海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1997年

製作:大​映
公開:1997年12月27日
監督:黒沢清 製作:加藤博之 脚本:黒沢清 撮影:喜久村徳章 音楽:ゲイリー芦屋 美術:丸尾知行
キネマ旬報:5位

自分が暗示にかけられたような不安と不快感が残る
 ​タ​イ​ト​ル​の​c​u​r​e​は​治​療​・​癒​し​の​意​。
​ ​理​由​も​な​く​手​近​な​人​間​を​殺​し​、​胸​に​刃​物​で​×​に​刻​む​と​い​う​不​可​解​な​事​件​が​続​発​す​る​。​共​通​性​に​疑​問​を​持​っ​た​刑​事​(​役​所​広​司​)​は​、​犯​人​が​殺​人​教​唆​の​暗​示​を​掛​け​ら​れ​て​い​る​と​い​う​推​論​を​立​て​、​メ​ス​マ​ー​の​催​眠​療​法​を​研​究​し​て​い​る​記​憶​障​害​の​男​(​萩​原​聖​人​)​を​捕​ま​え​る​。​刑​事​は​精​神​病​の​妻​(​中​川​安​奈​)​を​入​院​さ​せ​る​が​、​男​の​影​響​を​受​け​た​友​人​の​心​理​学​者​(​う​じ​き​つ​よ​し​)​が​自​殺​。​刑​事​の​精​神​も​、​現​実​と​非​現​実​の​境​界​を​超​え​る​。
​ ​×​は​肉​体​の​束​縛​を​離​れ​て​本​来​の​自​我​を​取​り​戻​す​た​め​の​c​u​r​e​と​い​う​こ​と​に​な​る​が​、​い​さ​さ​か​観​念​的​。​境​界​を​超​え​た​刑​事​の​見​る​世​界​で​は​誰​も​が​×​の​字​の​c​u​r​e​を​施​術​す​る​が​、​最​初​に​ス​ク​リ​ー​ン​で​本​作​を​見​た​時​に​は​、​自​分​自​身​が​暗​示​に​か​け​ら​れ​た​よ​う​な​不​安​と​不​快​感​が​残​っ​た​。
​ ​映​画​評​論​的​に​い​え​ば​、​ス​ト​レ​ス​の​中​で​誰​も​が​半​ば​精​神​病​者​と​な​っ​て​い​る​現​代​社​会​の​病​巣​を​描​い​て​い​て​、​実​際​2​0​0​0​年​代​に​起​き​た​池​田​小​、​土​浦​、​秋​葉​原​な​ど​の​理​由​な​き​無​差​別​殺​人​や​簡​単​に​キ​レ​る​現​代​を​予​言​し​た​作​品​と​も​い​え​る​。
​ ​た​だ​本​作​を​見​て​も​c​u​r​e​は​さ​れ​な​い​し​、​む​し​ろ​精​神​の​不​安​定​を​助​長​す​る​映​画​で​、​精​神​を​病​ん​で​い​る​と​自​覚​し​て​い​る​人​に​は​奨​め​な​い​。
​ ​そ​う​し​た​不​安​定​な​精​神​を​役​所​が​好​演​。​中​川​も​気​を​滅​入​ら​せ​る​演​技​で​、​う​じ​き​も​頼​り​な​さ​が​い​い​。​萩​原​の​精​神​病​的​禅​問​答​の​演​技​も​見​ど​こ​ろ​。 (評価:3)

製作:ケイエスエス、衛星劇場、グルーヴコーポレーション
公開:1997年5月24日
監督:今村昌平 製作:奥山和由 脚本:冨川元文、天願大介、今村昌平 撮影:小松原茂 美術:稲垣尚夫 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭パルム・ドール

印旛沼の垢ぬけない地味な風景が高揚感に欠ける
 吉村昭『闇にひらめく』が原作。カンヌ映画祭パルム・ドール受賞。
 浮気した妻を殺した男(役所広司)が仮出所後、千葉県佐倉で理髪店を開くという話で、友達は刑務所で買っていた鰻1匹という孤独男。人と交わることを嫌うが、保護司(常田富士男)やお節介な隣家の船大工(佐藤允)、押しかけ従業員の自殺未遂女(清水美砂)、UFO愛好家の青年(小林健)らに仕方なく付き合わされ、数々の騒動に巻き込まれて、再び収監されてしまう。
 船大工と印旛沼で鰻を獲るのが唯一の楽しみで、物語全体のキーワードは鰻と孤独。
 鰻はフィリピン近海で生まれ(実際はマリアナ諸島沖)、回遊して日本の川で成長、成魚となって再び海を渡って産卵地に向かうことから、主人公の孤独と遍歴、再収監され再び自殺女の下に戻ってくる未来をこの鰻の生活史と重ねている。
 もう一つは、UFO青年がUFOとの出会い待ち望む姿を、人嫌いの孤独な青年が本心では友を求めていることに対比させ、主人公、自殺未遂女とともに、孤独な者たちが他者との交わりを回復する物語として描いている。
 鰻は孤独で長い生涯の旅を送るが、子孫を残すために遥か未来に仲間と再会するのであり、それを主人公に「俺は鰻になった」と言わせている。
 今村らしく破綻のないしっかりとした作品に仕上がっているが、土俗的な今村カラーに欠けるのと、なんといっても印旛沼の垢ぬけない地味な風景が、映画としての高揚感に欠ける。
 佳い作品だがスケール感のない低予算映画の印象は免れない。 (評価:2.5)

製作:パナソニックデジタルコンテンツ、テイチク、テレビ東京、ホリプロ、シネマジャパニスク
公開:1997年10月18日
監督:原田眞人 製作:鈴木正勝 脚本:原田眞人 美術:丸山裕司 撮影:阪本善尚 音楽:川崎真弘
キネマ旬報:6位
ブルーリボン作品賞

娼婦をマリア視するのと変わらない大人の男たちのファンタジー
 コギャルは当時の流行語で、茶髪にルーズソックスを履いた、主に女子高生などの小娘のこと。バウンス(bounce)は弾むの意で、タイトルは弾けるコギャルといった感じ。
 コギャルのメッカ、渋谷を舞台に彼女たちの生態を描く24時間ドラマ。
 物語の軸になるのは新幹線で家出してきたコギャルではない帰国子女のリサ(岡元夕紀子)で、翌日発の航空券でニューヨークに渡航する予定。その前に渋谷で生活資金を稼ごうと考えたのが間違いの始まりで、慣れないブルセラショップでの買取からビデオ出演に向かうが、騙されて貯金30万円を奪われてしまう。
 その際に知り合ったコギャルのラク(佐藤康恵)がリサに同情。コギャルを仕切るジュンコ(佐藤仁美)を紹介して、コギャル好きの大人たちから一晩かけて金を巻き上げるが、渋谷を仕切るヤクザ(役所広司)に見つかり上納させられる。朝になり貯金30万円が戻ってきたリサは、無事ニューヨークへ向かうために上野からスカイライナーに。コギャルたちの友情物語は終わる。
 援助交際やブルセラで小遣い稼ぎをするコギャルたちが不道徳なのか、それに対価を支払う大人たちが少女たちを堕落させているのかという命題が前半の中心で、コギャルたちと客たちの様々な様相が描かれる。
 原田眞人のコギャルたちに向けた視線は好意的で、少女たちを神聖視するという点では彼女らの客と同じ目線にいる。ドラマ性を外せば、描かれる友情物語は絵空事で、娼婦をマリア視するのと変わらない大人の男たちのファンタジーを本作に見ることができる。
 リアリティを別にすればコギャルたちの描写は良くできていて、バブル後の物欲主義に歪んだ社会の断面と、その中で目標を見いだせないでいる若者たちへの指針を、リサの旅立ちを通して描こうとする。
 もっとも旅立ちを図るリサの家庭事情が説明されていないのが残念なところで、同様にコギャルたちも社会風俗としてしか描かれず、彼女らの背景には迫れていない。
 コギャルからJK、AKBその他と、少女たちの商品化は連綿と続くが、その背景に迫る社会学が欲しい。 (評価:2.5)

製作:ギャガ
公開:1997年4月19日
監督:望月六郎 製作:山地浩 脚本:森岡利行 撮影:今泉尚亮 美術:柴田博英 音楽:神尾憲一
キネマ旬報:5位

哀愁ある演出と映像が魅力的なヒットマン映画
 25年間を鑑別所と刑務所で過ごしてきたヒットマン(原田芳雄)が、出所して堅気で暮らそうとする物語。
 日雇いをしているところにヒットマンを兄貴分と慕うヤクザ(哀川翔)が現れ、金融会社社長(奥田瑛二)の運転手を斡旋するが、要は体のいい取立屋。連れていかれたクラブのピアノ弾きの娘(片岡礼子)に恋し、ゲイ(北村康=北村一輝)を合わせた3人の同居生活を始め、彼女が殺したがっている男をこっぴどく痛めつける。
 この男が藤間組組長の兄だったことから追われる身となり、印刷工となって新しい家で娘と同棲するが、ゲイを殺され、その復讐と娘を守るために、藤間組組長兄弟を殺し警察に逮捕される。
 ヒットマンが堅気になろうとしたが、愛する女のために再び銃を握るというありがちなストーリーだが、原田芳雄がこのヒットマンを演じるため、哀愁ある男の物語になっている。
 カメラワークを中心に望月六郎の演出がこの哀愁効果を出していて、特に電車を降りるヒットマンを電車の中から写し、そのまま車窓から流れる大阪の街を撮影するシーンがいい。
 哀川のヤクザは、ヤクザ社会も金儲けばかりになってしまって、任侠のために働くヤクザがいなくなったと嘆き、原田もまた殺す理由があるから殺すとヒットマン哲学を語る、ハードボイルドでノスタルジックなヤクザ映画が魅力的。 (評価:2.5)

製作:フジテレビジョン、東宝
公開:1997年11月8日
監督:三谷幸喜 製作:村上光一、高井英幸 脚本:三谷幸喜 撮影:高間賢治 音楽:服部隆之 美術:小川富美夫
キネマ旬報:3位

最大の見どころは安らぎを与えてくれる手作りの時代のSE
 三谷幸喜の初監督作品で、1993年初演の同名戯曲が原作。
 密室に複数の人間が集まり、勝手なことを言い出すという設定は1990年初演『12人の優しい日本人』と同じ。シナリオを改竄していくというパターンは1996年『笑の大学』にも使われている。
 懸賞シナリオに入選した新人作家(鈴木京香)のラジオドラマが生放送されるという設定で、リハーサル後に俳優たちが我儘を言い出してシナリオを改竄していくというコメディ。生放送というタイムレースの中での混乱が可笑しい。
 癖のある俳優たちを演じるのが戸田恵子、細川俊之、井上順、小野武彦らで、とりわけ戸田と細川の掛け合いが上手い。
 ディレクターに唐沢寿明、プロデューサーに西村雅彦、編成部長に布施明。
 良いドラマを作ろうとする純粋な新人作家に対して、スポンサーや俳優におもねりながら、作りたいものではなく、無事完成させて放送することがプロだという内輪の理屈をかざすラジオ局員たちとの対照を描くが、ところどころギャグは面白いが正直楽屋話。業界人には身につまされる話だが、三谷がこういう業界内輪ネタで満足していることが悲しい。
 藤村俊二演じる元音響効果の守衛がなかなかよく、手作りの時代のSEがこの映画に安らぎを与えているが、結局のところノスタルジーでしかないのが悲しい。
 ミキサー役の田口浩正がまだ痩せていて、ほかキャストも若々しい。
 舞台劇ということで三谷の映画は最後がいつも総花的になって締まらないが、本作も同様。トラックの運転手、渡辺謙のシーンは不要。 (評価:2.5)

製作:WOWOW、バンダイビジュアル
公開:1997年11月1日
監督:河瀬直美 脚本:河瀬直美 撮影:田村正毅 美術:吉田悦子 音楽:茂野雅道
キネマ旬報:10位

失われていくものへの哀愁でしかないところに限界
 奈良県吉野の鉄道計画の中止を題材にした一家の物語。
 父親(國村隼)は、僻地に開通する鉄道に夢を託す工事の仕事をし、その子供たちがまだ幼い頃に物語が始まる。
 静謐な山奥の自然と釜で煮炊きをする静かな生活を淡々と描きながら、時は約10年後に変わり、工事が中止となって父親は失職し、希望を失ってしまう。妻(神村泰代)は息子(柴田浩太郎)が働く旅館に働きに出るが、病弱のため続かず、父親は家族を残してこの世を去ってしまう。
 残された妻と高校生の娘(尾野真千子)は実家を頼り、長男と祖母(和泉幸子)が家に残るというのが、物語の大筋。
 説明らしい説明もなく、ドキュメンタリーのように寡黙な人々の数少ない日常会話だけで描写が続くため、ストーリーも家族関係もよくわからないままに時間だけが移ろっていくが、息子が父をおっさんと呼び、母を姉ちゃんと呼ぶことから、変則的な関係であることはわかるが、設定上は父の姉の子供ということになっている。
 そのため息子は義兄を思慕していて、可愛がってきた妹のラストの別れのシーンは、過疎の村という宿命と運命とに翻弄された一家のやりきれない切なさに満ちている。
 翻って、本作は美しい自然と生活を残す日本の原風景である山村が、時代の変化に壊されていく様子を描いているが、結局のところ失われていくものへの哀愁でしか語られていないところに限界があって、ただこまねいて嘆息することしかできない。
 父親が遺した8ミリフィルムに山村の人々の姿が映っているという、いわば消滅していく山村へのレクイエムなのだが、センチメントしか残らないところが寂しい。 (評価:2.5)

製作:松竹、オフィス・トゥー・ワン、フジテレビジョン、ポニーキャニオン
公開:1997年3月15日
監督:篠田正浩 製作:幸甫、海老名俊則、村上光一、田中迪 脚本:成瀬活雄 撮影:鈴木達夫 美術:池谷仙克 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:10位

信頼と絆が大切という優等生の結論が物足りない
 阿久悠の小説『飢餓旅行』が原作。
 1995年の阪神大震災と、神戸大空襲で壊滅した終戦直後の神戸を重ね合わせた作品で、50年前の非常時に崩壊の危機に晒された家族や人々が、愛や絆を取り戻す体験を通じて、大震災後の人々に力を合わせて再出発しようと呼びかける。
 震災の瓦礫に立つ主人公が、記憶の中で同じ場所を通り過ぎる少年時代の自分に再会し、少年もまた未来の自分に出会うという幻想的かつ定番の手法が使われるが、ラストシーンで戦死した兄の遺骨が歯ブラシであったという、これまた冒頭から想像のつくオチで、大切なのは物ではなく心なのだというテーマが、大震災から20年以上経つと凡庸にしか見えない。
 物語は、志願兵となって豊後水道で船を沈められて戦死した長男の遺骨を受け取った警察官の父(長塚京三)が、一家で故郷の宮崎の菩提寺に納骨に行くというのが大筋で、駐在のある淡路島から神戸を経由して、海路別府へと向かう。
 主人公(笠原秀幸)は三男で、母(岩下志麻)・次兄(鳥羽潤)・妹(河内沙友里)の5人連れ。エピソードの中心は次兄で、神戸の旅館で孤児となった少女(吉川ひなの)と仲良くなる。少女は大分の親戚の家に身を寄せる予定だが、不安から二人は駆け落ちを考えたりする。
 船には闇屋(高田純次)、教え子を戦死させた校長(河原崎長一郎)、自暴自棄な女(羽田美智子)、復員兵(永澤俊矢)、大道芸人(麿赤児)など様々な人がいて、旅は道連れの交流の中から立場を超えて新たな絆を見出していく。
 少女も親戚を信頼し、次兄も父との信頼を取り戻すというハッピーエンドで、信頼と絆が大切という優等生の結論が映画としては物足りない。 (評価:2.5)

マルタイの女

製作:伊丹プロダクション
公開:1997年9月27日
監督:伊丹十三 製作:玉置泰 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造、藤沢順一、高瀬比呂志、猪本雅三、田中潤、上野彰吾 美術:川口直次 音楽:本多俊之

あらゆる点で伊丹十三の限界を示した遺作
 伊丹十三の遺作となった作品。
 マルタイは護衛の対象となる人間を指す警察用語で、『ミンボーの女』でヤクザに襲撃されマルタイの男となった伊丹の経験を基に企画されたフィクション。
 オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件をベースに、カルト宗教団体による弁護士の殺害現場を目撃した女優がマルタイの証人となり、女優の証言封殺を図る宗教団体に脅迫される経過を描きながら、女優が勇気を振り絞って証言台に立つまでをコメディタッチに描く。
 マルタイの女優に宮本信子、愛人のテレビ局員に津川雅彦とテッパンの二人に、警護の刑事の西村雅彦と村田雄浩が加わる。とりわけ堅物刑事の西村のキャラが立っていて楽しませる。
 企画協力の三谷幸喜の元の脚本の笑わせどころが壺を得ていて、ストーリー的には面白く、エンタテイメントとして見る分には退屈しないが、リアリティには欠けるところが大きく、後半、女優の証言を防ぐために教団側が女優抹殺を企てて警護の刑事に発砲、出廷する証人を乗せた警察車両を白昼堂々と襲撃するなど、それ自体が凶悪犯罪で、宗教団体の犯罪を隠蔽するどころではないのがシナリオ・演出的には痛い。
 ラストに至っては、実は劇中劇という形をとっているが、全く意味も効果もなく、何のためにそうしたのか理解に苦しむ。
 あらゆる点で伊丹の限界を示した作品。 (評価:2.5)

失楽園

製作:角川書店、東映、日本出版販売、三井物産、エースピクチャーズ
公開:1997年5月10日
監督:森田芳光 脚本:筒井ともみ 撮影:高瀬比呂志 美術:小澤秀高 音楽:大島ミチル

セックスシーンの強烈な第一印象は黒木瞳の貧乳
 有島武郎の心中事件をモチーフとする渡辺淳一の同名小説が原作。
 中年男女の不倫を題材とするアメリカのベストセラー小説『マディソン郡の橋』の映画(1995)のヒットの後を受けて制作された。二番煎じ感は否めなかったが、黒木瞳のセックスシーンが話題となり、失楽園がこの年の流行語ともなった。
 窓際族となった敏腕編集者・久木(役所広司)が、新たな生き甲斐を人妻・凛子(黒木瞳)との不倫に見出すという物語で、凛子もまた夫・松原(柴俊夫)との愛情を失っていてセックスレスの日々を送っていたが、久木との出会いがオスとメスの愛欲を呼び覚ます。
 二人は出会ってすぐに愛欲に塗れるが、その間の説明がなく、二人がどのようにして惹かれ合ったかは、まるで問題にされない。後にセックスの相性が良かったからというセリフがあるが、年甲斐もなく若返った、精力絶倫のアダムとイブになる。
 セックスシーンの強烈な第一印象は黒木瞳の貧乳で、野獣のように燃える役所広司とは反対に、見ている方は萎える。
 前半に時折挿入されるモノクロ映像が意味不明で、第三者の視点なのかよくわからない。
 会社人間が目標を失った時に、自らの人間性を取り戻す展開かと思いきや、単に女に溺れるだけで妻(星野知子)に捨てられてしまう。女の方も夫を捨てて二人で再出発を果たすかと思いきや、心中という安易な道を選ぶという大人気ないラスト。
 失楽園というよりは、堕天使でもアダムとイブの楽園追放でもない、地獄に落ちる堕落を描く。 (評価:2.5)

製作:徳間書店、日本テレビ放送網、電通、スタジオジブリ
公開:1997年7月12日
監督:宮崎駿 製作:氏家斎一朗、成田豊 脚本:宮崎駿 作画監督:安藤雅司、高坂希太郎、近藤喜文 美術:山本二三 音楽:久石譲
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞

教科書的テーマを2時間かけて描く徒労
 古代から中世の日本をごっちゃにしたような舞台設定のファンタジー。
 主人公のアシタカは古墳時代の蝦夷で、タタラ場の村は平安時代、武士集団は鎌倉以降、鉄砲は室町時代で、室町以降の明の名も登場する。
 おおよその世界観であるアニミズムは神話時代で、蝦夷と同時代とすると、本作のテーマである自然と文明の対立を古代対中世という時間軸に置き換えることもできる。
 ただ、そこに深いテーマがあるかといえば単なる道具立てにすぎず、最後は自然と文明の共生という言われるまでもない結論になるが、ではその共生をどのように成し遂げるのかという方法論は提示されないままに、それぞれの立場で頑張ろう的な微温的連帯感で逃げる。
 物語は蝦夷の主人公がタタリ神を退治したために腕に呪いを受け、その呪いを解くために西に旅する。タタラ場を訪れると山を守ろうとする狼少女サン(もののけ姫)の襲来を受けていて、山はシシ神を頂点とする神話の世界だった。タタラ場の鉄を手に入れようとする武士集団、自然のサイクル=生と死を統べるシシ神の首の不老長寿を狙う朝廷の使者たちの欲望が絡み、最後はシシ神が死ぬが、再生して自然が蘇り、アシタカとサンが共生を誓うという大団円。
 蛆虫の如きタタリ神やシシ神亡き後のドロドロを除けば映像的にはよくできているが、作品的には優等生的なテーマと教科書的な結論で、言わずもがなのことを言うために、わざわざ2時間かけた労作も単なる徒労にすぎず、凡庸なテーマなど入れずにエンタテイメントに徹した方がよかった。 (評価:2.5)

北陸代理戦争

製作:東映京都
公開:1977年2月26日
監督:深作欣二 脚本:高田宏治 撮影:中島徹 美術:井川徳道 音楽:津島利章

狂犬を描くだけのヤクザ映画になったことが惜しまれる
 モデルとなった川内組組長が公開直後に射殺されたことから、深作欣二の実録ヤクザ映画の最終作となった。
 仁義も顧みない福井市のヤクザ・川田(松方弘樹)を描いたもので、約束を破った親分の富安組組長・安浦(西村晃)を首だけ残して砂浜に埋め、自動車で走り回る凄惨なリンチ場面から始まる。
 安浦は恐れをなして引退。跡を継ぐのが万谷(ハナ肇)で、内紛を嗅ぎつけた大阪・金井組組長(千葉真一)が富安組を配下に収めようと乗り出してくる。
 これに反発した川田を万谷が襲うが一命を取り留め、情婦・きく(野川由美子)が実家に匿う。以下、川田と万谷、金井の抗争が描かれるが、助力のために盃を交わした大阪・浅田組幹部・岡野(遠藤太津朗)に反抗。北陸から関西勢力を追い出し、北陸ヤクザの意地を見せるという内容。
 松方弘樹演じる川田は狂犬に近く、葛藤も何もなしに北陸を関西から守るというだけでは、観客にすればだからどうなのよという感想しか残らない。
 川田が目的のためには手段を択ばない人間だということはよくわかるが、その人物像に共鳴するものがあるわけでもなく、むしろ情婦のきくの家族関係に、厳しい自然の中で生きる北陸気質を見ることができるが、こちらの方はあまり深堀りされていない。
 きくは川田を守るために万谷、岡野をパトロンにしていくが、それを裏切りと感じた川田は、きくの妹・信子(高橋洋子)を妻にする。当初は川田に味方したきくの弟・隆士(地井武男)は、出世のために金井組に入り、川田を殺すために信子を囮にする。
 母親代わりに弟妹を育てたきくの悲哀、兄弟を裏切る信子と隆士の心情に焦点を当てれば、ドラマとして面白くなったが、結局は単に狂犬を描くだけのヤクザ映画になってしまったことが惜しまれる。 (評価:2.5)

製作:バンダイビジュアル、テレビ東京、TOKYO FM、オフィス北野
公開:1998年01月24日
監督:北野武 脚本:北野武 撮影:山本英夫 美術:磯田典宏 音楽:久石譲
キネマ旬報:1位
ブルーリボン作品賞 ヴェネツィア映画祭金獅子賞

最大の見どころはビートたけしが描いたメルヘンな絵
 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。
 癌で余命のない妻を持った刑事が主人公の物語。道行きの物語、心の拠り所を求める男たちのメルヘンと解釈することも可能だが、それも含めてカッコつけた男の通俗的でセンチメントなドラマで、作品的には見るべきものはない。
 フライデー事件やバイク事故を起こした北野には、彼なりの暴力観・死生観・美意識があるのかもしれないが、個人的には共感できるものはない。本作でも徒にエキセントリックな暴力シーンがあるが、人間が抱える暴力衝動を単に描いただけでそれ以上のものにはなっていない。フライデー事件の暴力衝動そのものをなぞっているようにしか見えない。
 本作を見ていて気づいたが、北野の映画作りの原点はツービートにあって、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」に代表される反倫理・反社会・自虐的なコントを繋いで1本の映画に仕上げた感がある。そのため各シーンは独立していてバラバラ、従来ある映画の体をなしていない。もっともそれが北野映画の個性であり、各シーンはコマーシャルフィルムのように独立した作品として完成されている。
 北野映画にはどこかプライベートフィルム、自主製作映画のようなアマチュアリズムがあって、観客に媚びない、逆にいえば商業映画ではない、プロフェッショナルではないものがあって、そこが好みの分かれるところ。
 基本的にはシュールリアリズムなので、設定や物語のリアリティを云々できない。その点では芸術映画であり、本作ではとりわけ北野自身が描いた絵がメンヘラのようで興味深い。各シーンのレイアウトやクレーンカメラを使ったシーンも映像的に凝っている。
 個人的には北野ギャグが好きではなく、映画でそれを見せられるたびに鼻白む。鬱憤を晴らしているだけにしか見えない暴力シーンや台詞もあざとく感じる。それでも北野作品にはよくわからない闇のようなものがあって、それがバイク事故によるものなのか、北野自身のメンタリティに由来するのか、理解を拒まれている。 (評価:2)

製作:フジテレビジョン、バーニングプロダクション
公開:1997年10月18日
監督:竹中直人 脚本:岩松了 撮影:佐々木原保志 美術:中澤克巳 音楽:大貫妙子
キネマ旬報:9位

竹中直人が中山美穂への愛を写した映像写真集
 荒木経惟・荒木陽子の随筆・日記・写真から構成される同名書籍が原作。
 『東京日和』と題した写真集が出版されることになり、写真家の島津巳喜男(竹中直人)が死んだ愛妻ヨーコ(中山美穂)を回想するという形式を採っている。
 回想の冒頭は広告代理店の連中を呼んだホームパーティから始まるが、ヨーコの情緒不安定な面が強調されるため、イレギュラーな死を予想してしまう。
 実際、物語は極度にセンチメンタルで、巳喜男の異常なほどのヨーコに対する偏愛、精神疾患を思わせるヨーコの言動、それを心配する巳喜男というループが繰り返され、家出、旅先での失踪、交通事故のたびにヨーコが死んだと思わせる演出法を採る。
 結果は、荒木陽子と同じ子宮肉腫で死んでしまうのがズッコケるが、竹中直人の過剰な演技による巳喜男のヨーコへの愛、あるいは荒木経惟の陽子への愛の物語というよりは、監督・竹中直人の女優・中山美穂への愛を映像表現する映画になっていて、その意味ではまさしく荒木経惟のスチールによる陽子への愛情表現と、竹中直人の映画による中山美穂への愛情表現は相似形を成す。
 柳川への旅以降は、中山美穂のグラビア映像ないしはプロモーション・フィルムといっていい。換言すれば、本作は中山美穂のアイドル映画で、ヨーコではなく中山美穂の魅力を楽しむ作品になっていて、実際、『Love Letter』(1995)で全開させた彼女の魅力をフィルムに定着させている。
 そうした竹中直人の邪心によりドラマなのか写真集なのかどっちつかずで、柳川以前を退屈なものにしている。前半部分では、世田谷線、御茶ノ水、常盤橋、東京駅とグラビア的撮影スポットが脈絡なく続いて、シーンが繋がっていない。 (評価:2)

製作:東映ビデオ、東北新社
公開:1997年10月18日
監督:荒井晴彦 脚色:荒井晴彦 撮影:川上皓市 音楽:伊藤ヨタロウ
キネマ旬報:7位

誰にも愛はなく、身も心も空虚という寂しい作品
 鈴木貞美の同名小説が原作。二組の男女の人間模様を描く文芸作品で、アメリカに滞在する大学教授とその妻、留守を任されたシナリオライターと妻の親友が登場人物。
 大学教授とシナリオライターは学生運動の同志で、シナリオライターが入獄時にその恋人を奪って結婚。妻の親友は大学教授の元恋人という、ぐちゃぐちゃな設定。基本は妻の親友の復讐劇で、妻の元恋人のシナリオライターと寝てしまう。気が気でない妻は夫をアメリカに残したまま帰国、シナリオライターとよりを戻そうとするが、このシナリオライターが柄本明で、二人の美女・永島暎子とかたせ梨乃が奪い合うという話がビジュアル的に無理筋。
 おまけに奥田瑛二演じる大学教授が『ずっとあなたが好きだった』の冬彦さん並みのマザコンで、文芸作品の割には通俗的。
 東映ビデオが製作に入っているために、ビデオ売り上げを狙ってセックスシーンも必要以上に長いが、永島もかたせも40代で、熟女ブームに乗って企画された感がある。ちなみに貧乳と巨乳という組み合わせも、ユーザーの嗜好への配慮か。
 いい歳をした4人の愛憎と愛欲はとても不惑とは思えず、どうでもいい物語が2時間余り延々と続く中、文芸作品と思わなければとても見ていられない。
 文芸作品らしく本作のテーマを語るとすれば、ぐちゃぐちゃの割には4人の誰にも愛はなく、身も心も空虚という寂しい作品。 (評価:2)

黒い下着の女 雷魚

製作:国映、新東宝映画
公開:1997年5月31日
監督:瀬々敬久 脚本:井土紀州、瀬々敬久 撮影:斉藤幸一 音楽:安川午朗

瀬々敬久のインナーワールドで自己完結している
 瀬々敬久監督のR15作品で、ピンク映画としては中途半端だし、かといって人間ドラマとしては誰に見せたいのかよくわからない。
 人生に挫折した男女、一人は椎間板ヘルニアと慢性膵炎で入院中の人妻で、もう一人はオッサンと呼ばれているガソリンスタンド店員。
 女が病院を抜け出し、浮気している愛人をナイフで刺すために会おうとするが拒まれ、代わりにテレクラで出会った男をモーテルで刺殺する。きっかけはセックスの後に金を渡されたことで、人の繋がりを否定されたことが理由であることが示唆される。
 警察で事情聴取されるも、殺した男とガソリンスタンドに立ち寄った際の目撃証人の店員が嘘をついたために釈放され、今度は店員とモーテルへ。互いの不遇を語り合い、人を殺すことがどんな気分か尋ねる男に自分を絞殺させる。
 男は女を川に運び、小舟に乗せて火葬。事情聴取の際に警察で出会った知的障害者の娘と上京して雑踏に消える。
 名もなき者、敗者であり弱者である者たちを描くが、作品そのものが瀬々敬久のインナーワールドで自己完結しているため、見る者には何も伝わらない。
 登場人物に相応しい場として千葉県香取周辺が舞台となるが、なぜ1983年3月なのかがわからない。
 女には二度の堕胎の過去があり、店員には子供を愛人に焼死させられた過去、殺された男の妻は妊娠中と子供がメタファーらしく、一方、寄生虫のために売れないと雷魚もたびたび登場するが、こちらはきっと雷魚のように歓迎されない人間なのだろうぐらいしか思いつかない。 (評価:1.5)

製作:東宝映画
公開:1997年06月7日
監督:大河原孝夫 製作:富山省吾 脚本:森下直 撮影:木村大作 音楽:服部隆之 美術:部谷京子
キネマ旬報:7位

アイディアだけでは映画にはならないという見本
 城戸賞受賞シナリオの映画化。
 会社常務が身代金誘拐され、金の受け渡しをTV中継させ、公衆電話で場所を次々移動させるという犯人の要求に警察が振り回されるのが前半。『ダイ・ハード3』(1995)が元ネタだが、都内をぐるぐる回るだけで単調。それでもまあまあ見られるのだが、公害問題が絡む段になるとそれまで隠れていたリアリティのなさと設定の粗雑さが表面に出てきて、時間が非常に長く感じられるようになる。ラストシーンで湖の前で渡哲也と永瀬正敏が延々とミステリーの種明かしをする場面は、相当冗長というか映画的にやってはいけない演出。
 ストーリーのアイディアは身代金の入った鞄を何時すり替えられたのかと、どんでん返しの犯人だが、後者は相当に無理があって100%説得力を欠く。
 俳優の演技も相当にひどく、酒井美紀はキャラクター的に見てられない。
 見どころは、新宿・銀座・日比谷と東京の大繁華街を走り回るロケシーンで、早朝ロケとしてもエキストラが半端でないこと。
 アイディアだけでは映画にはならないという見本。 (評価:1.5)

製作:衛星劇場
公開:1997年6月21日
監督:市川準 脚本:佐藤信介 撮影:小林達比古 美術:間野重雄 音楽:清水一登、れいち
キネマ旬報:4位

夢心地で見る中年男女のどうでもいい因縁話
 作家志望の青年(上川隆也)が、密かに思いを寄せる人妻(倍賞美津子)のかつての恋の秘密を辿って行くという物語。
 人妻の亭主(長塚京三)はかつて喫茶店の女主人(桃井かおり)と恋仲だったが、桃井は入院中の喫茶店主・大沢の看病をしているうちに情が移って結婚してしまう。その大沢が死んで元彼の長塚が失踪。ところが数年ぶりに帰ってきたことから、喫茶店女主人と人妻の間に波紋が起きて、自分の存在が影響を及ぼすと考えた女主人が郷里に帰ってジ・エンド。
 どうでもいい物語の上に、そのつまらない過去の因縁を知りたがる作家志望の青年が芸能レポーター並みのアホにしか見えない。
 きっと市川準は文芸作のようなものを撮りたかったに違いないと得心しようとするものの、どうでもいい話に付き合わされる観客は堪らない。
 中盤からは睡魔との戦いになるが、長塚と桃井のベッドシーンのサービスさえも睡魔には勝てず、なんでこんな作品がキネ旬4位になったのだろうと夢心地で考えていたような気がするのは、本当に夢だったのかもしれない。 (評価:1.5)