海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──2016年

製作国:アメリカ
日本公開:2017年8月26日
監督:ジム・ジャームッシュ 製作:ジョシュア・アストラカン、カーター・ローガン 脚本:ジム・ジャームッシュ 撮影:フレデリック・エルムズ 美術:マーク・フリードバーグ 音楽:スクワール
キネマ旬報:2位

塵のように浮遊し日常に遍在する詩の姿を描く
 原題"Paterson"。
 パターソンが、主人公の名であり町の名でもあるところがミソで、ニュージャージー州にある町はウィリアム・カーロス・ウィリアムズ等の詩人を生み出していて、主人公もまた町に感化されたバス運転手兼詩人という設定になっている。
 この詩人パターソン(アダム・ドライバー)の1週間を描くドラマで、大男だが繊細な彼は、身の回りの日常にインスピレーションを得て毎日ノートに詩を書きつけている。
 この詩が朗読とともにスクリーンにテキストで映し出される演出が如何にもな文芸映画だが、アダム・ドライバーの声と相まり、不思議と心に響く。
 アートかぶれした専業主婦の妻とブルドックが家族で、朝早くバス会社に出勤し、同僚の愚痴を聞き、バスを運転しながら町の人々の会話を聞き、帰宅して妻のやや風変わりなアイディア料理を食べ、夜は犬を散歩に連れ出し、黒人ばかりのバーでビールを飲む。
 帰り道に詩人の10歳の少女に出会ったり、バスが故障したり、バーで痴話喧嘩に巻き込まれたりという些細な変化はあるものの、基本は何の変哲もない平凡な毎日で、1週間の構成になっているため木曜日あたりから少し退屈してくるが、それもまた詩人の日常ということになる。
 そうした環境の中から生み出される詩作というものに安らぐが、休日のバザーの後に夫婦が久し振りの映画でデートして帰ってくると、それをやっかんだブルドッグが詩作ノートを噛みちぎって粉々にしてしまう。
 日常から生れた言葉を編んだ詩は、再び散り散りに言の葉に還ってしまう。それまで再三出版を助言する妻に対し頑なに拒み続けた詩人にとって、それは心の秘密のノートであり、あくまでも詩は編んだ作者に内在するものであって、誰かに読ませるためのもの、形に残すものではない。
 そうした中で、パターソンの創った詩は再び塵のように町に還っていく。
 詩の町パターソンに同化し、町そのものである詩人パターソンは、詩の町パターソンの擬人化でもあり、この町とそこに住む人々が詩そのものであることを示す。と同時に、人々にとっての詩が存在する意味、極私的である詩のあるべき姿を示す。
 ラストでこの町を訪れた日本人(永瀬正敏)と出会い、別れ際にヴァージンのノートを手渡される。
 詩人パターソンの詩は塵となってパターソンの町に還っただけで、再び詩となって甦り、その白紙のノートに新たに書きつけられることになる。詩は心の友であり、塵のように浮遊しながら日常に遍在し、生きる糧でもあるという作品で、パターソン同様、詩に同化したような不思議な感動が残る。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年2月24日
監督:デイミアン・チャゼル 製作:フレッド・バーガー、ジョーダン・ホロウィッツ、ゲイリー・ギルバート、マーク・プラット 脚本:デイミアン・チャゼル 撮影:リヌス・サンドグレン 音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
キネマ旬報:10位
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

ハッピーエンドこそが夢を売る"La La Land"の真髄
 原題"La La Land"で、ロサンゼルス、特にハリウッドのこと。おとぎの国、夢の国の意も。
 本作をミュージカル映画だと思って見ると、おそらくがっかりする。ミュージカル映画らしいのは冒頭の30分程度で、その後はダンス映画、ないしは歌謡映画に様変わりし、チャゼルのJazz愛に付き合わされることになる。
 高速道路の群舞は本作最大の見どころだが、ミュージカルとしてはいきなりクライマックスを迎えてしまう。じゃあ、残りは何なのかというと、実は本作はミュージカルを劇中劇としたハリウッドの舞台裏を描く映画であって、むしろ『ニュー・シネマ・パラダイス』『蒲田行進曲』の系統の作品となっている。
 CinemaScopeのロゴから始まり、、本作が映画という枠に嵌め込まれた、ハリウッドを題材にした劇中劇だというフォーマットをエンディングで示す。つまり、観客は"La La Land"ではなく、"La La Land"というタイトルのハリウッド映画を見せられているのであり、オープニングの高速道路の群舞が夢想であるように、劇中で描かれるのはおとぎの国、夢の国の物語ということになる。
 セバスチャン(ライアン・ゴズリング)とミア(エマ・ストーン)はハリウッドでの成功を夢見る男女の代表、一般名詞であって、それぞれにジャズ・ピアニスト、女優を目指している。二人は互いの夢について語り合い、励まし、支え合っていく。そうした二人が互いを愛するようになるが、それが本物の恋なのか、それとも弱者同士が手を結んだ同志愛なのかは定かではない。
 真実がどうであれ、二人が恋という錯覚に陥っていたとしても、それがハリウッドの恋の形なのであり、ハリウッドでの成功という夢の前では儚く崩れ去っていくものでしかない。二人はロマンスに酔いしれながらも別々の道を歩み、夢の実現というおとぎの国を手に入れる。
 いささか都合が良すぎるサクセス・ストーリーだが、ハッピーエンドこそが"La La Land"の真髄であり、"La La Land"の真実でなければならない。でなければ、ハリウッドは人々に夢を売ることができない。
 成功したミアはセバスチャンもまた夢を実現したことを知って、もう一つの可能性、セバスチャンとの愛を手に入れた自分を夢想する。しかし、"La La Land"には成功と引き換えに失うものもまた必要なのであって、それを承知しているミアとセバスチャンは無言の笑顔で互いを祝福する。
 二人のラブ・ストーリーがいささか平板でライアン・ゴズリングの歌唱に多少の聴き劣りはするが、曲は総じて良く、キース役のジョン・レジェンドの歌唱が素晴らしい。エマ・ストーンはアカデミー主演女優賞。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年1月21日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、エマ・ティリンジャー・コスコフ、ランドール・エメット、バーバラ・デ・フィーナ、ガストン・パヴロヴィッチ、アーウィン・ウィンクラー、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ 脚本:ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ 撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:キム・アレン・クルーゲ、キャスリン・クルーゲ
キネマ旬報:6位

ロドリゴの手に握りしめられた磔刑像が物語のすべて
 原題"Silence"。遠藤周作の『沈黙』が原作。篠田正浩の『沈黙』(1971)以来の2度目の映画化。
 原作が名作だけに、どうしても篠田版と比較してしまうが、スコセッシは日本人よりも原作を理解し、かつスコセッシ独自の『沈黙』を創り上げた。
 物語はイエズス会のシーンから始まり、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)の2神父がマカオからキチジロー(窪塚洋介)を案内人に九州に密入国する導入を丁寧かつ原作に忠実に描いていく。海のシーンから始る台湾で撮影された映像は美しく、荒れ狂う波と陰鬱な自然が切支丹弾圧下の重苦しい空気を映し出し、その映像力に圧倒される。
 主人公のロドリゴは隠れキリシタンたちに対する秘蹟を行い、捕縛され、神の沈黙に悩み、棄教し、妻帯し、幕府に協力し、天寿を全うする。
 結論から言えば、ロドリゴは本当に棄教したか否かにあって、最初に訪れた村で教会不在の間に長(笈田ヨシ)が神のシンボルとして作った小さな磔刑像をロドリゴが手に握りしめて火葬されるラストシーンにすべてが物語られている。このラストシーンをもってロドリゴが棄教していないというのは、必ずしも正確ではない。
 ロドリゴは、先に日本を訪れ棄教したフェレイラ(リーアム・ニーソン)から、日本のキリスト教徒たちは神を大日如来と習合させ、キリスト教を変質・歪曲させ、教義を真に理解していないと告げられる。イエスの声を聴いて信者たちの苦しみを救うために棄教し、仏教徒となったロドリゴにとって、神はキリスト教を超越した普遍的なものとなり、真に教義を理解していない日本のキリスト教徒同様に、仏教徒には大日如来の姿をとり、キリスト教徒にはイエスの姿をとって現出する。
 だからこそ長が作った磔刑像は、ロドリゴにとって普遍的な神の証であって、神に救いを求める人々の信仰の証ともなる。
 ロドリゴはキリスト教にあっては棄教したともいえるが、キリスト教を含む神への信仰においては棄教していない。
 スコセッシが描こうとしたのは、宗教間の対立を超えた普遍的な神への信仰・帰依であり、それは権力の道具としての宗教ではなく、長の磔刑像に象徴される民衆が真に求める自己の救いへの神の存在ということになる。
 その神は教会の中やパライソにいるのではなく、人々の心に内在することをスコセッシは示そうとするが、物質社会において「神は死んだ」のであり、残念ながら本作に目を向ける人は多くはない。
 神頼みにしか自分を保てない弱い日本人を象徴するキチジローを窪塚洋介が好演。通辞に浅野忠信、首がすっ飛ぶジュアンに加瀬亮。井上筑後守のイッセー尾形がいやらしいほどに上手い。 (評価:3)

レッドタートル ある島の物語

製作国:フランス、日本
日本公開:2016年9月17日
監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット 脚本:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット、パスカル・フェラン 音楽:ローラン・ペレス・デル・マール

個であり続けることへの諦観と安らぎを描く
 原題"La Tortue rouge"で赤い亀。
 ストーリーは異類婚姻譚で、日本の民話に多い類型を踏んでいる。主人公の若者が苛めた赤い亀に情けをかけたことから、亀は女に変身して妻になる。子供が生まれ、一人立ちし、男は老いて一生を終えるが、それを看取って恩返しを終えた妻は亀に戻って海に帰っていく。
 冒頭は浦島太郎のようで、男の暮らす島が竜宮城だとすれば、女に変身した亀は乙姫様。もっとも、昔話のような悲劇的な結末ではなく、人間の一生は短いが亀の命は万年で、命に限りのある人間の生を悠久の時を持つ亀が見守る。亀は神、または天、または宇宙で、この世界に生れ落ちた人間が生を全うする過程を描いた、壮大な叙事詩、神話といえる。
 この叙事詩には台詞もなければストーリーもなく、管弦楽を聴きながら、環境ビデオのような映像を見つめることになる。  現実の海や雲、森は見続けていても見飽きない。美術館で見る名画も見飽きることがない。本来なら退屈極まる本作は、そうした見飽きることのない自然や絵画を目指していて、その試みは成功している。
 紙の上に書かれたようなざらついた背景に動画のキャラクターをのせているが、遠近感をなくした映像は、天蓋に覆われた空間的広がりを持たない、二次元的な古代の神話世界を意識させる。その中で、静止画の雲も微妙に動いていて、細密画のような森の木々の空気に揺れる精緻な動きなど、自然の複合的な動きを再現して見飽きることがなく、アニメーションによる一つの絵画表現となっている。
 この映像表現が目指したものは、動画として動く人間を取り巻く自然・宇宙の静謐、その中で赤い亀に見守られて全うされる人間の生ということになる。
 物語は、荒波に漂う男が無人島に漂着するところから始まり、男は筏を組んで島からの脱出を試みるものの、亀の意思によってそれは阻止される。恨んだ男は亀を殺そうとするが、良心に目覚めてその命を救おうとする。それによって亀は女に姿を変えて恩寵を施し、子供と幸せな時を授ける。
 自然の猛威としての津波が島を襲って総てを無に帰すが、男は家族とともに試練を乗り越える。そして成人した息子は、冒頭の父親と同じように荒海に向って独り立ちしていく。こうして男は人間の生命の輪を繋ぎ終え、老いて一生を終える。
 本作で描かれる人の一生は、とてつもなく孤独で、個であり続けることへの諦観でもある。しかし、その個と孤独が神的・宇宙的なものに包まれていることに安らぎがある。
 ジャパニメーションとは180度方向を異にする地味な作品に、ジブリはともかく日テレ、電通、博報堂などが名を連ねているのが、どうにも違和感がある。高畑勲のアーティスティックプロデューサーというのも訳がわからず、日本的なお家事情を想像しながら、エンドロールとともに現実に引き戻される。 (評価:3)

残像

製作国:ポーランド
日本公開:2017年6月10日
監督:アンジェイ・ワイダ 製作:ミハウ・クフィェチンスキ 脚本:アンジェイ・ワイダ 撮影:パヴェウ・エデルマン 音楽:アンジェイ・パヌフニク

社会主義とは相容れない芸術の本質に気づかされる
 原題"Powidoki"で、邦題の意。アンジェイ・ワイダの遺作。
 第二次大戦後の社会主義政権下のポーランドで、芸術の政治利用と闘った実在の前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキを描く。
 芸術大学の教授だったストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)は、政治と芸術の一体化を説く文化相と対立。職を追われ、美術館やカフェらからもストゥシェミンスキの作品が撤去、破棄されてしまう。
 興味深いのは社会主義政権が求める絵画というのが写実主義の作品で、画家の主観を否定し、客観を求めること。リアリズムを基盤とする社会主義・共産主義が、精神の自由や主観を受け入れないのはイデオロギー的には必然で、ないしは社会主義政権を牛耳る体制側の主観=客観なのだと知る。
 本作は好悪は別にして社会主義・共産主義の本質を突いていて、ストゥシェミンスキは芸術の本質は個人の主観にあると主張する。
 これに共鳴する教え子たちが大学を辞めたストゥシェミンスキの下に集まり、展覧会を開こうとするが、当局の妨害に遭ってしまう。
 政府が発行する芸術家の許可証を持っていないために仕事を断られ、食糧の配給も受けられず、病を押して芸術理論の書を完成させようとするが、貧窮の末に1952年に死亡。
 タイトルはストゥシェミンスキの視覚理論から。視点を移すと補色の残像が残るという話が出てくる。 (評価:2.5)

未来よ こんにちは

製作国:フランス、ドイツ
日本公開:2017年3月25日
監督:ミア・ハンセン=ラヴ 製作:シャルル・ジリベール 脚本:ミア・ハンセン=ラヴ、サラ・ル・ピカール、ソラル・フォルト 撮影:ドゥニ・ルノワール 美術:アンナ・ファルグエレ

夫にも愛弟子にもフラれた哲学教師の幸せの哲学とは?
 原題"L'Avenir"で、未来の意。パリの高校の哲学教師ナタリー(イザベル・ユペール)が主人公。
 生徒たちは政治闘争で学校にピケを張り、老母(エディット・スコブ)の介護でうんざりしているところに夫(アンドレ・マルコン)から離婚の申し出。愛弟子(ロマン・コリンカ)のアルプスの合宿所に避難するも心の安息は得られず再びパリへ。
 母が死んで独りぼっちとなった挙句に、監修している教科書からも降ろされ四面楚歌。再びアルプスの合宿所を訪れるものの居場所ではないことに気づき、唯一の連れ合いだった猫を残してパリに戻るというのが大筋。
 せかせかと歩くが如く人生を生きてきたナタリーが、ふと孤独であることに気づき、彼女自身が過去の遺物になったことを知る。人生の時間はそうして過ぎていき、誰もが自分は孤独であることに気づくという認めたくない現実を描く。夫も家族も信じていた友人でさえ、彼らには彼らの人生があり、突き詰めれば人は誰しも単独の存在でしかない。
 ナタリーは若い頃に政治運動に参加したが、次第に政治からは距離を置いて書斎派になったという設定で、愛弟子からは現実から遊離した哲学に意味はないと言われ、実際私生活において彼女が頼りにしてきた哲学も心の支えにはならない。
 孤独を知った彼女が得たものは、幸せは手にすれば失われるもので、幸せになることへの希望こそが幸せなのだということ。そうしてナタリーは立ち直るきっかけを掴み、希望の象徴である娘の赤ん坊を抱いてあやすシーンで終わる。
 夫は言わずもがな、出版社の編集者や愛弟子までもが陰ではナタリーを持て余している描写がいい。 (評価:2.5)

カフェ・ソサエティ

製作国:アメリカ
日本公開:2017年5月5日
監督:ウディ・アレン 製作:レッティ・アロンソン、スティーヴン・テネンバウム、エドワード・ウォルソン 脚本:ウディ・アレン 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ

虚飾を纏ってしまう人間の弱さをロマンティックに描く
 原題“Café Society”。カフェに集う人々の社交界という意味合いになるが、1930年頃にニューヨークで生まれた言葉で、レストランやナイトクラブに出入りする映画スターやスポーツ選手などのセレブを指す。
 物語はハリウッドから始まり、ユダヤ人一家の次男坊ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)が、ハリウッドのエージェントとして活躍する叔父(スティーヴ・カレル)を頼って、ニューヨークからやってくる。叔父のアシスタントになるが、真面目青年のボビーはすぐに虚飾のハリウッドが嫌になり、掃き溜めに鶴のような叔父の秘書ヴェロニカ(クリステン・スチュワート)に恋をする。
 ヴェロニカが恋人に振られたのを機に交際が進み、結婚してニューヨークで地道な生活を始めようとするが、恋人というのが妻帯者の叔父で、ヴェロニカとよりを戻して結婚してしまう。
 ボビーはニューヨークで、ギャングの兄(コリー・ストール)が経営するナイトクラブを任され、生来の人の良さから店は大繁盛、セレブが集まる有名店に。自身も同じヴェロニカという名の美女(ブレイク・ライヴリー)と知り合い、妻にする。
 そこに叔父夫妻が店にやってきて、初代ヴェロニカとの再会となるが、かつての純粋さを失ったことを互いに確かめ合い、諸行無常を噛みしめるというラスト。2人がセントラルパークで、 選べる道は一つだけ(Alternatives exclude.)と交わす言葉が哀しい。
 同じ年に公開された『ラ・ラ・ランド 』も同じテーマを扱っていて、スターを目指す夢物語なのに対し、本作はハリウッド嫌いのウディ・アレンらしく、虚飾を嫌いながらも知らず知らず虚飾を纏ってしまう人間の弱さをロマンティックに描いている。 (評価:2.5)

製作国:イギリス、フランス、ベルギー
日本公開:2017年3月18日
監督:ケン・ローチ 製作:レベッカ・オブライエン 脚本:ポール・ラヴァーティ 撮影:ロビー・ライアン 音楽:ジョージ・フェントン
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭パルム・ドール

単なる役所批判に留まっているのが残念なところ
 原題"I, Daniel Blake"。タイトルは、主人公が社会保障の受給を諦めて役所の壁に書いた抗議文から。
 イングランド北東の街ニューカッスルに住む大工が、心臓病で医師に就業を止められているにも関わらず、規則一点張りのお役所仕事に生活保護も失業手当も受けられず、ようやく不服申立が通りそうになった矢先に心臓発作で死んでしまうという、イギリスの社会福祉制度とお役所仕事を批判する社会派映画。
 キャメロン政権によって抑制された社会保障によって棄民化された人々と、規則一点張りの血も涙もない公務員が描かれ、貧困問題とお役所仕事は何も日本に限ったことではないと知らされるのがある意味新鮮。
 困った主人公を助けようとする善心のある公務員も、前例になるからやめろと同僚に横槍を入れられるのも万国共通で、一人暮らしの下流老人と貧困母子家庭というこれまた日本と同じ実態が何とも身につまされる。
 抗議する主人公に、大声を出すと警察を呼ぶと言って締め出す役人体質もよく似ている。
 真面目に善良に生きて生きた人々が社会から見捨てられるという矛盾がテーマ。政治と公務員を批判する告発映画なので、作品的に深みがあるかといえばそうではなく、単なる社会批判に留まっているのが残念なところだが、共感を呼びやすく、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞している。 (評価:2.5)

製作国:フィリピン
日本公開:2017年10月14日
監督:ラヴ・ディアス 脚本:ラヴ・ディアス 撮影:ラヴ・ディアス
キネマ旬報:5位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

なぜ1997年でなければいけなかったかの説明がない
 原題"Ang Babaeng Humayo"で、女が行くの意。
 香港返還の1997年、舞台は誘拐事件の多発するフィリピン・ミンダナオ島。
 冒頭、ラジオ・ニュースとともに時代背景が説明されるが、物語はこれとは無関係の老女の復讐話で、なぜこの時代でなければいけなかったかについての説明はない。
 30年間、冤罪で服役していた老女(チャロ・サントス・コンシオ)が、真犯人の自白で出所。彼女に罪を擦り付けた元恋人への復讐のため、非合法事業で名士となっている男の住む町にやってくる。
 男の情報を得るために貧民たちに金を恵み、優しくしてあげるうちにマザー・テレサのように崇められる。老女は元恋人を教会で銃殺しようとしていた矢先、ゲイ(ジョン・ロイド・クルズ)が暴行されて老女の家に転がり込み復讐を諦めるが、彼女の秘密を知ったゲイが代わりに元恋人を射殺してしまう。
 ラストは老女が行方不明の息子をマニラで捜すシーンで終わるが、悪が栄え善が淘汰されるフィリピン社会の不正義な状況に対して、神の不在を問いかける作品となっている。
 固定カメラによる長回しを基本にリアリズムを引き出そうとする演出だが、俳優の自然な演技が引き出せたかというと、キャラクター造形の作為性が感じられて、それほどリアルに感じられないのが残念なところ。それもあって各シーンはそれほど濃密でもなく若干の間延びが感じられ、長編4時間が長く感じられてしまう。
 原則固定カメラの凝ったコンポジションや、老女が消えたゲイを捜しに浜辺を彷徨うシーンで切り替えられる手持ちカメラ、殺害現場の教会でピントを手前においてぼかすカメラワークなど映像的な見どころは多い。
 それでも4時間を費やすに値するものが得られるかとなると、無条件では人に勧められない。ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。 (評価:2.5)

ビリー・リンの永遠の一日

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:アン・リー 製作:マーク・プラット、アン・リー、ロードリ・トーマス、スティーヴン・コーンウェル 脚本:ジャン=クリストフ・カステッリ 撮影:ジョン・トール 美術:マーク・フリードバーグ 音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ

戦場にしか生きる意味を見出せない若者たちが悲しい
 原題"Billy Lynn's Long Halftime Walk"で、ビリー・リンの長いハーフタイムの歩行の意。ハーフタイムはアメフトのハーフタイムショーのことで、ビリー・リンの所属するブラボー隊がゲスト出演する。
 ベン・ファウンテンの同名小説が原作。
 イラク戦争でシルバースターを受勲したビリー・リンとブラボー隊が一時帰国して、政府のプロパガンダのために英雄として全米を巡り、ツアー最後にビリーの故郷のダラスでアメフトのハーフタイムショーに出演するという話。
 ブラボー隊に映画化を売り込むプロデューサー、ビリーのSTPDを心配して戦線離脱を勧める姉、ビリーとチアリーダーの恋などのサイドストーリーを絡めながら、シルバースターを受勲したイラク戦争を回想する。
 受勲の理由となったシュルーム軍曹救出が決して英雄的行為ではなかったと考えるビリーは、ツアーでの歓迎行事が見世物に過ぎず、戦争も米国民にとってはショー、政治家のための戦争に過ぎないことを悟る。
 アメリカに居場所を見つけられない者たちが兵士に志願し、そうした者たちの帰るべき故郷はアメリカにはなく戦場にあると悟ったビリーは、姉の懇願もチアリーダーへの思いも振り切り、イラクへと帰っていく。
 現代の戦争に対するアメリカの社会的矛盾を描いたもので、戦場にしか生きる意味を見出せない若者たちが悲しい。同時に、死に直面した中で生まれる信頼や友情といった人間の絆が、戦場にしかない求められないという平和と豊かさに麻痺した現代の病巣も見えてくる。
 地味な題材のためか日本では劇場公開されず、戦争とアメリカ社会の矛盾を台湾出身の監督が描いたためか注目されなかったが、台湾出身だからこその冷めた視点ともいえる。
 1秒120フレームで撮影されたハーフタイムショーでの臨場感溢れるフラッシュバック映像が見どころ。 (評価:2.5)

製作国:韓国
日本公開:2017年3月11日
監督:ナ・ホンジン 脚本:ナ・ホンジン 撮影:ホン・ギョンピョ 音楽:チャン・ヨンギュ、タルパラン

疑念から解放されず悪魔としか信じられない蒙昧
 原題"곡성"で邦題(泣き叫ぶ声)の意。舞台となる韓国・谷城(コクソン)の地名でもある。
 韓国南部の山村で一家惨殺事件が連続して起きるというミステリーで、悪魔祓いも登場するというホラー映画的要素も強い作品。
 毒キノコによる幻覚症状が殺害の原因とされるが、正体不明の日本人が呪いを掛けているのではないかという疑念から、悪魔憑きに原因を求める村人、祈祷師が登場する。
 主人公は村の巡査部長で、原因究明にあたる中で愛娘がおかしくなり、毒キノコか悪魔憑きかという中で、娘可愛さから日本人を悪魔と信じるようになる。
 冒頭、「ルカによる福音書」の一節が引用されることから、ナ・ホンジンが本作を単なるミステリーやホラーと考えていないことは明確で、イエス同様に復活を遂げた日本人がルカ書の通り、疑う者に対して手に触れさせ、悪霊ではないことを知らしめようとする。
 本作はいささか哲学的で、「私が悪魔でないと言っても、悪魔だと信じるあなたの考えは変わらない」と日本人に言わしめ、直接的にはどうあっても韓国人の日本人観が変わらないことを示唆しているようにも思える。
 ラストでは、悪魔憑きの容疑者として祈祷師、日本人、白い服の女の3人が示され、その誰が本物の悪魔かは明かされないままに終わる。あるいは、誰もそうではないかもしれない。
 このことから、韓国人の日本人観ではなく、韓国人や他民族、人間の持つ不寛容というものに敷衍して、他者に対する疑念から解放されず、手に触れてもその実体を受け入れることができず、悪魔としか信じることのできない人々の蒙昧を描こうとしたのかもしれない。
 しかし、ラストシーンはわかりにくく、意図を上手く伝えられてはいない。
 祈祷師にファン・ジョンミン、白い服の女にチョン・ウヒ。正体不明の日本人に國村隼。韓国人俳優にはない抑えた演技が出色。巡査部長の娘の子役も頑張っている。 (評価:2.5)

婚約者の友人

製作国:フランス、ドイツ
日本公開:2017年10月21日
監督:フランソワ・オゾン 製作:エリック・アルトメイヤー、ニコラス・アルトメイヤー、シュテファン・アルント、ウーヴェ・ショット 脚本:フランソワ・オゾン 撮影:パスカル・マルティ 美術:ミシェル・バルテレミ 音楽:フィリップ・ロンビ

戦争が憎しみと不幸しかもたらさないという基本は反戦映画
 原題"Frantz"で、劇中の人物名。モーリス・ロスタンの戯曲"L'homme que j'ai tué"(私が殺した男)を原作とするエルンスト・ルビッチ監督『私が殺した男』(1932)が原案。
 設定は原案と同じだが、いささか中途半端でヌルい結末が大幅に改変されてストーリーを膨らませているので、しっくりこなかった部分が改善されて作品として耐えうるものになっている。
 原題になっているドイツ兵フランツを第一次大戦で殺したフランス兵アドリアン(ピエール・ニネ)が、贖罪のため墓を訪れたことからフランツの婚約者アンナ(パウラ・ベーア)が友人と勘違い。アドリアンは真実を言い出せないままに、フランツの両親から息子のように思われる。
 両親はアンナとアドリアンの結婚を望むようになるが、良心の呵責に苛まれるアドリアンはアンナに真実を告げ、両親に謝罪しようとする。
 原作と異なるのはここからで、原作では両親のために真実を告げないまま二人は結婚するが、本作ではアンナが代わりに両親に真実を話したと嘘をつき、アドリアンを帰国させる。
 アンナとアドリアンは許されない愛に苦しみ、それぞれに自殺を図るが未遂に終わり、二人の苦しみと真実を知らない両親は連絡の途絶えたアドリアンを探しにアンナをパリに遣る。アンナはアドリアンと再会するが時すでに遅く婚約者がいて、行く場所を失ったアンナはフランツの両親にアドリアンと共にいるという嘘をついて、虚構の時を送る。
 途中、敵国民を憎む市井のドイツ人とフランス人を描き、戦争が憎しみと不幸しかもたらさないという、ベースは反戦映画になっていて、全体はシリアスなモノクロ映像で、アンナの夢想ないしはそれに近い状態はパートカラーで描いている。
 ラストはアドリアンの愛するマネの『自殺』が飾られているルーブル美術館で、アンナがこの絵を見ると生きる希望が湧くという意味深なセリフで終わるのが、フランソワ・オゾンらしい。 (評価:2.5)

エリザのために

製作国:ルーマニア、フランス、ベルギー
日本公開:2017年1月28日
監督:クリスティアン・ムンジウ 製作:クリスティアン・ムンジウ 脚本:クリスティアン・ムンジウ 撮影:トゥードル・ヴラディミール・パンドゥル

不正とコネが蔓延るルーマニアの未来を若者に託す社会派作品
 原題"Bacalaureat"で、バカロレアの意。
 バカロレアは国際的な高校卒業資格・大学入学資格のことで、劇中主人公のロメオが娘のエリザに、この試験を通ってケンブリッジに留学するよう奮闘する。
 ルーマニアの町に住む医師ロメオ(アドリアン・ティティエニ)は、妻マグダ(リア・ブグナル)・娘エリザ(マリア・ドラグシ)と暮らしているが、夫婦関係は破綻していて、患者で教師のシングル・マザー、サンドラ(マリナ・マノヴィッチ)と愛人関係にある。
 冒頭、ロメオの家に石が投げ込まれてガラス窓が割れ、明日からバカロレアの試験という娘を学校の手前で降ろすと暴漢にレイプされ、駐車していた車のフロントガラスを割られる。
 さては犯人探しかと思いきや、いずれの犯人も最後まで明らかにされず、ルーマニアの人々の荒んだ状況の描写でしかない。
 人心が荒んでいるだけでなく、ルーマニアには不正とコネが蔓延っていて、レイプで動揺しているエリザにロメオは試験を強要し、点数が足りないと見るや友人の警察署長を介して副市長から試験委員会の委員長に点数の操作を依頼する。
 それもこれも未来のないルーマニアから娘をケンブリッジに留学させ、希望のある未来を掴ませるため。ロメオ自身、1989年のチャウシェスク政権崩壊後にマグダとともに帰国したが、民主化後のルーマニアに失望している。詳しくは語られないが、実力よりもコネが優先する社会でロメオとマグダは不遇をかこっていて、エリザには国外での人生を望んでいる。
 そうした中で娘がバカロレアをパスするためには、非常時の不正は必要悪とするロメオと、公正を貫こうとするマグダとエリザが対立。そこに副市長の不正を摘発する検察が登場する。
 ラストシーンは、ロメオとマグダが離婚し、エリザがルーマニアで恋人と暮らす選択をする予感で終わるが、ルーマニア社会の問題を描くとともに、国を捨てるのではなく、より良き国への変革の希望を若者たちに託す社会派作品となっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年3月31日
監督:バリー・ジェンキンズ 製作:アデル・ロマンスキー、デデ・ガードナー、ジェレミー・クライナー 脚本:バリー・ジェンキンズ 撮影:ジェームズ・ラクストン 音楽:ニコラス・ブリテル
キネマ旬報:9位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

まとまらない作品を月下の抒情で逃げている
 原題"Moonlight"。タレル・アルヴィン・マクレイニーの半自伝的戯曲"In Moonlight Black Boys Look Blue"(月光に黒人少年は青く見える)が原作。
 マイアミのスラム、リバティ・シティの少年の成長を3部に分けて描く。「1部・リトル」は少年の綽名、「2部・シャロン」は少年の本名、「3部・ブラック」は少年が大人になってからの通称で、それぞれ子供、少年、大人の時を描く。
 内気な少年は母子家庭で、母(ナオミ・ハリス)が売春で生計を立てているために、いつも友達に苛められている。唯一の仲良しがケヴィンで、高校生(?)になって性的関係を持つものの、いじめっ子に命令されたケヴィンに殴られたことが発端で「力には力を」を決意、いじめっ子を椅子で殴り少年院入り。
 出所して大人になると、肉体を鍛えてアトランタの町の麻薬の売人となるが、ケヴィンからの電話でマイアミに戻り再会。失ったかつての自分を取り戻す予感でラストとなる、というのが大筋。
 掃溜めに靏だったシャロンが、掃溜めの環境に負けて銀蠅となるものの、鶴の心を取り戻すという話で、その鶴が月光に浮かぶブルーの少年ということになる。
 最初に彼のブルーを認めるのが、銀蠅の親玉だったフアン(マハーシャラ・アリ)で、不幸な境遇にあるリトルにそれが欺瞞と知りつつ手を差し伸べる。マハーシャラ・アリの演技は作品全体の中でも際立っていて、アカデミー助演男優賞を受賞。全編通しのナオミ・ハリスはアカデミー助演女優賞。
 スラムの黒人社会の貧困と犯罪の再生産サイクルを基調としながらも、テーマとして描けているわけでもなく、そうした環境に生れた一人の少年の半生記とするには感傷主義以上のものはなく、ボーイズラブとしては二人の感情描写が不十分。まとまらない作品を月光に黒人少年は青く見えるという抒情で逃げている。
 アカデミー、ゴールデングローブ両作品賞の受賞は、前年、白人主義を批判されたハリウッドが、ほとんど黒人しか登場しない本作に下駄を履かせた結果か。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2016年9月24日
監督:クリント・イーストウッド 製作:フランク・マーシャル、アリン・スチュワート、ティム・ムーア、クリント・イーストウッド 脚本:トッド・コマーニキ、撮影:トム・スターン 音楽:クリスチャン・ジェイコブ、ザ・ティアニー・サットン・バンド
キネマ旬報:1位

コンピュータより人間の英知が勝るハンドメイドな人間讃歌
 2009年にUSエアウェイズの:エアバスA320がエンジン停止のためにハドソン川に不時着、乗客・乗員全員が生還、機長が英雄扱いされた実話を基にした作品。原題は"Sully"で、機長の愛称。
 事故後に国家運輸安全委員会の聴取を受け、空港に引き返すことが出来たかどうか、機長の判断が正しかったかどうかが検証される。
 本作は国家運輸安全委員会に責任を追及される機長と副操縦士の苦悩のドラマで、最終的に国家運輸安全委員会の結論がどうなったかが、本作最大の見どころとなる。もっとも、結末を知ってしまったら映画の楽しみが半減してしまうというのは従来のクリント・イーストウッド作品にはなかったもので、エンタテイメント作品としては楽しめるが、佳作には至らなかったことの証左でもある。
 CGも使われ、とりわけ離陸からエンジントラブル発生、不時着に至る映像はパニック映画のようでスリル満点。着水後の脱出シーンも本物のA320が使われたそうで、ドキュメンタリー映画を見るような臨場感に溢れている。クライマックスでフランスのエアバス社から中継されるシミュレーション実験もわくわくする。
 総じて楽しめるエンタテイメントとなっているし、機長を単なる英雄視しないイーストウッドのドラマ作りも、抑制された感動的ラストシーンに結び付く。
 もっとも、ヒューマンドラマとしても善良なアメリカン人ドラマの定型からは抜け出せてなく、ヒーロードラマ以外に何があるかといえば、せいぜいがコンピュータよりは人間の英知が勝るといったハンドメイドな人間讃歌で、前半の国家運輸安全委員会の聴取と家族の様子が、ドラマとして若干もたつくのも不満なところか。 (評価:2.5)

BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアント

製作国:アメリカ
日本公開:2016年9月17日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:スティーヴン・スピルバーグ、フランク・マーシャル、サム・マーサー 脚本:メリッサ・マシスン 撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ

言葉遊び中心の原作を映像中心に上手くアレンジ
 原題"The BFG"。ロアルド・ダールの同名児童文学が原作で、作中に登場する巨人Big Friendly Giantの略称。とても優しい巨人の意で、邦訳書ではオ・ヤサシ巨人と訳されている。
 英語の言葉遊びの多い小説のため、邦訳書は内容も人気も今ひとつ。映画も言葉遊びは多いが、映像表現に重きが置かれているので、言葉遊びがわからなくても楽しめる内容になっている。字幕もそれなりに言葉遊びのニュアンスを活かしているが、出来れば吹替え版ではなく字幕版で見たい。ニンゲンマメと訳されているのは英語ではhuman bean(人間豆)で、human being(人間)をBFGが言い間違えている。
 映画はほぼ原作通りだが、言葉遊び中心の原作を映像中心に上手くアレンジしていて、原作とは違った楽しみ方の出来る、スピルバーグらしいファミリー向け作品に仕上がっている。
 巨人の国で夢を集め、それをロンドンの寝ている子供たちに吹き込むというのがBFGの役割で、孤児院でソフィーに姿を見られてしまったために、秘密を守るために巨人の国に連れ去ってしまうというのが物語の発端。そこには人間の子供たちを食べてしまう恐ろしい巨人たちがいて、子供たちを救うためにBFGともに英女王の助力を乞いにロンドンに向かうが、巨人たちが夜毎に食餌に出かける描写がないために少々唐突。
 原作では巨人の国でのソフィーの冒険が中心となるが、映画ではロンドンでのBFGがガリバーのようにコミカルで、映像的な面白さを上手く引き出している。
 BFGをマーク・ライランスが演じ、ソフィーを新人のルビー・バーンヒルが演じるが、全編を通したCG合成でディズニーの本領を発揮しているのが見どころ。
 ファンタジー映画らしい絵本のような光沢感のある映像だが、冒頭のロンドンの実景も同じようにメルヘンチックに加工されていて、丁寧な映画に仕上がっている。 (評価:2.5)

エル ELLE

製作国:フランス
日本公開:2017年8月25日
監督:ポール・ヴァーホーヴェン 製作:サイド・ベン・サイド、ミヒェル・メルクト 脚本:デヴィッド・バーク 撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ 美術:ロラン・オット 音楽:アン・ダッドリー

登場人物はみんな変態ないしはモンスター
 原題"Elle"で、彼女の意。フィリップ・ジャンの小説"Oh..."が原作。
 作品のテーマも制作者の意図もよくわからない。登場人物はみんな変態ないしはモンスターで、ゲーム会社を所有するミシェル(イザベル・ユペール)は独断専行で社員から嫌われている。その父は悪名高い大量殺人犯で、母はセックス狂。そのため、見ず知らずの人から嫌がらせを受け、会社で唯一彼女に好意を寄せるケヴィンは彼女の過去を調べまくり、開発中のレイプゲームの顔を彼女にすげ替えて喜んでいる。
 その画像を別の社員がネットにばら撒いたために彼女は逆上。プロローグで覆面男にレイプされたことから、犯人探しのミステリー展開となるが、その犯人というのが敬虔なカトリック教徒の隣人だったというのが終盤明らかになる。
 ミシェルの息子は麻薬の元売人で、妊娠中の恋人というよりは変人に振り回されている。その他、一癖二癖ありそうな人間ばかりで、ミシェルは女友達の夫と寝ながら、レイプ犯と知らずに隣人を誘惑する始末。
 劇中最大のモンスターは隣人の妻で、敬虔なカトリック信者でありながら、最後のミシェルへの謝辞で夫の行状を知っていたことが明らかとなる。
 要するに人間はみんなモンスターという結末なのだが、ミシェルの父が大量殺人をした理由が子供たちに十字を切っていたために変質者扱いされたというもの。隣人夫婦が仮面を被った敬虔なカトリック信者で、夫を失って街を出ていく妻を心配するミシェルに、「信仰があるから大丈夫」と答える始末で、形骸化したカトリックへの批判もほの見える。あるいは宗教心を失ってしまったフランス人の心の神の不在を皮肉ったものか。
 サスペンスタッチで進むために映画としては見れてしまうのだが、ラストで観客が曖昧な空間に放り出されてしまうのが『氷の微笑』のポール・ヴァーホーヴェンらしい。 (評価:2.5)

ドント・ブリーズ

製作国:アメリカ
日本公開:2016年12月16日
監督:フェデ・アルバレス 製作:サム・ライミ、ロブ・タパート、フェデ・アルバレス 脚本:フェデ・アルバレス、ロド・サヤゲス 撮影:ペドロ・ルケ 音楽:ロケ・バニョス

座頭市から感情を抜いたような無敵さが不気味
 原題"Don't Breathe"で、息をしないでの意。
 泥棒に入ったところが、逆に閉じ込められて襲われてしまうというスリラーで、逆バージョンの脱出もの。泥棒に入るのは盲目の退役軍人の家で、座頭市から感情を抜いたような無敵さが不気味。
 この目の見えない男から逃れるためには目の前に立っていても物音を立てなければよいというのがタイトルの由来だが、さすがに人の気配を感じないのは如何にも不自然だが、それを言わないのがこうしたシチュエーションのアイディアで見せるスリラーのお約束。
 座頭市は仕込み杖の代わりに拳銃を持ち、相棒に猛犬を従えて、見えない敵に無慈悲な攻撃を仕掛けるが、娘を交通事故で亡くして一人暮らしをしているこの老人にも、人には言えない秘密があるというのが、ストーリー上の鍵となっている。
 本作が上手くできているのは、素人3人組が夜中に泥棒に入るという設定で、観客は自分が泥棒に入るような緊迫感を抱き、そこがホラーハウスのように思えるほどに感情移入する。
 基本はホラーハウスからの脱出ゲームで、逃げ口を塞がれながら、あわや!と思わせる描写が何回か続き、ホラーの常套的手法が繰り返される中で、またかと飽きられる前に片が付く。
 俳優陣がB級っぽいのがいいが、女の子のジェーン・レヴィが『パニック・ルーム』のジョディ・フォスター風で顔も似ている。 (評価:2.5)

ズートピア

製作国:アメリカ
日本公開:2016年4月23日
監督:バイロン・ハワード、リッチ・ムーア 製作:クラーク・スペンサー 脚本:ジャレッド・ブッシュ、フィル・ジョンストン 音楽:マイケル・ジアッキノ

個人的には縦に細長いキリンがちょっといい
 ディズニー製作のCGアニメーション。原題”Zootopia”は、zoo+utopiaの造語で動物の理想郷の意味。
 肉食獣と草食獣が平和に共存する町で、ライオンが市長、羊が副市長、野牛が警察署長を務めている。主人公は田舎で人参を作っている農家のウサギの娘で、副市長の推薦でズートピアの警察官になる。ウサギに警察官は無理と署長以下にお荷物扱いされ、交通課に配属されるが、正義感に燃える本人は犯罪取締りを希望するという設定。
 肉食獣が野生に戻ってしまうという事件がおき、過去に草食獣からのけ者にされてスネオになってしまった小悪党のキツネをパートナーに、行方不明のカワウソを探すうちに市長の事件隠蔽を知って告発。副市長が市長となるが、これにも裏があることを知り・・・というミステリー仕立て。
『トイストーリー』以降、CGアニメは長足の進歩を遂げ、映像的には成熟しているので、『アナ雪』のミュージカルのような企画性か、作品性でしか差別化できなくなっているが、そうした点では本作もファミリー向けというディズニーアニメの限界を超えられていない。
 テーマ的には、ズートピアはアメリカ合衆国の寓意で、9.11以降の人種・宗教間の軋轢と建国の理念との葛藤の中で、それを肉食獣と草食獣に置き換えて、アメリカの子供や親たちの良心に問いかける作品を狙っている。
 テーマ自体に異論はなく、ポピュラーに受け入れられる健全なアニメーションになっているが、羊の仮面をかぶった狼もいるというイソップのような教訓がまた、物足りなさにも繋がっている。
 続編の作りやすい終わり方も、ディズニーの商魂が見えて若干引く。
 動物たちは擬人化されているが、個人的には縦に細長いキリンがちょっといい。 (評価:2.5)

KUBO クボ 二本の弦の秘密

製作国:アメリカ
日本公開:2017年11月18日
監督:トラヴィス・ナイト 製作:トラヴィス・ナイト、アリアンヌ・サトナー 脚本:マーク・ヘイムズ、クリス・バトラー 撮影:フランク・パッシンガム 美術:ネルソン・ロウリー 音楽:ダリオ・マリアネッリ

ストーリーを忘れてアニメーションに魅入ってしまう
 原題"Kubo and the Two Strings"で、クボと二つの弦の意。
 ライカ制作のストップモーション・アニメーション作品で、CGでは得られない艶めかしい質感やライティングによる情感など、独特の映像が見どころ。日本の江戸時代をイメージした世界観で、村の盆踊りや灯篭流し、三味線の音色を背景に折り紙が舞う純和風なファンタジーとなっている。
 主人公の少年クボは、赤ん坊の時に母とともに難破した船から浜に打ち上げられ、今は母サリアツの世話をしながら母から聞いたハンゾウの物語を村人に語っている。タイトルは二本の弦だが、弾いているのは魔法の三味線で、奏でると折り紙が物語の登場人物となって動き出す。
 盆踊りの夜、闇の世界の叔母二人がクボを襲い、サリアツが身を盾にクボを守る。サリアツは御守りの猿に憑依してクボの護衛となるが、途中から加わる侍・クワガタは父ハンゾウの憑依。二人がサリアツの父・月の帝に逆らってクボを生んだというのが真相で、クボは剣・兜・鎧の三つのアイテムを手に入れて月の帝に勝つ。
 ストーリーはありふれたゲーム・クエストだが、ストップモーション・アニメーションが良くできていて、ストーリーを忘れて魅入ってしまう。
 サリアツの声優にシャーリーズ・セロン、月の帝にレイフ・ファインズ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年5月13日
監督:ケネス・ロナーガン 製作:キンバリー・スチュワード、マット・デイモン、クリス・ムーア、ローレン・ベック、ケヴィン・J・ウォルシュ 脚本:ケネス・ロナーガン 撮影:ジョディ・リー・ライプス 音楽:レスリー・バーバー
キネマ旬報:3位

弦楽と海辺の美しい風景が誘う不幸自慢の魔法
 原題"Manchester by the Sea"で、マサチューセッツ州エセックスにある町の名。
 主人公はボストンで便利屋をしている中年男リー(ケイシー・アフレック)で、失火から幼い3人の子供たちを死なせ、妻(ミシェル・ウィリアムズ)と離婚。故郷のマンチェスターを離れ、自らを罰するように孤独な生活を送っている。
 リーには仲の良い兄ジョー(カイル・チャンドラー)がいるが、心臓病で余命を宣告され、精神を病んだ妻と離婚。息子パトリックはスポーツとバンド、セックスに居場所を求めている。
 物語はジョーの急死から始まり、病院に駆け付けたリーは葬儀を手配し、遺言によって甥の後見人となる。兄の家で寝泊まりすることになるリーは、成長した甥の変貌に面食らい、叔父の干渉を嫌う甥と微妙な関係になる。
 ここからは、共に不幸を背負ってきた二人が互いを理解し、適切な距離感を取り戻すまでの物語で、リーと妻との和解、パトリックの母からの自立が二人が立ち直るきっかけとなる。
 「アルビノーニのアダージョ」の弦楽をバックに、海辺の町マンチェスターの静謐で美しい風景が抒情を誘い、リーの壊れた精神の回復の物語に心が清められるような気がするが、これがそうした道具立てによるサイコセラピー、ある種の魔法だということに気づく。
 シンデレラ同様、これ以上はないという不幸自慢の設定で、観客の感情移入を計算した制作者の作為性に気づくと、魔法から覚めてしまう。
 アカデミー脚本賞を受賞しているが、撮影と音楽の魔法にも賞を上げたいところ。ケイシー・アフレックがアカデミー主演男優賞。 (評価:2.5)

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

製作国:アメリカ
日本公開:2016年11月23日
監督:デヴィッド・イェーツ 製作:デヴィッド・ハイマン、J・K・ローリング、スティーヴ・クローヴス、ライオネル・ウィグラム 脚本:J・K・ローリング 撮影:フィリップ・ルースロ 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

アリソン・スドルの個性的なキャラクターが単調さを救う
 原題"Fantastic Beasts and Where to Find Them"。『ハリー・ポッター』シリーズに登場する、ホグワーツ魔法魔術学校の教科書の書名で「幻の動物とその生息地」と訳されている。
 『ハリー・ポッター』のスピンアウト作品で、教科書の著者ニュート・スキャマンダーが若き頃の物語というコンセプト。時代は遡って、1926年のニューヨークが舞台となる。
 すべて新キャラで、魔法生物学者スキャマンダーと闇の魔法使いグリンデルバルドが『ハリー・ポッター』シリーズに関連する。スキャマンダーの元彼女リタ・レストレンジは、ベラトリックス・レストレンジの家系に関係すると思われる。
 物語は、魔法生物を蒐集・研究するスキャマンダー(エディ・レッドメイン)が捕まえたサンダーバードを故郷のアリゾナ砂漠に放つためにやってくる。ところが、パン屋を開業しようとしていたコワルスキー(ダン・フォグラー)と鞄を取り違えてしまったことから魔法生物が逃げ出し、これを捕獲しなければならなくなる。この頃、ニューヨークではオブスキュラスという正体不明の怪物が暴れまくっていて、スキャマンダーの魔法動物を目撃したアメリカ魔法省のティナ(キャサリン・ウォーターストン)に法律違反として捕えられ、犯人に疑われる。
 魔法省の役人、魔女追放運動一家が絡み物語は進行するが、中心となるのはスキャマンダー、ティナ、コワルスキー、ティナの妹クイニー(アリソン・スドル)の4人。
 この4人の演技を中心とした大人向けのファンタジー&アクションになっていて、『ハリー・ポッター』カラーを期待すると肩透かしを食らう。
 もっとも映画用に書かれたオリジナル脚本なので、作品的には『ハリー・ポッター』シリーズよりもよく出来ていて、ストーリー的な過不足がなく、1本の作品として完結している。
 『ハリー・ポッター』第一世代が楽しめる内容のため、ファミリー向けに魔法生物の3D世界を見せ場とするシーンが途中に挿入されるが、ドラマ的には関係ないのでいささか退屈。
 CGで見せる定番のアクションドラマだが、アリソン・スドルが主役を食う個性的なキャラクターを演じて、単調さを救っている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年5月20日
監督:アンドレ・ウーヴレダル 製作:フレッド・バーガー、エリック・ガルシア、ベン・ピュー、ロリー・エイトキン 脚本:イアン・ゴールドバーグ、リチャード・ナイン 撮影:ロマン・オーシン 音楽:ダニー・ベンジー、ソーンダー・ジュリアーンズ

北欧の空気のように徐々に体が冷えていく恐怖感
 原題"The Autopsy of Jane Doe"で、ジェーン・ドウの検視解剖の意。ジェーン・ドウは身元不明の女性のこと。
 検死官の親子が主人公で、タイトル通りに女性死体の検死解剖の様子を描くので、内臓とかが苦手な人にはお薦めできない。が、興味があれば、そのシーンだけでも結構面白い。
 一家惨殺の家の地下から、土に埋もれた身元不明の女性(オルウェン・ケリー)の死体が発見され、ティルデン親子(ブライアン・コックス、エミール・ハーシュ)が経営する検視所兼火葬場に運ばれてくる。外傷もなく生きているような死体で、死因を突き止めるために解剖を進めるが不可解な事象ばかりが続く。やがて怪異現象が始まり、何者かに検視所に閉じ込められ襲われる・・・という物語。
 死体は17世紀のアメリカで実際にあったセーレムの魔女事件で被害者になった女性のもので、その怨念が今に生きるというもの。
 ホラー映画でありながら、襲ってくる得体のしれないものは姿をほとんど現さず、定番のドッキリ演出もほとんどないが、じわじわと心臓を真綿で締め付けられるような恐怖感が上手く、女の子を怖がらせてデートで手を握らせるのを目的とした、お子様ランチ的なホラー映画に飽きた人にはお薦め。つまり、本作を女の子と見に行ったら絶対に失敗する。
 ノルウェーの監督で、北欧の凍える空気のように徐々に体が冷えていく地道な恐怖感がいい。 (評価:2.5)

製作国:韓国
日本公開:2017年9月1日
監督:ヨン・サンホ 脚本:パク・ジュスク 撮影:イ・ヒョンドク 音楽:チャン・ヨンギュ

韓国が滅亡する姿は生々しくてお気楽ではいられない
 原題"부산행"で、釜山行きの意。
 邦題にあるように、ソウルから釜山に向かう高速鉄道列車を舞台にしたゾンビ映画だが、ホラーというよりはパニック映画で恐怖感はゼロ。
 冒頭、パンデミックの発生と主人公の父娘の紹介から始まるが、親子関係の説明的な描写が多く、テンポが悪くてなかなか本題に入らないのでホラーを期待しているとイラつく。
 列車が発車した途端に何の説明もなくゾンビが発生して、あとは列車に閉じ込められた人たちがゾンビに追いかけられるパニック映画となる。途中駅で運行中止となるが、駅構内にゾンビが押し寄せ列車に逆戻り。再び釜山に向かい分散した人々がゾンビと闘うが、お決まりの内部対立があったりして、釜山直前の駅で事故のために前に進めなくなる。
 生き残った数人が電動車に乗り込んで、最後は主人公の娘(キム・スアン)と列車で知り合った妊婦(チョン・ユミ)だけが生き残り、電動車を下りて釜山へのトンネルを歩いていくが、防衛部隊が銃を構えて全員死亡の結末かと思いきや、制作者が日和って娘にハワイアンの「アロハ・オエ」を歌わせて助かるというエンディング。
 なぜ「アロハ・オエ」なのか? パンデミックの正体は? 走る列車や電動車のポイント切り替えは誰がするのか? などシナリオは相当に荒いが、そこはゾンビ・パニックの勢いで押し切る。
 主人公の父親(コン・ユ)がファンドマネージャーという設定で、自己愛から他者愛へと変わっていくのが韓国らしい、分かりやすいテーマ。
 非常事態宣言も発令されて韓国全土がゾンビに制圧されるが、そちらは全く描かれず、列車内だけに限定して描いたのがアイディア。韓国の置かれた政治情況が頭をよぎると、韓国が滅亡する姿は生々しくてお気楽ではいられない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2017年9月29日
監督:セオドア・メルフィ 製作:ドナ・ジグリオッティ、ピーター・チャーニン、ジェンノ・トッピング、ファレル・ウィリアムス、セオドア・メルフィ 脚本:アリソン・シュローダー、セオドア・メルフィ 撮影:マンディ・ウォーカー 音楽:ハンス・ジマー、ファレル・ウィリアムス、ベンジャミン・ウォルフィッシュ
キネマ旬報:8位

誰もが気持ちよくなれる反人種差別ヒューマンドラマ
 原題"Hidden Figures"で、陰の人物たちの意。マーゴット・リー・シェッタリーの同名ノンフィクション小説が原作。
 1961年のNASAが舞台。ソ連に後れを取ったアメリカがマーキュリー計画に着手、グレンがアメリカ発の有人周回飛行に成功するまでの物語で、3人の黒人女性が人種差別と闘いながら陰で支える様子を描く。
 アトラスの軌道計算を行うキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)を中心に、初導入のIBM7090を使いこなすドロシー(オクタヴィア・スペンサー)、エンジニアのメアリー(ジャネール・モネイ)の3人が描かれるが、制作意図はマーキュリー計画での功績よりもむしろ黒人差別との闘いにあって、感動的にするための大幅な誇張と脚色が行われている。
 黒人差別との闘いよりも、3人のNASAにおける功績を正当に描いた方がより本質的な感動を描けただろうし、それによって真の黒人差別の不当性が描けたはずで、良い材料を得ながら安直なポピュリズムのドラマになったことが残念。
 そうした制作姿勢が反映したのか、超優秀であるはずの3人の黒人女性が熱演にも拘らず知的に見えない。
 アメリカン・ヒーローであるグレンが、のけ者にされている黒人スタッフに歩み寄って握手を求めたり、キャサリンの能力を正当に評価したりして、NASAの人種差別主義者たちと一線を画すという演出も迎合的であざとい。
 スペース・タスク・グループの責任者を演じるケヴィン・コスナーも、厳格だが人種差別をしない合理主義者として描かれる。
 キャサリンと再婚する黒人軍人が女性差別をするが、謝って解決というシナリオもぬるく、誰もが気持ちよくなれる反人種差別のヒューマンドラマになっている。  (評価:2.5)

製作国:イラン、フランス
日本公開:2017年6月10日
監督:アスガー・ファルハディ 脚本:アスガー・ファルハディ 撮影:ホセイン・ジャファリアン 編集:ハイデー・サフィヤリ 音楽:サッタル・オラキ
アカデミー外国語映画賞

『セールスマンの死』と関係があるようで関係ない
 原題"فروشنده"で、邦題の意。
 劇中劇でアーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』(Death of a Salesman、1951年映画化)が並行して演じられることからのタイトルだが、本作にはセールスマンは出て来ない。
 エマッド(シャハブ・ホセイニ)とラナ(タラネ・アリドゥスティ)の若夫婦は、小劇団で『セールスマンの死』を演じることになっていが、住んでいるアパートが取り壊されることになり、仲間の紹介で新しいアパートに転居する。
 ある日、稽古を終えて先に帰ったラナは暴漢に襲われ、心に深い傷を負う。ラナの意志で警察に届けなかったため、近所ではラナが男を引き入れたと噂になる。エマッドが暴漢を探し出すと老人で、妻と娘夫婦を呼んで男の行為を告げようとするが、ラナは男を許して家族に告げるのを止めさせる・・・というストーリー。
 暴行事件が夫婦の関係に擦れ違いを生じ、それぞれの感情がぶつかっていく過程を描くが、劇中劇では『セールスマンの死』の老夫婦を演じていて、対置されるかといえばそうでもない。若夫婦と『セールスマンの死』の老夫婦の設定は相似してなく、夫の死で終わるという点では暴漢の老人とその妻の方が似ているが、家族に対する男のプライドで死を選ぶ『セールスマンの死』の老人と、不名誉をひた隠して死ぬ暴漢ではあまりに不釣り合い。
 イスラム女性という点を考慮しても、ラナの心理の不可解さも含めて、何ともすっきりしないエンディングとなっている。 (評価:2.5)

モアナと伝説の海

製作国:アメリカ
日本公開:2017年3月10日
監督:ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ 製作:オスナット・シューラー 脚本:ジャレド・ブッシュ 音楽:マーク・マンシーナ

ディズニーが挑戦し続けた水の表現の一つの到達点
 原題"Moana"で、主人公の少女の名。ディズニー・スタジオ製作の3Dアニメーション。
 ポリネシア神話をモチーフにした物語で、酋長の娘モアナが島の飢饉を救うべく、伝説に則って珊瑚礁の外海にいる半神半人のマウイを説得して、女神にアイテムを渡す。このアイテムというのが、過去にマウイが女神から奪った彼女の心で、「海」によって選ばれし者モアナがこれを手に入れ、マウイとともに女神に返しに行く。
 アドベンチャーなので、これを邪魔する者がいて、まずは嵐、次が海賊、巨大ガニ、最後が溶岩の悪魔。この溶岩の悪魔が心を奪われた女神の化身で、心を返す相手がこの悪魔というのがオチ。心を取り戻した女神は緑の島となって鎮まり、島の危機が去る。
 同時に、モアナが海洋民族であったポリネシアンの心を取り戻すというラストからは、モアナ自身が伝説の女神そのもの、ないしは神官、代行者であることを窺わせる。
 ポリネシアンはその昔、舟で海を渡り南太平洋の島々に住みついたという歴史を背景に、火山の表象である溶岩の悪魔、タトゥー、マオリの踊りハカなども登場。民俗学に興味がある人には、その世界観を楽しむことができる。
 もっとも制作者の主眼は映像表現にあって、ウォルト・ディズニーが挑戦し続けてきたアニメーション技法の最大のテーマである水の表現において、一つの到達点を示している。
 水の透明感、質感、波の動き等々、実写と見紛うばかりのリアリティに驚嘆。水だけでなく、モアナの髪の毛の質感、さらには砂を被った髪や肌の砂粒の一つ一つが、溜め息が出るほどに素晴らしい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2016年8月27日
監督:デヴィッド・F・サンドバーグ 製作:ジェームズ・ワン、ローレンス・グレイ、エリック・ハイセラー 脚本:エリック・ハイセラー 撮影:マーク・スパイサー 音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ

灯をつけた瞬間に姿を消すアイディアが面白いが
 原題"Lights Out"で、停電の意。
 光が苦手という正統派の幽霊で、部屋の明かりを消して襲う。襲われるのは鬱病でcrazy(字幕ではビョーキ)な母親ソフィー(マリア・ベロ)の家族たちで、最初に2人目の夫が病院で殺され、次に家で少年(ガブリエル・ベイトマン)が、次に独立している娘(テリーサ・パーマー)とボーイフレンド(ビリー・バーク)が襲われる。
 この時点で、場所か人に憑く日本の幽霊とは違い神出鬼没なアメリカ型幽霊に戸惑ってしまうが、その正体や如何にというのが物語の流れ。
 灯をつけた瞬間に姿を消すというアイディアが面白いが、光を当てられると肌がジリジリ焦げてしまう実体がありながら、突然瞬間移動したりというご都合主義に振り回されて、幽霊の正体というかルールが掴めない。
 幽霊ダイアナはソフィーの幼い頃の友達で、光過敏症で病院暮らし。死んだ後にソフィーに乗り移ったのか、はたまたソフィーの意識が産んだ化け物なのかというのが明確に説明されないままに、正体不明の怖さだけを追求するアメリカン・ホラーのパターン。
 ラストでソフィーの負の意識が産んだ幻影だと説明されるが、それが実体化したことへの説明はない。ソフィーの死とともにダイアナも消滅するが、だったら最初からソフィーが死ねば良かったんじゃないの? という安直な結末が空しい。
 幽霊が紫外線のブラックライトなら火傷しないというのもよくわからない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2016年7月9日
監督:ジェームズ・ワン 製作:ピーター・サフラン、ロブ・コーワン、ジェームズ・ワン 脚本:チャド・ヘイズ、ケイリー・W・ヘイズ、ジェームズ・ワン、デヴィッド・レスリー・ジョンソン 撮影:ドン・バージェス 音楽:ジョセフ・ビシャラ

実話を強調されると却って嘘くさく感じて逆効果
 原題"The Conjuring 2"で、霊の召喚の意。
 1977年、ロンドンのエンフィールドで起きたポルターガイスト現象を題材に、前作の心霊研究家ウォーレン夫妻が調査に赴く。
 母子家庭の次女ジャネット(マディソン・ウルフ)がコックリさんで霊を呼び寄せたことから、家に霊が棲みつくというイギリスらしい幽霊屋敷の話で、霊そのものは姿を見せず、ポルターガイスト現象で家族を怖がらせて喜ぶ。ジャネットは霊に憑依されて痙攣したり二重人格になったりするが、憑依された時の演技が堂に入って、見どころはほぼこれに尽きる。
 ウォーレン夫妻(パトリック・ウィルソン、ヴェラ・ファーミガ)がやってくると、俄然アメリカン・テイストというかキリスト教ホラーになって、真犯人は霊ではなくて悪魔だというオチが興ざめ。折角、舞台をイギリスに持ってきたのだから幽霊で押し通してほしかった。
 不安定なカメラワーク、ズームイン、カットの切り返しなどはよく出来ていて、そこそこ怖い。
 個々のポルターガイスト現象のシーンは実話を基にしているが、実話をあまり強調されると辻褄の合わないことも多くて、却って嘘くさく感じて逆効果。十字架で退散はドラキュラ等のフィクションに似合う。 (評価:2)

ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー

製作国:アメリカ
日本公開:2016年12月16日
監督:ギャレス・エドワーズ 製作:キャスリーン・ケネディ、アリソン・シェアマー、サイモン・エマニュエル 脚本:クリス・ワイツ、トニー・ギルロイ 撮影:グレイグ・フレイザー 音楽:マイケル・ジアッキノ

そうかデス・スターは核兵器だったのか
 原題"Rogue One: A Star Wars Story"。"Star Wars"シリーズの番外編。エピソード4の前に入る物語で、デス・スターの設計図がレイア姫の手に渡るまでが描かれる。Rogueはならず者の意で、Rogue Oneは帝国軍に反抗する主人公グループが即席に名乗る部隊名。
 ストーリーの目玉は、デス・スターが如何にして造られたかという秘話で、帝国に連行された科学者にして設計者のゲイレンとその娘ジンが設計図を託され、レイア姫に手渡すまで。エピソード4で描かれるデス・スターの欠陥はゲイレンが仕組んだもので、ゲイレンの企みがエピソード4のデス・スター攻防戦に繋がる。
 番外編だけにストーリーやキャラクターがわかりにくく、スパイやパルチザンが中心となるため盛り上がりに欠け、個性的なキャラクターもいないために地味で平凡な物語となっている。
 それに輪をかけて草原や海岸など至って地球的な風景のために『007』を見ているようで、スターウォーズの宇宙観が希薄。どこぞのSFのようで、ダースベイダーが登場してきてようやくスターウォーズ感が出てくる。
 ストームトルーパーやドロイド、奇怪な宇宙人も登場するもののどちらかというとマニア受けで、ライトセイバーの登場しないスターウォーズはやはり気の抜けたビール。棒術や剣術はどこか違う。
 パルチザンの衣装やメイクがイスラム・ゲリラっぽいのも気になるところで、話の大枠が第二次世界大戦の原爆開発科学者を思わせて、そうかデス・スターは核兵器だったのかと、『GODZILLA ゴジラ』(2014)の監督だけに妙に納得してしまう。
 その原爆博士にマッツ・ミケルセン。レイア姫のキャリー・フィッシャーはCGで登場。 (評価:2)

海は燃えている イタリア最南端の小さな島

製作国:イタリア、フランス
日本公開:2017年2月11日
監督:ジャンフランコ・ロージ 製作:ドナテッラ・パレルモ、ジャンフランコ・ロージ、セルジュ・ラルー、カミーユ・レムレ 撮影:ジャンフランコ・ロージ
ベルリン映画祭金熊賞

ランペドゥーザ島の平和な日常に取り込まれてしまった感
 原題"Fuocoammare"で、シチリア方言で海の火の意。
 イタリア最南端のランペドゥーザ島が舞台で、原題は第二次世界大戦の時に島の港に停泊していて爆撃され、炎上した軍艦を歌った歌のタイトルから。
 ランペドゥーザ島はシチリアよりもむしろチュニジアに近い地中海の島で、そこで暮らす島の子供とその家族、ラジオ局のDJの平和な日常と、難民船の救難隊の活動を対比して描くが、ドキュメンタリーと呼ぶには説明不足で、ナレーションのない記録映像を断片的に見せられている印象がある。
 一方、難民とは無関係に暮らす島民の描写もまた同様なのだが、とりわけ島の子供が遊ぶ様子や、弱視の治療を行うシーンなど、明らかに演出が入っていて、ドキュメンタリーというよりはフィクションに見えてしまう。
 このためドキュメンタリーなのかフィクションなのか見紛うところがあり、それ以上に本作が何を描こうとしているのか判然としない。
 中東やアフリカからヨーロッパを目指し、命を賭してやって来る難民たちの悲惨な状況の記録映像としては価値ある貴重なものだが、ドキュメンタリーとしてはそれ以上のものはなく、悲惨な状況を断片的に並べているだけに過ぎない。
 彼ら移民たちの背景に迫れてなく、個々がどのような経過をたどって来たのかもわからない。
 この状況に無縁な島の子供を描くことで両者の断絶を示そうとするのだが、その描写もまた表面的で、おそらくはこの島の島民とシチリアの島民との間にも生活や文化、精神面での断絶があるはずだが、ランペドゥーザ島の島民たちの実相も描かれてない。
 ヨーロッパの難民問題の過酷な現状を示すという点では意味があるが、ドキュメンタリーとしてそれ以上には踏み込めてなく、ランペドゥーザ島の平和な日常に取り込まれてしまった感がある。 (評価:2)

バイオハザード:ザ・ファイナル

製作国:アメリカ
日本公開:2016年12月23日
監督:ポール・W・S・アンダーソン 製作:ジェレミー・ボルト、ポール・W・S・アンダーソン、ロバート・クルツァー、サミュエル・ハディダ 脚本:ポール・W・S・アンダーソン 撮影:グレン・マクファーソン 美術:エドワード・トーマス 音楽:ポール・ハスリンジャー

アリスの秘密と物語に決着をつける無理やりな最終章
 原題"Resident Evil: The Final Chapter"で、居住する邪悪:最終章の意。カプコンの同名ビデオゲーム(英題、原題は『バイオハザード』)が原作。
 荒廃したホワイトハウスから物語はスタートするが、前作の思わせぶりなラストシーンとはまったく繋がってなく、"娘"のベッキーやジルはまったく無視。ウェスカーもラクーンシティにいて、この間の説明がないのが何ともしっくりこない。
 アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)はAIレッドクイーン(エヴァ・アンダーソン)からいきなりミッションを与えられ、ラクーンシティ地下のアンブレラ社研究施設にいるアイザックス博士(イアン・グレン)から抗ウイルス剤を奪い、空気中にばら撒いてゾンビを消滅させるという、まるでアクションゲームのようなドラマ性のないシナリオになっている。
 冒頭、マーカス教授(マーク・シンプソン)が早老症の娘アリシアの治療薬としてT-ウイルスを開発、アイザックス博士とともにアンブレラ社を創業したものの、副作用によりゾンビが発生。対応を巡って対立してアイザックス博士に殺された経緯が説明され、ラストで老いたアリシアが登場する。レッドクイーンは少女時代のアリシア、アリスは成長後のアリシアのクローンという終章に相応しい種明かしがあり、少女アリシアをエヴァ・アンダーソン、老いたアリシアをミラ・ジョヴォヴィッチが演じている。
 中盤からアリスと行動を共にする生存者集団が登場し、旧友クレア(アリ・ラーター)も最後までアリスと戦い、ウェスカー(ショーン・ロバーツ)、アイザックス博士を倒し、無事ミッション達成でメデタシメデタシとなるが、敵も味方もクローンだらけの上に、戦いのシナリオもショボく、アリスが何度も気絶してしまって生き残るのが不思議というくらいに迫力不足のご都合主義。敵との戦いも強いのか弱いのかよくわからない有り様で、結局はアリスの秘密の種明かしと物語に決着をつけるための無理やりな辻褄合わせという、よくある肩透かしのファイナルとなっている。 (評価:2)

メッセージ

製作国:アメリカ
日本公開:2017年5月19日
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 製作:ショーン・レヴィ、ダン・レヴィン、アーロン・ライダー、デヴィッド・リンド 脚本:エリック・ハイセラー 音楽:ヨハン・ヨハンソン

人は未来を知っていても受け入れるかの難問は素通り
 原題"Arrival"で、到着・誕生の意。テッド・チャンの短編SF小説"Story of Your Life"(あなたの人生の物語)が原作。
 世界の12か所にエイリアンが出現。モンタナの出現場所に呼ばれた言語学者のルイーズ( エイミー・アダムス)がヘプタポッドと呼ばれるエイリアンの言語を研究しているうちに、未来を予知するようになる。上海でヘプタポッドと交信していた中国が脅威と見做して攻撃準備に入るが、ルイーズは戦争を未然に食い止めた予知夢から中国に攻撃を思いとどまらせるというタイム・パラドックスもの。
 原作は、エイリアンの言語体系そのものに謎があって、過去・現在・未来の時制を持たないために未来を知ることができるという設定になっているが、映画では観客を混乱させないためか、これを円環文字でビジュアル的に見せるだけで説明がない。
 このため、もともと観念的でドラマ性がない上に、核心抜きの設定を説明するだけの作品になっていて、とりわけ前半は退屈この上ない。
 ストーリーとしては、ルイーズが予知夢の中で宇宙学者のイアン(ジェレミー・レナー)と結婚して生まれた子供が早逝することを知りながら、ラストでイアンと結婚するというもので、人は未来を知っていてもそれを受け入れるという結末となっている。原題の"Arrival"は、宇宙船の到着と、この子供の誕生のダブル・ミーニングか。
 もっともこの難問に対しての葛藤は全く描かれず、エイリアンの目的は対立する地球人の融和というお節介なもので、とってつけたテーマになっている。 (評価:2)

セブン・シスターズ

製作国:イギリス、アメリカ、フランス、ベルギー
日本公開:2017年10月21日
監督:トミー・ウィルコラ 製作:ラファエラ・デ・ラウレンティス、ファブリス・ジャンフェルミ、フィリップ・ルスレ 脚本:マックス・ボトキン、ケリー・ウィリアムソン 撮影:ホセ・ダビ・モンテーロ 音楽:クリスティアン・ヴィーベ

奇抜な設定でそこそこ楽しめるが、それだけ
 原題"What Happened to Monday"で、月曜日に起こったことの意。
 近未来SFで、世界が人口過剰で一人っ子政策をとっている中、7つ子が生れ、祖父(ウィレム・デフォー)が隠し部屋で7人を育て、7人が交替で外出して1人に成りすますという奇抜な設定。そのため7人姉妹には月曜日から日曜日までの名が与えられる。
 原題の月曜日は、この7人姉妹の長女の名で、彼女が月曜日に外出から戻らなかったことから、残りの6人がその原因を探るというミステリー仕立ての物語。
 結末を明かせば、月曜日に恋人ができ、その子を身籠ったことから、当局に密告して残りの6人を処分しようとしたのが真相。公式には2人目以降の子供は冷凍睡眠させ、人口問題が解決した未来に覚醒させることになっているが、実は・・・というのはよくある設定。
 6人が月曜日失踪の謎を追いかけるというのがストーリー的には見どころだが、ノオミ・ラパスが1人7役を演じ分けるというのが最大の見どころ。7通りの髪型からファッション・性格付けまで、ノオミ・ラパス7変化のカタログ映画ともいえる。
 7つ子の出生から30年後の世界が主舞台となるが、こんなトリックで30年間バレない方が不思議で、設定上は相当無理があるが、それには目を瞑るとしても、先進国が少子化問題に悩んでいる現状で、40年前に危惧された人口問題と中国の一人っ子政策をテーマに設定するアナクロニズムに冒頭から腰が抜ける。
 奇抜な設定でそこそこ楽しめるものの、7人で1人の共通ペルソナを有しなければならないという、それぞれのアイデンティティの問題が提起されながら、最後は素通りしてしまうのが残念。 (評価:2)

ラビング 愛という名前のふたり

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:2017年3月3日
監督:ジェフ・ニコルズ 製作:ゲド・ドハティ、コリン・ファース、サラ・グリーン、ナンシー・ビュアスキー、マーク・タートルトーブ、ピーター・サラフ 脚本:ジェフ・ニコルズ 撮影:アダム・ストーン 音楽:デヴィッド・ウィンゴ

前半の差別的な警察と郡判事が類型的でうんざりする
 原題"Loving"。ナンシー・ブリスキーのドキュメンタリー"The Loving Story"が原作。
 バージニア州で禁止されていた異人種間結婚で処罰されたラビング夫婦が、憲法違反を訴えて連邦最高裁で勝訴するまでの実話を基にした物語。邦題は、Lovingが二人のファミリー・ネームと愛することの二つの意味を持っていることに引っかけている。
 二人が結婚したのは1958年のことで、有罪となった二人はバージニア外に出ることを条件に刑の執行を猶予される。63年、妻がロバート・ケネディに手紙を書いたのがきっかけでアメリカ自由人権協会の弁護士の援助を受け、判決の違法性を訴えて最高裁まで上告、67年に違憲判決を勝ち取るまでの10年間が描かれる。
 人種差別をテーマに、異人種間結婚をした二人の愛の物語で、後半、提訴に踏み切り、子供たちと共に逮捕を覚悟で郷里に戻ってからは、裁判と家族愛との狭間で苦悩する無学な夫と、差別に立ち向かう聡明な妻の感動的な物語となっていて、それなりのヒューマンドラマとなっている。
 ただ前半の差別的な警察と郡判事が類型的なのが退屈でうんざりする。人間の持つ差別の本質が描けていれば、今さら感のある社会派の過去話に終わらずに、現代に通じる普遍性を残すことができたかもしれない。 (評価:2)

ザ・コンサルタント

製作国:アメリカ
日本公開:2017年1月21日
監督:ギャヴィン・オコナー 製作:マーク・ウィリアムズ、リネット・ハウエル・テイラー 脚本:ビル・ドゥビューク 撮影:シーマス・マッガーヴェイ 音楽:マーク・アイシャム

経理マンとスーパーヒーローがギャップあり過ぎ
 "The Accountant"で、会計士の意。
 アスペルガー障害の会計士クリスチャン(ベン・アフレック)が、裏社会の資金洗浄情報を商務省長官(J・K・シモンズ)にタレこむ一方、ヒットマンを容赦なく殺すという必殺仕置き人タイプのアンチ・ヒーロー・アクション。
 ハイテク企業の不正経理の調査を物語の縦糸に、長官と分析官(シンシア・アダイ=ロビンソン)のタレこみ男の調査、クリスチャンとヒットマンの攻防、クリスチャンの生い立ちが並行して進むが、それぞれ話が複雑に絡み合うミステリー仕立てのため、シナリオも演出も全部を料理しきれず、話が分かりづらい。
 おまけに並行して進む話のキャラクター同士が直接絡み合わないために、誰が話の中心なのか分かりにくくい。
 そのせいもあってか、仕置人のクリスチャンを超人に仕立て、アクションの要素を盛り込んでいるため、アスペルガーのクリスチャンを軍人のお父さんが無敵に仕立てたというエピソードを作り、さらには弟との兄弟愛や、同じアスペルガーの娘まで起と結に入れ込んで、設定はおなか一杯のテンコ盛り。
 クリスチャンが大金持ちの独身貴族というのはバットマン的で、経理マンがスーパーヒーローという意外さを狙ったところがミソか。それにしても経理マンというリアリズムに対して、アクションが超人的すぎてギャップあり過ぎ。 (評価:2)

ターザン REBORN

製作国:アメリカ
日本公開:2016年7月30日
監督:デヴィッド・イェーツ 製作:ジェリー・ワイントローブ、デヴィッド・バロン、アラン・リッシュ、トニー・ルドウィグ 脚本:アダム・コザッド、クレイグ・ブリュワー 撮影:ヘンリー・ブラハム 音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ

CG以外に21世紀ターザンと呼べるものは何もない
 原題"The Legend of Tarzan"で、ターザンの伝説の意。
 ターザンのルーツをたどればエドガー・ライス・バローズの1912年からの小説シリーズが原作で、これまでに数多くの映画作品があり、記憶に焼き付いているのはロン・エリーがターザン役のテレビシリーズ (1966~1969) だった。
 今回のターザン(アレクサンダー・スカルスガルド)は19世紀末、コンゴから文明復帰してイギリスでグレイストーク卿となり、ジェーン(マーゴット・ロビー)と結婚しているという原作の設定を活かしている。
 ベルギー国王側近(クリストフ・ヴァルツ)が統治下のコンゴで黒人に奴隷労働をさせ、野蛮部族と手を結んでダイヤの独占を図ろうとしている。野蛮部族の酋長はかつてターザンに息子を殺されていて、ターザンの引き渡しが協力の条件。
 ターザンはアメリカ特使(サミュエル・L・ジャクソン)とともに奴隷売買の実態を暴くためにコンゴを訪れ、懐かしき故郷を訪ねるものの国王側近の陰謀に巻き込まれるというのがストーリー。
 最後は酋長の誤解を解き、陰謀を砕いて終わるが、チータも登場しなければ動物商人の西洋人も登場せず、テレビ版を見慣れた目にはやや異質な作品に映る。
 もっとも、定番のブランコや超人的とも思えるアクション、類人猿や野獣たちのCGはいささかうんざりするくらいにスペクタクル。この部分だけは21世紀的だが、作品的には改めて21世紀を感じさせるようなテーマも斬新さもなく、奴隷売買の描写も中途半端なら、コンゴ人はあくまで未開人の扱いで、過去の西洋人視点からの反省も進歩も見いだせない。
 CGと3D以外に21世紀ターザンと呼べるものは何もないというスペクタクルだけが売りの凡作。 (評価:2)

製作国:アメリカ、イギリス
日本公開:2016年9月30日
監督:バー・スティアーズ 製作:マーク・バタン、ブライアン・オリヴァー、タイラー・トンプソン、ショーン・マッキトリック、リソン・シェアマー、ナタリー・ポートマン、アネット・サヴィッチ 脚本:バー・スティアーズ 撮影:レミ・アデファラシン 音楽:フェルナンド・ベラスケス

ゾンビが登場する必要はなくパロディとしてもお粗末
 原題"Pride and Prejudice and Zombies"で、高慢と偏見とゾンビの意。セス・グレアム=スミスの同名小説が原作で、ジェーン・オースティンの小説"Pride and Prejudice"(高慢と偏見)のパロディ。
 19世紀初頭のイギリスが舞台で、植民地から様々な交易品と共に疫病がもたらされ、ゾンビが蔓延っているという世界観。ロンドンは周囲に運河と大壁を張り巡らし、ゾンビが広がらないようにしているが、地方は比較的安全なだけで、森にはゾンビがうろつく。ゾンビは人間の脳を食べるが、見かけは人間のように振る舞っているのもいて見分けにくかったりする。
 そういう設定の下、ストーリーはオースティンの原作の通りに進むが、ベネット5姉妹は中国に留学してゾンビ対策のために少林拳などの武道を習得。
 次女リジー(リリー・ジェームズ)とカップルとなるダーシー(サム・ライリー)は富裕層の行く日本で剣術を習得してゾンビ・ハンターとなっている。長女(ベラ・ヒースコート)とビングリー(ダグラス・ブース)のカップルも原作通りだが、ウィカム(ジャック・ヒューストン)と駆け落ちした5女(エリー・バンバー)を救出するためにリジーとダーシーがロンドンに向かい、大群のゾンビ相手に立ち回りを演じるというのが違っていて、恋愛もののオリジナルとは違ってアクション主体。ゾンビに立ち向かう女性たちも男勝りで、高慢と偏見の影は薄い。
 ストーリーはオリジナルのまんまでゾンビが登場する必要性はなく、ゾンビものとしても原作の設定を使う意味がない。それなりの製作費が掛かっていて決してチープなB級ホラーではないのに、ゾンビには高慢も偏見も関係なく、パロディというにはお粗末なのが寂しい。 (評価:2)

怪物はささやく

製作国:アメリカ、スペイン
日本公開:2017年6月9日
監督:J・A・バヨナ 製作:ベレン・アティエンサ 脚本:パトリック・ネス 撮影:オスカル・ファウラ 美術:エウヘニオ・カバイェーロ 音楽:フェルナンド・ベラスケス

教育映画のような説教臭さが鼻につく
 原題"A Monster Calls"で、怪物が呼ぶの意。パトリック・ネスの同名小説が原作。
 両親が離婚し、学校では苛められている空想家の少年(ルイス・マクドゥーガル)が、毎晩悪夢にうなされていると、空想にイチイの木の怪物(リーアム・ニーソン)が現れ3つの物語を聞かせる。そして4つ目は少年が真実の物語を話さなければならないと言う…というストーリーで、母(フェリシティ・ジョーンズ)が不治の病であることから真実の物語が、少年が母の死を認めることというのが予想できてしまう。
 結末がわかってしまうと、怪物が語る物語も少年が母の死を受け入れるための段取りでしかなく、教育映画のような説教臭さが鼻についてしまう。
 要は少年は乳離れをしなければならないというイニシエーションの物語で、苛めっ子に反撃して大怪我をさせ、再婚した父(トビー・ケベル)との同居は叶わず大嫌いな祖母(シガニー・ウィーバー)と暮らすことになるものの、すべてはママが中心で、マザコン少年の自立の物語を見せられてもあまり嬉しくない。
 怪物は善と悪の二分法が正しくないこと、信念を貫かなければならないこと、人は孤独であるという世の中の現実を教えるが、これが母の教えであったことが最後にわかるというオチ。
 ファンタジー仕立ての人生訓で面白味はないが、怪物が語る絵本のアニメーションがファンタスティック。祖母が少年に厳しすぎるのも良くわからないが、マザコンだからか?
 女校長にチャールズ・チャップリンの長女ジェラルディン・チャップリン。 (評価:2)

お嬢さん

製作国:韓国
日本公開:2017年3月3日
監督:パク・チャヌク 脚本:パク・チャヌク、チョン・ソギョン 撮影:チョン・ジョンフン 美術:リュ・ソンヒ 音楽:チョ・ヨンウク

フェイク物としてはアイディアだけに終わっている
 原題"아가씨"で邦題の意。サラ・ウォーターズのミステリー『荊の城』が原作。
 舞台をヴィクトリア朝から日本統治下の朝鮮に移しているが、一山はあると思われる森の中の御屋敷、籠の鳥のお嬢様、さらには朝鮮孤児という設定が突飛な上に、登場する日本人の日本語が下手糞すぎて、映画の日本への輸出を考えていたのだとしたらあまりに杜撰。
 男女の詐欺師が伯爵と侍女に化けて屋敷に入り込み、伯爵はお嬢さんと結婚した後に財産を奪い、侍女はお嬢さんの世話係として伯爵の計画を手伝うというのがストーリーだが、冒頭に説明される人物設定が複雑な上に駆け足、さらにはいい加減で、字幕で読んでいると何を言っているのかさっぱりわからない。
 ストーリーが進み、計画は成功したかに見えたが、ラストに大どんでん返し、というのが第1部。
 同じストーリーを追いながら、騙していたのは伯爵と自由を望むお嬢さんで、実は侍女役は騙されていたというのが第2部。
 そうではなくて、騙していたのは侍女とお嬢さんで、騙されていたのは伯爵だったというのが第3部。
 フェイク物としては『スティング』(1973)、『フェイク』(1997)などの名作があって、同じ系統に属する作品だが、ストーリーもキャラクターも作品性も数段劣る。
 アイディアで勝負のところがあるものの、それでは不充分と思ったのか、ポルノシーンが不必要に挿入されていて、これも作品性を落としている。 (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:2018年1月16日
監督:ライアン・グレゴリー・フィリップス 製作:ライアン・グレゴリー・フィリップス、トニー・マンシラ 脚本:ライアン・グレゴリー・フィリップス 撮影:ルーカス・ガス 音楽:ドミニク・ファラカーロ

下着シーンとオナニーシーン以外はわけがわからない
 原題"Shortwave"で、短波の意。  短波研究者の娘が突然失踪し、鬱になった妻の静養のために森の一軒家に移り住むと、その家に異次元的な存在がいて、どうやらそれが短波受信でやってきた地球外生命体で、共同研究者が共鳴しやすいように娘を誘拐していた・・・というSFのようなホラーのような思い付き程度の設定と杜撰なストーリーのわけのわからない映画。  整合性のないアマチュアレベルのストーリーを説明しても意味がないが、話はこの妻イザベル(ファニータ・リンジェリン)を中心に進み、下着シーンやオナニーシーンもあって、グラビアアイドル的な撮り方もしているので、もしかしたら彼女をエロチックに見せるのが目的なのかもしれない。  冒頭、イザベルの娘が誘拐されるシーンから説明的でドラマ的な演出は皆無。無駄なボカシや意味のないカメラワーク、間の抜けたシーンが続き、素人っぽさ全開なのだが、シナリオも演出もグダグダとあっては、正気で企画されたとは思えない。  どことなく『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)風でもあったり、悪魔の代わりが宇宙人なのかと思ったりするが、ストーリーを始め何もかもどことなく曖昧なので、どことなく退屈する。 (評価:1)


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