海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1962年

製作国:イギリス
日本公開:1963年2月14日
監督:デヴィッド・リーン 製作:サム・スピーゲル 脚本:ロバート・ボルト、マイケル・ウィルソン 撮影:フレディ・ヤング、ニコラス・ローグ 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

砂漠の美しい景色と登場するアラブ馬の群れが圧巻
 原題"Lawrence of Arabia"。T.E.ロレンスの自叙伝"Seven Pillars of Wisdom"(智慧の七柱)が原作。
 第一次世界大戦のアラビア半島の紅海沿岸ヒジャーズ地方を舞台に、イギリス情報将校ロレンスがベドウィンのハリト族とハウェイタット族を率いて、オスマン帝国からのアラブ独立戦争を率いる実話ベースの物語で、ロレンスをピーター・オトゥール、ハシム家ファイサル王子にアレック・ギネス、ハウェイタット族長アウダ・アブ・タイにアンソニー・クイン、ハリト族長アリをオマー・シャリフが演じる。
 物語は第一次大戦後、イギリスに戻ったロレンスがオートバイで交通事故死するシーンから始まり、葬儀での風評を紹介したのちに、第一次大戦でのロレンスの行跡が語られる。
 イギリス軍はオスマン帝国と戦うハシム家を味方につけるためロレンスを派遣、ファイサル王子との接触に成功する。港湾都市アカバのトルコ軍基地をハリト族・ハウェイタット族とともに占拠したロレンスは、戦勝報告と共にカイロのイギリス軍司令部に資金と武器供与を依頼。続いてヒジャーズ鉄道を北進してトルコ軍を追い詰め、ダマスカスをオスマン帝国から解放する。
 この間、殺傷を嫌っていたロレンスはトルコ軍の残虐行為に対抗するため自ら殺戮に手を染め、ダマスカス解放後にアラブに主権を取り戻すはずの国民会議が諸部族の対立から分裂するのを目の当たりにして、アラビアを去ることを決意。オスマン帝国に代わるイギリスとファイサル王子の政治的妥協の前に、アラブ独立というロレンスの夢は破れ去る。
 作品では触れられないが、イギリスはアラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナの居住を認めていて、西欧列強が現在のアラブの混乱の原因を作ったことに、ロレンスの蹉跌が澱のように胸に沈む。
 製作に2年を費やした、砂漠の美しい景色と登場するアラブ馬の群れが圧巻で、圧倒的な迫力の映像に息をのむ。CGに頼る今では製作不可能なスペクタクル映画で、それだけでも観る価値がある。 (評価:4.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1963年10月26日
監督:アーサー・ペン 製作:フレッド・コー 脚本:ウィリアム・ギブソン 撮影:アーネスト・カパロス 音楽:ローレンス・ローゼンタール
キネマ旬報:2位

パティ・デュークの猛獣のような熱演が見どころ
 原題は"The Miracle Worker"で、「奇跡を起こす人」の意。邦題から「奇跡の人」はヘレン・ケラーを指すものとばかり思っていたが、原題は家庭教師のアニー・サリバンを指す。
 アーサー・ペンの監督作品で、原題の通り主人公はサリバン。ヘレンの誕生から始まり、サリバンの家庭教師就任、ヘレンが言葉の意味を理解するところまでを描く。
 原作は1959年にブロードウェイで初演されたウィリアム・ギブスンの戯曲。
 冒頭、病気から快癒したヘレンの目が見えず、耳が聞こえないことに気付いた母がヒステリックに泣き叫ぶシーンなど、若干オーバー気味の演出が気に障るが、サリバンが就任してからは非常に説得力のある演出で、目の離せない展開となっていく。
 ヘレン・ケラーといえば、"w-a-t-er"のエピソードが有名で、ラストの感動的シーンとなるが、そこに至るまでの猛獣に等しいヘレンに対する、サリバンの強固な信念と辛抱強い闘いが胸を打つ。
 舞台同様にサリバン役のアン・バンクロフトはアカデミー主演女優賞を受賞。1967年の『卒業』では妖艶なミセス・ロビンソンを演じた。
 本作で一躍有名となったのがヘレン・ケラーを演じたパティ・デュークで、ブロードウェイ初舞台が13歳。16歳でアカデミー助演女優賞を受賞した本作の熱演は大きな見どころ。
 当時のパティ・デュークに人気は凄く、『パティ・デューク・ショウ』という彼女の名を冠したテレビ・コメディが懐かしい。 (評価:4)

冬の光

製作国:スウェーデン
日本公開:1975年9月13日
監督:イングマール・ベルイマン 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:ヨハン・セバスチャン・バッハ

神の沈黙ではなく否定を描く、日本ほとんど未公開映画
 原題は"Nattvardsgästerna"で、聖体拝領者の意。日本初公開は1975年で、『魔術師』(1958)、『夜の儀式』(1969)とともに岩波ホールの「シーズン・オブ・ベルイマン」で連続上映された。キネ旬ベストテンに入らなかったのは、制作から10年以上経っていたことと、映画評論家も見逃したのかもしれない。
『鏡の中にある如く』『沈黙』と併せて「神の沈黙」3部作と呼ばれるが、「神の沈黙」とは信仰者から見た懐疑論だが、そもそもベルイマンはキリスト教が嫌いか無神論者にしか見えない。本作はキリスト教に対して頑に否定的で、教会に来る人々、教会を手伝う人、そして牧師と、誰ひとり神を信じていない。
 北欧神話のスウェーデンにキリスト教が侵出するのは10世紀以降で、洗礼を受けている人が全員キリスト教を信じているという前提でこの映画を観ない方がいいかもしれない。スウェーデン人の80%はクリスチャンだが、教会に通うのは5%。神の沈黙・神の不在ではなく、神の否定・キリストの否定の映画。
 冒頭で人生に絶望した男に牧師は「神を信じなさい」と言って、その言葉の偽善に気づくが、信じるべき神が存在しないことを知っている。牧師は信者を救うどころかむしろ神を信じずに人の孤独と自立を促す。しかし救いを求める者を死に追いやる悪魔同然の所業で、ラストは牧師も神も偽善に満ちている。 (評価:3.5)

製作国:フランス
日本公開:1964年2月1日
監督:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン・グリュオー 撮影:ラウール・クタール 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:2位

奔放な女への愛と友との友情に生きた男の物語
 原題は""Jules et Jim""で、ジュールとジムの意。男二人女一人の奇妙な関係を描くが、タイトルはその二人の男の名前。アンリ=ピエール・ロシェの同名小説が原作。
 作家志望のジュールとジムはモンパルナスで知り合い意気投合。恋人のいないジュールにジムは女性を紹介するが、自由奔放なカトリーヌと出会い、二人共に恋に落ちる。第一次世界大戦を潜り抜け、ジュールはカトリーヌと結婚して一女をもうけるが夫婦仲は冷め、やってきたジムに彼女との結婚を頼む。その理由というのが、そうして四人で暮らせば彼女と離れなくて済むというもの。しかし、カトリーヌとジムの間に子供ができなかったことから二人の関係はぎくしゃくし、カトリーヌが別に愛人を作ってしまったことで、ジムはパリに帰って別の女性との結婚を決意する。
 一夫多妻の逆バージョンで、多情な女をジャンヌ・モローが演じるが、三人が20世紀初頭の芸術家であるというのが味噌で、いくら自由奔放が魅力の女であっても時代性抜きにはリアリティを欠くかもしれない。彼女が愛読するのもゲーテの『親和力』という姦通小説。
 当初はしょうもない女と芸術家気取りの男たちのつまらない三角関係のドラマに思えるが、次第にジュールのカトリーヌへの愛の切なさと、互いに嫉妬しつつも男二人の友情が女の存在を超越して純化されたものに見えてくる。そうした点で、これはジュールにとって三人の愛と友情の物語であり、ラストで二人の遺灰を抱きながら、結局結ばれることのなかったジムとカトリーヌの二人の愛の成就を誰よりもジュールが願う物語となっている。
 公開当時、カトリーヌが女性たちの共感を得たが、本作はそうした女への愛と友との友情に生きた一人の男の物語となっている。
 ジュール役のオスカー・ウェルナーはオーストリア人俳優で、『華氏451』等に出演。 (評価:3)

製作国:スウェーデン
日本公開:1964年5月23日
監督:イングマール・ベルイマン 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
キネマ旬報:9位

言葉の通じない世界にこそ親密な会話が成立する
 原題"Tystnaden"で、邦題の意。
 中年の姉妹と妹の息子の3人が父の家に帰る旅の途中の物語。汽車で移動する中で姉の具合が悪くなり、3人は中欧の見知らぬ町のホテルに逗留することになる。車窓に映る戦車の列や夜中に戦車が市内を走る様子から、自由の抑圧されたソ連衛星国のハンガリー、ポーランドのイメージ。
 優秀でインテリの翻訳家の姉(イングリッド・チューリン)と奔放で滞在中に男漁りをする妹(グンネル・リンドブロム)の確執を中心に描かれるが、大きな事件も起こらずストーリーは単純。それでも人間描写に優れているため退屈しない。内向的な姉は酒とオナニーで自らを慰め、ホテルに男を連れ込む妹を非難。それが確執に大きな亀裂を生じ、妹は病気の姉をホテルに残して旅立つ。
 愚かな母を息子(ヨルゲン・リンドストロム)はそれでも愛していて共に汽車に乗るが、伯母から土地の言葉で書かれた「精神」という紙を手渡される。
 この作品で大きな意味を持つのは「言葉」で、ホテルのある町では3人の話せない言語が使われていて、母国語であるスウェーデン語は通じない。字幕でもスウェーデン語以外は訳されないので、観客は3人と同様に異邦人として手ぶり以外の会話の手段を持てない。
 ホテルの年老いた客室係がいて、病気の姉の世話を焼くが、フランス語も英語もドイツ語も話せず、翻訳家の姉も手ぶり以外の言葉を持ちえない。それでも二人の間には親密な会話が成立し、言葉で対立する妹よりも深い心の交流が生じる。姉との言葉による会話が成立しない妹でさえ、異国の男とは言葉が通じなくてもセックスで交歓できる。息子も無言のうちに同宿する矮人の芸人たちと仲良くなれる。
 言葉の持ちうる限界、人間同士の会話とは何か、前作『冬の光』(1962)のテーマを継げば神との対話の懐疑をも含めて、言葉の通じない世界にこそ親密な会話が成立する、沈黙の中にこそ真の精神の繋がりを見い出せるのだという、ベルイマンの結論かもしれない。
 ホテルの年老いた客室係、ホーカン・ヤーンベルイの演技が素晴らしい。 (評価:3)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1962年12月19日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 製作:ロベール・アキム、レーモン・アキム 脚本: ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ジョヴァンニ・フスコ
キネマ旬報:5位

虚無的な女の倦んだ日常を描く、これぞラテン映画
 カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作。TUTAYAの作品解説にある、「愛の不毛を描き続けたアントニオーニの相も変わらぬ作品」というのが、この作品の気だるさと淡々とした日常を描くマンネリ感を表していてgood! 誰が書いたのか?
 主人公の女の日常を描いた私小説的映画で、映画的なストーリーはない。これほど退屈な話もないと思うが、不思議と見ていられる。のっけから男女の良くわからない会話が続くが、むしろこれからどういう話が展開されるのかということに意識が向かう。証券取引所では、株屋たちが飛び回る様子だけが映し出されるが、なにがなんだか良く分からなくても、何かが起きるのではないかという期待感が生まれる。
 定点カメラの映像を飽きもせずに見ていられるように、ストーリーがなくても情景を提供するだけで立派に映画は成立するということをミケランジェロ・アントニオーニは教えてくれる。
 この映画に描かれるのは、現代文明社会の退廃と退屈。その対比としてアフリカの原初的なものへの憧憬が引っ張り出され、一方で都会の男との退屈な愛、株に翻弄される人々、核武装記事の新聞を読む働き蜂のサラリーマンといった文明病が描かれるが、いずれも記号としてだけで物語に絡むことはない。
 虚無的な女の倦んだ日常。これは典型的なヨーロッパ映画で、見て面白くないと感じたなら、それは感性に合わなかったと思うしかない。
 原題は"L'eclisse"で天体の蝕の意。消滅、危機、衰亡という意味あいもある。 (評価:2.5)

皆殺しの天使

製作国:メキシコ
日本公開:1981年8月1日
監督:ルイス・ブニュエル 脚本:ルイス・ブニュエル 撮影:ガブリエル・フィゲロア 音楽:ラウル・ラヴィスタ

繰り返されるルーティンは変革を求めない人々に対する批判?
 原題は"El ángel exterminador"で、絶滅の天使の意。
 ブニュエルのメキシコ時代に作られた後期作品で、ブルジョア階級を皮肉った不条理コメディ。
 不条理なので、ストーリー上の何故という問いは無意味。立派な館に住むノビレがダンスパーティの終了後、仲間を誘って夜会を開くことになる。
 物語はノビレの館の使用人たちが逃げ出すところから始まり、執事のフリオだけが最後に残る。夜会の客たちがやってきて晩餐が始まり、音楽室でのピアノ演奏があり、夜通し歓談が行われるが、朝の4時になっても不思議な磁力に引き留められたかのように誰も帰ろうとしない。やがて客たちは服を脱ぎ寛ぎ、ソファーや床に横になって寝入ってしまう。
 朝になってノビレは朝食を用意するが、なぜか誰も部屋から出られなくなる。そして同じ毎日が繰り返され、部屋から出るためには原因を作ったノビレを殺す以外にないと考えた時、すべてが最初の夜と同じであり、反復に陥っていることに気づいて、人々は漸く館を出ることができる。
 この反復については、すでに冒頭で同じシーンが繰り返されるという予兆が描かれている。館を出た人々はミサへに行くが、今度は神父も参会者も教会から出られなくなり、羊の群れが教会に入っていくところで終わる。
 街の人々や警察は館や教会を取り巻くだけで介入しようとはせず、難解ないくつかの表象が示されることが、本作理解のための導となるが、敢えて理解しようとせずともこのシュールな不条理作品をあるがままに楽しむことができる。
 繰り返されるルーティンは、変革を求めない人々に対する批判。そこに安住する支配階級のスノッブと無能さを館に集まるブルジョアを通して描いているともいえる。
 教会とそこに集う信者たちもまた、今に安住するだけで殻を破ることができない、愚かな羊の群れ。変革を求める民衆からは隔たった者たちということになる。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1963年6月15日
監督:セルジュ・ブールギニョン 製作:ロマン・ピヌス 脚本:セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:3位
アカデミー外国語映画賞

キリスト教の安息日に誘惑する地母神の物語
 原題"Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray"で、シベール又はヴィル・ダヴレーの日曜日の意。ベルナール・エシャスリオーの小説"Les dimanches de Ville d'Avray"が原作。ヴィル・ダヴレーはパリ近郊の町。
 第二次世界大戦後のインドシナ戦争に従軍した元空軍パイロット・ピエール(ハーディ・クリューガー)と、両親に捨てられて修道院に預けられた少女フランソワーズ(パトリシア・ゴッジ)の恋物語。
 ピエールはベトミンの村を機銃掃射した際に木の根元に立つベトナム人少女を射撃し、それが元で事故を起こす。今はその時の病院看護婦マドレーヌ(ニコール・クールセル)と同居しているが、トラウマから仕事にも就けず、少女が死んだかどうかも覚えていない。
 ある日、駅で父に連れられて汽車を降りたフランソワーズと知り合うが、彼女を修道院に預けた父が逃げたことに気づき、週一回、日曜日に父親代わりをすることになるのが、タイトルの由来。
 ここまでは『ペーパー・ムーン』などの疑似父娘もののよくあるパターンだが、少女が大人顔負けに青年を誘惑した挙句、将来の結婚を約束させ、事故がもとで精神年齢の退行した青年が彼女の誘惑と嫉妬に翻弄されるという展開が思いがけない。
 マドレーヌは二人の関係を子供の恋愛遊戯と捉えるが、周囲の大人たちからは青髭と捉えられ、クリスマスの夜に少女と遊ぶ青年を警官が射殺してしまう。
 演技力の問題なのか、青年が退行しているとはいえ少女の言いなりになっていく姿はいささか不自然で、一方、少女は本名がギリシャ神話の地母神キュベレ、フランス語ではシベールだと明かし、異教の魔女的雰囲気を醸し出すが、キュベレとの関連は描かれない。
 結局、この作品は何を描きたかったのかと考えるに、マリアのように慈愛に満ちたマドレーヌと死と再生の地母神キュベレとの青年を巡るキリスト教と異教の争奪なのか、はたまた単に戦争によって心に傷を負った青年の悲劇の物語なのか。
 いずれにしてもどうでもいいことだが、シベールがヴィル・ダヴレーの池に映る世界を「私たちの家」と呼んでいることからも前者。ピエールはマリアによって救済されることなく、キュベレによって安息を得たということか。
 そういえば、地母神はキリスト教の安息日にやってきて、マリアにひどく対抗心を燃やす・・・と考えるときりがない。 (評価:2.5)

シシリーの黒い霧

製作国:イタリア
日本公開:1963年9月5日
監督:フランチェスコ・ロージ 脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、フランチェスコ・ロージ、エンツォ・プロヴェンツァーレ、フランコ・リリナス 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ピエロ・ピッチオーニ

シチリアの赤茶けた山と闇の深さを十二分に味わえる
 原題"Salvatore Giuliano。サルヴァトーレ・ジュリアーノは、実在のシチリアの山賊。
 1950年、民家の中庭でジュリアーノの射殺死体が発見されるシーンから始まり、連合軍駐留下のシチリアで山賊となった1943年以降の歩みを追う。シチリア独立義勇軍に参加するが、イタリア自治州になって身代金誘拐などの山賊に逆戻りし、メーデーに参加していた民衆の虐殺事件を引き起こす。
 この事件をきっかけに右腕のピッシェッタが憲兵と取引してジュリアーノを殺害。警察に逮捕されて裁判となり、ジュリアーノとマフィア、警察の癒着を暴露するが、ジュリアーノが誰の指示でメーデー虐殺事件を引き起こしたのかは明かさないままに裁判は終わる。
 ピッシェッタは終身刑となるが、刑務所内で毒殺され、メーデー虐殺事件の背後にいる黒幕はわからないままに終わる。
 『ゴッドファーザー』(1972)3部作に代表される、マフィアを育んできたシチリアの土壌と風土をジュリアーノに見ることができ、マフィアや山賊など犯罪集団の背後に警察や、政治・経済的な権力を持つ者たち・地縁者たちがいることを想像させ、シチリアの闇の深さを十二分に味わうことができる。
 赤茶けた山の頂上に陣取った山賊たちと村の様子など、シチリアの風景が堪能できるのも映像的な見どころ。(評価:2.5)

史上最大の作戦

製作国:​ア​メ​リ​カ
日本公開:1962年12月15日
監督:ケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン 製作:ダリル・F・ザナック、エルモ・ウィリアムズ 脚本:コーネリアス・ライアン、ジェームズ・ジョーンズ ロマン・ギャリー、デヴィッド・パーサル、ジャック・セドン 撮影:アンリ・ペルサン、ジャン・ブールゴワン、ワルター・ウォティッツ 音楽:モーリス・ジャール

砂浜を兵士たちが横一列に上陸していく空撮シーンは圧巻
​ ​原​題​は​"​T​h​e​ ​L​o​n​g​e​s​t​ ​D​a​y​"​で​、​コ​ー​ネ​リ​ア​ス​・​ラ​イ​ア​ン​の​同​名​ノ​ン​フ​ィ​ク​シ​ョ​ン​が​原​作​。​英​独​米​の​3​つ​の​パ​ー​ト​を​3​人​が​監​督​す​る​と​い​っ​た​変​則​的​映​画​だ​が​、​3​時​間​の​長​尺​に​も​係​わ​ら​ず​全​体​は​違​和​感​な​く​ま​と​ま​っ​て​い​る​。​P​D​は​ダ​リ​ル​・​F​・​ザ​ナ​ッ​ク​。
​ ​ノ​ル​マ​ン​デ​ィ​上​陸​作​戦​を​描​い​た​半​世​紀​前​の​映​画​で​、​連​合​軍​と​ド​イ​ツ​軍​双​方​か​ら​客​観​的​に​描​い​て​い​る​が​、​や​は​り​戦​勝​国​側​の​立​場​が​全​面​に​出​て​、​勇​気​あ​る​連​合​軍​の​兵​士​た​ち​と​負​け​た​愚​か​な​ド​イ​ツ​軍​と​い​う​戦​争​映​画​の​ヒ​ロ​イ​ズ​ム​精​神​は​色​濃​い​。
​ ​ベ​ト​ナ​ム​戦​争​後​の​勝​者​に​と​っ​て​も​敗​者​に​と​っ​て​も​悲​惨​な​戦​争​と​い​う​視​点​が​ま​だ​確​立​し​て​い​な​い​、​戦​争​に​正​義​を​見​い​出​し​た​時​代​の​映​画​と​い​う​こ​と​を​割​り​引​く​と​、​ハ​リ​ウ​ッ​ド​映​画​に​あ​り​が​ち​な​爆​弾​三​勇​士​的​戦​争​ヒ​ー​ロ​ー​も​の​よ​り​は​だ​い​ぶ​冷​静​。​ド​ラ​マ​部​分​の​脚​色​を​交​え​な​が​ら​も​史​実​を​な​ぞ​っ​て​い​て​、​ノ​ル​マ​ン​デ​ィ​上​陸​作​戦​の​全​容​を​追​う​こ​と​が​で​き​る​。
​ ​作​品​と​し​て​観​た​場​合​に​は​可​も​な​く​不​可​も​な​い​映​画​だ​が​、​史​上​最​大​の​製​作​費​を​投​じ​た​映​像​的​迫​力​は​今​で​は​不​可​能​で​、​豪​華​俳​優​陣​を​含​め​て​映​画​全​盛​期​の​息​吹​き​が​み​な​ぎ​っ​て​い​る​。
​ ​と​り​わ​け​、​ノ​ル​マ​ン​デ​ィ​の​砂​浜​を​兵​士​た​ち​が​横​一​列​に​上​陸​し​て​い​く​モ​ブ​シ​ー​ン​を​、​砂​浜​を​縦​断​し​て​空​撮​す​る​シ​ー​ン​は​エ​キ​ス​ト​ラ​の​人​数​も​含​め​て​圧​巻​。​市​街​戦​で​の​建​物​の​爆​破​シ​ー​ン​も​度​肝​を​抜​く​迫​力​。​ア​カ​デ​ミ​ー​撮​影​賞​・​特​殊​効​果​賞​を​受​賞​。
​ ​出​演​に​、​ジ​ョ​ン​・​ウ​ェ​イ​ン​、​ロ​バ​ー​ト​・​ミ​ッ​チ​ャ​ム​、​ヘ​ン​リ​ー​・​フ​ォ​ン​ダ​、​ロ​バ​ー​ト​・​ラ​イ​ア​ン​、​ロ​ッ​ド​・​ス​タ​イ​ガ​ー​、​シ​ョ​ー​ン​・​コ​ネ​リ​ー​等​々​。​有​名​な​テ​ー​マ​ソ​ン​グ​を​担​当​し​た​ポ​ー​ル​・​ア​ン​カ​も​兵​士​役​で​出​演​し​て​い​る​。 (評価:2.5)

僕の村は戦場だった

製作国:​ソ連
日本公開:1963年8月23日
監督:アンドレイ・タルコフスキー 脚本:ウラジミール・ボゴモーロフ、ミハイル・パパワ 撮影:ワジーム・ユーソフ 音楽:ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

無関係な子供たちが命を落とす戦争の罪悪
​ 原題"Иваново детство"で、イワンの子供時代の意。ウラジーミル・ボゴモーロフの短編小説"Ivan "が原作。
 第二次世界大戦独ソ戦時のソ連国境の村が舞台。映像からはバルト海ないしは湖に面した村だが、明示はされない。
 ドイツ軍に侵略され、国境警備隊員の父と母・妹を失った少年イワンの話で、復讐のために自ら志願し、ソ連軍のために斥候を務める。捕まっても子供なら殺されないと主張するが、ドイツ軍に捕まって絞首刑となったことがラストで明らかになる。
 物語はベルリン陥落で終わるが、両親とともに心中したゲッペルスの6人の子供たちの銃殺死体が映し出され、無関係な子供たちが巻き込まれて命を落とす戦争の罪悪を示す。ラストシーンは平和だった頃の少年と妹が浜辺に遊ぶ姿を映すが、タルコフスキーの長編デビュー作だけに、テーマもわかりやすい。
 戦争の悲しい宿業を一身に背負う少年の物語という以外になく、エピソードの膨らみもないのでストーリーとしての起伏には乏しいが、自然描写の詩的な映像が見どころになっている。
 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。 (評価:2.5)

007は殺しの番号

製作国:​イギリス、アメリカ
日本公開:1963年6月8日
監督:テレンス・ヤング 製作:ハリー・サルツマン、アルバート・R・ブロッコリ 脚本:リチャード・メイボーム、バークレイ・マーサー、ジョアンナ・ハーウッド 撮影:テッド・ムーア 音楽:モンティ・ノーマン

ウルスラ・アンドレスが終始ビキニ姿で怪我しないかとハラハラ
 原題"Dr.No"で、現在では原題の「ドクター・ノオ」で表記されることも多い。Dr.Noは、本作で007が対決することになるラスボスの名。原作はイアン・フレミングの同名小説。
 アメリカの月面ロケット発射に対する妨害電波を調査していたジャマイカ駐在のイギリス諜報員が殺され、ボンドが真相究明に向かう。
 ロケット打ち上げが迫る中、中国人博士ノオが支配する島クラブ・キーに潜入し、敵を殲滅するというのがストーリー。原作ではロケットは弾道ミサイルで、Dr.Noの背後にはソ連がいる。
 007シリーズ第1作となる本作では、Mが"A double-oh number means you're licenced to kill, not get killed."(00のナンバーは殺しの許可を意味するが、殺されることではないぞ)と説明し、それが邦題となっている。マニーペニーも登場するが、Qは登場せず、ベレッタの代わりにワルサーを渡されるだけで秘密兵器は登場しない。
 冒頭のカジノから女たらしのショーン・コネリー版ボンド全開で、クラブ・キーで出会う初代ボンドガールの金髪美女ハニー(ウルスラ・アンドレス)が終始ビキニ姿で肢体を晒し、ジャングルの中も走り回るので、あんな格好で怪我しないのかしらん、と心配になる。
 後半の見どころは、このウルスラ・アンドレスの肢体とドラゴン伝説のもとになる火炎放射車で、ジャマイカの海の美しさも堪能できる。
 潜入ものなので、2作目以降のスピードアクションはあまりないが、オーソドックスなスパイ・アクションとしての007の違った作風を見ることができる。 (評価:2.5)

ラ・ジュテ

製作国:​フランス
日本公開:1962年2月16日
監督:クリス・マルケル 製作:アナトール・ドーマン 脚本:クリス・マルケル 撮影:ジャン・チアボー 音楽:トレヴァー・ダンカン

シリアスなテーマをポエムのように描く
 原題"La Jetée"で、ピア(桟橋、埠頭)の意。劇中に登場する空港の駐機場に突堤状に突き出した建物のこと。
 モノクロ・スチール写真とナレーションで構成するSF短編作品。
 挿絵かスライドショーを見ている感覚で、第三次世界大戦後の一人の男の物語が語られる。日本語版ナレーションは大塚明夫。
 物語はパリ・オルリー空港のピアの屋上デッキから始まり、少年だった主人公は第三次世界大戦によるパリ上空での核爆発に遭遇する。パリは廃墟となり、過去と未来に救済を求めて科学者たちは捕虜を実験体にしてタイムトラベルさせるが、皆死ぬか狂人になってしまう。
 主人公の男(ダヴォス・ハニッヒ)だけが過去へのトラベルから生還するが、何度か繰り返すうちに一人の女(エレーヌ・シャトラン)に魅かれるようになる。男は未来にも行って一度は未来人に拒絶されながらも因果を諭して世界を救うエネルギーを持ち帰るが、未来への扉が閉ざされたため用済みとなった男は抹殺されようとする。
 未来人が救いの手を差し伸べるが、男は未来を拒否し女のいる過去へと向かう。冒頭のオルリー空港で女と再会するが、追跡者によって殺され、それが少年時代に見た光景に重なる。
 おそらくは反戦・反核映画なのだが、静止画とナレーションにより、シリアスなテーマをポエムのように描く効果的な演出が見どころ。
 アイマスクのような科学者たちの風貌や女が誰であるかなど、多くの設定は説明されないままに終わるが、むしろ観客の想像に委ねるという詩的効果を出している。
 パリの廃墟のスチールは第二次世界大戦のものか。主人公も未来人も過去に縛られるが、結論は、人間は過去を断ち切ることができないというもの。 (評価:2.5)

リバティ・バランスを射った男

製作国:​アメリカ
日本公開:1962年8月4日
監督:ジョン・フォード 製作:ウィリス・ゴールドベック 脚本:ジェームズ・ワーナー・ベラ、ウィリス・ゴールドベック 撮影:ウィリアム・H・クローシア 音楽:シリル・モックリッジ

ツボに嵌ったJ・ウェインの演技が地味な西部劇を支える
 原題"The Man Who Shot Liberty Valance"で、邦題の意。ドロシー・M・ジョンソンの同名短編小説が原作。
 ジョン・フォード監督の変則的な西部劇で、シンボンという未開拓時代の西部の町にやってきた弁護士ランス(ジェームズ・スチュアート)が、リバティ・バランス(リー・マーヴィン)という無法者に対抗して法の支配を確立し、準州選出議員となるまでを老年となって回想する物語。
 初代開拓者たちが広大な土地を所有、用心棒を使って後からやってきた開拓者たちを力で支配して既得権を守ろうとした事情が背景に描かれ、西部開拓の歴史的視点を提供してくれる。
 主人公のランスは老いて権威的なのが鼻につくが、格差を生む西部の不平等な社会構造の変革者。隠れた主役が彼の恩人となるトム(ジョン・ウェイン)で、ランスに恋してしまった恋人ハリー(ヴェラ・マイルズ)のための自己犠牲愛がラストでホロリとさせる。
 難をいえば、ハリーを演じるヴェラ・マイルズが美人なだけで定型的な大根の演技しかできず、若干興ざめ。武骨な報われないヒーローを演じるジョン・ウェインがツボに嵌ったいい味で、飲んだくれの地方誌編集長を演じるエドモンド・オブライエンともども、活劇のないジョン・フォードの地味な西部劇を支えている。
 酒場のカウンター内を移動しながら人々を舐めるシーンや、ハリーが調理場の裏口からトムを見送るシーンなど、ジョン・フォードの円熟した演出も見どころ。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1963年11月19日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ミシェル・ルグラン
キネマ旬報:5位

ソフィストケート以外に得るものはない
 原題"Vivre sa vie: Film en douze tableaux"で、「一生を生きる:12の情景による映画」の意。
 夫と離婚した女優志願の若い女が、金に困って男に身を売り、やがて娼婦となって業界の男に惚れると、今度は男に売り飛ばされそうになり、その際の揉め事から呆気なく殺されてしまうという、可哀想な女の物語。
 それをゴダールは12章の断片的シーンに切り分け、それを繋ぎ合わせて見せるという、いわば短編連作のような趣向。
 若干理屈っぽい会話や、日常を切り取ったシチュエーションやシーン、傍観者的カメラワークに哲学や芸術を感じるという向きには、この上なくお洒落でハイセンス、ソフィストケートされた映画だが、それ以外に得るものはない。
 どこにでもいる、夢見がちだが人としての生き方を見つけることのできず、他人に振り回されてしまう女。
 冒頭モンテーニュの『エセー』から──自分を他人に貸すことは必要だが、自分だけにしか自分を与えてはならない──が引用されるが、主人公の女がこの教えに反して悲劇的な結末を招いたという、近代的理性においては当たり前なことを具体的なエピソードとして描くが、改めてそれを見せられても、そうですね、と相槌するしかない。
 もっとも500年前のこの言葉が、今も生きているということに描いた意義があるのか?
 主人公のナナを演じるアンナ・カリーナはゴダールの妻で、後に離婚。 (評価:2.5)

アラバマ物語

製作国:アメリカ
日本公開:1963年6月22日
監督:ロバート・マリガン 製作:アラン・J・パクラ 脚本:ホートン・フート 撮影:ラッセル・ハーラン 音楽:エルマー・バーンスタイン

真実と正義を追及する割にはラストがすっきりしない
 原題"To Kill a Mockingbird"で、マネシツグミを殺すことの意。ハーパー・リーの同名のピューリッツァー賞小説が原作。
 タイトルは劇中、主人公の父が"if I could hit 'em (blue jays), but to remember it was a sin to kill a mockingbird"(アオカケスは撃ってもいいがマネシツグミを殺すことは罪だ)から来ている。
 続いて主人公が"Why?"と訊くのに対し、人間には害を及ぼさず囀りで楽しませてくれるからだと答えている。マネシツグミは劇中の善良な弱者のことで、偏見による強者の迫害を象徴した言葉となっている。
 主人公が少女の時の体験を回想する形式で、レイプの冤罪を着せられる黒人トム(ブロック・ピーターズ)の裁判を中心に展開する人種差別告発物語。白人娘がトムを誘惑した現場を父親ユーエルに見つかり、父娘はトムにレイプの罪を着せる。主人公の弁護士の父アティカス(グレゴリー・ペック)により真相が明らかにされるが、白人の陪審員によって有罪とされてしまう。
 白人にとってはいかなる事情があっても黒人男が白人女と姦通するのはレイプに当たるという見解が示されるが、アティカスの証拠は被告の証言だけで、無罪の証明には至ってなく、アティカスの娘の主観による無罪の主張といえなくもないのが残念なところ。
 裁判後に主人公と兄がユーエルに襲われ、隣家の頭の弱い男ブー(ロバート・デュヴァル)がユーエルを過って殺してしまうが、保安官とアティカスが事を荒立てたくないからと隠蔽し、主人公もブーはマネシツグミだから告発しないと納得するのも、真実と正義を追求するという作品の趣旨からは恣意的な結末で、あまりすっきりとしない。
 主人公スカウトを演じる子役のメアリー・バダムが上手い。 (評価:2.5)

西部開拓史

製作国:アメリカ
日本公開:1962年11月29日
監督:ヘンリー・ハサウェイ、ジョン・フォード、ジョージ・マーシャル 製作:バーナード・スミス 脚本:ジェームズ・R・ウェッブ 撮影:ウィリアム・H・ダニエルズ、ミルトン・クラスナー、チャールズ・ラング・Jr、ジョセフ・ラシェル 音楽:アルフレッド・ニューマン

ファミリーの物語をアメリカ史に一般化したのが間違い
 原題"How the West Was Won"で、いかにして西部を勝ち取ったかの意。
 序曲から始まる5話構成2時間45分というアメリカ版歴史絵巻の超大作で、もちろんインターミッションと終曲が入る。
 東部から西部を目指す開拓農家の三代にわたる物語で、農業を継ぐしっかり者の長女イヴ(キャロル・ベイカー)とカリフォルニアでダンサーとなる次女リリー( デビー・レイノルズ)を軸に、苦労と栄光の歴史を語る。
 第1話は二人が親と共に西に向かって川を遡る話で、急流に押し流される筏のシーンが見もの。第2話はリリーがカリフォルニアを目指し、知り合ったクリーヴ(グレゴリー・ペック)と結婚するまで。幌馬車隊とシャイアン族の西部劇。第3話は南北戦争の時代で、イヴの長男ゼブ(ジョージ・ペパード)が北軍に従軍。両親を失う。第4話は大陸横断鉄道敷設の時代で、騎兵隊隊長となったゼブが先住民との対立に葛藤する。先住民が放つ野牛の暴走シーンが凄い。第5話は保安官となったゼブ一家が老叔母リリーが土地を所有するアリゾナに向かう話で、無法者を成敗する。列車強盗の銃撃シーンが見せ場。
 アカデミー脚本賞のストーリー自体は面白く、撮影賞も上げたいくらいに見どころの多い映像も素晴らしい。ただスペンサー・トレイシーの語りによって、西部を目指したこのファミリーの物語をアメリカ史として一般化しようとしたのが間違いで、その途端に白人視点の西部開拓史になってしまった。
 西部や西海岸に住む白人にとっては、自らのルーツとアイデンティティに共鳴し、見終わって感動のあまり拍手喝采となるが、黒人やラテン系住民、アジア系住民にとっては他人の話。先住民は多少出てくるが白人に侵略される立場で、いかにして西部を勝ち取ったかと言われても、侵略者の自画自賛に鼻白むだけ。
 ファミリー・ヒストリー、一家族の年代記として留めておくべきだった。 (評価:2.5)

水の中のナイフ

製作国:​ポーランド
日本公開:1965年6月1日
監督:ロマン・ポランスキー 脚本:ロマン・ポランスキー、イエジー・スコリモフスキ、ヤクブ・ゴールドベルク 撮影:イエジー・リップマン 音楽:クリシトフ・コメダ

反抗する若者と空威張りするオッサンの情けない男の物語
 原題"Nóż w wodzie"で、邦題の意。ポランスキーの初監督作品。
 ヒッチハイクをしていた貧乏学生(ジグムント・マラノウッツ)がブルジョア夫婦のプジョーに同乗。そのまま週末の湖でのヨット休暇に付き合うというお話。
 結論からいえば、ブルジョア夫(レオン・ニェムチック)もかつては貧乏学生で、苦労して現在の生活を手に入れたということで、それゆえに過去の自分である青年に厳しく当る。
 青年は青二才として扱われ、船の掟に従わされ、船長である夫に絶対服従を強要される。青年は反感を募らせ、妻(ヨランタ・ウメッカ)も夫の横暴に嫌気がさす。夫がふざけて青年の大切にしていたナイフを水に落としたことから争いとなり、青年を水に突き落とす。夫が捜している隙に青年は船に戻って妻と不倫し、ヨットを降りる。そうとは知らない夫は青年が溺死したと思い、妻の話を信じずに警察に出頭する。
 父と子の相克、オイディプス・コンプレックスの変型だが、時代的にはヌーヴェルヴァーグで若者の反抗が流行り。かといって若者の反抗というには青年は情けなく、オッサンのブルジョア男も空威張り。あるいは男であることに拘る老若の男を嘲笑したかったのか、制作意図の不明な作品。
 ただ映像はナイフのようにとんがっていて、ヨットを真上から撮影したシーンなどが印象的。
 妻を演じるヨランタ・ウメッカが若くて美人だが、見た目は青年と同年齢で、36歳という設定の夫の学生時代を回顧するセリフがチグハグ。(その頃は小学生?) (評価:2.5)

ロリータ

製作国:​イギリス
日本公開:1962年9月22日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:ジェームズ・B・ハリス 脚本:ウラジミール・ナボコフ 撮影:オズワルド・モリス 音楽:ネルソン・リドル、ボブ・ハリス

ロリコンというよりもJK援交に近いコメディ作品
 キューブリックの初期監督作品。原題は"Lolita"で、ウラジーミル・ナボコフの同名小説が原作。ロリコンの語源となった小説で、ロリータは主人公ドローレスの愛称。
 パリからアメリカにやってきたハンバート教授(ジェームズ・メイソン)が下宿さがしをし、シャーロット未亡人( シェリー・ウィンタース)の一人娘ロリータ(スー・リオン)に一目惚れ。ハンバートと結婚するも下心が読めるシャーロットはドローレスをキャンプや寄宿舎に入れて遠ざけようとするが、都合よく交通事故死。義理の娘と二人暮らしになったハンバートは独占欲に走り、ロリータを籠の鳥にしようとするが、最初からハンバートに色目を使って翻弄するロリータに敵うわけもなく、家出して若者と結婚して妊娠。無心の手紙で2年ぶりに会うと、最初からロリータはハンバートではなく人気脚本家(ピーター・セラーズ)とできていた。失意のハンバートは脚本家を殺害する。
 原作のロリータは12歳、映画のロリータはハイスクールの生徒で、リオンは15歳。この3歳の微妙な差異はロリコンの曖昧な定義同様に映画のロリータの定義にも影を落としていて、リオンは160㎝と小柄ながらも完全にJKの援交的雰囲気が漂う。オジサンを誘惑する目をしている。
 この時点で、これをロリコンをテーマにした映画と評論する基盤を失っていて、JKの成熟した手管に見事騙されたオッサンの間抜けな話でしかなくなる。
 本来デリケートなテーマの話をロリータの年齢を上げたことでJK映画にせざるを得なかった(公開基準に抵触したらしい)キューブリックは、本作をシニカルなコメディ映画に変質させ、そのギャグは2年後に公開された『博士の異常な愛情』に引き継がれている。
 リオンは出演後、ロリータ同様の破滅的人生を送っている。なお、本作の一発目のロリータファッションは、ビキニの水着。 (評価:2.5)

世界残酷物語

製作国:​イタリア
日本公開:1962年9月12日
監督:グァルティエロ・ヤコペッティ、フランコ・E・プロスペリ 脚本:グァルティエロ・ヤコペッティ 撮影:アントニオ・クリマーティ、ベニート・フラッタリ 音楽:リズ・オルトラーニ

パロディだと思って笑いながら楽しむのが正しい鑑賞法
 原題"Mondo Cane"で、犬の世界の意。
 世界の奇習や風俗をドキュメンタリー風に紹介するが、ほとんどがヤラセ、ないしは歪曲したナレーションを付けた捏造映画で、真面目に見ると腹が立つ。
 例えば日本の紹介では、銭湯に湯女がいたり、牛に無理やりビールを飲ませたりというシーンが登場。パロディだと思って笑いながら楽しむのが正しい鑑賞法で、これにツッコミを入れるのは野暮というもの。
 冒頭、これから紹介する信じられないようなフィルムはすべて本物という字幕が入り、すぐに美女に裸にされるイタリアのイケメン男が登場するので、この時点で字幕そのものがジョークだと思わなければいけない。
 見世物映画なので当然動物虐待は付き物で、動物愛護家は動物愛護団体に告発したくなるので端から見ない方が良い。
 ヤコペッティは性風俗ドキュメンタリーを得意としていて、本作でも男に媚びたシーンが数多く登場するので、ジェンダー運動家も見ない方が良い。
 またアジアや南洋の島々を未開な地とする欧州中心主義をベースに作られているので、人種差別を嫌悪する人も見ない方が良い。
 一言で言えばドキュメンタリーを装ったいかがわしいフィルムで、当時、世界を知らず井の蛙だった人々の見世物小屋同様の下種な好奇心をくすぐるために捏造された奇習・風俗の数々。原爆批判もあったりして、本当に野蛮なのは人間なんだという、とってつけたメッセージも織り込まれているが、テーマ曲となった甘いメロディの「モア」(More)だけがマトモで、スタンダード・ナンバーとして残った。 (評価:2.5)

殺し

製作国:​イタリア
日本公開:1988年6月22日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:アントニオ・チェルヴィ 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、セルジオ・チッティ 撮影:ジャンニ・ナルツィージ 音楽:ピエロ・ピッチオーニ

社会の底辺をパッチワーク的に描写するが眠くなる
 原題"La commare secca"で、死神の意。ピエル・パオロ・パゾリーニの原案。
 ベルトルッチ21歳の初監督作品で、ローマのテベレ川の土手で起きた夜鷹殺しで、警察に呼ばれた容疑者たちの証言を繋ぎながら、真犯人にたどり着くという構成。
 被害者も被疑者も登場人物たちはどれも社会の底辺に蠢く人々という社会派ドラマで、娼婦、ヒモ、コソ泥、失業者、兵士、ホモといった連中が登場する。
 土手中、老いも若きも夜鷹ばかりで、そこに繰り出す男たちやイチャイチャを楽しむアベック(字幕ではそうなっている)、行き所なく彷徨う者たちと、そうした連中を狙って金品を盗もうとする不良たちという、下層の人々を描くネオリアリズモの系譜に連なる作品だが、構成力に欠けるところがあって、全体を通してのドラマ性に欠ける。
 一見、ドキュメンタリー風の証言集の寄せ集めでしかなく、社会の底辺をパッチワーク的に描写はするが纏まりがない。しかも証言は新聞記事切り抜きでしかなく客観的事実だけで無味乾燥。
 断片的で面白みのないシーンの再構成を委ねられた観客は、思考能力が停止して強烈に睡魔に襲われてしまう。
 1960年代のイタリア社会が覗けるというくらいが、見どころといえば見どころ。 (評価:1.5)

追跡

製作国:​アメリカ
日本公開:1962年4月13日
監督:ブレイク・エドワーズ 製作:ブレイク・エドワーズ 脚本:ミルドレッド・ゴードン、ゴードン・ゴードン 撮影:フィリップ・H・ラスロップ 音楽:ヘンリー・マンシーニ

穴だらけのシナリオに付き合う2時間が空しい
 原題"Experiment in Terror"で、恐怖の実験の意。
 サンフランシスコが舞台。学生の妹と暮らす女子行員(リー・レミック)が、何者かに銀行の金を着服するように脅される。ところが警察(なぜかサンフランシスコ市警ではなくFBI)がこれを察知、未だ事件が起きてもいないのに行員を突き止め多数で警護してくれるという、警察の鑑のような親切ぶり。喘息という手掛かりだけで指名手配中の犯人と特定する。
 犯人は、行員宅も銀行もすべて警察に見張られていると知っているのに、まだ着服してもいない銀行の金に固執する始末で、このどうにも成功しそうにない計画が、警察が相手をしてくれているお蔭で進行してしまう。
 犯人を手助けするのが行員の妹で、簡単に犯人に騙されて拉致され、警護していた警察も間抜け面を晒す。こうしてようやく営利誘拐となり、姉は銀行の金を着服する気になる。
 あとは金の受け渡しがクライマックスとなるが、あっさり犯人は射殺されてしまい、この冗長で穴だらけのシナリオに付き合わされた2時間が空しい。
 見どころは中身はないのに緊迫感だけで引っ張る演出と、スタジアムとヘリコプターまで使った大掛かりな撮影だが、クライマックスはショボく、経費をかけた割には報われていない。 (評価:1.5)