海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1945年

必勝歌

製作:松竹京都
公開:1945年2月22日
監督:溝口健二、田坂具隆、清水宏、マキノ正博、大曾根辰夫、高木孝一、市川哲夫 製作:マキノ正博 脚本:清水宏、岸松雄 撮影:三木滋人、竹野治夫、行山光一、斎藤毅

東京大空襲を半月後に迎える空気に触れることができる
 太平洋戦争末期、情報局が国民歌を募集。入選した「必勝歌」を宣伝するために作られた戦意高揚映画。松竹の監督、スタッフ総動員で、キャストも佐野周二、上原謙、高田浩吉、小杉勇、坂本武、田中絹代、轟夕起子、吉川満子、高峰三枝子と超豪華。
 ジリ貧の戦線、小隊長(佐野周二)が隊員に暫し、故郷に帰ったつもりで瞑想させるというのが枠物語で、それぞれの隊員の9エピソードが語られるというオムニバスになっている。
 もっとも、フィリピンでの神風特攻が始まっていて、エピソードにも取り入れられているので、どのエピソードも戦死が前提の悲壮感が漂っていて、戦意高揚というよりは銃後の覚悟を説くためのプロパガンダ映画になっている。
 印象に残るのは、勤労奉仕の少年と老親が除雪に出かける話で、お国のためを説く老親の背後に、特攻で死んだ兄の遺影が見えるというもの。言葉とは裏腹に遺族の悲しみが伝わってくる。
 子供が特攻のために少年航空兵を志願する話は、無邪気さに隠れた残酷さを感じさせる。
 兄嫁(轟夕起子)の義妹(高峰三枝子)の縁談話では、相手が出征のために縁談を断ってくる。それに対し高峰は出征で縁談が壊れるのなら誰とも結婚できないと結婚式を挙げるのが逆説的。
 最後は、特攻隊の遺族たちを招いた宴で、お国のために尽くしたと遺族たちが涙を流して喜ぶ姿が、却って痛々しさを感じさせる。
 現在の独裁国家のプロパガンダを見るようで、このような狂気がかつての日本にあったことを知る貴重な作品であると同時に、狂気の裏に隠された製作者たちの思いが感じられる。
 公開の半月後に東京大空襲があったことを考え合わせれば、この映画が語る当時の空気に触れることができる。
 各監督が、どのエピソードを担当したのかを想像するのも一興。 (評価:2.5)

娘道成寺

製作:東宝教育映画
公開:劇場未公開
演出:市川崑 脚本:長谷部慶次、市川崑 撮影:岸次郎 美術:西浦貢 音楽:服部正 人形操演:日本マリオネット結城座

人形浄瑠璃を意識した人形の操演が見どころ
 終戦の年の作品でGHQ検閲のために公開されなかった23分の人形劇。
 歌舞伎の『娘道成寺』を基にしたもので、安珍・清姫伝説の後日譚。
 桜満開の道成寺に鐘を再興しようとするが、清姫の呪いで鐘は壊れてしまう。鐘職人の若者に恋した娘は失意の若者を助けるべく、観音様に祈願して命と引き換えに新たな鐘を完成させる。鐘が完成し鐘供養が行われ、観音様から娘が白拍子となって現れて、舞を舞って姿を消すというのが物語。
 『娘道成寺』の筋をアレンジしているため、もとの話を知らないとよくわからないが、人形浄瑠璃を意識した人形の操演がよくできていて、人形の表情や仕草を写すカメラのアングルやアップがいい。
 とりわけ後半の白拍子の舞が見事で、花柳壽二郎振付の人形の舞に思わず引き込まれる。
 一部、イラストなども用いられているが、全体には後の映像派・市川崑に繋がる映像的見どころの多い人形劇となっている。 (評価:2.5)

續姿三四郎

製作:東宝
公開:1945年5月3日
監督:黒澤明 製作:伊藤基彦 脚本:黒澤明 撮影:伊藤武夫 音楽:鈴木静一 美術:久保一雄

何も足場の悪い深雪の中で格闘しなくても
『姿三四郎』(1943)の続編。原作は富田常雄の『姿三四郎』。
 太平洋戦争末期に公開されたが、撮影は前年までに終了。ボクシングとの異種格闘技シーンに多数のアメリカ人が登場し、どのように撮影したのか不思議だが、国内居住の友好国の外国人が出演したらしい。
 内容的にも戦時下に相応しく、三四郎がボクシングや空手の挑戦を受け、それを次々に破っていくという戦闘的な展開。ボクシング・シーンでは、柔術家をいたぶるボクサーやアメリカ人の老若男女の観客たちを醜悪に描いていて、反米感情を殊更掻き立てる。三四郎がそれに見事復讐を果たし、戦時下の日本国民の鬱憤を晴らす。
 他流試合や見世物興行が禁じられているにも関わらず、意地のためにそれを行う三四郎は修道館道場の名札を外すが、和尚から「掟を破ったが柔道・武道の道を破ったわけではない」という手前味噌な理屈でむしろ背中を押されるというのも、日中戦争や真珠湾攻撃を正当化する軍部の意向に合っている。
 黒澤が続編の映画化に気が進まなかったのか、ボクシングシーンもおざなりで、空手のシーンに至ってはアクションは形だけでリアリティの欠片もない。何も足場の悪い深雪の中で格闘しなくても良いのにと溜め息の出る出来栄え。
 ラストで、空手兄弟が三四郎の「道」に負けたというシーンは、噴飯もの。
 もっともボクシングのシーンは後のK1などの異種格闘技の先駆けともいえ、俯瞰で捕えるカメラワークと併せて興味深い。
 前作同様、姿三四郎は藤田進で、大河内傳次郎、月形龍之介、轟夕起子らが出演。 (評価:1.5)

名刀美女丸

製作:松竹京都
公開:1945年2月8日
監督:溝口健二 製作:マキノ正博 脚本:川口松太郎 撮影:三木滋人

駄作だが戦時下の溝口の映画人としての抵抗を見ることができる
 太平洋戦争の末期に制作された作品で、溝口健二が食うために撮ったと伝えられている作品。新藤兼人によれば演出料稼ぎに早撮りし、戦時中の物資不足によるフィルム配給制から1時間余りの尺しかない。
 内容もそれに見合ったものでしかなく、主人公の刀鍛冶・清音(花柳章太郎)が笹枝(山田五十鈴)の父の仇討ちのために刀を打ち、本懐を遂げるというだけの物語で、筋をなぞっただけで登場人物も薄っぺらく、俳優たちも人形のような演技しかしていない。
 見どころは全くと言って良いくらいになく、溝口作品としては駄作だが、敢えて本作に意義を見出すとすれば、戦時中の映画界の事情が垣間見られることか。
 幕末が舞台。笹江の父・小野田は清音の養父で、その恩義に報いるために初めて作った刀を献上する。小野寺はその刀を差して藩邸に上がるが、賊との戦いで刀が真っ二つに折れてしまい、それを知った藩主から刀を折るのは武士の恥と閉門を言い渡される。
 兼ねてより笹江に執心だった藩士の内藤が、縁談を条件に藩主を説得すると申し出るが、それを断ったために小野田は斬られてしまう。しかし内藤はお咎めなしで、笹江の仇討ちのために清音は新たに刀を打ち、助太刀して仇を討つというストーリー。
 刀に込められた精神性、忠義のための仇討ち、と検閲を通すために国策映画としての体裁を整えてはいるが、笹江を愛するが故の清音の助力という本音はオブラートに包まれていて、仇討ちに成功して二人が抱き合うラストシーンで観客にはそれが伝わるようになっている。
 食うためとは言いながらも、軍部に迎合する国策映画を撮らずに、庶民のための映画を作り続けた溝口の映画人としての抵抗を見ることができる。 (評価:1.5)

虎の尾を踏む男達

製作:東宝
公開:1952年4月24日
監督:黒澤明 製作:伊藤基彦 脚本:黒澤明 撮影:伊藤武夫 音楽:服部正 美術:久保一雄

戦時下でも映画屋なので映画を作ってみました的な日和見感
 終戦をまたいで撮影された作品で、7年後に公開された1時間弱の小品。謡曲『安宅』、歌舞伎『勧進帳』を基にした作品。
 義経・弁慶一行の安宅の関所越えを、義経に仁科周芳(10代目岩井半四郎)、弁慶に大河内傳次郎、関守・富樫に藤田進の配役で映画化。一行に森雅之、志村喬、河野秋武らがいるが、最大にして唯一の見どころは強力に榎本健一を起用したこと。
 要はエノケンを起用して『勧進帳』をコメディタッチにしたというのが売り物だが、戦時中とあってセットもロケも間に合わせ感が強い。
 もっともエノケンの起用が成功しているかといえば微妙で、ストーリーそのものは『勧進帳』のままで、コメディ風にシナリオがアレンジされているわけでもなく、周囲の人物とのコメディの掛け合いもなく、ただ一人エノケンだけが、例の大目玉をひん剥いたり、ゼスチャーでエノケンを演じていて、ドラマからは完全に浮いている。
 大河内だけが例の丹下左膳的な時代劇風セリフ回しで場を保っている感があり、それなりに貫録もあるのだが、如何せんそれ以外には何の工夫もない。
 日本中が空襲を受け、沖縄が占領され、一億総玉砕か? という非常態勢下でも、とりあえず映画屋なので映画を作ってみました的な日和見感に溢れ、黒澤としては初の時代劇で、習作の域を出ていない。 (評価:1.5)