海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1979年

製作国:アメリカ
日本公開:1980年2月23日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・ルース 脚本:ジョン・ミリアス、フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:カーマイン・コッポラ、フランシス・フォード・コッポラ
キネマ旬報:3位
カンヌ映画祭パルム・ドール

戦争の狂気を徹底的に戯画化して描いた怪作
 原題は"Apocalypse Now"で、「黙示録の現在」。ジョゼフ・コンラッドのイギリス小説"Heart Of Darkness"(邦題:闇の奥)の翻案で、原作の舞台は1900年頃のコンゴ。コッポラはこれを1968年当時のベトナム戦争に置き換えた。
 メコンデルタから川を遡上してカンボジアとの国境を越えたジャングルに神の国を築くカーツ大佐(マーロン・ブランド)を殺害に行く特命を受けた諜報員ウィラード大尉(マーティン・シーン)の物語。
 すべては架空で、サーフィンをするためにベトコンの村に出撃する空軍騎兵隊の司令官(ロバート・デュヴァル)、前線基地に慰問するプレイメイト、司令官不在の最前線と、戦争の狂気を徹底的に戯画化して描く。騎兵隊が進軍ラッパと共に「ワルキューレの騎行」を大音量で流しながら進軍するシーンはつとに有名で、空撮と大量の爆薬、ヘリ、エキストラを使った戦闘シーンは圧巻。
 戦場で適用される殺人罪という究極の矛盾をテーマにしながら、狂気は米軍を守るために二重スパイを独断で処刑したカーツ大佐にあるのか、それとも人間性を失ってベトナム民衆を殺害するアメリカにあるのかを問う。
 ウィラードは小型艇で遡上しながらカーツ大佐の機密資料を読み、体験を重ねていく中で煩悶する。神の国に到着したウィラードは命令に従ってカーツ大佐を殺すが、カーツ自身がそれを望んでいたようで、彼が狂人ではなかったことを息子が知ることを望んでいるが、結末は描かれない。
 もっとも、本作はウィラードの独白という形をとっていて、カーツ大佐の狂気の真実を息子を含むアメリカ全体に伝えることで果たされている。
 冒頭に、戦場にいると祖国に帰りたいと思い、祖国にいると離婚してまで戦場が恋しくなるという独白があり、それがウィラード自身の狂気、人間と戦争の狂気であることがわかる。
 神の国にいるカメラマンにデニス・ホッパー、将軍と共に暗殺指令を出す大佐にハリソン・フォード。撮影はフィリピンで行われた。
 カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1980年4月5日
監督:ロバート・ベントン 製作:スタンリー・R・ジャッフェ 脚本:ロバート・ベントン 撮影:ネストール・アルメンドロス 音楽:ヘンリー・パーセル
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

フレンチトーストを焼くシーンが心温まる
 原題は"Kramer vs. Kramer"で「クレイマー対クレイマー」の意。別れた夫婦が一人息子の親権を争って裁判を起こすという物語で、夫婦の姓がクレイマー。アヴェリー・コーマンの同名小説が原作。
 この映画の見どころは二つある。一つは別れた夫婦役のダスティン・ホフマンとメリル・ストリープの名演。ホフマンはアカデミー主演男優賞、ストリープは助演女優賞を獲得。
 もう一つの見どころはこの裁判がどのような結果を生むかということで、最後は観客の想像に委ねられている。余韻を残す佳作で、アカデミー監督賞、脚本賞を受賞。
 物語は、仕事を理由に家庭を顧みない夫と、孤独に苛まれて離婚を決意する妻というありがちな設定。ただ妻は幼い息子をおいて家を出てしまい、エリートの男はシングルファーザーとして家事・育児・仕事をこなし、公園デビューも果たす。しかし仕事はミスが多くなり失業・転職。親権を獲得するための裁判では互いに相手を傷つける不毛な争いとなる。
 この裁判過程で観客は夫か妻のどちらかに感情移入するようにできていて、そうさせるだけの演技をホフマンとストリープは見せる。そして最後に観客はどちらかに味方した自分の愚かさと、子供は親の所有物ではないということに気づく。
 子役のジャスティン・ヘンリーが可愛く、名演技を見せてくれる。冒頭とラストのフレンチトーストを焼くシーンがいい。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1980年8月30日
監督:ボブ・フォッシー 製作:ロバート・アラン・アーサー 脚本:ロバート・アラン・アーサー、ボブ・フォッシー 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ラルフ・バーンズ
キネマ旬報:8位
カンヌ映画祭パルム・ドール

娘のエリザベート・フォルディのダンスが可愛い
 『シカゴ』等のブロードウェイ・ミュージカルの振付、『キャバレー』『レニー・ブルース』等の映画監督ボブ・フォッシーの自伝的ミュージカルという異色な映画。異色であるということは観る人によって評価が分かれる。
 ミュージカルを期待する向きには音楽も踊りも楽しく、とりわけ主人公の娘役のエリザベート・フォルディが可愛い。ドラマ・パートとミュージカル・パートとの違和感はまったくなく、ショービジネスを生きた男のエンタテイメント映画として堪能できる。
 ドラマを中心に見る向きには分かりにくいストーリー構成で、観終わって何を描きたかったのか釈然としない。自伝であるゆえに、死に際しての主人公の一生について肯定的なのか否定的なのか評価を観客に委ねているところがあり、そしておそらくは肯定的評価を期待しているのだと思えるが、その隔靴掻痒感が拭えない。
 カンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞していて、ロイ・シャイダーが渋い主人公を好演している。"All That Jazz"は慣用表現で、「あれやこれや」といったニュアンス。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1980年2月23日
監督:ウディ・アレン 製作:チャールズ・H・ジョフィ、ジャック・ロリンズ 脚本:ウディ・アレン、マーシャル・ブリックマン 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ジョージ・ガーシュウィン
キネマ旬報:5位

ウディ・アレンの饒舌さも、大都会に暮らす現代人の病の一つ
 原題"Manhattan"。
 テレビのシナリオライターが主人公で、ニューヨーク中心部マンハッタンに暮らす男女の悲喜こもごもを描く、ウディ・アレンらしい小品。
 元妻(メリル・ストリープ)は性生活が不満だったのか同性愛に走って子連れで離婚、ライターの元亭主(ウディ・アレン)の暴露本を書いている。一方、42歳のこの男は17歳の少女(マリエル・ヘミングウェイ)を恋人にし、親友の学校教師(マイケル・マーフィー)の浮気の相談に乗っているうちに、その浮気相手のスノッブな編集者(ダイアン・キートン)が好きになってしまい関係を持つ。学校教師は編集者と別れて妻(アン・バーン)の元に戻ったつもりが、編集者との未練を断ち切れずにヨリを戻す。結果、ライターは17歳の少女の純情に気づく、というのが大筋。
 大都会の空気に肺まで汚れきった男女の醜い生態が、ウディ・アレンらしくシニカルかつお洒落に描かれるが、その中で中年男を恋人に持つという一見不良娘が実はもっともピュアだったという話で、多少現実離れした聖少女趣味ではあるが、最後は何となく清々しい。
 初め、中年男にとって少女は一時の気休め程度の存在でしかなく、もっと相応しい男を見つけるように彼女に諭すが、元妻に復讐され、編集者に見放され、親友に裏切られ、人への信頼を失った中年男が、ロンドンに半年間の演劇留学する少女の自分への愛が変節する不安から彼女の留学を引き留める。その時の彼女の台詞が、たかが半年なのにその愛を信じられないのかというもので、大都会に暮らす現代人の軽薄さ、刹那的な生き方、人間関係の脆弱さと、それに対する不安を見事に象徴している。
 名俳優が揃う中でマリエル・ヘミングウェイは演技的に上手くはないが、掃き溜めにツル、大都会のオアシス的な少女を演じて清々しい。
 ウディ・アレンの饒舌さも、大都会に暮らす現代人の病の一つか。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年7月21日
監督:リドリー・スコット 製作:ゴードン・キャロル、デヴィッド・ガイラー、ウォルター・ヒル 脚本:ダン・オバノン 撮影:デレク・ヴァンリント 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

シガニー・ウィーバーの下着姿は果たしてサービスシーンか?
 原題"Alien"。今も根強い人気のスペースホラー。一般にはSFだとかSFホラーに分類されているが、SFとしては初歩的な穴だらけで、宇宙ものホラー作品に分類すべき。ただ当時、この作品が衝撃的だったことと、その後の地球外生命体の造形に大きな影響を与えた古典だということは評価される。
 改めて観直したが、シナリオには相当無理がある。ただの貨物船が探検に行ってしまうのは無理があるし、着陸船が有人だというのは今の常識からは考えられない。改めて30年以上前の映画だと気づく。大気の組成を分析中に着陸するのも変だし、エイリアンを隔離せずに無警戒なのも笑える。しかし、それもこの作品が宇宙を舞台にした不条理なホラーだと思えば納得できる。だからSFではない。
 ノストロモ号は『スタートレック』エンタープライズ号の技術を超えられていないし、人工重力の説明もなく地上と同じ生活。エイリアンとの戦いでもこの点は生かされず、端から考えていないことがわかる。空気密度でエイリアンの居場所をサーチするというのも良くわからない科学設定。似たようなおざなり設定はいくらもあるが、脚本のダン・オバノンは『バタリアン』の脚本・監督。
 ただ、宇宙船の模型や内部の美術、エイリアンの造形はなかなかで、アカデミー視覚効果賞を受賞している。地球外生命体といえば人型か地球生物の発展型が多かった中で、エイリアンは悪魔型で、ホラーからの発想が成功した。
 ラスト近くでシガニー・ウィーバーの下着姿というサービスシーンがあるが、シガニー・ウィーバーの体でサービスになるのか? (評価:2.5)

製作国:西ドイツ、フランス
日本公開:1981年4月11日
監督:フォルカー・シュレンドルフ 製作:フランク・ザイツ、アナトール・ドーマン 脚本:ジャン=クロード・カリエール、フォルカー・シュレンドルフ 撮影:イゴール・ルター 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:1位
アカデミー外国語映画賞 カンヌ映画祭パルム・ドール

ホビットではないが侏儒が主人公の風変わりな物語
 原題は""Die Blechtrommel""で、邦題の意。ノーベル賞受賞作家ギュンター・グラスの同名のドイツ小説が原作。
 主人公の少年オスカルがブリキの太鼓を手にした3歳の誕生日に自分の意志で成長することを止め、第二次世界大戦を潜り抜け、父の死とともに成長を再開することを決意する。
 舞台はバルト海に面したポーランド最大の港湾都市グダニスク(ダンツィヒ)。多民族の都市国家として栄え、第一次大戦後はどの国にも属さない自由都市となったが、第二次大戦でドイツ軍が占領、ロシア軍の侵攻とともに市民は西に逃れるが、映画はそこで終わっている。
 主人公の祖母と母はカシュバイ人で、性に大らか。父は厳格なドイツ人だが、本当の父はポーランド人の従兄らしく、母に思いを寄せるブリキの太鼓の玩具屋はユダヤ人。ドイツ人の支配に面従腹背するポーランド人という見方をすれば、物語は記号化される。
 3歳で成長を止めたオスカルは、玩具の太鼓を肌身離さず、取り上げようとすると悲鳴を上げてガラスを割るという特技で抵抗する。侏儒のサーカス一座と知り合い、母の死後に兵隊慰問に参加するが、侏儒は大人になることを止めた人たちという意味付けがなされる。ラスプーチンやゲーテの『親和力』といったキーワードを散りばめながら、知性と姦通、侏儒、ナチス、戦争、民族主義を描いていくので、映画を深読みして意味づけを求めていく人には格好の作品。
 そうでなければ余計なことを考えずに、第二次世界大戦前後のグダニスクを舞台にした、侏儒の少年が主人公というちょっと変わり種の物語を楽しむこともできる。
 カンヌ映画祭パルム・ドール賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年9月15日
監督:ジェームズ・ブリッジス 製作:マイケル・ダグラス 脚本:マイク・グレイ、T・S・クック、ジェームズ・ブリッジス 撮影:ジェームズ・A・クレイブ 美術:ジョージ・ジェンキンス 音楽:スティーヴン・ビショップ
キネマ旬報:9位

電力会社を含め絵空事ではない原発事故の描写がリアル
 原題"The China Syndrome"で、原子炉の炉心溶融による事故のこと。劇中に説明があるが、原発がメルトダウンして漏れ出した核燃料が地球の反対側である中国に到達するというジョークから、中国症候群というこの名がある。
 ロサンゼルス郊外の原子力発電所でメルトダウン寸前の過酷事故が起きたという設定の物語で、全米公開から12日後の3月28日に、実際にスリーマイル島の原発事故が起きたという因縁のある作品。
 原発を取材中のTVレポーター、キンバリー(ジェーン・フォンダ)のクルーがたまたま過酷事故に遭遇。カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)がこの模様を隠し撮りする。これを知った原発会社はTV局上層部に圧力をかけるが、リチャードはフィルムを持ち出して反原発学者の証言を得る。
 一方、制御室長のゴデル(ジャック・レモン)は事故の原因が配管接合の手抜きだったことを突き止め、所長に運転停止と修理を求めるが無視されてしまう。TVに訴えるためにキンバリーに証拠の写真を届けようとして命を狙われ、制御室に立て籠もり、キンバリーを呼んでTV中継で真相を訴えようとするが、原発会社は狂人だとして警官を突入させゴデルを射殺、真相は闇に葬られてしまう。
 原発事故発生のプロセスも手を抜かずにきちんと説明し、原発の安全神話に警鐘を鳴らす硬派な社会派映画で、福島第一原発事故を経て絵空事ではない描写が電力会社の対応を含めてリアル。
 ジェーン・フォンダとジャック・レモンの真に迫る演技が見もの。 (評価:2.5)

製作国:フランス、イギリス
日本公開:1980年10月25日
監督:ロマン・ポランスキー 製作:クロード・ベリ 脚本:ジェラール・ブラッシュ、ロマン・ポランスキー、ジョン・ブラウンジョン 撮影:ギスラン・クロケ、ジェフリー・アンスワース 音楽:フィリップ・サルド
キネマ旬報:7位

ナスターシャ・キンスキー18歳の美しさがすべて
 原題"Tess"で、主人公の女の名。トーマス・ハーディの小説"Tess of the d'Urbervilles"(ダーバヴィル家のテス)が原作。
 イングランド南西部の村が舞台で、教会の牧師から先祖が貴族だと聞いた貧しい一家の美しい娘が、そのために悲惨な人生を歩んでしまう物語。親戚だと思った素封家が爵位を金で買った成金で、その息子に犯される。旧家のプライドを支えに男と縁を切るが、子供を生んで死なせてしまう。次に知り合った牧師の息子と恋に落ちるが・・・
 ダイジェスト風に娘の男性遍歴が語られる前半はドラマ性に乏しく若干退屈するが、娘が過去を打ち明けようと悩むあたりからドラマは緊張感が出て面白くなる。結婚後、娘が過去を打ち明けると、夫は家を出てしまう。実家に戻った娘は生活に苦しみ、夫に迎えに来るように手紙を出し続ける。
 何年か後に夫が帰ってくるが、昔の男と暮らす娘は"too late"と初めは夫を許さない。しかし娘が夫を愛し続けていたことが明らかになり、二人の逃避行となる。
 プライドに生き、プライドに死んだ、プライドに翻弄された娘の悲劇だが、アカデミー撮影賞を受賞した風景の美しさが見どころ。もう一つの見どころは、ナスターシャ・キンスキー18歳の美しさだが、監督のロマン・ポランスキーとはすでに出来ていて、1969年に殺害された妻シャロン・テートへの冒頭の献辞がなんとも白々しい。 (評価:2.5)

製作国:西ドイツ
日本公開:1980年2月2日
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 製作:ミハエル・フェングラー、フォルカー・カナリス、ヴォルフ=ディートリッヒ・ブルッカー 脚本:ペーター・メルテシャイマー、ペア・フレーリッヒ 撮影:ミヒャエル・バルハウス 音楽:ペール・ラーベン
キネマ旬報:6位

自爆という結末に戦後史に一時咲いた花の虚しさを感じる
 原題"Die Ehe der Maria Braun"で、邦題の意。
 一人のドイツ人女性の戦中戦後10年間の生き様を描いたドラマで、この間の西ドイツの変遷を背景に、愛、結婚、性、ジェンダーについて重層的に描いている。
 ベルリン空襲の中、マリア(ハンナ・シグラ)はヘルマン(クラウス・レーヴィッチェ)と結婚式を挙げるが、一晩と一日だけの結婚でヘルマンは出征してしまう。
 敗戦。家族を養うため米兵専門のバーで働き始めるが、ヘルマン戦死の報に知り合った黒人兵(ジョージ・バード)の恋人に。求婚する黒人兵に今もヘルマンの妻だと断るが妊娠。そこにヘルマンがシベリア抑留から戻って喧嘩となり、マリアは黒人兵を撲殺してしまう。
 マリアの真情を知ったヘルマンはその罪を着て服役。黒人兵から習った英語を武器にマリアはオスワルト(イヴァン・デニ)の会社に就職。男顔負けのネゴシエーションでビジネスウーマンとして頭角を現す。
 愛と性は別だと、オスワルトの愛人となって報酬を上げ、ヘルマン釈放のために資金作りをする。マリアを尾行したオスワルトは、毎週ヘルマンに面会していることを知り、ヘルマンに会って契約を結ぶ。
 それはヘルマンを釈放させ、余命短いオスワルトのために死ぬまでの間、ヘルマンが外国で暮らすというもので、毎月薔薇の花を1本届けるという置手紙を置いてヘルマンは姿を消してしまう。
 オスワルトが死に、報を受けたヘルマンがマリアの家に現れると、マリアは今日から2日目の新婚生活がスタートすると喜ぶ。裕福なマリアはヘルマンを養うと言うが、その必要はないとヘルマンが言う。そこにオスワルトの弁護士が現れ、遺産の半分ずつをマリアとヘルマンに与えるという遺言がわかると、マリアが自殺か事故か不明の爆死をし、ヘルマンも巻き込まれる。
 夫の復員を信じて貞節を貫くマリアが、死んだと知らされて一転素直に女の性を受け入れ、それでも結婚の誓約と夫への愛を忘れない。夫を救うために性を切り離し、女を切り離して自立への道を進む。そうしたマリアの生き方は爽快で、愛は性に縛られないという達観、男が女を養うという男性上位の否定に、戦後のルネッサンスの息吹を感じる。
 もっとも、10年経って西ドイツの再軍備、民族主義の復活という反動が起き、ジェンダーの壁を克服したはずのマリアが男同士の盟約=男社会の厚い壁に阻まれてしまう。
 そうした戦後ルネッサンスの芽吹きと終息を描いたともいえるが、自爆という結末に戦後史に一時咲いた花の虚しさを感じる。 (評価:2.5)

メキシコ万歳

製作国:ソ連
日本公開:1980年4月26日
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グリゴリー・アレクサンドロフ 脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン 撮影:エドゥアルド・ティッセ、ニコライ・オロノフスキー 音楽:ユーリー・ヤクシェフ

死のカーニバルで子供が齧る髑髏のお菓子を食べてみたい
 原題"Que Viva Mexico!"で、邦題の意。1931年に撮影され未完で製作中止されたフィルムを助監督だったグリゴリー・アレクサンドロフが当初構想に基づき編集、ナレーション・音楽等を追加して半世紀ぶりに完成させた作品。
 4話構成で、メキシコの村娘が働いて持参金代わりの金貨の首飾りを完成させ結婚式を挙げる微笑ましい話、キリスト教と異教とが習合したような聖処女祭と生贄に繋がるのか祭の一環である闘牛の話、19世紀初頭のディアス独裁時代に新妻の初夜権を地主に奪われた青年の復讐の悲劇、メキシコ革命の女兵士の話からなるが、第4話は未撮影でスチールのみ。
 プロローグはメキシコの古代文明の遺跡などメキシコの風土をスチールで簡単に紹介、映画が撮影された経緯を説明する。エピローグはメキシコの伝統行事、死のカーニバルの模様が描かれ、全体にメキシコの旅番組かドキュメンタリーのイメージ。歴史や民俗・風俗に関心があれば、1931年当時の撮影だけに興味深い映像が楽しめるが、ノンフィクション風のストーリーは創作で、登場人物も素人ながらも演技なので、一つの説話と捉えた方が良い。
 全体にのんびりした展開だが、闘牛シーンは牛の見た目など一部演出も混じるが迫力がある。第3話に登場するマゲイと呼ばれる多肉質植物からテキーラの原料となる樹液を採るシーンも面白い。エピローグに登場する子供が齧る髑髏のお菓子は食べてみたくなる。
 死を嘲笑することで生が勝利すると結論づけられるが、メキシコの古代文明の死生観について触れられることはなく、全体はエピソード集に終わっている。
 撮影が終了しなかったため、潜在的なエネルギーを持ちながらもまだ沸点には至っていないメキシコの民衆という内容になっているが、完成していればメキシコ革命の視点から民衆の力を賛美するエイゼンシュテインらしい作品になっていたのだろうが、どちらが良かったかは微妙。
 ただアレクサンドロフ版は、異文化への興味本位しか伝わって来ないのがやや残念なところか。 (評価:2.5)

マッドマックス

製作国:オーストラリア
日本公開:1979年12月15日
監督:ジョージ・ミラー 製作:バイロン・ケネディ 脚本:ジェームズ・マッカウスランド、ジョージ・ミラー 撮影:デヴィッド・エグビー 音楽:ブライアン・メイ

マックスの乗る黒いV8インターセプターが本当の主役
 原題"Mad Max"で、マックスは主人公の警官の名。狂ったマックスといった感じだが、むしろ頭の狂っているのは登場するバイク野郎たちの方で、近未来の暴力で無法化したオーストラリアが舞台となる。
 やりたい放題、暴れたい放題の暴走族を相手に警官隊が奮闘するものの、証拠不十分で釈放され、逆に恨みを買った警官仲間が襲われ殺される。マックス(メル・ギブソン)は暴走族を追ううちに彼らの狂気に自分が感染することを怖れ警官をやめようとするものの、慰留され休暇を取る。ところが妻が暴走族に襲われ、振り切ったところが相手を片輪にしてしまい、赤ん坊もろとも殺される。これで完全にマッドとなったマックスは暴走族全員を路上で処刑してしまうという復讐もの。
 バイクと車を使ったカー・バイオレンスもので、スピード感と破壊による爽快感が最大の見どころ。マックスが最後に乗る警察車が600馬力の黒塗りのフォード・ファルコンXBのV8エンジン搭載改造車で、ボンネットにスーパーチャージャーが付き出している。
 車好きにはたまらない映画だが、物語は至って単純で、カットの繋ぎも編集も今ひとつ。派手なカーアクションを除けば、シナリオも演出も良くない、マニア向け作品。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1981年1月31日
監督:ハル・アシュビー 製作:アンドリュー・ブラウンズバーグ、ジャック・シュワルツマン 脚本:イエジー・コジンスキー 撮影:キャレブ・デシャネル 音楽:ジョニー・マンデル
キネマ旬報:7位

シャーリー・マクレーンが一人で悶えるシーンが可笑しい
 原題"Being There"で、存在するの意。ジャージ・コジンスキーの同名小説が原作。邦題のチャンスは、主人公の名。
 幼い頃から外界と隔絶された家に育てられたチャンス(ピーター・セラーズ)は、文盲の上に世界をテレビを通してしか知らない。彼の知識はテレビと庭の植物だけで、物語は家の主人(Old Man)の死から始まる。
 家の所有権が他人に移り、家を追われたチャンスは初めて外界に出る。世事を何も知らないチャンスと世俗とのギャップをコメディとして描くが、交通事故をきっかけに死に掛けている経済界の大物の家に招かれ、浮世離れしたチャンスを家財を失った実業家と勘違いされる。
 大統領に紹介され、愚者の言葉を勝手に意味あるものと解釈する人々によって賢者に祀り上げられ、大物に後継を託されて次期大統領候補となる。最後は、超人となって湖水の上を歩くシーンで終わるが、唯一チャンスの正体を知るかつての家のメイドが、テレビに映るチャンスを見て、アメリカでは白人なら頭が空っぽでも偉くなれると嘆く。
 愚者も愚者の間に入れば超人になってしまうという、愚者が支配する世の中を皮肉ったコメディだが、周囲が勝手に解釈するチャンスの言葉自体は大したものではなく、言葉の取り違えものとしては面白味に欠ける。乞食が貴人と勘違いされて厚遇されるパターンだが、落語や漫才の域にも達していないのが辛いところ。
 経済界の大物の妻のシャーリー・マクレーンが、チャンスに言い寄って悶えるシーンが可笑しい。 (評価:2.5)

ウォリアーズ

製作国:アメリカ
日本公開:1979年9月15日
監督:ウォルター・ヒル 製作:ローレンス・ゴードン 脚本:ソル・ユーリック、デヴィッド・シェイバー、ウォルター・ヒル 撮影:アンドリュー・ラズロ 音楽:バリー・デ・ヴォーゾン

荒んだニューヨークの地下鉄と街の様子が衝撃的
 原題"The Warriors"で、登場するストリートギャングのチーム名。戦士たちの意。ソル・ユーリックの同名小説が原作。
 ニューヨーク、ブルックリンの南端コニーアイランドを縄張りとするストリートギャング、ウォリアーズの9名が、ニューヨーク最北端ブロンクスのヴァンコートランドパークで開かれるストリートギャングの代表者集会に参加。
 招集したのがリフスのリーダー、サイラス(ロジャー・ヒル)で、ギャングの実力者。ニューヨーク中のストリートギャング8万人の大同団結により、警察やマフィアを凌いでニューヨーク支配と訴える。ところが演説中に暗殺され、警官隊突入の混乱の中、ローグスのリーダー、ルーサー(デヴィッド・パトリック・ケリー)が、ウォリアーズが暗殺したと叫ぶ。
 ここからはウォリアーズの逃走劇で、ニューヨークの北から南まで30マイル(48 km)を地下鉄を乗り継ぎ、如何にギャングたちの追跡を躱すかという物語。
 見どころはニューヨークの落書きだらけの地下鉄風景と野球のユニホームにバットで武装したヤバいチームの連中との戦い。ストリートギャングによって荒んだニューヨークの街の様子が衝撃的。
 ウォリアーズの連中はどこか憎めないところがあって、濡れ衣を着せられたことへの同情もあり、感情移入しながらのアクションがスリリング。
 サイラス暗殺の真犯人はルーサーで、最後は勧善懲悪で終わるという胸のすくエンディングとなっている。 (評価:2.5)

勝手に逃げろ 人生

製作国:フランス、スイス
日本公開:1995年4月29日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:アラン・サルド、ジャン=リュック・ゴダール 脚本:アン=マリー・メルヴィル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー、レナート・ベルタ 音楽:ガブリエル・ヤーレ

ペシミスティックでシニカルなゴダール以上のものはない
 原題"Sauve qui peut (la vie)"で、できる者を救え(人生)の意。
 ゴダールの商業映画復帰第1作。4章構成で、それぞれに「想像界」「不安」「商売」「音楽」という見出しが付けられているが、わざわざ章に分けた意味が感じられない。
 TVディレクターのポール(ジャック・デュトロン)を軸に、疎遠になった恋人でTVライターのドゥニーズ(ナタリー・バイ)、元妻のポーレット(ポール・ミュレ)と娘のセシル(セシル・タネール)、娼婦のイザベル(イザベル・ユペール)とのエピソードが語られるが、第4章は元妻・娘・恋人とも関係を築けず孤独となったポールが、イザベルの妹が乗った車に轢き逃げされ、おそらくはそのまま昇天する。
 ポールがセシルに性的興味を持ち、イザベルは売春を割り切り、性的に屈折した顧客の男たちを相手にする。客と娼婦という刹那的な出会いのポールとイザベルだったが、ポールと別れてレマン湖に移り住むドゥニーズが空き部屋をイザベルに貸し、その妹がポールの死に関わるという、細い糸で結びつく人生の儚さを描くものの、ペシミスティックでシニカルなゴダール以上のものはない。
 イザベル・ユペールとナタリー・バイが主役を食っていて、二人の演技で持っている作品。 (評価:2.5)

ノーマ・レイ

製作国:アメリカ
日本公開:1979年9月29日
監督:マーティン・リット 製作:タマラ・アセイエフ、アレックス・ローズ 脚本:アーヴィング・ラヴェッチ、ハリエット・フランク・Jr 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽:デヴィッド・シャイア

アメリカの労働者はよほど可哀想という映画
 原題"Norma Rae"で、主人公の名。
 1978年夏、アメリカ南部の紡績工場の企業城下町に全米繊維産業労働組合のオルグ、ルーベン・ワショフスキー(ロン・リーブマン)がやってくるところから物語は始まる。
 ノーマ・レイ(サリー・フィールド)は両親ともども工員で、無学なノーマには父親の違う3人の子供がいる。モーテルで今彼に殴られたのをルーベンに助けられたことから親しくなり、ノーマの勝気と頭の良さに気づいたルーベンが、彼女を中心にオルグを始め、工場に組合が結成されるまでを描く。
 労働組合のシステムが日本とは違うため若干わかりにくいところがあるが、本作を見て意外に思うのはアメリカの労働環境の劣悪さと労働者の権利が守られていないことで、とても1978年を舞台にしているとは思えないこと。
 劇中、繊維産業だけが全国的なユニオンが認められていないという話が出てきて、南部の歴史的背景が想像されるが、同時期の日本ならば不当労働行為に当たることが平然と行われ、警察が介入することにも驚く。
 そうしたブラックな状況だから本作が製作されたともいえるが、作品として見た場合には単なる労働組合運動の啓発映画にしかすぎず、アメリカの産業構造、ないしは南部の前近代性、企業と政治・行政の癒着といった問題提起には至っていない。
 とりわけ、会社掲示板の告知をノーマが書き写したことが就業規則違反だったのか、工場内で組合活動を行ったことで解雇になったのかなど、説明不足が多い。
 工場に組合が結成されたことでオルグは去り、ノーマだけが取り残されたにも拘らず、笑顔の達成感という結末はどうにもしっくりこない。
 労働者よ団結せよ! というアジテーション映画でしかないが、アメリカ人にとって本作が意味を持つのだとしたら、アメリカの労働者はよほど可哀想ということになる。
 サリー・フィールドがアカデミー主演女優賞を受賞。 (評価:2.5)

ハードコアの夜

製作国:アメリカ
日本公開:1982年4月24日
監督:ポール・シュレイダー 製作:バズ・フェイトシャンズ 脚本:ポール・シュレイダー 撮影:マイケル・チャップマン 美術:ポール・シルバート 音楽:ジャック・ニッチェ

厳格な教育は子供の非行を招くという教訓話だが…
 原題"Hardcore"で、徹底した、筋金入りの意。
 デトロイトに近いミシガン州の町に住む信心深いカルヴァン教徒の娘が、カリフォルニアのユース・キャンプに参加中に行方不明となり、父(ジョージ・C・スコット)が私立探偵(ピーター・ボイル)に調査を依頼。ハードコアのポルノ映画に出演していたことがわかる。
 誘拐されたと思った父は居ても立っても居られず、単身ロサンゼルスのセックスゾーンに乗り込み、愛娘救出のためにハードコアな行動を開始するという物語。
 家具工場を経営する父は実直なビジネスマン・スタイルでは相手にされないと知って、ロス風のカジュアル・スタイルに大変身。税金対策にポルノ映画製作に出資すると偽り男優を募集。娘の相手役を割り出して手がかりを掴むという、闇の世界を相手に頭脳戦を仕掛ける。
 見所は素人探偵のサスペンスとカリフォルニアの性風俗紹介にあって、風俗店でクレジットカードOKよというセリフが可笑しい。覗き部屋から女の子とのレスリング、マッサージと新宿歌舞伎町のようなラインナップで、性風俗はグローバル・スタンダードであることがわかる。
 ラストはめでたく娘救出となるが、ポルノ出演は自らの意思で厳格な家庭環境からの脱出であったことがわかる。今の仲間の方がフレンドリーと答える娘が、父親の愛しているよの一言で和解してしまうのが予定調和すぎて白ける。
 娘思いの父の物語で、厳格な教育は子供の非行を招くという教訓話。もっとも娘の葛藤がまったく描かれないので、何でわざわざハードコア? という疑問は残る。 (評価:2.5)

製作国:西ドイツ、フランス
日本公開:1985年12月14日
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 製作:ヴェルナー・ヘルツォーク 脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク、F・W・ムルナウ 撮影:イェルク・シュミット=ライトヴァイン 音楽:ポポル・ヴー

オリジナルを50年後にリボーンさせた意義のあるリメイク
 原題は"Nosferatu: Phantom der Nacht"で、Nosferatuは作中、不死者・吸血鬼の意味で使われている。Phantom der Nachtは夜の幽霊の意。
 1922年のドイツ映画"Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens"(ノスフェラトゥ-恐怖の交響曲、邦題:吸血鬼ノスフェラトゥ)のリメイク。
 オリジナルは、ブラム・ストーカーの"Dracula"(吸血鬼ドラキュラ)を映画化しようとして、著作権者の許諾が得られずにタイトルと内容を変更した曰くつきの作品で、吸血鬼映画の元祖にして古典的名作。ストーリーはブラム・ストーカーの小説の筋に沿っているものの、東欧の吸血鬼伝承により近い設定となっている。
 本作はオリジナル版を忠実になぞっていて、小説の著作権が切れたため、小説のキャラクター名を復活させ、ヘルシング教授も登場させている。
 吸血鬼の造形はオリジナルに準じていて、一般のドラキュラ像とは大きく異なる、頭髪のない死体のイメージ。東欧の吸血鬼伝承に沿ったもので、ペストとその媒介者である鼠を象徴させている。
 ドラキュラ伯爵に、吸血鬼伝承の黒死病のイメージを持たせ、鼠たちを引き連れて、死の影、死の使者としての役割を担わせている。航海中に船員たちがペストで全滅するだけでなく、ドラキュラ伯爵はペストとともにドイツのヴィスマールに上陸、大陸にペストの恐怖が広がる。
 ドラキュラ伯爵を生血を吸う鬼ではなく、疫病をもたらす死神として描いていて、鼠の群集するシーンや広場に集まる棺桶の列を俯瞰で映す映像が印象的。
 ラストシーンはオリジナルとは若干違っていて、黒死病の上陸を食い止められない近世ヨーロッパの絶望そのものを象徴させている。
 リメイク版にはオリジナルの人気に便乗したものが多いが、本作はサイレント時代に制作されたオリジナルの作品性を損なうことなく、50年後の映画技術によってリボーンさせた、意義のあるリメイクとなっている。
 音楽が安っぽくて、作品性に合っていないのがマイナス。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年10月13日
監督:ジョン・バダム 製作:ウォルター・ミリッシュ 脚本:W・D・リクター 撮影:ギルバート・テイラー 音楽:ジョン・ウィリアムズ

処女の血を捧げるセックスシーンと見紛うエクスタシーが幻想的
 原題"Dracula"。ブラム・ストーカーの同名小説を基にしたハミルトン・ディーン、ジョン・ボルダーストンの戯曲が原作。
 原作を舞台用に簡素化したストーリーで、ルーマニアのドラキュラ城は登場せず、イギリス行きの貨物船から話が始まる。イギリスの舞台は精神病院に集約化されていて、第一の犠牲者ミーナ(ジャン・フランシス)はヘルシング教授の娘。病院の医師スウォード(ドナルド・ブレザンス)の娘で親友のルーシー(ケイト・ネリガン)を訪ねて静養している。
 難破した貨物船からドラキュラ伯爵(フランク・ランジェラ)を救助したことから伯爵に魅入られ、血を吸われて死亡。
 急を聞いて駆け付けたヘルシング教授は吸血鬼退治のプロで、埋葬された娘がアンデッドとなったことを知り、無慈悲にも心臓を抉り出して復活を阻止する。この間、ヘルシングが肉親の死にまったく動揺しないのが凄い!
 ルーシーの婚約者、弁護士ハーカー(トレヴァー・イブ)は依頼人のドラキュラのために元修道院の建物を世話するが、ルーシーを吸血鬼の女王にしようと建物に誘い込み、ルーマニアに連れ出そうとするドラキュラの企みを知って、ヘルシング教授と救出に向かう。
 前半は比較的退屈だが、ルーシーの救出劇になって、馬車と自動車のチェイスによるタイムレースとなり、盛り上がる。
 500年をアンデッドとして生き抜いた(?)ドラキュラはハイパー化していて、十字架も大蒜もものともしない。ラストは太陽光に晒されて風化していくのだが、最後にマントが蝙蝠となって飛び去り、ドラキュラから救出されたルーシーも不敵に微笑むという続編狙いでエンドとなる。
 カラーながらもモノクロに近い色合いがゴシック調を演出していて、ハイパー化したドラキュラが頼もしい割に、ヘルシングが今一つ頼りないというのが本作の魅力。
 見どころはドラキュラにルーシーが処女の血を捧げるシーンで、セックスシーンと見紛う二人のエクスタシーが幻想的に描かれる。 (評価:2.5)

ロッキー2

製作国:アメリカ
日本公開:1979年9月1日
監督:シルヴェスター・スタローン 製作:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 脚本:シルヴェスター・スタローン 撮影:ビル・バトラー 音楽:ビル・コンティ

優等生的シナリオというのは感動を残さない
 原題"Rocky II"。前作のヒットを受けて制作された第2作だが、続編の例に漏れず、計算の良くできたシナリオだが凡庸。それでも駄作にはならなかったので、さらに続く人気シリーズとなった。
 前作でロッキーが世界タイトル戦で負けたことから、基本はアポロへの雪辱戦となる。この障害となるのがロッキーの右目で、再試合すれば失明の危機があり、視野が狭くなっていて絶望的。
 ロッキーはボクシングから引退し、エイドリアンと宿願の結婚をし、二人だけの幸せの道を歩むことを決意する。
 これを阻むのが、当初ロッキーがファイトマネーを浪費し使い果たしてしまうことと、無学なロッキーには肉体労働以外の生活の手立てがないこと、アポロの挑発など。
 ロッキーはとことん追い込まれた挙句に、失明覚悟で再試合に挑むという、よく計算されたシナリオなのだが、あまり優等生的シナリオというのは逆にあまり感動を残さず、これも再戦で予定調和的にロッキーが勝利するというラスト。
 アポロとの試合はついロッキーに肩入れしたくなり、それなりに演出も上手くできているが、ノーガードでの殴り合いというのはリアリティに欠ける。 (評価:2.5)

スター・トレック

製作国:アメリカ
日本公開:1980年7月12日
監督:ロバート・ワイズ 製作:ジーン・ロッデンベリー 脚本:ハロルド・リヴィングストン 撮影:リチャード・H・クライン 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

ウフーラにはやはり太股を出してほしかった
 『スタートレック』の記念すべき劇場版第1作。TVシリーズ『宇宙大作戦』(Star Trek)の放映は1966-1969で、本作は同じキャスティングで10年後に作られた。俳優陣は10年分の皺を刻んでいるが、ファンにとっては懐かしい、同窓会的作品。『宇宙大作戦』で知られていたが、原題の"Star Trek: The Motion Picture"(スタートレック映画版)が邦題となり、以後このタイトルが使用される。
 監督は『ウエスト・サイド物語』 『サウンド・オブ・ミュージック』 のロバート・ワイズで映画そのものはまずまずの出来。1977年に公開された『スター・ウォーズ』を意識して、宇宙船や宇宙空間での特撮やCGも頑張っている。
 製作費に100億円の巨費を投じたこともあって、エンタープライズ号の外観を舐めるシーンや飛行シーンが延々と続き、当時はそれなりに感動したが、30年以上経つと陳腐になって間延びして見える。  もう一つ、この映画はワン・アイディアで全体が作られていて、1977年に打ち上げられた惑星探査機ボイジャーが大きく絡んだ物語になっている。映画の時代設定は、その100年後。
 30年経つとボイジャーのことや何を搭載したのか覚えている人も少なくなって、そもそもインパクトに欠ける。映画の結末を知っていると、途中の話がだらだらして見え、早く結末に到達してほしいと思う。つまり、この映画は再見に耐えられない作品で、犯人がわかっているつまらない推理映画をみているようなもの。犯人がわかっていても途中経過が良くできた推理映画が再見に耐えられることを考えれば、本作は駄作ということになる。
 物語は、宇宙船を消滅させた謎の宇宙雲が地球に迫り、カークがエンタープライズ号艦長に復帰する。かつてのメンバーがそろい、バルカン星に帰っていたスポックも乗船する。謎の宇宙雲を迎え撃つカークは、謎の宇宙雲が自らの創造主(Creator)を捜していることを知る。
 TVシリーズではウフーラら女性クルーの太股も露わなキュロットが楽しみだったが、10年経っておばさんになったせいかスラックスになっているのが残念。おばさんでも脚を出してほしかった。 (評価:1.5)

1941

製作国:アメリカ
日本公開:1980年3月29日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:バズ・フェイトシャンズ 脚本:ロバート・ゼメキス、ボブ・ゲイル 撮影:ウィリアム・A・フレイカー 美術:ディーン・エドワード・ミッツナー 音楽:ジョン・ウィリアムズ

壮大な悪ふざけで終わった印象の戦争パロディ
 原題"1941"。真珠湾攻撃から6日後、1941年12月13日のアメリカ西海岸が舞台。
 『ジョーズ』(1975)、『未知との遭遇』(1977)に続いてスピルバーグが監督した作品で、日本軍がカリフォルニアに攻めてきたという想定の下に、国土防衛に右往左往する住民たちを描いた戦争コメディ。
 攻撃に備えるアメリカ軍司令官や空軍パイロット、住民たちのエピソードが描かれ、ミタムラ中佐(三船敏郎)を艦長とする潜水艦も登場する。ミタムラはハリウッドを破壊すればアメリカ人の戦意喪失に繋がると攻撃目標に定めたり、『ジョーズ』のパロディなど、スピルバーグらしい映画オタクのやんちゃなシーンが出てくるが、スラップスティックなギャグのほとんどは空振りで、スピルバーグにコメディのセンスが全くないことを露呈している。
 唯一面白いのは、冒頭で海岸で泳いでいた女性が、浮上する潜水艦の潜望鏡に掴まったまま空中高く持ち上げられるシーンくらい。それぞれのエピソードもストーリーとしての纏まりに欠いていて、つまらないギャグの羅列に飽きが来る。
 大掛かりなセット撮影など制作費もかかっていて、一見、キューブリックの『博士の異常な愛情』(1964)を目指したようにも見えるが、ただ戦争をおちょくっているだけで反戦がテーマのようにも見えない。
 日本の潜水艦が遊園地をハリウッドと勘違いして砲撃して撤退し、西海岸に平和が戻ってジ・エンドとなるが、単に壮大な悪ふざけで終わった印象しか残さない。 (評価:1.5)

007 ムーンレイカー

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1979年12月8日
監督:ルイス・ギルバート 製作:アルバート・R・ブロッコリ 脚本:クリストファー・ウッド 撮影:ジャン・トゥルニエ 特撮:デレク・メディングス 音楽:ジョン・バリー

出来の悪いSF映画だが、バカバカしいながらも最後まで見れてしまう
 3代目ボンド、ロジャー・ムーア第4作。シリーズ第11作。
 原題は"Moonraker"で、劇中に登場するスペースシャトルの名前。もとの意味は快速帆船で最も高い位置に取り付けられる特殊な帆のことで、月にも届きそうということでmoonraker(月を掻き集める人)と呼ばれる。イギリスの俗語で馬鹿者という意味もある。
 イアン・フレミングの同名小説が原作だが、原作はスペースシャトルではなくICBM。
 前作の『私を愛したスパイ』同様、『スターウォーズ』(1977)の大ヒットに乗っかって作られた作品で、後半舞台は地球軌道上の宇宙ステーションに移り、帝国軍対連邦軍の戦いさながらの、ビームを飛ばしてのスターウォーズがある。
 スペースシャトル計画も実験段階から初飛行に向かっていた頃で、宇宙ブームに乗って制作されたが、どうしてもSFチックにならざるを得ず、お粗末なSF設定ともども、スパイ映画007からは大きくかけ離れた。
 イギリスへの空輸中に奪われたムーンレイカーを探索すべくカリフォルニアの製造会社に向かったボンドは、オーナーのドラッグスの陰謀の臭いを嗅ぎ、ヴェネツィアで人類殲滅のための毒ガスを製造していることを知る。その原料となる植物はアマゾンにあり、なんとシャトルの打ち上げ基地まであった。
 ドラッグスの陰謀は腐った人類を毒ガスで粛清し、ノアの箱舟に選ばれた者だけで地球を作り直すという壮大な計画。
 前半はほとんど観光映画で、リオのカーニバルまで楽しめる。後半はSF映画になるが、アマゾンにシャトル打ち上げ基地まで作ってという誇大妄想で、6機もシャトルを連続で打ち上げながら、1機足りなかったから奪ったというお粗末。お前のところで作っているんだから会社から調達しろよとか、打ち上げはどんだけ簡単なんだとか、宇宙ステーションはどうやって作ったんだとか、突っ込みを入れたらきりがない。
 宇宙ステーションから発射される毒ガスポッドは1個で1億人殺せるとか、それを阻止するために寸時にアメリカがシャトルを打ち上げるとか、前作のジョーズまで登場して、どこのファンタジー世界かという展開だが、バカバカしいながらも最後まで見れてしまい、興行的には成功した。 (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1979年11月3日
監督:ドン・コスカレリ 製作:D・A・コスカレリ 脚本:ドン・コスカレリ 撮影:ドン・コスカレリ 編集:ドン・コスカレリ 音楽:フレッド・マイロー、マルコム・シーグレーヴ

すべてはガキの幻想でしたでは話にならない
 原題"Phantasm"で、幽霊・幻想の意。
 霊園でのセックス・シーンから始まり、女が男を刺殺。男の葬儀が行われるが、13歳の少年マイク(マイケル・ボールドウィン)が葬儀後に背高男トールマン(アンガス・スクリム)が棺桶を一人で担ぎ上げ持ち去るという不思議な光景を目撃する。
 兄ジョディ(ビル・ソーンベリー)が同じ女に誘われて墓地でセックスするのを見ていたマイクは、今度は不気味な小人に襲われそうになり騒いだためにジョディが助かるが、マイクは霊園の謎を探って納骨堂に潜入。殺人金属球やトールマンに襲われるが、トールマンは人間ではなく、切り落とした指を持ち帰ると怪物に変化。
 ジョディと武装して納骨堂に向かうが、小人と自動車に追いかけられる。運転していたのはジョディの親友だった冒頭の男で、小人にされていたことから、改めて納骨堂に再挑戦。異次元への入口を発見して、トールマンが死体を小人の奴隷にして異界へ送り込んでいたことを知る。
 そこで、兄弟はトールマンを町の廃坑におびき出して葬り去るが、ホラーなのかSFなのかよくわからない上に、話に脈絡も整合性もない。それもそのはず、すべては両親と兄を亡くした少年の思春期特有の悪夢でした、というオチにガックリくる。
 せめて『エルム街の悪夢』(1984)くらいのアイディアが欲しいところで、すべてはガキの幻想でしたでは話にならない。 (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1980年3月29日
監督:スチュアート・ローゼンバーグ 製作:ロナルド・サランド、エリオット・ガイシンガー 脚本:サンドール・スターン 撮影:フレッド・J・コーネカンプ 音楽:ラロ・シフリン

企画の段階から出直してほしいあざといだけのホラー
 原題"The Amityville Horror"で、アミティヴィルの恐怖の意。
 アミティヴィルはアメリカニューヨーク州の地名で、実際にあった事件をもとにジェイ・アンソンが書いた同名小説が原作。
 ホラー映画には話題になったけど中身はスカというのがあるが、本作もその一つでシリーズ化までされている。ホラーに関する部分は眉唾が多い上に、ホラー・フィクションとしても整合性がなく、それ故に少しも怖くないという致命的欠陥を抱えている。
 1965年に青年が両親と兄弟4人を射殺する事件が起き、それが家の怨霊に命じられたというもの。10年後にその家に引っ越してきた一家が怨霊に苦しめられ、28日で家を出て行くまでの物語。
 アメリカ映画なのでこの怨霊は悪魔だとか、地下室に虐殺された先住民が埋葬されているとか、地下室に地獄に続く穴が開いているとか、子供がジョディ(これが先住民の名か!)という幽霊と友達になるとか、ドアや窓が開かなくなったり、ポルターガイスト現象を起こしたり、神父が蠅の大群に襲われたりといったホラー演出をあれもこれも繰り出すが、どれも思い付きのあざとい話ばかりで、突っ込む気にもなれない。
 家付きの霊のはずなのに、教会から出かける神父の車を妨害したりして、余りに拙いシナリオに呆然としてしまう。もう一度企画の段階から出直して来いと言いたくなる作品。 (評価:1)


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