海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1930年

製作国:ドイツ、アメリカ
日本公開:1932年2月
監督:G・W・パブスト 脚本:エルネスト・ヴァイダ 撮影:F・A・ヴァグナー 音楽:クルト・ワイル、テオ・マッケーベン
キネマ旬報:3位

銀行強盗と銀行資本家の違いについてのアンチテーゼ
 原題"Die Dreigroschenoper"で、邦題の意。Groschenは、昔のドイツ貨幣。ベルトルト・ブレヒトの同名戯曲が原作。
 オープニング・クレジットから、貧乏人が犯罪を犯すのは飯が食えないからだ、貧困が生む犯罪は罪ではない、豊さこそが社会から犯罪をなくす、という主張で始まるというテーマのわかりやすい作品で、ラストシーンもみんなで弱者に手を差し伸べて貧困をなくそうと締め括られる。
 主要登場人物は、ロンドンの貧民街のギャングの親分メッキー(ルドルフ・フォルスター)、乞食の元締めのピーチャム(フリッツ・ラスプ)、その娘ポリー(カローラ・ネイベル)、ロンドンの警察署長ブラウン(ラインホルト・シュンツェル)の4人。
 ギャングと言っても所詮は貧民のなれの果てで、メッキーとポリーが結婚することになって花嫁衣装も家具も盗んでくるだけ。メッキーとブラウンは元戦友で、すべてお目こぼし。結婚に反対するピーチャムは、聖十字架祭を邪魔するとブラウンを脅してメッキーを逮捕させる。
 一方、逮捕されたメッキーの跡目を継いだポリーは、銀行を襲う代わりに銀行を買収してしまい、合法的に手に入れる。保釈されたメッキーと乞食の元締めの座を追われたピーチャム、聖十字架祭混乱の責任を負って警察署長を辞めたブラウンが一堂に会し、銀行を使って貧しき者たちを豊かにしようと手を握る。
 劇中歌"Die Moritat von Mackie Messer"(メッキー・メッサーのモリタート)などを含む音楽映画で、長回しを含む凝ったカメラワークやセットなどの映像が見どころ。"Moritat"は殺人等を題材にした大道芸人の歌のことで、冒頭に大道芸人が紙芝居を見せながら"Die Moritat von Mackie Messer"を歌うシーンがある。この歌は"Mack the Knife"のタイトルでヒットした。
 強盗で銀行の金を手に入れる盗人と、株を買い占めて銀行ごと金を手に入れる資本家と、何が違うのかという資本主義に対するマルクス主義からのアンチテーゼが主要なテーマとなっていて、ロンドンが舞台なのに台詞がドイツ語という違和感も弁証法的には解消される。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1930年10月24日
監督:ルイス・マイルストン 製作:カール・レムリ・Jr 脚本:マックスウェル・アンダーソン、デル・アンドリュース、ジョージ・アボット 撮影:アーサー・エディソン 音楽:デヴィッド・ブロークマン
キネマ旬報:(発声映画)1位
アカデミー作品賞

僕たちは人の命が国家への義務よりも勝ることを学んだ
 原題"All Quiet on the Western Front"で、西部戦線の静謐の意。エーリヒ・マリア・レマルクの小説"Im Westen nichts Neues"(西部では異状なし)が原作。
 第一次世界大戦の西部戦線、ベルギー南部からフランス北東部でのドイツのフランス・連合国との悲惨な戦闘を描く。
 愛国的な老教師に扇動された学生たちが入隊を志願。西部戦線の前線に送り込まれて次々と戦死していく姿を描くが、戦況や作戦などは描かれず、何のためかよくわからないやみくもな突撃と状況のよくわからない攻撃を受けて、兵士たちがただ死んでいく姿しか描かれないので、戦争ものとしては至って退屈。戦闘で死ぬ姿を描けば戦争の悲惨さを描けると考える安易な演出に、戦死のシークエンスだけがだらだらと続く。
 もっとも火力や銃剣を使った戦闘シーンは結構よく出来ていて、エキストラの頑張りが見どころか。
 級友たちを失い、戦闘の日々によって生きる意味を見失った主人公のポール(リュー・エアーズ)が休暇で母校の後輩たちにいうセリフ、"... we learn that death is stronger than duty to one's country."(僕たちは人の命が国家への義務よりも勝ることを学んだ)が本作のテーマで、このメッセージに総てが集約されているのだが、この一言で語れてしまうところが本作の物足りないところ。
 テーマそのものは、国家への忠誠、愛国心に何の疑いも持たない人々がいる現在にも通用するもので、当時、このように個人と国家の関係を看破したことに感心するが、制作者というよりは原作者の慧眼。
 タイトルそのものを象徴する、戦場が十字架に埋め尽くされたラストシーンが印象的。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年2月25日
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 脚本:ジュールス・ファースマン 撮影:リー・ガームス
キネマ旬報:1位

クーパーとディートリヒをおしゃぶりするための映画
 原題"Morocco"。ベノ・ヴィグニーの戯曲"Amy Jolly"が原作。
 モロッコの外人部隊の女たらしトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とクラブ歌手で男性不信のアミー・ジョリー(マレーネ・ディートリヒ)のラブ・ストーリー。
 物語は外人部隊が休暇にモロッコの港町に帰還するところから始まり、色男のトムが町の女たちの大歓迎を受ける。
 一方、フランスから過去を捨てて船でやってくるのがアミーで、クラブ初出演の晩、客のトニーに一目惚れ、その場で部屋の鍵を渡すという、男性不信で過去を捨てた女とはとても思えない振る舞い。
 鼻の下を長くしてやってきたトムと恋の駆け引きを始めるが、聞いてて恥ずかしくなるようなキザな台詞の応酬で、要はクーパーとディートリヒが見得のきり合いを演じるというスター映画。残念なのはキザなつもりの台詞が今ひとつ垢抜けないこと。
 トムは上官の妻にも手を出していて、彼女がアミーと懇ろになったトムに嫉妬して殺し屋を雇い、逆に殺し屋を殺めたトムが逮捕されてしまう。
 アミーに求婚する大金持ちベシエール(アドルフ・マンジュー)が助命を嘆願。上官はこれ幸いとばかりにトムを戦地に送り出して殺そうとするが、逆に敵兵に撃たれて戦死。お人好しのベシエールはアミーのために前線の町にトムを探しに行き、そのままアミーはトムに付いて行ってしまうというラスト。
 行軍するトムを追いかけ、砂漠にハイヒールを脱ぎ捨てるというのが名場面。
 色男と美女がプライドを捨てて大恋愛するという、2大スターのクーパーとディートリヒをおしゃぶりするための映画なので、シナリオは二の次で相当に杜撰。演じている二人も、こんな甘々のお話では張り合いがなかろうに、と思えるほどに中身がない。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1931年5月31日
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール 撮影:ジョルジュ・ペリナール、ジョルジュ・ローレ 音楽:ラウル・モレッティ、アルマン・ベルナール
キネマ旬報:2位

話はつまらないが映像等にルネ・クレールの才気
 原題"Sous les toits de Paris"で、邦題の意。
 ルネ・クレール初のトーキー映画だが、多くのシーンがサイレントの演出に依っていて、ガラス窓の向こうや遠くの会話で唇だけが動き、身振り手振りのサイレント流の演技が中心。
 もっとも台詞による説明過剰な現代映画を見慣れた感覚からは、台詞を極力抑えて演技と映像で説明していく演出がむしろ洗練されているように見える。
 パリのいささか風紀のよろしくない下町が舞台で、路上でアコーデオンの伴奏で歌いながら楽譜を売るシンガーソングライターの青年(アルベール・プレジャン)が、町のボスがモノにしようとしているルーマニア移民の娘(ポーラ・イレリ)に恋し、娘を巡って争うという物語で、友達の盗品を預かったのをチクられて豚箱入りといったエピソードはあるものの、全体は不自然さの目立つ通俗なシナリオで面白くない。
 それでも主人公と親友が、娘との交際権を巡ってサイコロで優先権を決めるというシーンが冒頭にあって、ライバル登場で忘れ去られてしまうが、ラストシーンでこのシーンが復活。親友に軍配が上がって、主人公が一人寂しく路上ライブに戻るという構成が気が利いている。
 撮影所にパリの街並みを再現したということで、オープニングで町全体の遠景から路上ライブへとクレーンカメラで移動していくシーンが洒落ているが、サイコロシーン同様に、クロージングがこの逆のカメラワークというのも映像・演出的には大きな見どころとなっている。 (評価:2)

黄金時代

製作国:フランス
日本公開:劇場未公開
監督:ルイス・ブニュエル 製作:ド・ノアイユ・プロ 脚本:ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ 撮影:アルベール・デュヴェルジェ

自己満足に価値を見い出せるかが鑑賞の鍵
 原題"L' ge d'or"で、邦題の意。
 『アンダルシアの犬』(1928)に続く、ルイス・ブニュエル監督、サルバドール・ダリ脚本のコンビ作品、という点を除けばほとんど見ても意味のない作品で、前衛というよりは錯乱、実験的というよりは自己満足に価値を見い出せるかが鑑賞の鍵。
 サソリについての生物学的知見から始まり、岩場の匪賊、海辺の大司教、上陸する男女の一団、女に襲い掛かる狂人のシークエンスが続き、場面はいきなり街中へ。ヴァイオリンでドリブル、貴族の館と舞台は転換し、居間の牛、ホールの馬車、マグマと水洗トイレ…と脈絡なく続き、キリストと雪の中で頭髪が覆う十字架で終わる。
 登場するシーンからは、宗教の偽善やブルジョアの退廃、性倫理を揶揄しているのだろうとは想像がつくが、想像がつくだけで各シーンが何を意味しているのかはサッパリわからない。BGMを含めて詳細に検討すればそれなりの意味を見い出せるのかもしれないが、そんな気も起きない。
 シュールリアリズムの風刺コメディとされるが、思い付きの連想ゲームをベースに風刺だといわれても何を風刺しているのか理解不能で、コメディだといわれても何を笑えばいいのか困惑する。 (評価:1.5)