海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1976年

製作国:アメリカ
日本公開:1976年9月18日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:マイケル・フィリップス、ジュリア・フィリップス 脚本: ポール・シュレイダー 撮影:マイケル・チャップマン 音楽:バーナード・ハーマン
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭パルム・ドール

少女娼婦を演じる13歳のジョディ・フォスター
 ベトナム戦争後のアメリカ社会の矛盾と孤独を描く作品。観る前には、ベトナム戦争の階層的矛盾、帰還兵の現実といったものを予め学んでおいた方が良い。例えばベトナム世代だったジョージ・W・ブッシュはベトナムに行っていないし、ビル・クリントンは兵役そのものに就かなかった。
 アメリカ社会の腐敗と偽善の中で居場所を失い、精神を病む帰還兵。不眠症の彼はタクシー・ドライバーとなって、人とのつながりを求めてニューヨークの街を走る。この映画最大の見どころは、帰還兵の孤独と狂気を演じるロバート・デ・ニーロ。この2年前に『ゴッドファーザーⅡ』の若きドン・コルレオーネを演じている。もう一つ見逃せないのが、少女娼婦を演じる13歳のジョディ・フォスター。デ・ニーロに引けを取らない演技を見せる。  原題も"Taxi Driver"。 (評価:5)

製作国:イタリア、フランス、西ドイツ
日本公開:1982年10月23日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:アルベルト・グリマルディ 脚本:フランコ・アルカッリ、ジュゼッペ・ベルトルッチ、ベルナルド・ベルトルッチ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ、メイクアップ: ジャンネット・デ・ロッシ 音楽:エンニオ・モリコーネ
キネマ旬報:2位

アイデンティティを失っていく農園主の物語
 原題"Novecento"で、1900年代、20世紀の意。
 5時間16分という長大な作品のため2部構成になっているが、全体としては切れ目のない1本の作品。北イタリアの農園が舞台で、1901年に誕生した農園主の長男と、私生児として生まれた小作人の男子との主従の相克と友情の物語として描かれる。
 幼少時は喧嘩を通して農園主長男アルフレードと小作人私生児オルモは友情を築き、アルフレードは進歩的な考えを持つようになる。父が死んで農園を継いだアルフレード(ロバート・デ・ニーロ)は、オルモが解雇を助言した管理人アッティラ(ドナルド・サザーランド)を存続させ、結婚式の日、小作人の子供殺しの冤罪を着せられたオルモ(ジェラール・ドパルデュー)を助けなかったために、二人は主従の関係に復してしまう。
 ここにアルフレードの農園主としての責任・立場への相克があるが、庶民出の妻(ドミニク・サンダ)の目には変心と映り、失望して酒に溺れるようになる。
 農民解放運動から共産党パルチザンとなるオルモと、ファシスト党で弾圧する側に回るアッティラという、1900年代前半のイタリア近代史を農園を舞台に描き、5時間16分の長さにも拘らず退屈しない。
 最終的には歴史通りにファシスト党が敗北し、数々の悪事をなしたアッティラは農民らに殺されてしまう。
 一見、農民解放の階級闘争の勝利を描く作品のように見えるが、実は近代化の中でアイデンティティを失っていく農園主の物語。
 本作には祖父・父・息子と3代の農園主が登場するが、祖父(バート・ランカスター)は土を耕すことのない農園主の意味のない一生を顧みて自殺してしまう。父(ロモロ・ヴァリ)は欲深い有産階級として小作人を搾取、息子のアルフレードは友人と妻の信頼を失って農園経営の興味を失ってしまう。
 アルフレードには有産階級への嫌悪から家を捨てて都会で暮らす伯父(ヴェルナー・ブルーンス)がいて、影響を受け、妻ともその紹介で知り合うが、その伯父もオルモの件でアルフレードに失望して去ってしまう。
 終戦による農地解放で農園を失ったアルフレードは小作人たちによって人民裁判にかけられるが、オルモが農地解放で地主は死んだという詭弁で窮地を救う。
 ラストシーンはそれから何十年か後の爺さんとなったアルフレードとオルモが、少年時代同様の喧嘩友達となった姿で、二人の間に立ちはだかる階級の壁がなくなったことを示して終わる。
 デ・ニーロと悪漢ドナルド・サザーランドの演技がとりわけ光る。 (評価:4)

製作国:日本、フランス
日本公開:1976年10月16日
監督:大島渚 製作:若松孝二 脚本:大島渚 撮影:伊東英男 美術:戸田重昌 音楽:三木稔
キネマ旬報:9位

性を通した究極の愛の形に人間の悲しみが胸に染みる
 仏語タイトルは"L'Empire Des Sens"で、官能の帝国の意。corridaは、スペイン語で闘牛の意。
 昭和11年の阿部定事件を描くもので、定が吉田屋の女中として働き始めてから、主人の吉蔵の愛人となり、待合旅館で情交を重ねた上、吉蔵を扼殺し、包丁で性器を切り取るまでが描かれる。
 前年公開された田中登監督『実録 阿部定』に続くもので、『実録 阿部定』がタイトル通りの阿部定事件顛末記であるのに対し、本作は事件に至る定(松田暎子)と吉蔵(藤竜也)の心情に焦点を絞った、心理ドラマとなっている。定はなぜ吉蔵を殺して局部を切り取ったのか? 吉蔵はなぜそれを許したのか? というこの猟奇事件の最大の謎に迫るもので、大島はこの問いに答える作品に仕上げている。
 吉蔵との愛人関係に陥った定は、その独占欲から妻のいる吉蔵を独り占めし、肉体的にも精神的にも時間的にも空間的にも吉蔵との一体化を欲するようになる。定にとっては吉蔵と常に繋がっていることが究極の愛の形で、その象徴となるのがコネクターとしての吉蔵の性器となる。それゆえ定は吉蔵の性器を切り離し、所持することで完全なる吉蔵との一体化を成就する。
 大島は、そうした定の心理の過程を丹念に追っていくことで、これが単なる猟奇事件ではなく、定と吉蔵の愛の成就、道行であることを示そうとする。
 定にとって吉蔵との愛は、精神と一体となった肉体的繋がり、性愛そのものであることから、とりわけ吉蔵の性器、性描写は避けて通れない。そのことから、大島は当時、性描写の規制が厳しく日活ロマンポルノで猥褻罪裁判が係争していた日本を避けて、フランスとの製作により表現の規制を逃れた。
 公開当時はハードコア・ポルノと喧伝され、日本の上映ではかなりの修正が入り、ボケたスクリーンを延々と眺めた記憶があるが、改めて無修正版を見ると、成人指定はともかく、本作が徒に欲情を煽る作品ではないことがわかる。
 それでも藤竜也の常時勃起している性器は本物か? とか、本物だとしたら勃起させて撮影するのは大変だったんじゃないかとか、邪念が入って、もう少し露出を減らしても良かったんじゃないかとか、定と吉蔵の常人の及ばぬ性欲に感心したりする。
 定の性愛に応えようと精力を絞り出し、命さえ差し出す吉蔵のやさしさもまた究極の愛の形で、見終われば、性を通した人間の悲しみが胸に染みる。 (評価:4)

製作国:フランス
日本公開:1976年12月11日
監督:フランソワ・トリュフォー 製作:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、シュザンヌ・シフマン 撮影:ピエール=ウィリアム・グレン 音楽:モーリス・ジョーベール
キネマ旬報:3位

デリケートで不器用でかけがえのない思い出
 原題"L'Argent de poche"で、お小遣いの意。
 フランスの真中にある地方都市ティエールの小学校を舞台に、子供たちの子供らしい生態を点描した好編。ハンガーストライキを起こして親に反抗する少女、級友の頭をカットして散髪代を巻き上げる兄弟、万引きしている貧困家庭の転校生・・・といった悪ガキどものエピソードを横糸にしながら、パトリック少年の恋の芽生えを縦糸に描いている。
 パトリックは友達の美人ママに恋していて、友達との映画館でのダブルデートにも魅かれない。美人ママに花束を贈るものの父親からのプレゼントと勘違いされ失意するものの、夏休みの林間学校でガールフレンドができ、初キッスをする。
 舞台をフランスの真中にあるティエールに置いたのは、この作品に登場する子どもたちがフランスの子供たちの平均像であり、子供たちに対する大人や社会の姿もまたフランスの平均的な姿だというトリュフォーの意図なのだろう。
 子供たちの心を理解しようとせず、やみくもに力で抑えつけ、言うことを聞かせようとする大人たちに対する子供たちのレジスタンス、立場の弱い子供たちを象徴するエピソードとして、貧困家庭の転校生が母と祖母に虐待を受けていたことが明かされる。
 この時の小学校教師の子供たちへの演説にトリュフォーの制作意図のすべてが語られているが、いささかストレートすぎるのがバランスを欠く。
 それでも子供たちのエピソードがどれも微笑ましく、少年期の未成熟でデリケートで不器用な、かけがえのない時期を思い出させてくれるのがいい。 (評価:3)

製作国:イギリス
日本公開:1977年8月27日
監督:スチュアート・ローゼンバーグ 脚本:スティーヴ・シェイガン、デヴィッド・バトラー 撮影:ビリー・ウィリアムズ 音楽:ラロ・シフリン
キネマ旬報:7位

ユダヤ人を迫害したのはナチスだけでなかったという実話
 原題"Voyage of the Damned"で呪われた航海の意。ゴードン・トーマスとマックス・モーガン・ウィッツの同名ノンフィクションが原作。
 ドイツ軍によるポーランド侵攻直前の1939年5月、ハンブルクからユダヤ人を乗せてハバナに出航した豪華客船セントルイス号の実話がベース。
 ナチスはユダヤ人迫害の国際世論をかわすために彼等をハバナに送り出すが、深謀遠慮があって、ハバナで反ユダヤ感情を高めて、大統領が上陸許可を出さないように策略を巡らす。このため、セントルイス号はハバナの港に停泊したまま、ついにはハンブルクに引き返すことになる。
 途中、アメリカの沿岸警備隊からは接岸を拒否され、ヨーロッパ各国からも入港許可が下りない。
 つまりは、ユダヤ人が世界の国々から嫌われていることを宣伝し、ナチスによるユダヤ人迫害を正当化するプロパガンダにセントルイス号が利用される。
 そうして、邦題のように彷徨うユダヤ人の苦難を出エジプト記になぞらえ、ナチスの諜報員が紅海を渡るモーゼの奇跡を茶化して、ハバナからハンブルクへ海を歩いて行けばよいと言う台詞も登場する。
 ユダヤ人家族の悲劇と苦悩、航海中に芽生える船員との恋などを織り交ぜて、約3時間を飽きさせない。
 最終的にはヨーロッパ各国がセントルイス号の乗客の上陸を認めるが、その後の第二次世界大戦で各国がドイツ軍に占領されると、九死に一生を得たはずの乗客たちの多くが収容所送りとなり、殺されてしまったという結末が悲しい。
 ユダヤ人迫害の一つのエピソードでありながら、実のところ、ユダヤ人を忌避していたのはドイツ人だけでなかったという事実が重く、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われてきた歴史に思いが至る。
 乗客にフェイ・ダナウェイ、オスカー・ウェルナー。船員にマルコム・マクダウェル、キューバの長官にオーソン・ウェルズ。キャサリン・ロスが娼婦役の演技で頑張って、ゴールデングローブ助演女優賞を受賞している。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1977年4月16日
監督:ジョン・G・アヴィルドセン 製作:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 脚本:シルヴェスター・スタローン 撮影:ジェームズ・クレイブ 音楽:ビル・コンティ
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

自己再生を目指す、感動的なヒューマンドラマ
 原題"Rocky"。三流ボクサーの黄昏を迎えつつ、高利貸しの取り立てをして暮らしているロッキー・バルボアが、恋人を得て、対戦相手の見つからない最強世界チャンプ、アポロ(カール・ウェザース)のタイトルマッチのオファーを受けるという幸運に恵まれ、人間としての再起を図っていくという話。
 負け犬になりかかっているダメ人間が、心の支えとなるパートナーに出合い、試合の勝敗ではなく、15回戦を戦い抜くという自己再生を目指す、感動的なヒューマンドラマになっているが、恋人エイドリアン(タリア・シャイア)が垢抜けない女なのがいい。
 シルヴェスター・スタローンが一躍スターとなった作品で、テーマ曲も有名になったが、格闘技映画の常道を外した負けて終わるというラストが上手く、勝って終わっていたらおそらく続編はなかったに違いない。
 リング上の乱打戦はとても15回までもたないような打ち合いで、ノーガードもリアリティに欠いてやや白ける。
 ジョー・フレージャーがゲスト出演。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1980年12月13日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:アルベルト・グリマルディ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、ベルナルディーノ・ザッポーニ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:9位

機械人形を演じる女優のパントマイムは無形文化財級
 原題は"Il Casanova di Federico Fellini"(フェデリコ・フェリーニのカサノヴァ)で、18世紀ヴェネツィア生まれのカサノバの女性遍歴の生涯を描いた作品。
 ヴェネツィアのカーニバルから始まり、老いてボヘミアで寂しく思い出に耽るまで。女たらしの一生をセックス中心に描いただけの中身のない物語で、実際ドラマ性もヤマもオチもないのでストーリー的には飽きる。
 そんなどうでもいい男のどうでもいい話を、どうしてフェリーニが映画にしたのかという意図を忖度しても仕方ないが、映画芸術的にはフェリーニの様々な試みが面白い。
 フェリーニはリアリズムを徹底的に排除していて、大掛かりなセットやデフォルメしたメイクや衣装によって、退廃した人々と社会、そこから生まれる孤独と空虚を描き出す。それが、制作意図的にはフェリーニが描きたかったものかもしれない。
 全体に舞台美術的で、猛り狂う夜の荒波を黒いビニールシートで表現するシーンは必見。セックスシーンも直接的な描写は行わずに、服をつけたままで俳優に交合や体位を演じさせるが、暗喩的なだけに直接描写よりもエロチックだったりする。
 丑の刻参りのように頭に燃え盛るローソクを何本も突き立ててセックスするシーン、御者との精力を競うシーン、黄金の鳥がカサノバのエレクトをモニター化して羽をばたつかせたり跳ねたりするシーンは爆笑もの。
 秀逸なのは最後に登場するゼンマイ仕掛けの美女人形で、要はダッチワイフなのだが、機械人形を演じる女優のパントマイムは無形文化財級で、それを見るだけでもこの映画の価値はある。
 結局のところ、多くの女性遍歴を重ねたカサノバにとって、唯一心を許し癒してくれたのはこの機械人形だったというオチで、女性のみならず人間一般への不信の映画ともいえる。
 老若美醜を問わず女性に奉仕する博愛のカサノバを演じるのはドナルド・サザーランドで、ニーノ・ロータの不思議系の音楽もいい。 (評価:2.5)

ビッグ・アメリカン

製作国:アメリカ
日本公開:1977年6月4日
監督:ロバート・アルトマン 製作:デヴィッド・サスキンド 脚本:アラン・ルドルフ、ロバート・アルトマン 撮影:ポール・ローマン 音楽:リチャード・バスキン
ベルリン映画祭金熊賞

西部劇を通した西部劇というのが異色な作品
 原題"Buffalo Bill and the Indians, or Sitting Bull's History Lesson"で、バッファロー・ビルとインディアン、またはシッティング・ブルの歴史の授業の意。アーサー・コピットの戯曲"Indians"が原作。
 アメリカの西部開拓者バッファロー・ビルの実話で、19世紀末にビルが率いた西部劇の見世物"Wild West Show"を描いたもの。
 インディアンによる駅馬車襲撃ショーや射撃の名手アニー・オークレイ(ジェラルディン・チャップリン)の曲撃ちを興行していたビル(ポール・ニューマン)が、ショーアップを図るためにスー族の酋長シッティング・ブルをスカウト。カスター将軍の最期となるリトルビッグホーンの戦いを上演する。
 ブルはたちまち人気者となるが、この話の焦点は、カスター将軍の最期がスー族の卑怯な攻撃によるものとビルが描くのに対し、シッティング・ブルが真実を描けと抗議する二人の対立。ブルは代わりに騎兵隊のスー族の村の虐殺を描けという。
 ビルはもちろんこれを退け、ブルをクビにする。そうして伝記作家ネッド(バート・ランカスター)よって創り出された西部ヒーローとしての座を保つのだが、その虚飾のヒーロー像とそうしたヒーローを主役とする西部劇の欺瞞を描く。
 現実にあった西部劇を通した西部劇というのが本作の異色なところで、西部劇の作り手たちの欺瞞と人種差別をバッファロー・ビルという同時代の西部劇ヒーローを通して描くが、同時に本作制作時の西部劇の作り手たちとその観客への皮肉ともなっていて、アメリカン・ニューシネマの息吹きを感じ取ることができる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1977年1月29日
監督:シドニー・ルメット 製作:ハワード・ゴットフリード 脚本:パディ・チャイエフスキー 撮影:オーウェン・ロイズマン 音楽:エリオット・ローレンス
キネマ旬報:2位

堕落していく情報ネットワーク社会の今日を予見?
 原題"Network"で、本作ではテレビ放送網のことを指す。
 架空の全米ネットワークUBSのニュースキャスター(ピーター・フィンチ)が視聴率低迷から降板することになり、破れかぶれの本音トークをしたところが人気急回復。視聴者が欲しがっているのはニュースではなくショーで、テレビ経営者が欲しがっているのは視聴率と広告収入、系列局からのネット収入だという風刺ドラマ。
 降板が決まって放送中に拳銃自殺すれば視聴率が上がるんじゃないかとか、セックスよりも視聴率の方が興奮するという女性プロデューサー(フェイ・ダナウェイ)、テロリストに資金を渡して犯行を撮影したビデオで番組企画したりとか、テレビ局の腐敗ぶりを描く。本音トークにも陰りが出るが、経営者の立場を代弁したために社主が解雇せず、プロデューサーが放送中にテロリストに銃殺させるという幕切れ。
 1970年代のテレビ絶頂期の作品で、新聞などの活字メディアに対する新興メディアの位置づけで、ジャーナリズムとしてのいかがわしい内実を暴くという、当時なりの意味のある作品だったが、活字メディアが凋落し、放送メディアもインターネットなどの新興メディアに主役交代しつつある現在では、昔話になっている。
 もっとも、本作が描くメディアの商業主義・大衆迎合主義・虚構性については、そのままインターネットメディアに敷衍することができ、真実よりも話題性という、ソーシャルネットワークを含めて堕落していく情報ネットワーク社会の今日を予見していたという点では、今観ても意味のある作品かもしれない。
 ニュースキャスターの友人であり女性プロデューサーの恋人でもあるテレビ局幹部にウィリアム・ホールデン。ピーター・フィンチとフェイ・ダナウェイはアカデミー主演男優・女優賞を受賞。 (評価:2.5)

ミズーリ・ブレイク

製作国:アメリカ
日本公開:1976年8月28日
監督:アーサー・ペン 製作:エリオット・カストナー ロバート・M・シャーマン 脚本:トーマス・マクゲイン 撮影:マイケル・C・バトラー 音楽:ジョン・ウィリアムズ

M・ブランドとJ・ニコルソンの演技派対決は負けたブランドの勝ち
 原題"The Missouri Breaks"で、ミズーリ川の裂け目の意。モンタナ州のカナダ国境に近いミズーリ川流域の地域名。
 西部開拓時代のミズーリ・ブレイクが舞台。馬泥棒一味を率いるトム・ローガン(ジャック・ニコルソン)とその始末のために牧場主に雇われた整理屋クレイトン(マーロン・ブランド)の駆け引きを描く物語で、味付けにローガンに恋する牧場主の娘ジェーン(キャスリーン・ロイド)が加わる。
 ローガンは列車強盗の金で馬を売り捌くための中継用の牧場を手に入れ、畑まで作り始めて馬泥棒であることを偽装するが、クレイトンはこれを見破り一味を一人ずつ処刑していく。
 この処刑ぶりがハードボイルドで、カナヅチ男(ランディ・クエイド)をミズーリで溺死させ、間男(ジョン・ライアン)をセックス中に射殺…放火、手裏剣まで使う。
 こうして、クレイトンvsローガンの一騎打ちとクライマックスに進むのだが、クレイトンの就寝中にローガンが文字通り寝首を掻くという呆気ない、期待外れの幕切れで、討ち入りのない忠臣蔵みたいに画竜点睛を欠く。
 双眼鏡でローガンを監視するピーピング・トムはクレイトンの方で、これが変質者のようで気味悪く、マーロン・ブランドとジャック・ニコルソンの演技派同士の対決は、殺されるブランドが一枚上。
 この二人の演技が最大の見どころだが、それでも不気味なニコルソンにジェーンが一目惚れするのは無理がある。 (評価:2.5)

テナント 恐怖を借りた男

製作国:フランス
日本公開:劇場未公開
監督:ロマン・ポランスキー 製作:アンドリュー・ブラウンズバーグ 脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:フィリップ・サルド

私生活同様にポランスキーが怪演する異常心理スリラー
 原題"The Tenant"で、賃借人の意。ロラン・トポールの小説"Le Locataire chimérique"(怪物の貸借人)が原作。
 ポランスキーらしい異常心理スリラーで、自殺した娘の部屋を間借りすることになった青年が、不可解なほどに口うるさく青年の生活に介入する家主(メルヴィン・ダグラス)・管理人(シェリー・ウィンタース)・住民たちに囲まれて暮らすうちに不安感を増し、次第に自殺した娘に同化して自殺に追い込まれるという物語。
 青年に娘の霊が憑依したのか、はたまたその部屋に住む者を狂気に駆り立てる悪霊が棲みついているのか、はたまたアパート又は周囲の人間が青年を狂気に駆り立てる悪霊なのか、観客は青年同様に狂気に追い込まれてゆき、正気との境を行き来することになる。
 この手の狂気モノにおけるポランスキーの演出手腕は抜群で、一ヶ所だけ青年がアパートの管理人に襲われる幻覚を見せる場面があって、怪異現象がすべて青年の異常心理によるものであることを示唆する。
 ただなぜ青年が異常心理に追い込まれたかについては答えてなく、住民たちの行動にも合理的な説明がつかないものもあって、アパートに青年を狂気に追い込むものがあったようにも取れるが、その解釈の多様性と不条理がポランスキーならではのスリラーで、楽しめるものとなっている。
 主人公の青年をポランスキー自身が演じるが、異常心理を持つキャラクターを私生活同様に怪演する。
 自殺した娘の友人にイザベル・アジャーニ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1976年8月7日
監督:アラン・J・パクラ 製作:ウォルター・コブレンツ 脚本:ウィリアム・ゴールドマン 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:デヴィッド・シャイア
キネマ旬報:10位

開く前に幕が下りてしまうウォーターゲート事件序曲
 原題は"All the President's Men"。ウォーターゲート事件を取材したワシントン・ポストの2人の記者、カール・バーンスタインとボブ・ウッドワードの同名手記(邦題は『大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日』)が原作。2人はこの報道で1973年のピュリツァー賞を受賞している。
 事件が起きたのは1972年。本作は事件直後の記憶も鮮明な時期に作られたために、多くの説明を既知のものとして省いている。しかし40年経つと、事件の記憶は薄れ、輪郭も曖昧になる。手記を基にしたドキュメントを忠実に追いかけているために、2人の記者が一所懸命に事件を追いかけている単なる記録でしかない。
 記者魂や政治とマスコミのドラマが描けているわけでもなく、記者の取材日記の域を出ず事件の全体像を描いているわけでもないので、半世紀近く経つと映画としての価値を失う。ニクソン辞任にいたるこの事件の主戦場となる上院ウォーターゲート特別委員会は1973年以降になるが、本作のラストシーンは1973年1月の大統領就任式まで。
『忠臣蔵』でいえば、討ち入り前で話が終わるようなもの。それを前提とした映画なのに、テーマが事件なのか報道なのかという制作のスタンスが曖昧なままに作られたため、歳月には耐えられない。ウォーターゲート事件の発端を史料的に知るにはいいが、事件の全容を知った上で見ないと置いてけぼりを喰らうこと必定。
 2人の記者に扮するのはダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォード。熱血記者を演じるが、それ以上の演技にはなっていない。 (評価:2)

マラソンマン

製作国:アメリカ
日本公開:1977年3月26日
監督:ジョン・シュレシンジャー 製作:ロバート・エヴァンス、シドニー・ベッカーマン 脚本:ウィリアム・ゴールドマン 撮影:コンラッド・ホール 美術:リチャード・マクドナルド 音楽:マイケル・スモール

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のホラーではなくサスペンス
 原題"Marathon Man"で、マラソンの男の意。ウィリアム・ゴールドマンの同名小説が原作のサスペンス映画。
 主人公ベーブ(ダスティン・ホフマン)はマラソンが趣味の大学生。実業家の兄ドク(ロイ・シャイダー)が、実は故買をしているグループの一員で、元ナチ党員のゼル(ローレンス・オリヴィエ)がユダヤ人から巻き上げてニューヨークの銀行の貸金庫に隠しているダイヤの取引に絡んだことから、事件に巻き込まれる…らしい。
 らしい、というのは劇中で事件の背景が全く説明されず、ナチ残党だとか、南米だとか、赤狩りだとか、謎めいたキーワードを散りばめている割にはデコレーションだけに終わっていて、要はアクションドラマをミステリアスに見せるだけの目晦ましでしかない。
 兄がなぜ殺されたのか、兄がどのような秘密を握っていたのか、ベーブに近づく女が何者なのか、組織が何を企んでいたのかの説明はなく、もとよりそのような設定はなくて単にこけおどしのようにも見える。
 それでもノリだけでスパイ映画もどきに見せる演出はよくできていて、それなりにスリリングなのだが、見終わって「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のホラー映画を見せられたような気になる。
 ベーブが拷問を受ける歯医者のシーンが怖い。ベーブが拷問先から逃げ出し追いかけられるも、普段のマラソンの練習が役に立ったというのがタイトルであり、オチ。 (評価:2)

Mr.BOO!ミスター・ブー

製作国:香港
日本公開:1979年2月3日
監督:マイケル・ホイ 製作:レイモンド・チョウ 脚本:マイケル・ホイ 撮影:チャン・ヤオ・チュウ 音楽:サミュエル・ホイ、ザ・ロータス

人気は出たが、ギャグはパワフルさに欠ける
 原題"半斤八两"。中国の成句で「似たり寄ったり」の意。尺貫法の重さの単位で、半斤が8両に相当することから。英題の"The Private Eyes"は私立探偵たちの意。邦題はオリジナル。
 マイケル・ホイ演じるウォン所長の探偵事務所が舞台の香港コメディ。美人秘書のジャッキー(テレサ・チュウ)、探偵助手のフグ(リッキー)のちっぽけな事務所に、工場を首になったレイ(サミュエル・ホイ)が雇われて、さまざまな依頼をさばいていく。
 設定はそれだけで、浮気捜査や、スーパーの万引き等々に路上強盗一味や爆弾男が絡み、あとはギャグでどれだけ笑わせるかというのが香港コメディの腕の見せ所だが、面白いのもあればありきたりのもあって、『霊幻道士』『少林サッカー』などのパワフルさに比べると、だいぶ劣る。
 総花的にコミカルな事件を寄せ集めただけで、全体を貫くメインストーリーがないのが辛い。
 ギャグとしてはソーセージのヌンチャクや、中華鍋の穴で顔に小麦粉の斑模様ができるシーンなどが笑えるが、どれも一発芸でしかない。
 もっとも、そこそこヒットして、日本ではマイケル・ホイの作品が『Mr.BOO!』シリーズとして公開された。 (評価:2)

製作国:イタリア
日本公開:1979年7月28日
監督:マリオ・バーヴァ 製作:テューリ・ヴァーシル 脚本:ランベルト・バーヴァ、フランチェスコ・バルビエリ、パオラ・ブリジェンティ、ダルダーノ・サケッティ 撮影:アルベルト・スパニョーリ 音楽:イ・リブラ

犯行現場の家に帰ってくるバカな夫婦のバカなホラー
 原題"Schock"。  プロローグより1970年代イタリアン・ホラーの安っぽさが感じられるB級感溢れる作品。
 亡夫との間のマルコ(デヴィッド・コリン・Jr)を連れ子にパイロットのブルーノ(ジョン・スタイナー)と再婚した美人妻ドーラ(ダリア・ニコロディ)は、よせば良いのに亡夫と暮らした故郷の家に帰ってくる。
 当然、亡夫の怨霊がマルコに取り憑きドーラに嫌がらせを始めるが、それもその筈、自殺だとされている亡父アルド(イヴァン・ラシモフ)はドーラに殺されていて、ドーラはショックの余り、その記憶を失っているという設定。
 引っ越したいというドーラにブルーノは気のせいだと取り合わないが、アルドの死体をレンガ壁の裏に隠したのはブルーノで、夫婦揃って死体まで埋まっている因縁の家に帰ってくるという神経がよくわからない。
 ドーラに対するブルーノの嫌がらせのようにも見えず、相当にバカなんじゃないかと思っていると、ラストシーンで狂気に陥ったドーラにアルドと同じように殺されて壁に隠されてしまうから、やっぱりバカなのかもしれない。
 記憶を失っていたドーラは、マルコに取り憑いたアルドによって殺害を思い出し、最後は幻覚を見させられて、自ら首を掻っ切って自殺。
 アルドが二人に復讐を果たして終わるが、憑依されたマルコが孤児になっても楽しそうに遊んでいるのが、一番のホラー。
 ホラー演出もドッキリカメラ的に脅かすというB級で、捻りが足りない。 (評価:2)

イレイザーヘッド

製作国:アメリカ
日本公開:1981年9月12日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:デヴィッド・リンチ 脚本:デヴィッド・リンチ 撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:ピーター・アイヴス

夢ないしは幻想、ないしは幻覚・トリップの映画
 原題"Eraserhead"で、鉛筆の頭についている消しゴムのこと。
 デヴィッド・リンチが自主制作した初めての長編映画で、内容的にはカルト・ムービー。『エレファント・マン』(1980)の後に日本でも公開されて話題となった。
 カルト・ムービーについて説明しても詮無いが、おおよそ、これは主人公の夢ないしは幻想、ないしは幻覚・トリップの映画だと考えた方が理解しやすい。
 夢にリアリティと脈絡がないのと同様、本作にもその二つがない。一応ストーリーらしきものはあって、舞台はフィラデルフィア。
 消しゴム頭のような髪型の印刷工がガールフレンドの家の夕食に招かれ、彼女が妊娠したことを知る。生まれてきた赤ん坊は古事記のヒルコのような奇形で、夜泣きに耐えられなくなった彼女は実家に帰ってしまい、青年が育児する。アパートの隣の女が部屋にきて懇ろになるも、女は中年男を自室に引き入れて青年をポイ捨て。ラジエーターに住むおたふく顔の女の幻を見て、ヒルコに困った青年は鋏で殺してしまう。
 そして夢ないしは幻想、ないしは幻覚・トリップにいる冒頭の状態に回帰して終わる。
 カルト・ムービーなので、面白い人には面白く、面白くない人には面白くないが、ヒルコのような奇形児はなかなかよくできていて、クリーチャーは頑張っているかもしれない。 (評価:1.5)

デュエル

製作国:フランス
日本公開:2022年4月8日
監督:ジャック・リヴェット 製作:ステファーヌ・チャルガディエフ 脚本:エドゥアルド・デ・グレゴリオ、マリル・パロリーニ、ジャック・リヴェット 撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー

とにかく面妖であるということが唯一の見どころのダーク・ファンタジー
 原題"Duelle (Une quarantaine)"で、決闘(40)の意。
 一言で言えば月の女王と太陽の女王が対決するというダーク・ファンタジーだが、アマチュアが自己満足的な世界観のファンタジーを創作したのに似ていて、一般人に見せるような作品にはなっていない。
 月の女王と太陽の女王の女王はファッショナブルな人間に化身していて、それぞれレニ(ジュリエット・ベルト)とヴィヴァ(ビュール・オジエ)を名乗るが、二人ともブロンドなのが可笑しい。
 二人は冬の新月から春までの40日間だけ地上に留まることができるが、地上に生を受けることができるという魔法の宝石を巡って争奪戦を繰り広げるという物語。
 これに宝石を持っている男、レニに男を探すように依頼されるホテルの娘、高級売春婦などが絡むのだが、二人の女王がなぜ地上に生きたいのかとか、男がなぜ宝石を持っているのかとか、女たちがなぜ殺されたのかといった説明が欠けているために、雰囲気だけで話が進み、よくわからないままに終わる。
 この作品に付き合うにはかなりの忍耐が必要だが、とにかく面妖であるということが唯一の見どころで、あとはビュル・オジェの妖艶な太陽の女王ぶりとファッションを楽しむしかない。 (評価:1.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1977年3月3日
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:ポール・モナシュ 脚本:ローレンス・D・コーエン 撮影:マリオ・トッシ 音楽:ピノ・ドナッジオ 美術:ジャック・フィスク

キャリーは生理を迎えるたびに超能力がパワーアップするのか?
 原題"Carrie"で超能力少女の名前。スティーヴン・キングの同名処女小説が原作。
 原作があるのでデ・パルマだけの責任ではないのだが、話があまりに幼稚。初潮を迎えたキャリーが超能力の才能を手に入れるというのもなんで、じゃあ生理を迎えるたびにパワーアップするのか? とか、閉経したら超能力もなくなるのかといった設定遊びをしたくなる。
 それをクラスメートの女の子たちがからかって、先生に怒られてキャリーに逆恨みするのだが、ナプキンがおむつのように巨大なのはアメリカなので仕方が泣いといても、シャワー室の棚に大量の生理用ナプキンが置かれているのは謎。
 夫に逃げられた母親が厳格なクリスチャンで、生理はイブの原罪に始まるという創世記を持ち出す。超能力を振るうキャリーを魔女と罵るが、見た目は母親の方が魔女。母親の反対を押し切ってブロムにトムと出かけるが、苛めた罪滅ぼしだと言ってキャリーに恋人を差し出すスーもよくわからない。全滅のラストで彼女だけが功あって生き延びるが、なんかな~。
 逆恨みしたクラスメートの女の子たちは、ブロムのベストカップルにキャリーとトムを選び、晴れのステージで豚の血を浴びせるという幼稚園児でもやらないような悪戯をする。
 怒ったキャリーはブロム会場を炎上させて全滅、ついでに母親を磔刑にして家もろとも破壊。そして誰もいなくなったというアガサ・クリスティばりのエンディング。スーが悪夢を見て飛び起きるラストシーンも、オチなしで締まらない。
 デ・パルマらしく、画面2分割もあったりして、スクリーンは派手に血で赤く染まる。
 その豚の血を集める高校生? にジョン・トラボルタ。
 主演の地味なシシー・スペイセクは『歌え!ロレッタ愛のために』でアカデミー主演女優賞を受賞した。 (評価:1.5)

がんばれ!ベアーズ

製作国:アメリカ
日本公開:1976年12月4日
監督:マイケル・リッチー 製作:スタンリー・R・ジャッフェ 脚本:ビル・ランカスター 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽:ジェリー・フィールディング

シナリオと演出のあざとさばかりが際立つ後味の悪い作品
 原題"The Bad News Bears"で厄介者ベアーズの意。
 落ちこぼればかり集めた少年野球チーム・ベアーズのコーチを任された、元マイナーリーグ選手がベアーズを決勝戦に導く物語。
 このコーチ(ウォルター・マッソー)自身が、野球人としても父親としても落ちこぼれで、ウイスキーをビールで割って飲むような飲んだくれ。かつて英才教育を施した娘(テイタム・オニール)と不良の少年でチームを強化し、最後はチーム一丸となって、というよくあるコンセプトのストーリーで、それなりに楽しめ人気となったことから続編も製作された。
 基本は子供が主体のコメディーだが、シナリオ的には問題も多く、バイクを乗り回す少年から煙草の火を借りたり、試合に勝って子供たちがビールで祝杯を挙げるシーンもある。そうしたことが、落ちこぼれだが話の分かる大人という前世紀的な発想で作られていて、ストーリーの粗さにも繋がっている。
 そもそも野球をやったことのないような少年ばかりのベアーズが、リーグに存在していることが不自然。コーチに対しても不遜で、話の分かる大人同様、ステレオタイプな落ちこぼれの糞ガキを強調する意図があざとい。
 二人が加入して見違えるように快進撃する試合のシーンに付ける劇伴音楽、ビゼーの『カルメン』がまた恥ずかしいくらいにあざとい。
 投げ過ぎで肘を痛めている娘にバケツの水で冷やさせて投げさせたり、わざとデッドボールをとらせたり、勝つためになりふり構わず指示を出して子供たちの反発を買い、ラストで心を入れ替えて負けてもいいから全員野球という180度の転換もあざとい。
 ライバルチームのコーチも大人げない作戦指示で醜さを発揮し、心を入れ替えたベアーズ・コーチと対照をなすという勧善懲悪の使い古された作劇の手口もあざとい。
 全編に渡ってシナリオと演出のあざとさばかりが際立ち、落ちこぼれ少年たちが野球に夢を見出すという清新なコンセプトが、大人の計算づくの意図丸出しで薄汚れてしまい、後味の悪い作品となっている。 (評価:1.5)

ノロワ

製作国:フランス
日本公開:2022年4月8日
監督:ジャック・リヴェット 製作:ステファーヌ・チャルガディエフ 脚本:エドゥアルド・デ・グレゴリオ、マリル・パロリーニ、ジャック・リヴェット 撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー

ちょうど理解不能な数学の授業を受けているのに似ている
 原題"Noroit"で、北西風の意。17世紀のイングランドの作家トマス・ミドルトンの戯曲"The Revenger's Tragedy"(復讐者の悲劇)に基づいている。
 大西洋の小島を舞台に、古城を根城にする海賊団に弟を殺されたモラグ(ジェラルディン・チャップリン)が、エリカ(キカ・マーカム)をスパイにして、首領ジュリア(バーナデット・ラフォント)に復讐を誓い、海賊団13人を一人ずつ殺害して全滅させ、エリカとモラグも死んで、そして誰もいなくなった…という物語。
 もっとも説明不足のためにストーリーがほとんど理解不能で、しかも女海賊ばかりが登場して女の戦いを繰り広げるためにアクションと迫力に乏しく、キャラクターの描きわけも出来ていないので、頭に靄がかかり、集中力を維持できなくなる。
 ちょうど理解不能な数学の授業を受けているのに似ていて、女海賊たちに剣ならぬチョークでも投げてもらわないと、それも二度三度と投げてもらわないと、気が遠くなって、ふと気づくと授業が終わっていたりする。
 そんな授業に2時間余りは長すぎて、ダラダラ説明を続ける数学教師が恨めしくなる。 (評価:1.5)

キングコング

製作国:アメリカ
日本公開:1976年12月18日
監督:ジョン・ギラーミン 製作:ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:ロレンツォ・センプル・Jr 撮影:リチャード・クライン 音楽:ジョン・バリー

キングコングではなく、ジェシカ・ラングが主役のPV
 原題""King Kong""。1933年""King Kong""のリメイクで、オリジナルのストーリーを下敷きに現代(公開当時)にアレンジし直している。
 西太平洋に海図にない霧に包まれた島があるという設定だが、人工衛星も飛ぶ時代にあまりに杜撰。しかも島には浜もオリジナル同様に原住民もいて、晴れて日も差し込むとあっては、いったいどこが霧に包まれた謎の島? 海底油田調査が目的だという船が冒頭、救命ボートで漂流する美女(ジェシカ・ラング)を救助するが、遭難した船を捜索せず、美女も沈んだ船の仲間たちのことはすっかり忘れて謎の島の浜辺で遊ぶ始末。
 ここまで見ると駄作臭プンプンで、どこから持ち出したのか美女が次々と服を変えて肢体を晒すだけのシーンを延々と見せて、シナリオも演出も超低空飛行。
 そこではたと気づく。そうか、これはジェシカ・ラングのPVなのだと。しかし、スタイルはいいがマリリン・モンローほどの色気も魅力もないので、ピンナップガール程度の掴みしかなく、おつむの弱いポルノ女優にしか見えない。
 オリジナルが人形アニメでキングコングや恐竜たちをフューチャーし、2005年の""King Kong""もCGで描くキングコングと恐竜の島が最大の売り物だったが、本作がキングコングではなくジェシカ・ラングを主役にした時点で大きな誤りを犯していて、このシナリオが出てきた時に没にすべき企画だった。
 オリジナルに比べ30分長いだけだが、テンポが悪い上に冗長でニューヨークのクライマックスシーンでさえ眠くなる。
 特撮もキングコングの動きが着ぐるみを着ただけの人間そのものの動きで、あまりにお粗末。当時の『ゴジラ』など日本特撮の方がまだマシ。『スター・ウォーズ』(1977)には遠く及ばないにしても、1968年の『猿の惑星』『2001年宇宙の旅』の猿の演技に何も学べていない、女のセミヌードで満足させられると考えた観客を舐めきった作品で、オリジナル『キングコング』に対して不敬。
 1976年版キングコングが最後に上るのはエンパイアステートビルではなく、ワールドトレードセンター。 (評価:1)


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