海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1969年

製作国:アメリカ
日本公開:1970年2月7日
監督:ジョージ・ロイ・ヒル 製作:ジョン・フォアマン 脚本:ウィリアム・ゴールドマン 撮影:コンラッド・L・ホール 音楽:バート・バカラック
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞

時にはお洒落に映画を見たい大人のためのメルヘン
 原題は"Butch Cassidy and the Sundance Kid"で、この映画の主人公であり、19世紀終わりから20世紀初頭に実在した西部の無法者二人の名前。
 コンラッド・L・ホールがアカデミー撮影賞を受賞しているが、映像が素晴らしい。サンダンスの早撃ちのシーン、列車爆破と札束が乱舞するシーン、荒野での逃避行、ボリビアで列車を降りるシーン、オープニング、中段のスライド、ラストのストップモーションも効果的。そして、バート・バカラックの名曲「雨にぬれても」をバックにした自転車のシーン。全編に隙がなく、美的で詩情溢れる映画。
 サンダンスの「俺は泳げない」、ブッチの「人を撃ったことがない」といった台詞も気が利いていて、二人の友情を抒情的にユーモラスに描く。とにかく洒落た大人のメルヘン。メルヘンに理屈っぽい解釈や批評は野暮というもの。 (評価:5)

製作国:アメリカ
日本公開:1969年10月18日
監督:ジョン・シュレシンジャー 製作:ジェローム・ヘルマン 脚本:ウォルド・ソルト 撮影:アダム・ホレンダー 音楽:ジョン・バリー 美術:ジョン・ロバート・ロイド
キネマ旬報:2位
アカデミー作品賞

都会のミッドナイトで孤立する人間を描いた名作
 原題"Midnight Cowboy"。midnightが単に時間ではなく、主人公のcowboyの精神的な孤独感を表しているアメリカン・ニューシネマの名作。原作はジェームズ・レオ・ハーリヒーの同名小説。
 テキサスの片田舎に住む青年ジョー(ジョン・ヴォイト)が、ゲイの蔓延るニューヨークに行けば、女たちに春を売ることで金持ちになれると思い込んで上京する話。テレビや雑誌の情報だけを信じて都会に憧れ、東北・北海道の若者が上京したかつての日本ともアナロジーを為していて、アメリカでも同じなんだと公開当時思った記憶がある。
 ジョーはそうした勘違い青年で、カウボーイハットに代表されるウエスタンスタイルでニューヨークの町にやってくる。カウボーイは南部では男らしさの象徴で、そのかっこ良さに女が痺れないわけがないと考え、鏡の前でポーズを決める。彼が乗り込むのはニューヨーク行の長距離バスで、ダラスを経由していくことを考えれば、おそらくはヒューストンあたりを出発したのであり、2000キロメートル以上を走る。
 その距離感はジョーの周囲の乗客が次々入れ替わっていく様子で表されるが、そうした長距離バスでの上京を含めて、自分が田舎者であることすらわからないほどの田舎者であるということが示され、ニューヨークという町のmidnightに佇むcowboyの物語となる。
 勘違いしたままの彼は客だと思った女に逆に金をむしられ、都会人のカモとなってしまう。その一人がホームレスのラッツォ(ダスティン・ホフマン)だが、脚の悪い彼は文無しになったジョーを相棒にして盗みで飢えをしのぐ。
 そうした二人の夢は暖かいマイアミで再出発することで、ゲイの金持から金を奪ったジョーは、病気のラッツォと再び長距離バスでマイアミ行の切符を買う。
 こうしてニューヨークという大都会のごみ溜め、midnightでつま弾き者になっている二人が身を寄せ合う友情が描かれるが、二人が都会のごみであるように、本作ではニューヨークの薄汚れた裏側しか出てこない。
 そうした都会の暗部とmidnightに孤立する人間を描いた秀作だが、それは現代の日本にもあるmidnightでもある。
 ジョーとラッツォはそうした都会のmidnightを抜け出すためにマイアミに向かおうとするが、それが夢でしかないことがやりきれない悲しみで終わり、遺物のcowboyジョーは新しい服を身に着けながら憧れの都会から零れ落ち、漂流していく。
 ソルトの田舎者ぶりと、ホフマンの屑っぷりが上手い。ソルトはアンジェリーナ・ジョリーのパパ。 (評価:4.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1970年1月31日
監督:デニス・ホッパー 製作:ピーター・フォンダ 脚本:デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、テリー・サザーン 撮影:ドン・キャンバーン 音楽:ザ・バーズ
キネマ旬報:1位

時代の空気を描ければ、それは歴史映画となる
 ドラッグ、セックス、バイクといった当時のアメリカ風俗を描く映画、と言ったら安っぽく聞こえるかもしれない。しかし、ベトナム戦争、人種差別、ヒッピーといったアメリカの大きな転換点を力まず、ありのままに描いたことで、この映画は優れた歴史映画となった。もちろん、この映画自体が、ハリウッド映画の大きな転換となったアメリカン・ニューシネマの代表作という点でも歴史的価値を持つ。
 この映画が秀逸なのは、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーのふたりが訪れる村や街に暮らす人々とのふれあいやちょっとした台詞にある。大地に根を張る農民、原始生活を営むヒッピー、保守的な南部の町、売春婦とのカーニバル。とりわけ地方弁護士のジャック・ニコルソンと自由について語るシーンがいい。メイキングを見ると、この映画は俳優たちが実際にマリファナをやりながら撮影されており、それが時代の雰囲気とリアリティを醸し出している。
 結局、既成の価値観からの束縛を離れ自由であろうとする若者たちと、本当に自由であることを認めようとしない「自由の国」アメリカの社会との相克の中で、ふたりの若者が自由を目の前にしてデリートされてしまうのだが、若者の目指す自由が曖昧模糊として具体性を持たないということと、今改めて観ると、破滅的な結末があまりに安直ではないかという気がする。
 この映画は、当時のアメリカの状況についての予備知識が必要。それにしても、若きニコルソンの演技には舌を巻く。"Easy Rider"は、気ままにバイクを走らせる者、のんびり生きている者という意味。 (評価:3.5)

ワイルドバンチ

製作国:アメリカ
日本公開:1969年8月16日
監督:サム・ペキンパー 製作:フィル・フェルドマン 脚本:ウォロン・グリーン、サム・ペキンパー 撮影:ルシアン・バラード 音楽:ジェリー・フィールディング

乾いた暴力描写に感じるペキンパーの美学
 暴力描写で名声を得たサム・ペキンパーが本領を発揮した作品で、公開当時はあまり注目されなかったが、その後の映画のリアルな暴力描写に影響を与えた。メキシコ革命の時代を背景とした西部のアウトローたちの話だが、歴史学習は必要ない。The Wild Bunchは荒くれ者といった意味。
 とにかく圧巻なのは冒頭とラストの銃撃戦。得意のスローモーションとスクリーンいっぱいに広がる殺戮の嵐。それを見るだけでも価値があるが、暴力シーンの嫌いな人には薦めない。
 人間に内在する暴力願望を情緒なく無感動に延々と描かれるのを見ると、やくざ映画にしてもマフィア映画にしても、暴力描写を多用する殺人映画にしても、ほとんどは情緒的でウェットであることに気づかされる。暴力には理由があって、行使する者の感情があって、ドラマがある。しかし、ペキンパーの描く暴力には理由も感情も必要ではなく、感情の欠落と思考の断絶だけがある。
 そこにペキンパーの自己崩壊していく暴力の美学があるが、ペキンパーも情緒やドラマを描こうとしていないわけではない。しかしながら、そのエピソードは退屈な上に説得力がなく、得手でないことがよくわかる。ディレクターズカット版145分は長い。 (評価:3)

製作国:イタリア、西ドイツ、スイス
日本公開:1970年4月11日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作:アルフレッド・レヴィ 脚本:ニコラ・バダルッコ、エンリコ・メディオーリ、ルキノ・ヴィスコンティ 撮影:アルマンド・ナンヌッツィ、パスクァリーノ・デ・サンティス 音楽:モーリス・ジャー
キネマ旬報:9位

説明不足と婉曲表現でわかりにくいのが難点
 原題"The Damned (Götterdämmerung)"で、永遠に呪われた者(神々の黄昏)の意。
 1933年のドイツが舞台。鉄鋼王のプロイセン貴族一族が、ナチズムの台頭の中で陰謀に巻き込まれ、ナチの手中に落ちていく物語。
 背景になるのがナチの軍事組織・突撃隊とこれにとって代わろうとする親衛隊との抗争で、軍需産業である一族の掌握を図る親衛隊員(ヘルムート・グリーム)が、戦死した男爵未亡人(イングリッド・チューリン)の愛人(ダーク・ボガード)に当主ヨアヒム(アルブレヒト・シェーンハルス)を殺害させ、その罪を姪(シャーロット・ランプリング)の夫の反ナチ主義者(ウンベルト・オルシーニ)に負わせ国外に追う。
 愛人は製鉄所の社長となり親衛隊の意向で陸軍に武器を提供するが、これに不満を持つ突撃隊のヨアヒムの甥(ラインハルト・コルデホフ)が男爵の息子(ヘルムート・バーガー)の弱みを握ったのをきっかけに実権を奪おうとしたため、愛人は親衛隊と共に「長いナイフの夜」に突撃隊もろともヨアヒムの甥を虐殺する。
 親衛隊員はヨアヒムの直系の男爵の息子を手懐けて親衛隊に入れ、目障りとなった男爵夫人と愛人を殺させ、製鉄所を掌中に収める。
 当主ヨアヒムは製鉄所と一族の生き残りを図るために、ヒトラーを嫌いながら協力をするという現実主義者。これにナチ、反ナチ、ノンポリ、エゴイストが絡むという社会の縮図で、一族を通してドイツがナチの手に落ちていく過程を描く。
 歴史的・社会的背景が複雑な割りには説明不足で、各シーンも婉曲表現が多いため、全体にわかりにくいストーリーになっているのが最大の難点。
 ブルジョア家庭が舞台だけに、美術・衣装を中心にヴィスコンティの映像は華やかで、神々の黄昏に相応しくデカダンスに溢れている。
 ヨアヒムの誕生日に食卓に並んだ12人が、終盤では5人に減る対比がヴィスコンティらしい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1969年12月20日
監督:ピーター・イエーツ 製作:ベン・カディッシュ 脚本:ジョン・モーティマー 撮影:ゲイン・レシャー 音楽:クインシー・ジョーンズ
キネマ旬報:9位

野良猫のように宿探しをするアーバンな男女関係
 原題"John and Mary"で、劇中で描かれるカップルの名。
 金曜日の夜、出会い系バーで知り合った男女が互いに一目惚れし、男の部屋で一夜を共にする。土曜日の朝に目覚め、昨夜の出来事を回想しながら互いの正体と心を探り合い、二人が同棲を決意するまでの1日を描くラブ・ストーリー。
 本作の見どころは、出逢って相手を好きになった男女が、相手が自分のことをどう思っているのかという最大の問題に直面し、手探りしながら相手の本心と自分に適った相手なのかどうかを見極めるという、恋愛においては誰もが経験する心理過程を丁寧に描いていることにある。
 そうした点では仮想恋愛シミュレーションであり、本作の発端となる一夜を共にしたかどうかは関係ない。
 面白いのは、ジョンの元カノが結婚して部屋を出て行った直後で、一方のメリーは不倫相手と別れたばかりで、それぞれの経験を相手に重ねながら、恋愛に関しては二人が対等な立場にあるというアメリカ進歩派の価値観に則っていることと、しかも女は野良猫のように宿探しをして男の部屋に同居するという、アーバンな男女関係が描かれていること。
 二人に内心をモノローグで語らせるという手法が若干あざといが、二人ともナイーブな好青年として描かれていて、ハッピーエンドを含めて微笑ましい。
 この微笑ましいカップルを演じるのがダスティン・ホフマンとミア・ファローで、意外性のないキャスティングが不満といえば不満だが、二人の期待に違わぬ演技がやはり大きな見どころとなっている。 (評価:2.5)

勇気ある追跡

製作国:アメリカ
日本公開:1969年6月21日
監督:ヘンリー・ハサウェイ 製作:ハル・B・ウォリス 脚本:マーガリット・ロバーツ 撮影:ルシアン・バラード 音楽:エルマー・バーンスタイン

優しいオジサンのジョン・ウェインが見どころ
 原題"True Grit"で本当の勇気、気概の意。チャールズ・ポーティスの同名小説が原作。
 14歳の少女(キム・ダービー)が父を殺した男に復讐するために、連邦保安官(ジョン・ウェイン)を雇って追跡する話で、これに同じ男を追っているテキサス・レンジャーの男(グレン・キャンベル)が加わる。この3人を軸に物語は展開するが、ストーリーそのものは単純。
 勝気で男勝りな少女と、逮捕よりも射殺を優先する実戦的だが評判の悪い昔気質の保安官の2人のキャラクターがよく、62歳のジョン・ウェインがじゃじゃ馬娘に手こずりながらも、父親のように温かく接する渋いオジサンを演じて、円熟の演技。アカデミー主演男優賞、ゴールデングローブ主演男優賞を受賞している。
 キム・ダービーが22歳には見えない童顔で、小生意気な少女を好演していて、2年後に『いちご白書』の主人公の恋人となる女子学生を演じるが、顔が今ひとつのせいか、その後は目立った作品に出演していない。
 アクション西部劇というよりは、あしながオジサン的ドラマで、それなりにほんわかした人情ドラマが楽しめる。
 2010年にコーエン兄弟がリメイク(邦題:トゥルー・グリット)しているが、こちらは原作のままのストーリーで、少女が因果応報に片腕をなくしてしまうが、本作はハッピーエンドのアメリカ映画の常道を行くが、それなりにハート・ウォーミングで悪くない。
 あくまでもちょい悪オヤジだが、優しいオジサンのジョン・ウェインが見どころ。 (評価:2.5)

サボテンの花

製作国:アメリカ
日本公開:1969年12月20日
監督:ジーン・サックス 製作:マイク・J・フランコヴィッチ 脚本:I・A・L・ダイアモンド 撮影:チャールズ・ラング・Jr 音楽:クインシー・ジョーンズ

コケティッシュなG.ホーンと54歳のきれいなオバサンに尽きる
 "Cactus Flower"で、邦題の意。
 イングリッド・バーグマンには珍しいコメディ作品で、男運のない堅物の中年女という役。歯科クリニックで看護婦をしているが、独身プレイボーイの歯科医(ウォルター・マッソー)を密かに愛しているが顔には出さず、弁当を作ってあげたり、世話を焼いてあげたりする秘書のような存在。
 歯科医には若い恋人(ゴールディ・ホーン)がいるが、妻帯3人の子持ちと偽っていたことから娘がガス自殺未遂をし、隣室の青年(リック・レンツ)がこれを助ける。
 この時点で、最終的には娘と青年、看護婦と歯医者がくっつくハッピーエンドが予想できてしまうが、その後の軽妙なシナリオと台詞がよく出来ていて、気楽に楽しめるラブコメとなっている。
 歯医者は娘との結婚を決意するものの、嘘が大嫌いな恋人に取り繕うために看護婦にニセ妻を演じてもらったことからドタバタとなるが、ウォルター・マッソーの演技が今一つで最後で看護婦を愛しているように見えないのが残念なところ。
 演技的には、パンツも見えてしまうネグリジェ姿でコケティッシュな魅力を全開させ、アカデミー助演女優賞を獲得したゴールディ・ホーンと、54歳とは思えないきれいなオバサンで、かつコメディも演じられることを証明したイングリッド・バーグマンが見どころで、本作はほぼこの二人の演技に尽きる。 (評価:2.5)

雨のなかの女

製作国:アメリカ
日本公開:1970年12月19日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:バート・パットン、ロナルド・コルビー 脚本:フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ウィルマー・バトラー 音楽:ロナルド・スタイン

男を誘う際に気合の化粧をするレイン・ウーマンが怖い
 原題"The Rain People"で、雨の人々の意。劇中、“The rain people are people made of rain. When they cry, they disappear all together because they cry themselves away.”(レイン・ピープルは雨でできている。涙を流すと、溶けて流れてしまって、無くなってしまうんだ)という説明がある。
 この言葉をいうのが、元大学アメフト選手のキルギャノン(ジェームズ・カーン)で、試合中の頭の怪我で幼児並みに退行。1000ドルの慰謝料で退学になり、家出妻のナタリー(シャーリー・ナイト)に拾われる。
 ナタリーは幸せな暮らしをしているニューヨーカーで、妊娠して夫と子供に縛られる未来に絶望して家出。人生の悲しみを背負って今にも消えてしまいそうな水溶性の二人=レイン・ピープルが、西に向かって旅をするロードムービーだが、出会うのは硫酸をかけても溶けそうにない連中ばかり。
 お荷物のキルギャノンを連れてあてどない旅を続ける物語に落としどころが見えず、若干ダレた頃になって突然ラストが訪れるが、これしか方法がないという行き詰った解決策。
 レイン・ピープルという題材そのものがセンチメンタルすぎて、ラストのナタリーの大泣きのシーンを含めてもう少し乾いたところが欲しいが、レイン・ピープルじゃ湿っぽいのも仕方がないか、という感じ。
 レイン・ピープルながら、男を誘う際に気合の化粧をするナタリーがちょっと怖い。 (評価:2.5)

女王陛下の007

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1969年12月27日
監督:ピーター・ハント 製作:ハリー・サルツマン、アルバート・R・ブロッコリ 脚本:ウォルフ・マンキウィッツ、リチャード・メイボーム、サイモン・レイヴン 撮影:マイケル・リード、エギル・S・ウォックスホルト 音楽:ジョン・バリー

能天気なエンタテイメントを期待すると、見終わってすっきりしない
 原題は"On Her Majesty's Secret Service"で、英国諜報員の意。直訳すると女王陛下の諜報員だが、作中に女王との絡みは一切ない。シリーズ第6作。イアン・フレミングの同名小説が原作。
 007がショーン・コネリーからジョージ・レーゼンビーに代わり、監督もピーター・ハントという新人コンビで作られた作品。それまでのお色気エンタテイメントから一転、シリアスなスパイ映画らしくなっているが、大きくテイストが変わったので、主役ともども評判は今ひとつだった。
 物語はポルトガルから始まり、犯罪組織のボスの娘と懇ろになったボンドは父親から結婚を頼まれる。
 一方でMからは仕事を干され、ボスの協力で休暇中に宿敵スペクターのブロフェルドの居所を突き止め、スイス・アルプスに潜入。ボス、娘の協力を得て、殺人ウイルスを世界にばらまくブロフェルドの計画を阻止する物語。
 アルプスの山頂にわざわざ研究所を作るという点はともかく、ここから始まるスキーシーンは見どころ十分で、冒頭の海辺でのアクションシーンを含め、ショーン・コネリーよりは遥かにアクティブなボンドが楽しめる。
 研究所でモルモットとなっている美女たちとの濡れ場も用意されていて、そこそこお色気もあるが、コネリーのスケベオヤジっぷりには敵わない。秘密兵器もさほど活躍しないし、それが007として残念と見るか、スパイ映画なんだからと見るかが評価の分かれ目。
 コネリーのスケベオヤジを脱したレーゼンビーは、あろうことか本気でボンドガールを愛してしまい、結婚までしてしまう。
 スペクターに追われる途中で二人でベッドに入るシーンがあるが、「初夜までお預け」(The proper time for this is our wedding night.)という台詞がボンドから飛び出すという、意外と真面目な面を見せたりして、ラブストーリーとしては上手くまとまっているが、従来ファンからすれば違和感があるところ。
 ハネムーンに出かけて***という衝撃的ラストも、007のノーテンキなエンタテイメントを楽しみたい人には、見終わってすっきりしない。 (評価:2.5)

素晴らしき戦争

製作国:イギリス
日本公開:1970年10月24日
監督:リチャード・アッテンボロー 製作:ブライアン・ダフィー 、 リチャード・アッテンボロー 脚本:アン・スキナー 撮影:ジェリー・ターピン 美術:ハリー・ホワイト 音楽:アルフレッド・ロールストン

ミュージカル映画に対するブラックユーモア?
 原題"OH, What a Lovely War"。
 ローレンス・オリヴィエ等の俳優が総出演する反戦ミュージカルで、しかも音楽は讃美歌・フォークソングなどの替え歌という型破りの異色作。
 1914年のイギリスを中心とした第一次世界大戦が舞台で、男たちが戦争に志願したスミス一家の物語を軸に、愛国心の名のもとに展開される徴兵運動、戦争に熱狂する大衆、戦争を出世の道具にして兵士を消耗品としか考えない将軍、兵士よりも自分が生き延びることを優先する士官、国家権力に迎合して戦争を神の意志と言い募る教会をシニカルに描く。
 第一次大戦のイギリスの戦死者は90万人。スミス一家の男たちは前線で悲惨な死を遂げ、残されたのは女だけ。ラストシーンは十字架で埋め尽くされた広大な丘の描写で終わる。
 一言でいえばブラックユーモアの反戦映画で、替え歌もその手段になっているが、音楽を楽しむべきミュージカル映画としては歌をブラックユーモアの手段とするのは反則に感じられ、すっきりしない。
 もっとも劇中、劇場の舞台で、マギー・スミスが徴兵を呼びかける歌を歌っており、これも能天気なミュージカル映画に対する皮肉、ブラックユーモアと考えれば、本作はミュージカルとするべきではないのかもしれない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1969年09月06日
監督:ラリー・ピアース 製作:スタンリー・R・ジャッフェ 脚本:アーノルド・シュルマン 撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド、エンリケ・ブラボ 音楽:チャールズ・フォックス
キネマ旬報:10位

生煮えの物語が懐かしい1969年の悩める若者の青春映画
 原題は"Goodbye, Columbus"で、フィリップ・ロスの同名小説が原作。
 ニューヨークの下町に住むニールとユダヤ人成金の娘ブレンダのひと夏の恋物語。ニールは大学、陸軍を経て今は図書館員をし、毎日ゴーギャンの画集を見に来る黒人少年を気にかけている。ブレンダはボストンの女子大生で、親の脛を齧るだけのブルジョア的生活を送っている。その二人が恋に落ち、ニールは彼女の家に入りびたりになるが、両親とは価値観が大きく違う。
 ブレンダの兄ロンはバスケット選手だったオハイオ大学時代を懐かしんで、いつも"Goodbye, Columbus"の曲をかけている。ユダヤ人の娘と盛大な結婚式を挙げて父の仕事を継ぐことになるが、青春は青春、現実は現実という"Goodbye, Columbus"のタイトルそのものを表す存在。コロンバスはオハイオ大学のある地で、彼の青春を象徴する。
 そうした3人の若者の姿を対比させながら、ほろ苦く甘酸っぱい青春の蹉跌を描いていくが、ブレンダがニールと性交渉を持っていたことが親に発覚して二人が喧嘩別れするシーンがわかりにくい。
 時代性やユダヤ教徒が処女性に潔癖だということを考慮しても、避妊具を親に発見された彼女の落ち度だけを責めて、わざとじゃないかと疑うニールの思考が理解できない。
 避妊を彼女にだけ押し付け、発覚したら責任を押し付ける。彼女と結婚したくないのか? 
 成金ユダヤ人の家族になりたくないという理由なのか? 軽率な彼女が嫌いになったのか?
 身勝手な男にしか見えないよくわからないままのラストシーンに、そうした理性ではコントロールできないよくわからない鬱屈した思考と行動そのものが青春だという見方もできるが、観客としては生煮えの物語を放り投げられて後は自分で料理しろと言われているようで、もやもや感だけしか残らない。
 そうしたテーマの放り出しが流行ったのも70年前後だったと、ある意味懐かしい映画。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1970年9月26日
監督:チャールズ・ジャロット 製作:ハル・B・ウォリス 脚本:ブリジット・ボランド、ジョン・ヘイル、リチャード・ソコラヴ 撮影:アーサー・イベットソン 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
ゴールデングローブ作品賞

R・バートンが情けないくらいに一途な求愛を演じる
 原題"Anne of the Thousand Days"で、アン・ブーリンがイングランド国王ヘンリー8世の2番目の王妃となってから処刑されるまでの約1000日間のこと。マックスウェル・アンダーソンの戯曲が原作。
 物語は、ヘンリー8世(リチャード・バートン)が宮廷舞踏会でアン(ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド)を認めるシーンから始まり、姉メアリーが国王愛人として子供を設けながら捨てられたことから国王の愛人になることを拒絶。宮廷でキャサリン王妃(イレーネ・パパス)侍女として仕え、国王を離婚させて王妃になるが男子が生まれず、国王が次の王妃にジェーン・シーモアを迎えるために不倫を理由に処刑するまで。
 ドラマとしては国王がアンを手に入れるために、アンの婚約者を排除、教皇庁から離脱してキャサリン王妃と離婚。そのために大法官ウルジ(アンソニー・クエイル)、トマス・モアを罷免する国王の情けないくらいの一途な求愛ぶりと、国王を手玉に取るアンのしたたかさが見どころ。国王の寵臣クロムウェル(ジョン・コリコス)の悪役ぶりもいい。
 そのアンがキャサリン同様に男子に恵まれず、新しい恋人ジェーンの登場により、キャサリンと同じ運命をたどるが、冒頭で国王がキャサリンの目の前でアンに心を移す宮廷舞踏会のシーンが、終盤アンの目の前でジェーンに心を映す宮廷舞踏会のシーンと重なるような演出が印象的。
 王妃が単に男子誕生のための道具でしかなく、国王を教皇破門に追い込んだ悪女とされるアンもまたその犠牲者にすぎないことを示すが、リチャード・バートンの演技もあって全体は国王の好色な印象が強くなっている。
 イギリスらしい建築物や庭や草原の風景が美しい。国王、法官を始めとした衣装も効果的で、アカデミー衣装デザイン賞を受賞している。 (評価:2.5)

暗殺のオペラ

製作国:イタリア
日本公開:1979年8月4日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、マリル・パロリーニ、エドゥアルド・デ・グレゴリオ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ、フランコ・ディ・ジャコモ 音楽:ジョルジョ・ペローニ

ミステリーというよりもむしろ迷宮的な幻想映画
 原題"Strategia del ragno"で、蜘蛛の戦略の意。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説"Tema del traidor y del héroe"(裏切り者と英雄のテーマ)が原作。
 亡父の元愛人(アリダ・ヴァリ)に招かれて北イタリアの田舎町タラを訪れた青年(ジュリオ・ブロージ)の物語。駅を降りると反ファシズムの英雄として暗殺された父の銅像があり、愛人を訪れると父を暗殺した犯人を究明するように言われる。
 容疑者はかつてファシストだった有力者の地主。しかし事件の背景にムソリーニの暗殺計画があり、父と仲間の3人が関係していたことを知るが、計画が漏れて失敗。裏切り者が4人の中にいることを確信した青年は、仲間の3人が父を暗殺した犯人だと考える。ところが、真相は父による嘱託殺人というどんでん返しで、暗殺を装うことで反ファシズムの英雄となって人々を抵抗運動に駆り立てるというもの・・・
 と書けば通常のミステリーを想像しがちだが、ベルトルッチらしく直球ミステリーにはなってなく、亡父にそっくりだという青年が2つの時空を重ねて父そのものになるという、これまたボルヘスの幽明な世界が展開され、線路が草に覆われたラストシーンでは、時空そのものが浦島太郎になってしまうため、ミステリーとしての面白味はなく、むしろ迷宮的な幻想映画といった感じが楽しみどころか。
 ファシズムも反ファシズムもポリティクスにおいては同質という、イタリア政治史への冷めた目がテーマといえばテーマ。 (評価:2.5)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1970年9月19日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:アルベルト・グリマルディ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、ベルナルディーノ・ザッポーニ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:2位

物語はつまらないがフェリーニらしさを満喫できる
 原題"Fellini Satyricon"。古代ローマを描いた1世紀頃の小説、ペトロニウスの"Satyricon"が原作。
 美青年エンコルピオ(マーティン・ポッター)のさまざまな出来事に遭遇する冒険を描くが、物語そのものは古代叙事詩にありがちなどうでもいいエピソードの羅列で退屈する。
 見どころというかフェリーニの意図は、ネロ期の古代ローマの頽廃を如何に描くかにあって、舞台劇のような凝った美術セットや装置、飽食により醜く肥満した人々と厚化粧が圧巻。古代舞台劇を見るような映像芸術としての完成度は高く、古代ローマの態様や習俗もたっぷり描かれるので、それに興味のある向きは満腹できるかもしれない。
 稚児の少年奴隷ジトーネ(マックス・ボーン)の争奪から始まり、地震、詩人、成金解放奴隷、奴隷船、老貴族との同性結婚、剣闘士、インポテンツ、カニバリズムを経て地中海を船出してアフリカの地へ。
 ラストシーンは現代に移り、崩れ落ちた遺跡に描かれた"Satyricon"の叙事詩の古代壁画で終わる。悠久の彼方の物語に思いを馳せる余韻のある映像が素晴らしい。
 物語そのものはつまらないが、フェリーニらしさを満喫できる一品。 (評価:2)

製作国:イタリア、フランス、西ドイツ
日本公開:1970年7月17日
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作:ピエール・カルフォン、フランコ・ロッセリーニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 撮影:エンニオ・グァルニエリ 美術:ダンテ・フェレッティ
キネマ旬報:7位

見どころは世界遺産とマリア・カラスの熱演だが、歌わない
 原題"Medea"。エウリピデスの同名ギリシャ悲劇が原作。
 冒頭、イオルコス王アイソンの子イアソンが、ケンタウロスの賢者ケイロンに育てられ、繰り返し「私は真実を語らない」と謎解きのような台詞を連発され、長じて王位を簒奪した叔父ぺリアスを訪ねて王位返還を迫り、ケイロンの予言通りにコルキス王が所有する金羊毛を手に入れることを条件に出され、ヘラクレス等の仲間とアルゴー船に乗るという展開となるが、この先ほとんど台詞がなく、ストーリーの説明もないために、ギリシャ神話を知らないと話が見えないという非常に不親切な作品となっている。
 それに輪を掛けるのがファンタスティックというか、時空間を超越したパゾリーニの演出で、ケンタウロス姿で登場したケイロンが途中から人間の姿になったり、後半では両者がダブルで並んだりする。アルゴー船が筏というのも意表を突き、金羊毛を手に入れるのに弟まで殺して助力したコルキスの王女メディア(マリア・カラス)が、イアソン(ジュゼッペ・ジェンティーレ)と共にアルゴー船でギリシャに戻ってくると、コルキスは神々と共存する神話世界だったらしく、メディアの魔力が衰えてしまう。
 金羊毛を手に入れたぺリアスは約束を反故にして二人をコリントに追放。10年が経過して子を設けるが、不実なイアソンはコリント王クレオン(マッシモ・ジロッティ)の王女グラウケと婚約してしまう。
 この時メディアは自分に魔力が甦った予知夢を見て、呪いを掛けた服を着たグラウケとクレオンが炎に包まれて死んでしまう。現実にはメディアの魔力を恐れたクレオンがコリントからの追放を告げたのを受けて、メディアが復讐を開始。服を着たグラウケとクレオンは呪いで高台から飛び降りて墜落死。メディアは息子まで殺し、一巻の終わりとなる。
 カッパドキアやアレッポなどでロケが行われているが建造物の時代区分が違い、竪琴を奏でながら日本の長歌を歌うなど、時空間を超越しているとはいえ違和感バリバリ。ギリシャやコルキスの習俗など民俗学を無視した奇習趣味になっていて、似非感たっぷりのギリシャ悲劇となっている。
 説明がなく話がわかりにくいというだけでなく、パゾリーニ考案のギリシャ風俗の段取りを見せるための演出が弛緩していて、幻想的というよりは夢心地にさせる。
 見どころは世界遺産とオペラ歌手マリア・カラスの熱演だが、歌わないのが寂しい。 (評価:2)

歓びの毒牙

製作国:イタリア、西ドイツ
日本公開:1971年10月26日
監督:ダリオ・アルジェント 製作:サルヴァトーレ・アルジェント 脚本:ダリオ・アルジェント 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:エンニオ・モリコーネ

シナリオはお粗末だがアルジェントらしい初監督作品
 原題は"L'uccello dalle piume di cristallo"で、水晶の羽の鳥の意。フレドリック・ブラウンの小説"The Screaming Mimi"(金切声を上げるミミ)が原作。
 ローマに滞在していたアメリカ人作家の青年が、画廊で男女が揉みあい、女がナイフで刺されたのを目撃したことから、事件に巻き込まれるというミステリー。警察に犯人扱いされてパスポートを取上げられ、犯人探しを始めるが、警察が捜査しているのに何故私立探偵もどきを始めるのかが謎。そうしなければ、ドラマにならないという事情を大目に見ても、連続切り裂きジャック事件にも拘らず、警察が青年に捜査を任せっきりにして護衛しかしないのも謎。
 そして最大の謎は、被害者の女が生きていて犯人を目撃しているのに、警察が女に聴取をせず、犯人をよく見ていない青年に思い出せと執拗に迫ること。しかも、青年までが一番に調べるべき被害者の女に話を聞かない。
 こうなると、ミステリーとしては幼稚過ぎるが、ラストで犯人の謎解きが始まると、こうしたお粗末なシナリオにせざるを得なかった事情が明らかとなり、逆にいえば、このどうにも疑問なシナリオから、初期段階でうすうす犯人の見当がついてしまうという残念なミステリー作品。
 1969年の作品とはいえ、素人的シナリオがいただけないが、ダリオ・アルジェントの初監督作品で、生硬ながら『サスペリア』『フェノミナ』に至る、美少女、ナイフ、血、カメラワーク等、サスペンス・ホラーの独特のカラーの原型を見ることができる。
 本作でも青年の恋人役スージー・ケンドールが大きな目の美少女で、ホラーのヒロインにはぴったり。 (評価:2)

五人の軍隊

製作国:イタリア
日本公開:1969年11月15日
監督:ドン・テイラー 脚本:マーク・リチャーズ、ダリオ・アルジェント 撮影:エンツォ・バルボーニ 音楽:エンニオ・モリコーネ

ハリウッドの監督にマカロニ・ウエスタンは作れない
 原題"Un esercito di 5 uomini"で、邦題の意。
 20世紀初めのメキシコ革命を背景に、5人のアウトローが政府軍の砂金を運ぶ列車を襲撃・強奪。それを革命軍に資金として引き渡すという物語。
 『七人の侍』(1954)よろしく、5人の襲撃メンバーを集めるところから始まり、ダイナマイトの使い手、怪力といった特技を持つ者をリクルートするが、その中にはきちんとサムライも入っていて、これを丹波哲郎が演じるというのが話題。
 もっとも台詞は一言もなく、演技も上手くないので、ナイフを持った挙動不審の吊り目の猿にしか見えず、これだから東洋人は猿と西洋人にバカにされるんだと納得してしまうのが悲しい。
 物語は、リクルート後に政府軍に捕まったり、脱出したりしながら、政府軍の武器庫から武器・弾薬を奪い、クライマックスの列車襲撃となるが、段取りだけでドラマがなく、列車襲撃もタラタラしてるので相当に退屈。砂金を積んだ貨車だけを切り離して引き込み線に誘導するアイディアくらいしか面白味はない。
 強奪後に仲間割れしそうになるが、そこに政府軍がやってきて団結・防衛。最後は革命のためと5人が砂金を革命軍に引き渡すが、革命の大義のためという結末がマカロニ・ウエスタンにしては温くて、ズッコケる。
 やはり、ハリウッドの監督にニヒルなマカロニ・ウエスタンは作れないという好例。 (評価:2)

ペンチャー・ワゴン

製作国:アメリカ
日本公開:1969年12月20日
監督:ジョシュア・ローガン 製作:アラン・ジェイ・ラーナー 脚本:アラン・ジェイ・ラーナー、パディ・チャイエフスキー 撮影:ウィリアム・A・フレイカー 音楽:ネルソン・リドル、フレデリック・ロウ、アンドレ・プレヴィン

一妻二夫という革新的な西部劇ミュージカルだが・・・
 原題は"Paint Your Wagon"で、邦題は訛った発音表記。直訳すると、おまえの荷馬車にペイントしろだが、劇中に関連する内容はない。己の人生を描け、といった意味合いか?
 アラン・ジェイ・ラーナー、フレデリック・ローの戯曲が原作で、1951年初演のブロードウェイ・ミュージカルの映画化。フレデリック・ローの音楽に、映画ではアンドレ・プレヴィン、ロジャー・ワグナー、ネルソン・リドルが参加している。
 もっともミュージカルとしてはあまり知られてなく、クリント・イーストウッドが出演している西部劇ミュージカルという異色さのほかには際立った特色もない。
 舞台はゴールドラッシュのアメリカ西部の名無しの町。荷馬車の転落事故で助けられたイーストウッドが金鉱掘りのリー・マービンと共同生活を始めるが、マービンがモルモン教徒の妻ジーン・セバーグを競売で落札したことから3人の共同生活となる。
 本作で面白いのは、初期のモルモン教が一夫多妻だったことで、それを逆手にとって一妻二夫の共同生活をするというウーマンリブ。
 しかし、敬虔なクリスチャン一家を吹雪で助けたことからセバーグとイーストウッドが倫理感を強め、ゴールドラッシュの終焉とともにマービンは新天地を求めて一人旅立つ。
 名無しの町は自由都市で、ルールを決めるのも住人。そんな町が好きなマービンもセバーグも自由人だが、自由都市の喪失とともに自由人を捨てたセバーグとイーストウッドがその町に残る。そして、あくまで自由人を貫くマービンが、開拓時代のアメリカ魂を捨てず、むしろ爽快ですらある。
 近代化した大国アメリカの温故知新、失われた初心を描くという革新的なテーマを秘めた映画なのだが、メリハリのないホームドラマ的エピソードの連続でいささか退屈。
 イーストウッドの歌声を披露するが、全体に素人歌唱で際立った曲もなく、若干音楽性に欠けているのがミュージカルとしての魅力のなさとなっている。 (評価:2)

大反撃

製作国:アメリカ
日本公開:1969年11月1日
監督:シドニー・ポラック 製作:マーティン・ランソホフ、ジョン・キャリー 原作:ウィリアム・イーストレイク 脚本:ダニエル・タラダッシュ、デヴィッド・レイフィール 音楽:ミシェル・ルグラン

戦争は不毛だが奇異なだけの映画も不毛
 原題"Castle Keep"で、城郭のこと。ウィリアム・イーストレイクの同名小説が原作。
 1944年12月のバルジの戦いで、ベルギー・アルデンヌの古城に立て籠もった増援部隊の小隊とドイツ軍との戦いを描く。
 冒頭、古城の伯爵(ジャン=ピエール・オーモン)と若い妻(アストリッド・ヒーレン)が馬に乗って森を駆けるという幻想的なシーンから始まり、ジープで道に迷う小隊が寄せ集めの補充部隊で、しかもパン職人(ピーター・フォーク)はともかく、美術専門家(パトリック・オニール)・牧師(トニー・ビル)・カーマニア(スコット・ウィルソン)・小説家志望(アル・フリーマン・Jr)という変わり種のメンバーが紹介され、小隊長(バート・ランカスター)が海賊のような片目の眼帯をつけているとなると、もうこれは非現実的なコメディかファンタジーなのではないかと勘違いしてしまう。
 伯爵に招かれて古城に到着すると、多くの美術品が収蔵され、片目の小隊長は早速若い妻とベッドインしてしまう。理由は伯爵がインポで、子種をもらって跡継ぎを作るためと後で説明されるが、とても戦場とは思えない異世界感漂う設定は、最後まで戦争ものとは思えない『博士の異常な愛情』(1963)に似た感覚を与えるが、奇異なだけで外している感は否めない。
 美術品もろともドイツ軍戦車に城は蹂躙され、破壊され、両軍全滅の下、生き残った小説家志望の二等兵が戦後に書いた物語として語られるという枠構造になっているが、様々な道具立てはどれも活きていない。
 戦争は歴史と文化と生活を破壊するだけの不毛なものというのがテーマで、ならばもう少し違った描き方もあったのではと、映画そのものの不毛を見終わって感じる。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1970年12月8日
監督:シドニー・ポラック 製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ 脚本:ジェームズ・ポー、ロバート・E・トンプソン 撮影:フィリップ・H・ラスロップ 音楽:ジョン・グリーン、アルバート・ウッドベリ
キネマ旬報:10位

延々と続くへろへろダンスはゾンビを見ているよう
 原題"They Shoot Horses, Don't They?"で、みんなが馬を撃ち殺したのではないのか? の意。ホレス・マッコイの同名小説が原作。
 大恐慌時代のアメリカ西部が舞台で、最後まで踊り続けたペアが賞金1000ドルを獲得できるというダンス・マラソン大会が催される。たまたま通り掛かった青年(マイケル・サラザン)は、女優志願の女(ジェーン・フォンダ)とペアを組むことになり、1000時間以上を踊り続けることになる。
 大会の目的は、1000ドルのために命を賭けて踊り続ける失業者を観客に見せて楽しませるという、古代ローマのコロセウム並みの趣向。ただ踊っているだけではつまらないので、椅子取りゲームのように落伍者を決めていく二人三脚も取り入れられている。
 終盤になって、みんなへとへとになってダレてきたところで青年と女のペアは、褒賞を与えるからショー化のためにその場限りの結婚式を挙げないかとプロモーターに持ち掛けられる。
 この時、優勝しても大会経費を差し引かれて金が残らないことを知った女は、絶望して大会を離脱、生きていてもいいことなんかないわ、と青年に銃を渡して嘱託殺人を依頼する。
 青年が同意し警察に捕まってしまうが、映画はこの逮捕・裁判を通してダンス・マラソンを回想する形式が取られている。
 冒頭に青年が少年だった頃に足を骨折した馬を銃殺するシーンが描かれるが、ダンス・マラソンでは疲れて両膝をついたら失格というルールがあって、これが骨折して両膝をつく馬に比定される。
 大会を離脱した女は両膝をついた馬と同じで、可哀想だから殺してあげたというのが、嘱託殺人に同意した青年の論理で、惨めな人生に絶望した女と、そうした彼女を救ってあげない社会に対する告発の作品となっている。
 弱者を馬に譬えて、その苦しむ姿を高みの見物しているのが一般市民で、彼らが可哀想な女を殺したのだという意味が原題に込められている。
 制作はニューシネマの時代で、テーマが先走ったいささか頭でっかちな作品。延々と続くへろへろのダンスシーンはかなり退屈で、ゾンビのダンスパーティを見ているよう。 (評価:2)