海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1952年

製作:東宝
公開:1952年10月9日
監督:黒澤明 製作:本木荘二郎 脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄 撮影:中井朝一 美術:松山崇 音楽:早坂文雄
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

通夜の席で酔っぱらう左卜全の名演技は必見
 個人的にはあまり好きではない作品だが、後半以降のシナリオと演出がとてもよくできていて、ブランコで「ゴンドラの歌」を歌うのは、邦画でも屈指の名場面。
 黒澤明のヒューマニズム作品の名作と考えられているが、『悪い奴ほどよく眠る』同様、ステレオタイプなお役所批判で、黒澤がよっぽど役人に恨みを持っていたか、あるいは手っ取り早くお役所仕事を批判することが、大衆の溜飲を下げ、喝采を浴びるという、計算ずくのポピュリズムに見えてしまう。
 たかだか児童公園を作ったくらいで、それが男の本懐というのも、時代背景を考慮しても如何にも小役人的。そうした箱庭的ヒューマニズムと芝居がかった演出に何度も鼻白むが、改めて見て、癌を告知しないのが当然だった時代背景を理解できないと、最後まで癌だという思い込みだけで金を浪費し、公園建設に奔走する主人公(志村喬)が滑稽でしかない。
 それにしても癌だと思い込んだ途端、真面目一筋だった小役人が、好色一代男の如く、それまでの借りを一気に取り戻そうと放蕩する姿は甚だしくリアリティを欠き、ぼそぼそと何を言ってるのかわからないコミュニケーション能力のないキモイ主人公に、これで課長が務まるのか、役所はいったいどんな人事をしているのだと、余計なことを考えてしまう。
 そうしたテーマのための作為的なキャラクター作りとシナリオなのだが、主人公が「命短し恋せよ乙女」とばかりに公園建設のネゴを思い立ち、一転通夜のシーンとなる場面転換は秀逸で、以降、回想の形を取りながら事件の経過と主人公の真意を探っていくシナリオは素晴らしい。
 大抵はこのシナリオに騙されて、雪の夜のブランコともども感動を錯覚するが、そこまで騙し切るシナリオと演出があればこその名作。
 癌だと思い込んだ主人公のプラトニックな愛人となる元女課員の小田切みきが好演。通夜の席で酔っぱらう左卜全の名演技は必見。そして本作最大の功労者は、「ゴンドラの歌」。 (評価:4)

製作:松竹大船
公開:1952年9月3日
監督:渋谷実 製作:山本武 脚本:猪俣勝人、斎藤良輔 撮影:長岡博之 音楽:吉沢博、奥村一
キネマ旬報:4位

戦前派の渋谷実が描く新旧混淆の戦後映画
 国土省(建設省)建設局の官吏と建設業者の汚職を背景にした作品で、建設局の課長、その部下、課長の娘を中心に物語が展開する。
 真面目で小心な課長(山村聡)は、建設業者との癒着体質にある局内で、ズルズルと業者の岩光(多々良純)に取り込まれてしまっていて、日常的に賄賂を貰って入札の談合に協力している。課長にはバーのマダムの愛人(山田五十鈴)がいるが、これも岩光がお手当丸抱えで宛がっているが、課長は惚れられていると勘違いしていて裏の事実を知らないという世間知らず。
 新任で若手の小田切(池部良)が工事担当の部下に就くが、堅物と思っていたら案に反して業者の上手をいく世渡り上手。ところが純粋な課長の娘・泉(小林トシ子)に一目惚れしてしまい、療養所にいる病弱な母を回復させて世界一幸せな家庭を築きたいという泉の夢のために一肌脱ぐことになる。
 小田切は課長と業者・愛人との関係を清算させるが、自らが手を汚したことで岩光と揉めてしまい、殺してしまう。愛する泉のために役所に放火して課長の汚職の証拠を隠滅、罪を一身に背負う。
 泉の母が病死し、世界一幸せな家庭をという泉の夢は潰えるが、面会に来た泉の愛しているという一言で、世界一幸せな男となった小田切は、その喜びを死刑囚の手記を認めるというラスト。課長と泉が、小田切の再審のために真実を告げるだろうという余韻を残して終わる。
 小田切はアプレゲール=戦後派として描かれ、これがタイトルの現代人を意味するが、アプレゲールは第二次大戦後の価値観の転換により、それまでの思想・道徳に捕らわれない若者たちを指した。
 和洋を問わず、戦後派を描く映画が数多く登場したが、本作もその流れの中にあり、フィルムノワールの文脈にも当てはまるが、それが戦前派の渋谷実によって新旧の価値観が混ぜ合わされた作品になったのが面白い。
 気の弱い滑稽な初老の男を演じる山村聡と、情に揺れる女を演じる山田五十鈴の熟練の演技が、アプレを描く本作を支えている。 (評価:2.5)

製作:大映東京
公開:1952年10月9日
監督:成瀬巳喜男 脚本:田中澄江 撮影:峰重義 美術:仲美喜雄 音楽:斎藤一郎
キネマ旬報:2位

慰撫でも希望でもない話に、で? と問いたくなる
 林芙美子の同名小説が原作。
 はとバスのガイドをしている三女(高峰秀子)を主人公に女の悲しさを描く作品。
 次女(三浦光子)は亭主が急死して悲しみに暮れる中、突然妾が現れて保険金の分け前を要求。家族にまで分配を要求され、両国のパン屋の綱吉(小沢栄=小沢栄太郎)の世話で渋谷の温泉旅館の仲居に。
 ところが旅館では長女(村田知英子)が女将気取りで、無能な亭主(植村謙二郎)を見限って綱吉と昵懇になっている。次女は保険金を元手に神田で喫茶店を始めるが、綱吉が入り浸って長女と険悪な中に。
 綱吉は三女にも言い寄っていて、それが嫌で三女は世田谷に下宿。長女と争った次女が行方不明になって母(浦辺粂子)が捜しにやってくるが、この母も10回の結婚を繰り返した不幸な女で、4人の子はどれも父親が違う。(もう1人、無職の兄がいる)
 その理由は明かされないが、三女以外の家族全員が綱吉を頼りにしていることから、母を筆頭にだらしない家庭環境で怠惰に生きていることが想像される。
 そうした中で三女だけがその泥沼から抜け出そうとし、信用できない男たちと泣かされる女を見てきて結婚に希望を抱かない。
 そうした話を淡々と描くが、慰撫するわけでも希望を持つわけでもない話に、で? と思わず問いたくなるラスト。
 三女が下宿する隣家の娘に香川京子、その兄に根上淳で、二人してピアノを弾くのが三女にとっての蜘蛛の糸。 (評価:2.5)

お茶漬の味

製作:松竹大船
公開:1952年10月01日
監督:小津安二郎 製作:山本武 脚本:野田高梧、小津安二郎 撮影:厚田雄春 音楽:伊藤宣二 美術:浜田辰雄

お茶漬より津島恵子がラーメンの汁を飲むシーンに萌え
 終戦後の急速に変わる時代を背景に、見合い結婚による愛のない夫婦(佐分利信・木暮実千代)と見合い結婚を拒絶する姪(津島恵子)を軸に話は展開する。パチンコ・競輪といった新風俗や皇居前や都電の走る銀座界隈、後楽園球場、歌舞伎座、羽田空港も登場して時代が窺えるのが面白い。
 物語は夫婦の亀裂が深まっていくシリアスな展開だが、終盤になって腰砕けの大団円となってしまい小津作品としての出来は今ひとつ。新しい女性像を演じる津島恵子の溌溂とした好演を台無しにしている。
 映像的には小津の構図は相変わらず素晴らしいが、とりわけ人の動線に計算された美しさを見ることができる。室内シーンで奥から手前に来る動きや、畳に沿って移動する動きなど、部屋の構図と相まって日本的な優雅さと気品を感じさせる。またセットの構図とカメラアングルが、観客が舞台を見る時の視点であることに気づかされるなど、見るべきものは多い。
 俳優では上流家庭出身の妻を持て余し、姪に振り回される素朴だがやさしい男を演じる佐分利信がなかなかいい。笠智衆の歌もちょっとした見どころ。 (評価:2.5)

製作:新星映画社
公開:1952年12月10日
監督:山本薩夫 製作:嵯峨善兵、岩崎昶 脚本:山形雄策 撮影:前田実 音楽:團伊玖磨
キネマ旬報:6位

今風には旧陸軍のパワハラと汚職についての内部告発映画
 野間宏の同名小説が原作。
 戦場ではなく、内地・大阪の陸軍歩兵連隊基地、しかも経理を行う内務班が舞台という変則的な反戦映画で、軍紀と内務班幹部の不正を巡る話が中心となる。
 軍隊は人間をおかしくするというのがメッセージになっているが、反戦映画というよりは今風にいえばパワハラと汚職についての内部告発、組織論を扱った作品で、現在に続く日本人のメンタリティと日本の組織の前近代性を描いたと見れば今なお価値を失っていないが、軍隊組織の告発映画と見れば、自衛隊員以外には用のない内輪な映画となる。
 まして本作が反戦映画として通用するのは、実際に徴兵された世代までで、それも戦争の本質とはほとんど無縁。
 ただ興味深いのは、歩兵連隊の兵士が内地に残留することを願い、野戦部隊に選ばれるのを怖れていることで、これが徴兵された者たちの偽らざる実態だったということが窺える。
 物語は陸軍刑務所での服役を終えた木谷一等兵(木村功)が原隊に復帰。学徒動員の初年兵を苛める古参兵たちに前科を隠して孤高を貫くが、過去の事件を知る木谷を厄介払いしたい軍曹(金子信雄)と准尉(三島雅夫)が謀って木谷を南方への野戦部隊に送り込む。
 戦争末期、野戦部隊編入は死に出に等しく、木谷は死ぬ前に恨みを晴らそうと服役の原因となった上官たちを襲って逃亡を図るが失敗。木谷を乗せ南方に向かう軍艦のラストシーンとなる。
 前半は古参兵によるパワハラが延々続くので若干だれる。木谷が復讐に動き出す中盤から面白くなる。木谷の理解者となる大学出の進歩派一等兵に下元勉。 (評価:2.5)

製作:新東宝、児井プロダクション
公開:1952年4月17日
監督:溝口健二 製作:児井英生 脚本:依田義賢 撮影:平野好美 美術:水谷浩 音楽:斎藤一郎
キネマ旬報:9位

ヒロインに田中絹代を起用したことが最大の失敗
 井原西鶴の『好色一代女』が原作。
 宮仕えの公家の娘が、色事を起こしたために一家没落。3万石の大名の妾から京・島原の花魁を頂点に私娼にまで転落していく、遊女の女の一生を描く。
 映像的にはレイアウトやカメラワークなど、溝口らしい美学が感じられるが、西鶴ものとしては溝口の生真面目さが禍して、洒脱でもなければユーモアもバイタリティも感じられない、女の悲劇を綴っただけの寂しい作品になっている。
 同じ西鶴ものの増村保造監督『好色一代男』(1961)と比較すると、原作のテイストの違いは一目瞭然。
 原作を離れて、溝口流・遊女の悲しい一生ものとして成功しているかといえばこれも微妙で、主人公・お春が最終的に五百羅漢を通した達観の境地に至るには余りに薄い。これは2時間余りの物語がエピソードの積み重ねでしかなく、お春という女の深層を描けていないためで、このヒロインに田中絹代を起用したことが最大の失敗。
 溝口にとって聖女である田中に一番に欠けているのは色気で、性愛に人間性の本質を見る一代女には最も不向きな女優。私娼に身を落としても清純な女では、単なる悲劇にしかならず、産み落とした我が子への情愛に泪するという通俗的なエピソードに頼らざるを得ない。
 世の中の女たちの人生を包括し、男たちを総なめした性愛人生を経て行きついた先が五百羅漢であり、残念ながら男勝りで気の強い田中絹代にこの役は演じられない。
 田中に対する溝口の演出も及び腰で、濡れ場のシーンも妖艶なシーンも演じさせることができず、結局はスター女優にありがちな中途半端に終わっている。
 最初の恋人に三船敏郎で、これも少年らしさが欲しいところ。
 全体にシナリオ・演出ともに芝居がかっていて、お春が自殺しようと短刀を手にして裏山に駆け出すシーンなど、必然性のない雰囲気だけのシーンが多い。 (評価:2)

製作:新東宝
公開:1952年6月12日
監督:成瀬巳喜男 製作:永島一朗 脚本:水木洋子 撮影:鈴木博 音楽:斎藤一郎 美術:加藤雅俊
キネマ旬報:7位

おかあさんの娘、21歳の香川京子の花嫁姿が可愛い
 全国児童綴方集「おかあさん」を原作として、水木洋子が脚本を書いた。
 多摩川に近い六郷附近でクリーニング店を経営する貧しい一家の母(田中絹代)を中心に描く家族の物語で、長男と父(三島雅夫)の病死、手伝いの男(加東大介)、養女に出る次女、長女(香川京子)の恋愛のエピソードが入る。
 人生の苦難に立ち向かいながらも家族を愛し、家族を守り、健気に強く生きる母の姿・・・という半世紀前ならば感動的な物語も、今はステレオタイプな母親像にしか見えない。
 そうした近代になって賛美された典型的な日本の母親像を愛する人もいるが、半世紀たってみると、保守的な慣習や家族の束縛から解放されて人間らしく生きる、母である前に女であり人間であることが求められる時代に、田中絹代の演じる母は旧弊の代表のように見えてしまう。
 それでも田中は古いタイプの理想的な母を好演し、その姿を同じ女のとして見つめる娘を香川京子が爽やかに演じる。本来ならそこに新旧の価値観の対立が描かれるべきだが、成瀬巳喜男はそうした対立を避け、香川の立ち位置も今一つ煮え切らない。
 次女を養女に出す前に、家族が思いで作りのために向ケ丘遊園地に遊びに行くシーンがあるが、それを含めてパターン化したストーリーがデジャブーのように思えてしまうのが、本作の限界か。
 長女の恋人に岡田英次、ほかに沢村貞子。21歳の香川京子の花嫁姿が可愛い。 (評価:2)

原爆の子

製作:近代映画協会、劇団民藝
公開:1952年8月6日
監督:新藤兼人 製作:吉村公三郎、山田典吾 脚本:新藤兼人 撮影:伊藤武夫 美術:丸茂孝 音楽:伊福部昭

被爆から間もない広島の焼野原が映像的な見どころ
 広島の子供たちの作文集「原爆の子」を基にした、戦後初の原爆映画。
 新藤兼人の善意は疑うべくもなく、その生真面目なまでのヒューマニズムと反核・反戦の思いが伝わってきて批判するのが躊躇われるが、良心作必ずしも佳作ではない。
 瀬戸内海の小島の小学校教諭(乙羽信子)が、6年前に勤務していた広島市の幼稚園の園児たちを訪ね歩くという話で、それぞれの被爆の証言集という構成になっている。
 父が原爆症で靴磨きで家計を助ける少年、原爆症で入院している少女、障碍者となった姉と暮らす少年・・・とくり返される不幸のオンパレード。盲目となり乞食をしているかつての使用人(滝沢修)を道端で見つけ、両親を亡くした孫が孤児院にいることを知る。
 このエピソードがストーリーの主軸となるが、子供を島に引き取ろうとして老人を説得するも、子供が拒絶する物語は、伝統的な人情親子もののパターンを踏襲していて、途中で展開が読めてしまう。
 それはともかくとして、老人が子供を主人公に託すために、自殺か故意の事故を暗示して焼死するシーンは、正直後味が悪く、お涙頂戴のための創作と批判されても仕方がない。
 老人が子供のために自らの命を犠牲にする、しかも命を犠牲にする必要が全くないにも関わらず、その道を選択し、それまでが原爆がもたらした不幸であるとするのは、創作者としていささか疑問を呈さざるをえない。これが子供が島に渡っていくラストシーンと絡む主要エピソードなだけに、折角の反核良心映画の汚点のように残ってしまう。
 民藝との共同制作なので、宇野重吉、奈良岡朋子など名優たちの若き日の姿が見どころの一つ。被爆から間もない広島の焼野原や、建設中の資料館などが記録されているのも映像的な見どころ。 (評価:2)

新やじきた道中

製作:大映京都
公開:1952年8月14日
監督:森一生 脚本:民門敏雄 撮影:牧田行正 美術:川村鬼世志 音楽:三木鶏郎

上方漫才のほのぼのとした舞台喜劇的な魅力
 長谷川町子の漫画『新やじきた道中記』が原作。
 当時人気の上方漫才コンビ、花菱アチャコと横山エンタツが弥次・喜多を演じるというお笑い映画で、『東海道中膝栗毛』とは逆に関西から江戸に東海道を下る話になっている。
 長屋に住む職人の二人が百両の富籤を当てたものの、商家の手代が金を失くして身投げしようとしているのに出くわし、賞金で助けてやる。これに女房二人(清川虹子、丹下キヨ子)が角を出し、二人が家出するというのが旅の発端。
 商家の主人が御礼に訪れ、百両が戻り、女房二人が弥次・喜多を追うという展開になる。これに、弥次・喜多が富籤を当てたのを目撃した悪者とスリが絡みドタバタ劇となるが、そこは当時のほのぼのとした『サザエさん』的定型ギャグの喜劇が基調となるため、これを懐かしいと思うか、緩くて辛みが足りないと感じるかで評価が割れる。
 もっとも可もない代わりに、退屈せずに何となく見続けられてしまう舞台喜劇的な魅力があって、アーカイブしておきたい作品。
 冒頭、江利チエミが歌うシーンもあって、歌謡映画の要素もある。ほかに、三遊亭圓馬・伴淳三郎。
 劇中、弥次郎兵衛の台詞「無茶苦茶でごじゃりまするがな」は、花菱アチャコの漫才での定番ギャグ。 (評価:2)

製作:松竹大船
公開:1952年2月29日
監督:渋谷実 製作:山本武 脚本:斎藤良輔 撮影:長岡博之 音楽:吉沢博、奥村一
キネマ旬報:3位

今となっては繊細さに欠ける人情の押し売り
 井伏鱒二の同名小説が原作。
 終戦後の東京の小さな医院が舞台。院長(増田順二)を始めスタッフが一日休診で温泉に行き、大先生(柳永二郎)と賄いの老婆(長岡輝子)が留守番をしていると、そんな日に限って次々と患者がやってきて多忙な一日となるというコミカルな人情劇。
 やってくる患者が、強姦された上京娘(角梨枝子)、船上生活者の出産、指を詰めたいヤクザ(鶴田浩二)、留置場の仮病女、盲腸の復員兵(多々良純)、流産女(淡島千景)といった具合で、戦争で頭のおかしくなった元中尉(三國連太郎)、18年前に帝王切開した母子(田村秋子、佐田啓二)も絡んでのグランドホテル形式のエピソードの積み重ねとなるが、これが蒲田が舞台で警察医も兼ねていると知れば雰囲気も呑み込めるが、映画ではその説明がないために只のてんやわんやに見えてしまう。
 本作には2つのキーワードがあって、一つは医は仁術。休診にも拘らず、貧乏人や困っている人のために患者を診てやる大先生の使命感だが、大した病気ではないにも関わらず只のお忙氏では、当時の価値観はともかく、現代の感覚からは仁術を気取っているだけで『赤ひげ』(1965)先生には遠く及ばない。
 とりわけ、患者や周囲に対する対応がいささか前近代的な価値観に基づいていて、繊細さに欠ける人情の押し売りになっているのがウザいところ。同時期の小津安二郎作品と比べても底が浅い。
 もう一つのキーワードは戦争で、跡取り息子を戦死させた大先生、気の触れた元中尉のエピソードを交えながら、生き残った人々の相互扶助と再出発へのメッセージとなるラストシーンに繋がるが、今となっては当時の感慨は伝わらず、戦争の影として象徴的に描かれるだけに終わっている。
 大先生の柳永二郎の臭い演技は好みのわかれるところ。気の触れた元中尉を三國連太郎が熱演。院長の恋人で看護婦に岸恵子。 (評価:2)

製作:松竹大船
公開:1952年11月13日
監督:木下恵介 製作:小倉武志 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 音楽:黛敏郎、木下忠司
キネマ旬報:5位

木下惠介はコメディも政治も芸術も向いていない
 『カルメン故郷に帰る』(1951)の続編。
 本作を見ると、木下惠介が喜劇や社会派ドラマ、芸術映画に如何に不向きかということが良くわかる。木下が得意な抒情や文芸がまったくなく、女性映画ですらない。
 カルメン(高​峰​秀​子)を取り巻くのは都会の​俗物ばかりで、女剣劇に転向した前作の友達・朱美(小林トシ子)が男に騙されてシングルマザーとなって登場する以外は、誰一人としてカルメンと対峙できる人間がいない。
 ストリップを芸術と思っているカルメンは、本物の芸術家の青年(若原雅夫)に純情恋してしまうのだが、これがやはりスノッブな似非前衛芸術家で、おつむの足りない女を承知で利用する。青年の両親というのが腐敗したブルジョアで、息子を金のために保守政治家(三好栄子)の娘(淡島千景)と婚約させ、息子の子どもを産んだ元恋人(北原三枝)を排除する。
 世相的には警察予備隊が保安隊に改組される時代で、再軍備を目指す保守政治家、何でもかんでも原爆のせいにする青年の家の女中(東山千栄子)と話が入り乱れ、風刺コメディとして展開されるが、第一にコメディがコメディになってなく、風刺が風刺になってなく、シナリオはほとんど空中分解。
 当時としてはこれでも風刺コメディとして通用したのかもしれないが、はるか昔に消費期限切れ。芸術に空回りするカルメンも好きな男の前ではストリップができないという堕落ぶりで、カルメンの魅力が皆無という哀しい作品。
 カルメン張りに木下惠介も芸術志向して、カメラを斜めに構えたり、回転させたりと目まぐるしいが、画面に酔うほどに多用しすぎて失敗。木下にはストリップ論も芸術論も語ることができない。 (評価:1.5)