海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1960年

ぼんち

製作:大映京都
公開:1960年4月13日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十、市川崑 撮影:宮川一夫 美術:西岡善信 音楽:芥川也寸志

だからどうしたという内容だが楽しめる船場物語
 山崎豊子の同名小説が原作。ぼんちは船場の跡取りに与えられる称号。
 船場の足袋問屋の一人息子が主人公で、祖母・母ともに養子を迎え入れたという女系家族。船場のしきたりにうるさく、商売に女は口を出さないというのもその一つ。
 その結論は、バカな二代目・三代目の跡取り息子よりは娘に優秀な婿を迎えた方が商売は繁昌するというもので、男の子が生まれた一人息子に嫁を離縁させ、妾腹に女の子を産ませようとする。
 ところが生まれるのは男の子ばかりで、一人息子が商売に精を出すものの、空襲で問屋は潰れてしまうという物語。
 この一人息子を演じるのが市川雷蔵、養子の父が船越英二と気弱な男を演じさせたらこの二人という布陣。
 一家を取り仕切る祖母に毛利菊枝、祖母の言いなりの頼りない母に山田五十鈴、最初の妻に中村玉緒、妾の芸者に若尾文子、妾のホステスに越路吹雪、妾の仲居に草笛光子、祖母お気に入りの妾腹(実は石女)に京マチ子と豪華な演技派の女優が揃い、船場の商家のドラマとして安定感のある作品になっている。
 宮川一夫のカメラの斬新な映像が冴えていて、だからどうしたという、しょうもない船場の商家の物語でありながらも楽しめる内容。
 戦後になって主人公の後妻がなくなり、弔問に訪れた落語家(中村鴈治郎)がその話を聞くという構成になっていて、内心主人公に惚れていて、一貫して仕える女中に倉田マユミと隙がない。 (評価:2.5) 

製作:近代映画協会
公開:1960年11月23日
監督:新藤兼人 製作:新藤兼人、松浦栄策 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 音楽:林光 美術:新藤兼人
キネマ旬報:6位

水桶を運ぶ乙羽信子の姿に新藤兼人への愛を感じる
 新藤兼人の独立プロ・近代映画協会解散の危機を救った記念碑的作品。この映画がなければ、後の新藤作品の多くは生まれなかった。モスクワ国際映画祭グランプリほかを受賞。
 公開時ではないが40年くらい前にこの映画を見た。乙羽信子と殿山泰司が黙々と桶で水を運び畑を耕すサイレント映画という印象が強かったが、改めて観ると意外とストーリーらしきものがある。
 男の子2人を抱えた夫婦が、水もない不毛な島を耕し生活する。舟で畑と生活の水を運び、長男を学校に送り届ける。四季が巡り、子供が釣り上げた鯛を売って服を買い、ロープウェーに乗ってひと時の行楽を楽しむ。しかし長男は病死し、悲しみに打ちひしがれながらも夫婦は畑を耕す。
 社会派というよりはプロレタリア文学に近く、貧しい庶民を描けばそれで良い映画、と評価された時代を映す作品。現在の視点からはそれ以上のものではないが、台詞なしという試みによって、トーキー以降台詞での説明が当たり前になった映画において、映像の力を再認識させた。その後も実験的なサイレント映画が作られているが、どこかに無理があってあまり成功していない。
 本作には、瀬戸際に追い詰められた新藤への乙羽信子の愛が感じられる。水桶を担ぐ過酷なシーンの連続で、演技と呼んでいいのかどうかわからないが、新藤の注文に応えようとする乙羽に愛を感じる。乙羽はこの時、新藤の愛人で、新藤の映画を支え続けた。
 瀬戸内の島のシーンはどれも美しいが、葬儀を終えて帰る級友たちの乗る船を弟が見送るシーンが情感に溢れる。音楽は短調の同じメロディが飽きる上に、暗転場面の変調が大袈裟。 (評価:2.5) 

製作:大映東京
公開:1960年11月01日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:水木洋子 撮影:宮川一夫 音楽:芥川也寸志 美術:下河原友雄
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

個人的には看護婦の江波杏子がいい
 幸田文の私小説が原作。半世紀後に見直すと、感傷的でやや類型的なドラマの感が否めない。探検隊長・川口浩の棒の演技が足を引っ張るが、岸恵子と田中絹代がいい。とりわけ田中絹代の義母役の演技は、熊井啓『サンダカン八番娼館 望郷』の娼婦の老婆役に通じる名演。お宝的にいえば、看護婦役のお銀・江波杏子が地味に光る。
 カラーフィルムに現像処理を施した、撮影・宮川一夫のくすんだ陰影のある映像美が、大正時代の空気を上手く表現。『東京オリンピック』へと続く、映像派・市川昆を感じさせてくれる作品。
(評価:2.5) 

製作:松竹大船
公開:1960年11月13日
監督:小津安二郎 製作:山内静夫 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順
キネマ旬報:5位

予定調和な破綻のなさに若干の退屈さと凡庸さ
 小津安二郎晩年の作品のひとつ。里見弴の同名小説が原作。
 原節子が母親を演じている珍しい作品で、父と娘から母と娘へと立場が入れ替わっている。娘役は司葉子で、未亡人の母を案じて結婚しようとしない従来の原節子の役を演じている。
 亡き夫の大学時代の友人たちを佐分利信、中村伸郎、北竜二が円熟の演技で支え、洋間でもローアングルという徹底した小津スタイルで完成度は高い。
 物語は亡父の7回忌に友人たちが集まり、18歳になった娘の結婚相手を世話することになる。しかし、娘は応ぜず、母を再婚させるのが先決という話になり、事情を知った原が再婚する振りをして娘を結婚させるものの、最後は夫への追慕のために再婚しないという、これまた徹底した原の永遠の処女ぶりでラストを迎える。
 そうした点で徹頭徹尾、原の純潔は保たれるという安心感のある小津ならではの作品だが、逆にその予定調和な破綻のなさに若干の退屈さと凡庸さが感じられる。
 他での小津作品の原は、父や夫に殉じながらも女はかくあるべしという社会通念と対峙する女の芯の強さを演じてきた。それが母娘という女と女の関係になると女はかくあるべしという社会通念に取り込まれてしまい、母は一人で生きていくとはいうものの、司も原も封建的な女性像に堕してしまった感がある。
 司の結婚相手に佐田啓二。佐分利信の妻に沢村貞子、娘に桑野みゆき。中村伸郎の妻に三宅邦子。笠智衆は原の義兄役で、変わらず原の将来を案じる役。
(評価:2.5) 

製作:大東映画
公開:1960年11月8日
監督:山本薩夫 製作:角正太郎、伊藤武郎 脚本:山形雄策、依田義賢 撮影:前田実 美術:久保一雄 音楽:林光
キネマ旬報:8位

山本薩夫入魂の共産党偉人伝だが意外と面白い
 西口克己の小説『山宣』が原作。
 治安維持法改正に反対して刺殺された労働農民党の代議士・山本宣治の半生を描く伝記映画。
 同志社大学予科の生物学講師として性教育、産児制限運動、日本農民組合に関わり、第1回普通選挙に当選、昭和4年、右翼の凶刃に倒れるまで。
 死後、共産党員に列せられた山本宣治の伝記を共産党員だった山本薩夫が描くだけに、共産党の偉人伝、教宣映画といってもいい内容だが、とりわけ山本宣治の産児制限運動、そこから始まる小作農への共感、国会での拷問の追及、治安維持法への反対など、大正から昭和初期の社会主義者に対する弾圧の様子が興味深い。
 中国の抗日ゲリラを「偉大なる」と形容したり、ソ連共産党に対する信奉、戦後初の命日が共産党の赤旗に囲まれているなど、制作当時の共産党の立場を反映し、山本薩夫作品の中でもとりわけ党派色、イデオロギー色の強いものとなっているが、それを承知で見れば意外と面白い。
 山本宣治を下元勉、妻を渡辺美佐子、両親を東野英治郎、細川ちか子が演じるほか、宇野重吉、田中邦衛、小沢昭一らのキャストもバラエティに富んでいる。 (評価:2.5) 

製作:日活
公開:1961年1月21日
監督:今村昌平 脚本:山内久 撮影:姫田真佐久 音楽:黛敏郎 美術:中村公彦
キネマ旬報:7位

どぶ板通りを豚が埋め尽くすシーンは今村的予定調和
 米軍基地の街・横須賀を舞台にした、チンピラ(長門裕之)と恋人(吉村実子)の青春物語だが、今村昌平らしく泥臭い。
 チンピラはやくざが経営する水兵相手のポン引きをしているが、売春ハウスが警察とアメリカ海軍憲兵隊の摘発を受け壊滅。代わりに始めた米軍残飯目当ての養豚場の飼育係となる。恋人は堅気になって叔父のいる川崎に逃げようと提案するが、遊び人から抜けられないチンピラは、ずるずるとやくざの下っ端を続ける。詐欺や持ち逃げに引っかかり、落ち目の一家はついに分裂。川崎に行くことを恋人に約束した夜に、チンピラは豚の取り合いを巡る抗争の中で死んでしまう。一人残された恋人は母の米兵のオンリーになれというのを断って家を出る。
 よく使われる『ロミオとジュリエット』的悲恋の定型パターンだが、舞台を横須賀に設定することで今村は現代性を持たせた。
 チンピラと恋人は、米軍に依存することで生活が成り立っている基地の街・横須賀の磁場に囚われている。恋人はそこから抜け出そうとし、チンピラを説得した矢先に、男は死んでしまう。
 当時の横須賀の様子や人々の暮らしが描かれて興味深いが、今村が持たせた現代性は半世紀経って過去のものとなり、戦後の日本の姿を切り取ったモザイクの断片でしかない。それに現代史的意義を引き出すことも可能だが、『ロミオとジュリエット』的悲恋物語以上の普遍性はない。
 もっとも、さすが今村演出という本格作品になっているが、当時の横須賀事情を知らないと話はチンプンカンプンかもしれない。
 今村らしい斜め視線の人間の悲喜劇をコミカルに描き、どぶ板通りを豚が埋め尽くすシーンは待ってましたとばかりだが、予期できるだけにそれを延々と描かれると若干退屈。
 そんな時代もあったね映画で、底辺に生きる庶民の悲しさは満喫できる。長門裕之が軽薄なチンピラをよく演じていて、やくざの親分に三島雅夫、幹部連に丹波哲郎、大坂志郎、加藤武、小沢昭一ほか、西村晃、東野英治郎、殿山泰司、菅井きんと、今見ると豪華。
 吉村実子が美人だといわれると、え? という感じだが、17歳のデビュー作。美人ではないが、その後存在感のある女優になった。 (評価:2.5) 

秋立ちぬ

製作:東宝
公開:1960年10月1日
監督:成瀬巳喜男 製作:成瀬巳喜男 脚本:笠原良三 撮影:安本淳 美術:北辰雄 音楽:斎藤一郎

子供時代の不条理な別れに甘酸っぱいノスタルジーを誘う
 父親を亡くし、長野から母親に連れられて上京した少年のひと夏のエピソードで、銀座が舞台。
 プロローグの4丁目交差点から始まり、昭和通りを渡り、旧京橋小学校の前を通り、新富橋を渡り、新富町あたりの伯父が営む八百常へと行くが、女の子と松坂屋に行く途中を含め、車の激しく行き交う昭和通りを渡る際に信号がないのが見どころか。
 築地川堤の柳や銀座松坂屋、晴海埠頭、埋立地の豊洲、多摩川河川敷など映像的な見どころが多い。
 主人公の小6・秀男(大沢健三郎)が、母・茂子(乙羽信子)が住み込み女中となる旅館の小4の娘・順子(一木双葉)と仲良くなり、『小さな恋のメロディ』(1971)のような可愛いデートを重ねるが、母は客の宝石商(加東大介)と駆け落ち。順子もまた妾(藤間紫)の子で、父や義兄姉から疎外感を感じている。
 似たような境遇から二人は兄妹のように寄り添い、順子の夏休みの宿題に秀男は長野から連れてきたカブトムシを上げる約束をする。秀男は一時逃亡したカブトムシを夏休みに最後に発見し、約束を果たすために旅館に向かうが、順子は父の都合で旅館を手放した母と郊外に引っ越した後。
 子供の別れは不条理であるが故に永遠に忘れられない心の欠落となり、子供同士の心の触れ合いと哀愁を通して、甘酸っぱいノスタルジーを誘う。
 大人の事情がわからず、秀男を兄のように慕う無垢でおませな順子を演じる一木双葉が可愛い。八百常の伯父・伯母に藤原釜足、賀原夏子。従兄姉に夏木陽介、原知佐子。 (評価:2.5) 

女が階段を上る時

製作:東宝
公開:1960年1月15日
監督:成瀬巳喜男 製作:菊島隆三 脚本:菊島隆三 撮影:玉井正夫 美術:中古智 音楽:黛敏郎

女の自立とも精神の堕落ともいえる銀座ママの物語
 タイトルは主人公の銀座のバーの雇われママ・圭子(高峰秀子)の店が2階にあり、その出勤を指す。圭子はいつも重い気分で階段を上がることから水商売には不向きの女性として描かれるが、ラストでは明るい気分で階段を上がる立派なママに成長する。
 ママ仲間や店の客との遍歴を経ての成長で、銀座のママになり切れなかった圭子が体を張って生きるようになるという、女の自立とも精神の堕落ともいえる物語。
 この圭子を冷静な目で見つめるのが、喫茶店のレジ係からスカウトして雇われママに育て上げたマネージャーの小松(仲代達矢)で、死んだ夫に操を立てて客と寝ない圭子を愛しながらも手を出さない。
 圭子は兄の苦境を助けるために、町工場を経営しているという誠実そうな関根(加東大介)と婚約するが、これが全くの食わせ者で、悔恨から前から好きだった妻子持ちの藤崎(森雅之)に体を許してしまう。
 これを知った小松が一緒に店を持とうと求婚するが断られ、店を辞めてしまう。圭子は思いを断ち切るために藤崎が転勤のために妻子と乗る汽車に見送りに行き、一夜の思い出を胸に銀座のママとして生きる決意をする。
 ハッピーエンドには終わらない現実の中に生きる女を描く成瀬らしい作品で、誠実そうで詐欺師という加東大介の演技も見どころ。 (評価:2.5) 

製作:東宝、黒澤プロダクション
公開:1960年9月15日
監督:黒澤明 製作:黒澤明、田中友幸 脚本:小国英雄、久板栄二郎、黒澤明、菊島隆三、橋本忍 撮影:逢沢譲 美術:村木与四郎 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:3位

公団汚職を題材にしたステレオタイプな社会派ドラマ
 黒澤プロの初作品で、黒澤の社会派代表作品でもある。
 題材はゼネコンと公団の贈収賄汚職で、工事価格に30億円を上乗せした入札価格を漏えいして賄賂を受け取るというもの。疑惑が持ち上がるたびに課長補佐が自殺するという、当時から繰り返されてきた蜥蜴の尻尾切りを取り入れ、課長補佐の隠し子が総裁、部長、課長に復讐する物語。
 復讐の鬼と化すのが三船敏郎で、過去を偽って総裁(森雅之)の秘書となり、娘(香川京子)と結婚。偽装自殺、監禁、脅迫と追い詰めるものの、最後に総裁にうっちゃりを喰らい、失敗する。選挙への出馬を狙う総裁の陰にはさらに悪い奴がいて、映画には顔を出さずにタイトルの「よく眠る」奴ということになる。
 黒澤らしく、公団の汚職トリオは絶対悪で、人間らしさや迷いは微塵もなく、勧善懲悪のエンタテイメントの公式は崩さない。そういった点ではテレビドラマで爆発的な人気を得た『半沢直樹』そのもので、観客のカタルシスを狙ったポピュリズムの社会派ドラマ。
 ゼネコン社長が公団総裁よりも偉そうにしているというあり得ないシーンもあったり、披露宴を新聞記者たちがソファーで見ているという大向こうを狙ったご都合主義のシーンや定型的な演技も多く、シナリオや演出的には芝居がかりすぎた粗も多い。
 とりわけ、総裁の娘が足が悪いという同情を買うための差別的な設定まで入れ込んでいて、今見ると決して褒められた映画ではない。
 諾々と従う役人、その裏にいる黒幕といった社会派とはいってもステレオタイプな設定で、「悪い奴ほどよく眠る」という糾弾以外の何かがあるかというと、何もない。
 志村喬が公団の汚職部長と珍しく悪役。汚職課長に西村晃、主人公の親友に加藤武、娘の兄に三橋達也、検事に笠智衆、殺し屋に田中邦衛と配役は楽しめる。 (評価:2.5) 

大いなる旅路

製作:東映東京
公開:1960年3月8日
監督:関川秀雄 製作:大川博 脚本:新藤兼人 撮影:仲沢半次郎 美術:森幹男 音楽:斎藤一郎

実物を使った貨物列車転覆シーンが半端なくリアル
 鉄道の仕事に一生を捧げる国鉄マン(三國連太郎)の理想像を描くある種の宣伝映画で、国鉄が全面協力。
 順風満帆な人生ではなく、長男(南廣)は徴兵で戦死し、長女(小宮光江)は男に騙されて勘当、三男(中村嘉葎雄)は敗戦により新しい生き方を求めるが病に斃れ、次男(高倉健)だけが父親の跡を継いで立派な運転士になるという、戦前戦後を通した山あり谷ありの人生の中で、一途に鉄道に生きた男を新藤兼人の脚本が単なるスポンサー映画ではない感動的なストーリーに仕上げている。
 戦後の労働運動などのシーンもあるが、政治には深入りせずに労使協調を貫く。
 同僚(加藤嘉)が昇進試験に合格して最後は新橋駅長にまで上り詰めるが、主人公は盛岡機関区の罐焚きから機関士と現場一筋。互いに功績を讃えあい、次男は駅長の娘と結婚。特急こだまの運転士となった息子の列車で名古屋で再起を果たした娘に会いに行くという、いささか偽善的だがハートウォーミングな物語。
 国鉄全面協力により、鉄道映画としては出色の出来となっていて、盛岡-宮古間の山田線で雪の中を走る蒸気機関車を機関車・貨車・沿線の様々なカメラ位置で撮る映像が素晴らしい。
 中でもド迫力なのが、1944年の貨物列車転覆事故をモチーフに、山田線で実際の蒸気機関車18633と貨車を使って脱線転覆させる撮影シーンで、空中に浮いたレールや転覆した列車と台車、燃え続ける罐など、実物ならではの半端なくリアルなシーンとなっていて必見。
 東海道本線を走る特急こだまを運転席・車窓・沿線から写した映像も、懐かしの貴重なアーカイブとなっている。 (評価:2.5) 

娘・妻・母

製作:東宝
公開:1960年5月21日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄 脚本:井手俊郎、松山善三 撮影:安本淳 美術:中古智 音楽:斎藤一郎

寄生するしか生きていけない女たちの袋小路を描く
 一言でいえば「女はつらいよ」という作品で、時代に取り残された娘=原節子、妻=高峰秀子、母=三益愛子の三人の女が、希望のない袋小路の閉塞した状況でラストを迎え、救いのない、1ミリも楽しくないままに終わる。
 東京・世田谷に住む坂西家が舞台。未亡人の母(三益愛子)は長男夫婦(森雅之、高峰秀子)、未婚の三女(団令子)と暮らしている。次男夫婦(宝田明、淡路恵子)はアパート暮らし、次女夫婦(草笛光子、小泉博)は姑(杉村春子)の家に同居。そこに夫が事故死した長女(原節子)が帰ってくる。
 長女は友達に再婚相手(上原謙)を紹介されたり、三女の仕事関係者(仲代達矢)とイイ関係になったりするが、再婚する気はない。
 ところが長男が妻の叔父(加東大介)の事業に投資していた資金が焦げついて、家を抵当に借りていた借金が返せなくなり、家を手放すことに。誰が母の面倒を見るかで家族会議となる。
 兄妹が打算的なことを言い合う中で、長女は母を引き取ることを条件に再婚を承諾。長男の妻も母を引き取る気になるが、母は老人ホームへの入居を考えるというラストで、結末は描かれない。
 長女の「お嫁に行くしか能がない」の言葉通り、母、長女、兄嫁は寄生するしか生きていけない女たちで、古い女の象徴でもある。
 一方、次女と三女はキャリアウーマンを目指す戦後世代の女で、この対比が面白いのだが、成瀬巳喜男は現代的な女を否定的に描き、自立できない古風な女に共感するという、これまた古いタイプの作品となっている。
 殺伐として物質的な戦後の家族関係を批判的に描いているのだが、懐古趣味的なところがあって、かといって母の老人ホームへの入居資金はどうするのか? とか、自立できない女はどう生きるべきなのか? といった未来への展望に欠けている。あるいは戦前派にとっての希望のない戦後が、作品テーマだったのか? (評価:2.5) 

サラリーマン忠臣蔵

製作:東宝
公開:1960年12月25日
監督:杉江敏男 製作:藤本真澄 脚本:笠原良三 撮影:完倉泰一 美術:村木与四郎 音楽:神津善行

大物俳優が目立ちすぎて、森繁の影が薄い
 財閥グループ企業を幕府に見立て、銀行頭取を吉良上野介、赤穂産業社長を浅野内匠頭、専務を大石内蔵助に見立てたパロディ。
 社長シリーズ第7作だが、東宝サラリーマン映画100本記念作品として制作されたため、「社長シリーズ」レギュラー以外に三船敏郎、志村喬、有島一郎、宝田明、三橋達也が出演する東宝オールキャストの豪華版。
 もっとも、忠臣蔵が題材だけにいつもの軽妙さがなく、シナリオはいささか重い。
 東京會舘に松の廊下を作り、この前で吉良の暴言に怒った浅野が殴り掛かり、アメリカ経済使節団の接待委員を解任され、自殺とも事故とも取れぬ死を遂げる。赤穂産業社長の後釜に吉良が座り、専務派を左遷。大石を筆頭に辞表を提出して新会社を興す、というところまでの話で、仇討ちは『続サラリーマン忠臣蔵』に引き継がれる。
 吉良と浅野の因縁は芸者の取り合いだが、吉良を演じる東野英治郎の憎々しさは絶妙。浅野に池部良、芸者に新珠三千代、大石を森繁久彌が演じる。
 忠臣蔵のパロディだけに、仮名手本の桃井若狭之助が登場し、これを三船敏郎が演じる。
 忠臣蔵の設定をいかにサラリーマン社会に置き換えるかが最大の見どころで、シナリオはそこそこ成功しているが、重要な役どころの大物俳優が目立ちすぎて、森繁の影が薄くなりがちなのが残念。 (評価:2.5) 

青春残酷物語

製作:松竹大船
公開:1960年06月03日
監督:大島渚 製作:池田富雄 脚本:大島渚 撮影:川又昂 音楽:真鍋理一郎 美術:宇野耕司

まんまのタイトルにちょっと照れてしまう
 大島渚の初期作品。大人社会に反抗する若者と、それを抑圧する狡い大人たちというステレオタイプの対立構図。その反抗手段が酒と暴力とセックスという通俗さ。しかも体制である大人たちが乗る車が総て左ハンドルの外車ばかりとなると少々鼻白むが、当時としては日本の健康的な青春映画にはない、ヨーロッパのヌーベルバーグの影響を受けた斬新な作品だった。そういう視点から見ないと、単なる古い風俗映画に見えてしまうかもしれない。ある意味、日本の映画史的な作品。
 不良女子高生役の桑野みゆきは当時18歳だったが、とてもその歳にはみえない。『三匹の侍』にも出ている。タイトルとリンクするラストシーンも、ちょっと気恥ずかしい。若い佐藤慶、浜村純、渡辺文雄も見られる。 (評価:2.5) 

大菩薩峠

製作:大映京都
公開:1960年10月18日
監督:三隅研次 製作:永田雅一 脚本:衣笠貞之助 撮影:今井ひろし 音楽:鈴木静一 美術:内藤昭

眠狂四郎の原型を見る市川雷蔵の机竜之助
 中里介山の同名小説が原作。3部作の一。稲垣浩監督・大河内傳次郎、渡辺邦男監督・片岡千恵蔵、内田吐夢監督・片岡千恵蔵、三隅研次(森一生)監督・市川雷蔵、岡本喜八監督・仲代達矢で5回映画化されているが、これは三隅研次版。
 大菩薩峠で机竜之助(市川雷蔵)がお松(山本富士子)の祖父を殺害するシーンから始まり、宇津木文之丞との手合い、お浜(中村玉緒)との逃亡、上洛、宇津木兵馬(本郷功次郎)との決闘まで。
 ニヒルな剣豪で市川雷蔵とくれば、どうしても眠狂四郎と役柄がダブるが、原作も映画も本作が先。剣法も円月殺法に対し、音無しの構えで雷蔵のポーズも決まり、雷蔵・狂四郎の原型を見ることができる。
 原作が長いせいか端折ったダイジェスト的ストーリー展開で、わかりにくい上にディテールなしの不十分な人物描写で、作品的には凡作。三隅の演出は教科書的なオーソドックスさで制作当時の時代劇演出が楽しめる。特筆するものはないが、水車小屋で竜之助がお浜を犯すシーンは水車に帯が絡まる絵でちょっと余韻がある。
 見所は市川雷蔵と中村玉緒の演技で、玉緒がうまい。山本富士子は能面的美人なだけに、かどわかされてばかりいるお松が阿呆にしか見えないのが難。
 竜之助の父に笠智衆。 (評価:2.5) 

大いなる驀進

製作:東映東京
公開:1960年11月8日
監督:関川秀雄 製作:大川博 脚本:新藤兼人 撮影:仲沢半次郎 美術:森幹男 音楽:斎藤一郎
食堂車、駅弁売り、寝台車の古き良き時代に思いを馳せる
 国鉄の列車給仕・矢島(中村賀津雄)を主人公に、鉄道マンの責任ある仕事と使命感を描くというもので、国鉄の全面協力の基に撮影されているため、国鉄車両を使った各シーンのリアリティが最大の見どころとなっている。
 もっとも新藤兼人の脚本の割にはストーリー設定に?となる部分も多いが、鉄道ファンだけでなく、往時を知る者には懐かしい鉄道映画となっている。
 舞台となるのは東京発長崎行の寝台特急さくらで、もちろん本物の車両が使われている。
 結婚のために給料の安い国鉄を辞めたいと思って最後の乗車に就く矢島を翻意させるため、婚約者の君枝(佐久間良子)が乗り込む。
 ところが列車には選挙演説に向かう代議士(上田吉二郎)、殺人犯、スリ(花澤徳衛)、殺し屋、血清を緊急輸送する看護師(久保菜穂子)、自殺を図る炭鉱主、駆け落ちの男女、母の危篤に帰省する娘とさまざまな人が乗っていて、グランドホテル形式に列車内で起きる様々なトラブルが描かれていく。
 最大のトラブルは台風による暴風雨と土砂崩れで、それでも列車は運行し、国鉄マンの努力の甲斐あって、30分遅れで長崎に到着する!
 矢島の上司の専務車掌に三国連太郎、途中で乗り込む医者に小沢栄太郎、矢島に片思いする食堂車のウェイトレスに中原ひとみと俳優陣も豪華、美人。
 今はなき食堂車やホームの駅弁売り、寝台車、蒸気機関車等々、懐かしい風景が甦り、古き良き時代に思いを馳せることができる。 (評価:2.5) 

製作:東宝
公開:1960年3月13日
監督:堀川弘通 製作:三輪礼二 脚本:橋本忍 撮影:中井朝一 美術:村木忍 音楽:池野成
キネマ旬報:2位

部下と浮気なんかしちゃだめよというアナクロな教訓説話
 松本清張の短編小説『証言』が原作。
 大手繊維会社の課長(小林桂樹)が大久保に住む部下(原知佐子)を愛人にしていて、道端で隣家の保険外交員(織田政雄)と出会ってしまったことから騒動に巻き込まれるという物語。
 外交員は向島の殺人容疑で逮捕され、同時刻に課長と出会ったことがアリバイになるが、浮気の発覚を恐れた課長が否定。バレれば自分も部下も会社をクビになって路頭に迷うというのが今からすると相当に時代錯誤だが、当時これが解雇理由になるかは不明。
 物語はこの一点にすべてが掛かっているので、これを否定すると成り立たないが、現代感覚からはこの設定が最大の弱点。
 課長は裁判でも偽証して外交員は哀れ死刑判決。
 ところが悪事はわが身に返るというのが清張節で、部下の住むアパートの大学生が浮気をネタに恐喝し、借金取り(小池朝雄)と揉めて殺されたところに課長がやってきて犯人にされてしまう。偽証を含めて真相を話して釈放となるが、新聞ネタになって今度は本当に解雇。
 因果応報、部下と浮気なんかしちゃだめよという教訓説話は、現代では面白味が見いだせない。
 課長の妻に中北千枝子、外交員の妻に菅井きん、刑事に西村晃。
 大手繊維会社は新丸ビルにあって、東京駅周辺の映像が見どころ。遊び人の大学生や海辺での夜遊びなど風俗シーンも盛り込まれているのが堀川弘通らしい。 (評価:2)

製作:松竹大船
公開:1960年10月09日
監督:大島渚 製作:池田富雄 脚本:大島渚、石堂淑朗 撮影:川又昂 音楽:真鍋理一郎 美術:宇野耕司
キネマ旬報:10位

時代を知らないとチンプンカンプン。でも・・・
 60年安保を背景にした作品で、武装闘争を転換した共産党、分裂した全学連という当時の状況を知らないと、チンプンカンプンの作品。コメディにすら見えてしまうところが、この作品の時代性を感じさせる。台詞のほとんどは空虚で、今の世代には意味不明に思えるだろう。
 かつてそういう時代があって、それが映画にまでなってしまうような時代だったということを知る意味では価値があるのかもしれない。また、どのような状況下でも不変な人間の真理を描こうとする、『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などの大島渚のその後の映画に繋がる原点を見ることができる。
 佐藤慶、小山明子、桑野みゆき、戸浦六宏、芥川比呂志、津川雅彦といった出演者も見どころ。スポットライトを使った演出も、舞台劇を見るようで効果的。 (評価:2)

ガス人間第1号

製作:東宝
公開:1960年12月11日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:木村武 撮影:小泉一 音楽:宮内国郎 美術:清水喜代志

29歳の八千草薫の美貌にクラクラするのはガス中毒のせい?
 東宝の変身人間シリーズで、監督に本多猪四郎、特技監督は円谷英二。
 人体実験の結果、ガスに変身できる人間ができてしまったという話で、荒唐無稽なバカ話に興味のない人には縁のない作品。
 ガス人間になれたら何をするかというと銀行強盗で、金庫に入って金を盗む。銃で撃たれても死なないし、ガスで窒息させることもできる。ガス人間の設定の前にはシナリオ満載の突っ込みどころも些細なことに思えてしまう。主役は刑事役の三橋達也だが、やはりガス人間の前では霞んで見える。
 見どころはガス人間の変身シーンの特撮で、今ならCGで簡単だが、当時の苦労が偲ばれる。
 もう一つの見どころは、ガス人間が恋する踊りの師匠で、29歳の八千草薫が超絶美しい。日舞も披露してくれ、タカラジェンヌ娘役スターの魅力を如何なく発揮。
 作品的には八千草が主役で、没落したお姫様が最後の仇花を咲かせたいと思い、その思いを叶えるためにガス人間が犯罪を犯し、それを知りながらお姫様はガス人間を受け入れ、二人の道ならぬ恋は破滅へと突き進む・・・という本格的な道行きの物語となっていて、B級作品ながらラストは意外とドラマチック。
 八千草の爺や役の左卜全も不思議な味を出している。
 吉祥寺あたりの五日市街道を車が走るシーンがあるが、田舎道なのも見逃せない。 (評価:2) 

製作:松竹大船
公開:1960年10月19日
監督:木下恵介 製作:細谷辰雄 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 美術:伊藤憙朔、江崎孝坪 音楽:木下忠司
キネマ旬報:4位

前衛的な映像が面白いが成功とも言い難い
 深沢七郎の同名小説が原作。笛吹川は甲府盆地を流れる川で、笛吹橋の袂にある農家が舞台。
 時は戦国。信虎・信玄・勝頼と3代にわたる武田家の盛衰を甲斐の農民の立場から描いた作品で、城主の専横に苦しめられながらも戦で手柄を立てようと足軽に志願する農民の悲しい姿を描く。
 信虎の飯田河原の合戦から始まり、川中島、長篠、天目山の戦いを経て勝頼が自害するまで。武田が3代にわたるように農家の3代にわたる叙事詩になっている。
 合戦の模様は歴史絵巻風に描かれるが、それ以外で武田が登場することはなく、笛吹橋から舞台は動かない。
 農家の父(市川染五郎)は非戦主義者だが、息子が足軽となって戦死。弟(田村高廣)は嫁おけい(高峰秀子)をもらって農民となるが、息子たちはやがて足軽となり天目山の戦いで戦死してしまう。
 前半は父と息子たちを中心に物語は進んでいくが、中盤から登場するおけいが次第に存在感を増し、ラストはおけいが笛吹川に流れる武田菱の旗を空しく手に取るシーンで終わる。
 反戦のテーマを描く群像劇といえるが、登場人物が多くて関係がわかりにくい上にテーマ優先でドラマ性が皆無なので、甲斐国の歴史年表だけをダイジェストで見せられている気がしてしまう。
 歴史絵巻らしく、モノクロフィルムにパートカラーで着色、一部は静止画で見せるなど、実験的というか前衛的な映像が面白いが、成功しているとも言い難い。
 武田信玄を17代目・中村勘三郎、上杉謙信を初代・松本幸四郎が演じるが、ほとんど出番はない。 (評価:2)

大菩薩峠 竜神の巻

製作:大映京都
公開:1960年12月27日
監督:三隅研次 製作:永田雅一 脚本:衣笠貞之助 撮影:今井ひろし 音楽:斎藤一郎 美術:内藤昭

コメディか?「おまえにも立派な父親がいるのに」
 中里介山の同名小説が原作。3部作の二。5回映画化されている中の三隅研次版。
 前作ラストは、机竜之助(市川雷蔵)と宇津木兵馬(本郷功次郎)が対峙する場面で終わるが、引きも何のそので決闘は描かれずに、直後から始まるという拍子抜け。傷を負った兵馬は腕を磨きながら竜之介との再戦に挑む。京を逃れた竜之助は酒井新兵衛と出会い、天誅組参加を経て盲目に。お浜に瓜二つのお豊(中村玉緒・二役)に助けられ、追いついた兵馬と再び対決。竜之介が崖から足を滑らせたところでTo be continued。
 説明不足なストーリーは相変わらずで、あらすじだけを追う感じ。個々のエピソードも唐突で都合よく繋ぎ合わされているので、物語のための物語、段取りのための段取りを見させられている感は拭えない。
 おまけに、竜之介が妻を殺し子を捨てたにもかかわらず、養育している男が子に「おまえにも立派な父親がいるのに」と思わず失笑して吹き出すセリフも多く、コメディかと勘違いする。
 見所は前作に続き、市川雷蔵と中村玉緒で、玉緒が相変わらずうまい。失明した竜之介は、眠狂四郎から丹下左膳に変身。
 お松(山本富士子)は相変わらずかどわかされるばかりの阿呆な美人。 (評価:2) 

独立愚連隊西へ

製作:東宝
公開:1960年10月30日
監督:岡本喜八 製作:田中友幸 脚本:関沢新一、岡本喜八 撮影:逢沢譲 音楽:佐藤勝 美術:阿久根巖

終戦後の日本人の戦争意識がわかる映画
 中国北部戦線で玉砕した部隊の軍旗を遊撃隊が八路軍と取り合うというコメディタッチの戦争映画。反戦映画を多く手掛けている岡本喜八は1924年生まれで予備士官学校で終戦を迎えているが、出征の経験はない。
 戦争娯楽作として制作されながらも、軍旗のために命を懸ける愚かさ、生きて虜囚の辱めを受けずといった戦陣訓を批判的に描いているが、戦争ヒーローと反戦は両立しない。戦争批判も娯楽作を作る言い訳のようにしか見えない。またヒューマニズムが日本人視点でしか語られていないところに、制作当時の知識層の限界があり、戦争犯罪や慰安所が娯楽作として当たり前のように無批判に描かれる。
 俳優を含め映画として見るべきところはないが、終戦後の日本人の戦争意識を知ることができる。 (評価:2) 

製作:新東宝
公開:1960年08月05日
監督:中川信夫 製作:大蔵貢 脚本:中川信夫、宮川一郎 撮影:森田守 音楽:渡辺宙明 美術:黒沢治安

カラーとSFXで描く、地獄は遠くなりにけり
 監督は怪談ものを多く手掛けた中川信夫だが、この映画は怪談ではない。ホラーでもなく、犯罪映画でもなく、敢えて分類すれば文芸ドラマ。
 モチーフはダンテの『神曲』で、本作は仏教版地獄めぐりだが、物語の冒頭で主人公(天地茂)の長々とした回想となる。交通事故死をきっかけに恋人・ヤクザの情婦・友人等々、直接間接に人を死なせてしまうが、ヤクザの母親の毒殺、恋人の両親の自殺と周囲の人間が全員死んでしまい、続いて地獄めぐりとなる。
 演出は舞台演劇調で当時としては斬新だったろうが、今見ると観念的で退屈でしかない。当時はまだ少なかったカラー作品ということもあって、総天然色の地獄の描写にSFXや合成を駆使した意欲作。地獄をカラーで見せれば当時としてはそれだけで迫力十分だったのだろうが、半世紀経つと陳腐さは否めない。八大地獄とはいっても、そのイメージだけが延々と続くと眠気を催す。
 結局のところ、どんなに斬新な意欲作であっても、脚本・演出といった骨格ができていないと、やがて化粧は剥げて皺だらけとなり、朽ちてしまう。
 地獄の恐ろしさを説いた『往生要集』が信じられていた時代ならともかく、地獄が絵空事である現代ではどんな映像もリアリティを持ちえず、どんな物語も精神的に恐怖を実感できない。
 いっそ『往生要集』の地獄を詳細に描けば、それなりに価値はあったかもしれないが、カラーとSFXに頼りすぎた恨みが残る。
 主人公の恋人と妹の二役に三ツ矢歌子、閻魔大王に嵐寛寿郎が出演している。 (評価:1.5) 

製作:新東宝
公開:1960年07月08日
監督:加戸野五郎 製作:大蔵貢 脚本:松木功 撮影:岡田公直 音楽:長瀬貞夫 美術:宮沢計次

キワモノのジャパニーズホラー
 加戸野五郎監督、明智十三郎主演。
 漁師町で3人の男が死ぬという事件が起こる。3人は今は網元のもう1人の男とともに、死んだ素封家で働いていたという過去を持つ。素封家の妻子は自殺、養子も戦死で一家は断絶していたが……というところで、過去の因縁話となるが、物語はシナリオと呼べるほどのものではない。
 いかにもキワモノのタイトルはB級だが、内容は期待する海女の幽霊も出てこないほどのC級ホラー。ネタばれになるので書かないが、ホラーですらない。本作の狙いは水中を海女風ビキニ姿で乱舞する若い娘たちの胸・尻・太股・股間を大写しすることで、怪談も幽霊も付け足し。レイプシーンも2回あって、ホラーを舐めきっているところが見どころか。 (評価:1.5)