海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1982年

製作国:イギリス、インド
日本公開:1983年4月16日
監督:リチャード・アッテンボロー 製作:リチャード・アッテンボロー 脚本:ジョン・ブライリー 撮影:ビリー・ウィリアムズ、ロニー・テイラー 音楽:ラヴィ・シャンカール、ジョージ・フェントン
キネマ旬報:3位
アカデミー作品賞

テロの時代に単なる伝記映画には終わらない
 原題も"Gandhi"。
 3時間余りに渡って、インド独立の父ガンジーの青年期から暗殺までの生涯を描く。決して飽きさせないジョン・ブライリーの脚本、監督リチャード・アッテンボローの演出は、ガンジーの唱える非暴力主義の本質と聖者の姿を説得力を持って伝える。
 物語は有色人種差別政策をとっていた植民地・南アフリカに大英帝国の弁護士としてガンジーが赴任するところから始まる。ガンジーはインド人労働者の指導者となって南ア連邦政府に対し非暴力・不服従の戦いを挑み続ける。インドに戻ったガンジーは民衆の精神的指導者となり、英国の虐殺事件を経て独立派・インド国民会議に加わり、イギリス衣料品の不買運動や塩製造など巧妙な政治的策略を用いて非暴力・不服従の抵抗運動を率いる。
 本作で描かれるのは、暴力による反撃からは憎しみしか得られず、我慢強い非暴力・不服従こそが最終的な勝利を招来するというガンジーの信念で、テロとテロ潰しの暴力が広がる現代において、改めて人類が進むべき道を示唆する。
 そうした現在も未来も普遍的なテーマを提示し続ける作品で、単なるガンジーの伝記映画には終わっていない。
 本作はアカデミー作品賞の他に監督・脚本・撮影・美術等を受賞。主演男優賞のベン・キングズレーは、青年時代から杖とインド綿の一枚布を巻いている老年のガンジーまでを好演。 (評価:4)

製作国:イギリス
日本公開:1987年7月25日
監督:ダイアン・ジャクソン 製作:ジョン・コーテス 音楽:ハワード・ブレイク

CGアニメーションでは表現し得ない幻想的な映像
 原題"The Snowman"で、雪だるまの意。レイモンド・ブリッグズの同名絵本が原作。
 レイモンド・ブリッグズが色鉛筆で描いた原作の絵のタッチを生かしてそのままアニメーションにしたもので、絵本の中の世界に誘われるファンタスティックな映像が素晴らしい。
 ある朝、少年が目覚めると窓の外は大雪で一面の銀世界。大喜びの少年は一日かけて大きな雪だるまを作る。その夜、少年が眠れずにいると12時の鐘と共に雪だるまが動き出し、庭に出た少年は雪だるまを家の中に招待し、クリスマスツリーの飾られた居間や台所、両親の寝室、子供部屋を見せて回る。すっかり仲良しになった二人は庭のバイクで夜の野原や林を散歩。家に戻った少年が引き留めようとすると、雪だるまは少年の手を引いて飛び立ち、"Walking In The Air"の歌に乗せて雪降る夜の空中散歩となる。
 ここからが秀逸なシーンで、空から田園や街並み、海、山々等を回り込みながら俯瞰し、岩山や氷河、氷山の間を380度回転しながら通り抜ける。このカメラワークによる従来のアニメーションでは成し得なかった映像表現を、膨大な作画作業によって可能にしている。
 現在のCGアニメーション技術はこのような映像表現を容易に可能にしているが、本作のハンドペインティングだからこその観る者の心に直接訴えかける幻想的な映像は、CGアニメーションでは表現し得ない。
 少年はオーロラを見ながら北極圏にある雪だるまの村を訪れ、楽しいパーティに招かれ大勢の雪だるまたちと踊りあかす。そしてサンタクロースからマフラーをプレゼントされる。夜明けが近づき、少年は雪だるまと共に空を飛び、雪の降りやんだ家に戻っていく。
 翌朝、目を覚ますと日が昇っていて雪だるまは解けてしまっていた。
 雪だるまとの一夜は夢だったのか…と思わせるが、少年が空中散歩で着ていたガウンのポケットにはサンタクロースに貰ったマフラーがあって、それが夢ではなかったことの証となる。
 "Walking In The Air"に"Nobody down below believes their eyes."(地上の誰も自分の目を信じない)という歌詞があって、ファンタジーには空想を信じる心が大切であることを訴える。ハンドペインティングによるアニメーションで想像力を広げる本作は、ファンタジーにリアルな表現を追求するCG全盛のアニメーションへのアンチテーゼともなっている。 (評価:4)

製作国:スウェーデン、フランス、西ドイツ
日本公開:1985年7月6日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:ヨルン・ドンナー 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:ダニエル・ベル
キネマ旬報:3位
アカデミー外国語映画賞

ベルイマンの宗教観が明確に示された集大成
 原題は"Fanny och Alexander"で邦題の意。ファニーとアレクサンデルは主人公の兄妹の名。アカデミー外国語映画賞受賞。
 劇映画としてはベルイマン最後の作品で、「映画を撮る愉しみを充分に味わい尽くした」という言も頷ける、5時間11分の大作。プロローグ、エピローグを含む5部構成。
 神の不在をテーマに映画を撮り続けたベルイマンの宗教観が明確に示された集大成の作品で、ベルイマンを理解するためには必見。
 1907年。主人公のアレクサンデルは、劇場を所有する俳優一家の長男で、亡霊などを霊視することができる。第1部はクリスマス恒例のキリスト降誕劇上演と一族が集まるパーティだが、宗教心の欠片もなく、家庭の不和や不倫に明け暮れている。美術など、映像的には赤のイメージ。
 第2部はハムレットの稽古中に父が死ぬ。葬儀は派手にやらないでくれという遺言にも拘らず、主教は盛大な葬儀を執り行う。カトリックの権威主義を仄見せる一方で、アレクサンデルは天国に召されない父の亡霊を見る。モチーフはハムレット。美術など、映像的には純白のイメージ。
 第3部では主教と母が再婚する。母子はこれまでの生活のすべてを捨てるように要求され、主教館に移り住む。美術・映像共に暗鬱な色彩にかわり、アレクサンデルと妹ファニーの抑圧された精神生活が始まる。
 第4部は離婚しようにも法的にできない母の窮状と、虐待されるアレクサンデルが描かれる。アレクサンデルは溺死した主教の前妻と娘たちの亡霊に怯える。主教は教育と称して体罰を加えるという、キリスト教の欺瞞が示される。
 第5部は祖母の愛人が主教を欺いてアレクサンデルとファニーを救出。そこで思念波を送ることのできる少年に出会う。主教の子を宿した母は、主教館に留まって不服従で主教に復讐する道を選ぶ。アレクサンデルは、主教の叔母がランプを倒すように思念波を送って主教館を火事にする。睡眠薬入りの母の飲み物を知らずに飲んだ主教は逃げ遅れて焼死。アレクサンデルの復讐は果たされる。
 母子は劇場に復帰するが、アレクサンデルは今度は主教の亡霊に付き纏われることになる。
 本作で明確になるのは、牧師の家に生まれたベルイマンがキリスト教を嫌悪していることで、人間に対する抑圧と欺瞞を主教に代弁させている。同時に、ベルイマンが亡霊や霊視・第六感といった北欧神話や民話に見られる、原始宗教的・魔術的な精神性を受け入れていることが明確に示され、アレクサンデルが主教の亡霊を見ることで、天国の否定とキリスト教の敗北を象徴させる。
 そこから明らかになるのは、ベルイマンが描いてきた神の不在は、キリスト教的神の不在ではなく、キリスト教の否定に他ならない。
 ゲルマン的俗世は人間の血の通う赤、キリスト教的非人間世界は死の白と映像的にも使い分けている。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1983年10月15日
監督:ジョージ・ロイ・ヒル 製作:ジョージ・ロイ・ヒル、ロバート・L・クロフォード 脚本:スティーヴ・テシック 撮影:ミロスラフ・オンドリチェク 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:デヴィッド・シャイア
キネマ旬報:2位

フェミニズムに翻弄される平凡な男ガープ
 原題"The World According to Garp"で、ガープによる世界の意。ジョン・アーヴィングの同名小説が原作。
 私生児として生まれ、幼少期はパイロットとセックスに、青年時代はレスリングに興味を持ち、長じて小説家となったガープ(ロビン・ウィリアムズ)が、結婚して二子を持ち、妻ヘレン(メアリー・ベス・ハート)の浮気によって家族を失い、フェミニストのリーダーとなった母の支持者に殺されるまでをコミカルに描く一代記。
 もっとも物語の真の主人公は母のジェニー(グレン・クローズ)で、夫は不要だが子供は欲しいという目的から死にかけの攻撃機の砲手と性交してガープを生み、セックスを単なる欲望として排除。ガープだけを生き甲斐とするが、一方のガープは結婚前、ヘレンの希望が小説家との結婚なので、小説家を目指すという信念のなさ。
 ガープが自分をモデルに小説を書いているのを知ったジェニーはネタを取り上げ、自らの手で自伝"A Sexual Suspect"(性の容疑者)を書いてベストセラーとなり、フェミニストのリーダーに祀り上げられる。結果、政治運動に利用されたジェニーは反フェミニストに暗殺されることになる。
 ガープは行き過ぎたフェミニズムを批判して同じく殺されてしまうが、テーマはフェミニズムにあって、それを社会の諸相として皮肉るでもなくコミカルに取り上げ、ジェニーの堂々とした生き方を清々しく描く。
 フェミニズムに対立する概念を勃起したペニスに象徴させていて、ジェニーによる砲手の勃起したペニスのレイプ、ヘレンによる浮気相手の勃起したペニスのフェラチオによる切断という形で、男の性的欲望への隷属を断ち切る。ガープ母子の友人ロバータ(ジョン・リスゴー)もペニスを切って男から女に性転換していて、フェミニズムに翻弄される平凡な男としてガープが描かれている。 (評価:3)

ブレードランナー

製作国:アメリカ
日本公開:1982年7月3日
監督:リドリー・スコット 製作:マイケル・ディーリー 脚本:ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ 撮影:ジョーダン・クローネンウェス 音楽:ヴァンゲリス

アジアンで猥雑な近未来的美術設定が見どころだが・・・
 原題"Blade Runner"で、劇中の脱走したアンドロイドを回収するスペシャル・ポリスのこと。アラン・E・ナースの小説『The Bladerunner』から借用されているが、作中ではblade(刃)はブラックマーケットで売られている違法医療器具、runnerは密売人。
 映画の原作はフィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Do androids dream of electric sheep?)。電気羊は原作に登場する羊型のロボットで、映画には登場しない。
 2019年、レプリカントと呼ばれるアンドロイドが過酷な宇宙の労働力から逃れて、地球に潜入する。それを発見して処分するのがブレードランナーの仕事で、リタイアしていた デッカード(ハリソン・フォード)が強制復帰させられ、逃亡レプリカントを追跡する。
 レプリカントが逃亡したのは、短命な彼らの命をタイレルに引き延ばしてもらうためだったが、すべてにおいて人間よりも優れたレプリカントの生命の燃焼時間が短いことを開発者から知らされる。リーダー、バッティとの最後の対決で、窮地に陥ったデッカードをバッティが助け、寿命が尽きる。
 ラストはデッカード製造のタイレル社の秘書で、処分を命じられたレプリカントのレイチェルと、デッカードが逃亡するシーンで終わる。
 舞台となる未来のロスはアジアンで、デッカードが日本人の親爺が経営する屋台でヌードルを注文するシーンがある。字幕ではうどんと訳されていて、海老天を2本にするか4本にするかで親爺と議論する場面がある。
 歌舞伎町をイメージしたといわれる街には、強力わかもとの屋外テレビのCMや、TDKの看板、日本語の文字が溢れ、未来は日本が席巻しているだろうという登り坂だった当時のイメージを反映している。
 そうした日本的なものが日本のカルトファンに受けて、本作が過大評価された面がある。
 確かにアジアンで猥雑な近未来的美術設定は当時としては斬新で、『グレムリン』(1984)などその後の近未来ものに影響を与えたが、空飛ぶ自動車などSF設定は月並み。
 テーマ的にもアシモフのロボットを超えたものはなく、電気羊の代わりに見るのがユニコーンの夢で、デッカードもレプリカントなのかという設定遊びでSFマニアを喜ばすも、マニア嗜好を超えたものを提示できていない。 (評価:3)

48時間

製作国:アメリカ
日本公開:1983年10月29日
監督:ウォルター・ヒル 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルバー 脚本:ロジャー・スポティスウッド、ウォルター・ヒル、ラリー・グロス、スティーヴン・E・デ・スーザ 撮影:リック・ウェイト 音楽:ジェームズ・ホーナー

エディ・マーフィーの魅力溢れるの刑事友情デビュー作
 原題は"48 Hrs."。エディ・マーフィのデビュー作。
 鉄道工事の懲役に服していた囚人ギャンズが、インディアンの仲間の手引きで脱走、仲間たちの金を横取りしようとする。これを追うサンフランシスコ市警の刑事ジャック(ニック・ノルティ)は、ギャンズの仲間で服役中のレジー(エディ・マーフィ)を48時間の期限付きで仮出所させ、協力を得ながら制限時間内に脱走犯を捕まえるという物語。
 白人刑事と黒人チンピラという凸凹コンビの間に、反目しながらも友情が生まれ、信頼し合っていくさまが共感を呼ぶ。本作のエディのコミカルで温かく親しみのあるキャラクターが人気となり、その後の『ビバリーヒルズ・コップ』へと繋がっていった。本作の見どころもエディのそんな魅力にある。
 奇をてらうことなく、正攻法の脚本・演出・撮影で見せていく刑事友情ドラマで、ガン・アクション、カー・アクション、追跡アクションと、エンタテイメントの基本を押さえる面白さは今も色褪せない。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1983年4月16日
監督:シドニー・ポラック 製作:シドニー・ポラック、ディック・リチャーズ 脚本:ラリー・ゲルバート、マレー・シスガル 撮影:オーウェン・ロイズマン 脚本:ラリー・ゲルバート、マレー・シスガル 撮影:オーウェン・ロイズマン
キネマ旬報:8位

出来すぎのコメディでテーマが伝わったかは心許ない
 原題"Tootsie"で、親しみを込めて女性に呼びかける俗語。
 演技派だが妥協を許さないために演出家から嫌われ仕事が来なくなってしまった俳優(ダスティン・ホフマン)が、苦肉の策で女友達(テリー・ガー)が落ちた人気テレビドラマのオーディションを女装して受け、採用となってしまったことから起きるドタバタ・コメディ。
 見どころは何と言ってもダスティン・ホフマンの女優ぶりで、本物の女に見えてしまう演技力が凄い。
 傷つけるからと女優のドロシーになったことを女友達にも明かせず、知るのは親友の脚本家(ビル・マーレイ)とエージェントのみ。共演の女優ジュリー(ジェシカ・ラング)と仲良くなり、訪れた実家のやもめパパ(チャールズ・ダーニング)にプロポーズされ、とネタには困らないためギャグも冴えていて、良質のコメディ作品になっている。
 シドニー・ポラックはこれをコメディだけには終わらせず、女となった俳優が遭遇するセクハラや女性差別を通して、女を経験したことで新しい男に生まれ変わることができたと言わせる。
I was a better man with you as a woman than I ever was as a man with a woman. I learned afew things about myself being Dorothy, Juiie. I just have to learn to do it without the dress. (男として女に接していたときよりも、女として君(ジュリー)に接したことでより良い男になれた。ドロシーになることで自分は向上したんだ。今度はドレスを着ないでそうしなければならない)
 要は女に身を置く想像力を持てということだが、コメディとしての出来が良すぎたために、テーマがどれほど伝わったかは心許ない。
 俳優のエージェント役は監督のシドニー・ポラック。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1982年12月4日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ 脚本:メリッサ・マシスン 撮影:アレン・ダヴィオー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:1位
ゴールデングローブ作品賞

E.T.は、はたして大人なのか子供なのか?
 原題は"E.T. The Extra-Terrestrial"で、Extra-Terrestrialは地球外生物、E.T.はその略。
 アメリカの子供たちとE.T.との交流をハートフルに描いた作品で、『宇宙戦争』以来の宇宙人=地球侵略者という宇宙人に対する固定概念を覆したことで評価された。
 キネ旬1位に選出されたが、同年の外国映画ベストテンを見るとほかに大した作品もなく、ベトナム戦争後遺症のアメリカ人の心を癒したのかもしれない。
 地球に立ち寄った宇宙船が地球人に見つかって立ち去るが、一人だけ乗り遅れてしまう。それが本作のE.T.で、マーブルチョコに誘われて男の子の部屋に住みつく。兄妹とだけの秘密となり、主人公の男の子と精神的にも肉体的にもシンクロするようになる。宇宙船にSOSを送りながらも、やがてE.T.は病気になって死んでしまう。ところが棺桶の中で突然生き返り、子供たちは大人たちの目を盗んで着陸した宇宙船に送り届け、最後に厚い友情の涙を交わすといった物語。
 この子供と異生物、子供たちの秘密、友情と別れというストーリー構造は、1986年の『霊幻道士2 キョンシーの息子たち!』にも使われた。
 本作のハートフルな感動に一役買うのが、10歳の時からE.T.を待っていたという科学者で、大人=無理解な現実主義者ではなく、大人にも子供と同じ心を持っている人がいたということ。最後にE.T.を宇宙船に送り届ける友達も含めて、本作には悪人は登場せず、誰もが善意の人たち。
 ところが、ここがストーリーに矛盾するところで、生き返ったことを大人たちに伝えて宇宙船に送り届ければいいものを、それをせずに死体を盗んだと思い込んだ大人たちとチェイスをする。作劇上、追いかけっこのシーンが欲しかったのだろうが、そこが所詮はファンタジーとなっている。
 また男の子の父親は別居で家にいないが、この設定は映画の内容にはまったく生かされてなく、なんでわざわざ入れたのかも謎。
 また見た目ではE.T.はマーブルチョコに釣られたり、冷蔵庫を開けて飲んだりTVを見たりして子供のようだが、通信装置を作り出したり、超能力を発揮して成人にも見える。敢えてそこを曖昧にして、外見も可愛らしいゆるキャラ風に見せているが、それもファンタジーの秘訣か。
 その後、ドリームワークスのトレードマークとなった満月の空を飛ぶ自転車のシルエットのシーンや、E.T.が光る指先で男の子に触れるシーンなど名場面も多く、男の子の家の出入り口がビニールのトンネルで隔離され、科学者たちが防護服で身を包むシーンは、その後、パンデミックのシーンで必ず使われるようになった。 (評価:2.5)

エル・スール

製作国:スペイン、フランス
日本公開:1985年10月12日
監督:ヴィクトル・エリセ 製作:エリアス・ケレヘタ 脚本:ヴィクトル・エリセ 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:ヴィクトル・エリセ

悩み多きお父さんを娘の目を通して描いた映像詩
 原題"El sur"は南のことで、劇中主人公の少女の父親の故郷がスペイン南部にあるという説明が出てくる。アデライダ・ガルシア・モラレスの同名小説が原作。
 少女の目を通して謎めいた父親が語られる。若干オカルチックな予言者であるとか、イレーネ・リオスという女優との秘めた過去があるとか、祖父と喧嘩して故郷を出て二度と帰っていないとか、ときどき家出をするとかだが、いずれも真相が語られることがなく、謎は謎のまま終わる。そして成長した少女が秘密に触れ、真相を語ろうとした父を拒絶した途端、自殺してしまう。
 病に臥せった少女が快癒して、答えを求めてエル・スールにある父の故郷に旅立つところで物語は終わるが、スペイン内戦時に南の楽園に住む祖父がフランコ側、北の厳しい自然に暮らす父が人民戦線側ということ以外は、すべては観客の想像に任されるという謎めいた映画で、不親切といえなくもない。
 おそらくは内戦をモチーフにさまざまな意味が込められていると考えるのが妥当で、地理的にも時間的にも遥か遠い外国に住む日本人には難解な映画にしか映らない。
 それでも、陰鬱だが美しい風景、まっすぐ伸びる田舎の一本道や、左右対称の構図など映像的には詩的な描写のオンパレードで、難しいことは考えずに、いろいろ悩み多きお父さんを娘の目を通して描いた映像詩として楽しんでも十分に見応えはあるが、それもシネフィル的な見方かもしれない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1983年10月15日
監督:アラン・J・パクラ 製作:アラン・J・パクラ、キース・バリッシュ 脚本:アラン・J・パクラ 撮影:ネストール・アルメンドロス 音楽:マーヴィン・ハムリッシュ
キネマ旬報:1位

道徳心・良心の破壊の問題に至らないのが物足りない
 原題"Sophie's Choice"で、邦題の意。ウィリアム・スタイロンの同名小説が原作。
 終戦間もない1947年、恋人と同棲するソフィー(メリル・ストリープ)のアパートに住むことになった青年スティンゴ(ピーター・マクニコル)が、家族全員を失いながらもアウシュビッツを生き延びたソフィーの秘密を知っていくという物語。
 小説家の卵であるスティンゴは、暗い過去を持つソフィーと精神障害の恋人ネイサン(ケヴィン・クライン)の謎めいた二人に振り回されながらも、興味を持つうちに二人と親しくなり、やがてソフィーに恋するようになる。関係の深まりとともにソフィーの心の闇の深奥にある「ソフィーの選択」を知るというもので、小説家の卵にとっては若干都合の良い筋立てにはなっているが、「ソフィーの選択」が悪魔の選択と言えるほどに衝撃的で、これが本作最大の見どころとなる。
 もっとも、そこに至るまでの物語は陰鬱で、繰り返して見たくなるようなものではない。
 ソフィーはカトリックのポーランド人で、非ユダヤ人というのもホロコーストの設定としては変則的なのだが、ソフィーの父が反ユダヤ主義であること、ナチスが反カソリックであることについて説明が足りなく、ソフィーの人物像をわかりにくくしている。
 もう一点は、収容所長と親しくなったソフィーが、二人の子供を助けてくれるように懇願すると、所長はどちらか一人だけを選ぶように迫り、これが「ソフィーの選択」となる。一見、個人の倫理的なジレンマのように受け取れるが、本質的には全体主義がこのようにして個人の道徳心を破壊、良心を放棄させることにあり、本作がその問題に至らずに個人の問題に矮小化しているのが物足りない。
 悪魔の選択を行ったが故にソフィーは人間としての尊厳を破壊され、スティンゴの求婚にも拘らず、結婚も子供を持つこともできない。ソフィーを通してホロコーストに深入りしたユダヤ人のネイサンもまた精神を崩壊させ、二人は精神の結合を持って死に至るというラストとなっている。
 ソフィーの心の闇を巧みに演じたメリル・ストリープは、アカデミー主演女優賞とゴールデングローブ主演女優賞をダブル受賞。名実ともに演技派女優の第一人者となった。 (評価:2.5)

ミッシング

製作国:アメリカ
日本公開:1982年10月30日
監督:コンスタンタン・コスタ=ガヴラス 製作:エドワード・ルイス、ミルドレッド・ルイス 脚本:コンスタンタン・コスタ=ガヴラス、ドナルド・スチュワート 撮影:リカルド・アロノヴィッチ 音楽:ヴァンゲリス
カンヌ映画祭パルム・ドール

事実の告発よりも告訴が棄却された過程が観たい
 原題"Missing"で、行方不明者の意。トマス・ハウザーのノンフィクション"The Execution of Charles Horman: An American Sacrifice"(チャールズ・ホーマンの処刑:アメリカの犠牲)が原作。
 1973年のチリ・クーデターで行方不明になったアメリカ人青年チャールズ(ジョン・シェア)を父親エド(ジャック・レモン)がチャールズの妻ベス(シシー・スペイセク)と共に探す実話ベースの作品。
 アメリカからやってきたエドは当初アメリカ大使に捜索を依頼するが、息子の失踪の背景にチリ軍部と手を組んでクーデターを起こした大使館が絡んでいることに気づき、独自調査をするというもの。チャールズはクーデターの2日後に処刑されていて、大使館がそれをひた隠しにしていたことがわかり、帰国後、関係者を訴えるが、国家機密を理由に棄却されてしまったという字幕で終わる。
 当時、南米で次々に起こった反左翼軍事クーデターにアメリカ政府が絡んでいたという事例の一つで、公開当時としては告発映画としてそれなりの意味があったが、半世紀近くを経れば、アメリカ政府が内政干渉してクーデターを支援したという事実よりも、チャールズの処刑を知りながら隠蔽した大使館関係者、およびクーデターに関わった政府関係者へのエドの告訴が棄却された過程の方が、民主主義を考える上では意味があり、それが字幕で簡単に済ませられてしまったことの方が残念。
 告発映画の持つある種の思い違いが現れているが、公開当時としては告発そのものに意味があってパルム・ドールを受賞した。
 ジャック・レモンの円熟の演技が楽しめる。膨大な死体の描写はジェノサイドを思わせる。 (評価:2.5)

ランボー

製作国:アメリカ
日本公開:1982年12月18日
監督:テッド・コッチェフ 製作:バズ・フェイトシャンズ、シルヴェスター・スタローン 脚本:シルヴェスター・スタローン、マイケル・コゾル、ウィリアム・サックハイム 撮影:アンドリュー・ラズロ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

ベトナム帰還兵の不遇を長々と訴えるのは興ざめ
 原題"First Blood"で、最初の出血、先制の意。劇中では、保安官の先制攻撃に対し、グリーンベレー出身のランボーが応戦する。ディヴィッド・マレルの同名小説(邦題は『一人だけの軍隊』)が原作。
 枯葉剤の後遺症で戦友の最後の一人が死んだことを知ったランボー(シルヴェスター・スタローン)が田舎町にやってきたところ、保安官(ブライアン・デネヒー)が浮浪罪で逮捕。不当な仕打ちに怒ったランボーが山中に逃げ、警官隊・州兵との戦争となる。ゲリラ戦に長けたランボーが警官隊を翻弄、最後は町に潜り込んでの保安官との対決となる。
 町では俺が法律だと嘯く保安官に対し、森では俺が法律だとランボーが応じ、ベトナム戦争をめぐるアメリカ本土とベトナム帰還兵の心の溝を象徴させる。保安官の仕打ちに耐えに耐えて最後は爆発するという、観客の鬱憤を晴らす定番のドラマツルギーに則るが、ベトナムで培ったランボーの超人的な活躍が見どころ。
 最後はグリーンベレーの上官(リチャード・クレンナ)の説得に応じて投降するが、この際にランボーが涙を流してベトナム帰還兵の不遇を長々と訴えるのは、それまでの鉄人のような無敵ヒーローぶりと違和感が大きく、若干興ざめする。
 保安官が、悪vs正義のいかにもな悪者に造形され、グリーンベレー上官もそれ見たことかという役回りで、アメコミ風ヒーローものに作り上げられているため、そこにベトナム帰還兵問題が入ってくると、底の浅い社会派風ドラマのベトナム帰還兵の単なる造反劇にしかならない後味の悪さを残す。 (評価:2.5)

製作国:西ドイツ、ペルー
日本公開:1983年7月15日
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 製作:ヴェルナー・ヘルツォーク、ルッキ・シュティペティック 脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク 撮影:トーマス・マウホ 美術:ヘニング・フォン・ギールケ、ウルリッヒ・バーグフェルダー 音楽:ポポル・ヴー
キネマ旬報:5位

見所はアマゾン上流でロケを敢行したW・ヘルツォークの狂気
 原題"Fitzcarraldo"で、主人公の名。アイルランド人でFitzgeraldが正しいと劇中で出てくる。
 19世紀の南米が舞台で、主人公は未開の地で一山当てようとやってきた一人。物語は、アマゾン川中流のマナウスのオペラハウスに、ゴム成金たちが集まるシーンから始まる。アマゾン川の水が汚いから、リスボンに洗濯物を送るという台詞も登場して、彼らの金銭感覚がマヒしていることを説明する中で、主人公は奇人として登場する。
 フィツカラルドはアンデスに鉄道を通そうとして失敗し、上流のイクイトスで氷製造業で身を立てているが、イクイトスにオペラハウスを建てるという夢を持っている。ゴム成金たちとは違うのは、アマゾンに文明の火を灯すという理想で、そのために首狩り族のいる奥地でゴム園を開発しようとする。
 ここまでがプロローグで、中古船を買って船員たちを雇い、上流へ遡り、拡声器でオペラを流して原住民を懐柔する。最後は彼らの力を借りて支流間で船に山を登らせるが、急流とともに流されてしまい計画は失敗。船を売った金で水上オペラを催すという物語。
 話は壮大なのだが、ホラ話を聞くのに2時間40分は相当退屈な上、フィツカラルドの狂気に共鳴できるようなストーリーにも演出にもなってなく、見どころはむしろアマゾン上流でこのようなロケを敢行したヴェルナー・ヘルツォークの狂気にある。
 最後は眠い目を擦りながら、で、何が描きたかったの? と自分の凡庸さに納得する。
 フィツカラルドにナスターシャ・キンスキーのお父っつあんで狂気の人クラウス・キンスキー。恋人役にクラウディア・カルディナーレ。 (評価:2.5)

ロッキー3

製作国:アメリカ
日本公開:1982年7月3日
監督:シルヴェスター・スタローン 製作:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 脚本:シルヴェスター・スタローン 撮影:ビル・バトラー 音楽: ビル・コンティ

スタローン自身の映画へのハングリー精神の喪失
 原題"Rocky III"。シリーズ3作目。
 前作の続きで、世界ヘビー級チャンピオンとなったロッキーは、その後のタイトル戦で10連勝する破竹の勢い。しかし、トレーナーのミッキーが勝てる相手とばかり試合を組んだおかげで、奢り高ぶるロッキーはすっかりハングリー精神を失ったというのが第3作の設定。
 これにハングリー精神を持ったクラバーが挑戦。仕方なく組んだタイトル戦でロッキーは2回KO負け。ミッキーも死んで、これでは男が廃るとばかりに引退していたアポロがトレーナーになって再試合し、見事タイトルを奪取するという出来すぎた話。
 宿敵アポロとロッキーの友情が本作の見どころとなるが、非常に残念なのは、スタローンが演出を音楽に頼り過ぎていて、映画としては安直になってしまったこと。
 ミュージックビデオのように時間経過を音楽に乗せてダイジェストするという、演出の必要のない長いシーンが2か所ほど延々と続き、スタローン自身の映画へのハングリー精神の喪失ぶりを窺わせる。
 ボクシングシーンもガードとノーガード、ラッシュが極端すぎる演出になっていて、メリハリがあって分かりやすいといえば分かりやすいが、一方でリアリティのなさに半ば鼻白んでしまう。
 アポロのお願いというのが、ロッキーとの再試合というのも、何だかふやけたラスト。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1983年3月19日
監督:シドニー・ルメット 製作:デイヴィッド・ブラウン、リチャード・D・ザナック 脚本:デヴィッド・マメット 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 音楽:ジョニー・マンデル
キネマ旬報:7位

正義を信じることのできた良き時代の映画
 原題は"The Verdict"で邦題の意。バリー・リードの同名小説が原作。監督は同じく法廷ものの『12人の怒れる男』(1957)のシドニー・ルメット。
 劇場公開から30年経って見直してみると、ドラマ性に重きが置かれすぎていて、法廷ものとしてのリアリズムに若干欠ける点がある。裁判長の訴訟指揮の酷さはともかく、証拠採用されないたったひとつの証言だけで評決が決定してしまうことに、見終わってすっきりしないものが残る。
 とはいっても、ヒューマンドラマとして見る分には決して退屈しないし、とりわけポール・ニューマンのくたびれた弁護士の演技だけでも見る価値はある。『愛の嵐』のシャーロット・ランプリングもいい女を演じている。
 人々が正義を信じることのできた良き時代の映画だが、酔いどれ弁護士というのはやや類型か。 (評価:2.5)

愛と青春の旅だち

製作国:アメリカ
日本公開:1982年12月18日
監督:テイラー・ハックフォード 製作:マーティン・エルファンド 脚本:ダグラス・デイ・スチュワート 撮影:ドナルド・ソーリン 音楽:ジャック・ニッチェ

fuckin'な男と女たちのfuckin'な映画
 原題は"An Officer and a Gentleman"で、「士官と紳士」の意。
 士官学校が舞台で、3か月で卒業していく海軍パイロットをものにしようとする基地の町の女工たちと、彼女たちを一時の遊び相手とするOfficerたちの物語。彼らが女工に対してGentlemanかどうかということがテーマであり、タイトルの意味か?
 邦題の付け方もよくて公開時に話題になった映画。基本的にはラブストーリーで、鬼軍曹の教練と士官候補生たちの成長が味付けされる。そこそこ面白かった記憶があって、観直すとやはりそこそこ良くできている。しかし、この映画を一言でいえば、fuckin'な男たちとfuckin'な女たちのラブストーリーで、彼らを結び付けるのはセックスしかなく、猛訓練を受ける士官候補生たちの間の友情の芽生えはあっても、fuckin'な連中に愛の成長はない。
 最後はGentlemanとなったOfficerと女工とのハッピーエンドで終わるが、結局のところ女は条件のいい男さえ捉まえれば幸せというシンデレラストーリーでしかなく、女性誌で3高がもてはやされた時代かと思うと懐かしくもある。3高は高学歴・高収入・背が高いことで、死語。
 そうした点からは、fuckin'な映画で、この映画が好きだという女は信用しない方がいい。
 アカデミー歌曲賞の主題歌がヒットした。助演男優賞の鬼軍曹役ルイス・ゴセット・ジュニアがなかなかいい。リチャード・ギアが若い。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1986年2月8日
監督:ジョージ・A・ロメロ 製作:リチャード・P・ルビンスタイン 脚本:スティーヴン・キング 撮影:マイケル・ゴーニック 音楽:ジョン・ハリソン

漫画の絵と実写の絵とが被りながら行き来する構成が秀逸
 原題"Creepshow"で、劇中に登場するコミック誌のタイトル。ぞっとする話の意。
 少年がホラーコミック誌「クリープショー」を父親に取り上げられ、ごみ箱に捨てられてしまうというプロローグで始まり、「クリープショー」のページが風に煽られてめくれながら、掲載されている5つのエピソードが語られるという枠物語の形式を採る。エピローグは少年がブードゥー人形に釘を刺して父親に復讐するという枠に戻る。
 この間、「クリープショー」の漫画の絵と実写の絵とが被りながら行き来する構成が良く出来ていて、幽冥の境、虚実を曖昧にする効果が上手い。エピローグでは、釘を刺す少年の姿がイラストに代わり、それが次号「クリープショー」の表紙を飾って、観客自身を「クリープショー」の世界に引き込んでいる。
 こうした秀逸な構成に比べると、枠に収められた5つのエピソードは若干出来が不揃い。ブラックコメディの作品もあって、どちらかというと大人のホラーファン向け。
 #1"Father's Day"は暴君で娘に殺された父親が、父の日のケーキを求めて墓から甦るゾンビ物。
 #2"The Lonesome Death of Jordy Verrill"は庭に落ちた隕石に触って植物系人間になってしまう薄のろ農夫の話。スティーヴン・キングの短編"Weeds"が原作。
 #3"Something to Tide You Over"は不倫妻と恋人を干潮時に首だけ出して砂浜に埋めた男が、幽霊に復讐される。
 #4"The Crate"は大学倉庫で見つけた箱の中の怪物を退治する話で、キングの短編"The Crate"が原作。
 #5"They're Creeping Up on You"はクリーンルームに閉じこもる潔癖症の男が湧いてくるゴキブリに食い尽くされる話。
 第5話はゴキブリ嫌いにはトラウマになるので要注意で、実際公開時に見てトラウマになった。 (評価:2.5)

ベロニカ・フォスのあこがれ

製作国:西ドイツ
日本公開:1983年7月16日
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 脚本:ペーター・メルテシャイマー、ペア・フレーリッヒ、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 撮影:クサーヴァー・シュヴァルツェンベルガー 音楽:ペール・ラーベン
ベルリン映画祭金熊賞

サスペンスタッチの『サンセット大通り』ドイツ版
 原題"Die Sehnsucht der Veronika Voss"で、邦題の意。
 ナチスの宣伝相ゲッベルスと密接な関係を持った、ドイツの映画女優ジュビレ・シュミッツをモデルにした物語。
 舞台は1955年のミュンヘンということから映像自体も当時の映画のテイストで作られていて、艶っぽいモノクロ映像とシーンの切り替えにアイリスが多用される。
 ナチスに協力したことから戦後の映画界で役が回ってこないベロニカ・フォス(ローゼル・ツュヒ)は、精神を病んでしまっている。雨の夜にずぶ濡れの彼女を見つけたのがスポーツ紙記者のロベルト(ヒルマール・ターテ)で、ベロニカは自尊心を満足させてくれる相手として、ロベルトは同情心から二人の交際が始まる。
 彼女の自宅を突き止めたロベルトは、アパートの家主の老夫婦とベロニカの主治医カッツ博士(アンネマリー・デューリンガー)と知り合う。
 ここからは次第にサスペンスタッチになり、ベロニカはカッツに軟禁されてモルヒネ依存症。家主の老夫婦も同様で、薬代のためにカッツに家ごと絞り取られて睡眠薬自殺。ベロニカも同じ運命になると気づいたロベルトが妻のヘンリエッタ(コーネリア・フロベス)を使ってカッツの悪事の証拠を手に入れるが、気づかれてヘンリエッタが殺され、証拠隠滅されてしまう。
 身包み剥がされたベロニカはカッツに女優を引退させられ、失意を装って睡眠薬自殺させられる。ことはカッツの思い通りに進み、ロベルトはスポーツ紙の仕事に戻るという寂しい結末。
 『サンセット大通り』(1950)を連想させる作品で、悲劇的な結末を踏襲している。 (評価:2.5)

地中海殺人事件

製作国:イギリス
日本公開:1982年12月4日
監督:ガイ・ハミルトン 製作:ジョン・ブラボーン、リチャード・グッドウィン 脚本:アンソニー・シェイファー 撮影:クリス・チャリス 音楽:コール・ポーター

美女たちの水着姿やマジョルカ島の海を暑さボケしながら楽しめる
 原題"Evil Under the Sun"で、太陽の下の悪の意。アガサ・クリスティーの同名小説が原作。
 原作ではイギリス・コーンウォールの島が舞台だが、本作では地中海のリゾートの島に変更。灰色の脳細胞のエルキュール・ポアロ(ピーター・ユスティノフ)が海辺で起きる殺人事件を解決する。
 原作との変更点はいくつかあって、ポアロが保険会社の調査依頼でやってくるためにプロローグとラストに別の殺人事件のエピソードが織り込まれ、事件解決の決定打を映画用に用意している。
 殺人事件の骨格は大筋では原作と変わらないが、変更がミステリーとして功を奏したかは若干疑問で、犯行が計画的であるにもかかわらず偶然に左右される印象を受ける。
 前半では元女優のダフネ(マギー・スミス)が経営するリゾートホテルに、人気女優アリーナ(ダイアナ・リグ)が到着。前後してダフネを含む宿泊客がそれぞれにアリーナに遺恨を持つことが紹介され、殺されるのは誰かというのがわかってしまう。
 予想通りに殺人事件が起き、アリーナの夫(デニス・クイリー)と娘(エミリー・ホーン)、アリーナの浮気相手(ニコラス・クレイ)とその妻(ジェーン・バーキン)、演劇プロデューサー夫婦(ジェームズ・メイソン、シルヴィア・マイルズ)、作家(ロディ・マクドウォール)のアリバイ探しとなる。
 アリーナがいつ殺されたかもすぐに予想でき、犯人当てには親切な演出がされていて、美女たちの水着姿やロケ地のマジョルカ島の海を暑さボケしながら楽しめる娯楽作となっている。 (評価:2.5)

コナン・ザ・グレート

製作国:アメリカ
日本公開:1982年7月17日
監督:ジョン・ミリアス 製作:バズ・フェイトシャンズ、ラファエラ・デ・ラウレンティス 脚本:オリヴァー・ストーン、ジョン・ミリアス 撮影:デューク・キャラハン 音楽:ベイジル・ポールドゥリス

見どころは女よりもでかいシュワちゃんの巨乳
 原題"Conan the Barbarian"で、蛮人コナンの意。ロバート・E・ハワードの同名小説が原作。
 架空の世界が舞台。幼い頃に、侵略者の襲撃に遭い、両親を殺されたコナンが成長して復讐を果たすまでが描かれる。
 奴隷となったコナンが引き臼?を回す苦役でマッチョな体となり、格闘士となった後、解放されて遺跡で剣を手に入れ、盗賊の仲間を得て、偶然に仇敵を発見。そいつが邪教集団の教祖とわかり、捕まっている王女救出の依頼を受け、神殿に向かうも捕縛。仲間に助けられて再挑戦し、王女を救出し、最後は教祖と一騎打ちとなって勝利。邪教を滅ぼし、王女と仲良く神殿を去るまで。
 設定は中世風ファンタジーなので剣と魔法、邪教の神が大蛇というのが見どころ。
 しかし、何と言っても最大の見どころはコナンを演じるアーノルド・シュワルツェネッガーのマッチョな体で、腕の太さが顔くらいあってヤバい。女の全裸・半裸も出てくるが、シュワちゃんの筋肉で盛り上がった胸の方が余程でかい。
 本作がシュワちゃんの出世作となり、2年後の『ターミネーター』へと繋がるが、筋肉だけで大根なのは愛敬。盗賊3人組も、男2人女1人の『タイムボカン』『ハリー・ポッター』パターン。
 基本はB級ヒロイックファンタジーなので、シュワちゃんの筋肉に興味がある人向き。日系俳優のマコ岩松が魔法使い役で出演している。 (評価:2)

ワン・フロム・ザ・ハート

製作国:アメリカ
日本公開:1982年8月14日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フレッド・ルース 脚本:アーミアン・バーンスタイン、フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ロナルド・V・ガーシア、ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:トム・ウェイツ

サーカス女に扮するナスターシャ・キンスキーが見どころ
 原題"One from the Heart"で、心からの贈り物の意。
 ラスベガスを舞台に、5年間同棲していたカップルが喧嘩別れし、それぞれに新しい相手を見つけるが、結局元カレ元カノを忘れられず、最後に元の鞘に収まるという、これ以上ない平凡なドラマ。
 彼女に愛の歌を聞かせてあげることのできなかった彼が、最後に下手な”You are my sunshine”を歌ってあげるのが決め手となるが、全編にミュージカル風に愛の歌が流れる構成になっていて、タイトルの"One"は愛の歌でもある。
 ラストの字幕にもあるように、全シーンがゾーイトロープ・ロス・スタジオで撮影されていて、ラスベカスの街並みなど力の入った作品になっているが、ストーリーのつまらなさだけはどうしようもなく、冒頭ハンク(フレデリック・フォレスト)とフラニー(テリー・ガー)が口を極めて罵るシーンは、罵詈雑言が限度を超えているために、仲直りしてセックスまでしてしまうのがあまりに不自然。
 新たに見つける相手(ナスターシャ・キンスキー、ラウル・ジュリア)の方がはるかにまともで、予定調和のラストシーンは最初から容易に予想がついてしまうが、素直に喜んであげられない恨みが残る。
 サーカス女に扮するナスターシャ・キンスキーが無茶苦茶魅力的で、綱渡りや玉乗りまで披露するが、おそらく合成。主役二人に華がないために、群舞シーンでも目立たず、制作費をかけた割には大作になり切れていない。 (評価:2)

スター・トレックII カーンの逆襲

製作国:アメリカ
日本公開:1983年2月19日
監督:ニコラス・メイヤー 製作:ハーヴ・ベネット、ジャック・B・ソワーズ、サミュエル・A・ピープルズ 脚本:ジャック・B・ソワーズ、ニコラス・メイヤー 撮影:ゲイン・レシャー 音楽:ジェームズ・ホーナー

二世代同居の宇宙船で老眼鏡をかけるカークが侘しい
 TVシリーズ『宇宙大作戦』(Star Trek)と同キャストで製作された劇場版第2作。原題は"Star Trek II: The Wrath of Khan"で、邦題の意味。TVシリーズ#24"Space Seed"(宇宙の帝王)の続編。
 かつてカークにアルファ5に置き去りにされたカーンの復讐話。回想シーンもなく、TVシリーズを観ていないと二人の関係が今ひとつ理解できないという配慮に欠けたところがある。
 カーンはアルファ5とは知らずにやってきた調査団を捕獲して洗脳。宇宙船を奪い、ジェネシスという死の星を緑の星に変えるプロジェクトを手に入れようとする。ジェネシスの責任者が別居しているカークの妻で、息子も参加。
 一方、提督となっているカークはいろいろ理由をつけて新米船長が操舵する二世代同居のエンタープライズ号に乗り込み、カーンと再び対決となる。
 ジェネシスで新生する緑の星のCGや、SFXもそれなりに頑張っているが、テンポが悪く、TV同様の板付きのシーンばかりでアクション映画の演出になっていない。歳とった俳優にはアクションができないということでもあるが。
 TVシリーズをベースに話を膨らませても、所詮は贅肉が増えるだけ。SF設定も古びてしまって、TV公開時の先進性と斬新さがなく、同窓会映画の域を出られていない。
 老眼鏡をかけるカークが侘しい。 (評価:2)

ファイヤーフォックス

製作国:アメリカ
日本公開:1982年7月17日
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド 脚本:アレックス・ラスカー、ウェンデル・ウェルマン 撮影:ブルース・サーティース 特撮:ジョン・ダイクストラ 音楽:モーリス・ジャール
スパイ映画としても空戦映画としても素人の付け焼刃
 原題"Firefox"で、劇中でソ連が開発した未来型戦闘機ミグ31の愛称。パイロットの思考を読み取って攻撃するAIを備えているというSF戦闘機。クレイグ・トーマスの同名小説が原作。
 ベトナム戦争で捕虜となりトラウマを持つ空軍パイロットのガント少佐(クリント・イーストウッド)が、ソ連が開発したミグ31ファイヤーフォックスを盗みにソ連国内の基地に送り込まれ奪取に成功するという、国辱的な窃盗事件を描くが、なんとペンタゴンもアメリカ軍も協力している。
 物語はガント少佐がソ連に送り込まれファイヤーフォックスを奪取するまでのスパイ映画の前半と、追撃するソ連軍、ファイヤーフォックス2号機との空中戦を描く空戦映画の後半に分かれるが、前半はスパイ組織に助けられるだけの受け身な役で、ヒーロー性はまったくない。
 ガント少佐はロシア語に堪能で操縦技術に長けているというヒーロー設定で、後半の空戦が見せ場となるが、ファイヤーフォックスのステルス性能でソ連軍の追撃を躱し、2号機との空中戦もAI頼みというアクションものとしては中途半端な設定では、マカロニのガンマンも見せ場がなく、退屈なだけ。
 AIもロシア語の思考しか通じないというのも情けなく、その上、ガント少佐が英語で独り言をいうので、とても聡明な戦闘機乗りに見えない。もっと酷いのは、ロシア人の下っ端はロシア語を喋るが、エリートは全員英語を喋るというもので、せめてフランス語にしてくれないかと冗談を言いたくなる。
 映画作りの粗さはマカロニそのままで、スパイ映画としても戦闘機映画としても素人の付け焼刃で、これでは本格的なファンはついてこない。駄作に近い凡作。 (評価:2)

シャドー

製作国:イタリア
日本公開:1983年6月11日
監督:ダリオ・アルジェント 製作:クラウディオ・アルジェント 脚本:ダリオ・アルジェント、ジョージ・ケンプ 撮影:ルチアーノ・トヴォリ 音楽:クラウディオ・シモネッティ、ファビオ・ピナテッリ

セックスシーンばかり見せるポルノ映画と大差ない
 原題"Tenebrae"(ラテン語)で暗闇の意。劇中に登場する主人公の書いたミステリー小説の書名。イタリア語はTenebre、英題はShadow。
 "Tenebrae"を書いたアメリカ人作家がローマを訪れると、小説と同じ手口の殺人事件が連続して起きる。
 最初に殺されるのは書店で"Tenebrae"を万引きした若い女性、次に、レズビアンの文芸記者とそのパートナー。ここでラテン語で書かれた脅迫状が届き、性の乱れに憤慨するインテリの犯人像が浮かび上がる。
 続いて、作家が滞在するアパートの管理人の娘、書評家、出版エージェント、アシスタントの青年、作家の婚約者、女性刑事と、登場人物が次々と消えていき、残るのは作家本人と、作家の秘書、担当刑事。さらに3人の中で1人だけが生き残るという結末を迎える。ラストはそれなりにどんでん返し。
 果たして犯人は誰だったのかというのが本来のミステリーだが、もちろん種明かしはされるものの、基本は次々と惨殺される刃物とスプラッターシーンを見せるのが本作の目的のため、ミステリーにはそれほど重きが置かれてなく、説明もかなりおざなりで、正直、刺激的なスプラッターシーンを繋いだだけにしか見えず、整合されたミステリーやストーリーを期待するとかなり不満が残る、というよりも腹が立つ上に眠くなる。
 そうした点では、ストーリーは適当でセックスシーンばかり見せるポルノ映画と大差なく、これを斬新と取るか、独りよがりと取るかで、評価は違ってくる。
 担当刑事役にジュリアーノ・ジェンマ。 (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1982年7月17日
監督:トビー・フーパー 製作:スティーヴン・スピルバーグ、フランク・マーシャル 脚本:スティーヴン・スピルバーグ、マイケル・グレイス、マーク・ヴィクター 撮影:マシュー・F・レオネッティ 特撮:リチャード・エドランド、ILM 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

テーマパークのアトラクションを見るつもりがいい
 原題"Poltergeist"。ポルターガイストとは名ばかりで、「墓場幽霊の呪い」とでも題した方がいいような作品。
 墓地だったところを造成して新興住宅地にしたために、昇天出来なかった幽霊たちが暴れ出すというもので、そこに住む住建会社のエリートサラリーマン一家を襲うという物語。次女に霊媒的能力があったのか、嵐の夜に幽霊たちの世界に連れ去られ、パパとママが超常現象の専門家を雇って連れ戻す。
 冒頭、幽霊複合体はテレビの砂画面から家にやってくるが、なぜこの日まで現れなかったのかというきっかけの説明がない。娘が連れ去られるのは押入で、今度はここが異界との接点に変わるが、家は多重空間になっているらしく、最後には地中から骸骨が飛び出すわ人形のピエロが実体化するわで、演出のためなら何でもあり。
 幽界の設定が呑み込めない上にホラーとしての怖さも皆無。おまけに新興住宅地全体が墓地のはずなのに何故この一家だけが異界に呑み込まれるのかというのも謎。一家は娘を取り戻すために孤軍奮闘、警察にもマスコミにも知らせないのも理由になっていない。
 要はSFXのデパートメントを見せるために作られた作品で、設定やストーリーの整合性は完全に無視されている。シナリオは相当に退屈で派手なホラーの割には睡魔が襲うが、SFXは頑張っているので、テーマパークのアトラクションを見るつもりがいい。  (評価:1.5)


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