーテロなどもあって、描かれた恐怖は形こそ違え現実のものとなりつつある。
 ただ、惜しむらくは演出とシナリオが20世紀的で、SFにありがちな独りよがりのストーリー展開ですこぶる冗長。テーマだけでは睡魔には勝てない。
 テロリストのタトルにロバート・デ・ニーロが出演しているのがちょっとした見どころか。 (評価:2)

コクーン

製作国:アメリカ
日本公開:1985年12月14日
監督:ロン・ハワード 製作:リチャード・D・ザナック、デヴィッド・ブラウン 脚本:トム・ベネディク 撮影:ドン・ピーターマン 音楽:ジェームズ・ホーナー

宇宙船に向かって「船を返せー!」と叫びたくなる
 原題"Cocoon"で、繭のこと。
 アトランティス大陸の時代から宇宙人が地球にたびたびやってきていたという設定で、前回地球を脱出した際にフロリダ沖の基地に居残った繭のカプセルに入った仲間を連れ戻すために、宇宙人たちがやってきたというお話。
 平和的友好的な宇宙人で、老人ホームの隣のプール付きの邸宅を借り、クルーザーをチャーターして海底に沈んだ牡蠣のようなカプセルを引き上げ、プールに移す。
 そのプールに老人たちが忍び込んだから、さあ大変。プールの水はカプセル内の宇宙人を回復させるためのもので、老人たちを若返らせたが、それを知った老人たちが大挙して押し寄せたために、エキスを奪われて2体が死亡。他も連れ戻す元気を失ってしまった。
 カプセルは再び海底に戻すことになり、代わりに若返った老人たちを乗せて宇宙船は母星に還るという、よくわからない物語。
 『未知との遭遇』(1977)、『E.T.』(1982)の亜流作品だが、SF設定もストーリーもB級で、不老不死を夢見る老人向けファンタジーの色彩が濃い。
 穿って見れば、宇宙船に乗って老人たちが向かうのは苦しみのない天上の星、すなわち天国=死後の世界で、死を否定的に捉えるのではなく肯定的に捉えるというテーマにも見え、さらに穿って見れば、これは安楽死がテーマなのではないのかということになる。
 旅立つ老人たちを見送り、地上で人生を全うしようとする、すなわち死の苦しみを受け入れようとする安楽死を望まない自然死派もいて、いずれにしてもSF映画でないことだけは確か。
 ラストシーンで老人たちはクルーザーごと宇宙船に収容されるが、船長(スティーヴ・グッテンバーグ)に代って「船を返せー!」と叫びたくなる。
 宇宙人の美女(ターニー・ウェルチ)は、ラクエル・ウェルチの娘。 (評価:2)

ペイルライダー

製作国:アメリカ
日本公開:1985年9月21日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド 脚本:マイケル・バトラー、デニス・シュリアック 撮影:ブルース・サーティース 美術:エドワード・C・カーファグノ 音楽:レニー・ニーハウス

正々堂々でないのがガンマンものとしては爽快感に欠ける
 原題"Pale Rider"で、蒼ざめた騎手の意。ヨハネの黙示録に登場する四騎士では、青白い馬に乗った4番目の騎士で死を司る。
 青白い馬に乗って現れるのがクリント・イーストウッドで、西部の町で集団リンチされていたハル(マイケル・モリアーティ)を助けたことがきっかけで、金鉱採掘の事業者ラフッド一家に嫌がらせを受けているカーボン谷の採掘者たちの守護神となるという物語。
 イーストウッド監督『荒野のストレンジャー』(1973)をベースにしたような作品で、ハルが面倒を見ている母娘が登場。イーストウッドは、母(キャリー・スノッドグレス)に一目惚れされるどころか、親子ほどにも年の離れた15歳の娘(シドニー・ペニー)にも惚れられてしまうというモテモテぶりを発揮する。
 ラフッド一家を懲らしめて最後は流れ者として谷を去って行くが、小娘がそれを追いかけるラストシーンは『シェーン』そのまま。2つの作品を足して2で割った西部劇になっている。
 当初、ラフッド一家は法を犯さないように嫌がらせだけで人殺しはしないが、イーストウッドは保安官まで殺してしまい、ハルもラフッドを殺してしまうので、縛り首にならないかと心配してしまう。
 イーストウッドが保安官一味を殺すのも闇討ちで、正々堂々としてないのがガンマンものとしては爽快感に欠ける。 (評価:2)

007 美しき獲物たち

製作国:イギリス
日本公開:1985年7月6日
監督:ジョン・グレン 製作:アルバート・R・ブロッコリ、マイケル・G・ウィルソン 原作:イアン・フレミング 脚本:リチャード・メイボーム、マイケル・G・ウィルソン 音楽:ジョン・バリー

ロジャー・ムーア最終作はスタントと合成ばかりで迫力に欠ける
 原題"A View to a Kill "で獲物の目的といった意味か。イアン・フレミングの短編"From a View to a Kill"(邦題:バラと拳銃)が原作。
 磁気に影響を受けないマイクロチップをソ連に売っているゾーリン社の内偵がボンドの任務。
 ゾーリンが持ち馬にマイクロチップを埋め込んで、ステロイド剤で優勝させていることを突き止めるが、競馬に磁気は関係なく、不正は不正にしても、なんでそんなことがココム違反に結びつくのかよくわからない行動をボンドがとるという、いつもの通りのご都合主義のシナリオだが、とにかく悪い奴ということでボンドが食らいつく。
 フランスの厩舎からサンフランシスコと舞台は移り、ゾーリンがシリコンバレーを地震で沈めてマイクロチップ市場を独占するという野望に話は変わり、地殻の断層に湖の水を注入して大地震を発生させるという企てをボンドが阻止するまでの物語。
 シナリオの無茶苦茶さはともかく、ロジャー・ムーアの最終作ということもあって、年齢を考慮したせいかアクションにキレがない。
 冒頭はスタントを使った山岳スキーとスノボーで演出するが、さすがにシリーズでも使い古されたエンタメシーンで感動はイマイチ。
 パリやサンフランシスコでのカーアクション、タワーリング・インフェルノ等々も既視感が否めず、あからさまなスタントと合成ばかりで迫力に欠ける。その分をコミカルなシーンで補っているが、これまでの007の破天荒なエンタメに比べていささか凡庸さは免れない。
 ボンドガールのフューチャーも今ひとつで、ジャマイカ生まれの黒人歌手グレイス・ジョーンズが強烈な印象を残すが、タニア・ロバーツはお姫様役でぱっとしない。
 ロケ地も観光案内的には今ひとつ。 (評価:2)

グーニーズ

製作国:アメリカ
日本公開:1985年12月7日
監督:リチャード・ドナー 製作:リチャード・ドナー、ハーヴェイ・バーンハード 脚本:クリス・コロンバス 撮影:ニック・マクリーン 特撮:ILM 美術:リック・カーター 音楽:デイヴ・グルーシン

宝探しの夢想のレベルを超えられていない
 原題"The Goonies"で、野暮ったい連中の意。
 ゴルフ場開発業者からの借金で町を追い出されようとしている一家の少年とその仲間が、屋根裏から宝の地図を手に入れたことから、借金を返すために宝探しに出かけるという物語。
 宝の在り処を示す廃屋のレストランはお尋ね者一家がアジトにしていて、ギャングとの追いつ追われつの宝探しゲームとなるが、子供の頃に誰しもが夢見た「宝」と「悪者」という単純な構図なので、手垢のついた設定とストーリー感は免れない。
 ドラマ性が希薄な分、ディズニーランドのようなテーマパーク的な仕掛けとコメディで見せるしかないが、一発芸の繰り返しという苦しさで、グーニーズの食いしん坊とギャングの心優しき怪物のお邪魔虫のキャラクター性で後半の味付けをする。
 珍妙な発明品を繰り出す少年やチアリーダーの魅力的な金髪娘も登場するが、今ひとつパッとしない。
 テーマパークの仕掛けの方は『インディジョーンズ』の亜流で、最後は地底湖に海賊船が浮かぶという、町の外観からはどこにそんなものが隠れているんだ的な無茶苦茶さはあるものの、そこは『宝島』なので大目に見るにしても、ファンタジーにしてもあまりのリアリティのなさは、宝探しの夢想のレベルを超えられていない。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1985年12月21日
監督:リチャード・アッテンボロー 製作:サイ・フューアー、アーネスト・H・マーティン 脚本:アーノルド・シュルマン 撮影:ロニー・テイラー 音楽:マーヴィン・ハムリッシュ
キネマ旬報:10位

お楽しみは最後の群舞のレビューがすべて
 原題"A Chorus Line"で、ミュージカルのコーラス団・ダンサー団のこと。ジェームズ・カークウッド・Jr、ニコラス・ダンテ台本の同名ミュージカルが原作。
 冒頭、ニューヨークの街の俯瞰からオーディション会場へのシークエンスを除くと、ほぼステージシーンしかない。ストーリーも始めから終わりまでディレクター(マイケル・ダグラス)によるコーラスラインのオーディションで、ラストにコーラスラインによる群舞のレビューがあるだけ。
 ただそれだけで、最終選考に残るダンサーたちの人生の一片を摘まんだり、ハリウッドに転身して失敗した女優(アリソン・リード)がコーラスラインで再起を期すエピソードが入るが、どれもドラマとしては中途半端で食い足りない。
 そうなるとコーラスラインの悲哀を描く単なる楽屋ネタでしかなく、あとは踊りのシーンしか見どころがなく、テーマ上、コーラスラインの群舞と多少の個人技を見せるしかない。
 群舞はよく揃っていて、ダンサーたちの身体能力の高さには感心するが、やはりストーリーのないミュージカルというのは決定的なものに欠けていて、フィナーレからエンディングに移る"ONE"でようやく胸のつかえが下りる。 (評価:2)

ロッキー4 炎の友情

製作国:アメリカ
日本公開:1986年6月7日
監督:シルヴェスター・スタローン 製作:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 脚本:シルヴェスター・スタローン 撮影:ビル・バトラー 音楽:ヴィンス・ディコーラ

反ソイメージで凝り固まったアメリカ保守派のための通俗ドラマ
 原題"Rocky IV"。シリーズ4作目。
 前作のラストから始まり、前半はアポロのボクシングへの思いが中心となる。
 ソ連のアマチュア・チャンピオンが訪米し、ゴルバチョフ政権下の米ソ冷戦終了に向けての親善試合を申し込むというストーリー設定。ところが、アメリカというよりも本作制作者の対ソ不信が露骨に表れていて、アポロのジョークを解さない武骨な共産主義者、冷血漢、ステロイドを打たれた不気味なアンドロイドというように描かれ、対戦でアポロを撲殺してしまう。
 ボクシングと心中したアポロへの復讐戦をロッキーが引き受け、ボクシングを舞台に米ソ代理戦争が行われ、アメリカ保守派に胸のすく思いをさせるという、なんとも言えないタカ派映画。
 試合はソ連で行われるが、シベリアを連想させる雪に閉ざされた極北の地、監視するKGB、全体主義的な観客、強権的で国家威信しか考えない指導者たち、というようにソ連に対するネガティブなイメージで凝り固まっていて、最後は観客全員がロッキーを応援するという訳の分からない展開。
 前作同様に音楽に頼り切ったミュージックビデオ的演出・編集で、ロッキーの子供たちを登場させるウエットなホームドラマ的趣向で、第1作とは様変わりしたアメリカ通俗ドラマに堕している。
 北欧美人のブリジット・ニールセンがソ連アマチュア・チャンピオンの妻役で出演し、シルヴェスター・スタローンと結婚したのがネタ。 (評価:1.5)

製作国:イギリス
日本公開:1985年8月10日
監督:トビー・フーパー 製作:メナハム・ゴーラン、ヨーラン・グローバス 脚本:ダン・オバノン、ドン・ジャコビー 撮影:アラン・ヒューム 音楽:ヘンリー・マンシーニ

女宇宙吸血鬼が全裸で奮闘するがエロっぽさがない
 原題は"Lifeforce"(生命力)。コリン・ウィルソンの小説"The Space Vampires "(宇宙吸血鬼)が原作。
 ハレー彗星に便乗してやってきたエイリアンを地球に持ち帰ったイギリスの探査船によって、ロンドンが侵略されるという物語。ハレー彗星は1986年に地球に接近した。
 タイトルからしてB級色がたっぷりだが、映画はB級にも至らない。音楽がヘンリー・マンシーニというのが何ともチグハグ。
 全編ほとんど全裸の女宇宙吸血鬼というのが売りだが、期待するほどのエロチシズムもなければB級の下らなさもない。1985年の映画なのでSF特撮はかなり見劣りするが、血を吸う代わりに精気を吸いとるというのがいただけない。ヴァンパイアと銘打ちながらホラー色は皆無のエイリアン物で、精気を吸われてパニックになった群衆の描写も、吸血鬼というよりはゾンビ。冗長で工夫のない話が延々と続き、睡魔が堪え切れない。
 最後には首相までエイリアン化してNATOまで登場するが、大風呂敷の割には設定が陳腐。エイリアンの生態学的所見が推論だけで次々とわかってしまうという設定の都合よさにも白ける。 (評価:1.5)


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