海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1973年

製作国:スペイン
日本公開:1985年2月9日
監督:ヴィクトル・エリセ 製作:エリアス・ケレヘタ 脚本:アンヘル・フェルナンデス=サントス、ヴィクトル・エリセ 撮影:ルイス・クアドラド 音楽:ルイス・デ・パブロ
キネマ旬報:4位

他愛のない物語だが、蜜蜂の囁きが心に響く不思議な作品
 原題は"El espíritu de la colmena"で、蜜蜂の巣の精霊の意。
 フランコ軍が人民戦線政府との内戦に勝利を収めた1940年のスペインが舞台で、農村に住む小さな姉妹の妹アナの話。映画制作時、スペインはまだフランコ独裁政権下にあった。
 物語は、アナが廃墟の家畜小屋に人民戦線の敗残兵を匿うが、兵士は殺されてしまい、ショックを受けて家出。その兵士をフランケンシュタインの精霊と信じるアナは窓の外の夜気に呼びかけるというシーンで終わるという他愛のないストーリーだが、何か心に響く不思議な作品。
 一つにはアナを演じるアナ・トレントが大きな純真な目をした可愛い少女で、その瞳に知らず知らず惹き込まれてしまうこと。もう一つは舞台となるカスティーリャ地方の広大で美しい田園風景に引き寄せられること。
 物語を読み解く鍵の一つはフランケンシュタインの怪物で、映画(1931)を見たアナは、なぜ怪物は少女を殺し、怪物は人々に殺されたのかと疑問に持つ。映画は作りものだから少女も怪物も死んでいない、怪物は精霊のようなものだ、という姉の哲学的ともいえる答えに、アナは家畜小屋で見つけた大きな足跡から、そこに精霊が棲むと信じ込む。
 フランケンシュタインの怪物は敗残兵となってアナの前に姿を現し、人々に殺されてしまうが、怪物の幻覚を見ることによって、姉の言葉通り、敗残兵は精霊となる。
 人間が生み出したフランケンシュタインの怪物が、人々の憎悪の対象となっていく中に、スペイン内戦で荒廃した人々の心象風景を描いたということもできるし、内戦で失われた命に精霊への昇華を願ったともいえる。
 アナの母が人知れず出し続ける手紙があって、届いた返信を燃やしてしまう。あるいは人民戦線の肉親か誰かへ宛てたものか劇中では明らかにされないが、家族内でもそうした秘密が生れてしまう内戦の悲劇を物語る。
 本作を読み解く三つ目の鍵は父親が研究している蜜蜂の巣で、タイトルともなっている。劇中でも蜜蜂の社会が個人の意思や自由を失ったモダンタイムズ的なものとして言及されていて、あるいはファシズム下のスペイン、蜜蜂は声を潜める人々を象徴しているのかもしれない。
 ラストでは、ファシズム下で息をひそめる精霊=フランケンシュタインの怪物にアナが呼びかけて終わるというように、メタファーを挙げたら切りがない。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1974年6月15日
監督:ジョージ・ロイ・ヒル 製作:トニー・ビル、マイケル・S・フィリップス、ジュリア・フィリップス 脚本:デヴィッド・S・ウォード 撮影:ロバート・サーティース 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:マーヴィン・ハムリッシュ
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞

最後の大芝居があまりに上手くできている
 原題"The Sting"で、針や棘で刺すことの意。字幕では信用詐欺と訳されている。
 アカデミー作品賞ほか、監督賞・脚本賞・編集賞・美術賞・衣裳デザイン賞・音楽賞の7部門受賞。主題曲はスコット・ジョプリンの『ジ・エンターテイナー』の編曲で、本作でヒットし、現在もスタンダード・ナンバーとなっている。
 二人の詐欺師が仲間たちと大仕掛けの信用詐欺を成功させる物語で、ラストのあっと驚くどんでん返しが爽快。詐欺師を演じるのがポール・ニューマンとロバート・レッドフォードで、ポール・ニューマンの渋さが光る。
 冒頭、レッドフォードが路上詐欺を働いて、ロバート・ショウ演ずるギャングのボスの逆鱗に触れる。これが最後の仕事だった相棒の黒人詐欺師をギャングに殺され、レッドフォードはニューマンの協力を得て、ショウを罠に嵌めて大金を奪い取るという、詐欺師らしい復讐を企てるというのが大筋。
 列車の中のイカサマ・ポーカーに始まり、シカゴのビルの一室を借り切り、偽装ノミ屋を開業するという大掛かりな設定が見どころ。詐欺師の仲間たちが全員で従業員や客を装い、ただ一人のカモを騙すために大芝居を打つシーンがわくわくする。
 当日の競馬レースをノミ屋で実況放送し、ショウを騙すが、これにレッドフォードに贋金を掴まされた汚職刑事、謎の殺し屋、FBI捜査官が登場し、こちらのエピソードも巧妙に本線に絡んでくる。
 1930年代のシカゴが舞台ということで、美術賞・衣裳デザイン賞のレトロ感もいい。
 よく練られたシナリオだが、レッドフォードの自宅の所在がわかっているのになぜギャングに正体がばれないのかとか、謎の殺し屋といつ知り合うようになったのかとか、いささか都合よく筋が運びすぎないか、といった点もなくはないが、最後の大芝居があまりに上手くできていて、すべてを忘れて楽しめるエンタテイメント作品。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1974年8月3日
監督:ジョージ・ルーカス 製作:フランシス・フォード・コッポラ、ゲイリー・カーツ 脚本:ジョージ・ルーカス、グロリア・カッツ、ウィラード・ハイク 撮影:ロン・イヴスレイジ、ジョン・ダルクイン、ハスケル・ウェクスラー
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

アメリカの古き良き青春
 1960年初頭、ベトナム戦争前のアメリカの古き良き青春を描く映画。こんな時代が懐かしい、でも、もうこんな時代には戻れないという甘酸っぱさが、当時のアメリカン・ポップスのBGMに乗って甦る好篇。しかし映画的にはそれ以上でもそれ以下でもない。ノスタルジーは、取り戻す事が出来ないという点でファンタジーであり、現実世界にそれを見出せなくなれば、夢物語を求めて宇宙に飛び出すしかない。
 そんなわけで、『スターウォーズ』に起用されることになるハリソン・フォードが、この映画で主人公をカーレースで挑発する役で出ている。原題は"American Graffiti"で、「アメリカの落書き」の意。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1974年3月9日
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ 製作:ピーター・ボグダノヴィッチ 脚本:アルヴィン・サージェント 撮影:ラズロ・コヴァックス
キネマ旬報:5位

信じれば父娘になれる。公開時と変わらない面白さ
 ジョー・デヴィッド・ブラウンの小説『アディ・プレイ』(Addie Pray)が原作。アディは主人公の少女の名、プレイは父親かもしれない男モーゼの姓。
 映画のタイトル"Paper Moon"は紙の月の意味だが、劇中に出てくる移動遊園地の写真屋にある背景用セットのこと。1930年代初めの物語の時代、実際に記念写真用として流行った。ジャケットのようにアディが三日月に腰掛けて撮った写真が、劇中のキーアイテムとなるが、写真にはアディだけでモーゼは写っていない。
 Paper Moonそのものは、『ヒューゴの不思議な発明』にも描かれたサイレント時代の映画製作者ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902)に、三日月に腰掛けた女神として登場する。挿入歌として流れる"It's Only a Paper Moon"は1933年の曲で、紙の月でも私を信じれば本物に見えるといった歌詞。アディとモーゼは父娘かどうかはっきりしないが、信じれば父娘になれるというラストシーンを象徴しているのかもしれない。
 物語は、母を亡くした9歳のアディを恋人でペテン師のモーゼが叔母の家に届ける旅を描くロードムービー。母にはたくさんの恋人がいたことから、アディはモーゼを父と信じるが、モーゼはそれを否定する。そうした半父娘が、詐欺の聖書売りや時蕎麦等で旅費を稼ぐが、アディは父譲りのペテン師の才能を発揮する。アディを叔母の家に届けて別れるが・・・というところで予想通りの結末を迎えてしまうのが予定調和だが、面白さは公開の40年前と同じ。
 半父娘を、実の父娘であるライアン・オニールとテータム・オニールが演じて話題だった。そのため役のふたりもきっと父娘に違いないと観客に思わせるところが配役の妙。実の父娘のほのぼのとした演技に加え、テータムが天才的。ただこましゃくれて悪知恵に長けているところが作為的な造形で、子供らしさがなくてリアリティを欠く。 (評価:3)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1974年8月3日
監督:ポール・モリセイ 製作:アンドリュー・ブローンズバーグ 脚本:ポール・モリセイ 撮影:ルイジ・クヴェイレル 音楽:カルロ・ジッツィ

エロティシズムに鳥肌立つホラーの傑作
 アンディ・ウォーホール監修のフランケンシュタイン物。個人的にはホラーの傑作と考えているが、この手のマニアックな作品は人によって趣味や嗜好も違うし、ホラーが苦手という人もいるので評点は遠慮気味。ホラーが苦手の人に助言しておくと、スプラッター的な悪趣味ともいえるえぐいシーンがあるので要注意。公開時は確か18禁だったと思うが、エロではなく残酷シーンが引っかかったものと思う。
 この作品で初めて、ホラーに必要なのは恐怖ではなく、耽美の美学なのだということに気づかされた。その美学は、ホラーの原点といえる『ドラキュラ』に脈々と流れている。そしてホラーに欠かせないのは、餌食となる美女とエロティシズム。博士役・ウド・キアーが美女の内臓に手を突っ込むシーンでの恍惚とした表情は、人工生命誕生に向けた代償的性行為、エクスタシーでもある。 (評価:3)

製作国:イギリス、フランス
日本公開:1973年9月15日
監督:フレッド・ジンネマン 製作:ジョン・ウルフ 脚本:ケネス・ロス 撮影:ジャン・トゥルニエ 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:4位

フランス人にはやはりフランス語を話してほしい
 原題は"The Day of the Jackal"で、フレデリック・フォーサイスの同名小説が原作。
 1962年、アルジェリア独立を許したド・ゴールを暗殺してクーデターを起こそうとする極右民族組織OASは、イギリス人のプロのヒットマン・ジャッカルを雇う。ジャッカルの名前を知ったパリ警察の警視は、このコードネームを手がかりに暗殺者を追い詰めていく。
 ド・ゴール暗殺の物語なので、暗殺が失敗に終わるという結末は端からわかっている。刑事が如何に暗殺者を追い詰めていくかというサスペンスが見どころで、若干刑事がトントン拍子にジャッカルの正体に迫ってしまうという都合の良さはあるが、リアリティのある舞台設定と、暗殺者が任務遂行のために無関係の人を非情に利用し殺していくクールさが堪らなく、つい暗殺者に肩入れしてしまう。
 ジャッカルのエドワード・フォックスはイギリス人俳優、パリ警察の警視マイケル・ロンズデールはフランス人俳優で、この二人の演技が渋くて良い。
 フランスが舞台で、フランス人が如何にもなフランス人らしいゼスチャーをしているのに、話しているのが英語なのはどうにも違和感がある。 (評価:3)

製作国:フランス、イタリア、西ドイツ
日本公開:1975年5月3日
監督:ルイ・マル 製作:クロード・ネジャール 脚本:ルイ・マル、パトリック・モディアノ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:ジャンゴ・ラインハルト
キネマ旬報:7位

抒情的で甘美な映像と演出が無学な少年の悲しみを誘う
 原題"Lacombe Lucien"。主人公の17歳の少年ルシアン・ラコンブの名で、実話がもと。
 連合軍がノルマンディに上陸する1944年6月、フランス南西部のフィジャックの病院の清掃夫として働くルシアン(ピエール・ブレーズ)は、兄がレジスタンスのため父はドイツ軍捕虜となり、母は村長に養われている。一度は自分もレジスタンスに加わろうとするが、たまたまゲシュタポ本部となっているホテルの前を通ってレジスタンス摘発の手先にされてしまう。
 ゲシュタポの威光を笠に着て贅沢な生活を手に入れるが、カモにしているユダヤ人家庭の娘(オロール・クレマン)に恋し、交際が始まる。ところが娘の父(オルガー・ローウェンアドラー)が収容所送りになり、ルシアン自身が娘と祖母(テレーズ・ギーゼ)の拘束に向かうが、同行のドイツ兵を射殺、3人でのスペイン国境を目指しての逃避行となる。
 ドラマは3人が山中の廃墟で共同生活を始め、ルシアンの幸福そうなシーンで終わるが、すでに戦況は変わり、連合軍の攻撃とレジスタンスの激しい抵抗で8月25日のパリ解放へと進んでいる。ラストシーンのあと、ルシアンはレジスタンスに捕まり処刑される。
 無学な少年が偶然から対独協力者となり、無知ゆえに思いがけない特権に有頂天となり、その一方で美しいユダヤ人少女に恋し、その家族をナチから守ろうとする。
 ここに描き出されるのは無知ゆえの悲劇であり、哀れな少年の短い人生の物語で、フランスの第二次世界大戦を対独協力者の側から見直した、戦争のもう一つの真実ということになる。
 ルイ・マルの抒情的で甘美な映像と演出が、悲しみを誘う。 (評価:3)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1974年11月16日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:フランコ・クリスタルディ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、トニーノ・グエッラ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 美術:ダニーロ・ドナーティ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:1位
アカデミー外国語映画賞

抒情溢れ甘美だがフェリーニの小宇宙でしかない
 原題"Amarcord"。俗ラテン語に由来するロマンス語"a m'arcord"が訛ったイタリアのリミニ地方の方言で、「私は覚えている」の意。
 1930年代、フェリーニの故郷の港町リミニでの少年時代の思い出を綴ったもので、春の訪れを知らせる綿毛の飛ぶ日から、翌年の綿毛の飛ぶ日までの1年間を描く。
 綿毛の飛ぶ詩的な映像に始まり、春の祭り、家族、学校生活、町の人々、港を通過する豪華客船、ムッソリーニのファシスト党に歓喜する人々、それに反対し引っ立てられる父親、性の芽生え、大雪、母の病気と死、年増小町娘の結婚と濃密で思い出深い1年間の出来事が走馬灯のように流れていく。
 その抒情溢れる、ファシスト党を含めて甘美な映像は秀作であるには違いないが、日本人の目からはやはりフェリーニの小宇宙、個人的な体験、個人的な世界観でしかなく、このノスタルジーが国や文化を超えて共有化され普遍化されるまでには至っていない。
 それでもフェリーニが描き出すリミニの町の人々は十分に魅力的で微笑ましく、ユーモラスで見飽きることがない。
 主人公の少年が映画館の中で年増小町娘(マガリ・ノエル)の隣に座り膝に手を置いた時に彼女が返す言葉「何か探し物?」と、彼女が年を聞かれて返す言葉「いつも多めに答えることにしてるの。30歳よ」が洒脱。
 映像的には雪の町の中で羽を広げる孔雀がひときわ美しい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1973年9月22日
監督:ジェリー・シャッツバーグ 製作:ロバート・M・シャーマン 脚本:ギャリー・マイケル・ホワイト 撮影:ヴィルモス・ジグモンド 美術:アル・ブレナー 音楽:フレッド・マイロー
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭グランプリ

カラスを笑わせる案山子たちは遠くに去ってしまった
 原題"Scarecrow"で、案山子の意。
 ヒッチハイカーのマックス(ジーン・ハックマン)とライアン(アル・パチーノ)が道端で出会い、意気投合して二人で洗車屋を始めようとピッツバーグに向かうロードムービー。途中、マックスの妹が住むデンバー、ライアンの妻子が暮らすデトロイトに立寄る。
 マックスは短気が原因で服役し出所したばかり、ライアンは妻子を捨てた船員で子供の性別さえ知らない。
 その二人が交わす会話が本作のキーワードで、カラス(crow)を怖がらせる(scare)から案山子(scarecrow)だろう? というマックスに、ライアンは案山子はカラスを怖がらせない、おかしな顔でカラスを笑わせ、カラスは農夫は俺たちを笑わせてくれるいい奴だから、困らせることはやめようと思うんだと話す。
 前科者のマックスは文字通りのカラスを怖がらせる案山子で、ライアンはおどけてカラスを笑わせる案山子。ライアンはそれが処世術で、マックスはやがてカラスを笑わせる案山子に変わっていく。
 しかし、デトロイトでライアンの唯一の希望の光は失われてしまい、カラスを笑わせていた案山子の精神は崩壊してしまう。
 ライアンなしで洗車屋はできないマックスは、ピッツバーグの銀行に預けていた事業資金を治療費に充てるために取りに行く。そのための往復切符を買うシーンで映画は終わる。
 初めて心を許せる友を得た二人の友情物語で、ジーン・ハックマンとアル・パチーノの演技がすべての作品。二人の名演が最大の見どころで、それを見るだけで十分に楽しめるアメリカン・ニューシネマの名作。
 もっとも、40年経って観るとノスタルジーしか残らず、本作に感動した時代の精神が遠くに去ってしまったことを改めて感じる。
 カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。 (評価:2.5)

製作国:イタリア、アメリカ
日本公開:1975年11月1日
監督:リリアーナ・カヴァーニ 製作:ロバート・ゴードン・エドワーズ 脚本:リリアーナ・カヴァーニ、イタロ・モスカーティ 撮影:アルフィオ・コンチーニ 音楽:ダニエレ・パリス
キネマ旬報:2位

上半身裸で釣りバンドの倒錯した性がモヤモヤする
 原題は"Il Portiere di notte"で、夜間のフロント係の意。
 公開時には、上半身裸で釣りバンドのシャーロット・ランプリングのナチ将校姿が印象的だった。
 物語は1957年、ウィーンが舞台で、巷ではナチの残党狩りが行われている。ホテルのフロント係をしているマックス(ダーク・ボガード)もその一人で、夜な夜なホテルにナチの元将校たちが集まり、査問会での対策会議をして、過去を知る証人の抹殺をしている。
 そのホテルにランプリング演じるオーケストラの指揮者夫人ルチアが夫の演奏に付き添って現れるが、マックスたちの過去を知るユダヤ人で、しかもマックスの愛人だったという次第。
 釣りバンド姿は、ナチの将校クラブで彼女が歌うシーンで登場するが、フラッシュバックする形でマックスとルチアの過去が描かれていく演出が効果的。
 ユダヤ人少女を見初めたマックスが調教し愛人としていく中で、二人の心の絆は深まり、再会したウィーンで過去の関係が復活する。
 ルチアはナチ残党にとっては抹殺しなければならない対象で、マックスは彼女とともに未来のない道を選ぶ。そうした点では、近松の心中物の欧州現代版ともいえるが、公開時のモヤモヤ感は今見ても変わらない。それは、ルチアがなぜマックスを愛し続けているのかが理解できないためで、調教されるとそうなってしまうのか、SMがかった倒錯した性の関係は一般人には理解しがたいのか、40年経っても解明できない。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1974年9月14日
監督:フランソワ・トリュフォー 製作:マルセル・ベルベール 脚本:フランソワ・トリュフォー 撮影:ピエール=ウィリアム・グレン 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:3位
アカデミー外国語映画賞

撮影見学もできる、映画制作現場の赤裸な姿
 アカデミー外国語映画賞受賞。原題は"La Nuit americaine"で邦題の意。レンズにフィルターをかけて、日中に夜のシーンを撮る手法のことで、英語版タイトル"Day for Night"は同じ意味。
『パメラを紹介します』という映画の撮影を通して映画作りの現場を描く。劇中劇の映画監督をトリュフォー自身が演じている。いわば内幕ものであり、台詞が覚えられない女優、俳優たちのエピソードなど、実際にトリュフォーが見聞した話を基にしているといわれる。
 クランクアップまでの制作現場や俳優たちの様子は、単純に映画ファンとして観て面白い。映画人たちの素顔が表も裏もなく明かされて、どうしようもない人間たちとして描かれるが、それを含めて映画へのトリュフォーの愛が伝わってくる。同時に、このようなニースの撮影所とともにあった古き良き時代へのトリュフォーの愛惜が描かれる。
 個人的には映画人が語る映画愛というのは、他人のマスターベーションを見せられるようで好きではない。公開時には「映画に愛をこめて」がタイトルに冠せられていた。映画を熱く語りたい映画マニアには必見の作品。 (評価:2.5)

ロング・グッドバイ

製作国:アメリカ
日本公開:1974年2月23日
監督:ロバート・アルトマン 製作:ジェリー・ビック 脚本:リー・ブラケット 撮影:ヴィルモス・ジグモンド 音楽:ジョン・ウィリアムズ

ミステリーよりは軽妙でポップな探偵のキャラクタードラマ
 原題"The Long Goodbye"で、長いお別れの意。レイモンド・チャンドラーの同名小説が原作。
 原作は私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とするハードボイルドだが、同様のミステリーを期待すると裏切られる。
 監督は『M★A★S★H マッシュ』(1970)、『ナッシュビル』(1975)のロバート・アルトマンで、原作を換骨奪胎して、ミステリーというよりは軽妙でポップな探偵のキャラクタードラマに仕上げている。
 謎解きに重きを置いていないので、観客はよくわからない事件に巻き込まれ、事件の構造が良くわからないままに放り出され、結果のみを与えられることになる。
 冒頭より、愛猫に振り回されるマーロウ(エリオット・グールド)。アパートの最上階に暮らす隣人は裸でヨガをする女の子たちのグループと、シリアス感はまるでなし。
 そこに友達のテリー(ジム・バウトン)がやってきてメキシコへの逃亡を手伝うことに。戻ると刑事が現れ、テリーの妻殺しの共犯者として逮捕されてしまうが、テリーの自殺で釈放に。
 テリーの隣人の美人妻アイリーン(ニーナ・ヴァン・パラント)から失踪した小説家の夫ロジャー(スターリング・ヘイドン)の捜索を依頼されるとロジャーは精神病院に。
 テリーの金を持ち逃げされたギャングに金を預かっているのではないかと脅される一方、アイリーンとも親密になるが、ロジャーは自殺。
 テリーの妻殺しと自殺を信じられないマーロウは、背後に何かあるのではとメキシコに行くが、テリー夫婦とロジャー夫婦のW不倫が真相で、テリーが生きていることを知る。
 裏切られたマーロウが呆気なくテリーを射殺するラストシーンで、ようやくハードボイルドになるが、見どころは肩の力の抜けたマーロウの風来坊ぶり。 (評価:2.5)

パピヨン

製作国:アメリカ
日本公開:1974年3月16日
監督:フランクリン・J・シャフナー 製作:ロベール・ドルフマン、フランクリン・J・シャフナー 脚本:ダルトン・トランボ、ロレンツォ・センプル・Jr 撮影:フレッド・コーネカンプ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

奇想天外な物語が実話というのが最大の見どころ
 原題"Papillon"、フランス語で蝶のこと。主人公の綽名で、胸元に蝶の刺青があることから。アンリ・シャリエールの同名の自伝小説が原作。
 シャリエールの経歴によれば1931年、パピヨンは殺人の罪を着せられて終身刑となった。大勢の終身刑囚とともに仏領ギアナのサン・ローランに流刑となるが、当初より脱獄を企てるパピヨンは、債券偽造犯のドガと組んで刑務官を買収しようとしてジャングル奥地送り。獄吏に殺されそうになるドガを助けて銃撃を浴び、逃げ出すも捕まってサン・ジョセフ島送り。
 重禁錮刑を終えサン・ローランに戻り、再び脱走。癩病の村、インディオの村と逃避行を続けるが、修道院で院長に密告されて再びサン・ジョセフ島で重禁錮。刑期終了して、鮫の海に囲まれた断崖絶壁の悪魔島(Devil's Island)でドガと再会。脱出不可能と思われたが、ココナッツの筏で脱出、海に乗り出したところでエンドとなるが、結果、シャリエールが脱獄に成功し、ベネズエラに逃れたことは描かれない。
 本作の最大の見どころは、この奇想天外な物語が実話だということで、パピヨンをスティーブ・マックイーンが熱演。野性味あふれるマックイーンとは対照的な青瓢箪のドガを演じるダスティン・ホフマンが芸達者ぶりを見せる。
 南米の青い海が美しい。 (評価:2.5)

ダラスの熱い日

製作国:アメリカ
日本公開:1974年1月26日
監督:デイヴィッド・ミラー 製作:エドワード・ルイス 脚本:ダルトン・トランボ 撮影:ロバート・ステッドマン 音楽:ランディ・エデルマン

ケネディ暗殺謀略説を検証した再現記録映像
 原題は"Executive Action"で国家元首暗殺を意味する。
 1963年のケネディ大統領暗殺を扱った映画で、10年間に明らかになった事実を踏まえて、ケネディの政策に反対するアメリカ政府内部の陰謀説の立場から描いている。暗殺犯とされるオズワルドの過去の経歴からCIA、FBIの関与を示唆。政府内部のキーパーソンたちがケネディ暗殺の謀議を始めるところから、オズワルドのスカウト、暗殺、オズワルド殺害までを、当時のニュースフィルムやケネディ演説等をふんだんに使って描く同時進行のドキュメンタリータッチ映画。アーカイブはドラマ部分とほとんど違和感なく編集されている。
 脚本は『ジョニーは戦場へ行った』のダルトン・トランボ。
 謀議をする連中が、石油メジャー、反共主義者、軍拡主義者、ドミノ理論主義者、人種差別・白人主義者で、60年代的懐かしさに満ち満ちている。さもありなんと思いつつも、ケネディ暗殺そのものでなく、当時のアメリカやその実像、国際情勢が歴史の一コマになった感を、ケネディの娘キャロラインの駐日大使赴任のニュースを見ながら強くする。
 本作は、現代からみるとケネディ暗殺謀略説を検証した再現記録映像という範囲を出ていないが、60年代アメリカの社会と政治を遺したという点で、劇映画としてではなく映像として価値がある。 (評価:2.5)

007 死ぬのは奴らだ

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1973年7月28日
監督:ガイ・ハミルトン 製作:ハリー・サルツマン、アルバート・R・ブロッコリ 脚本:トム・マンキウィッツ 撮影:テッド・ムーア 音楽:ジョージ・マーティン

ショーン・コネリーとに比べてムーアのボンドはひ弱
 3代目ボンド、ロジャー・ムーア第1作。原題は"Live and Let Die"で、生きて葬り去れの意。シリーズ第8作。イアン・フレミングの同名小説が原作。
 ニューヨークのハーレムにあるレストランを根城にコカインを密売している、カリブ海の小国の支配者との対決の物語で、そのボス御用達のタロット占い女がボンドガール(ジェーン・シーモア)。この女をボンドが寝取って、更に怒りを買うという展開。
 死人を操るブードゥーのサムディ男爵や、殺人義手男も登場して、エキゾチックな物語となっている。
 タロット占い女はブードゥーの巫女で、処女じゃないと霊力が失われるという設定。それがもとでボンドとの関係がばれてしまうが、ジェーン・シーモアが清純美女でぴったりなのだが、演技は大根。
 本作の見どころはブードゥー的異文化色と、ジャングルの川でのモーターボートによるチェイス。空撮シーンが見逃せない。
 もう一つは新ボンドのロジャー・ムーアで、どうしてもショーン・コネリーと比較してみてしまう。
 ロジャー・ムーアは優男な分、ただの女たらしにしか見えず、コネリーのスケベオヤジっぷりには負ける。敵と対峙するときも、コネリーは簡単に伸される割にはきっと逆転するという根拠のない強さ、主役なんだから絶対に死なないという雰囲気があるが、ムーアはどこかひ弱に見えてしまい、殺されてしまうんじゃないかという不安感が漂う。
 どちらがいいかは好みだが、公開当時、ムーアのボンドに物足りなさを感じたのは、そういう点だったのかもしれない。
 もっとも見直してみると、ムーアのボンドはコミカルさが自然で、のっけからの不自然な設定もそれなりに受け入れられてしまう。アクションシーンはコネリーよりも上手い。
 演出・編集が今ひとつで、ストーリーがよくわからないが、それなりに楽しめてしまうのはムーアの演技力のためかもしれない。 (評価:2.5)

悪魔のシスター

製作国:アメリカ
日本公開:1974年8月24日
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:エドワード・R・プレスマン 脚本:ブライアン・デ・パルマ、ルイザ・ローズ 撮影:グレゴリー・サンダー 音楽:バーナード・ハーマン

シナリオは穴だらけだが、サスペンスフルな緊張感はラストまで維持
 原題は"Sisters"で、登場する姉妹はシャム双生児というのがミソ。ブライアン・デ・パルマが監督で、『殺しのドレス』(1980)系の作品だが制作は本作の方が早い。
 新聞記者の女が窓越しに隣のアパートで起きた殺人事件を目撃する。警察を呼んでアパートの部屋を調べるが死体も殺人の痕跡もない。死んだ男が注文した誕生ケーキ、運び出されたソファーがカギを握るというミステリー劇だが、冒頭から犯行の様子を見せているので、どちらかといえばサスペンス劇。
 目撃後は画面2分割で犯人側と目撃者側の二つの動きを同時進行で見せる、デ・パルマらしい演出が見どころ。
 ミステリーはむしろ犯人の女の正体にあって、シャム双生児という設定を生かすために都合の良い病理学的設定を盛り込んでいるため、シャム双生児に対する偏見と配慮に欠けているのが気になる。
 事件の真相を知った女性記者が暗示にかけられるシーンも、謎解きの説明の都合の感があり、私立探偵が田舎の駅のプラットホームにソファーを見張る意味不明のシーンと併せて、終盤はやや腰砕け。考えオチに逃げて誤魔化している感がある。
 令状なしに家宅捜索したり、犯人の女が男を誘った理由や薬、ケーキの伏線が回収しきれてないなど、シナリオ的には穴だらけだが、サスペンスフルな緊張感は維持したまま最後まで退屈させずに見せるのは、さすがデ・パルマ。 (評価:2.5)

ロリ・マドンナ戦争

製作国:アメリカ
日本公開:1973年11月3日
監督:リチャード・C・サラフィアン 製作:ロドニー・カー=スミス 脚本:ロドニー・カー=スミス、スー・グラフトン 撮影:フィリップ・H・ラスロップ 音楽:フレッド・マイロー

憎悪と些細な偶然から破滅的な暴力に至る人間の性を描く
 原題"Lolly-Madonna XXX"で、架空の娘ロリ・マドンナからのハガキの署名。XXXは、キス・キス・キスの意。スー・グラフトンの小説"The Lolly-Madonna War"が原作。
 テネシーの田舎が舞台で、フェザー家とガットシャル家はそれぞれに幸せな生活を築いていたが、牧草地の所有権を巡る争いをきっかけに対立するようになる。その争いに巻き込まれるのが、通りがかりの娘ルーニー(シーズン・ヒューブリー)で、ガットシャル(ロバート・ライアン)の次男ルーディー(キール・マーティン)が架空の娘からのハガキでフェザー(ロッド・スタイガー)の長男(スコット・ウィルソン)と三男(エド・ローター)を釣って、留守になった蒸留所を襲撃する。
 二人はルーニーをロリ・マドンナと誤解して拉致。二つの事件をきっかけに、ガットシャル家の末娘(ジョーン・グッドフェロー)をレイプ、牧草地への放火、銃撃戦とエスカレートし、壮絶な殺戮戦となる。
 憎悪と些細な偶然から、破滅的な暴力に突き進んでしまうという人間の性を描くが、ストーリー的には破滅のプロセスという未完結な形で終わるため、ややストレスが残る。
 テネシーの田舎とはいえ、法よりも私刑が優先するという西部開拓時代の時代錯誤のインパクトが凄い。
 ミスを犯した息子を殺してしまうフェザーの狂犬ぶりが凄いが、かつて可愛がっていた息子の嫁を事故で死なせてから頭の歯車が狂ってしまったという言い訳で、不条理劇を取り繕っている。 (評価:2.5)

ロビン・フッド

製作国:アメリカ
日本公開:1975年7月19日
監督:ウォルフガング・ライザーマン 製作:ウォルフガング・ライザーマン 脚本:ラリー・クレモンス 音楽:ジョージ・ブランス

『ロビン・フッド』に『狐物語』を配役した楽しい漫画映画
 原題"Robin Hood"で、中世イングランドの伝説上の人物。
 近代になって定型となっているロビン・フッドの物語の登場人物に、フランスの動物説話『狐物語』の擬人化された動物を配役したアニメーションで、主人公の義賊ロビン・フッドと恋人マリアンに狐、相棒のリトル・ジョンに熊、十字軍に遠征するリチャード1世と弟ジョン王子にライオン、ノッティンガムの代官に狼が当てはめられている。
 リチャード1世の遠征中にジョン王子と代官がノッテンガムの動物たちから税金を収奪。これにロビン・フッドが立ち向かい、城の金貨を盗んで動物たちに返すが、気づいたジョン王子が弓の大会を開催。優勝賞品のマリアンのキスに弓の名手ロビン・フッドが現れないわけがないと罠を仕掛け、ロビン・フッドとの戦いに…という物語。
 最後はリチャード1世が帰還してノッテンガムに平和が戻り、ロビン・フッドとマリアンはめでたく結婚というハッピーエンド。動物漫画映画らしいユーモラスで楽しい作品になっている。 (評価:2.5)

シンドバッド黄金の航海

製作国:アメリカ
日本公開:1974年12月21日
監督:ゴードン・ヘスラー 製作:チャールズ・H・シニア、レイ・ハリーハウゼン 脚本:ブライアン・クレメンス 撮影:テッド・ムーア 特撮:レイ・ハリーハウゼン 音楽:ミクロス・ローザ

アナログ時代の特撮を極めた映像は一見の価値あり
 原題"The Golden Voyage of Sinbad"で邦題の意。レイ・ハリーハウゼンの特撮によるシンドバッド三部作の第2作。
 前作から15年経って、特撮と合成技術は格段に進歩している。
 航海中に黄金で作られた海図の一部を手に入れたシンドバッドが、マラビア王国宰相の持つ海図の一部とともに海図の示す黄金の待つ孤島に向かう。これを狙うのが魔術師で、海図を奪い、島の地中に眠る3つ目の海図を手に入れ、姿を隠すことのできる暗黒の盾を得る。
 シンドバッドは暗黒の盾の魔術師を倒し、お宝・富の王冠を宰相にプレゼントし、メデタシメデタシという物語。
 島の土人や美女も登場し、ラストにはシンドバッドと美女のキスシーンも用意されて、アメリカ映画らしいハッピーエンドになっているが、見どころは特撮アニメーションで、冒頭から蝙蝠の羽の生えた悪魔型の怪鳥が登場、船首の動く木像や孤島ではカーラやケンタウルスやグリフィンまで登場して、アラビアンナイトなのにインド神話もギリシャ神話もごっちゃ混ぜというエンタテイメントに仕上がっている。
 孤島にあるのは仏教遺跡で、この辺のいい加減さはオリエンタルであれば何でもOKという制作姿勢に目を瞑るしかないが、アナログ時代の特撮を極めた映像は一見の価値あり。 (評価:2.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1974年1月12日
監督:イングマール・ベルイマン、脚本:イングマール・ベルイマン、撮影:スヴェン・ニクヴィスト
キネマ旬報:2位

内省的映画に見る喜びを見いだせないと苦痛
 原題は"Viskninger Och Rop"で邦題の意。
 19世紀末。大邸宅に住む独身女が病臥し、死を前にした苦しみの中にいる。その彼女を見舞う姉と妹、十数年に渡って献身的に世話をしてきた女中。その4人の女の相克を心理描写を中心に描くが、退屈感は否めない。
 簡単にいえば邸の女主人の遺産(といっても邸だけだが)目当ての自己本位な姉妹と、ある種恋人のような関係にあった無欲な女中の精神性の対比で、汚れなき精神の女主人は見舞いに来た姉妹との再会を純粋に喜ぶ日記を遺す。
 ベルイマンお得意の人間の醜い内面を抉り、あぶり出しながら、打算と自己愛、俗世の欲望に塗れた醜い人間と、一方で精神性の高い愛と苦悩に溢れた人間、を描く。
 ここでは無垢な女主人と、愛に対価を求めない女中の「叫びとささやき」が、沈黙に沈んでしまうというペシミスティックな帰結を迎えるが、映画自体は決して楽しめるものではない。こうした内省的映画に見る喜びを見いだせないと、ある意味、苦痛かもしれない。
 映画はカラーで、赤を基調としていて、それが人間の中を流れる血の色として場面転換や心理描写に用いられ、芸術映画らしさを醸し出している。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1974年7月13日
監督:ウィリアム・フリードキン 製作:ウィリアム・ピーター・ブラッティ 脚本:ウィリアム・ピーター・ブラッティ 撮影:オーウェン・ロイズマン 音楽:マイク・オールドフィールド、ジャック・ニッチェ
キネマ旬報:10位
ゴールデングローブ作品賞

今見ても懐かしいグリーンピースのゲロの醜悪ホラー
 原題は"The Exorcist"、ウィリアム・ピーター・ブラッディの同名小説が原作。悪魔払いの祈祷師のこと。
 冒頭、イラクでの遺跡発掘調査があって思わせぶりだが、その後のストーリーには影響しない。このメリン神父と精神医学者のカラス神父、悪魔憑きの少女の3つのストーリーが並行し、やがて1本にまとまり、神父vs.悪霊パズズとの戦いになる。パズズはアッシリアの悪霊。
 公開時にも言われたことだが、キリスト教的解釈のホラー映画というのは、クリスチャンの西洋人には怖いのかもしれないが、八百万の魔物・悪霊を信奉する日本人にはちっとも怖くない。同じ理由で、アカデミー脚色賞を受賞したストーリーも何のひねりもなくて退屈だし、ポルターガイスト的に暴れまくる悪霊など地震に比べれば造作もない。悪霊を退治したのかしなかったのか判然としないラストもイマイチ。
 この映画の見どころは、少女が吐き出すグリーンピースのゲロで、日本ではこれが最大の話題になった。他に悪魔に憑かれた少女のメーキャップ・演技・360度回転する首。つまり、日本では単にゲテモノ・ホラーでしかなかった。
 少女役リンダ・ブレア14歳の化け物演技はすごい。もっとも股を広げたfuck meとかの下品な演技は、今見ても少女にこんな演技や台詞を言わせてよいものか、制作者の方がよほど悪魔的ではないかと思うが、リンダもまあそれなりの女優となった。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1974年10月12日
監督:ジョン・ミリアス 製作:バズ・フェイトシャンズ 脚本:ジョン・ミリアス 撮影:ジュールス・ブレンナー 美術:トレヴァー・ウィリアムズ 音楽:バリー・デ・ヴォーゾン
キネマ旬報:9位

FBI捜査官はなぜ拳銃自殺したのか? が欠落している
 原題"Dillinger"で、1930年代のアメリカの銀行強盗ジョン・デリンジャーとFBI捜査官パービスの対決を描く実話もの。
 冒頭、銀行窓口でスマートに強盗を働くシーンから始まり、デリンジャーを演じるウォーレン・オーツもまたよく雰囲気を出していて、この大胆で鮮やかな強盗手口が見ものとなるが、所詮強盗は強盗でしかなく、FBIとのチェイスを見せられてもドラマ性が希薄なために、銃撃シーンでバリエーションを見せようとしても次第にマンネリになり、飽きてくる。
 デリンジャー自身、女を手に入れて連れ回すくらいしかドラマはなく、追うパービスも正義感と職務に忠実なだけでドラマはない。
 次々とパービスの手に落ちるギャングたちと、パービスの追及を逃れ続けたデリンジャーが、ついに追い詰められて銃殺されるラストで物語は終わるが、その後の字幕で、FBI捜査官を辞めたパーピスが自殺したことを知らされる。
 なぜパーピスはデリンジャー射殺後にFBI捜査官を辞めたのか? なぜ拳銃自殺したのか? という問題意識から制作されていれば、単なるギャング対FBI捜査官のアクション映画ではなく、もっと違った作品になったかもしれない。 (評価:2)

ビリー・ザ・キッド 21才の生涯

製作国:アメリカ
日本公開:1973年10月6日
監督:サム・ペキンパー 製作:ゴードン・キャロル 脚本:ルディ・ワーリッツァー 撮影:ジョン・コキロン 音楽:ボブ・ディラン

コバーンの哀愁と西部劇へのノスタルジーだけでは辛い
 原題"Pat Garrett and Billy the Kid"で、物語の中心となる保安官と無法者の2人の名。
 保安官パット・ギャレット(ジェームズ・コバーン)とビリー・ザ・キッド(クリス・クリストファーソン)は元ガンマン仲間の親友同士という設定で、保安官になったギャレットがお尋ね者のビリーにメキシコに逃げるよう勧告するが、ビリーが無視したために逮捕。しかし保安官助手を射殺して脱走したために、ギャレットが仕方なく追跡するという展開。
 ギャレットはビリーのメキシコ逃亡を願いながらの遅々とした追跡で、ビリーも国境を越えずにうろうろしているうちにギャレットが追い付き、古巣の町に戻ったビリーを射殺。町の子供に石を投げられながら去るというエンド。
 冒頭からペキンパーらしいバイオレンスシーンが続き、絞首台で遊ぶ子供たちなど、寒々とした乾いたシーンが続くが、追跡に移ってからはバイオレンスシーンにも飽き、ビリーの逃亡を願って追いかけるのではドラマに迫力を欠くのは必至で、昔語りのダラダラとしたエピソードが続いて締まりがない。
 どうせフィクションなのだから、ラストシーンはギャレットvsビリーのクライマックスを期待するものの、あっさりと射殺され、友を失ったコバーンの哀愁と西部劇へのノスタルジーだけでは、ドラマとして辛い。
 エイリアス役で出演しているボブ・ディランが音楽を担当しているが、歌の歌詞もひどければ声もひどい。 (評価:2)

モン・パリ

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1973年12月15日
監督:ジャック・ドゥミ 製作:レイモン・ダーン 脚本:ジャック・ドゥミ 撮影:アンドレア・ウィンディング 音楽:ミシェル・ルグラン

健気で可愛らしい男妊婦をマストロヤンニが好演
 原題"L'evenement Le Plus Important Depuis Que L'homme A Marche Sur La Lune"で、月面を歩いた男以来のもっとも重大な出来事の意。
 モンパルナスに同棲しているバツイチ男(マルチェロ・マストロヤンニ)と子連れ女(カトリーヌ・ドヌーヴ)の結婚に至るまでの物語で、妊娠がそのきっかけとなるが、妊娠したのは何と男の方という、いかにもおフランスなコメディ。
 男に子宮はあるのかとか、どうやって妊娠したのかとか、どうやって出産するのかといった疑問は、コメディなので問わないにしても、トンデモ設定なので話の内容は推して知れる。
 オープニングは1969年のアポロ11号クルーの月面散歩シーンから始まり、タイトル通り、それ以来の珍事ということで、男は一躍マスコミの寵児となる。
 要は男も女と同じように妊娠体験をすれば、もっとジェンダーについての理解が深まるというもので、健気で可愛らしい男妊婦をマストロヤンニが好演する。
 このマストロヤンニの演技が本作の最大の見どころで、もう一つは、それほど裕福そうには見えないのに、ドヌーヴがシーンごとにセレブな衣装を替え、ファッションショーを演じていること。
 結末は見てのお楽しみだが、肩が凝らないパリ的暇つぶしにもってこいの作品となっている。
 邦題はモンパルナス劇場のシーンでミレーユ・マチューが歌う曲"Paris Perdu"(邦題、モン・パリ)から。 (評価:2)

さらば冬のかもめ

製作国:アメリカ
日本公開:1976年11月3日
監督:ハル・アシュビー 製作:ジェラルド・エアーズ 脚本:ロバート・タウン 撮影:マイケル・チャップマン 音楽:ジョニー・マンデル

センスがシンクロできないとコメディにならない
 原題"The Last Detail"で、最後の特殊任務の意。ダリル・ポニックサンの同名小説が原作。
 たった40ドルを盗んだだけなのに、それが司令官夫人の関係する募金だったために懲役8年の服役を言い渡された若い海兵(ランディ・クエイド)を、二人の海軍兵曹がノーフォーク海軍基地からポーツマス海軍刑務所まで護送するという物語。
 2日で済む護送に1週間の時間が与えられ、SPが忠実に任務を遂行せずに休暇の如く物見遊山してしまうという設定を素直に受け入れられれば、人情コメディとしてそれなりに楽しめるが、作劇上の無理やりな設定だとこれを受け入れられないと、最後まで白けた気分に付き合わされる。
 ハル・アシュビーの他作品同様、軍隊を戯画化して皮肉っているのは容易に想像がつくが、ホテルでの乱痴気騒ぎや、若い海兵の筆おろしのエピソードとかは、これまたハル・アシュビーの他作品同様にセンスがシンクロできないとコメディにもならない。
 SPの海軍兵曹を ジャック・ニコルソンとオーティス・ヤングが演じ、全編ほぼ演技派ニコルソンの一人舞台となっているが、その後に典型となるニコルソンらしい演技といえばそうもいえるが、いささか過剰でクドイ演技になっているので、若干辟易するかもしれない。
 ナムミョウホレンゲキョとcharm(字幕はお題目)を唱えるアメリカの創価学会が登場するのがネタ。 (評価:2)

燃えよドラゴン

製作国:香港、アメリカ
日本公開:1973年12月22日
監督:ロバート・クローズ 製作:フレッド・ワイントローブ、ポール・ヘラー 脚本:マイケル・オーリン 撮影:ギルバート・ハッブス 音楽:ラロ・シフリン

伝説的な駄作だが、ヌンチャクとアチョーに痺れるかも
 原題は"Enter the Dragon"、中国語タイトルは"龍爭虎鬥(闘)"。公開当時、一世を風靡したカンフー映画で、ブルース・リーの名とともに、アチョー、ヌンチャク、テーマ曲が大流行。公開はリーの急逝後で、死因は薬物中毒とも言われた。
 伝説的映画だが、映画としてはB級で凡庸。カンフーの達人で悪の親玉が私有する島で開かれる格闘大会にリーが乗り込み、秘密基地と化した島の謎を暴き、親玉を成敗。それにリーの私怨が絡むという、パターン化された工夫のない物語。延々と格闘シーンが続くが、よく見るとリアリティに欠けるような技もあったりして、時代劇の殺陣とさほど変わらない。それだけでは飽きるというわけで、場面転換で変化を繕うが結構退屈。
 見逃せないのは有名はヌンチャクのシーンで、この映画はこのためにあると言っても良い。アチョーの奇声もリーの動きとともに観察していると、その原型はチンパンジーやゴリラ等の霊長類にあることがわかる。森の中で戦えば、リーは猿とさほど変わらない。
 それでもリーの筋肉質の体やカンフーの動きは観ていて楽しく、テーマ曲が掛ると俄然、リーとともにアチョーと叫びたくなる。
 香港の港のシーンは風景としてなかなか良く、島での宴もオリエンタル。相撲取りが土俵でダンスを踊ったりとアメリカ人好みの異国情緒と勘違いのオンパレードが楽しめるし、秘密基地の中は突っ込みどころ満載。 (評価:2)

ファンタスティック・プラネット

製作国:フランス、チェコスロバキア
日本公開:1985年6月29日
監督:ルネ・ラルー 製作:シモン・ダミアーニ、アンドレ・ヴァリオ=カヴァリョーネ、アナトール・ドーマン 脚本:ローラン・トポール、ルネ・ラルー 撮影:ルボミール・レイタール、ボリス・バロミキン 音楽:アラン・ゴラゲール 作画:ローラン・トポール

手書きアニメーションにしたところが唯一の見どころ
 原題は"La Planète sauvage"で野生の惑星の意。邦題は英題"Fantastic Planet"(風変わりな惑星)から。ステファン・ウルのSF小説"Oms en Série"(オム族)が原作。
 オム族は人間で、巨人のドラーグ族からは虫けらのような扱いを受けている未開人という設定。
 ドラーグ族の少女ティバに飼われた主人公テールが、一緒に学ぶうちに博識になり、家出してオム族を教化。野生の惑星への脱出を図り、瞑想を習慣とするドラーグ族の弱点を知る。両族は和解して共存を目指すという物語で、自然界に君臨する高等生命体・人間の立場を逆転させるという、かつてよくあった反文明的自己反省もの。
 ドラーグ族対オム族は、人間対蟻のように描かれるが、これを手書きアニメーションにしたところが唯一の見どころで、シナリオ的にも美術的にも演出的にも突出したものはなく、アニメーションであるという以外に楽しめるものはない。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1974年9月7日
監督:ジョン・ハフ 製作:アルバート・フェネル、ノーマン・T・ハーマン 脚本:リチャード・マシスン 撮影:アラン・ヒューム 音楽:ブライアン・ホジソン、デライア・ダービシャー

イギリス人の気分で幽霊屋敷3泊4日ツアーを楽しむノリ
 原題"The Legend of Hell House"で、地獄の家の伝説の意。リチャード・マシスンのホラー小説"Hell House"が原作。
 昔、惨殺パーティがあったという富豪邸での心霊現象調査のために、物理学者(クライヴ・レヴィル)、女心霊霊媒師(パメラ・フランクリン)、物理霊媒師(ロディ・マクドウォール)の3人がやってくるという設定だが、それだけでは話がつまらないので、物理学者の妻(ゲイル・ハニカット)が役立たずのお色気要員として参加するというB級ホラーらしい設定。
 除霊が目的の割には期限が限られていたりと設定は相当にご都合主義の上に、今一つ怖くないという致命的欠陥があるが、幽霊屋敷ツアーが好きなイギリス人の気分で、幽霊屋敷3泊4日を楽しむノリかもしれない。
 最初に女霊媒師が交霊してポルターガイスト現象を起こし、次に物理学者の妻が操られて淫婦となり、再び女霊媒師に交合して憑依し、それから順番に2人が死ぬ。一応、物理学者が科学的に除霊して終わるが、生き残るのは若干意外な組み合わせ。見どころはと問われて、思い浮かばないのがホラーとして辛いところか。ロディ・マクドウォールが日本生まれというのがネタ。 (評価:2)

アマゾネス

製作国:イタリア、フランス、スペイン
日本公開:1973年12月15日
監督:テレンス・ヤング 製作:ニーノ・クリスマン、グレゴリオ・サクリスタン 脚本:テレンス・ヤング、ディノ・マイウリ、マッシモ・デ・リタ、シャルル・スパーク 撮影:アルド・トンティ、アレハンドロ・ウジョア 音楽:リズ・オルトラーニ

女豹も優しくしてやれば子猫になるという映画
 原題" Le guerriere dal seno nudo"で、裸の胸の戦士たちの意。
 ギリシャ神話の女だけの部族アマゾネスに題材をとった作品で、騎馬民族で子を産むときだけ多民族の男と交わったなどの言い伝えを生かしている。
 四年に一度の女王選びのためにオリンピックから始まり、ギリシャ人との交合を中心に物語が進み、女王がギリシャ王との間に産んで捨てた男の子が、ギリシャで生きていることを知って会いに行く。
 それを女王の拉致と勘違いしたアマゾネス軍とギリシャ軍との間に戦闘が起き、アマゾネス軍は壊滅するが、女王とギリシャ王の間に恋が生まれ、全滅の危機が救われる。
 もっとも、両民族が仲良くなって、アマゾネスがギリシャ人と融合したのかどうかは曖昧で、男と女の喧嘩が愛でうやむやになるという結末となっている。
 制作年代はウーマンリブ華やかし頃で、テレンス・ヤングがそれに時代性を重ねたことは容易に想像できる。
 当時地上波で観たが、改めて観ると、原題通りの半裸シーンが延々と続き、全裸からヘアヌード、セックスシーンもかなりあって、大幅にカットされていたことに気づく。
 ウーマンリブに構想を得ているだけで、アマゾネスたちは基本はビキニ姿で、なぜか若い美女ばかりというセクシーもの。完全に男視点で作られている。
 女性解放を叫ぶアマゾネスたちも、本音は男とセックスが好きで、男が優しくしてやれば簡単に子猫ちゃんになるという、しょうもない作品をテレンス・ヤングは作った。 (評価:1.5)