海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──2017年

製作:「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」製作委員会(テレビ東京、東京テアトル、ポニーキャニオン、朝日新聞社、リトルモア)
公開:2017年5月13日
監督:石井裕也 脚本:石井裕也 撮影:鎌苅洋一 美術:渡辺大智 音楽:渡邊崇
キネマ旬報:1位

都会の孤独と喧噪を映し出す詩的な映像
 最果タヒの同名詩集が原作。
 ストーリーはオリジナルで、都会に住む男女の散文的な日常が描かれるが、映像的描写にはVFXを用いた映像加工やカメラワーク、スローモーション、アニメーション等が用いられ、原作の詩的な雰囲気を醸し出している。
 とりわけオープニングのタイトルに合わせた東京の夜景から始まり東京の喧噪へと変化していく細かいカット編集が効果的で、主人公の男女を取り巻く都会の孤独を上手に演出している。
 青年(池松壮亮)は建設現場で働く日雇い労働者で、仲間と常に話していないと不安なタイプ。生れたときから左目が悪く、世界の半分しか見えないが、心の目が見る世界は人一倍というデリケートで優しい若者。
 女(石橋静河)はかつて失恋していて世の中の人々の価値観に対して懐疑的。自分に対して自信が持てず、ひねくれた物の見方となっていて、人々は愛にすがって生きているが、愛には終わりがあり、愛には死の臭いがするという言葉となっている。
 その二人が偶然の出会いを繰り返したことからある種の運命的な絆となり、女は元彼から今でも愛していると言われ、青年は高校の同級生から突然愛していたと打ち明けられ、それがきっかけとなって二人は互いの不確かな愛を頼りに歩み始める。
 そこに描かれるのは、愛を求めながら裏切られ傷つき、その不安を逃れるために出会いを求め、再び裏切られ傷つく人々、自分は不幸だと思い、その不幸を忘れるために喧噪に身を置く人々で、青年の同級生は不幸から逃れるために日本を捨てようとする。
 石井裕也のシナリオと人物描写は精緻で繊細で、とりわけ都会の孤独に立ちすくみ背を向ける女の描写が優れている。
 それに比べて優秀でありながら日雇い労働を自分の器と考える青年の人物像や背景が見えない。
 日雇いの仲間で、突然死する男に松田龍平。体を壊し「死ぬまで生きていく」と言って日雇いをやめていく中年男の田中哲司が上手い。
 孤独な二人が結びつくラストは、孤独に生きる人々への希望のメッセージとなっているが、予定調和でもあり、それまでの鋭利がいささか丸まった感があるのが惜しい。 (評価:2.5)

製作:唐津映画製作委員会、PSC
公開:2017年12月16日
監督:大林宣彦 製作:辻幸徳、大林恭子 脚本:大林宣彦、桂千穂 美術:竹内公一 撮影:三本木久城 音楽:山下康介
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞

見る側の理解力を津波のように超えて立ち往生させる
 檀一雄の同名小説が原作。花筐は、花などを摘んで入れる籠のこと。
 昭和16年の唐津を舞台に、桜散る春から12月8日の日米開戦までの青春群像を描く。
 主人公は、アムステルダムに住む両親の下から唐津の叔母(常盤貴子)の家に身を寄せる学生・俊彦(窪塚俊介)。同居する叔母の義妹・美那(矢作穂香)に恋心を抱くが叶わず、美那は俊彦の学友で美少年の鵜飼(満島真之介)に思いを寄せ、鵜飼は学友・吉良(長塚圭史)の従妹・千歳(門脇麦)と付き合っていながら、未亡人の叔母にも手を出すというドン・ファン。
 頑健な鵜飼と虚無僧のような吉良は俊彦の美と知の憧れだが、吉良は美那の写真を撮らせていた千歳と相姦の挙句、自殺。
 もう一人美那の友達・あきね(山崎紘菜)が出てきて、国家の一大事に不純異性交遊を繰り広げるが、戦争を生き残ったのは俊彦ひとりという、老いた俊彦(伊藤孝雄)の独白で終わる。
 戦争とは戦場の兵士だけでなく、銃後の一人ひとりに自己との戦いがあったという反戦映画で、一人生き残った俊彦は戦争に加担も反対もしなかったノンポリ。劇中母の言葉として語られる、飛ぼうとしなかった日和見人間として蹉跌する。
 100%学生には見えない窪塚俊介や長塚圭史を起用した虚構性は、大林の幻惑的な映像世界に同化してリアリティを超越し、異次元の世界に観客を引き込む。
 この虚構から生れる銃後の戦争絵巻は濃密な生への息吹として迫ってくるのだが、見る側の理解力を津波のように超えてしまって、しばしば立ち往生させる。 (評価:2.5)

愚行録

製作:『愚行録』製作委員会(バンダイビジュアル、テレビ東京、ワーナー・ブラザース映画、東北新社、オフィス北野)
公開:2017年2月18日
監督:石川慶 脚本:向井康介 撮影:ピオトル・ニエミイスキ 美術:尾関龍生 音楽:大間々昂

慶應に入れない愚かな制作者と観客が楽しむ推理ゲーム
 貫井徳郎の同名小説が原作。
 雑誌記者(妻夫木聡)が1年前に起きた一家惨殺の未解決事件を追うという物語で、殺された夫(小出恵介)と妻(松本若菜)のそれぞれの友人たちを取材していく。
 これに育児放棄で収監されたシングルマザーの妹(満島ひかり)のエピソードが挿入されるが、友人たちから聴く殺された夫婦のまさしく愚行録といえる回想を中心に物語が進んで、主役であるべき妻夫木と満島の存在感が薄れていくため、勘が良ければ、こんな影の薄い役に妻夫木と満島がキャスティングされるわけがなく、この二人が最終的に惨殺事件に絡んでいくに違いないことが分ってしまう。
 そして、満島が殺された妻と同じ大学に通っていたことが分かった時点で、妻夫木がその事をおくびにも出さずに同級生たちに取材していた不自然で、妻夫木の目的が他にあったことがわかる。
 そうした点では制作者VS観客の推理ゲームみたいなところがあって、壁のリースや吸い殻といった鍵も用意されていて結婚楽しめる。
 文應大学のモデルは慶応大学で、そんなことを考えながら見ると、リアルに世間を騒がせている現役生や卒業生の愚行ぶりも壺に嵌る。慶大生=愚者の偏見に満ちた作品なのだが、登場する愚者たちの会話が妙に生々しくてリアリティがあり、愚者だらけの若者たちに日本の未来が心配になる。
 満島の学資は誰が出したのかとか、妻夫木の作戦はよく見れば穴だらけだとか、ミステリーとしては杜撰なところもあるが、それを突っ込む作品でもない。
 クズを演じた小出は、本作公開後に本当にクズになってしまった。 (評価:2.5)

ニッポン国VS泉南石綿村

製作:疾走プロダクション
公開:2018年3月10日
監督:原一男 製作:小林佐智子 撮影:原一男 音楽:柳下美恵

アスベスト裁判をめぐる被害者・弁護団・国の茶番劇
 石綿工場が集まっていた泉南市のアスベスト被害者が、国を相手に起こした賠償請求訴訟を追ったドキュメンタリー。
 一審から最高裁までの裁判過程を原告団を中心に追っていくが、勝訴したにも関わらず、支援団体代表の柚岡が「煮え切らない」と表現したように、壮大な茶番劇を見せられたというのが、3時間35分を見終わった正直な感想だ。
 中盤、監督の原一男がドキュメンタリーの方向性を見失っていると漏らすように、高裁の勝訴判決までは、原告・被害者たちのインタビューを並べているだけで、まるで未編集のNHKスペシャルをダラダラ見せられているよう。
 はたして被害者たちの側に立った告発映画なのかと、原一男にしては物足りなさを感じつつ、中心になって舞台を回す主役が不在のために、こんな温い作品になっているのだと気づく。
 アスベスト被害者が人種や貧困を背景にした棄民なのではないか、というテーマ立ても空振りする。
 原一男らしさを取り戻すのは、上告を断念するように柚岡が首相官邸に押しかけ、厚労省に突進するあたりからで、原告・支援団体・弁護団・国のそれぞれの思惑が明確に浮かび上がってくる。
 柚岡は、裁判システムそのものが社会から遊離した司法村だと喝破。裁判がルールに則ったゲームに過ぎず、参加者はそれぞれの役割を演じるプレイヤーでしかなかったことがわかる。
 その結果、ノーサイドとなって原告と国はにこやかに握手を交わし、ゲームに負けた国が支払うペナルティは、勝者の弁護士・支援団体・原告のそれぞれに分配される。熱戦を終えた原告の一人は、気が抜けたように家に帰って引き籠る。
 怒りをエネルギーとしたサークル活動の熱情は冷めてしまい、アスベスト問題の本質は解決しないまま、何事もなかったかのように平常に戻る。
 ゲームに参加できずに取り残された、アスベストで死んだ人々の遺影が並ぶエンディングが虚しい。 (評価:2.5)

製作:木下グループ、COMME DES CINEMAS、組画
公開:2017年5月27日
監督:河瀬直美 脚本:河瀬直美 撮影:百々新 美術:塩川節子

デジタルの目を手に入れたからカメラを捨てられた?
 視覚障碍者のために映画の音声ガイドを作っている若くて美人の女性(水崎綾女)と視覚を失いつつあるカメラマン(永瀬正敏)の二人の葛藤を描く作品。
 視覚を失うということはどういうことなのか、彼らの目になるということはどういうことなのかというのがテーマだが、後半は二人のラブストーリーとなり、カメラマンを通して視覚障碍者の心に近づく女性はともかく、視覚に未練を残すカメラマンが自らの心と称した6×6のフィルムカメラや保管していあるフィルムを焼き捨ててしまうというラストがどうにも理解できない。
 彼がそれまで拒否していた盲人用の杖を使うようになり、健常者への未練を断ち切ったというにはあまりに子供じみた描写で、目の代わりとなる彼女を手に入れたから過去を捨てられるというもの即物的で、それとも彼の心がフィルムではなくデジタルの目を手に入れたということか?
 製作中の音声ガイドを視覚障碍者たちに評価してもらう集まりで二人は出会うが、視覚障碍者であることを拒否しているカメラマンがその評価会に出席しているのが不自然で、評価会に参加している視覚障碍者たちも作劇上とはいえ女性に不必要に意地悪なのが、見ていて気持ちのいいものではない。
 彼女のボランティア精神を否定するカメラマンと、その彼に反発する女性が次第に愛し合っていく過程を描くという単純なストーリーだが、彼女がいなくなった父と撮った夕日の写真、カメラマンの写真集の夕日の写真がキーワードになっていて、写真集の夕日の場所へのデート、女性の認知症の母と見る父との思い出の夕日がクライマックスとなるが、幽明の境と盲明の境を象徴させているだけで、だから何だという河瀬直美のいつもながらの曖昧な雰囲気だけに終わっている。
 劇中の映画の監督に藤竜也、認知症の母に白川和子。 (評価:2.5)

製作:スターサンズ
公開:2017年10月7日(前篇)、2017年10月21日(後篇)
監督:岸善幸 脚本:港岳彦、岸善幸 撮影:夏海光造 美術:磯見俊裕、徐賢先 音楽:岩代太郎
キネマ旬報:3位

虚しさでも修羅でもないラストが中途半端
 寺山修司の同名小説が原作。
 映画は2020~22年に時代設定されていて、2011年の東日本大震災が影を落とす物語になっている。
 オレオレ詐欺に絡む仲間割れの殺人で受刑した新次(菅田将暉)が出所してくると、仲間割れは元の鞘に収まっていて、その時の相手・裕二(山田裕貴)はプロボクサーになっていた。新次はリング上で合法的に復讐するために、新興ジムに入り、4回戦ボーイで裕二と同じジムのボクサーを倒すまでが前篇。
 新次は吃音の理容師で韓国人の母を持つ健二(ヤン・イクチュン)とともに練習に励むが、並行して自殺防止サークルのエピソードが絡み、新次の父の自殺、健二の父、震災避難民などが繋がっていく。
 後篇では新次と裕二のマッチが組まれ、死闘の末、新次が判定勝ち。一方、新次の背中しか見てこなかった健二は、新次と戦うことを目標と決め、別のジムに移籍。破竹の勢いで勝ち進み、新次とのマッチがクライマックスとなる。
 この間、新次の父の自殺の原因が健二の父にあったこと、新次の恋人(木下あかり)が被災者であったことが明らかになり、健二と自殺防止サークルの被災者の女(今野杏南)との恋愛話が絡む。
 前後篇5時間余りと長尺だが、試合のシーンが多いこともあって物語そのものは飽きない。ただ話があちこちに飛ぶため、テーマがはっきりせず、何が描きたかったのか釈然としないものが残る。
 大きくは「生きるということは戦うこと」で、どのような困難や孤独に対しても人は逃げずに戦い続けなければならない、というのがメッセージに聞える。
 その中に、東日本大震災の被災民、電力会社社員、PKOで派遣された自衛隊員、肉親を失った者、人との繋がりを求める者がいて、それから逃避するのが新次の母(木村多江)、健二の父(モロ師岡)で、生きる目標をリングに求めるのが新次と健二ということになる。
 もっとも生き残るには他者を殺すくらいの覚悟が必要で、実際ラストでそうなる。そこに虚しさを見出すのか、修羅を見出すのかは描かれず、中途半端さが残る。
 安保法への暗喩なのか徴兵制に繋がる社会奉仕活動プログラムも意味ありげに登場し、生きるために戦う相手はいがみ合う者や仲間ではなく、強大な権力なのだと示唆しているようにも見えるが、それもきちんとは描かれず、東日本大震災、社会奉仕活動プログラム、海外派兵、自殺防止サークルの背景は単なる道具立てにしかなっていない。
 原作は『あしたのジョー』よりも先に書かれているが、本作後篇の新次と健二のライバル関係は丈と力石にそっくりで、ラストの二人の対戦でそれを髣髴させるのは、『あしたのジョー』に心酔した寺山修司へのオマージュなのか?
 後篇のリングシーンは単なる殴り合いでパンチが効いているとは思えず、あまりに漫画チックなのがいただけない。
 ジムのコーチ、ユースケ・サンタマリアが段平風でいい。トレーナーにでんでん、オーナーに高橋和也。 (評価:2.5)

ビジランテ

製作:東映ビデオ、巖本金属、東京テアトル、スタジオブルー
公開:2017年12月9日
監督:入江悠 製作:間宮登良松、江守徹、太田和宏、平体雄二 脚本:入江悠 撮影:大塚亮 美術:松塚隆史 音楽:海田庄吾

サイタマ的なエネルギッシュなパワーに圧倒される
 タイトルの"Vigilante"は、自警団員のこと。
 埼玉県深谷市が舞台。市会議員の父親が死んで、跡を継いでいる次男(鈴木浩介)がアウトレットモール誘致のために相続した土地を提供しようとしたところ、父親のDVで30年前に家出した長男(大森南朋)がひょっこり現れ、遺言書を盾に土地は自分のもので売らないと宣言する…というのが物語の発端。
 誘致を進める市会の有力議員(嶋田久作)が地元ヤクザを使って長男に土地を手放すよう脅すが、長男は負債を抱えていて東京のヤクザの取り立てに遇っていて、最後はヤクザ同士の殺し合いの中で長男が死亡。土地の権利が次男に渡り、市会でアウトレットモール誘致が承認され、次男が委員に選ばれてのハッピーエンドとなる。
 兄弟にはもう一人、地元ヤクザの下でデリヘル店長をしている心優しい三男(桐谷健太)がいて、30年ぶりの長兄の帰還に父親のDVに苦しんだ兄弟愛の復活に心を砕くが、過去の信頼は回復せず、最後は長兄を殺した東京のヤクザに復讐するが返討ちに遇って絶命してしまうという悲しい物語。
 併せてタイトルになっている次男が参加する自警団を閉鎖的な地縁社会の象徴とし、コミュニティを作る中国人たちとの対立を描き、現代化と因習の狭間にある東京近郊の地域社会の暗部を浮き彫りにする。
 父権、暴力、地縁、風俗、外国人、利権、土地相続と都市近郊の抱える問題を一気に棚卸するような作品で、サイタマ的なエネルギッシュなパワーに圧倒される。
 もっとも見終わって何が残るかというと、その圧倒的な熱量が過ぎ去った後の燃えかすのような脱力感だけで、『さらば愛しき大地』(1982)が提示した宿題に、40年近く経って答えられていないのが寂しい。 (評価:2.5)

夜明け告げるルーのうた

製作:フジテレビジョン、東宝、サイエンスSARU、BSフジ
公開:2017年5月19日
監督:湯浅政明 製作:清水賢治、大田圭二、湯浅政明、荒井昭博 脚本:吉田玲子、湯浅政明 作画監督:伊東伸高 美術:大野広司 音響:木村絵理子 音楽:村松崇継

お蔭様の祟りは東日本大震災の津波を連想させる
 人魚が住むという地方の漁港が舞台で、バンドを組む少年2人・少女1人の中学三年生が主人公。3人は高校生にしか見えないのだが、そこはアニメのお約束。
 3人の音楽を聴いて人魚ルーが現れ、大人たちは観光資源にと人魚ランドをオープン。ルーを入れたバンドで宣伝をするが、少女がふてて人魚に襲われたと嘘をついて行方を眩ましたことから、元からあった人魚は人を食うという伝承を怖れた人々によって、ルーが監禁されてしまうという展開。
 人魚を虐待したことから「お蔭様の祟り」によって町が水没。ルーたちの活躍で町民は救われるが、人魚を守るお陰岩が崩壊してルーは去ってしまうというのがラスト。
 主人公の少年は両親の離婚によって東京から父と共に町にやってきたという設定で、高校進学も投げやりで笑顔のなかった少年がルーのお蔭で笑顔を取り戻し、友達もできて未来に目を向けるようになるという成長物語の体裁をとっている。
 日本では人魚は不老不死で、本作では人魚に噛まれることで犬も人も人魚になる。人魚に食い殺されたのではなく、実は水死寸前の人を人魚に変えて永遠の命を与えていたわけで、人魚が水死者を黄泉の国に誘っているという宗教観が背景となっている。
 本作の隠されたメッセージは、水死者の魂は人魚によって天国に運ばれ、そこで永遠の命=不老不死を得ている、つまりは人魚は鎮魂の使徒だというもの。町が水没するシーンは津波を連想させ、それは東日本大震災の津波で命を失った多くの人々を連想させる。
 湯浅が津波で死んだ人々への鎮魂の思い、残された人々の未来への希望を本作に込めたかは不明だが、制作時に津波についてまったく考えなかったとは思えない。
 人魚は噛んで仲間にしたり、日の光りが苦手で、ニンニクもどきのウニの人魚除けを嫌がるなどなどヴァンパイアの設定を流用している。
 ルーが純真無垢な童女で、歌い踊るだけで人々を明るい気持ちにさせるという特殊能力を持っていて、演出的にも『崖の上のポニョ』のポニョもどきで、さらにはルーのパパがトトロを彷彿させることから、日本のアニメに常習のパクリ感が気になるが、心に残る作品性がある。 (評価:2.5)

夜は短し歩けよ乙女

製作:フジテレビジョン、東宝、サイエンスSARU、KADOKAWA、BSフジ
公開:2017年4月7日
監督:湯浅政明 脚本:上田誠 作画監督:伊東伸高 美術:上原伸一、大野広司 音楽:大島ミチル

エピソードのカオスが前衛的に思えてくる不思議
 森見登美彦の同名小説が原作。
 京都が舞台で、大学生がサークルの後輩の女の子に恋したものの思いを伝えることができず、まず外堀を埋めるために、なるべく彼女の目にとまる作戦=“ナカメ作戦”で彼女を追いかけるというラブコメ。
 彼女は好奇心が強いために奇怪な人々と珍妙な出来事に遭遇するが、大学生が彼女の子供の頃に所有していた愛読絵本「ラ・タ・タ・タム―ちいさな機関車のふしぎな物語」を古本市で手に入れ、めでたくそれを手渡すことができ、初デートに成功するまで。
 原作では春夏秋冬の物語が、映画では一晩で起きたという設定になっているため、エピソードがグチャグチャしている感は否めず、不条理なカオス感が漂う。このため、集中力が続かずいささか中だるみになるが、逆にこのカオスが前衛的に思えてくるから不思議。
 インテリ用語の集中投下もあって、ジャン=リュック・ゴダール作品のエピソードの断片化を見るような思いがし、子供向けでもオタク向けでもファミリー向けでもアートでもない、アニメの革新を見ている気がする。
 エピソードは飲み比べや春画も登場するが、原作もあって総じて教養主義。春画の黒塗り部分で回る花の絵が可愛い。 (評価:2.5)

製作:ENBUゼミナール
公開:2018年6月23日
監督:上田慎一郎 脚本:上田慎一郎 撮影:曽根剛 音楽:永井カイル
ブルーリボン作品賞

内容的には「カメラを止められない」二重構造のコメディ
 全体がワンショット、ワンシーンのホラー映画が始まり、エンドロールが終わると、一年前に時間が戻り、この映画のメイキングが始まるというちょっと凝った構造になっている。
 ホラー映画部分はテレビ生放送用の低予算の安手の作品ということになっていて、実際旧日本軍が人体実験をした因縁のある廃ビルでホラー映画を撮影していたところ、本当にゾンビが現れて陰惨なゾンビ映画が出来上がってしまうという、よくあるアイディア。
 面白くなるのはメイキングからで、撮影中に次々とトラブルが発生。テレビ生放送ということでカメラを止めることが出来ず、アドリブで何とか撮り終えたのが冒頭の作品というオチになっている。
 内容的には「カメラを止められない」で、何度か撮影継続が困難になる度に監督(濱津隆之)が「カメラを止めるな!」と叫ぶというコメディ映画。
 モニター室で放送を見ているプロデューサー(竹原芳子)が最後まで撮影現場のドタバタに気づかず、放送終了して能天気に席を立つのも可笑しい。
 劇中のカメラ、それを撮影するメイキングカメラ、さらに全体を撮影するカメラが本当のエンディングに登場し、この複雑な構造をシナリオ、演出が上手くまとめている。代役で出演することになる監督の妻、しゅはまはるみの演技がいい。
 主役の若手女優役に秋山ゆずき。 (評価:2.5)

追憶

製作:「追憶」製作委員会
公開:2017年5月6日
監督:降旗康男 製作:市川南 脚本:青島武、瀧本智行 撮影:木村大作、坂上宗義 美術:原田満生 音楽:千住明

降旗ファンには安心できる昭和の黴臭さが漂うレトロ感
 親に遺棄された3人の少年が里親・涼子のDV愛人・貴船を殺害。里親が「すべて忘れて」と言って罪を被って服役。それから25年後、過去を捨てて赤の他人として生きてきた3人が、舞台の富山で再会する物語。
 篤(岡田准一)は地元の刑事、啓太(小栗旬)は地元の土建業で成功。上京した悟(柄本佑)はガラス店の婿養子となったが、経営難で啓太に運転資金を借りに富山に行き、偶然25年ぶりに篤に再会。二日後、殺害され、篤が事件を捜査することになる。
 降旗康男なのでミステリーに重きは置かれてなく、謎解きなしであっさり犯人は捕まる。
 物語の中心はむしろ25年間の空白にあって、3年前に涼子(安藤サクラ)は交通事故で廃人になっており、獄中で産んだ娘(木村文乃)が里子に出されていた秘密を啓太だけが背負っている。
 貴船の殺害は篤の発案だったが手を下したのは啓太で、涼子に言われた通りに過去を忘れて生きてきた篤が、涼子への償いのために過去に縛られてきた啓太の苦労を知るという、降旗康男らしいセンチメンタルなヒューマンドラマとなっている。
 もっとも物語の設定はどこかデニス・ルヘイン原作・クリント・イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』(2003)に似ていて、昭和のウェットな香りというよりは昭和の黴臭さが作品全体に漂っていて、降旗ファンには安心できるが、そうでない人には高倉健のいない降旗映画を見せられているようなレトロな気分になる。
 映像にもレトロ感が溢れるが、そんな昭和黄金期の映画を見るような木村大作のカメラが見どころともなっている。  テーマは家族を守るか守らないかで、守る側に啓太、悟、涼子の夫(吉岡秀隆)。守らない側が篤で、妻を長澤まさみ、母をりりィが演じるが、今一つ響かないのは篤チームの演技力不足か。
 主人公は篤だが、作品的には啓太の物語になっていて、男は黙ってタイプの啓太を小栗旬が渋く演じている。 (評価:2.5)

アウトレイジ 最終章

製作:「アウトレイジ 最終章」製作委員会(バンダイビジュアル、テレビ東京、東北新社、ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野)
公開:2017年10月7日
監督:北野武 脚本:北野武 撮影:柳島克己 美術:磯田典宏 音楽:鈴木慶一

ピエール瀧と塩見三省の情けないヤクザぶりがいい
 『アウトレイジ ビヨンド』(2012)の続編。
 なぜ続編を作ったのか疑問。
 古希を迎えたビートたけしは足腰が立たない上に呂律も回らず、西田敏行は皺だらけで弱々しい。
 塩見三省が凄みのある表情を保っているのは立派だが、全体に迫力不足は否めず、北野武は監督としても衰えたかバイオレンスシーンも前2作のエグサがなく、機関銃を乱射して何とか取り繕っている。
 話は済州島に逃亡している大友(ビートたけし)の手下が、花菱会のピエール瀧に殺され、復讐のために大友が帰国する。日韓フィクサーの張(金田時男)のシマでの不祥事ということで、花菱会が詫びを入れるのを利用して、会長(大杉漣)と後釜を狙う古参の若頭(西田敏行)の策略が抗争に発展するという流れ。
 そもそも韓国でのチンピラ殺害で、日本の広域暴力団の会長・若頭が謝罪するというシナリオに無理がある上に、証券マン出身の会長が花菱会幹部全員に裏切られるどんでん返しも、全員の信任がないならその前に降ろされているだろうという設定の甘さ。
 仁義に生きる古いヤクザの大友と証券マンが会長になるというヤクザ社会の近代化を対比させるが、子分の恨みを晴らす以外にその違いは描かれてなく、最終章を作って何がしたかったのか不明。
 本来なら「作ったこと自体が間違いの作品」だが、塩見三省とピエール瀧の熱演を評価。ピエール瀧の情けないヤクザぶりがいい。 (評価:2)

製作:『散歩する侵略者』製作委員会(日本テレビ放送網、日活、WOWOW、松竹、読売テレビ放送、ポニーキャニオン、ニッポンプランニングセンター、オフィス作、ヒラタオフィス)
公開:2017年9月9日
監督:黒沢清 脚本:田中幸子、黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 音楽:林祐介
キネマ旬報:5位

宇宙人に概念を奪われた人間の概念が欠落
 前川知大の同名戯曲が原作。
 宇宙人が3人の人間の肉体を奪い、人々から概念を奪い学習し、地球を侵略するという物語で、家族・助詞の「の」・自分と他人・仕事などが奪われ、奪われた人間はその概念から解放されて幸せになる。
 如何にもな舞台風の観念的な設定だが、スクリーンに映写されて客観化される映画となると、いささか粗さが目についてしまう。
 そもそもが小さな町が舞台で、侵略者は3人(松田龍平、高杉真宙、恒松祐里)しかいないのに、どこでどうやって接触したのか病院は概念を奪われた人々で溢れかえってしまう。
 おまけにパンデミックと疑う厚生労働省の官僚(笹野高史)や自衛隊まで登場する始末で、人間の肉体しか持たない侵略者を退治するのに四苦八苦する。
 SFとしてはちゃちいし、ストーリーはマンガ。概念を奪われた人間について、あるいは人間にとって概念がどういう意味を持つのかといった哲学的な概念もなく、舞台ならまだしも映画としてはアイデア倒れに終わっている。
 最後に奪われる概念が愛(!)では、余りにテーマがありきたりで黒沢清の名が廃る。
 宇宙人の侵略について、問題山積の現代だからこそ一掃するいいチャンスだと宣う小泉今日子の台詞にも、問題山積は今に始まったことじゃないと白ける。
 侵略者をサポートするガイドに長澤まさみ、長谷川博己。前田敦子も女子高生で登場。VFXが頑張っている。 (評価:2)

製作:フジテレビジョン、アミューズ、ギャガ
公開:2017年9月9日
監督:是枝裕和 製作:小川晋一、原田知明、依田巽 脚本:是枝裕和 撮影:瀧本幹也 美術:種田陽平 音楽:ルドヴィコ・エイナウディ
キネマ旬報:8位

ヒューマニズムは描けても哲学は描けない
 供述をくるくる変える殺人犯に振り回される弁護士が、真実を追求していくミステリー劇。
 人の命を弄ぶ裁判官・弁護士・検事の司法批判かと思えば、真実とは何かといった哲学的問いかけがあったり、人間には出生からの選別があるといった神学論があって、テーマを見極められなかったのか、あるいはテーマに振り回されてしまったのか、それとも何がテーマなのかよくわからなくなってしまったのか、弁護士ともども制作者も振り回されてしまった作品で、最後は僕は人の役に立つことができたというセンチメントな通俗ドラマに終わってしまうところが是枝裕和らしい。
 テーマ同様、ストーリーも粗が多くリアリティも薄い。おそらく国選弁護人なのに3人の弁護士事務所が全面的に対応し、その割に福山雅治がビジネスライクに振る舞うという辻褄の合わなさ。
 法廷シーンもリアリティを欠いていて、検事役の市川実日子がシナリオのせいなのか無茶苦茶下手な上に、福山雅治もガリレオの演技しかできず、テレビの刑事ドラマレベルに留まっている。
 それを補うのが殺人犯役の役所広司で、『容疑者Xの献身』(2008)の堤真一と同じ立場で作品全体を支えている。もう一人、福山の周りを固める同僚弁護士役の吉田鋼太郎が、いい味。
 物語は、前科者を雇っている工場の社長が殺され、元従業員(役所広司)を逮捕。強殺では死刑を免れないため、弁護方針に従って金銭目的ではなく怨恨が理由と申し立てるが、社長の妻(斉藤由貴)からの嘱託殺人、社長の娘(広瀬すず)を父の毒牙から守るための殺人、食品偽装隠蔽だけの無罪と主張を変えて法廷を混乱させ、裁判官の心証を害して死刑判決を受けるまで。
 ヒューマニズムは描けても、是枝に哲学は描けないということを証明する作品。 (評価:2)

勝手にふるえてろ

製作:「勝手にふるえてろ」製作委員会
公開:2017年12月23日
監督:大九明子 脚本:大九明子 撮影:中村夏葉 美術:秋元博 音楽:高野正樹

絶滅動物との共通点が掘り下げられないのが肩透かし
 綿矢りさの同名小説が原作。
 妄想系恋愛経験なしのOL(松岡茉優)が、中学生の時から思い続けている妄想彼氏(北村匠海)と、同僚男性社員の告白彼氏(渡辺大知)の間に挟まれて、妄想と現実の狭間に落ち込んで悶々とする物語。
 告白彼氏の出現で、改めて妄想彼氏にアプローチを開始。絶滅動物趣味が一致し、互いに行き場を失った人間同士であることで共感するものの、彼氏が彼女の名前を憶えていないことを知って愕然とし、日々名前を知らない人々と接しながらも妄想会話をしている自分の孤独に気づき、彼女の名前を認知している告白彼氏を選択。
 ところが誤解から告白彼氏と喧嘩。会社を辞めて完全なる孤独に陥り、寂しさから告白彼氏を呼んで漸く一件落着するというコミカルなラブストーリー。
 社会から埋没する無名の一個人である主人公の妄想による自己完結ぶりが楽しいが、絶滅動物との共通点が掘り下げられないのが肩透かし。
 社会との親和性を拒絶し、妄想に生きて現実に妥協しないという彼女の主体性が、好きではない告白彼氏の選択で終わるという変節も肩透かし。
 安手のラブストーリーに文学的な装飾を施しただけの作品だが、彼女が妄想の中で会話するシーンやアパートでの生活をカットバックする演出が、ちょっと洒落ている。 (評価:2)

製作:映画「彼女がその名を知らない鳥たち」製作委員会(クロックワークス、日活、テレビ大阪、朝日放送、C&Iエンタテインメント、クオラス、ポニーキャニオンエンタープライズ、ひかりTV)
公開:2017年10月28日
監督:白石和彌 脚本:浅野妙子 撮影:灰原隆裕 美術:今村力 音楽:大間々昂
キネマ旬報:9位

セックスシーンが演技派女優への脱皮では寂しい
 沼田まほかるの小説が原作。
 ジゴロ男(竹野内豊)にフラれた挙句、暴力を振るわれて大怪我した女が主人公で、その傷心で社会不適応のクレーマー、家では同棲男に我儘のし放題という嫌な女に成り下がっているという設定。
 デパートに入れたクレームが元でイケメン店員(松坂桃李)と知り合うものの、これまた妻子持ちのプレイボーイで、女が内面に孤独を抱えているという殺し文句でモノにする。
 女と同棲するのがガテン系の50男で、セックスも許してもらえない保護者というか従僕で、誠実だが野卑な男を阿部サダヲが演じ、これが本作最大にして唯一の見どころとなっている。
 女の元彼が5年前に失踪していたことが判明し、それに阿部サダヲが関わっていることが仄めかされた途端、このライトノベルかケータイ小説レベルの中身のないストーリーが、どうやらミステリーらしいことがわかるが、同時にミステリーの結末が読めてしまうのが何とも寂しく、犯人がわかった後も延々と蛇足のケータイ小説が続き、最後に誠実だが野卑な阿部サダヲの愛にようやく女が気付くという、これまた安直なラストで締める。
 男に弄ばれる女を蒼井優が演じ、ポルノかと見紛うセックスシーンが営業的には最大の見どころとなっている。ひと昔前なら清純派女優の初ヌードにも似た体当たりのセックスシーンが、演技派女優への脱皮というのではチト寂しい。
 このような作品に文化庁文化振興費補助金が出ているのもよくわからない。 (評価:2)

製作:ギャンビット、ギャガ
公開:2017年7月15日
監督:廣木隆一 脚本:加藤正人 撮影:鍋島淳裕 美術:丸尾知行
キネマ旬報:7位

傷つけば女は風俗嬢、男はギャンブルという安直さ
 廣木隆一自身の同名小説が原作。
 郡山出身の廣木の思い入れから作られた東日本大震災&福島第一原発事故映画だが、テレビ・ドキュメントの「その後のフクシマ」程度の内容でしかなく、6年後に映画にした意義がわからない。
 主人公の女(瀧内公美)は、いわき市役所に勤めながら、週末は渋谷でデリヘルでバイトをしている。タイトルからすれば、それを肯定するのがテーマだが、彼女がなぜデリヘル嬢をしているかは最後まで見てもわからない。
 女は津波で妻を亡くした父(光石研)と二人で仮設住宅に暮らすが、働かずに補償金でパチンコ通いをしている父からは、女のバイトが生活のためとも思えず、恋人(篠原篤)と別れた理由もはっきりしない。震災と母の死、生活の激変による自己破壊願望なのか、厭世観なのか描かれないままで、妻との別れにケリをつけ農業に戻る父や、デリヘルから足を洗うバイト先の男(高良健吾)の正道に戻った姿を見て物思う娘を通して、震災から精神的に立ち直る父娘を描いたのだとすれば、あまりに底が浅い。
 崩壊した自己をデリヘルという試練で乗り越えたかったのか? 不特定な男との出会いが震災の傷を癒しているようにも見えず、そもそも、女はなぜデリヘル嬢になったのか? という疑問は最後まで残る。
 この手の作品にありがちな、傷つけば女は風俗嬢、男はギャンブルという安直な発想が何とも言えない。 (評価:2)

最低。

製作:KADOKAWA
公開:2017年11月25日
監督:瀬々敬久 製作:堀内大示 脚本:小川智子、瀬々敬久 撮影:佐々木靖之 美術:丸尾知行 音楽:入江陽

いっそピンク映画にした方が人間らしいドラマになったのではないか?
 紗倉まなの同名小説が原作。原作の連作短編3本を構成したもので、3つのストーリーが並行して進むが、日常の描写に終始して淡々と進む上に、それぞれの登場人物に個性やメリハリが欠乏して記号的に描かれるので、それぞれのストーリーが区別つきにくい上に把握しづらい。
 それぞれがAVに直接間接に関わりあっていて、どうやって生きたらいいのかわからないからAV女優(佐々木心音)をしていたり、何事も中庸に生きてきた主婦(森口彩乃)が変化を求めてAVに出演したりとかするが、なぜ結論がAVなのかという説明はもちろんなく、AV関係者以外には理解不能な彼女たちの心理や行動を見せられても、正直どうでもいい。
 ただ一人、母親(高岡早紀)がAV女優で、本番中にできてしまったという高校生の娘(山田愛奈)が、自分の出生の秘密とアイデンティティを求めて苦悩する姿だけが唯一物語になっている。もっとも元AV男優の父がズジスワフ・ベクシンスキーという画家のファンで、娘が画家志望で同じ画家のファンだったのは、父の遺伝とか母がそう仕向けたのかもしれないという推測はできるものの、作為的で無理がある。
 ベクシンスキーは死や絶望といったものがモチーフで、本作のテーマに重ねようという制作者の意図だが、女子高生がキャンバスに向かってベクシンスキーもどきの暗い絵を描いているのは、どうにも違和感があって、本作自体のシュール感を漂わせている。
 瀬々敬久らしい手慣れた濡れ場のシーンを見ていると、妙に文芸映画っぽくしないでピンク映画にした方がもっと人間らしいドラマになったのではないか、と思えてくる。 (評価:2)

製作:「光」製作委員会
公開:2017年11月25日
監督:大森立嗣 製作:近藤貴彦 脚本:大森立嗣 撮影:槇憲治 美術:黒川通利 音楽:ジェフ・ミルズ

理不尽な暴力は、日常とともにある心の闇…で?
 三浦しをんの同名小説が原作。
 東京の離島が津波に襲われ、運よく高台にいて助かった3人の少年少女の25年後を描くもので、信之(井浦新)と美花(長谷川京子)は、かつての恋人同士、輔(瑛太)は信之の弟分という設定。
 3人には秘密があり、津波の前に神社の境内で美花とセックスしていた男を信之が撲殺し、輔がそれを目撃していた。
 25年後、輔は南海子(橋本マナミ)を信之の妻と知って不倫。輔には暴力的な父(平田満)が現れて殺人事件を脅しに寄生する。一方、輔は美花が過去を消して女優になっているのを知って殺害写真をネタに強請り、美花は信之に揉み消しを頼むことになる。
 信之は輔に睡眠薬を渡し父を変死させ、輔を撲殺して島の殺害事件の証拠を消す。ところが輔が死ぬ前に南海子宛てに証拠の写真を送る手配をしていたために南海子は夫の罪を知るが、日常は変わらないという結末。
 殺人が人間の暴力なら津波も自然の暴力。理不尽な暴力は日常とともにあって、殺害を命じた美花が男との交合中に笑っていたことも信之には不可解。
 男を殺したのは美花を犯したことへの怒りなのか、あるいは美花にとって不都合だから殺させたのか判然とせず、津波の理不尽な暴力を体験した信之にとって、暴力は感情や理屈を超えた虚無の中にある。
 暴力に対して感情も痛みも持たない信之は、娘への暴力や輔への暴力に対して無感動で、南海子や美花に対する精神的な暴力にも気づかない。
 詰まるところ同じ島の出身者たちの内輪話で、だからどうなのだという結論のないのが本作の寂しいところで、闇の中の月の光というメタファーもわかったようでわからない。
 美花のマネージャー役に南果歩。 (評価:2)

製作:「幼な子われらに生まれ」製作委員会
公開:2017年8月26日
監督:三島有紀子 脚本:荒井晴彦 撮影:大塚亮 美術:井上心平 音楽:田中拓人
キネマ旬報:4位

テーマが上滑りして子どもの心理が描けていない
 重松清の同名小説が原作。
 子連れ女(田中麗奈)と再婚した男(浅野忠信)が血の繋がらない反抗期の娘に手を焼く物語で、血の繋がらないパパと血の繋がるパパのどちらが本当のお父さんかというのがテーマ。
 冒頭、離婚した妻(寺島しのぶ)が親権を持つ血の繋がる娘との面会のシーンから始まるが、遠慮のない馴れ馴れしさで、とても年に4回しか会わない父娘とは思えない不自然さに、作り物の臭いが漂う。
 続いて、男の再婚家庭に話の中心が移り、男を取り巻く状況説明が積み重ねられるが、連れ子に子煩悩ぶりを発揮して仲良し家族を演出するものの、本当の親父じゃないと反抗する娘を呼び捨てにするのも違和感アリアリ。実の子供でも呼び捨てにしない家庭が多い中で、この制作者は何を考えているのか?
 これで親子の関係をテーマにした作品を見せられても説得力がまるでなく、実の母の田中麗奈に至っては、日常的な親子の関係が見えてこない疑似的な形式家族になっている。
 娘が実の父(宮藤官九郎)との面会を求め、苦悩する浅野が切れる場面があるが、これもドラマ展開上の無理やり感があってごく普通の父親がとるであろう対応に見えないのが残念なところ。
 テーマばかりが上滑りして、反抗する子どもの心理が描けてないため、最後にニセのパパと和解して抱き合うシーンも思わず、どうして? とポカーンとする。
 再婚家族が疑似家族どころか、単なる創作上の疑似家族が極まっていて、血縁を巡るやりとりも空中戦で、ただウザいだけの橋田寿賀子ドラマを見せられている気分。
 ヤクザな料理人の親父で登場する宮藤官九郎がいい味を出しているが、面会にスーツで現れるのがこれまた違和感。 (評価:1.5)

製作:「彼らが本気で編むときは、」製作委員会(電通、ジェイ・ストーム、パルコ、ソニー・ミュージックエンタテインメント、パラダイス・カフェ)
公開:2017年2月25日
監督:荻上直子 製作:石川豊、藤島ジュリーK.、井上肇、水野道訓、追分史朗 脚本:荻上直子 撮影:柴崎幸三 美術:富田麻友美 音楽:江藤直子
キネマ旬報:10位

不自然で過剰な演出を挙げたらきりがない
 トランスジェンダーをテーマにした作品で、この手の作品にありがちな問題提起と性的マイノリティに対する同情と共感だけに終わっている作品。
 生田斗真が体は元男、心は女のトランスジェンダーを演じて頑張ってはいるが、『リリーのすべて』(2015)のエディ・レッドメインの演技力はないので、トランスジェンダーの心までは伝わって来ない。
 そもそもが、この類型的・硬直的思考のシナリオからトランスジェンダーをテーマにした作品を撮ったのが間違いで、身近に小学生のトランスジェンダーも登場するが、体は男、心は女の逆パターンは登場しない。
 女性にありがちなホモセクシュアルへの興味がこの監督にも感じられ、人間精神への洞察よりも表層的なレベルに留まっている。
 主人公の小学生(柿原りんか)の同級生でトランスジェンダーの男児(込江海翔)の母親(小池栄子)が、トランスジェンダーのカップル(生田斗真、桐谷健太)と暮らす女児に暴言を吐くシーンはあまりに類型的で、これに怒って洗剤を掛ける女児の行動も感情的というよりは不自然。
 生田の男性病棟への入院に抗議する桐谷も短絡的なら対する看護婦も類型的で、監督・シナリオの荻上直子の社会に対する偏見に満ちている。
 余りに雑で稚拙なシナリオと人物描写に辟易するが、この粗さは冒頭からあって、女児がコンビニおにぎりばかり母親(ミムラ)から与えられているという設定を描くために、包装紙と汚れたシンクが映し出されるが、作ったように人工的で小道具の手抜きに白ける。
 男児の母親がトランスジェンダーに嫌悪感を持つのは薄々息子の兆候に気づいているからだろうが、忖度しないとそれと気づかない演出・演技がヤバい。
 物語は母親に遺棄された女児が叔父に引き取られ、そのトランスジェンダーのパートナーと暮らすうちに母娘のようになり、養子縁組を望むようになるが、遺棄した母親に親権を主張され引き下がってしまうというもの。
 養子話にラッキー!としか言いそうにない母親との議論もなく、高学年の少女が生田の胸に顔を埋めるのも、いくら女同士でも不自然。体育の授業をサボる男児の母親への教師の態度など、シナリオのためのシナリオ、過剰な演出を挙げたらきりがない。 (評価:1.5)

アンチポルノ

製作:日活
公開:2017年1月28日
監督:園子温 製作:由里敬三 脚本:園子温 撮影:伊藤麻樹 美術:松塚隆史 音楽:菊地智敦

日活ロマンポルノでポルノ論を繰り広げる野暮
 日活ロマンポルノ45周年記念リブート作品。
 日活ロマンポルノの頭でっかちだった悪い点を真似てしまった作品で、ポルノ映画としての必要条件を満たしていない。
 カンバスに描いた登場人物の肖像をもとに物語を創作するという女流小説家(冨手麻妙)が主人公で、本の発売と絵の個展を並行して開くというマルチぶりが人気という設定。大きなワンルームにベッドとテーブルと便器が置かれていて、撮影セットのような部屋を中心に物語が進行し、美術もシナリオもシュールリアリズム。
 10分に一回、ヘアヌードやレズビアンシーン、主人公の初セックスビデオの映写が行われるが、処女なのに売女 自由なのに奴隷、女流の冠称は差別といった観念的な台詞が繰り返される。
 要は、日本では表現の自由が保障されながら性表現は自由ではなく、自由という名の下の隷属で、女の性が自由ではないことの象徴で、女は処女のように性を解放されず売女になることも出来ず、女流という名のもとに差別される存在という、ポルノもまた名ばかりで本当のポルノではないというアンチテーゼがテーマ。
 ポルノ論を聞くために日活ロマンポルノを観に行く野暮天はいない。 (評価:1)


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