外国映画レビュー──1964年
製作国:フランス・西ドイツ
日本公開:1964年10月4日
監督:ジャック・ドゥミ 製作:マグ・ボダール 脚本:ジャック・ドゥミ 音楽:ミシェル・ルグラン
カンヌ映画祭グランプリ
可憐な歌声がなければ、ドヌーヴはただの身勝手な女?
原題は"Les Parapluies de Cherbourg"で邦題の意。フランス製ミュージカル映画の名作で、ノルマンディー地方の港町シェルブールが舞台。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。
17歳の傘屋の娘と自動車整備工青年の恋物語で、結婚を約していた二人は青年がアルジェリア戦争に徴兵されたのを機に2年後の再会を誓って結ばれる。娘に恋した宝石商は経営難の傘屋に救いの手を差し伸べ、母を通して求婚するが、すでに少女は青年の子供を宿している。宝石商がそれを受け入れたことから、誠意に打たれた少女は結婚、傘屋を閉めて町を去る。除隊して戻った青年は失意し、病気の伯母の世話をしてくれていた身寄りのない少女と結婚、ガソリンスタンドを始めて新しい人生をスタートさせる。
傘屋の少女を演じるのが20歳のカトリーヌ・ドヌーヴで、本作で一躍スターとなった。かなり身勝手な少女を演じるが、美貌と可憐な歌声で魅了して、悲恋のヒロインを演じる。
実はドヌーヴの可憐な歌声は本人ではない。実際には低音の悪声だと聞いたことがあるが、本人が歌唱していたらただのbitchな娘の映画に終わり、名作にはならなかったかもしれない。本作を名作たらしめたのは、可憐な歌声を披露したダニエル・リカーリの功績で、個人的なことを書けば、彼女の歌唱部分を抜き出したサウンドトラックと他の曲を収録したLPを今も愛蔵している。
本作は台詞を含めて全編歌唱だが、すべて吹き替え。歌唱と台詞の声質の違和感を解消するためもあったに違いない。
ラストで娘を連れたドヌーヴがたまたまガソリンスタンドに立ち寄り、子持ちとなった青年と再会する。出征前、二人は結婚して娘が生まれたらフランソワーズ、息子だったらフランソワと約束する。ドヌーヴの娘の名はフランソワーズ、青年の息子の名はフランソワで、二人は互いの愛を確認してそれぞれの人生を祝福するという、いかにもおフランスな洒落た悲恋物語となっている。
もっとも冷静に考えれば、互いにかつての恋人と約した名前を子供につけるのは未練たらしく、それぞれの配偶者への背徳。最後まで身勝手な娘と捨てられた可哀そうな男の話なのだが、ミシェル・ルグランの哀愁漂う甘いメロディが、それをオブラートに包む。
ストーリー的には納得のいかないところがあるが、本作の時代背景を考えると、これが当時のフランスの状況であり、ありふれた悲劇だったのかもしれない。
物語は1957年から始まるが、1944年のノルマンディ上陸作戦から13年後。港町シェルブールでは撤退するドイツ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
17歳の少女と20歳の青年は、当時共に4歳と7歳で、青年が結婚することになる娘も同世代。母と傘屋を営む少女に父はなく、両親のいない青年は伯母に育てられ、結婚する娘もみなしご。劇中での説明はないが、背景にはシェルブールの戦いで家族を失って孤児となった登場人物たちの悲惨な状況が透けて見える。
そうした中で、家族や肉親を大切に思う気持ちは痛いほど伝わってきて、傘屋の娘が、生活のために金持ちとの結婚を望む母の気持ちに応えてしまう心情も理解できてくる。
本作は、そうした時代背景を理解すればいっそう輝きを増す。
オープニングの行き交う雨傘を真上から映したシーンや、衣装と部屋のカラーを統一した美術、シェルブール駅の別れのシーンなど、フランス映画らしい映像的な見どころも多い。 (評価:4)
日本公開:1964年10月4日
監督:ジャック・ドゥミ 製作:マグ・ボダール 脚本:ジャック・ドゥミ 音楽:ミシェル・ルグラン
カンヌ映画祭グランプリ
原題は"Les Parapluies de Cherbourg"で邦題の意。フランス製ミュージカル映画の名作で、ノルマンディー地方の港町シェルブールが舞台。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。
17歳の傘屋の娘と自動車整備工青年の恋物語で、結婚を約していた二人は青年がアルジェリア戦争に徴兵されたのを機に2年後の再会を誓って結ばれる。娘に恋した宝石商は経営難の傘屋に救いの手を差し伸べ、母を通して求婚するが、すでに少女は青年の子供を宿している。宝石商がそれを受け入れたことから、誠意に打たれた少女は結婚、傘屋を閉めて町を去る。除隊して戻った青年は失意し、病気の伯母の世話をしてくれていた身寄りのない少女と結婚、ガソリンスタンドを始めて新しい人生をスタートさせる。
傘屋の少女を演じるのが20歳のカトリーヌ・ドヌーヴで、本作で一躍スターとなった。かなり身勝手な少女を演じるが、美貌と可憐な歌声で魅了して、悲恋のヒロインを演じる。
実はドヌーヴの可憐な歌声は本人ではない。実際には低音の悪声だと聞いたことがあるが、本人が歌唱していたらただのbitchな娘の映画に終わり、名作にはならなかったかもしれない。本作を名作たらしめたのは、可憐な歌声を披露したダニエル・リカーリの功績で、個人的なことを書けば、彼女の歌唱部分を抜き出したサウンドトラックと他の曲を収録したLPを今も愛蔵している。
本作は台詞を含めて全編歌唱だが、すべて吹き替え。歌唱と台詞の声質の違和感を解消するためもあったに違いない。
ラストで娘を連れたドヌーヴがたまたまガソリンスタンドに立ち寄り、子持ちとなった青年と再会する。出征前、二人は結婚して娘が生まれたらフランソワーズ、息子だったらフランソワと約束する。ドヌーヴの娘の名はフランソワーズ、青年の息子の名はフランソワで、二人は互いの愛を確認してそれぞれの人生を祝福するという、いかにもおフランスな洒落た悲恋物語となっている。
もっとも冷静に考えれば、互いにかつての恋人と約した名前を子供につけるのは未練たらしく、それぞれの配偶者への背徳。最後まで身勝手な娘と捨てられた可哀そうな男の話なのだが、ミシェル・ルグランの哀愁漂う甘いメロディが、それをオブラートに包む。
ストーリー的には納得のいかないところがあるが、本作の時代背景を考えると、これが当時のフランスの状況であり、ありふれた悲劇だったのかもしれない。
物語は1957年から始まるが、1944年のノルマンディ上陸作戦から13年後。港町シェルブールでは撤退するドイツ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
17歳の少女と20歳の青年は、当時共に4歳と7歳で、青年が結婚することになる娘も同世代。母と傘屋を営む少女に父はなく、両親のいない青年は伯母に育てられ、結婚する娘もみなしご。劇中での説明はないが、背景にはシェルブールの戦いで家族を失って孤児となった登場人物たちの悲惨な状況が透けて見える。
そうした中で、家族や肉親を大切に思う気持ちは痛いほど伝わってきて、傘屋の娘が、生活のために金持ちとの結婚を望む母の気持ちに応えてしまう心情も理解できてくる。
本作は、そうした時代背景を理解すればいっそう輝きを増す。
オープニングの行き交う雨傘を真上から映したシーンや、衣装と部屋のカラーを統一した美術、シェルブール駅の別れのシーンなど、フランス映画らしい映像的な見どころも多い。 (評価:4)
製作国:フランス、イタリア
日本公開:1966年4月12日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:セルジュ・シルベルマン、ミシェル・サブラ 脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:ロジェ・フェルー
キネマ旬報:8位
地位の上昇と精神の下降という人間の悲しい性
原題"Le Journal D'une Femme De Chambre"で、邦題の意。オクターヴ・ミルボーの同名小説が原作。
フランスの田舎町、モンテイユウ家のメイドに雇われたセレスチーヌ(ジャンヌ・モロー)の目を通して、ブルジョアジーの醜悪な生態を描く。ブニュエルにしては比較的リアルな描写が多く、皮肉が利いていないのが若干物足りない。
セレスチーヌはパリの侯爵邸で働いていたという本物のメイドで、なぜ都落ちして田舎素封家のメイドになろうとしたのかの説明はないが、プロローグの車窓のシーンからは都会の生活に疲れた様子が窺われる。
そうして安らぎを求めて駅に降り立つと、馬車で迎えに現われた下男ジョゼフ(ジョルジュ・ジェレ)は偏屈で、女主人(フランソワーズ・リュガーニュ)は口煩く、老父(ジャン・オゼンヌ)は足フェチで、婿(ミシェル・ピッコリ)は好色家という通俗な環境。隣家の退役軍人モージェ(ダニエル・イヴェルネル)とも仲が悪い。
老父の専属メイドとなったセレスチーヌは都会的であったことから好奇の目に晒され、ジョゼフに淫売という噂を立てられ、男たちに言い寄られる。
老父が急死してお役御免となりパリに帰ることにするが、可愛がっていた村の少女クレアが殺されたことから、ジョゼフが犯人と疑うセレスチーヌは邸に留まる。犯行の証拠を掴み警察に密告してジョゼフは逮捕され、セレスチーヌはモージェと結婚、モンテイユウ家の下女をメイドに迎えてfinとなる。
1930年代の反ユダヤ主義、右翼、民族主義などの政治状況を背景に、中産階級の堕落と過激思想に動かされる人々の醜悪をセレスチーヌの目を通して描くが、そうした通俗な人々に批判的だったセレスチーヌが結局は中産階級の一員となり、ベッドで朝食を迎えるという通俗に堕してしまう。
ジョゼフは証拠不十分で釈放され、近づく戦争を目当てに軍港シェルブールでカフェを開くが、かつてセレスチーヌに同じ種類の人間だと嘯いていた通りに、地位の上昇とそれに伴う精神の下降という人間の悲しい性が描かれる。 (評価:2.5)
日本公開:1966年4月12日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:セルジュ・シルベルマン、ミシェル・サブラ 脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:ロジェ・フェルー
キネマ旬報:8位
原題"Le Journal D'une Femme De Chambre"で、邦題の意。オクターヴ・ミルボーの同名小説が原作。
フランスの田舎町、モンテイユウ家のメイドに雇われたセレスチーヌ(ジャンヌ・モロー)の目を通して、ブルジョアジーの醜悪な生態を描く。ブニュエルにしては比較的リアルな描写が多く、皮肉が利いていないのが若干物足りない。
セレスチーヌはパリの侯爵邸で働いていたという本物のメイドで、なぜ都落ちして田舎素封家のメイドになろうとしたのかの説明はないが、プロローグの車窓のシーンからは都会の生活に疲れた様子が窺われる。
そうして安らぎを求めて駅に降り立つと、馬車で迎えに現われた下男ジョゼフ(ジョルジュ・ジェレ)は偏屈で、女主人(フランソワーズ・リュガーニュ)は口煩く、老父(ジャン・オゼンヌ)は足フェチで、婿(ミシェル・ピッコリ)は好色家という通俗な環境。隣家の退役軍人モージェ(ダニエル・イヴェルネル)とも仲が悪い。
老父の専属メイドとなったセレスチーヌは都会的であったことから好奇の目に晒され、ジョゼフに淫売という噂を立てられ、男たちに言い寄られる。
老父が急死してお役御免となりパリに帰ることにするが、可愛がっていた村の少女クレアが殺されたことから、ジョゼフが犯人と疑うセレスチーヌは邸に留まる。犯行の証拠を掴み警察に密告してジョゼフは逮捕され、セレスチーヌはモージェと結婚、モンテイユウ家の下女をメイドに迎えてfinとなる。
1930年代の反ユダヤ主義、右翼、民族主義などの政治状況を背景に、中産階級の堕落と過激思想に動かされる人々の醜悪をセレスチーヌの目を通して描くが、そうした通俗な人々に批判的だったセレスチーヌが結局は中産階級の一員となり、ベッドで朝食を迎えるという通俗に堕してしまう。
ジョゼフは証拠不十分で釈放され、近づく戦争を目当てに軍港シェルブールでカフェを開くが、かつてセレスチーヌに同じ種類の人間だと嘯いていた通りに、地位の上昇とそれに伴う精神の下降という人間の悲しい性が描かれる。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ、イギリス、ギリシャ
日本公開:1965年9月25日
監督:マイケル・カコヤニス 製作:マイケル・カコヤニス 脚本:マイケル・カコヤニス 撮影:ウォルター・ラサリー 音楽:ミキス・テオドラキス
キネマ旬報:7位
ゾルバは地上に下りたギリシャ神話の神ゼウス
原題"Zorba the Greek"で、ギリシャのゾルバの意。ニコス・カザンザキスの小説"Βίος και Πολιτεία του Αλέξη Ζορμπά "(アレクシス・ゾルバの生涯)が原作。
父親がギリシャ人のイギリス人作家バジル(アラン・ベイツ)が、父の遺産の鉱山を再興するためにクレタ島にやってくるという話で、ギリシャの港で知り合った老人ゾルバ(アンソニー・クイン)がその相棒となる。
クレタ島の宿屋のフランス人の女主人(リラ・ケドロヴァ)とゾルバの恋、バジルと未亡人(イレーネ・パパス)の恋、未亡人に恋する青年の自殺、父親の復讐、採掘場工事の完成と破綻といったエピソードが描かれていくが、大きな見せ場もなく基本はシンプル。それを救うのがアンソニー・クインの演技で、それがすべてともいえる作品。
プロローグ用に撮られたフィルムがあって、ゾルバが天上の神に位置付けられている。実際のプロローグは天上の雲から地上に降りてくるカメラの主観視点で、編集でカットされたフィルムから、これがゾルバが天上から地上へと下りてくるシーンであることがわかる。
作品的にはカットしたのが正解で、陳腐になるのを免れているが、ゾルバが神であるというメタファーは作品を理解する上ではヒントになる。
女好きで自堕落でしかしやさしさに溢れるゾルバはギリシャ神話の神ゼウスを体現していて、書斎派のバジルに人間らしい自由で奔放な生き方を教え諭す。
一方、クレタの島民たちは排他的かつ利己的で、青年を自殺に追いやった未亡人を殺し、死んだ宿屋の女主人の財産を略奪、異教徒という理由で埋葬しない。クレタ島はギリシャ正教会で、女主人はおそらくローマ・カトリック。
そうしたキリスト教徒たちの不寛容を背景に、ゾルバは人間らしい生き方をバジルに示し、バジルはゾルバに教えられたギリシャのダンスを踊って生まれ変わるというラストに繋がるが、屈折した歴史を背負うギリシャ人へのカコヤニスの願いそのものかもしれない。
アンソニー・クインに呼応するリラ・ケドロヴァの演技も上手く、アカデミー助演女優賞を受賞。 (評価:2.5)
日本公開:1965年9月25日
監督:マイケル・カコヤニス 製作:マイケル・カコヤニス 脚本:マイケル・カコヤニス 撮影:ウォルター・ラサリー 音楽:ミキス・テオドラキス
キネマ旬報:7位
原題"Zorba the Greek"で、ギリシャのゾルバの意。ニコス・カザンザキスの小説"Βίος και Πολιτεία του Αλέξη Ζορμπά "(アレクシス・ゾルバの生涯)が原作。
父親がギリシャ人のイギリス人作家バジル(アラン・ベイツ)が、父の遺産の鉱山を再興するためにクレタ島にやってくるという話で、ギリシャの港で知り合った老人ゾルバ(アンソニー・クイン)がその相棒となる。
クレタ島の宿屋のフランス人の女主人(リラ・ケドロヴァ)とゾルバの恋、バジルと未亡人(イレーネ・パパス)の恋、未亡人に恋する青年の自殺、父親の復讐、採掘場工事の完成と破綻といったエピソードが描かれていくが、大きな見せ場もなく基本はシンプル。それを救うのがアンソニー・クインの演技で、それがすべてともいえる作品。
プロローグ用に撮られたフィルムがあって、ゾルバが天上の神に位置付けられている。実際のプロローグは天上の雲から地上に降りてくるカメラの主観視点で、編集でカットされたフィルムから、これがゾルバが天上から地上へと下りてくるシーンであることがわかる。
作品的にはカットしたのが正解で、陳腐になるのを免れているが、ゾルバが神であるというメタファーは作品を理解する上ではヒントになる。
女好きで自堕落でしかしやさしさに溢れるゾルバはギリシャ神話の神ゼウスを体現していて、書斎派のバジルに人間らしい自由で奔放な生き方を教え諭す。
一方、クレタの島民たちは排他的かつ利己的で、青年を自殺に追いやった未亡人を殺し、死んだ宿屋の女主人の財産を略奪、異教徒という理由で埋葬しない。クレタ島はギリシャ正教会で、女主人はおそらくローマ・カトリック。
そうしたキリスト教徒たちの不寛容を背景に、ゾルバは人間らしい生き方をバジルに示し、バジルはゾルバに教えられたギリシャのダンスを踊って生まれ変わるというラストに繋がるが、屈折した歴史を背負うギリシャ人へのカコヤニスの願いそのものかもしれない。
アンソニー・クインに呼応するリラ・ケドロヴァの演技も上手く、アカデミー助演女優賞を受賞。 (評価:2.5)
荒野の用心棒
日本公開:1965年12月25日
監督:セルジオ・レオーネ 製作:アリゴ・コロンボ、ジョルジオ・パピ 脚本:ヴィクトル・アンドレス・カテナ、ハイメ・コマス・ギル、セルジオ・レオーネ 音楽:エンニオ・モリコーネ
マカロニ・ウエスタン第1作。原題は"Per un pugno di dollari"で、「一握りのドルのために」の意。
マカロニ・ウエスタンはイタリア製西部劇のことで、当時、紛い物のニュアンスで言われた。日本でも60年代頃から主人公がカウボーイハットを被り、どことなく西部劇っぽい雰囲気の映画があったが、舞台は日本、主人公も日本人だった。マカロニ・ウエスタンはアメリカ周辺が舞台でアメリカ人が主人公の西部劇という、本場ものに見せかけた中国のコピー商品みたいな映画で、やはり贋物臭かった。
その紛い物に主演したのが無名に近かったクリント・イーストウッドで、これが出世作となった。イーストウッドは監督としては良い作品を作るが俳優としては大根で、この映画でも大根ぶりを発揮するが、黙っていれば無骨に見えてカッコいいのは高倉健と同じ。そのイーストウッドのカッコよさを堪能する映画でもある。
この映画は黒澤明の『用心棒』の翻案というか盗作で、いかがわしさは極まっているが、それでも本場の西部劇にはないハードボイルドな乾いた雰囲気がいい。とりわけ、顔がテカテカしていてオリーブオイルのように脂ぎっているのが野生的で、ラテン系の俳優たちは男も女もべたつく感じでセクシーなのもマカロニの良さ。これでシナリオが良ければ★4つなのだが、中身のないのもマカロニの特徴。突っ込みどころは満載だが、それを指摘するのは正しいマカロニの食し方ではない。
ただ、それまでのアングロ系国粋的西部劇に衝撃を与えたという点で映画史に残る作品で、★2.5は辛すぎるが、決して佳作にはならないというのもマカロニらしくて良いのかもしれない。
オープニングの映像とテーマ曲がいい。 (評価:2.5)
はなればなれに
日本公開:2001年2月3日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ミシェル・ルグラン
原題"Bande à part"で、邦題の意。ドロレス・ヒッチェンズの小説"Fools' Gold"が原作。
若者男女3人が金持ち女の家にある大金を盗もうとする犯罪映画で、それぞれに若干頭が足りないので刹那的で計画も実行も杜撰。
案の定、失敗に終わるのだが、思い付きで場当たり的に行動する若者たちを描くという点ではゴダールらしく、撮影もゴダールらしく場当たり的に行われた即興演出ということで、この価値観に共鳴できないとバカで不良な若者たちを描いただけにしか見えない。
物語は親友のフランツ(サミー・フレイ)とアルチュール(クロード・ブラッスール)が英語学校で美少女オディル(アンナ・カリーナ)に一目惚れ。オディルは叔母とたいそうな屋敷に住んでいて、大金があるということを知って、アルチュールに心惹かれるオディルに手引きさせて屋敷に忍び込む。ところが大金が見つからず、叔母にも見つかり犯行計画は狂いだして失敗。
怪我をしたアルチュールを置いて、オディルはフランツと逃避行という結末。
タータンチェックのスカートにニットシャツのアンナ・カリーナの女学生姿が可愛いという以外に見どころはなく、自転車シーンからお勉強シーン、泥棒さんシーンと魅力を発揮。とりわけ、三人がカフェでダンスを踊るシーンが最高で、一人抜け二人抜けして、最後にアンナ・カリーナが一人で踊るのが垂涎。 (評価:2.5)
製作国:イタリア、フランス
日本公開:1966年9月22日
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作:アルフレド・ビニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:ルイス・バカロフ
キネマ旬報:4位
1本眉のイエスは超能力者ザカリー・クイントを思い出させる
原題は"Il Vangelo secondo Matteo"で「マタイによる福音書」の意。「マタイによる福音書」に基づくキリスト伝で、宗教映画的色彩が濃い。
マリアの処女懐胎から始まるが、マルゲリータ・カルーソが一目でマリアとわかる風貌でキャスティングがなかなか上手い。エンリケ・イラソキが左右の眉の繋がったイエスを演じるが、TVドラマ『HEROES』のサイラーや映画『Star Trek』(2009)でスポックを演じるザカリー・クイントを思い出させて、イエスの奇跡もサイラーやスポックの超能力に思えて納得できる。
東方の三賢人や最後の晩餐、ゴルゴタの丘などの有名なエピソードを経て、イエスの復活までが描かれるが、2時間で知るキリスト教としてはロケシーンを含めてわかりやすくできていて、洗礼、聖体礼儀などの儀式のルーツや教義を物語として知ることができ、キリスト教入門編としては便利。
適度なリアリズムと宗教的空想性が違和感なく描かれているが、あくまでも宗教映画であり歴史映画ではないので、初期キリスト教の映画を期待すると、歴史的知見からの突っ込みどころは多い。
年老いてからのマリア役のスザンナ・パゾリーニは、パゾリーニの母親。 (評価:2.5)
日本公開:1966年9月22日
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 製作:アルフレド・ビニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:ルイス・バカロフ
キネマ旬報:4位
原題は"Il Vangelo secondo Matteo"で「マタイによる福音書」の意。「マタイによる福音書」に基づくキリスト伝で、宗教映画的色彩が濃い。
マリアの処女懐胎から始まるが、マルゲリータ・カルーソが一目でマリアとわかる風貌でキャスティングがなかなか上手い。エンリケ・イラソキが左右の眉の繋がったイエスを演じるが、TVドラマ『HEROES』のサイラーや映画『Star Trek』(2009)でスポックを演じるザカリー・クイントを思い出させて、イエスの奇跡もサイラーやスポックの超能力に思えて納得できる。
東方の三賢人や最後の晩餐、ゴルゴタの丘などの有名なエピソードを経て、イエスの復活までが描かれるが、2時間で知るキリスト教としてはロケシーンを含めてわかりやすくできていて、洗礼、聖体礼儀などの儀式のルーツや教義を物語として知ることができ、キリスト教入門編としては便利。
適度なリアリズムと宗教的空想性が違和感なく描かれているが、あくまでも宗教映画であり歴史映画ではないので、初期キリスト教の映画を期待すると、歴史的知見からの突っ込みどころは多い。
年老いてからのマリア役のスザンナ・パゾリーニは、パゾリーニの母親。 (評価:2.5)
ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
日本公開:1964年8月1日
監督:リチャード・レスター 製作:ウォルター・シェンソン 脚本:アラン・オーウェン 撮影:ギルバート・テイラー 音楽:ジョージ・マーティン
ビートルズの初主演映画。原題は"A Hard Day's Night"で、この曲をテーマに人気沸騰したビートルズの忙しい日々、hard daysを追いかけるセミ・ドキュメンタリー風の作品になっている。
ビートルズに興味のない人にはどうでもいい作品だが、当時のビートルズ旋風の生な空気をかなり的確にとらえていて、現代風俗史としての価値はある。
女の子の追っかけやステージシーンなどは当然仕込みのはずなのだが、一部に実際の映像ではないかと思えるくらいに真に迫った女の子たちの様子があったりして、当時のビートルズ現象を知る上では歴史的にも貴重な映像。
リハーサルを勝手に抜け出したり、ジョンがプロデューサーに逆らうなど、フィクションとして作られたシナリオ・演出ながら、既成の価値観への否定や大人世代に対する反抗をコミカルに描いていて、ビートルズの主張や存在意義を反映させている。
サウンドトラックは同名のアルバムとして発売されたが、現在すっかりスタンダードとなったビートルズの曲に、当時の十代の女の子が風俗的に熱狂するさまを見ると、半世紀を超えた今、それが不思議なギャップとして感じられ、なぜそうまでして女の子たちは狂ったのか、女の子たちは何に対して狂ったのかについて考えさせられてしまう。 (評価:2.5)
シャイアン
日本公開:1964年12月19日
監督:ジョン・フォード 製作:バーナード・スミス 脚本:ジェームズ・R・ウェッブ 撮影:ウィリアム・クローシア 音楽:アレックス・ノース
原題は"Cheyenne Autumn"で、シャイアンの秋の意。ハワード・ファストの小説"The Last Frontier"が原作で、歴史上の事件が基になっている。
邦題が示す通り、本作の主役はシャイアン族で、荒野に強制移住させられた1000人のシャイアン族が飢えと病気から3分の1に減り、故郷に逃亡する物語。
合衆国政府との話し合いを無視され、強制移住させられた居留地から出ると法に背いたと騎兵隊に追討され、故郷に戻る行動を反乱と決めつけられ、無法者に仲間を殺され復讐するとインディアンの暴虐だと非難されるという、シャイアン族の悲劇を描く。
騎兵隊ものなどの西部劇を撮ってきたジョン・フォードの集大成ともいえる西部劇だが、西部劇であって西部劇ではないという、先住民に対して合衆国政府がどれだけの無法を行ってきたかという西部劇の帝王ジョン・フォードならではの反省の上に立った告発となっている。
それでも、騎兵隊の追討シーンでは、これまでの西部劇でジョン・フォードが確立した活劇手法が随所に見られ、社会派映画としてはなんともチグハグな気分にさせられる。エンタテイメントを加味するために、ワイアットアープとドク・ホリデイの西部劇的寸劇も入るが、無理やり突っ込んだエピソードの感は免れず、当時の西部劇としては必須だったが、今見ると不要のシーンで、なかった方がすっきりする。
これまた当時としては白人の観客を納得させるために必要だったが、先住民孤児に勉強を教えるクウェーカー教徒の美人教師(キャロル・ベイカー)も先住民虐待の言い訳程度にしかならず、ハリウッドと時代の限界を感じる。 (評価:2.5)
魂のジュリエッタ
日本公開:1966年11月19日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:アルベルト・リッツォーリ 脚本:エンニオ・フライアーノ、フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ニーノ・ロータ
原題"Giulietta degli spiriti"で、邦題の意。
フェリーニ初のカラー作品で、その後の『フェリーニのローマ』(1972)などに見られる極彩色ともいえる色遣いがなされている。
物語的には夫婦のすれ違いを描くもので、結婚15周年を夫(マリオ・ピス)と二人きりで祝おうと妻のジュリエッタ(ジュリエッタ・マシーナ)が準備していると、意に反して映画プロデューサーの夫は派手に祝おうと仲間を連れて帰ってくる。その中に霊媒師がいて、妻は降霊術の後、しばしば現実を離れて白日夢を見るという神秘体験を繰り返すことになる。
その原因となるのが子供の頃に学芸会で演じた焚刑となる魔女役の記憶で、不謹慎だと怒った父親が芝居を中止させてしまう。
夫が寝言で女の名を口走ったことからジュリエッタは興信所を雇い、夫の浮気を知るが、隣人の女はジュリエッタにも浮気を勧め美青年を紹介する。一度はベッドを共にしようとするが、白日夢に学芸会の際の天使像が現れて思い直す。
学芸会の体験でジュリエッタはカトリックの倫理観に束縛されたともいえ、フェリーニの神学校での原体験を見ることができる。
宗教的倫理観とは無縁に見える享楽的な夫と宗教的倫理観に縛られる内省的な妻の相剋を、結婚15年を経た夫婦のすれ違いとして描き、ジュリエッタが魂の自由を手にするラストシーンとなる。
隣人の女を筆頭にフェリーニらしい派手派手しい女たちが登場する中に、一人地味なマシーナが月見草となるが、中年となっても『道』(1954)のジェルソミーナのように可憐で清々しいのはさすがの演技。 (評価:2.5)
製作国:アメリカ
日本公開:1965年12月18日
監督:ロバート・スティーヴンソン 製作:ウォルト・ディズニー、ビル・ウォルシュ 脚本:ビル・ウォルシュ、ドン・ダグラディ 撮影:エドワード・コールマン 音楽:ロバート・B・シャーマン、リチャード・M・シャーマン
キネマ旬報:5位
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)
アニメーションとの合成は新鮮だが、全体は退屈
原題"Mary Poppins"で、主人公の魔女の名前。ジュリー・アンドリュースが主役のミュージカル映画で、原作はパメラ・L・トラヴァースの同名児童文学。
ウォルト・ディズニー・カンパニーの製作で、アカデミー特殊視覚効果賞を受賞した、アニメーションとの合成が当時は新鮮だった。合成パートはよくできているし楽しい。また、冒頭から明らかに書割とわかるようにセットを組んでいて、その後の合成パートを自然に見せている。
そうした工夫で、メリー・ポピンズが登場して子供たちをファンタジーの世界に連れていく前半パートは、たいしたストーリーがなくても楽しいが、後半パートの現実世界の話になると単調な歌と踊りだけで見せるために途端に退屈になる。
ロンドンの上流家庭を舞台に、厳格な父親に対して、nannyのポピンズがその考えを改めさせるという、翌年に製作された『サウンド・オブ・ミュージック』と似たような話だが、本作はそれだけの話でストーリー性がない。その分ミュージカルらしく踊りで見せるのだが、煙突男たちの踊りが長く、ストーリー的にも関係がないので飽きる。
ポピンズの魔法で父親が変わり、ポピンズは去っていくが、傘をさして空からやってきて、空に帰っていく姿が、子供の頃に初めて見た時は、印象的だった。
「チム・チム・チェリー(Chim Chim Cher-ee)」が代表曲で、アカデミー歌曲賞受賞。ジュリー・アンドリュースはアカデミー主演女優賞。 (評価:2.5)
日本公開:1965年12月18日
監督:ロバート・スティーヴンソン 製作:ウォルト・ディズニー、ビル・ウォルシュ 脚本:ビル・ウォルシュ、ドン・ダグラディ 撮影:エドワード・コールマン 音楽:ロバート・B・シャーマン、リチャード・M・シャーマン
キネマ旬報:5位
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)
原題"Mary Poppins"で、主人公の魔女の名前。ジュリー・アンドリュースが主役のミュージカル映画で、原作はパメラ・L・トラヴァースの同名児童文学。
ウォルト・ディズニー・カンパニーの製作で、アカデミー特殊視覚効果賞を受賞した、アニメーションとの合成が当時は新鮮だった。合成パートはよくできているし楽しい。また、冒頭から明らかに書割とわかるようにセットを組んでいて、その後の合成パートを自然に見せている。
そうした工夫で、メリー・ポピンズが登場して子供たちをファンタジーの世界に連れていく前半パートは、たいしたストーリーがなくても楽しいが、後半パートの現実世界の話になると単調な歌と踊りだけで見せるために途端に退屈になる。
ロンドンの上流家庭を舞台に、厳格な父親に対して、nannyのポピンズがその考えを改めさせるという、翌年に製作された『サウンド・オブ・ミュージック』と似たような話だが、本作はそれだけの話でストーリー性がない。その分ミュージカルらしく踊りで見せるのだが、煙突男たちの踊りが長く、ストーリー的にも関係がないので飽きる。
ポピンズの魔法で父親が変わり、ポピンズは去っていくが、傘をさして空からやってきて、空に帰っていく姿が、子供の頃に初めて見た時は、印象的だった。
「チム・チム・チェリー(Chim Chim Cher-ee)」が代表曲で、アカデミー歌曲賞受賞。ジュリー・アンドリュースはアカデミー主演女優賞。 (評価:2.5)
製作国:イタリア、フランス
日本公開:1965年10月9日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 製作:アントニオ・チェルヴィ 脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ 撮影:カルロ・ディ・パルマ 音楽:ジョヴァンニ・フスコ
キネマ旬報:8位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
病気自慢の自己愛の精神を慰撫するだけの自己回帰
原題"Il deserto rosso"で邦題の意。
モニカ・ヴィッティ演じる人妻の心象風景を描いていくため、各シーンは断片的で、それを繋ぐ説明もない。物語を物語らないため、ドラマというよりはドキュメンタリーを見ているような感覚がある。
それでも一応ストーリー的な流れはあって、イタリア北部の工場都市ラベンナで暮らす人妻には工場技師の夫と幼い息子がいて、夫の友人が南米のパタゴニアに建設する新工場のための応援を頼みに来る。しかし妻は、交通事故のショックで精神を病んでいて、友人は同情か、それとも一家にパタゴニアへの移住を決意させるためか、はたまた美人に気があるのか、妻の精神的なフォローを始める。
港の小屋に仲間たちと集り、よく訳のわからないパーティをしたり、伝染病を乗せた船が入港したり、息子が歩けなくなったりと、よくわからないエピソードが続き、いずれにしても彼女の鬱症状を追っていく。
それには背景も必要とばかりに、何の工場だかわからない煙突からは間歇的に炎や黄色い煙が上がり、工場は騒音に満たされ、突然水蒸気が噴き出て濃霧で工場を包む。町も港もくすんだ灰色に彩られ、鬱気分を演出するが、人妻は夫の友人と不貞を働いても気分は晴れず、パタゴニアが新天地にもならず、息子を含めて何も彼女に生き甲斐をもたらさない。
ただ何となく鬱という、60年代の気怠い気分を映しながら、まあその気分は現代にもある麻疹のようなもので、それを描いたところで何ももたらさず、何も解決することなく、病気自慢の自己愛の精神を慰撫するだけの自己回帰にすぎず、半世紀経って見ても、人生への達観にも至らない。 (評価:2.5)
日本公開:1965年10月9日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 製作:アントニオ・チェルヴィ 脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ 撮影:カルロ・ディ・パルマ 音楽:ジョヴァンニ・フスコ
キネマ旬報:8位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞
原題"Il deserto rosso"で邦題の意。
モニカ・ヴィッティ演じる人妻の心象風景を描いていくため、各シーンは断片的で、それを繋ぐ説明もない。物語を物語らないため、ドラマというよりはドキュメンタリーを見ているような感覚がある。
それでも一応ストーリー的な流れはあって、イタリア北部の工場都市ラベンナで暮らす人妻には工場技師の夫と幼い息子がいて、夫の友人が南米のパタゴニアに建設する新工場のための応援を頼みに来る。しかし妻は、交通事故のショックで精神を病んでいて、友人は同情か、それとも一家にパタゴニアへの移住を決意させるためか、はたまた美人に気があるのか、妻の精神的なフォローを始める。
港の小屋に仲間たちと集り、よく訳のわからないパーティをしたり、伝染病を乗せた船が入港したり、息子が歩けなくなったりと、よくわからないエピソードが続き、いずれにしても彼女の鬱症状を追っていく。
それには背景も必要とばかりに、何の工場だかわからない煙突からは間歇的に炎や黄色い煙が上がり、工場は騒音に満たされ、突然水蒸気が噴き出て濃霧で工場を包む。町も港もくすんだ灰色に彩られ、鬱気分を演出するが、人妻は夫の友人と不貞を働いても気分は晴れず、パタゴニアが新天地にもならず、息子を含めて何も彼女に生き甲斐をもたらさない。
ただ何となく鬱という、60年代の気怠い気分を映しながら、まあその気分は現代にもある麻疹のようなもので、それを描いたところで何ももたらさず、何も解決することなく、病気自慢の自己愛の精神を慰撫するだけの自己回帰にすぎず、半世紀経って見ても、人生への達観にも至らない。 (評価:2.5)
未知への飛行
日本公開:1982年6月26日
監督:シドニー・ルメット 製作:マックス・E・ヤングスタイン 脚本:ウォルター・バーンスタイン 撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド
原題"Fail Safe"で、安全装置の意。ユージン・バーディック、ハーヴェイ・ホイラーの同名小説が原作。
キューバ危機の2年後に公開された作品で、米ソ核戦争に対する危機感が伝わってくる。
アラスカ沖を警戒飛行中の水爆搭載B58爆撃機が、ソ連の妨害電波により安全装置が誤作動を起こし、モスクワ爆撃の指令を受しまうというもの。発令後は敵の工作を排除するため一切の指示を受け付けないシステムになっていて、慌てふためくホワイトハウスはモスクワに向かう爆撃機を撃墜するために戦闘機を向かわせるが失敗。
モスクワとのホットラインを通じて撃墜のために情報を提供。戦争を避けるためにロシアが爆撃された場合には自らの手でニューヨークにも水爆を落とすという交換条件を出す。
国民の命を弄ぶ権力者的な交換条件に、核競争に突き進んだアメリカの不遜を見ることができるが、結末はモスクワとニューヨークが消滅するという悲劇で終わる。
本作の舞台はオマハの戦略空軍司令部とペンタゴン、ホワイトハウスの地下壕、爆撃機のコックピットがほとんどで、それぞれが隔絶した環境の中に置かれ、互いの状況が全くわからないままに、コントロール不能の事態だけが進行していくという、機械とシステムに頼る近代戦の恐怖がヒシヒシと伝わってくる。
翻って、今も核戦争の恐怖は去っていないことを考えれば、この話が米ソ冷戦時代のお伽噺ではないことを改めて実感させる。アメリカ大統領にヘンリー・フォンダ。 (評価:2.5)
パリのナジャ
日本公開:劇場未公開
監督:エリック・ロメール 脚本:ナジャ・テシック 撮影:ネストール・アルメンドロス
原題"Nadja à Paris"で、邦題の意。
ナジャ・テシックはベオグラード出身でアメリカに帰化。パリ14区に設けられた国際大学都市でプルースト研究のために学ぶ留学生。そんなナジャがパリの街を満喫する様子を描く、いわば異邦人が見たパリ案内。
立ち読み可の古本屋、人々が日がな一日を過ごすカフェテラス、夜のモンパルナスでのサロン談義とパリの街を歩きながらその印象を語る14分の短編。
パリで暮らす外国人ならではの視点と、パリの街と人々の素顔を覗けるのが面白いが、留学生視点のパリの文化的な面ばかりが強調されていて、どこか綺麗ごとのパリ紹介になっているのが気になる。
所詮はプチブル、インテリにとっての文化都市パリで、ボヘミアンないしは高等遊民の空疎な臭いがする。 (評価:2.5)
製作国:ソ連
日本公開:1964年12月20日
監督:グリゴーリ・コージンツェフ 脚本:グリゴーリ・コージンツェフ 撮影:ヨナス・グリッツィウス 音楽:ドミトリ・ショスタコーヴィチ
キネマ旬報:10位
通俗的な脳味噌には生きたドラマとして伝わらない
原題"Гамлет"で、邦題の意。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲が原作。
父王の急死の報にデンマークに帰国したハムレット(インノケンティ・スモクトゥノフスキー)が、学友たちから王の亡霊出現を聞いて、母と叔父の謀略を知る…というお馴染みの物語だが、ストーリーを知っているという前提なのか、説明が省略されていてすこぶる話がわかりにくい。
冒頭、荒れ狂う波と岸辺に建つ城、城門の閉鎖といった一連の表現主義的な映像は素晴らしく、『ハムレット』の舞台劇を写実で見せたい、写実で見たいといったシェイクスピア・ファンにとっては、きっと堪らない魅力がある。
だからといってファンではない者には、やはりモスクワ大公国の城塞で撮影された舞台劇よりは、普通にドラマとしての映画を観たいのであって、"Frailty, thy name is woman."や"To be or not to be, that is the question."の台詞もあったんだかなかったんだか、ロシア語でわからないようでは便秘になる。
パステルナーク翻訳の台詞も比喩表現が多くて、日本語字幕の出来の問題なのか、通俗的な脳味噌には生きた言葉として伝わらず、ストーリーが上手く繋がってない。とりわけハムレットとオフィーリア(アナスタシア・ヴェルチンスカヤ)が何を考えているのが良くわからず、二人の演技が悪いのか、それとも台詞が足りないのか演出が悪いのか、"Get thee to a nunnery!"(尼寺へ)の台詞も唐突でびっくりする。
表現主義的演出の悪弊は、映像で表現しようとするあまり、1カットがやたら間延びして見えることで、これが延々と続くとテンポが悪くて眠くなる。原作が有名なだけにストーリーがわかっていると、演出がくどくて退屈する。
舞台劇の映像表現の機微よりも、ハムレットとオフィーリアの心理描写の機微にも力を注いでほしかった。 (評価:2)
日本公開:1964年12月20日
監督:グリゴーリ・コージンツェフ 脚本:グリゴーリ・コージンツェフ 撮影:ヨナス・グリッツィウス 音楽:ドミトリ・ショスタコーヴィチ
キネマ旬報:10位
原題"Гамлет"で、邦題の意。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲が原作。
父王の急死の報にデンマークに帰国したハムレット(インノケンティ・スモクトゥノフスキー)が、学友たちから王の亡霊出現を聞いて、母と叔父の謀略を知る…というお馴染みの物語だが、ストーリーを知っているという前提なのか、説明が省略されていてすこぶる話がわかりにくい。
冒頭、荒れ狂う波と岸辺に建つ城、城門の閉鎖といった一連の表現主義的な映像は素晴らしく、『ハムレット』の舞台劇を写実で見せたい、写実で見たいといったシェイクスピア・ファンにとっては、きっと堪らない魅力がある。
だからといってファンではない者には、やはりモスクワ大公国の城塞で撮影された舞台劇よりは、普通にドラマとしての映画を観たいのであって、"Frailty, thy name is woman."や"To be or not to be, that is the question."の台詞もあったんだかなかったんだか、ロシア語でわからないようでは便秘になる。
パステルナーク翻訳の台詞も比喩表現が多くて、日本語字幕の出来の問題なのか、通俗的な脳味噌には生きた言葉として伝わらず、ストーリーが上手く繋がってない。とりわけハムレットとオフィーリア(アナスタシア・ヴェルチンスカヤ)が何を考えているのが良くわからず、二人の演技が悪いのか、それとも台詞が足りないのか演出が悪いのか、"Get thee to a nunnery!"(尼寺へ)の台詞も唐突でびっくりする。
表現主義的演出の悪弊は、映像で表現しようとするあまり、1カットがやたら間延びして見えることで、これが延々と続くとテンポが悪くて眠くなる。原作が有名なだけにストーリーがわかっていると、演出がくどくて退屈する。
舞台劇の映像表現の機微よりも、ハムレットとオフィーリアの心理描写の機微にも力を注いでほしかった。 (評価:2)
恋人のいる時間
日本公開:1965年2月20日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:フィリップ・デュサール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ミシェル・ルグラン
原題"Une femme mariée"で、結婚している女の意。
夫と息子がいて不倫をしている女(マーシャ・メリル)の日常の断片をコラージュ風に描いたもので、アップを多用したマーシャ・メリルのピンナップ写真集、今風にいえばPVになっている。裸体の部分カットを艶めかしく映すが、映像自体は『プレイボーイ』のグラビア写真のように洗練されて美しい。
人妻である女が舞台俳優の恋人(ベルナール・ノエル)とホテルにいるシーンから始まり、夫との離婚と同棲を迫られる。アパートを出た女は夫が付けた私立探偵の尾行を巻くためにタクシーを乗り換え、アウシュビッツに行ったパイロットの夫を迎えに飛行場に行く。
ここからはゴダールらしい演出で、夫、妻、客、息子のそれぞれの独白となる。アウシュビッツについて語る夫と客に対し、妻はバストの矯正やファッションにしか関心を示さず、不倫を疑う夫の愛情が変わらないことを確かめる。
医者に行った女は妊娠を知るが、どちらの子かわからない。恋人との密会で妊娠を告げ、ホテルに同衾する。前日の返事を求める恋人に息子がいるからと答え、二人で戯曲を読み始める。それは悲恋を描いたラシーヌの『ベレニス』で、二人の関係が終わったことを確かめる。
どうでもいいストーリーでマーシャ・メリルのピンナップ以外に見どころを見い出せないが、社会問題より不倫にかまける人妻を皮肉っているのがゴダールらしい。 (評価:2)
007 ゴールドフィンガー
日本公開:1965年4月24日
監督:ガイ・ハミルトン 製作:ハリー・サルツマン、アルバート・R・ブロッコリ 脚本:リチャード・メイボーム、ポール・デーン 撮影:テッド・ムーア 音楽:ジョン・バリー
原題は"Goldfinger"で、登場する富豪で犯罪者の名前。原作はイアン・フレミングの同名小説。
一仕事の後、マイアミで休暇中に懇ろになった富豪ゴールドフィンガーの手下の女が金粉美女にされて殺される。次にMからゴールドフィンガーの金密輸の調査を命じられ、調査中にアメリカ政府金塊貯蔵庫襲撃計画に巻き込まれ、これを阻止して終わるという物語。
目まぐるしく話が展開していくノンストップアクションで、「ロシアより愛をこめて」よりアクションシーンはリアルになってパワーアップしているが、話自体は007シリーズの中でも相当に荒唐無稽で、米ソ冷戦のスパイアクションを期待すると、原作のその部分が完全に抜け落ちているのでがっかりする。
その分、Qの秘密兵器も荒唐無稽なエンタテイメント感が増し、ボンドカー、アストンマーチンが大活躍して007らしくもなるが、一方で徹頭徹尾美女軍団に囲まれてほとんどハーレム状態のボンドという、スパイ映画的には噴飯する部分も多い。
オープニングクレジットからの金粉ショーで、シーン的な見どころも多く、007シリーズの中では人気が高いが、一介の詐欺師にアメリカ陸軍が簡単に捻られてしまうという、アメコミにもないくらいの漫画チックさで、あり得ないストーリーの通俗さはいささか退屈。
日系人、ゴールドフィンガーのボディガード役のハロルド坂田が当時としては話題になった。 (評価:2)
製作国:アメリカ
日本公開:1964年12月1日
監督:ジョージ・キューカー 製作:ジャック・L・ワーナー 脚本:アラン・ジェイ・ラーナー 撮影:ハリー・ストラドリング 音楽:アンドレ・プレヴィン
アカデミー作品賞
女性をモノ扱いしてハッピーエンドはフェアじゃない
原題"My Fair Lady"で、私の麗人の意。同名ミュージカルの映画化で、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲"Pygmalion"が原作。
ピグマリオンはギリシャ神話のキプロス島の王で、象牙に彫った乙女に恋したため、アフロディテが生命を与えて妻にした。
本作では独身主義の言語学者が、自らの研究の成果を確かめるために野卑な花売り娘を人形のように麗人に育て上げ、気付かず娘に恋していたという結末で、二人が結ばれる予感のハッピーエンドとなっている。
イギリスの階級制度の風刺がテーマで、麗人に見事化けたイライザ(オードリー・ヘプバーン)が、最後には居心地の良い労働者階級に戻って言葉遣いも元に戻ってしまうが、女性を遊びの道具としてモノ扱いする全体のストーリーは決して気持ちの良いものではなく、ハッピーエンドでそれらを曖昧にして帳消しにしようというのもいただけない。
麗人はともかく、下品な下町娘をヘプバーンが熱演。"I Could Have Danced All Night"の名曲に乗って歌うが、マーニ・ニクソンの吹替え。
言語学者は舞台版のレックス・ハリソンだが、ミュージカルとしては全体に歌唱がイマイチなのが寂しい。 (評価:2)
日本公開:1964年12月1日
監督:ジョージ・キューカー 製作:ジャック・L・ワーナー 脚本:アラン・ジェイ・ラーナー 撮影:ハリー・ストラドリング 音楽:アンドレ・プレヴィン
アカデミー作品賞
原題"My Fair Lady"で、私の麗人の意。同名ミュージカルの映画化で、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲"Pygmalion"が原作。
ピグマリオンはギリシャ神話のキプロス島の王で、象牙に彫った乙女に恋したため、アフロディテが生命を与えて妻にした。
本作では独身主義の言語学者が、自らの研究の成果を確かめるために野卑な花売り娘を人形のように麗人に育て上げ、気付かず娘に恋していたという結末で、二人が結ばれる予感のハッピーエンドとなっている。
イギリスの階級制度の風刺がテーマで、麗人に見事化けたイライザ(オードリー・ヘプバーン)が、最後には居心地の良い労働者階級に戻って言葉遣いも元に戻ってしまうが、女性を遊びの道具としてモノ扱いする全体のストーリーは決して気持ちの良いものではなく、ハッピーエンドでそれらを曖昧にして帳消しにしようというのもいただけない。
麗人はともかく、下品な下町娘をヘプバーンが熱演。"I Could Have Danced All Night"の名曲に乗って歌うが、マーニ・ニクソンの吹替え。
言語学者は舞台版のレックス・ハリソンだが、ミュージカルとしては全体に歌唱がイマイチなのが寂しい。 (評価:2)
マーニー
日本公開:1964年8月29日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:ジェイ・プレッソン・アレン 撮影:ロバート・バークス 音楽:バーナード・ハーマン
原題"Marnie"で、主人公の名。ウィンストン・グレアムの同名小説が原作。
事務職の女(ティッピー・ヘドレン)がオフィスを転々としながら金庫泥棒を働くという物語で、転職で面接に訪れた会社社長(ショーン・コネリー)が前に勤めていた税理士事務所の顧客だったことから、すぐに面が割れてしまう。
ところが社長、知らぬふりをして採用。美人だったからなのか、正体を暴くためだったのかよくわからないが、すぐに惚れてプロポーズする。おまけに泥棒と知っていたことを教えてマーニーの本名を聞き出し、結婚式には税理士事務所の社長まで呼んでしまう。
ところがマーニー、男性恐怖症でベッドを共にせず、触れられることまで拒む。芝居かと思っていると本当らしく、じゃあそれまで抱いたりキスしたりしてたのは何なんだとさすがの社長もキレるが、我慢していたという言い訳で納得。もっとも観客から見れば、そんな風には見えなかったので、いささか設定がご都合主義に見える。
マーニーには秘密があって、それまでに再三臭わされるが、雷と赤い色に怯える。その演出法が大袈裟で少々辟易するが、赤は血の色に決まっているので、殺人事件が絡んでいるくらいの予想は簡単につく。
終盤はこの謎解きとなるが、そこまでのラブストーリーが辻褄が合わなかったり冗長だったりしていささか退屈。
マーニーの母親は売春婦で、子供の頃の嵐の晩、ロリコンの客がマーニーに手を出そうとして母親と揉め、マーニーが客を撲殺してしまった。母親はそれを庇って犯人になり、正当防衛が認められたというのが事の真相で、社長がそれを母親に告白させてマーニーの男性恐怖症も治ってメデタシメデタシという結末。
原作がつまらないと面白さは今一つ。スリル重視でシナリオが粗い、というヒッチコックの特徴を表している作品。
『007』で定着したショーン・コネリーの女たらしぶりが見られる。 (評価:2)
革命前夜
日本公開:1989年4月29日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、ジャンニ・アミーコ 撮影:アルド・スカヴァルダ 音楽:ジーノ・パオリ、エンニオ・モリコーネ
原題"Prima del la Rivoluzione"で邦題の意。
1962年のイタリアのパルマが舞台。ベルトルッチの自伝的作品といわれるが、青年期の自己満足的私小説映画のようで、どうでもいい内容。
自己満足の内容はというと、主人公の青年は共産党員で自らのブルジョア的境遇を忌み嫌っているが、同じブルジョアの親友が事故死してショックを受け、ミラノから来た美人の叔母さんといい仲になってしまう。すると根っからのブルジョア的精神から、叔母さんの交友に嫉妬してブルジョア的堕落と妥協のもとに、共産党を離れ、ブルジョアの許嫁と結婚式を挙げ、叔母さんと涙の最後の抱擁を交わす。
これをマルクスの麻疹に罹ったブルジョアお坊ちゃんが人間性を回復する話と取るか、そのお坊ちゃんが今度は年上の女性に憧れるという麻疹に罹って現実主義に立ち返る青春のセンチメンタルな話と取るかだが、端的にいえば、自らのブルジョア精神によって自己の革命に失敗した青年が、それを自らの革命前夜だったとニヒリズムを気取っているだけの回想に過ぎず、そこにナルシズムが顔を出していて鼻持ちならない。
ガラス細工のようにデリケートな青春期のセンチメンタルを表現するための露出を上げた白っぽい映像が、ハーレクィーンロマンスのような白々しい効果を出している。
美人の叔母さんの役のアドリアーナ・アスティはベルトルッチの最初の妻。 (評価:2)
製作国:イギリス
日本公開:1965年7月2日
監督:テレンス・フィッシャー 製作:アンソニー・ネルソン=キーズ 脚本:ジョン・ギリング 撮影:マイケル・リード 音楽:ジェームズ・バーナード
鬼女のメゲーラにはもっと素顔で活躍してほしかった
原題は"The Gorgon"で、邦題はギリシャ神話に出てくる怪物三姉妹ゴルゴンの英語読み。妖女ではなく怪物なので、邦題は違和感がある。テレンス・フィッシャー監督、ホラーの名門ハマーフィルムの製作。
神話ではゴルゴンについていくつか説があるが、本作ではティシフォニー、メドゥーサ、メゲーラの三姉妹となっている。ギリシャ神話ではティシフォニー(ティシポネ)とメゲーラ(メガイラ)はゴルゴンではなく、復讐の三女神エリニュスからの借用。
ゴルゴン三姉妹の顔を見ると石になってしまうが、神話で有名なのはペルセウスがメドゥーサを退治する話で、これを知っていると本作の展開も結末も読めてしまう。
物語は20世紀初頭、ドイツの村で不可解な死亡事件が起き、実は数年前から続いていた。村人たちはこの村に棲んでいる怪物を秘密にしているが、死亡事件の犯人とされ自殺した画家の父が秘密を探ろうとして石になる。今度は弟がやってくるが、村医者の助手の美女と恋仲になる。メゲーラは狼男のように満月の夜に人を襲い、普段は人間に乗り移っているということがわかり、さて誰がメゲーラなのか? というわかりやすい展開。
メゲーラの素顔が最後まで引っ張る見どころで、登場するのはラストシーン。それなりに鬼女だが、もっと素顔で暴れまくってほしかった。
神話をベースに特段の工夫もアクションもないストーリーはいささか退屈。ドラキュラやフランケンシュタインには怪物の悲しみがあるが、メゲーラにはそれもなく、メゲーラが人間に乗り移った経緯も語られないのでは、ドラマにならない。 (評価:2)
日本公開:1965年7月2日
監督:テレンス・フィッシャー 製作:アンソニー・ネルソン=キーズ 脚本:ジョン・ギリング 撮影:マイケル・リード 音楽:ジェームズ・バーナード
原題は"The Gorgon"で、邦題はギリシャ神話に出てくる怪物三姉妹ゴルゴンの英語読み。妖女ではなく怪物なので、邦題は違和感がある。テレンス・フィッシャー監督、ホラーの名門ハマーフィルムの製作。
神話ではゴルゴンについていくつか説があるが、本作ではティシフォニー、メドゥーサ、メゲーラの三姉妹となっている。ギリシャ神話ではティシフォニー(ティシポネ)とメゲーラ(メガイラ)はゴルゴンではなく、復讐の三女神エリニュスからの借用。
ゴルゴン三姉妹の顔を見ると石になってしまうが、神話で有名なのはペルセウスがメドゥーサを退治する話で、これを知っていると本作の展開も結末も読めてしまう。
物語は20世紀初頭、ドイツの村で不可解な死亡事件が起き、実は数年前から続いていた。村人たちはこの村に棲んでいる怪物を秘密にしているが、死亡事件の犯人とされ自殺した画家の父が秘密を探ろうとして石になる。今度は弟がやってくるが、村医者の助手の美女と恋仲になる。メゲーラは狼男のように満月の夜に人を襲い、普段は人間に乗り移っているということがわかり、さて誰がメゲーラなのか? というわかりやすい展開。
メゲーラの素顔が最後まで引っ張る見どころで、登場するのはラストシーン。それなりに鬼女だが、もっと素顔で暴れまくってほしかった。
神話をベースに特段の工夫もアクションもないストーリーはいささか退屈。ドラキュラやフランケンシュタインには怪物の悲しみがあるが、メゲーラにはそれもなく、メゲーラが人間に乗り移った経緯も語られないのでは、ドラマにならない。 (評価:2)
H・G・ウェルズのSF月世界探検
日本公開:劇場未公開
監督:ネイザン・ジュラン 製作:チャールズ・H・シニア 脚本:ナイジェル・ニール、ジャン・リード 撮影:ウィルキー・クーパー 音楽:ローリー・ジョンソン
原題"First Men in the Moon"で、月世界最初の男たちの意。H・G・ウェルズの"The First Men in the Moon"が原作。
原作は20世紀初頭、月世界に最初に降り立った二人の男の冒険譚だが、映画ではそれから数十年後、国連の有人探査船が月に降り立ち、二人が月に残した英国旗と宣言文を発見。人知れずに帰還していたベッドフォード(エドワード・ジャッド)に国連スタッフが話を聞くという回想譚になっている。
さらに、原作にはないベッドフォードの婚約者ケイト(マーサ・ハイヤー)も一緒に月に同行。宇宙船を開発した科学者ケイヴァー(ライオネル・ジェフリーズ)を残して地球に帰還する紅一点の役割となる。
ストーリーはシンプルで、3人が月人たちの世界に紛れ込み、危険を感じたベッドフォードがケイトと月を脱出。ケイヴァーは好奇心から月人たちの世界に残るというもの。国連探査船が月人たちの住む地下世界を調べると、そこは廃墟となっていて、その原因は…というのが、この退屈な物語の唯一のクライマックスだが、同じH・G・ウェルズの『宇宙戦争』のネタが使われている。
気になる月人はゴキブリのような昆虫型で、チョウの幼虫のような怪物も出てきて、宇宙船の飛行シーンや着陸シーンを含めて、レイ・ハリーハウゼンの特撮が見どころとなっている。
20世紀初頭の飛行方法は、重力を遮断するコーティングを宇宙船に施すというもので、この奇想天外さを救うために前半のシナリオはコミカル。しかし後半の月世界ではアドベンチャーな展開でシリアスとなり、特撮を見せるだけの単調なだけのシナリオになってしまうのがつまらない。 (評価:2)
パリで一緒に
日本公開:1964年5月30日
監督:リチャード・クワイン 製作:リチャード・クワイン、ジョージ・アクセルロッド 脚本:ジョージ・アクセルロッド 撮影:チャールズ・ラング 音楽:ネルソン・リドル
原題"Paris When It Sizzles"で、焼けるように熱いパリの意。1952年のジュリアン・デュヴィヴィエ監督『アンリエットの巴里祭』( La Fête à Henriette)のリメイク。
酒ばかり飲んで筆の進まない脚本家のところに脚本家志望のタイピストがやってきて、共同作業でシナリオを完成させるが、脚本家リックはウィリアム・ホールデン、タイピストのギャビーはオードリー・ヘプバーンなので、執筆中に恋が芽生えてハッピーエンドという予定調和なロマンチック・コメディ。
人気はあるが内容は今一つというリックに相応しく劇中劇で語られる映画のシナリオも今一つ。というよりも、リックは本作の脚本ジョージ・アクセルロッドその人ではないかと思えるくらい。
随所に映画ネタやパロディが登場するがどれも不発。劇中劇の『エッフェル塔を盗んだ娘』(The Girl Who Stole the Eiffel Tower)のラストは『カサブランカ』のパロディ。
酒と女好きの映画の脚本家が執筆そっちのけで美人タイピストに言い寄るという内輪ネタで、つまらない話をこねくり回して仕上げていくが、つまらない楽屋話ほど白けるものはない。
それにしてもこんないい加減な脚本家に惚れてしまうというのも無理矢理。ヘプバーンが着るジバンシィのネグリジェだけが見どころ。 (評価:1.5)