外国映画レビュー──1983年
製作国:アメリカ
日本公開:1984年9月1日
監督:フィリップ・カウフマン 製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ 脚本:フィリップ・カウフマン 撮影:キャレブ・デシャネル 音楽:ビル・コンティ
キネマ旬報:2位
大気圏外の宇宙に戦闘機で挑戦する男がかっこよすぎる
原題は"The Right Stuff "で、任務や職務を遂行するために相応しい資質のこと。字幕では「正しい資質」と訳されている。トム・ウルフの同名の小説が原作。
よくできた映画であり何度か観ているが、唯一の欠点は長いこと。劇場版は2時間40分だったが、完全版は3時間13分で、やはりノーカット完全版を観たい。
マーキュリー計画の宇宙飛行士となったパイロットたちと、テストパイロットとして記録に挑戦し続けたチャック・イェーガーの対比を通して、可能性に挑戦する男たちの姿を描く。イェーガーはXS-1で初めて音速の壁を破ったことで知られ、主要な登場人物はすべて実在。細部にはフィクションが混ざるが概ね史実に沿って描かれ、米ソの戦闘機開発と有人ロケット競争の歴史を知る上でも興味深い作品。マーキュリー計画そのものがコメディであったことがよくわかる。
男のドラマ、ヒーロー物語、宇宙開発もの、戦闘機もの、とどのような観方をしてもエンタテイメント性に溢れた作品で、個人的には技術の粋を集めた最新鋭戦闘機でテスト飛行を行うシーンが堪らない。
もっとも映画として別の観方もできて、チンパンジーにもなれる宇宙飛行士として機械に操縦桿を委ねてしまったしまったパイロットたちと、機械に操縦桿を渡さないテストパイロットの、機械と人間の関係を巡る文明論でもある。
その象徴として金と名誉を手に入れる宇宙飛行士たちに対し、イェーガーにはそれを求めない求道者の姿がある。イェーガーは戦闘機で人間の限界に挑戦し、宇宙飛行士とは別の手段で大気圏の外にある宇宙を目指す。
宇宙飛行士を揶揄する仲間に、しかしチンパンジーには恐怖がないと諭すイェーガーと、過去を懐かしんだり宇宙飛行士を妬まないようにという妻の台詞が良く、イェーガーの男のダンディズムがかっこよすぎる。
アカデミー作曲賞を受賞しているが、「イェーガーの勝利」の曲はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に酷似しておりクレジットもなく、音楽のビル・コンティだけはright stuffとは言い難い。 (評価:4)
日本公開:1984年9月1日
監督:フィリップ・カウフマン 製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ 脚本:フィリップ・カウフマン 撮影:キャレブ・デシャネル 音楽:ビル・コンティ
キネマ旬報:2位
原題は"The Right Stuff "で、任務や職務を遂行するために相応しい資質のこと。字幕では「正しい資質」と訳されている。トム・ウルフの同名の小説が原作。
よくできた映画であり何度か観ているが、唯一の欠点は長いこと。劇場版は2時間40分だったが、完全版は3時間13分で、やはりノーカット完全版を観たい。
マーキュリー計画の宇宙飛行士となったパイロットたちと、テストパイロットとして記録に挑戦し続けたチャック・イェーガーの対比を通して、可能性に挑戦する男たちの姿を描く。イェーガーはXS-1で初めて音速の壁を破ったことで知られ、主要な登場人物はすべて実在。細部にはフィクションが混ざるが概ね史実に沿って描かれ、米ソの戦闘機開発と有人ロケット競争の歴史を知る上でも興味深い作品。マーキュリー計画そのものがコメディであったことがよくわかる。
男のドラマ、ヒーロー物語、宇宙開発もの、戦闘機もの、とどのような観方をしてもエンタテイメント性に溢れた作品で、個人的には技術の粋を集めた最新鋭戦闘機でテスト飛行を行うシーンが堪らない。
もっとも映画として別の観方もできて、チンパンジーにもなれる宇宙飛行士として機械に操縦桿を委ねてしまったしまったパイロットたちと、機械に操縦桿を渡さないテストパイロットの、機械と人間の関係を巡る文明論でもある。
その象徴として金と名誉を手に入れる宇宙飛行士たちに対し、イェーガーにはそれを求めない求道者の姿がある。イェーガーは戦闘機で人間の限界に挑戦し、宇宙飛行士とは別の手段で大気圏の外にある宇宙を目指す。
宇宙飛行士を揶揄する仲間に、しかしチンパンジーには恐怖がないと諭すイェーガーと、過去を懐かしんだり宇宙飛行士を妬まないようにという妻の台詞が良く、イェーガーの男のダンディズムがかっこよすぎる。
アカデミー作曲賞を受賞しているが、「イェーガーの勝利」の曲はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に酷似しておりクレジットもなく、音楽のビル・コンティだけはright stuffとは言い難い。 (評価:4)
製作国:イタリア
日本公開:1983年2月11日
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ 製作:ジュリアーニ・G・デ・ネグリ 脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ、ジュリアーニ・G・デ・ネグリ 撮影:フランコ・ディ・ジャコモ 音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
キネマ旬報:10位
小麦畑の中で民衆同士が戦うイタリアの第二次世界大戦
原題は"La Notte di San Lorenzo"で邦題の意。聖ロレンツォは3世紀の教皇の執事で、ローマ帝国のウァレリアヌス帝のキリスト教弾圧により8月10日に殉教。
この聖人の夜、流れ星に愛する人のために願いをかけると叶うという言い伝えを基に、母が眠る幼子に戦争体験を語って聞かせ、平和を願う。この枠物語の中に1944年の夏の出来事が描かれる。
この時期、イタリアは連合軍に降伏した王国派とドイツの支援を受けたムッソリーニの共和国ファシスト党に分裂。舞台となるトスカーナ地方はファシスト党の支配下で、反ファシストのパルチザンも加わった内戦状態にあった。
舞台となる村の若者もファシスト党、パルチザン、兵役拒否組の3つに分かれ、ドイツ軍はパルチザン掃討のために村の建物の爆破予告をする。村人は教会に集められるが、ガルヴァーノはドイツ軍の罠かもしれないと考え、アメリカ軍の保護を求めて仲間と脱出。しかし娘のひとりがアメリカ兵士に射殺され、一部は村に引き返す。教会に集まった村人はミサを行うが、ドイツ軍に教会を爆破され多数が死亡する。
ガルヴァーノはパルチザンに合流するが、ファシスト党との戦闘になり、アメリカ軍に解放される。生き延びた人々と語り部となる少女は村に帰るが、ガルヴァーノは戻らない。
ガルヴァーノがなぜ村に戻らないのか説明されないが、それを含めて、同じ村の者同士が血で血を洗う戦争の悲惨と心の傷を描くが、映画そのものは南欧の長閑な田園風景とともに淡々と描かれる。小麦畑の中での戦闘シーンが不思議と牧歌的で、枠物語を含めてメルヘンのよう。
馴染みの薄いイタリアの第二次世界大戦映画だが、枢軸国日本やドイツの戦争映画とは違った一面を知ることができる。 (評価:3)
日本公開:1983年2月11日
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ 製作:ジュリアーニ・G・デ・ネグリ 脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ、ジュリアーニ・G・デ・ネグリ 撮影:フランコ・ディ・ジャコモ 音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
キネマ旬報:10位
原題は"La Notte di San Lorenzo"で邦題の意。聖ロレンツォは3世紀の教皇の執事で、ローマ帝国のウァレリアヌス帝のキリスト教弾圧により8月10日に殉教。
この聖人の夜、流れ星に愛する人のために願いをかけると叶うという言い伝えを基に、母が眠る幼子に戦争体験を語って聞かせ、平和を願う。この枠物語の中に1944年の夏の出来事が描かれる。
この時期、イタリアは連合軍に降伏した王国派とドイツの支援を受けたムッソリーニの共和国ファシスト党に分裂。舞台となるトスカーナ地方はファシスト党の支配下で、反ファシストのパルチザンも加わった内戦状態にあった。
舞台となる村の若者もファシスト党、パルチザン、兵役拒否組の3つに分かれ、ドイツ軍はパルチザン掃討のために村の建物の爆破予告をする。村人は教会に集められるが、ガルヴァーノはドイツ軍の罠かもしれないと考え、アメリカ軍の保護を求めて仲間と脱出。しかし娘のひとりがアメリカ兵士に射殺され、一部は村に引き返す。教会に集まった村人はミサを行うが、ドイツ軍に教会を爆破され多数が死亡する。
ガルヴァーノはパルチザンに合流するが、ファシスト党との戦闘になり、アメリカ軍に解放される。生き延びた人々と語り部となる少女は村に帰るが、ガルヴァーノは戻らない。
ガルヴァーノがなぜ村に戻らないのか説明されないが、それを含めて、同じ村の者同士が血で血を洗う戦争の悲惨と心の傷を描くが、映画そのものは南欧の長閑な田園風景とともに淡々と描かれる。小麦畑の中での戦闘シーンが不思議と牧歌的で、枠物語を含めてメルヘンのよう。
馴染みの薄いイタリアの第二次世界大戦映画だが、枢軸国日本やドイツの戦争映画とは違った一面を知ることができる。 (評価:3)
製作国:イギリス
日本公開:1984年8月10日
監督:ピーター・イエーツ 製作:ピーター・イエーツ 脚本:ロナルド・ハーウッド 撮影:ケヴィン・パイク 音楽:ジェームズ・ホーナー
キネマ旬報:9位
『リア王』の不条理とアイロニーを演劇に重ねた二重構造
原題"The Dresser"で、着付け係の意。ロナルド・ハーウッドの同名戯曲が原作。
第二次世界大戦で空襲の続くロンドンが舞台。シェイクスピア劇団のサーの称号を持つ座長(アルバート・フィニー)は、劇場が次々と破壊され、若い劇団員を兵隊に取られ、老優ばかりの満足のいかない芝居を余儀なくされ、精神的に病んでいる。
それでも芝居を上演し続けることが、サーの称号を持つ俳優として戦争を支える意義だと考え、過密なスケジュールをこなしている。
精神的に不安定なサーを宥めすかし舞台に立たせているのが、その性格を熟知している着付け係兼付き人のノーマン(トム・コートネイ)。ドラマの主要部分は、今日の演目が何かもわからないほどに錯乱し、舞台監督も上演を危ぶむ状態のサーをノーマンが舞台に立たせ、無事終幕となるまでで、手に汗握るその緊迫感が本作の大きな見どころとなっている。
プロローグでは、『オセロ』の終演後に俳優たちを怒鳴り散らすサーの完全主義、プライドの高さと傲慢ぶり、戦時中の役者不足を描写。エピローグでは『リア王』の最期とサーの最期を重ね合わせ、書き遺すはずだった自叙伝の献辞に、劇団の俳優と舞台係など芝居に関わる者だけで演出家(アイリーン・アトキンス)もノーマンも名前を加えられていないという、舞台の上にしか目の向いていない名優の愚かさを描く。
戯曲の構成はよくできていて、献身的な努力も虚しく座長を失って途方に暮れるノーマンの悲嘆で終わるが、上演される『リア王』をサーとノーマンに置き換えた不条理とアイロニーに満ちた二重構造の作品となっている。 (評価:2.5)
日本公開:1984年8月10日
監督:ピーター・イエーツ 製作:ピーター・イエーツ 脚本:ロナルド・ハーウッド 撮影:ケヴィン・パイク 音楽:ジェームズ・ホーナー
キネマ旬報:9位
原題"The Dresser"で、着付け係の意。ロナルド・ハーウッドの同名戯曲が原作。
第二次世界大戦で空襲の続くロンドンが舞台。シェイクスピア劇団のサーの称号を持つ座長(アルバート・フィニー)は、劇場が次々と破壊され、若い劇団員を兵隊に取られ、老優ばかりの満足のいかない芝居を余儀なくされ、精神的に病んでいる。
それでも芝居を上演し続けることが、サーの称号を持つ俳優として戦争を支える意義だと考え、過密なスケジュールをこなしている。
精神的に不安定なサーを宥めすかし舞台に立たせているのが、その性格を熟知している着付け係兼付き人のノーマン(トム・コートネイ)。ドラマの主要部分は、今日の演目が何かもわからないほどに錯乱し、舞台監督も上演を危ぶむ状態のサーをノーマンが舞台に立たせ、無事終幕となるまでで、手に汗握るその緊迫感が本作の大きな見どころとなっている。
プロローグでは、『オセロ』の終演後に俳優たちを怒鳴り散らすサーの完全主義、プライドの高さと傲慢ぶり、戦時中の役者不足を描写。エピローグでは『リア王』の最期とサーの最期を重ね合わせ、書き遺すはずだった自叙伝の献辞に、劇団の俳優と舞台係など芝居に関わる者だけで演出家(アイリーン・アトキンス)もノーマンも名前を加えられていないという、舞台の上にしか目の向いていない名優の愚かさを描く。
戯曲の構成はよくできていて、献身的な努力も虚しく座長を失って途方に暮れるノーマンの悲嘆で終わるが、上演される『リア王』をサーとノーマンに置き換えた不条理とアイロニーに満ちた二重構造の作品となっている。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1984年6月23日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット、マイケル・ペイサー 脚本:ウディ・アレン 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:5位
ウディ・アレンの大ホラ話も延々と見せられると飽きる
原題"Zelig"で、主人公の名。
邦題のカメレオンマンは、カメレオンのように周囲に順応してしまう異常体質を持つ男ゼリグのことで、黒人と一緒にいれば黒人に、中国人と一緒にいれば中国人、デブと一緒にいればデブに姿形が変化してしまう。劇中では"human chameleon"(カメレオン人間)と呼んでいる。
このゼリグをさも実在の人物のようにドキュメンタリータッチで描き、その説得力たるやヤコペッティの『世界残酷物語』(1962)のようにリアルだが、同作がヤラセであったように、本作も完全なるホラ話。ウディ・アレンらしい皮肉の利いた大ホラ話を延々と見せられることになるが、2時間も見せられるとさすがに飽きてくる。
フレッチャー医師(ミア・ファロー)が催眠療法でゼリグ(ウディ・アレン)を正常に戻してからはカメレオン人間の面白さがなくなり、フレッチャー医師との恋、凋落、逃亡へと話が進むと次第に退屈になってくる。
ユダヤ人であるウディ・アレンが、カメレオンのように周囲に同化しようとする人間を皮肉った自虐的な作品で、クー・クラックス・クランやナチスのエピソードも登場する。とりわけ後者では、ユダヤ人のゼリグがナチス親衛隊に入隊してしまうというカメレオンぶりで、一旦はアイデンティティを取り戻し、自己主張をするようになったゼリグが、再びカメレオンになることで平穏を手にするという皮肉で終わる。
ユダヤ人の悲哀と皮肉と共に、ユダヤ人に限らず周囲と同化することでしか生きられない人々をテーマに描いている。
過去のニュースフィルムと合成したモノクロフィルムや音声・音楽が1920年代風で、1983年当時のインタビュー映像のカラーフィルムとの組み合わせが上手い。 (評価:2.5)
日本公開:1984年6月23日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット、マイケル・ペイサー 脚本:ウディ・アレン 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ディック・ハイマン
キネマ旬報:5位
原題"Zelig"で、主人公の名。
邦題のカメレオンマンは、カメレオンのように周囲に順応してしまう異常体質を持つ男ゼリグのことで、黒人と一緒にいれば黒人に、中国人と一緒にいれば中国人、デブと一緒にいればデブに姿形が変化してしまう。劇中では"human chameleon"(カメレオン人間)と呼んでいる。
このゼリグをさも実在の人物のようにドキュメンタリータッチで描き、その説得力たるやヤコペッティの『世界残酷物語』(1962)のようにリアルだが、同作がヤラセであったように、本作も完全なるホラ話。ウディ・アレンらしい皮肉の利いた大ホラ話を延々と見せられることになるが、2時間も見せられるとさすがに飽きてくる。
フレッチャー医師(ミア・ファロー)が催眠療法でゼリグ(ウディ・アレン)を正常に戻してからはカメレオン人間の面白さがなくなり、フレッチャー医師との恋、凋落、逃亡へと話が進むと次第に退屈になってくる。
ユダヤ人であるウディ・アレンが、カメレオンのように周囲に同化しようとする人間を皮肉った自虐的な作品で、クー・クラックス・クランやナチスのエピソードも登場する。とりわけ後者では、ユダヤ人のゼリグがナチス親衛隊に入隊してしまうというカメレオンぶりで、一旦はアイデンティティを取り戻し、自己主張をするようになったゼリグが、再びカメレオンになることで平穏を手にするという皮肉で終わる。
ユダヤ人の悲哀と皮肉と共に、ユダヤ人に限らず周囲と同化することでしか生きられない人々をテーマに描いている。
過去のニュースフィルムと合成したモノクロフィルムや音声・音楽が1920年代風で、1983年当時のインタビュー映像のカラーフィルムとの組み合わせが上手い。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1984年2月25日
監督:ジェームズ・L・ブルックス 製作:ジェームズ・L・ブルックス 脚本:ジェームズ・L・ブルックス 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 音楽:マイケル・ゴア
キネマ旬報:4位
アカデミー賞作品賞 ゴールデングローブ作品賞
自己中心的な母娘の身勝手な人生物語
原題は”Terms of Endearment xxx”で、愛をこめてといった意味。ラリー・マクマートリーの同名小説が原作。
母と娘の愛情物語で、娘の誕生から夫の早世、娘の結婚、出産、母の恋愛、娘夫婦の不倫と急ぎ足で話は進み、娘の発病と死によって終焉する。
アカデミー作品賞を始め評価の高かった作品だが、正直、自己中心的な母娘の身勝手な人生物語で、最後にお決まりの不治の病で悲劇を演出しても感情移入できない。
象徴的なのは、死期の迫った娘を親友がニューヨーク見物に連れていく場面。親友の女仲間とのランチに招待され、仕事を聞かれて「仕事をした経験がない」と答えると、一同が一斉に驚いたように顔を見合わせる。
食事が終わって、彼女らがランチの話題に離婚や堕胎の話しかしなかったと娘が親友に文句をいうのだが、仕事を持つのが当たり前の都会のキャリアウーマンと、南部のヒューストンで生まれ育った専業主婦の意識のギャップが如実に出ていて、どちらの側を是とするかによって本作に対する根本的な見方が分かれる。
制作年代を考えれば、憂うべきは育児を放り出して仕事に生きる現代女なのか、夫と子供に寄生して旧態然とした生き方をする化石女なのか、微妙。ただ、公開から30年、1ジェネレーションを経過すると、母娘の愛情物語は色褪せて見える。
言いたい放題、好き勝手に生きる女二人は見ていて飽きさせない。夫の浮気は激しく攻めながらも、自分の浮気には知らんぷり。そうした娘ママの身勝手さを嫌う長男に、「あなたはママを嫌っているけれど、それはママを愛しているからなのよ」とあくまで自己本位な娘ママ。結局、彼は娘ママの葬儀の輪にも加わらない。
シャーリー・マクレーン がウルトラ身勝手な母を演じて上手い。その恋人をジャック・ニコルソンが演じるが、すでに怪人以外の一般人を演じられなくなっている。 (評価:2.5)
日本公開:1984年2月25日
監督:ジェームズ・L・ブルックス 製作:ジェームズ・L・ブルックス 脚本:ジェームズ・L・ブルックス 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 音楽:マイケル・ゴア
キネマ旬報:4位
アカデミー賞作品賞 ゴールデングローブ作品賞
原題は”Terms of Endearment xxx”で、愛をこめてといった意味。ラリー・マクマートリーの同名小説が原作。
母と娘の愛情物語で、娘の誕生から夫の早世、娘の結婚、出産、母の恋愛、娘夫婦の不倫と急ぎ足で話は進み、娘の発病と死によって終焉する。
アカデミー作品賞を始め評価の高かった作品だが、正直、自己中心的な母娘の身勝手な人生物語で、最後にお決まりの不治の病で悲劇を演出しても感情移入できない。
象徴的なのは、死期の迫った娘を親友がニューヨーク見物に連れていく場面。親友の女仲間とのランチに招待され、仕事を聞かれて「仕事をした経験がない」と答えると、一同が一斉に驚いたように顔を見合わせる。
食事が終わって、彼女らがランチの話題に離婚や堕胎の話しかしなかったと娘が親友に文句をいうのだが、仕事を持つのが当たり前の都会のキャリアウーマンと、南部のヒューストンで生まれ育った専業主婦の意識のギャップが如実に出ていて、どちらの側を是とするかによって本作に対する根本的な見方が分かれる。
制作年代を考えれば、憂うべきは育児を放り出して仕事に生きる現代女なのか、夫と子供に寄生して旧態然とした生き方をする化石女なのか、微妙。ただ、公開から30年、1ジェネレーションを経過すると、母娘の愛情物語は色褪せて見える。
言いたい放題、好き勝手に生きる女二人は見ていて飽きさせない。夫の浮気は激しく攻めながらも、自分の浮気には知らんぷり。そうした娘ママの身勝手さを嫌う長男に、「あなたはママを嫌っているけれど、それはママを愛しているからなのよ」とあくまで自己本位な娘ママ。結局、彼は娘ママの葬儀の輪にも加わらない。
シャーリー・マクレーン がウルトラ身勝手な母を演じて上手い。その恋人をジャック・ニコルソンが演じるが、すでに怪人以外の一般人を演じられなくなっている。 (評価:2.5)
007 オクトパシー
日本公開:1983年7月2日
監督:ジョン・グレン 製作:アルバート・R・ブロッコリ、マイケル・G・ウィルソン 脚本:ジョージ・マクドナルド・フレイザー 撮影:アラン・ヒューム 音楽:ジョン・バリー
3代目ボンド、ロジャー・ムーア第6作。シリーズ第13作。
原題"Octopussy"で、劇中登場する蛸(octopus)の刺青を持つ女のニックネーム。イアン・フレミングの同名小説ほかが原作。
冒頭はミサイルに追尾されながらの小型ジェットでのアクロバット飛行という派手なシーンで始まるが、全体にはストーリーもわかりやすく、息を尽かせぬアクションの連続で楽しめる内容。
エルミタージュ美術館の「ファベルジュの卵」の贋物がサザビーで落札された背景を調査するためにボンドがインドに向かう。落札したのは美術館から盗まれた卵を取り戻したいソ連将軍の代理人カマルで、その仲間の国際的宝石窃盗女オクトパシー(モード・アダムス)がボンドガールになる。
カマルはハーレムを築き、オクトパシーは窃盗団偽装のためにサーカス団を率いるが、このサーカスが本作の見どころの一つ。インドでも東洋的脅威の大道芸のオンパレードで、虎や象まで登場してかつての植民地の未開でアメージングな風景を最大限に展開する。
ベルリンの壁崩壊前でしっかり冷戦が前提の内容になっていて、ソ連の狂った将軍が西ベルリンの米軍基地で核爆弾を爆発させようとし、運搬列車内外でのタイムレース・アクションがもう一つの見どころ。列車を追いかけて、パンクした車が車軸だけでレールを走るシーンは必見。
ボンドガールが太股をはだけて色気を全開させるが、38歳でオバサンなのが残念か。 (評価:2.5)
風櫃の少年
日本公開:1990年7月4日
監督:ホウ・シャオシェン 脚本:チュー・ティエンウェン 撮影:チェン・クンホウ 音楽:李宗盛
原題"風櫃來的人"で、風櫃から来た人の意。風櫃(フンクイ)は澎湖諸島の地名。
監督のホウ・シャオシェンの自伝的作品で、脚本家・中島丈博が故郷・高知の呪縛から逃れて東京に逃れるまでを描いた自伝的映画『祭りの準備』(1975、監督:黒木和雄)にテイスト的には近い。
本作では風櫃でくすぶっていた主人公が、故郷を捨てて高雄に逃れるまでの物語で、やがて映画監督になるという将来までは描かれず、高雄で失恋をして、彼女の去った台北を遥かに遠くに思うまでで終わる。
それからいえば、甘酸っぱい失恋物語でしかなく、風櫃の過去とも、映画監督となっていく未来とも切り離された、単なるセンチメンタルな青春のノスタルジーでしかない。
不良だった自分、傷害事件を起こしたために故郷から切り離されてしまった自分、兵役に就く友人を見送る自分と兵役前のモラトリアムにいる自分、高雄でどうしようもない男と暮らしている姉、故郷に暮らし続ける兄、事故で生きた屍になったまま死んでいった父、どうしようもない故郷の閉塞感、そうしたものへの哀惜によって自分を慰撫しているだけの作品に終わっている。
とりわけ、野球事故で不具となった父への思い出が繰り返される割には、主人公の思いが今ひとつ明確に描かれないのが、作品として大きく欠けている。
失恋相手の林秀玲とその恋人・陳博正は、『冬冬の夏休み』でも叔父と恋人役で出演。 (評価:2.5)
スター・ウォーズ ジェダイの復讐(ジェダイの帰還)
日本公開:1983年7月2日
監督:リチャード・マーカンド 製作:ハワード・カザンジャン 脚本:ローレンス・カスダン、ジョージ・ルーカス 撮影:アラン・ヒューム 美術:ノーマン・レイノルズ 音楽:ジョン・ウィリアムズ
原題"Return of the Jedi"で、ジェダイの帰還の意。『スター・ウォーズ』シリーズ第3作。時系列のエピソード6。
前作公開の3年後、制作費はさらに増えて、特撮の見どころの多い作品になっている。
物語は惑星タトゥイーンから始まり、前作で凍結されたハン・ソロ(ハリソン・フォード)はジャバ・ザ・ハットのアジトの壁飾りにされている。ソロを奪還すべくレイア姫(キャリー・フィッシャー)、ルーク(マーク・ハミル)、ランド(ビリー・ディー・ウィリアムズ)が集結。戦いの末にジャバを倒す。
帝国軍は森の惑星エンドアの軌道に新しいデス・スターを建造中で、これを破壊すべく防御装置のあるエンドアにハン・ソロ、レイア姫が潜入。ストームトルーパーとの森の中でのスピーダー・バイクによるチェイスが特撮の最大の見どころとなっている。
木々の間をバイクが走り抜ける映像はスピード感に溢れ、とりわけ手前から前に走り抜ける演出はアーケードのレーシングゲームのような臨場感と迫力を観客に与え、その後の映像作品に大きな影響を与えた。
ルークは再び惑星ダゴバを訪れ、修行を完了させてジェダイの騎士となるとともに、ヨーダはルークの出生の秘密とレイアが双子の妹であることを教えて老衰死する。
父をダークサイドから引き戻すべくルークはデススターに乗り込み、死闘の後、瀕死のダースベーダーは改心し、皇帝を葬り去って息絶えるというハッピーエンド。
物語の謎はすべて解き明かされ、帝国軍が滅んで物語に決着がつき、ラストシーンはお伽噺らしいエンドアでの祝宴で幕を閉じる。
エンドアの住民イウォーク族が縫ぐるみのようで可愛く、人気となった。イウォークたちとAT-ATとの戦闘がコミカルで楽しい。 (評価:2.5)
アウトサイダー
日本公開:1983年8月27日
監督:フランシス・コッポラ 製作:フランシス・コッポラ、グレイ・フレデリクソン、フレッド・ルース 脚本:キャスリーン・クヌートセン・ローウェル 撮影:スティーヴン・H・ブラム 美術:ディーン・タヴォウラリス 音楽:カーマイン・コッポラ
原題"The Outsiders"で、外部の人間の意。S・E・ヒントンの同名小説が原作。
オクラホマ州タルサの町を舞台にした青春群像で、貧困層の若者グリースと富裕層の若者ソックスの不毛な対立の中で、不幸な境遇から抜け出そうとする少年の希望を描く。
主人公ポニーボーイ(C・トーマス・ハウエル)は映画好きの少年で、両親を失い、厳格な長兄ダリー(パトリック・スウェイジ)、弟思いの次兄ソーダポップ(ロブ・ロウ)と暮らしている。
ポニーボーイは親友ジョニー(ラルフ・マッチオ)とドライブインシアターに行き、同じ学校に通うチェリー(ダイアン・レイン)と親しくなるが、チェリーはソックスのボブ(レイフ・ギャレット)のガールフレンドで、公園でリンチを受け、ジョニーがボブを刺殺して助ける。
殺人犯となった二人はグリースの兄貴分ダラス(マット・ディロン)の手引きでウィンドリックスビルの空家の教会に隠れるが、留守中に教会が火事となり、入り込んだ子供たちを救助するが、ジョニーが死んでしまう。
裁判にかけられたポニーボーイはチェリーの正当防衛だという証言で無罪となり学校に戻るが、階層の違うチェリーとは目で合図するだけで話すことができない。
ポニーボーイはおまえだけは不幸な境遇から抜け出すようにと兄たちに励まされ、国語教師から個人的体験をエッセーに書けば及第させると言われ、ジョニーの遺言”Stay gold”を胸に、"The Outsiders"の物語を書き始める…というラスト。
ストーリーも演出も破綻のない作品だが、コッポラ脚本の『アメリカン・グラフィティ』(1973)や『ウエスト・サイド物語』(1961)、『スタンド・バイ・ミー』(1986)と同じような匂いを感じさせ、どこか既視感が漂う。 (評価:2.5)
カルメンという名の女
日本公開:1984年6月23日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:アラン・サルド 脚本:アンヌ=マリー・ミエヴィル 撮影:ラウール・クタール
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Prénom Carmen"で、名前カルメンの意。プロスペル・メリメの小説"Carmen"が原作。
オペラでも知られた原作をゴダール流に換骨奪胎した作品で、ゴダールだからと思って観ないと、劇中に登場する精神病患者のゴダール同様に精神がおかしくなる。
それが前提というわけで、精神病院のシーンから始まり、狂気の世界の物語が始まる。カルメン(マルーシュカ・デートメルス)は劇中の映画監督ゴダールの姪で、過去の名声を離れて病院に逼塞しているゴダールに、映画の撮影に使うために空家を貸してほしいと頼みに来る。
次にカルメンは仲間たちと銀行強盗。無関心な客たちをよそに銃撃戦が繰り広げられ死体が転がる。警備員のジョゼフ(ジャック・ボナフェ)が強盗たちと戦う中、カルメンと取っ組み合いになり、そのままフォール・イン・ラブ。海辺の空家にしけこんでしまう。
そんな調子で、ジョゼフが情熱的なカルメンの気儘に振り回されるのだが、カルメンはホテルでの撮影を口実に富豪誘拐。その仲間に入れてもらえないジョゼフと争ううちに銃で撃たれてしまう。
基本は原作に従っているものの、ゴダールなので意味不明の会話が続き、男根も陰毛も乱舞するため気が散って、正直ストーリーは上の空になる。
カルメンにコダール自身とその映画を重ねているようなところもあって、カルメンのセリフ「私が愛したら男は終わる」同様、ゴダールが愛した映画も終わっている。 (評価:2)
フラッシュダンス
日本公開:1983年7月30日
監督:エイドリアン・ライン 製作:ドン・シンプソン、ジェリー・ブラッカイマー 脚本:トーマス・ヘドリー・Jr、ジョー・エスターハス 撮影:ドン・ピーターマン 音楽:ジョルジオ・モロダー
原題は"Flashdance"。flashは閃光とか、ほとばしりといった意味。
ストーリーそのものはつまらない。見どころは、ダンスシーンとジェニファー・ビールスの可愛らしい魅力。聴きどころは、アカデミー歌曲賞受賞の主題歌"Flashdance... What a Feeling"。
ただ残念なのは、ビールスのダンスシーンが少ないことで、映像的には彼女を中心としたダンス映画なので、つまらない恋物語など削ってもっと踊りのシーンが欲しかった。もっともビールスのダンスシーンは吹き替えで、彼女のシーンが少ないのはそのせいか。
舞台はピッツバーグ。昼は溶接工、夜はキャバレーのダンサーという18歳の女の子は、本格的なダンサーを目指し学校に入学するのが夢。しかし、入学申し込みに行って敷居の高さに怯む。彼女の踊りを見た工場の上司に見初められ、勇気をふるって願書を出すと、彼の口利きで書類選考をパス。それを知った彼女は怒るが、結局オーディションに臨む。ラストはオーディションに合格したらしく二人が抱き合って終わり。ただ、それだけ。
一応、モデルとなるダンサーの女性がいるが、ストーリー的には何がテーマなのか良くわからない。勇気? コネも実力のうち?
主題歌とともに日本でも話題になった映画だったが、ビールスの方はその後、『ブライド』などのホラー映画に出たくらいでパッとしなかった。 (評価:2)
ラルジャン
日本公開:1986年11月29日
監督:ロベール・ブレッソン 製作:ジャン=マルク・アンショ 脚本:ロベール・ブレッソン 撮影:エマニュエル・マシュエル、パスクァリーノ・デ・サンティス 音楽:バッハ
原題"L'Argent"で、貨幣の意。レフ・トルストイのロシア小説"Фальшивый купон "(贋債券)が原作。
ブレッソンらしいト書きのない作品で、ドキュメンタリー風といえばドキュメンタリー風だが、むしろ字幕のセリフを音声にしたサイレント映画のような作品。
『スリ』(1960)や『抵抗』(1956)のようなシンプルなストーリーならともかく、登場人物も物語が多少複雑になると、説明不足で話がわかりにくい。
カメラ屋にガソリン代の集金に行ったイヴォン(クリスチャン・パティ)は、偽札を掴まされて仕事をクビになってしまう。妻子ある身で仕方なく銀行強盗を手伝ったために収監され、妻(カロリーヌ・ラング)にも逃げられ、子供の死を知って刑務所で自殺を図るも失敗。そこに彼に偽札を掴ませたカメラ店の店員(ヴァンサン・リステルッチ)が入ってきて脱獄。
世の中に復讐するために泊まったホテルで強殺、老婦人(シルヴィー・ヴァン・デン・エルセン)の後をつけて一家惨殺し、最後は警官に今に至る一部始終を話して捕まるという結末。
物語は小遣い欲しさの少年が偽札を使ったことから始まり、小さな犯罪が大きな犯罪に発展する、罪は罪を呼ぶという教訓話でそれ以上のものはなく、それで話がよくわからないでは辛すぎる。 (評価:2)
最後の戦い
日本公開:1987年6月20日
監督:リュック・ベッソン 製作:リュック・ベッソン、ピエール・ジョリヴェ 脚本:リュック・ベッソン、ピエール・ジョリヴェ 撮影:カルロ・ヴァリーニ 音楽:エリック・セラ
原題"Le Dernier Combat"で、邦題の意。
リュック・ベッソンの長編初監督作品。
環境破壊によって文明が荒廃した近未来の世界という80年代的テーマで、生き残った4人の男が、1人の女をめぐって争うという物語。
もっとも、これまた当時の実験映画でよく使われた台詞を一切喋らない映画手法を採っていて、大気汚染で声帯がダメになったという設定らしいが、その他と同様に作品内での説明がないのが辛い。
字幕なしのほぼ無声映画なので、わけのわからない世界観と設定、物語を理解しようとする観客の主体的な努力によって、退屈なストーリーながら見続けることができる。
当初はスラム化した世界観を見せ、ビルの最上階に住む男(ピエール・ジョリヴェ)が廃車場から部品を調達してグライダーを組み立てているが、スラムを支配するボスが気付いて押しかけてきたところを間一髪、グライダーは飛び立つ。
着いた街には凶暴な男(ジャン・レノ)がいて、医師(ジャン・ブイーズ)が立て籠る病院に攻撃を仕掛けている。主人公の男は凶暴男に襲われ負傷。医師に助けられるが、それにしても男しか登場しない世界だと思っていると、病棟に女を拘禁していることがわかる。
どうやら女は希少らしいが、凶暴男がバリケードを破って医師と女を殺害。凶暴男を倒して自信をつけた主人公は、元の街に戻り、ボスたちを掃討する…
で? という作品で、映像だけで語ろうとする意気込みはともかく、終末観しか残らない。 (評価:2)
スーパーマン III/電子の要塞
日本公開:1983年7月9日
監督:リチャード・レスター 製作:ピエール・スペングラー 脚本:デヴィッド・ニューマン、レスリー・ニューマン 撮影:ロバート・ペインター 音楽:ケン・ソーン
原題は"Superman Ⅲ"。
前二作とは趣きを変えたコメディ作品。前半はそこそこ面白いが、後半のバトルはコメディ色が薄まって、全体としてはこれといった特色がない。
金儲けのためなら衛星をハッキングしてコロンビアの天候を変えてしまう会社社長(ロバート・ヴォーン)と、それを手伝う技師(リチャード・プライヤー)。スーパーマンは相変わらずの人助けをしながら高校の同窓会に出席。離婚して子連れの元カノと再会し、友人スーパーマンを利用してよりを戻す。しかしお節介スーパーマンが邪魔な社長と技師はクリプトナイトをプレゼントして、スーパーマンは邪悪に染まり、評判は悪化。社長は世界中の石油を独占しようとしてグランド・キャニオンに要塞を作るが、コンピュータは自己増殖を図るまでに。内面の邪悪を克服したスーパーマンが悪をやっつける。
邪悪なスーパーマン対真心のクラーク・ケントの対決が大きな見どころだが、正直、邪悪なスーパーマンは素人にも思いつく月並みなパロディでしかない。
『ナポレオン・ソロ』のロバート・ヴォーンが懐かしく、それが唯一の見どころか。
ロイスといい、元カノといい、女優が今ひとつ可愛くない。クリストファー・リーヴもハンサムというには欠けるものがあって、メインキャストはどことなくAKB的。どこにでもいそうな垢抜けない男女、というのがアメリカン・ヒーローの保守的なファンには安心感を与えるのか? (評価:2)
製作国:イギリス
日本公開:1984年4月6日
監督:トニー・スコット 製作:リチャード・A・シェファード 脚本:アイヴァン・デイヴィス、マイケル・トーマス 撮影:スティーヴン・ゴールドブラット 音楽:ミシェル・ルビーニ、デニー・ジャガー
特殊メイク中心でD・ボウイを起用した意味がわからない
原題"The Hunger"で、飢えの意。ホイットリー・ストリーバーの同名小説が原作。
古代から何千年もの命を生きてきた女吸血鬼ミリアム(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、18世紀に永遠の命を与えたチェリストのジョン(デイヴィッド・ボウイ)と、獲物を狩りながらニューヨークで幸せに暮らしていたが、突然ジョンの体に変化が起き急速に老化を始める・・・というのが物語の始まり。
ジョンが早老症の研究をしている女医サラ(スーザン・サランドン)を訪ねたことから、心配したサラがミリアムの館を訪ね、吸血鬼にされてしまう。既にジョンは老衰して棺桶に入れられていて、サラがミリアムの新たなパートナーとして迎えられたが、飢えたサラは恋人トム(クリフ・デ・ヤング)を餌にしてしまい自殺してしまう。
すると何故かこれまでのミイラとなっていたミリアムのパート―ナーたちが全員蘇り、襲われたミリアムは階段室から転落死して灰となりジ・エンド。ラストは甦ったサラが新しい吸血鬼ライフをスタートさせているらしいシーンで終わる。
なぜジョンが急に老化したのか? 早老症との関係は? 転落したミリアムが杭で心臓を貫かれたわけでもないのに何故死んだのか? などの疑問はそのままで、かといって吸血鬼映画らしい恐怖も耽美もなく、そもそも喉に歯を立てないでナイフで頸動脈を掻っ切るというのも品がない。
デイヴィッド・ボウイの美貌も冒頭だけで、後は特殊メイクになってしまうので、本当にボウイが演じているかどうかもわからず、起用した意味がわからないという、ストーリー的にも今二つくらい。見どころは特殊メイクか? (評価:2)
日本公開:1984年4月6日
監督:トニー・スコット 製作:リチャード・A・シェファード 脚本:アイヴァン・デイヴィス、マイケル・トーマス 撮影:スティーヴン・ゴールドブラット 音楽:ミシェル・ルビーニ、デニー・ジャガー
原題"The Hunger"で、飢えの意。ホイットリー・ストリーバーの同名小説が原作。
古代から何千年もの命を生きてきた女吸血鬼ミリアム(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、18世紀に永遠の命を与えたチェリストのジョン(デイヴィッド・ボウイ)と、獲物を狩りながらニューヨークで幸せに暮らしていたが、突然ジョンの体に変化が起き急速に老化を始める・・・というのが物語の始まり。
ジョンが早老症の研究をしている女医サラ(スーザン・サランドン)を訪ねたことから、心配したサラがミリアムの館を訪ね、吸血鬼にされてしまう。既にジョンは老衰して棺桶に入れられていて、サラがミリアムの新たなパートナーとして迎えられたが、飢えたサラは恋人トム(クリフ・デ・ヤング)を餌にしてしまい自殺してしまう。
すると何故かこれまでのミイラとなっていたミリアムのパート―ナーたちが全員蘇り、襲われたミリアムは階段室から転落死して灰となりジ・エンド。ラストは甦ったサラが新しい吸血鬼ライフをスタートさせているらしいシーンで終わる。
なぜジョンが急に老化したのか? 早老症との関係は? 転落したミリアムが杭で心臓を貫かれたわけでもないのに何故死んだのか? などの疑問はそのままで、かといって吸血鬼映画らしい恐怖も耽美もなく、そもそも喉に歯を立てないでナイフで頸動脈を掻っ切るというのも品がない。
デイヴィッド・ボウイの美貌も冒頭だけで、後は特殊メイクになってしまうので、本当にボウイが演じているかどうかもわからず、起用した意味がわからないという、ストーリー的にも今二つくらい。見どころは特殊メイクか? (評価:2)
罪と罰
日本公開:2002年1月26日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:ミカ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ、パウリ・ペンティ 撮影:ティモ・サルミネン 美術:マッティ・ヤーラネン 音楽:ショスタコーヴィチ、シューベルト
原題"Rikos Ja Rangaistus"で、原題の意。ドストエフスキーの同名小説が原作。
現代のヘルシンキを舞台にした翻案で、恋人をひき逃げして無罪になった男を主人公が銃殺。これを目撃した若い女が警察に偽証するものの、刑事は真犯人と睨んで内偵する。
浮浪者を罠にかけて盗品とともに警察に逮捕させると、運も彼に味方して凶器の銃が目撃者の女に言い寄る男の手に偶然渡り、男は拳銃を持って交通事故死。
海外に高跳びしようとして成功を目前にしながら、警察に自首するというストーリー。
アキ・カウリスマキの監督デビュー作で、翻案とはいえ原作があるのでそれなりに楽しめるものの、ご都合主義のシナリオは早くも顔を覗かせていて、ストーリー的な整合性には欠ける。
目撃者の女がなぜ男を庇ったのかもよくわからず、彼女に説得されながらも、出国を思い留まって自首する心理過程も上手く描写されていない。そうした点ではシナリオも演出も未熟で、ラスト前で自首した男を刑事が力で捻じ伏せようとするのも説明がつかない。
辻褄の合わない消化不良が気になる作品で、刑務所に面会に行った女が7年間待つという台詞を聞きながら、犯行を目撃したときに一目惚れしたんだろうかと、見る方が辻褄を合せる。
ヘルシンキの中心街で映る、ノキアの大きな看板に、フィンランド映画を実感するのが見どころか。 (評価:2)
ランブルフィッシュ
日本公開:2002年1月26日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フレッド・ルース、ダグ・クレイボーン 脚本:S・E・ヒントン、フランシス・フォード・コッポラ 撮影:スティーヴン・H・ブラム 音楽:スチュワート・コープランド
原題"Rumble Fish"で、闘魚の意。劇中、シャム闘魚(ベタ・スプレンデンス)を指す。S・E・ヒントンの同名小説が原作。
不良少年ラスティ(マット・ディロン)と不良少年だった兄(ミッキー・ローク)の物語で、ガールフレンドと喧嘩に明け暮れているラスティの前に、行方不明になっていた兄が突然現れる。
兄は元不良グループのリーダーで、バイクボーイと呼ばれていて警官のパターソン(ウィリアム・スミス)につけ狙われている。
行方不明の最中、家出した母に会っていた兄は平和主義者に変身し、ペットショップに侵入して仲間同士で殺し合う闘魚を川に放せば殺し合わなくなるだろうと盗み出す。そこにパターソンが現れ、バイクボーイを射殺。ラスティが兄に代って闘魚を川に放す、という物語。
喧嘩に明け暮れる不良少年たちを闘魚に見立て、その空虚を描くというわかりやすい寓話的作品だが、コッポラ作品としてはそれ以上のものがないのが退屈にさせる。 (評価:2)
ミッキーのクリスマスキャロル
日本公開:劇場未公開
監督:バーニー・マッティンソン 脚本:バーニー・マッティンソン、エド・ゴンバート、アラン・ヤング、トニー・マリノ、アラン・ダインハート 美術:ドン・グリフィス 音楽:アーウィン・コスタル
原題"Mickey's Christmas Carol"で、邦題の意。チャールズ・ディケンズの"A Christmas Carol"が原作。
ストーリーは原作通りで、タイトルはミッキーだが、ミッキーが演じるのはスクルージの会計事務所の書記役。主人公のスクルージを演じるのは、ドナルドダックの伯父スクルージ・マクダックで、名前の由来となった原作での、念願叶っての本人出演となっている。
守銭奴のスクルージがクリスマス・イヴに共同経営者だったマーレイの幽霊の訪問を受け、過去・現在・未来の自分の姿を見せられ、改心してミッキーの家を訪れ、ともにクリスマスを祝うという物語。
スクルージおじさん因縁の物語とはいえ、ディズニーのキャラクターが声優を含めてこの話に向いているかは別で、カトゥーンとしてのコミカルさは、道徳的な話にはどうやっても馴染んでなく、原作の感動には遠く及ばない。
最後にスクルージが募金集めに金貨をばらまくのも、カトゥーンとしては定型の演出だが話のテーマからは過剰演出で、水と油の題材への制作者の迷いが見てとれ、全体を通して中途半端な作品となっている。
イギリス的なシニカルさを含む原作に対して、ハッピーなアメリカンの代表ともいえるディズニーの組み合わせそのものがミスマッチだった。 (評価:2)
製作国:イタリア、ソ連
日本公開:1984年3月31日
監督:アンドレイ・タルコフスキー 製作:レンツォ・ロッセリーニ、マノロ・ボロニーニ 脚本:アンドレイ・タルコフスキー、トニーノ・グエッラ 撮影:ジュゼッペ・ランチ
キネマ旬報:8位
ストーリーは退屈だが、映像は決して飽きさせない
原題"Nostalghia"。ソ連出国後に製作されたタルコフスキーの自伝的映画で、翌年事実上の亡命をした。
物語は亡命したロシア人作曲家の足跡を追う取材のために、助手とともにイタリアにやってきたロシア人詩人が主人公。聖母画のあるシエナの教会、聖カテリーナが訪れた温泉町、ローマを訪れながら、形而上学的会話を繰り返す。温泉町で出会った変人にいわれて世界を救うために蝋燭の火を運ぶ主人公、ローマで焼身自殺を遂げる変人。
その中に、主人公のロシアでの回想がくり返され、それがタイトルともなって、最後は故国に残してきた母への献辞が捧げられるが、救いなき宗教と国境に自由を阻まれたタルコフスキーの鬱屈した思いを語るには十分だが、普遍的とはいえ物語的にはあくまでも個人の思いに収斂してしまっていて、ドラマもなければストーリーもない退屈な映画。
俺の気持ちわかってほしい的なところがあって、観客にそれをわかるように伝える気は毛頭ない。
もっとも、詩人が主人公だけに映像には詩情が溢れていて、計算されたコンポジション、俳優の表情やしぐさ、犬1匹の動きに至るまで、その緻密さと完璧さは、まるで名画を見ているような気分にさせる。
それが動画として動くので、環境ビデオのようでもあって、海を見ていて飽きないのと同様に、何もないストーリーにも拘らず、映像は決して飽きさせないという不思議映画。
これぞ映像の詩人、タルコフスキーを味わうにはいいが、普通の映画を見たい人にはお勧めできない。 (評価:1.5)
日本公開:1984年3月31日
監督:アンドレイ・タルコフスキー 製作:レンツォ・ロッセリーニ、マノロ・ボロニーニ 脚本:アンドレイ・タルコフスキー、トニーノ・グエッラ 撮影:ジュゼッペ・ランチ
キネマ旬報:8位
原題"Nostalghia"。ソ連出国後に製作されたタルコフスキーの自伝的映画で、翌年事実上の亡命をした。
物語は亡命したロシア人作曲家の足跡を追う取材のために、助手とともにイタリアにやってきたロシア人詩人が主人公。聖母画のあるシエナの教会、聖カテリーナが訪れた温泉町、ローマを訪れながら、形而上学的会話を繰り返す。温泉町で出会った変人にいわれて世界を救うために蝋燭の火を運ぶ主人公、ローマで焼身自殺を遂げる変人。
その中に、主人公のロシアでの回想がくり返され、それがタイトルともなって、最後は故国に残してきた母への献辞が捧げられるが、救いなき宗教と国境に自由を阻まれたタルコフスキーの鬱屈した思いを語るには十分だが、普遍的とはいえ物語的にはあくまでも個人の思いに収斂してしまっていて、ドラマもなければストーリーもない退屈な映画。
俺の気持ちわかってほしい的なところがあって、観客にそれをわかるように伝える気は毛頭ない。
もっとも、詩人が主人公だけに映像には詩情が溢れていて、計算されたコンポジション、俳優の表情やしぐさ、犬1匹の動きに至るまで、その緻密さと完璧さは、まるで名画を見ているような気分にさせる。
それが動画として動くので、環境ビデオのようでもあって、海を見ていて飽きないのと同様に、何もないストーリーにも拘らず、映像は決して飽きさせないという不思議映画。
これぞ映像の詩人、タルコフスキーを味わうにはいいが、普通の映画を見たい人にはお勧めできない。 (評価:1.5)
ネバーセイ・ネバーアゲイン
日本公開:1983年12月24日
監督:アーヴィン・カーシュナー 製作:ジャック・シュワルツマン 脚本:ロレンツォ・センプル・Jr 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ミシェル・ルグラン
原題は"Never Say Never Again"で、次はないなんて言わないでの意。007シリーズ第4作『007 サンダーボール作戦』(Thunderball)のリメイク。
"Thunderball"の原作権をめぐる原作者イアン・フレミングと脚本家ケヴィン・マクローリーの争いから、マクローリーが得た映画化権によりオリジナル脚本を基に制作された作品。
ショーン・コネリーが、12年ぶりにボンド役を演じたが、白髪+鬘で老けたのは否めず、全体に精彩がない。
久し振りの007ということで、模擬戦闘、復帰トレーニングをするシーンから始まるが、『サンダーボール作戦』で英軍機搭載の核爆弾がスペクターに盗まれたという設定が、米軍基地から盗まれるという設定に置き換わり、スパイものっぽくはなっているが派手さに欠けた地味な印象が強くなっている。
原作権争いから、007シリーズで使えなくなったスペクターとブロフェルドが登場しているのも本作の売りだったが、演出・編集のテンポが悪く、オリジナル・シナリオを離れることができないために、物語はメリハリに欠け、冗長で退屈なものになっている。
盗まれた核ミサイル2基を奪還するために、スペクターNo2の豪華クルーザーに潜入し、ミサイル1基の在り処を突き止めるものの話はそれで終わらず、終盤に2基目を追う展開となるため、似たような話とアクションが繰り返される。
007シリーズの著作権に属するトレードマークのオープニングと曲が使えないため、完全に独立して制作された一般映画ということになるが、ショーン・コネリーはかつてのボンドの頸木から離れられず、女にもてるボンド、美女に囲まれたボンドというキャラクター像を頼りに制作したために、老いたボンドではシリアスも決まらず、締まりのないスカスカの作品にしかならなかった。
リメイクの本作を見ると、007シリーズがストーリーよりもアイディアで繋いでいるのがよくわかる。脚本は平凡というよりは凡庸で、007シリーズのようなアイディアと斬新さがなければ、007もただのつまらない映画という見本。事件解決後のラストもショーン・コネリー復活の思い入れが深すぎて、蛇足シーンが続くのに辟易する。
ボンドガールにキム・ベイシンガー。 (評価:1.5)
製作国:イギリス
日本公開:1984年7月14日
監督:マイケル・マン 製作:ジーン・カークウッド、ハワード・W・コッチ・Jr 脚本:マイケル・マン 撮影:アレックス・トムソン 美術:アラン・トムキンス、ハーバート・ウェストブルック 音楽:タンジェリン・ドリーム
イアン・マッケランが悪魔と手を組んで睡魔となる
原題"The Keep"で、中世ヨーロッパの城の中核、天守のこと。F・ポール・ウィルソンの同名小説が原作。
舞台は1941年のルーマニア。中世の城をドイツ軍が接収するが、城に封印されていた怨霊=悪魔に惨殺され、謎の古代文字を読み解くために強制収容所からユダヤ人の学者と娘が呼び寄せられる。
ところが博士は悪魔と契約し、病気を回復。一方、悪魔復活とともに覚醒した謎の男が悪魔退治に城をめざし・・・といったあたりで、悪魔ならぬ睡魔が観客を襲う。
ヨーロッパのキリスト教悪魔ホラーにありがちな退屈な図式と退屈なストーリーで、悪魔の怖くない非キリスト教徒には耐えられない。
謎の男は博士の娘となぜか愛し合い交合するのだが、鏡にその姿は映らず、あるいはキリスト教徒にとっては神か天使のような善を代表する霊的存在なのかもしれないが、娘はユダヤ教徒だし、そもそも鏡に映らないのは吸血鬼のような異教の邪悪な霊ではないのか・・・と考えているとますます眠くなる。
悪魔は人間の内面の悪の具現化したものだというもっともらしい解説を聞きながら、つまりナチのことか、奴らこそ悪の化身で、奴らが城に住む悪魔を呼び寄せたのかと考えていると、ナチは悪魔にやっつけられてしまい、悪魔も本当はいい奴なんだと、眠い頭で考える。
謎の男は悪魔と心中し、ついでにナチも道連れにされて平和が戻ってめでたしめでたしのストーリーに、見どころは何だったのだろうと思う間もなく沈没する。
博士役にガンダルフのイアン・マッケラン。 (評価:1.5)
日本公開:1984年7月14日
監督:マイケル・マン 製作:ジーン・カークウッド、ハワード・W・コッチ・Jr 脚本:マイケル・マン 撮影:アレックス・トムソン 美術:アラン・トムキンス、ハーバート・ウェストブルック 音楽:タンジェリン・ドリーム
原題"The Keep"で、中世ヨーロッパの城の中核、天守のこと。F・ポール・ウィルソンの同名小説が原作。
舞台は1941年のルーマニア。中世の城をドイツ軍が接収するが、城に封印されていた怨霊=悪魔に惨殺され、謎の古代文字を読み解くために強制収容所からユダヤ人の学者と娘が呼び寄せられる。
ところが博士は悪魔と契約し、病気を回復。一方、悪魔復活とともに覚醒した謎の男が悪魔退治に城をめざし・・・といったあたりで、悪魔ならぬ睡魔が観客を襲う。
ヨーロッパのキリスト教悪魔ホラーにありがちな退屈な図式と退屈なストーリーで、悪魔の怖くない非キリスト教徒には耐えられない。
謎の男は博士の娘となぜか愛し合い交合するのだが、鏡にその姿は映らず、あるいはキリスト教徒にとっては神か天使のような善を代表する霊的存在なのかもしれないが、娘はユダヤ教徒だし、そもそも鏡に映らないのは吸血鬼のような異教の邪悪な霊ではないのか・・・と考えているとますます眠くなる。
悪魔は人間の内面の悪の具現化したものだというもっともらしい解説を聞きながら、つまりナチのことか、奴らこそ悪の化身で、奴らが城に住む悪魔を呼び寄せたのかと考えていると、ナチは悪魔にやっつけられてしまい、悪魔も本当はいい奴なんだと、眠い頭で考える。
謎の男は悪魔と心中し、ついでにナチも道連れにされて平和が戻ってめでたしめでたしのストーリーに、見どころは何だったのだろうと思う間もなく沈没する。
博士役にガンダルフのイアン・マッケラン。 (評価:1.5)