海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1959年

製作:大東映画
公開:1959年3月29日
監督:今井正 製作:角正太郎、伊藤武郎 脚本:水木洋子 撮影:中尾駿一郎 美術:江口準次 音楽:大木正夫
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

日本人とは何か? を今も問いかけている
 戦後の混血児をテーマにした、名匠・今井正のヒューマンドラマ。
 キネ旬1位、毎日映画コンクール大賞、ブルーリボン作品賞と3冠に輝いたにも拘らず、現在見向きされないのが残念な作品。混血児、黒人差別という日本社会の汚点について、忌避したいということからなのか。
 混血児への差別、とりわけ黒人との混血児差別は歴然としてあった。それが良くないということから混血児が差別表現となり、ハーフという和製英語に置き換えられ、白人との混血児が歌手やテレビタレントとなってもてはやされる時代が来て、今では終戦後の米兵との混血児に代わり、国際結婚による混血児のいる姿が日常となった。
 それでも純潔思想は根強く、混血児、とりわけ肌の色や人種、あるいは社会的地位によるクラス分けは無意識に行われている。
 日本社会には混血児差別などないように見えるが、それはそうしたふりをしているだけで、現在も残る日本社会の排他性を本作は今も痛烈に抉っている。
 キク(高橋恵美子)とイサム(奥の山ジョージ)は、日本人の母を亡くし磐梯山の麓の祖母(北林谷栄)の家で育てられた黒人との混血児の姉弟。貧しく無学な祖母は将来を心配して養子斡旋団体から勧められ、二人をアメリカ家庭に養子に出そうとする。弟が養子に出されるが、姉は日本に残ることを望み、最後に祖母の畑仕事を引き継ぐことになる。
 この間、混血児に対する人々の差別が描かれ、祖母はそうした差別を受けないアメリカ行きが孫の幸せと考えるが、隣家の若い夫(清村耕次)はアメリカ社会の黒人差別を語り、二人の血縁は祖母しかなく、日本で生まれたのだから日本人として社会が受け入れるべきだと主張する。
 この議論の根底にあるのは、肌の色が国籍を決めるのか、日本人であるかどうかは肌の色が決めるのかという点で、事実、姉妹を幼い時から見てきた周囲の人々は、肌の色に関係なく二人を祖母の孫として受け入れている。
 対照的に肌の色の黒い姉妹を異物と見做すのは、二人との関係性の薄い人々で、外見だけに囚われている。一方、町の露天商(三井弘次)や旅芸人たちは、そうした外見に囚われない人と人との関係性の中にいて、混血児への差別が無理解の中から生れることを描いている。
 混血児だけでなく外国からの移住者が増えている中で、日本人とは何か? ということを本作は今も問いかけている。 (評価:4)

製作:大映
公開:1959年11月17日
監督:小津安二郎 製作:永田雅一 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:宮川一夫 音楽:斎藤高順 美術:下河原友雄

国定忠治の京マチ子、日舞の若尾文子は必見
『浮草物語』(1934)の小津安二郎自身によるリメイク作品。『浮草物語』は音楽付サイレント映画だったが、本作はカラー。
 港のある小さな町に旅芸人一座が12年ぶりにやってくる。町には座長(中村鴈治郎)が女(杉村春子)との間に作った息子(川口浩)がいるが、子供には伯父と偽っている。『浮草物語』の説明では、河原乞食の子という素性を隠すためとされる。
 一座の看板となっている座長の女(京マチ子)がそれを知って嫉妬し、若い女役者(若尾文子)に息子を誘惑させる。ところが二人は恋仲となってしまい、旅芸人は下賤とする座長はその仲を裂こうとする。
 結局一座は崩壊し、解散して一人となった座長は二人の仲を許して、再起を誓いながら浮草として町を離れるが、駅で新宮行の汽車を待つ京マチ子と出合い、和解して二人旅立つ。
 小津作品としては若干異質な物語だが、親子の愛情、男の孤高、男女の愛憎を情感あふれる人生、人間の悲しみとともに描き出している好編。
 大映で撮影した後期作品の一つで、1枚1枚が完成された芸術写真のような短いカットで繋ぐシーンの構成は、円熟した小津の演出に惚れ惚れさせられる。
 映像的には、小さな古い港町の風景をどれだけ演出できるかで、木造家屋が並ぶ路地や、質素な室内の様子、部屋の奥の窓から覗く隣の生活の断片など、心憎いまでに構図が計算されていて、写真展を見るかのよう。スクリーンの隅々にまで気が行き届く完璧性は、現在の隙間だらけの映像からは温故知新の斬新ささえ感じる。撮影は宮川一夫。
 冒頭のシーンから強調される灯台の映像は、浮草である主人公の唯一の道しるべ、拠り所としての家族を象徴している。
 浮草の鴈治郎、それに寄り添う京マチ子、可愛い色気の若尾文子、好青年の川口浩、日陰の女の杉村春子とキャスティングもよく、芝居小屋で国定忠治を演じる京マチ子、日舞を披露する若尾文子のシーンは必見。 (評価:3.5)

製作:東映京都
公開:1959年9月13日
監督:内田吐夢 製作:大川博 脚本:成沢昌茂 撮影:坪井誠 音楽:富永三郎 美術:鈴木孝俊
キネマ旬報:7位

有馬稲子が遊女役で抜群の演技を見せる近松物
 近松門左衛門の人形浄瑠璃『冥途の飛脚』とこれを改作した歌舞伎『恋飛脚大和往来』が原作。
 飛脚問屋の養子・忠兵衛(中村錦之介)が同業の八右衛門(千秋実)に無理やり誘われた新町の廓で、遊女の梅川(有馬稲子)に惚れる。廓通いを改心した忠兵衛は江戸出張の折に仲見世の櫛を縁切りの符牒として梅川に送るが、小豆島の大尽(東野英治郎)が身請けすることを知り、店の金50両を身請けの手付金として廓に渡してしまう。さらに大尽が250両を持って廓に現れると、武家の送金300両で梅川を身請けし、故郷の大和国新口村へと逃れる。
 初心な忠兵衛と心やさしい梅川が恋に落ちるという純愛ものだが、実際にあった事件が基になっていて、本作は竹本座座付作者の近松がこの二人を見守りながら戯曲を書いたという構成になっている。
 廓の女とその純情に恋する男女の心の機微を描き、多くは死によって終焉を迎えることの多い近松物にあって、本作は最期は心中ではなく、それぞれが捕縛され忠兵衛は獄門、梅川は廓戻りという形で終わる。
 同じ不幸な結末でも、死によって結ばれず昇華することのできない無残な愛で、その無残な愛を少しでも救いのある形にするために、近松が浄瑠璃の最終場面を父と再会する忠兵衛と梅川の感動的シーンに書き上げたという編成になっている。そのラストを人形浄瑠璃のシーンで終わらせる内田吐夢の演出が心憎い。
 後に萬屋と改名した中村錦之介の純情ぶりもいいが、本作は遊女・梅川に尽きると言っていいほど有馬稲子が上手い。初心な忠兵衛を迎え、別れ際に思いを伝える場面などで細やかな女の情を演じ、一方で送られてきた縁切りの櫛を恨み、廓に戻されて井戸に身を投げようとする女の情念を演じ切る。
 千秋実、東野英治郎のほか、養母に田中絹代、廓の主人に進藤英太郎、女中に浪花千栄子、小僧に白木みのると俳優陣も実力派。飛脚問屋、竹本座、廓のセットとそれを使った坪井誠のカメラワークも見どころ。
 近松役の片岡千恵蔵がややどんくさくてミスキャストか。 (評価:3)

製作:にんじんくらぶ
公開:1959年1月15日
監督:小林正樹 製作:若槻繁 脚本:松山善三、小林正樹 撮影:宮島義勇 美術:平高主計 音楽:木下忠司
キネマ旬報:5位

信念を貫くには獄中で果てるしかない通奏低音
 五味川純平の同名小説が原作。
 1943年、南満州の鉱山会社に務める青年・梶(仲代達矢)が、徴兵逃れと恋人(新珠三千代)との結婚のために老虎嶺鉱山へ転勤。満人工夫たちの過酷な労働を改善しようとするものの、現場監督・岡崎(小沢栄太郎)らの抵抗に遇い、関東軍から工夫として送り込まれた捕虜、満人の慰安婦の労務管理まで任され、信念と現実との板挟みになる姿を描く。
 部下の満人・陳(石浜朗)の手引きによる特殊工人(捕虜)の二度目の脱走事件までが第1部、三度目の脱走の罠に嵌り陳が自殺、さらに無実の脱走で捕虜が処刑され、反抗した梶が留置・拷問され、釈放と同時に召集令状が届くまでが第2部となる。
 誠実な青年が戦争という現実に妥協して信念に反した行動をとり、人間性を失っていく物語で、国家と個人の相克を描く。
 冒頭、召集される親友(佐田啓二)が自らの徴兵逃れを呵責する梶に、それが生き残るための現実で、信念を貫こうとすれば獄中で果てるしかないという言葉が、重苦しい物語全体の通奏低音となる。
 戦争の時代から1世紀近く経ち、戦争が教科書の中の記述や机上の議論、単純な正義感や感情論で語られる中、実際に戦争を体験した世代によって制作された本作は、満州支配の様子や市井の人々、良識人が、全体主義に押し流されていく姿をリアルに描いた作品となっている。
 満州進出と満人慰安婦たちの実際、憲兵による捕虜の試し切り、関東軍による民間支配の様子など、小林正樹以下のスタッフは歴史に風化しない映像を残した。
 慰安婦頭に淡島千景、捕虜の若い組長・高(南原伸二)の恋人になる慰安婦に有馬稲子。年長の組長に宮口精二、鉱山所長に三島雅夫、梶の同僚に山村聡、関東軍軍曹に安部徹。
 制作当時としては仕方がないが、ロケを北海道で行い、満人を日本人俳優が演じているのがやや残念なところか。 (評価:3)

製作:日活
公開:1959年10月28日
監督:今村昌平 脚本:池田一朗、今村昌平 撮影:姫田真佐久 美術:中村公彦 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:3位

朝鮮人の抜け目のない女を演じる北林谷栄が抜群
 在日朝鮮人の10歳の少女・安本末子の日記が原作。
 佐賀県の炭鉱町に住む、両親を亡くした4人兄弟が極貧の中で懸命に生きる姿を描く良心作。安本末子はその名の通りの末っ子で、二人の兄と姉を持つ。
 朝鮮人は炭鉱会社の正規採用とはならず、一家を支える立場の長男(長門裕之)は炭鉱不況の中で真っ先に首を切られる。親切な炭鉱夫(殿山泰司)の世話で、再就職先を見つけるも、下の弟妹は殿山の家で養ってもらい、年長の妹(松尾嘉代)は町の焼肉屋に住み込んで働く。
 そうした中で兄弟は一緒に住みたいと願うが現実は厳しく、殿山が怪我をして失業したのをきっかけに、中学生の次男は同じ貧乏なら東京の方がましだと嘯いて上京。保護されて町に帰るも、大きくなったら東京に行こうと決意するところで終わる。
 子役二人の演技も自然で、在日朝鮮人の境遇、炭鉱労働者の悲哀を描いて過度に教条的にならない今村の演出はさすがだが、それでも説教臭さは残ってしまう。
 都会派の進歩的な保健婦を吉行和子、炭鉱の労務課長を芦田伸介、朝鮮人炭鉱夫を小沢昭一、隣人の夫婦を浜村純と山岡久乃が演じて上手いが、朝鮮人の抜け目のない女を演じる北林谷栄が抜群。
 ほかに二谷英明、西村晃、穂積隆信ら、役者は揃っている。
 にあんちゃんは次男のことで、二番目の兄の意。 (評価:2.5)

お早よう

製作:松竹大船
公開:1959年5月12日
監督:小津安二郎 製作:山内静夫 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:黛敏郎

庶民生活をスケッチ風に切り取ったホーム・コメディ
 小津が後年に制作したホーム・コメディで、子供を中心とした大人たちのほのぼのとした下町情緒の溢れる作品。
 戦後10数年を経て、復興した日本に電化製品が入り込んできた、貧困は脱したがまだ豊かではない時代が背景になっている。
 舞台は多摩川際の下丸子付近で、土手際の高圧線が通る新興住宅地ということからも、平均的な生活レベルの庶民だということが分かる。そうした生活臭を描く小津の映像と演出は隅々まで行き届いていて、家の隙間から捉える近接する高い土手などのカメラワーク、隣近所との貸し借りや噂話、生活の違いなどの機微が描かれる。
 とりわけ子供たちの描写が秀逸で、忘れていた時代を思い出させる。
 町会の組長を務める家が電気洗濯機を買ったことから、町会費をネコババしたのではないかという噂を発端に物語は始まり、近隣の6つの家族が登場する。この中で、唯一テレビを持っているのが大泉滉の若夫婦で、相撲観戦の子供たちの溜まり場となっている。
_  比較的余裕がありそうに見える笠智衆・三宅邦子夫婦の兄弟が、テレビをねだって駄々をこねたことから口数が多いと叱られ、だんまりを決め込む。これが縦軸となって物語は進み、人生や人間関係には無駄が必要だというテーマに変わっていく。
 定年退職した東野英治郎が家電商品のセールスマンに再就職し、笠智衆が就職祝いにテレビを買ってやるというオチで万事丸く収まるという、よく計算されたシナリオ。
 杉村春子、沢村貞子、長岡輝子の芸達者が庶民のオバサンを演じ、殿山泰司の押し売り、佐田啓二と久我美子のラブロマンスを織り交ぜるが、主役の兄弟を演じる子役がいい。
 タイトルは、口数が多いと叱られた兄弟が、大人だって挨拶言葉などで口数が多いと言い返したことに由来し、無駄な言葉に見える「おはよう」も人間関係を豊かにする言葉で、人生には無駄も必要だということの象徴。
 小津の数少ない下町人情もので、庶民生活をスケッチ風に切り取った肩の凝らない良質なホームドラマ。 (評価:2.5)

製作:人間プロダクション
公開:1959年11月20日
監督:小林正樹 製作:細谷辰雄 脚本:松山善三、小林正樹 撮影:宮島義勇 美術:平高主計 音楽:木下忠司
キネマ旬報:10位

戦争の絶対悪を描くが定型的なのが物足りない
 五味川純平の同名小説が原作。
 前作で召集された梶(仲代達矢)が、新兵として北満の関東軍駐屯地に入隊するところから始まる。
 第3部は、上等兵・吉田(南道郎)に理不尽に苛められる初年兵たちの姿を中心に、落ち零れの小原(田中邦衛)の自殺、思想犯を兄に持つ新城一等兵(佐藤慶)の逃亡、吉田の死、梶の入院と看護婦(岩崎加根子)との淡い恋、部隊復帰まで。
 第4部は、ソ連国境の最前線部隊で少尉になっている親友の影山(佐田啓二)と再会、初年兵教育の助手を命じられ古年兵と対立。影山の配慮で初年兵を率いて後方の作業部隊に移動するがソ連軍が越境し、駐屯地は全滅、影山は戦死する。前線に戻った梶は塹壕を掘って戦車隊を迎え撃つが壊滅し、戦車の通り過ぎた荒地に梶だけが生き残る。
 3・4部は戦場篇で、軍隊の非人間性と戦争の悲惨が中心に描かれる。この中で梶が繰り返すのは、前作の徴兵逃れで魂を売った梶が人間ではなく鬼の道を選んだことで、戦争という修羅の世界でそれでも人間性を保とうとする姿が描かれる。
 軍隊・戦場に身を置いて人間性を保つことの矛盾と葛藤の中で、戦争の絶対悪を提示し、その実体をリアルに描くが、反面、梶の正義感と相まって描写が定型的になっているのが、作品的にはやや物足りない。
 北海道ロケによる戦闘場面は戦争映画としてのクライマックスで、多数の戦車や火力を用いた迫力あるシーンに仕上がっている。
 新兵に藤田進、桂小金治、川津祐介、古年兵に内田良平、千秋実、士官に多々良純。
 脱走兵となる新城一等兵が、ソ連を誰もが自由な約束の地と語るのも、当時の自由主義者たちの夢想を描いて興味深いが、梶はこれに懐疑的で、逃しはするが参加はしない。 (評価:2.5)

製作:全国農村映画協会
公開:1959年02月11日
監督:山本薩夫 製作:中山亘、立野三郎 脚本:依田義賢 撮影:前田実 音楽:林光 美術:久保一雄
キネマ旬報:4位

近代日本の農村の生活史、女性史の貴重な映画
 原作は山代巴の同名小説。山代巴の出身地、広島の農村が舞台で、望月優子演じる女の半生を描く。
 物語は望月が荷車引きの三國連太郎を見初め、親に勘当されて嫁ぐところから始まる。三國の家は母一人子一人の貧しい家。ただ食い扶ちが増えるだけと嫁いびりする姑に、望月は夫と二人、荷車を引く。荷車引きは今でいえば運送業。米や藁などの荷を運んで生計を立てる。娘が二人生まれるが、長女(左民子=左時枝)は祖母との仲が悪く、養女にもらわれていく。息子が二人生まれ、家業も荷車を数台持てる問屋となり、家を新築、小作も任されるようになる。一方、荷車引きは、馬車やトラックという時代の変化で傾く。
 長女が家に戻り、姑が死に、子供たちも巣立って幸福が訪れるが、夫に妾(浦辺粂子)ができて同居。戦争が始まり長男は戦死、次男は生死不明。終戦となって農地解放で小作地が手に入り、夫が死んで、というところで次男が復員してきて、望月は初めて辛抱に耐えた末の幸せを手に入れる。
 シノプシスを長々書いたが、本作は明治から昭和に生きた女の家族制度との戦いと精神の解放の物語。原作者は共産党員で戦前投獄されているが、この映画の主人公の戦いが獄中同様、身中の虫を抱えながらの静かな不屈の闘争であることが、観終わって清々しい。劇中、米騒動も描かれるがイデオロギーには踏み込んでいない。
 近代日本の農村の生活史、女性史としては貴重な映画で、特に若い人にはお薦め。この手の映画は、人によって好みが分かれがちで、山本薩夫も戦後共産党に入党した左翼系監督として知られるが、そのような偏見は捨ててこの映画を観た方が良い。
 望月、三國、浦辺のほか、西村晃ら演技派が出演。長女役の左幸子がいい。左時枝(左民子)が子供時代を演じている。 (評価:2.5)

製作:近代映画協会、新世紀映画
公開:1959年02月18日
監督:新藤兼人 製作:絲屋寿雄、若山一夫、山田典吾、能登節雄 脚本:八木保太郎、新藤兼人 撮影:植松永吉、武井大 音楽:林光 美術:丸茂孝
キネマ旬報:8位

ビキニ環礁被曝の顛末をドキュメンタリー風に描く
 1954年にビキニ環礁で被曝した第五福竜丸のドキュメンタリー・タッチの映画。この事件は、一方で怪獣映画『ゴジラ』を生んだ。
 この被曝で半年後に亡くなった久保山無線長(宇野重吉)を主人公に、焼津港を出港してから第一病院で死ぬまでを新藤兼人らしく真摯に描く。但し原爆症とされた死因は肝臓障害で、被曝が直接の原因かどうかははっきりしていない。
 第五福竜丸事件を知る上では、当時の風景・生活を映像で観ることができ、事件の概要がわかる。久保山が入院した国立第一病院は、戦前は陸軍病院。国立病院医療センターを経て、現在は国立国際医療研究センター。新宿にある。
 被曝したマグロは原爆マグロと呼ばれ、築地に運ばれたのち、廃棄された。原爆マグロ塚が建てられたが、現在は第五福竜丸とともに夢の島にある。
 映画は被曝した経緯、帰港後のアメリカの対応が描かれ興味深い内容になっている。この手の映画にありがちな劇映画的情緒や社会派的告発は弱いので、淡々としすぎて物足りなさは残るが、事実関係を知る上では客観主義が幸いしている。 (評価:2.5)

製作:大映東京
公開:1959年6月23日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:長谷部慶治、和田夏十、市川崑 撮影:宮川一夫 美術:下河原友雄 音楽:芥川也寸志
キネマ旬報:9位

変態ドラマにワサビの効いた北林谷栄の演技
 谷崎潤一郎の同名小説が原作。
 精力の衰えた資産家の男(中村鴈治郎)が医者(仲代達矢)と妻(京マチ子)を浮気させて、その嫉妬によって回春しようとする変態物語。しかも、その娘(叶順子)と医者は婚約していて、両親と医師との関係を知る。
 当時、内容から成人指定されたが、男が妻のヌード写真を撮るシーンがあるが今ならR12程度。  中村、仲代、京を軸に話は展開していくが、舞台劇に近いセリフ回しや演技、カメラワークの演出で、ストップモーションを使うなどやや前衛的な香りがする。
 3人とも能面のような顔をしているので、前衛劇にはぴったりなのだが、眉を剃って極度に吊り上がった京の顔が怖い。
 京の艶っぽいヌードシーンが多いので、当時としてはそれも見どころ。湯気で上気した裸体など、演出も谷崎文学に近づこうと頑張っている。
 高血圧の夫を興奮させて死なせ、医者を娘と結婚させて、3人で暮らそうと不埒なことを企むが、資産が残っていないことを知った医者が母娘から離れようと、これまた打算を思案しているときに、家政婦の老婆が不道徳な全員を粛清してしまう。
 警察は自白する老婆を戯言と信ぜず、後追い心中として処理する。この老婆を北林谷栄が演じていて、48歳にも拘らず70歳くらいに見えるのが凄い。完全な脇役だが、変態ドラマにワサビの効いた北林の名演が光る。 (評価:2.5)

風花

製作:松竹大船
公開:1959年01月03日
監督:木下恵介 製作:小梶正治 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 音楽:木下忠司 美術:梅田千代夫

木下惠介劇場─東山千栄子の嫌らしい女当主が上手い
 ​信​州​善​光​寺​平​が​舞​台​の​終​戦​を​挟​む​旧​家​の​物​語​。​木​下​惠​介​監​督​・​脚​本​、​主​演​は​岸​惠​子​。
​ ​春​子​(​岸​恵​子​)​は​地​主​の​小​作​人​の​娘​で​、​召​集​さ​れ​た​地​主​の​次​男​と​川​に​飛​び​込​ん​で​心​中​す​る​が​、​自​分​だ​け​助​か​る​。​や​が​て​子​供​が​生​ま​れ​、​世​間​体​を​気​に​し​た​地​主​(​永​田​靖​)​が​母​子​を​引​き​取​る​が​、​父​親​の​代​わ​り​に​国​の​た​め​に​命​を​捨​て​ろ​と​い​う​意​味​を​込​め​て​捨​夫​と​命​名​す​る​。​母​子​は​こ​の​家​で​屈​辱​の​毎​日​を​過​ご​す​が​、​兄​夫​婦​(​細​川​俊​夫​、​井​川​邦​子​)​の​一​人​娘​・​さ​く​ら​(​久​我​美​子​)​が​6​つ​年​下​の​従​弟​を​可​愛​が​る​が​、​捨​夫​(​川​津​祐​介​)​の​思​慕​と​自​分​の​思​い​に​は​気​づ​か​な​い​。
​ ​戦​後​の​農​地​解​放​で​田​畑​が​1​0​分​の​1​と​な​り​、​落​ち​ぶ​れ​た​旧​家​に​婿​養​子​の​来​手​も​な​い​。​祖​母​(​東​山​千​栄​子​)​は​養​子​を​と​れ​な​い​代​わ​り​に​資​産​家​と​の​縁​談​を​決​め​、​家​名​を​守​っ​た​こ​と​に​嬉​々​と​す​る​。​さ​く​ら​の​女​学​校​の​親​友​(​有​馬​稲​子​)​は​東​京​の​女​子​大​に​進​み​、​売​れ​な​い​画​家​と​結​婚​し​、​金​の​工​面​に​親​友​を​訪​れ​、​金​は​な​く​て​も​一​生​愛​せ​る​人​が​い​る​、​さ​く​ら​は​こ​の​ま​ま​誰​も​愛​す​る​こ​と​な​く​結​婚​す​る​の​だ​、​と​い​う​。​さ​く​ら​は​捨​夫​へ​の​思​い​に​気​づ​き​、​接​吻​し​て​思​い​を​告​げ​る​。
​ ​映​画​は​さ​く​ら​の​嫁​入​り​か​ら​始​ま​り​、​以​上​の​回​想​を​経​て​、​春​子​と​捨​夫​が​地​主​の​家​を​出​て​い​く​と​こ​ろ​で​終​わ​る​。
​ ​良​く​で​き​た​シ​ナ​リ​オ​で​、​家​に​縛​ら​れ​家​の​た​め​に​嫁​ぐ​娘​・​久​我​と​小​作​の​娘​で​あ​る​が​ゆ​え​に​正​統​な​嫁​の​待​遇​を​与​え​ら​れ​ず​、​家​の​恥​と​し​て​と​し​て​扱​わ​れ​る​親​子​(​岸​・​川​津​)​と​い​う​家​制​度​の​崩​壊​を​淡​々​と​描​く​。
​ ​当​時​は​共​感​を​呼​ん​だ​作​品​も​、​半​世​紀​経​つ​と​、​だ​か​ら​何​な​の​?​ ​と​い​う​感​想​し​か​残​ら​な​い​。​誰​も​家​や​社​会​と​戦​わ​ず​、​家​制​度​に​押​し​潰​さ​れ​た​人​間​の​悲​し​み​を​慰​撫​す​る​だ​け​に​終​わ​っ​て​い​る​。​木​下​の​抒​情​は​美​し​い​が​、​そ​れ​に​流​さ​れ​る​だ​け​で​は​、​感​傷​的​な​女​性​映​画​に​し​か​な​ら​な​い​。
​ ​人​の​好​い​老​婆​を​演​じ​る​こ​と​の​多​い​東​山​千​栄​子​が​、​旧​弊​に​縛​ら​れ​た​嫌​ら​し​い​女​当​主​を​演​じ​て​上​手​い​。​さ​く​ら​の​少​女​時​代​を​和​泉​雅​子​が​演​じ​て​い​る​。​他​に​笠​智​衆​が​ワ​ン​パ​タ​ー​ン​の​演​技​。 (評価:2.5)

製作:大映東京
公開:1959年11月03日
監督:市川崑 製作:永田雅一 脚本:和田夏十 撮影:小林節雄 音楽:芥川也寸志 美術:柴田篤二
キネマ旬報:2位

靴底が抜けた軍靴のシーンに市川崑のリアリズムが光る
 1951年の大岡昇平の同名小説が原作。
 この映画には二つの見方がある。一つは反戦映画としての見方で、これが一般的。もう一つはカニバリズム映画としての見方。
 フィリピン・ミンドロ島で敗走する日本兵の飢餓を描いた映画だが、戦争の悲惨さを兵士の視点から描く。ただ兵士であれ民間人であれ、この手の反戦映画の例にもれず、被害者意識の中から描かれ、感情に訴えるだけの反戦は、公開当時はそれで意味があっても、敗戦から数十年を経た客観の中ではただ陰鬱なだけ。戦争の悲惨さを訴えるという意味しか持たない。
 カニバリズムの視点からは、本来この映画はカニバリズムではない。習慣・嗜好としての食人を描くわけではなく、極限の飢えに置かれた人間が人肉を食うことをカニバリズムといえるのか。実際の事件としてはウルグアイでの航空機遭難事故があったが、宗教的・倫理的価値観をこのような状況で問うことに個人的には意味を感じない。
 そうして一歩引いて観ると、公開当時は高評価を得たこの作品も古びて、退屈でさえある。見どころを探すとすれば、自分のぼろけた軍靴を死んだ兵士の軍靴に履き替え、さらにそれを別の兵士が履き替えるという連続シーン。最後に拾った主人公が靴底が抜けているのを見て結局裸足になるが、市川崑らしいリアリズムを感じさせる。 (評価:2.5)

製作:山本プロダクション
公開:1959年10月18日
監督:山本薩夫 製作:伊藤武郎、宮古とく子 脚本:八木保太郎 撮影:前田実 美術:久保一雄 音楽:林光
キネマ旬報:6位

一見、日教組の教宣映画に見えてしまうのが残念
 石川達三の同名小説が原作。1957年の佐教組事件がモデル。
 財政破綻した佐賀県で退職勧奨された女教師(香川京子)が主人公。教え子のために教職員組合を頼って頑張るが、職場会の教職員は日和見ばかり。中には足を引っ張って末は校長を目指す者もいる始末で、やがて女教師は職場の婦人部長に推挙される。
 ところが教育熱心な先輩教員(宇野重吉)が障碍児を苛めた児童に思わず手を出したことから、組合潰しを図る市の有力者らの圧力で辞表を提出。女教師は一人は弱いと団結の必要性を婦人部会で説き、女教師たちと辞表撤回を求めて校長室に乗り込むところで終わりとなる。
 組合潰しを図る保守勢力vs民主教育を守る教職員という、一見、日教組の教宣映画だが、当時の背景はやや複雑。
 教員は聖職者か労働者という対立概念があって、戦前の価値観からの聖職者論が保守勢力や保護者には一般的だった。一方、戦後の民主主義に立つ教員は労働者としての権利を主張しつつも、聖職者としての民主主義教育を主張したために左翼的と見做され、間に立つ生徒を巻き込んだ不幸な論争を教育の場に生んだ。
 現代から見れば、教員の労働者としての権利が守られていないのは明白だが、公務員である教員には団体交渉権と争議権が認められてなく、このような横暴も罷り通っていた。
 本作はこれを組合潰しに利用する自民党を名指しで批判しているが、教職員だけを正当化することもせず、教員の内部対立やエゴイズム、無気力、組合の専従である女教師の夫を男尊女卑のエゴイストで出世しか考えていない似非労働運動家として描く。
 教育に情熱を傾ける女教師と先輩教師を通し、政治を排した教育の在り方が作品のテーマになっているが、教師の労働問題が絡むためにイデオロギー的な印象が強く、本来教育を守ろうとする教師の団結を描いて終わるラストシーンが、労働者の権利を守る団結に見えてしまうのが残念。 (評価:2.5)

私は貝になりたい

製作:東宝
公開:1959年4月12日
監督:橋本忍 製作:藤本真澄、三輪礼二 脚本:橋本忍 撮影:中井朝一 美術:村木与四郎 音楽:佐藤勝

ヒューマンドラマとして楽しむ分にはよくできたシナリオ
 1958年にラジオ東京テレビ(TBS)で放映されたTVドラマの映画化。BC級戦犯を主人公とした橋本忍の創作だが、タイトルと最後の遺書の内容は元陸軍中尉・加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」からの借用。
 物語自体はよくできたヒューマンドラマで、天皇の名の下に上官の命令に従って捕虜を殺した廉で東京裁判で絞首刑になった二等兵の理不尽な処遇を描く。
 もっとも、理不尽な審理と審判を含め、死刑になった二等兵はいないなど、テーマのためのいささかご都合主義な物語になっていて、講和条約締結直前の処刑など不自然な点が多い。巣鴨の処刑は1950年4月7日が最後。
 天皇制と軍国主義への批判、東京裁判への反発などが背景となっているが、ドラマ自体に恣意的な誘導があって、反戦映画として見た時にはあまり感心せず、悲劇による感傷主義に陥っていて感動も起きない。
 それでも本作を単なるヒューマンドラマとして楽しむ分にはよくできたシナリオで、主役を演じるフランキー堺が上手い。巣鴨プリズンに収監される司令官の藤田進、教誨師の笠智衆も味のある演技。
 収監された戦犯同士の会話の中に、警察予備隊からの再軍備の話も出てきて、1954年に発足した自衛隊への問題提起が本作制作の背景となっている。 (評価:2.5)

製作:新東宝
公開:1959年07月01日
監督:中川信夫 製作:大蔵貢 脚本:大貫正義、石川義寛 撮影:西本正 音楽:渡辺宙明 美術:黒沢治安

原作の見せ場以外に見せ場のない四谷怪談
 一時期は毎年のように四谷怪談の映画が作られたが、これは監督・中川信夫、伊右衛門・天知茂、お岩・若杉嘉津子バージョン。鶴屋南北の同名の歌舞伎狂言が原作。
 毒薬で顔の爛れたお岩も戸板返しもふんだんに出てきてそれなりに怖い。しかし今ひとつ映画に入りきれないのは、初めからストーリーがわかっているからではない。物語を丁寧に描いてはいるが、段取りを追っているだけで見せ場がない。
 一度見ただけで終わってしまう映画の多くは、見せ場がないためにもう一度見ようとは思わない。四谷怪談のように初めからストーリーも見せ場のシーンもわかっている作品はそれ以外の見せ場、役者の演技なり撮影なり演出なりで見せ場を作ってやらないと、観客はただ戸板返しを待つだけの映画になってしまう。この作品が歌舞伎の人気演目なのは、話も見せ場もわかっているけれども役者の演技を観たいから。
 残念ながら天地茂は二枚目だが下手糞で、お岩殺しを逡巡する場面でもお岩への思いが演技できていない。お岩の父親を殺してまで夫婦となろうとした思いなど微塵もない。結局のところ段取りに従っているだけで説得力のある演技ができないために、ラストでお岩に許しを請う場面も唐突。
 映画はシナリオ通りに撮って編集すれば良いというものでもない。 (評価:2)

ギターを持った渡り鳥

製作:日活
公開:1959年10月11日
監督:斎藤武市 脚本:山崎巌、原健三郎 撮影:高村倉太郎 美術:坂口武玄 音楽:小杉太一郎

小林旭版シェーン、金子信雄に髪の毛があることが見どころ
 小林旭主演の歌謡映画で、本作のヒットを受けて「渡り鳥シリーズ」が制作された。
 テイスト的には西部劇の邦画版で、『シェーン』のように流れ者のガンマンがやってきて、ひと悶着起こして去って行くという定型を踏んでいる。
 もっとも本作はスタイルを真似ただけで、喧嘩が強いという設定のええかっこしいのお兄ちゃん。それを小林旭が演じても、ちっとも喧嘩が強そうでなく、主役だからという強引な押し付けで、金子信雄がお前みたいな奴を探していたんだ、と言われても、どこが? と思わず突っ込みを入れたくなる。
 元神戸市警の刑事で、何かの陰謀があって退職を余儀なくされたらしいという雰囲気はあっても、それで暴力団の用心棒になるのか、あくどい取り立て役を引き受けるのか、と役柄がどうにもチンピラ臭くて、恋人が死んだという過去だけでは、とてもシェーンのような渋さは出てこない。
 シェーンに憧れるヤクザのハイソ娘も、スタイリッシュなら何でもいいのかという小型船舶免許とピアノ弾きのお嬢様で、父親の職業を知らないというヤクザの娘に非ざる箱入り娘。それを浅丘ルリ子が演じて、シェーンの宿敵に宍戸錠というサプライズもない配役で、男同士の友情も魅せながら、最後は金子信雄も参加して、派手な撃ち合いで一巻の終わりとなる。
 舞台の港町が神戸や横浜ではなく函館というのもよく分からないが、函館山や夜景、津軽海峡の観光ロケは美しい。
 映画としてはB級で、ヒットした要因は何だろうと考えても回答は見つけ出せず、きっと小林旭版シェーンがカッコ良かったんだろうと推測するしかない。
 せいぜいの見どころは、金子信雄に髪の毛があることか。 (評価:2)

製作:新東宝
公開:1959年7月17日
監督:曲谷守平 製作:大藏貢 脚本:杉本彰、赤司直 撮影:岡戸嘉外 美術:宇寿山武夫 音楽:長瀬貞夫

菅原文太に広能の哀愁の原点を見る
 ホラーと思いきやホラーもどきの、海女集落の旧家の遺産をめぐる幽霊騒動と陰謀という、よくあるパターンの物語。化け物は幽霊ではなく人間だった、という二重の意味が含まれているなどと深読みする必要もない。
 見どころは海女さんたちの水中シーンで、胸の谷間から股下アングルまで、当時としてはエロ本もどきのきわどさが売り物。薄物の下に乳首の形がわかるシーンもある。
 海女が出てくるホラー映画の駄作に『怪談海女幽霊』という同じ新東宝の作品があるが、本作がそこそこ受けての続編か?
 海女とホラーとどちらもキワモノだが、シナリオは安上がりで、井戸に飛び込む姉に顔をそむけるシーンでは、そんなことしてないで助けに行きなよ、と思わず突っ込みを入れたくなる。
 隠し戸から入る部屋が普通に表に続いていたり、刑事が海水浴したり、大地震で海底に沈んだ墓がはるか沖にあったり、その墓がファラオに墓のようであったリと、キワモノ的見どころはたっぷり。
 B級すぎるほどにB級ホラーだが、本作最大の見どころは海水浴をする刑事が菅原文太だということで、『仁義なき戦い』の広能の哀愁の原点を見ることが出来る。 (評価:1.5)

宇宙大戦争

製作:東宝
公開:1959年12月26日
監督:本多猪四郎 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 メカデザイン:小松崎茂 撮影:小泉一 美術:阿部輝明 音楽:伊福部昭 特技監督:円谷英二

日本のSFがいつまでたってもつまらない理由がわかる
 丘美丈二郎の原作。
 宇宙人が襲来して、日本を中心に各国が宇宙人を追い出すという物語。実際、これ以上の内容ではなく、空飛ぶ円盤が襲来して鉄橋を浮かせて列車を転覆させたり、船が空中に浮遊したりといった何のためだかわからない悪戯をする。
 自分でやれば簡単なのに人間を洗脳して邪魔したりといった回りくどい悪さをして、これはたまらんと地球側は宇宙人の基地がある月に宇宙船で乗り込み敵基地を破壊。やったやったと地球に帰ってくると円盤軍団が地球に迫り、戦闘機仕様のロケットでスターウォーズとなるが、大気圏に侵入され、なんとロケットも飛行機のように交戦し、敵の母船を破壊して終わり。
 敵の目的がよくわからず、宇宙人も基本的に登場しないのでドラマにもならず、円谷の特撮シーンだけが売りのため、中身は空っぽ。半世紀以上前の作品なのでSF設定はほとんど笑い話にしかならず、中身が空っぽとなると当時の円谷の特撮技術を愛でる以外に見るべきものがない。
 SF設定にしか重きをおかない日本SF界の原点が本作にはあって、日本のSFがいつまでたってもつまらない理由がわかる。
 主演は池部良、安西郷子で定番のラブロマンス的味付け。 (評価:1.5)