外国映画レビュー──1966年
製作国:イタリア、アルジェリア
日本公開:1967年2月25日
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ 製作:アントニオ・ムース、ヤセフ・サーディ 脚本:フランコ・ソリナス 撮影:マルチェロ・ガッティ 美術:セルジョ・カネヴァーリ 音楽:エンニオ・モリコーネ、ジッロ・ポンテコルヴォ
キネマ旬報:1位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
ナチス・ドイツと変りがないフランス告発の映画
原題"La battaglia di Algeri"で、邦題の意。
アルジェリアのフランスからの独立戦争を描いた作品で、アルジェのカスバでアルジェリア民族解放戦線(FLN)を主導したアリ・ラ・ポワントが主人公。不良だったアリがFLNに参加するようになる1954年から、1957年にフランス軍の攻撃で爆死するまでの3年間を中心に、1960年、再び独立に向けての戦いが始まるまでをドキュメンタリー・タッチに描く。
空挺部隊まで投入するフランス軍との圧倒的な力の差を背景に、アリの戦いは官憲に対する銃撃テロや、フランス人街での爆弾テロが中心で、カスバに住む子供から女性までが協力する。人民の海を利用した戦いも、空挺師団長マチュー中佐の徹底的な弾圧により敗北するが、最後はテロではなく民衆の決起によって独立が得られることを示して終わる。
本作で最も衝撃的なのは、反ナチ・レジスタンスの雄であったマチュー中佐(ジャック・マシュがモデル)がFLNの捕虜を拷問、白色テロにより子供を含む民間人まで犠牲にするのを容認することで、アルジェリア・レジスタンスをフランス・レジスタンスに置き換えれば、フランス軍がやったことはナチス・ドイツと変りがない。
またアルジェリア人の独立運動に対する弾圧は、フランス革命のスローガン、フランスの国是である自由・平等・友愛とは相容れないもので、ユダヤ人でイタリア・レジスタンス闘士だったポンテコルヴォ監督によるフランス告発の作品となっている。
ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。アルジェ市民の協力による、ドキュメンタリーさながらのカスバ・ロケが見どころ。 (評価:4)
日本公開:1967年2月25日
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ 製作:アントニオ・ムース、ヤセフ・サーディ 脚本:フランコ・ソリナス 撮影:マルチェロ・ガッティ 美術:セルジョ・カネヴァーリ 音楽:エンニオ・モリコーネ、ジッロ・ポンテコルヴォ
キネマ旬報:1位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"La battaglia di Algeri"で、邦題の意。
アルジェリアのフランスからの独立戦争を描いた作品で、アルジェのカスバでアルジェリア民族解放戦線(FLN)を主導したアリ・ラ・ポワントが主人公。不良だったアリがFLNに参加するようになる1954年から、1957年にフランス軍の攻撃で爆死するまでの3年間を中心に、1960年、再び独立に向けての戦いが始まるまでをドキュメンタリー・タッチに描く。
空挺部隊まで投入するフランス軍との圧倒的な力の差を背景に、アリの戦いは官憲に対する銃撃テロや、フランス人街での爆弾テロが中心で、カスバに住む子供から女性までが協力する。人民の海を利用した戦いも、空挺師団長マチュー中佐の徹底的な弾圧により敗北するが、最後はテロではなく民衆の決起によって独立が得られることを示して終わる。
本作で最も衝撃的なのは、反ナチ・レジスタンスの雄であったマチュー中佐(ジャック・マシュがモデル)がFLNの捕虜を拷問、白色テロにより子供を含む民間人まで犠牲にするのを容認することで、アルジェリア・レジスタンスをフランス・レジスタンスに置き換えれば、フランス軍がやったことはナチス・ドイツと変りがない。
またアルジェリア人の独立運動に対する弾圧は、フランス革命のスローガン、フランスの国是である自由・平等・友愛とは相容れないもので、ユダヤ人でイタリア・レジスタンス闘士だったポンテコルヴォ監督によるフランス告発の作品となっている。
ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。アルジェ市民の協力による、ドキュメンタリーさながらのカスバ・ロケが見どころ。 (評価:4)
製作国:フランス
日本公開:1966年10月15日
監督:クロード・ルルーシュ 製作:クロード・ルルーシュ 脚本:ピエール・ユイッテルヘーベン、クロード・ルルーシュ 撮影:クロード・ルルーシュ、パトリス・プージェ 音楽:フランシス・レイ
キネマ旬報:5位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭グランプリ
半世紀を経ても変らない徹頭徹尾お洒落なメルヘン
原題"Un homme et une femme"で、邦題の意。
クロード・ルルーシュの出世作で、フランシス・レイの甘美な音楽が大ヒットした作品。
半世紀前の本作を見て改めて感じるのは、半世紀を経ても変らないスタイリッシュさで、古さを全く感じさせない。
寄宿学校の保護者面会日でたまたま知り合った男と女が恋に落ちるというありふれたストーリーながら、その出会いからラストに至るまでがフランス映画らしいエスプリに富んでいて、お洒落な心持にさせる。
娘を持つ女は映画のスクリプターで、スタントマンの夫がいるが、撮影中の事故で亡くしている。息子を持つ男はカーレーサーで、事故で死にかけた時に狂乱した妻が自殺したという過去を持つ。
女にとって死んだ夫も、新しく知り合う男も共に死と隣り合わせにいて、女はそんなリスキーな男に魅かれるという半世紀前のテーゼに則っているところがまず第一にスタイリッシュ。半世紀前のテーゼだが、今も魅力を失わない。
そんな二人は始めのうちは真実を語らず、職業を言い当てっこし、それから互いの配偶者を探るという恋愛ゲームがまたスタイリッシュ。
この間に挿入されるスタントシーンやルマン、モンテカルロレースの映像もまたスタイリッシュで、シークエンスごとにカラー、モノクロ、セピアで入れ替わる映像編集もスタイリッシュ。
これに音楽映画のようなフランシス・レイのBGMがまたスタイリッシュで、女を演じるアヌーク・エーメのファッションは今見てもファッショナブル。
子供を入れたダブルデートで、老人の連れた犬が浜辺を駆け回るロングショットが美しい上に、二人が初めてベッドインする映像がこれまたお洒落。男に抱かれながら、女は夫を思い出し、「私の中では夫はまだ死んでいない」と言って別れるシーンがメルヘンで、一人列車でパリに発つ。
これでfinと思いきや、ジャン=ルイ・トランティニャン演じる男は、思い立って車でパリに向かい、列車を追い越して駅で女を迎え、抱き合って終わるという徹頭徹尾スタイリッシュな映画になっている。
カンヌ映画祭グランプリ受賞作品。 (評価:3)
日本公開:1966年10月15日
監督:クロード・ルルーシュ 製作:クロード・ルルーシュ 脚本:ピエール・ユイッテルヘーベン、クロード・ルルーシュ 撮影:クロード・ルルーシュ、パトリス・プージェ 音楽:フランシス・レイ
キネマ旬報:5位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭グランプリ
原題"Un homme et une femme"で、邦題の意。
クロード・ルルーシュの出世作で、フランシス・レイの甘美な音楽が大ヒットした作品。
半世紀前の本作を見て改めて感じるのは、半世紀を経ても変らないスタイリッシュさで、古さを全く感じさせない。
寄宿学校の保護者面会日でたまたま知り合った男と女が恋に落ちるというありふれたストーリーながら、その出会いからラストに至るまでがフランス映画らしいエスプリに富んでいて、お洒落な心持にさせる。
娘を持つ女は映画のスクリプターで、スタントマンの夫がいるが、撮影中の事故で亡くしている。息子を持つ男はカーレーサーで、事故で死にかけた時に狂乱した妻が自殺したという過去を持つ。
女にとって死んだ夫も、新しく知り合う男も共に死と隣り合わせにいて、女はそんなリスキーな男に魅かれるという半世紀前のテーゼに則っているところがまず第一にスタイリッシュ。半世紀前のテーゼだが、今も魅力を失わない。
そんな二人は始めのうちは真実を語らず、職業を言い当てっこし、それから互いの配偶者を探るという恋愛ゲームがまたスタイリッシュ。
この間に挿入されるスタントシーンやルマン、モンテカルロレースの映像もまたスタイリッシュで、シークエンスごとにカラー、モノクロ、セピアで入れ替わる映像編集もスタイリッシュ。
これに音楽映画のようなフランシス・レイのBGMがまたスタイリッシュで、女を演じるアヌーク・エーメのファッションは今見てもファッショナブル。
子供を入れたダブルデートで、老人の連れた犬が浜辺を駆け回るロングショットが美しい上に、二人が初めてベッドインする映像がこれまたお洒落。男に抱かれながら、女は夫を思い出し、「私の中では夫はまだ死んでいない」と言って別れるシーンがメルヘンで、一人列車でパリに発つ。
これでfinと思いきや、ジャン=ルイ・トランティニャン演じる男は、思い立って車でパリに向かい、列車を追い越して駅で女を迎え、抱き合って終わるという徹頭徹尾スタイリッシュな映画になっている。
カンヌ映画祭グランプリ受賞作品。 (評価:3)
製作国:イギリス
日本公開:1967年7月1日
監督:フレッド・ジンネマン 製作:ウィリアム・N・グラフ、フレッド・ジンネマン、ロバート・ボルト 脚本:ロバート・ボルト 撮影:テッド・ムーア 美術:テレンス・マーシュ 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
エンタテイメントというよりはイギリス風の古典演劇
『ユートピア』のトマス・モアが主人公で、ヘンリー8世の離婚問題に対して大法官だったモアが同意せず、反逆罪で処刑されるまでを描く。
法律家らしく、法こそが身を守る盾だという信念を貫き、宗教倫理ではなく法理からヘンリー8世の離婚に同意しない。亡兄の妻キャサリンを教皇の特別な免除によって妻にしていて、それを離婚するのは法理に反するという建前で、離婚に反対ではなく同意できないというレトリックを用いる。
しかし、政治家のクロムウェルは国教会を設立してローマ・カトリックから独立し、ヘンリー8世を国教会の長に据え、それでも反対するモアをロンドン塔に送る。
結局のところ、モアの言うように法は我が身を守らなかったが、信念を変えることのなかったモアの孤高の精神をポール・スコフィールドが好演し、アカデミー主演男優賞受賞。
原題は"A Man for All Seasons"で、どのようなときでも頼りになる男と訳されるが、ここではどのような状況でも決して変わることのない信念の男といったニュアンスか。
イギリスの舞台俳優を多くそろえた本格的な作品で、見ていて破綻はない。史劇としても十分楽しめ、ヘンリー8世の離婚問題をアン・ブーリンなどのスキャンダル側からではなく、カトリックや大法官の側から見るという点で興味深い。
ただ、その分、エンタテイメントというよりはイギリス風の古典演劇に近く、打算に満ちた人間ばかりの中で、トマス・モアの傑出した人物像だけに焦点が当てられ、真面目な優等生的映画としてドラマ性や外連に欠けた感は否めない。
枢機卿にオーソン・ウェルズも出演している。 (評価:2.5)
日本公開:1967年7月1日
監督:フレッド・ジンネマン 製作:ウィリアム・N・グラフ、フレッド・ジンネマン、ロバート・ボルト 脚本:ロバート・ボルト 撮影:テッド・ムーア 美術:テレンス・マーシュ 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞
『ユートピア』のトマス・モアが主人公で、ヘンリー8世の離婚問題に対して大法官だったモアが同意せず、反逆罪で処刑されるまでを描く。
法律家らしく、法こそが身を守る盾だという信念を貫き、宗教倫理ではなく法理からヘンリー8世の離婚に同意しない。亡兄の妻キャサリンを教皇の特別な免除によって妻にしていて、それを離婚するのは法理に反するという建前で、離婚に反対ではなく同意できないというレトリックを用いる。
しかし、政治家のクロムウェルは国教会を設立してローマ・カトリックから独立し、ヘンリー8世を国教会の長に据え、それでも反対するモアをロンドン塔に送る。
結局のところ、モアの言うように法は我が身を守らなかったが、信念を変えることのなかったモアの孤高の精神をポール・スコフィールドが好演し、アカデミー主演男優賞受賞。
原題は"A Man for All Seasons"で、どのようなときでも頼りになる男と訳されるが、ここではどのような状況でも決して変わることのない信念の男といったニュアンスか。
イギリスの舞台俳優を多くそろえた本格的な作品で、見ていて破綻はない。史劇としても十分楽しめ、ヘンリー8世の離婚問題をアン・ブーリンなどのスキャンダル側からではなく、カトリックや大法官の側から見るという点で興味深い。
ただ、その分、エンタテイメントというよりはイギリス風の古典演劇に近く、打算に満ちた人間ばかりの中で、トマス・モアの傑出した人物像だけに焦点が当てられ、真面目な優等生的映画としてドラマ性や外連に欠けた感は否めない。
枢機卿にオーソン・ウェルズも出演している。 (評価:2.5)
製作国:スウェーデン
日本公開:1967年10月21日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:イングマール・ベルイマン、ラーシュ=オーヴェ・カールベルイ 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:ラーシュ・ヨハン・ワーレ
キネマ旬報:7位
女性映画としてみると赤裸々なほどにシリアス
原題"Persona"で元は古典劇における仮面のこと。転じて、役割・人格の意味にも使われ、心理学では自己の外的側面のこと。
主人公(リヴ・ウルマン)はペルソナに相応しく舞台女優という設定で、ある日突然口をきけなくなる病気になる。人格を演じ続けていた彼女が心理的葛藤からそれを拒絶。口を利かないことで嘘を語らないことにする。
彼女は看護婦(ビビ・アンデルソン)と二人きりで療養生活を送るが、二人はよく似た相貌をしていて、看護婦が自分のプライバシーを明かすうちに、二人は同化し、女優が看護婦と入れ替わって自分の過去を語りはじめる。
二人の人格が融合する辺りから話は観念的になり、混乱してくるが、心理的葛藤から解き放たれた女優は去って、看護婦は療養所となっていた別荘を後にするシーンで終わる。
観念的に解釈すれば、もとより女優と看護婦は同一人格で、二つのペルソナを演じ分けていたと取れなくもないが、ラストはやや不可解に終わる。
人間は誰しもペルソナを持っていると言ってしまえばそれで終わってしまう作品だが、ビビ・アンデルソンのほぼ一人芝居でもある本作は、彼女の演技力に負うところが大きく、女の持つ性欲や妊娠、女から母になる葛藤など、女性映画としてみると赤裸々なほどにシリアスで、女性のペルソナを剥ぎ取った点では、好みは別としてよくできた作品。 (評価:2.5)
日本公開:1967年10月21日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:イングマール・ベルイマン、ラーシュ=オーヴェ・カールベルイ 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:ラーシュ・ヨハン・ワーレ
キネマ旬報:7位
原題"Persona"で元は古典劇における仮面のこと。転じて、役割・人格の意味にも使われ、心理学では自己の外的側面のこと。
主人公(リヴ・ウルマン)はペルソナに相応しく舞台女優という設定で、ある日突然口をきけなくなる病気になる。人格を演じ続けていた彼女が心理的葛藤からそれを拒絶。口を利かないことで嘘を語らないことにする。
彼女は看護婦(ビビ・アンデルソン)と二人きりで療養生活を送るが、二人はよく似た相貌をしていて、看護婦が自分のプライバシーを明かすうちに、二人は同化し、女優が看護婦と入れ替わって自分の過去を語りはじめる。
二人の人格が融合する辺りから話は観念的になり、混乱してくるが、心理的葛藤から解き放たれた女優は去って、看護婦は療養所となっていた別荘を後にするシーンで終わる。
観念的に解釈すれば、もとより女優と看護婦は同一人格で、二つのペルソナを演じ分けていたと取れなくもないが、ラストはやや不可解に終わる。
人間は誰しもペルソナを持っていると言ってしまえばそれで終わってしまう作品だが、ビビ・アンデルソンのほぼ一人芝居でもある本作は、彼女の演技力に負うところが大きく、女の持つ性欲や妊娠、女から母になる葛藤など、女性映画としてみると赤裸々なほどにシリアスで、女性のペルソナを剥ぎ取った点では、好みは別としてよくできた作品。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ、フランス
日本公開:1966年12月21日
監督:ルネ・クレマン 製作:ポール・グレッツ 脚本:フランシス・フォード・コッポラ、ゴア・ヴィダル 撮影:マルセル・グリニヨン 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:6位
見所は1960年代のパリの街並みと1944年の記録フィルム
原題"Paris brûle-t-il?"で、邦題の意。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの同名ノンフィクションが原作。
1944年8月7日から25日のパリ解放までを描く、3時間弱の途中intermissionの入る大作。
19日間のドイツ軍+ナチ親衛隊vs.レジスタンス連合+連合軍の攻防戦を描くが、登場人物が多く、エピソードが微に入り細に入るので、ストーリー的には散漫で整理が足りない印象を受ける。
8月25日のパリ解放の様子も、記録フィルムを織り交ぜた描写は繋ぎも上手く臨場感があるが、ドキュメンタリーではなくストーリーとして見せられると、いささか長くて飽きる。
ノルマンディに上陸した連合軍は内陸に向け進軍、物語の始まる8月7日の段階でドイツ軍の劣勢は明らかで、パリを占拠しているドイツ軍がいつ撤退するかが焦点となっている。
この状況下でドイツ軍との休戦か決起かでレジスタンス連合内が対立、ドゴール将軍幕僚のデルマ(アラン・ドロン)が、パリを戦火から守るためにスウェーデン領事(オーソン・ウェルズ)を動かして休戦に持ち込み、米軍に使者を送ってパリに進軍させる。
一方、ヒトラーは撤退前のパリ破壊を占領軍のコルティッツ将軍(ゲルト・フレーベ)に命じるが、パリ破壊を望まないコルティッツは連合軍に無条件降伏する。
タイトルは、パリ破壊を確認するヒトラーの電話の文句から。
ジャン=ポール・ベルモンド、イヴ・モンタン、シャルル・ボワイエ、カーク・ダグラス、グレン・フォードら仏米のオールスターキャストだが、アラン・ドロンのハンサムぶりが際立つ。
如何にパリの歴史的建造物と文化が守られたかというのが本作のテーマだが、最大の見どころは1960年代のパリの街並みと、1944年の記録フィルムか。 (評価:2.5)
日本公開:1966年12月21日
監督:ルネ・クレマン 製作:ポール・グレッツ 脚本:フランシス・フォード・コッポラ、ゴア・ヴィダル 撮影:マルセル・グリニヨン 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:6位
原題"Paris brûle-t-il?"で、邦題の意。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの同名ノンフィクションが原作。
1944年8月7日から25日のパリ解放までを描く、3時間弱の途中intermissionの入る大作。
19日間のドイツ軍+ナチ親衛隊vs.レジスタンス連合+連合軍の攻防戦を描くが、登場人物が多く、エピソードが微に入り細に入るので、ストーリー的には散漫で整理が足りない印象を受ける。
8月25日のパリ解放の様子も、記録フィルムを織り交ぜた描写は繋ぎも上手く臨場感があるが、ドキュメンタリーではなくストーリーとして見せられると、いささか長くて飽きる。
ノルマンディに上陸した連合軍は内陸に向け進軍、物語の始まる8月7日の段階でドイツ軍の劣勢は明らかで、パリを占拠しているドイツ軍がいつ撤退するかが焦点となっている。
この状況下でドイツ軍との休戦か決起かでレジスタンス連合内が対立、ドゴール将軍幕僚のデルマ(アラン・ドロン)が、パリを戦火から守るためにスウェーデン領事(オーソン・ウェルズ)を動かして休戦に持ち込み、米軍に使者を送ってパリに進軍させる。
一方、ヒトラーは撤退前のパリ破壊を占領軍のコルティッツ将軍(ゲルト・フレーベ)に命じるが、パリ破壊を望まないコルティッツは連合軍に無条件降伏する。
タイトルは、パリ破壊を確認するヒトラーの電話の文句から。
ジャン=ポール・ベルモンド、イヴ・モンタン、シャルル・ボワイエ、カーク・ダグラス、グレン・フォードら仏米のオールスターキャストだが、アラン・ドロンのハンサムぶりが際立つ。
如何にパリの歴史的建造物と文化が守られたかというのが本作のテーマだが、最大の見どころは1960年代のパリの街並みと、1944年の記録フィルムか。 (評価:2.5)
華氏451
日本公開:1967年12月20日
監督:フランソワ・トリュフォー 製作:ルイス・M・アレン 脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール 撮影:ニコラス・ローグ 音楽:バーナード・ハーマン
原題は"Fahrenheit 451"で、レイ・ブラッドベリの同名SF小説が原作。トリュフォーがイギリスで撮った英語の映画でもある。
作中にも説明があるが、華氏451度は紙の燃える温度で摂氏233度にあたる。メートル法では摂氏が世界標準だが、英語圏では今でも一部で華氏が使われている。
原作はSFファンには有名な小説で、焚書がテーマ。タイトルもそれに由来する。架空世界が舞台で、書物は人を不幸にするというテーゼのもと、書物の所有が禁じられ、密告により所持がわかると消防車が駆け付けて家宅捜索の上、見せしめに本を燃やす。
小説も哲学書も人をネガティブにし、享楽的なテレビこそが人を幸せにするという文明批判だが、テレビ放送から60年が経ち、本が読まれなくなってテレビばかりかネットによっても人々が享楽的・刹那的になった現状を見れば、ブラッドベリは予言が正しかったとドヤ顔をするかもしれない。
映画では主人公の消防士(fireman)の妻がその典型で、テレビしか見ない無気力人間。夫婦の出会いすら覚えていない愚民になっていて、H.G.ウェルズ『タイムマシン』のイーロイ人に設定は似ている。
社会の優等生を目指し、疑問を持たないようにしていた主人公は、レジスタンスの女性に勧誘されて本を隠し持つようになり、ついには妻に密告されて逃亡する。
浮浪者となったレジスタンスの集まる森で、ひとりひとりが一冊の書物となるというシーンが本作のクライマックスだが、改めて冷静になると、さすがに哲学書は無理なんじゃないかと思う。
最初に見た時は唸らされたが、二度、三度見ると、トースターに本を入れたらパンが焼けないし、テレビセットに本を隠したらテレビが映らないじゃないかと突っ込みを入れたくなる。 (評価:2.5)
群盗荒野を裂く
日本公開:1968年1月27日
監督:ダミアーノ・ダミアーニ 製作:ビアンコ・マニーニ 脚本:サルヴァトーレ・ラウリーニ 撮影:トニ・セッチ 音楽:ルイス・エンリケス・バカロフ、エンニオ・モリコーネ
原題"Quién sabe?"で、誰が知っている? の意。
20世紀初め、メキシコ政府軍の列車を襲い、武器・弾薬を手に入れて革命軍に売り渡す野盗の首領と、その仲間になるアメリカ人の賞金稼ぎの友情物語。
物語は賞金稼ぎビル(ルー・カステル)が乗った列車が野盗チュンチョ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)の一団の襲撃を受けるところから始まる。ビルが列車を止めて野盗団に協力し、仲間に潜り込むという曰く有り気な展開で、お尋ね者だと名乗るビルの正体が物語を引っ張る謎となるが、革命軍リーダーのエリアス将軍が目的だというのは容易に想像がつく。
野盗団は革命派の村に逗留した際に政府軍を撃退。チュンチョの信頼を得たビルは親友になる。ところが、エリアス将軍との接触が目的のビルは、政府軍の反撃に備えて村を守ろうとするチュンチョを村から引き離し、革命軍のアジトへと誘う。
ビルの目的はエリアス将軍の暗殺で、それも政府の賞金が目当て。村全滅の責任を取って処刑されそうになるチュンチョを助け、賞金を二人で山分けするが、友情を利用されたチュンチョは別れ際に駅でビルを射殺。
仲間が全員死にビルも殺して一人となったチュンチョが、寂しく駅を去って行くシーンの哀愁がいい。
野卑でありながら人情に厚く、冷酷と温情を併せ持つ純朴なメキシコ男チュンチョを演じる、名優ジャン・マリア・ヴォロンテを見るための作品。
野盗団の仲間にクラウス・キンスキー。 (評価:2.5)
製作国:イギリス、イタリア
日本公開:1967年6月3日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 製作:カルロ・ポンティ 脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド 撮影:カルロ・ディ・パルマ 音楽:ハービー・ハンコック
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭グランプリ
白日夢なんだから不条理もアバンギャルドも当然
原題"Blowup"で、写真の引き延ばしの意。アルゼンチンのフリオ・コルタサルの小説"Las babas del diablo"(『悪魔の涎』)が原作。
オープニングはクレジットが被る公園の芝生のシーンから街角を走る車に相乗りした大勢の若者たち、その若者たちが町に散らばって行くのを眺めながら主人公(デヴィッド・ヘミングス)が登場する。エンディングはこの逆で、主人公から若者たち、公園の芝生にエンドマークが被るという構成。
間に挟まる物語は主人公の登場とともに始まるが、人気カメラマンというわりには撮影風景も軽薄で俗っぽいだけで、何となくアバンギャルドという雰囲気だけ。
そのカメラマンが公園の芝生でいちゃつく男女を盗撮したことがきっかけで、物語は俄然サスペンス・タッチに。タイトル通りに写真を引き伸ばすと殺人事件の証拠が写っていて犯罪ドラマの展開かと思いきや、証拠の写真が盗まれ、死体まで消えて、というところから急に不条理ドラマとなって、話が見えなくなる。
そもそも死体が一日公園に放って置かれて誰も気づかないというのも不条理で、途中出てくるロックバンドのライブシーンでも、観客がおとなしく席に座っているだけ。
要は芝生を見ているうちに見た白日夢といった感じで、白日夢なら不条理もスノッブもアバンギャルドも当然といった具合で、見終わって、だから何だ、ただの白日夢なんだからつべこべ言うな、ということになる。
そんな白日夢に与えられたカンヌ国際映画祭グランプリ。謎の女にヴァネッサ・レッドグレイヴ。 (評価:2.5)
日本公開:1967年6月3日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 製作:カルロ・ポンティ 脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド 撮影:カルロ・ディ・パルマ 音楽:ハービー・ハンコック
キネマ旬報:2位
カンヌ映画祭グランプリ
原題"Blowup"で、写真の引き延ばしの意。アルゼンチンのフリオ・コルタサルの小説"Las babas del diablo"(『悪魔の涎』)が原作。
オープニングはクレジットが被る公園の芝生のシーンから街角を走る車に相乗りした大勢の若者たち、その若者たちが町に散らばって行くのを眺めながら主人公(デヴィッド・ヘミングス)が登場する。エンディングはこの逆で、主人公から若者たち、公園の芝生にエンドマークが被るという構成。
間に挟まる物語は主人公の登場とともに始まるが、人気カメラマンというわりには撮影風景も軽薄で俗っぽいだけで、何となくアバンギャルドという雰囲気だけ。
そのカメラマンが公園の芝生でいちゃつく男女を盗撮したことがきっかけで、物語は俄然サスペンス・タッチに。タイトル通りに写真を引き伸ばすと殺人事件の証拠が写っていて犯罪ドラマの展開かと思いきや、証拠の写真が盗まれ、死体まで消えて、というところから急に不条理ドラマとなって、話が見えなくなる。
そもそも死体が一日公園に放って置かれて誰も気づかないというのも不条理で、途中出てくるロックバンドのライブシーンでも、観客がおとなしく席に座っているだけ。
要は芝生を見ているうちに見た白日夢といった感じで、白日夢なら不条理もスノッブもアバンギャルドも当然といった具合で、見終わって、だから何だ、ただの白日夢なんだからつべこべ言うな、ということになる。
そんな白日夢に与えられたカンヌ国際映画祭グランプリ。謎の女にヴァネッサ・レッドグレイヴ。 (評価:2.5)
引き裂かれたカーテン
日本公開:1966年10月22日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:ブライアン・ムーア 撮影:ジョン・F・ウォーレン 音楽:ジョン・アディソン
原題"Torn Curtain"で、邦題の意。
ポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースが主演のヒッチコック作品というのが売りで、アメリカの研究者が迎撃ミサイル開発が中断されたために研究続行のために東独に亡命。これを追って婚約者も東独に来てしまうが、実はミサイル開発が上手くいかず、東独の俊才から知恵を盗むというのが目的で、東独の反共スパイ組織の手を借りながら、予定外の婚約者ともども東独を脱出するまでの物語。
ブライアン・ムーアの脚本がよく出来ていて、いつものヒッチコックの杜撰なシナリオとは違った緻密なストーリーになっている。
ポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースのベッドシーンもあって、娯楽色もたっぷり。
アームストロング教授(ポール・ニューマン)を東独に亡命させるマンフレッド教授(ギュンター・シュトラック)、リント教授(ルドウィヒ・ドナート)らドイツ人俳優の演技が良く、鉄のカーテンの向こう側での緊迫感のあるスパイ・サスペンスとなっている。
スパイであることが疑われてからのリント教授との接触、自転車、バス、貨物船を乗り継いでの脱出劇が息詰まる。スウェーデンの港での脱出成功の一工夫も、定番ながら東独のバレリーナ(タマラ・トゥマノワ)がほぞを噛む爽快感がある。
劇場でアームストロングとサラ(ジュリー・アンドリュース)が警官に包囲され、進退極まって「火事だ!」と叫んで観客が逃げ出すのに乗じて脱出を図るアイディアも良い。英語のFireとドイツ語のFeuerの発音がよく似ていて、ドイツ語を知らないアームストロングがどちらで言ったのかが本作最大の謎。
ジュリー・アンドリュースの歌唱がないのが若干寂しい。 (評価:2.5)
三人の女性への招待状
日本公開:1967年11月3日
監督:ジョセフ・L・マンキウィッツ 製作:ジョセフ・L・マンキウィッツ 脚本:ジョセフ・L・マンキウィッツ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ジョン・アディソン
原題"The Honey Pot"で、蜂蜜の壺の意。
ベン・ジョンソンの戯曲"Volpone"を基にしたトーマス・スターリングの小説"Evil of the Day"を原作にしたフレデリック・ノットの戯曲"Mr. Fox of Venice"の映画化。
ヴェネツィアの富豪フォックス(レックス・ハリソン)が、元恋人3人が今でも自分を愛しているかを確かめるために嘘の病気で呼び集めるという物語で、意外などんでん返しがミソという、舞台劇らしいサスペンス劇。
フォックスを手伝うのが売れない役者のウィリアム(クリフ・ロバートソン)で、秘書に化ける。
呼び寄せられる3人の女性は、ハリウッド女優のマール(イーディ・アダムス)、王女ドミニク(キャプシーヌ)、シェリダン夫人(スーザン・ヘイワード)で、睡眠薬依存症の夫人には看護婦のワトキンズ(マギー・スミス)が付き添う。
主役はフォックスと3人の女性だが、物語はウィリアムとワトキンズを中心に進み、とりわけクレジットでは6番目のマギー・スミスが主役を食っているのが見どころ。
金に困っている3人がフォックスの遺産目当てにやってきて、自分こそが正当な相続人と争う良くある話だが、実はフォックスは破産していて、金が目当てで3人の元恋人たちを集めたという捻った設定。シェリダン夫人は裕福で、フォックスを愛していたのは彼女だけだったが、それが災いして殺されてしまう。
最後にはフォックスも死んで、シェリダン夫人の遺産はワトキンズに転がり込み、それが目当てのウィリアムまで手に入れてしまうという、イギリス演劇らしいシニカルな物語になっている。 (評価:2.5)
修道女
日本公開:1996年9月7日
監督:ジャック・リヴェット 製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール 脚本:ジャック・リヴェット、ジャン・グリュオー 撮影:アラン・ルヴァン 音楽:ジャン=クロード・エロワ
原題"La Religieuse"で、邦題の意。ドニ・ディドロの同名小説が原作。
1757年のパリが舞台。家庭の事情で修道女となったピュアな少女を通して、修道院の腐敗を描くが、主人公のシュザンヌ(アンナ・カリーナ)を始めとして、修道院長や修道女たちがみんな若くて美人という、『美しき諍い女』(1991)の監督らしい官能的でヌーベルバーグの香り漂う初期作品。
シュザンヌは母(クリティアーヌ・レニエ)の不倫で生まれた末娘で、貧乏貴族で結婚持参金が払えず、不義の子として母の贖罪のために修道院に入れられる。自由を望むシュザンヌに対し、母が貧乏娘の行く末は物乞いか娼婦と説得し、不承不承修道院に入る。
そんなシュザンヌを修道院長(ミシュリーヌ・プレスル)は温かく迎え入れるが、二人目の修道院長(フランシーヌ・ベルジェ)は厳格で、反発するシュザンヌを虐待する。しかし、襤褸を纏うアンナ・カリーナの肢体がとてもセクシー。
院長の虐待を教会に訴え、別の修道院に移るが、三人目の修道院長は可愛い修道女を侍らす同性愛者で、早速シュザンヌをお気に入りにする。そうとは気づかない世間知らずのシュザンヌに、聴罪神父のルモワーヌ(ヴォルフガング・ライヒマン)が逃亡を持ち掛けるが、宿屋に着いた途端に襲い掛かる。
神との誓願を破って自由を得たシュザンヌは、農家の下働き、物乞いを経て高級娼婦に。母の予言通りとなり、娼館の窓から飛び降りる。
舞台は修道院で、尼僧姿の美女が乱舞。尼僧セクシーパワーに煩悩が渦巻き、懺悔の値打ちもない邪な目で、改めて尼僧コスチュームの威力を知るが、同じ格好なので顔の区別がつき辛い。
宗教の堕落がテーマなのか、美しさは人々を惑わす悪魔なのか、はたまた尼僧美女の鑑賞がテーマなのか、心は千々に乱れたままに終わる。 (評価:2.5)
エル・ドラド
日本公開:1967年6月7日
監督:ハワード・ホークス 製作:ハワード・ホークス 脚本:リー・ブラケット 撮影:ハロルド・ロッソン 音楽:ネルソン・リドル
原題"El Dorado"で、舞台となるテキサスの町の名前。ハリー・ブラウンの小説"The Stars in Their Courses"が原作。
ジョン・ウェインとロバート・ミッチャムが主演の西部劇で、監督ハワード・ホークスと安心して見ていられるのだが、60歳になんなんとするウェインがバリバリの早打ち三本指の一人と言われると、若干無理がある。
体はブヨブヨで、動作も鈍く、俊敏に見えないので、冒頭怪我をしていざという時に体が動かないという設定にしている。
対するミッチャムは10歳若いが、端から女で身を持ち崩したグータラで、それでも最後はいいところを見せるという無理のない役。
牧場主ジェイソン(エドワード・アズナー)から用心棒を依頼されたウェインは、旧友ミッチャムと昔の女(シャーリーン・ホルト)がいるエル・ドラドに立ち寄るが、ジェイソンがマクドナルド家の土地を奪おうとしている悪者だと知って、ジェイソンの仕事を断り町を出る。
別の町でもう一人の早打ち三本指のガンマン(クリストファー・ジョージ)と出会うが、これがジェイソンに雇われてしまい、エル・ドラドに戻って対峙することになってしまうという物語。
ジェイソンと用心棒たちがマクドナルドの息子を人質に酒場を占拠し、ウェイン、ミッチャム、前の町でウェインと相棒になった若者(ジェームズ・カーン)、保安官助手(アーサー・ハニカット)との銃撃戦になるが、もちろん正義が勝つ。
ウェインに怪我を負わせたマクドナルドの娘と相棒の若者が仲良くなり、ウェインも年貢の納め時と昔の女と町に残るという、お定まりのエンディングとなるが、予定調和がそれなりに心地よい。 (評価:2.5)
製作国:フランス、スウェーデン
日本公開:1968年7月20日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:アナトール・ドーマン 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ウィリー・クラン 音楽:フランシス・レイ
キネマ旬報:7位
博物館で古い陳列品を眺めているくらいの感慨
原題"Masculin, féminin: 15 faits précis"で、「男性、女性:15の特定の事実」の意。
無職の青年がカフェで少女を見初めて、一緒に暮らすまでになるというラブストーリーだが、そこはゴダールなので、恋愛の過程を15の断片に切り取って、「マルクスとコカ・コーラの子供たち」である戦後世代のフランスの若者像を描く。
青年は、流行歌手としてデビューしたばかりの少女がルームメイトと暮らすアパートに転がり込み、3人でベッドを共有するという奇妙な共同生活を送る新人類。青年は雑誌社に就職し、少女は妊娠。青年が正式にプロポーズして、新生活を始めようとした矢先に転落死してしまう。
少女が子供を産むか堕ろすか迷うところで物語は終わるが、途中挿入される、ベトナム反戦運動、政治に無関心な若者たち、中年夫婦の痴話騒動など、世相と若者たちの関係をスケッチしながら、マルクス主義やアメリカ文化の影響を受けて変わっていく若者意識を浮き彫りにする。
もっとも、このような変化していく社会の時代性をテーマにした作品は、江戸時代から言われ続けてきた「最近の若い者は・・・」という言葉や流行語同様、その時代には意味があっても、すぐに陳腐化してしまう。
きっと当時のフランスの若者はそうだったんだろうなと、博物館に入って『共産党宣言』初版本とアメリカ製瓶コーラの陳列品を眺めているくらいの感慨しか生まれない。 (評価:2)
日本公開:1968年7月20日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:アナトール・ドーマン 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ウィリー・クラン 音楽:フランシス・レイ
キネマ旬報:7位
原題"Masculin, féminin: 15 faits précis"で、「男性、女性:15の特定の事実」の意。
無職の青年がカフェで少女を見初めて、一緒に暮らすまでになるというラブストーリーだが、そこはゴダールなので、恋愛の過程を15の断片に切り取って、「マルクスとコカ・コーラの子供たち」である戦後世代のフランスの若者像を描く。
青年は、流行歌手としてデビューしたばかりの少女がルームメイトと暮らすアパートに転がり込み、3人でベッドを共有するという奇妙な共同生活を送る新人類。青年は雑誌社に就職し、少女は妊娠。青年が正式にプロポーズして、新生活を始めようとした矢先に転落死してしまう。
少女が子供を産むか堕ろすか迷うところで物語は終わるが、途中挿入される、ベトナム反戦運動、政治に無関心な若者たち、中年夫婦の痴話騒動など、世相と若者たちの関係をスケッチしながら、マルクス主義やアメリカ文化の影響を受けて変わっていく若者意識を浮き彫りにする。
もっとも、このような変化していく社会の時代性をテーマにした作品は、江戸時代から言われ続けてきた「最近の若い者は・・・」という言葉や流行語同様、その時代には意味があっても、すぐに陳腐化してしまう。
きっと当時のフランスの若者はそうだったんだろうなと、博物館に入って『共産党宣言』初版本とアメリカ製瓶コーラの陳列品を眺めているくらいの感慨しか生まれない。 (評価:2)
袋小路
日本公開:1971年3月13日
監督:ロマン・ポランスキー 脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ 撮影:ギル・テイラー 音楽:クリストファー・コメダ
ベルリン映画祭金熊賞
原題"Cul-de-sac"で、邦題の意のフランス語。イングランド北部ノーサンバーランド州にあるリンディスファーン島が舞台。干潮時には海中道路で本土と繋がる。
二人のギャングが車で島に逃げ込んでくるところから始まり、腕に怪我をしたリチャード(ライオネル・スタンダー)が古城を見つけて侵入。古城には夫婦がいて、リチャードは気の弱い夫(ドナルド・プレゼンス)と気の強い美人妻(フランソワーズ・ドルレアック)と一夜を共にするが、相棒(ジャック・マッゴーラン)が死んでしまい夜中に墓穴を掘って埋める。
リチャードは親分に電話をして救出を待つが、翌朝やってきたのは夫婦の友人たちと隣人の青年(イェーン・クォーリア)。ボスから見捨てられたことを知って呆けているところを妻に唆された夫に銃殺されてしまう。
一方、殺人を犯した夫は唆した妻を家から追い出し、岩礁で一人泣き出すというラスト。
基本はシチュエーション・コメディで、粗暴だが人のいいギャング、愛妻家で気の弱い夫、色香たっぷりの気の強い女というキャラクターシフトで間の抜けたエピソードを展開していく。
ベルリン映画祭金熊賞を受賞していることからヨーロッパの人々のセンスには合っているかもしれないが、いささかほのぼのしすぎていて眠くなる。
見応えがあるのはリンディスファーン島の自然で、相棒を乗せて浜に残した車が潮が満ちて水没しかかる様子が映像的に面白い。
美人妻のために全財産をつぎ込んで風光明媚な古城を手に入れた理想の暮しも、災難が降りかかれば簡単に崩れるという、脆い人間精神へのポランスキーの皮肉か。
遊びに来る友人たちにジャクリーン・ビセット。 (評価:2)
製作国:イギリス、フランス
日本公開:1966年12月3日
監督:トニー・リチャードソン 製作:オスカー・レヴェンスティン 脚本:ジャン・ジュネ、マルグリット・デュラス 撮影:デヴィッド・ワトキン
キネマ旬報:7位
ジャンヌ・モロー以外に見どころがない
原題"Mademoiselle"。
フランスの田舎の村で小学校教師をしている欲求不満のハイミスが主人公の物語で、村人たちから「マドモアゼル」と呼ばれる主人公をジャンヌ・モローが演じているという以外には、これといった見どころはない。
ハイミスの欲求不満の解消方法は、咲いている花を折ったり煙草の火で焦がしたりといった程度ならまだしも、水源のダムを壊して村を水浸しにしたり、納屋に火をつけたり、牛の水飲み桶に毒を入れるとなると手に負えない。
マドモアゼルがこのように過激になったのには原因があって、ある日失火から火事になった時に山に住むイタリア人の男が大活躍し、再びその雄姿を見たいということで悪事を繰り返す。
イタリア男はハンサムで村女たちにはモテモテだが、情事を見た女は逆にイタリア男の息子を学校で苛めるという屈折した感情を見せる。
ジプシーのような流れ者の生活で村女にちょっかいを出すイタリア男は嫌われていて、洪水・放火・毒事件の犯人に擬せられるが、気のあるマドモアゼルを誘惑したことから女は有頂天。ところが別れ際に村を去ることを聞かされて、村人たちにレイプされたと嘘を言い、哀れイタリア男はリンチで殺されてしまうという、理解しがたきは女心という話。 (評価:2)
日本公開:1966年12月3日
監督:トニー・リチャードソン 製作:オスカー・レヴェンスティン 脚本:ジャン・ジュネ、マルグリット・デュラス 撮影:デヴィッド・ワトキン
キネマ旬報:7位
原題"Mademoiselle"。
フランスの田舎の村で小学校教師をしている欲求不満のハイミスが主人公の物語で、村人たちから「マドモアゼル」と呼ばれる主人公をジャンヌ・モローが演じているという以外には、これといった見どころはない。
ハイミスの欲求不満の解消方法は、咲いている花を折ったり煙草の火で焦がしたりといった程度ならまだしも、水源のダムを壊して村を水浸しにしたり、納屋に火をつけたり、牛の水飲み桶に毒を入れるとなると手に負えない。
マドモアゼルがこのように過激になったのには原因があって、ある日失火から火事になった時に山に住むイタリア人の男が大活躍し、再びその雄姿を見たいということで悪事を繰り返す。
イタリア男はハンサムで村女たちにはモテモテだが、情事を見た女は逆にイタリア男の息子を学校で苛めるという屈折した感情を見せる。
ジプシーのような流れ者の生活で村女にちょっかいを出すイタリア男は嫌われていて、洪水・放火・毒事件の犯人に擬せられるが、気のあるマドモアゼルを誘惑したことから女は有頂天。ところが別れ際に村を去ることを聞かされて、村人たちにレイプされたと嘘を言い、哀れイタリア男はリンチで殺されてしまうという、理解しがたきは女心という話。 (評価:2)
続・夕陽のガンマン 地獄の決斗
日本公開:1967年12月30日
監督:セルジオ・レオーネ 製作:アルベルト・グリマルディ 脚本:ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ、フリオ・スカルペッリ、セルジオ・レオーネ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:エンニオ・モリコーネ
原題" Il buono, il brutto, il cattivo"で、善玉、卑劣漢、悪玉の意。
『荒野の用心棒』(1964)、『夕陽のガンマン』(1965)に続くセルジオ・レオーネ&クリント・イーストウッドのマカロニ・ウエスタン第3作。
話は繋がってなく、南北戦争の西部が舞台。善玉のブロンディ(クリント・イーストウッド)は卑劣漢、お尋ね者のトゥーコ(イーライ・ウォラック)と組んで、トゥーコを差し出して賞金を受け取り、縛り首になるところを助けるという詐欺を繰り返している。
二人が仲違いして砂漠を放浪しているところに南軍兵士の死体が転がる馬車が通りかかり、その中の一人、ビル・カーソンが20万ドルの金貨の在り処を二人に別々に教えて息絶える。トゥーコが聞いたのは墓地の場所、ブロンディが聞いたのは墓碑銘。
二人併せて一つの情報を基に南軍兵士に成りすましてお宝探しに向かうが、途中北軍と出会って捕虜に。北軍兵士のエンジェル・アイ(ー・ヴァン・クリーフ)が悪玉で、ビル・カーソンの金貨の隠し場所を追っているが、トゥーコがビル・カーソンを名乗ったことをきっかけに、ブロンディと墓地に向かう。
途中、トゥーコが合流してエンジェルを追い出すが、墓地で復帰して最後は一人占めしたい3人の三つ巴の決闘。ブロンディが制するが、生き残ったトゥーコに半分残して立ち去るという善玉ぶりを発揮する。
お宝探しになっていて西部劇としては若干異質。砂漠で干乾しになったイーストウッドのメイクが下手糞で不気味。
それにしてもビル・カーソンが、縁もゆかりもないブロンディとトゥーコになぜわざわざお宝の在り処を教えたのかが、最後まで謎。 (評価:2)
彼女について私が知っている二、三の事柄
日本公開:1970年10月3日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール
原題"Deux ou trois choses que je sais d'elle"で、邦題の意。
パリ首都圏が拡張された時に制作された作品で、郊外に造成される大規模団地の映像から始まる。
この団地に住む主婦の売春の話で、夫はしがないガソリンスタンドの従業員。幼い息子と娘がいるが、親子間の会話が哲学的なのがゴダールらしい。
生活費とちょっとしたお洒落のために売春に手を染める主婦という労働者階級の一つの実態を描く社会派映画で、北ベトナム爆撃の会話もでてきて主婦売春に痛痒を感じないノンポリの精神の堕落なども対比されるが、半世紀後に観ると社会の表層を撫でているだけで、今村昌平のドキュメンタリー『人間蒸発』(1967)のような普遍的な人間精神にまで迫れていない。
登場人物たちに実存主義についての会話を延々とさせているが、主婦売春をしている主婦やその周辺にいる人間にとっては哲学などどうでもよく、それを観察する者にとっての自己満足な思索ゲームに過ぎず、「最近の世の中は」といって歎いているのと大差ない。
本作は、当時の映画好きのインテリがカフェで社会時評の会話をするための映画であって、今となってはカフェで老人が語る昔話に過ぎず、時代に消費されるモノとしての作品を超えられていない。 (評価:2)
プロフェッショナル
日本公開:1966年12月17日
監督:リチャード・ブルックス 製作:リチャード・ブルックス 脚本:リチャード・ブルックス 撮影:コンラッド・ホール 音楽:モーリス・ジャール
原題"The Professionals"で、4人のプロフェッショナルが登場する西部劇。フランク・オロークの小説"A Mule for the Marquesa"が原作。
メキシコ革命末期を時代背景に、テキサス油田の富豪がメキシコ革命派の山賊に妻を誘拐され、雇われた4人のプロフェッショナルが国境を跨いで奪還するという物語。
端から誘拐ではないと臭わせているが、妻はメキシコ人で富豪に略奪結婚させられ、妻と山賊は幼馴染の恋仲。二人が革命資金に身代金を詐取しようと企んだという、ありがちなストーリーになっている。
むしろ見どころは4人のプロフェッショナルに、リー・マーヴィン(銃)を中心として、ロバート・ライアン(馬)、ウディ・ストロード(弓矢)、バート・ランカスター(爆薬)とプロフェッショナルなスターを揃えたところで、西部劇の醍醐味のあるアクションシーンが展開される。
これに花を添えるのが、誘拐された妻のクラウディア・カルディナーレで、大スター競演のメキシカンな西部劇となっている。
からくりを知った4人のプロフェッショナルは、妻を富豪に引き渡さずに山賊に返し、賞金を諦めるという、これまたアメリカンな西部劇ヒーローののラストとなっている。 (評価:2)
野生のエルザ
日本公開:1966年3月15日
監督:ジェームズ・ヒル 製作:サム・ジャッフェ、ポール・ラディン 脚本:ジェラルド・L・C・コプリー 撮影:ケネス・タルボット 音楽:ジョン・バリー
原題"Born Free"で、生れながらに自由の意。ジョイ・アダムソンの同名ノンフィクションが原作。
ケニアの狩猟監視官ジョージ・アダムソンの妻ジョイが孤児となったライオンの子供エルザを育て、成長後、野生に戻すべく訓練し、1年の長期休暇後、子連れのエルザに再会するまで。
人とライオンとの愛情・交流を描いたもので、野生動物は野生に生きるのが一番という教訓物語で、動物好きやナチュラリストには心温まる話かもしれないが、終始不快感が付きまとう。
第一にライオンを子供代わりかペットとしか思わないジョイの傲慢さであり、エルザ以外のライオンは害獣として躊躇なく射殺してしまう夫妻の身勝手さ、さらにはエルザ以外の動物はライオンの餌としか思わない無神経さ。
この作品を見せられて、野生動物は自然に生きるのが一番と言われても、単にエルザへの偏愛に過ぎず、彼ら自身がナチュラリストを気取った偽善者にしか見えない。
夫妻はエルザをペットにするために調教していただけで、野生を失わせたことについての反省が一言も語られないのは見ていて不快でしかない。
冒頭の子ライオン3棟のじゃれ合いは可愛いが、この導入で野生動物の在り方についての客観性を失わせようとする演出意図も気持ちのいいものではない。 (評価:2)
恐竜100万年
日本公開:1967年2月21日
監督:ドン・チャフィ 製作:マイケル・カレラス 脚本:マイケル・カレラス 撮影:ウィルキー・クーパー 音楽:マリオ・ナシンベーネ
原題"One Million Years B.C."で、紀元前100万年の意。
恐竜が絶滅したのは6000万年以上前、ホモサピエンスの誕生が数十万年前、作中には人類も恐竜も登場するので、原題、邦題ともに齟齬があるが、そうした科学的考証は問わないのが正しい本作の見方で、『おかしなおかしな石器人』(1981)同様の原始時代もの。
そのため、いてはならない恐竜も登場するし、いてはならない人類も登場する。
この人類というのが、原人なのか猿人なのか、はたまた類人猿なのか単なるサルなのかよくわからない代物で、ゴリラのように跳ねたり、サル山のようなヒエラルキーでボス争いをしたり、食料を奪い合ったりする。
丘の上の野蛮な穴居部族と海辺に棲む槍の武器を持つ進んだ部族が登場するが、後者は原始人の割には現代人で、女たちが金髪グラマーの毛皮ビキニの美女揃いというのが笑える。
主人公は穴居部族のトゥマクという男で、食料争いから丘を離れ、海辺部族の金髪娘ロアナに助けられる。この娘を演じるのがラクエル・ウェルチで、本作の見どころがレイ・ハリーハウゼンの特撮とウェルチのビキニ姿であることがわかる。
トゥマクはここでもトラブルを起こして群れを離れるが、ロアナが追いかけてきて二人で丘の部族へ戻る。兄サカナが父を殺してボスとなっているのをトゥマクが追放、新ボスとなる。
サカナが逆襲してくるが、突然火山が噴火。地割れとともに造山運動が始まり、戦いどころではなくなるが、大地鳴動が収まって幕。
ロアナがプテラノドンに攫われたり、ティラノサウルスとトリケラトプスが戦うシーンが特撮的には大きな見せ場。イグアナ、蜘蛛、ウミガメなどの巨大生物が登場しての合成も特撮ファンには楽しい。
ストーリーも設定も合成も稚拙でツッコミどころ満載だが、コメディではない。ハマーフィルム制作。 (評価:2)
さすらいのガンマン
日本公開:1967年8月26日
監督:セルジオ・コルブッチ 製作:ルイジ・カルペンティエリ、エルマンノ・ドナーティ 脚本:ディーン・クレイグ フェルナンド・ディ・レオ 撮影:シルヴァーノ・イッポリティ 音楽:エンニオ・モリコーネ
原題"Navajo Joe"で、主人公の名。
冒頭、可愛いインディアン娘が登場したと思う間もなく無法者の一団に殺されてしまうという、殺伐としたマカロニ・ウェスタンで、主人公はインディアン・ヒーローのナバホ・ジョー(バート・レイノルズ)。
ダンカン(アルド・サンブレル)を首領とする無法者たちを成敗するというわかりやすい設定で、ダンカンはインディアン集落を襲っては頭皮を1枚1ドルで売っていたが、それが禁止される世の中となり、盗賊団に商売替えする。
銀行の現金輸送列車を襲うがジョーに邪魔され失敗。町を襲うがジョーが現金をインディアン墓地に隠してしまい、ジョーvsダンカン一味の対決となる。
最後は正義が勝つが、ダンカンがジョーの殺された妻の仇敵だったことがわかり、ジョーは現金を愛馬に託して町に行かせる。町の白人たちは馬も手に入れようとするが、銀行家のメイド(ニコレッタ・マキャヴェッリ)が馬をジョーに送り返させてエンドマークとなる。
バイオレンス・シーンも多くてマカロニの雰囲気はたっぷりなのだが、演出も演技も今一つで銃撃戦でのヤラレ役の演技が素人臭くて、間に合わせのマカロニを食べている気になる。
インディアンがヒーローということ以外に見どころはなく、せいぜいが美女揃いの女優陣で目の保養をするくらいか。
ちなみにバート・レイノルズはネイティブ・アメリカンのクォーター。 (評価:2)
皆殺しのバラード
日本公開:1967年12月24日
監督:ドニス・ド・ラ・パトリエール 脚本:ドニス・ド・ラ・パトリエール 撮影:バルテル・ボティッツ 音楽:ジョルジュ・ガルヴァランツ
原題"Du rififi à Paname"。オーギュスト・ル・ブルトンの小説が原作。
パリの暗黒街のボス・ポウロ(ジャン・ギャバン)と黄金の密輸ルートを捜査するアメリカの捜査官マイク(クラウディオ・ブルック)が対決する物語で、ストーリーの流れからするとマイクが主人公なのだが、そこはジャン・ギャバンの風格が勝ってポウロが主人公然とする。そのため、本来の主人公の影が薄くなっていて、今一つ中途半端さが残る。
ポウロの本業は黄金の密輸。一方、マイクはアメリカの敵国キューバへの黄金の密輸を潜入捜査するためポウロに接近、運び屋になる。最初の仕事が日本への密輸で、羽田空港から首都高、銀座などの都心部のロケシーンがちょっとした見どころ。
ポウロの仕事仲間のウォルター(ゲルト・フレベ)が武器売買に手を染めたことから、手下がミュンヘン、ロンドンで殺され、ウォルターが何者かに殺される。その正体はシカゴ・ギャングで、武器取引をすると見せかけてポウロが爆殺。そこにマイクら捜査官が踏み込んで、ポウロは御用。
フィルムノワールの雰囲気だけで何を争っているのかよくわからず、出来は今一つ。ポウロの御用もかっこ悪くてジャン・ギャバンらしくない。 (評価:2)
ある現代の女子学生
日本公開:劇場未公開
監督:エリック・ロメール 脚本:エリック・ロメール 撮影:ネストール・アルメンドロ
原題"Une étudiante d'aujourd'hui"で、ある現代の学生の意。
1960年代のフランスの女子学生の状況をレポートするもので、女子学生比率が43%で男女ほぼ同じ。戦前も3割だったというから、自由・平等・友愛のフランスの先進ぶりに驚かされる。
もっとも女子学生の多くはパリのホテルで親と同居するということで、どういう家庭の娘なのかは説明されない。タイトルの学生はその一人で、オルセー移転したパリ大学理学部に通う。学生結婚、出産を経て研究所で働き、家庭とキャリアを両立させる現代女性という姿で締め括られるが、結論がつまらない。
気になるのは猫を使った動物実験をしていることで、猫の脳味噌らしい標本も登場する。医学部・薬学部は就職先が少ないということで、女子学生は医学系ではないのだが、研究の内容が説明されないのが肝要を欠く。
今となっては、動物実験を含めてドキュメンタリーとしては問題の多い14分。 (評価:2)
サンダーバード 劇場版
日本公開:1967年7月15日
監督:デヴィッド・レイン 製作:シルヴィア・アンダーソン 脚本:ジェリー・アンダーソン、シルヴィア・アンダーソン 撮影:アラン・ペリー 音楽:バリー・グレイ
TVシリーズ"Thunderbirds"(1965-66)の劇場用第1作。映画の原題は"Thunderbirds are Go"。NHKで放映されたTVシリーズは当時、SF特撮人形劇として話題となったが、個人的には映画版が作られたことも公開されたことも知らなかったくらいで、興行成績はさんざんだった。
ただシネスコサイズで撮られたシーンのクオリティはなかなかで、とりわけ冒頭の火星探査ロケット基地での発射シーンの特撮は緻密。遠景の書割や煙、太陽の影も手を抜いていない。火星での戦闘シーンも火力バリバリで、地球突入時に窓から見える地上の景色の合成もなかなかの迫力。初の劇場版に手間と金を掛けた製作者の力の入れようは良くわかる。
しかしシナリオはテレビ・クオリティのままで、精巧な特撮人形劇を見せるための添えものでしかない。火星探査ロケットの打ち上げに妨害が入り、その妨害者をやっつける話と、火星に探査に行き、生命体と交戦、無事地球に戻ってくるまでの話が、前後半で分離していて繋がっていない。ストーリー的にはこれだけで、あとは危機のシーンで見せるとなると94分はやはり長い。
危機になる前からサンダーバードが出動するのも緊迫感がないし、最後の救助も何のためか、何が成功したのか良くわからない。大惨事を引き起こしておいて、ナイトクラブでペネロープとお祝いの会というシナリオライターの思考が理解できない。
テレビが成功したから映画にしたという間違った企画の典型。★1つは特撮スタッフへ。 (評価:2)
ミクロの決死圏
日本公開:1966年9月23日
監督:リチャード・フライシャー 製作:ソウル・デヴィッド 脚本:ハリー・クライナー 撮影:アーネスト・ラズロ 音楽:レナード・ローゼンマン
原題"Fantastic Voyage"で、空想的な航海の意。
人の乗った潜水艇がミクロサイズになって血管を通して体内に入り込むという、公開当時は画期的なSF作品だったが、半世紀たって見るとSF設定の劣化はともかく、美術がまるで学芸会のようにちゃちい。
同時期の『2001年宇宙の旅』(1968)と比べると、単にアイディア勝負で科学的思慮に欠けているのがよくわかり、シナリオもアドベンチャー物にありがちな定番サスペンスを繋ぎ合わせているだけで、その平凡さに次第に飽きてくる。
冒頭の赤血球・白血球と透明な血漿が説明されているうちは科学的だったが、敵が必要になってくるとソ連の工作員だけではSFにならないとあって、血液成分中にモンスターが欲しくなる。しかしそれが大量に出てきたり海藻ユラユラで冒険色を出そうとすると、血中コレステロールの高いどろどろ血液に見えてしまい、つい成人病の心配をしたくなる。
物語は冷戦時代を反映して、兵器のミクロ化を米ソが競い、東側の科学者を亡命させるが射撃されて重態。医療チームをミクロ化した潜水艇で治療するというもので、中に一人東側工作員がいて、妨害を撥ね退けて成功させるというもの。
潜水艇ミクロ化までのプロセスが結構まだるっこしくて、しかも衛生的でない。治療もコレステロールか血栓を取り除いているようにしか見えず、何を治療しようとしているのかがさっぱりわからない。
要はその程度の非科学的SFで、科学設定のアラを捜せばキリがないが、タイトル通りのファンタジーだとしても、シナリオも映像も通俗。 (評価:2)