海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1974年

製作国:アメリカ
日本公開:1975年4月26日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フランシス・フォード・コッポラ、グレイ・フレデリクソン、フレッド・ルース 脚本:マリオ・プーゾ、フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ニーノ・ロータ、カーマイン・コッポラ
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞

アル・パチーノとデ・ニーロの競演が最大の見どころ
 マリオ・プーゾの同名小説"The Godfather"の続編をフランシス・フォード・コッポラと共同脚本。Godfatherは名付け親のことだが、ここでは犯罪組織のボスのこと。
 前作でコルレオーネ・ファミリーを継いでラスベガスに移ったマイケル(アル・パチーノ)が、権力を確立していくまでの話と、父ヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)の生い立ちと単身アメリカに移民してからマフィアとなっていくまでの若き日の物語が並行して描かれる。
 アカデミー脚本賞のコッポラの脚本は秀逸で、この二つの物語が単に並行するだけでなく、悲劇を迎えるマイケルと兄フレド(ジョン・カザール)の兄弟愛を切なく描きながら、ヴィトーが家族の生活を守るためにマフィアになったのと同様、マイケルが家族の命を守るために冷酷なゴッドファーザーとなっていく悲しい姿を重ねていく。
 ストーリーの縦軸は、ネバダの屋敷で命を狙われたマイケルと、マイアミのマフィア、ロスとの疑心暗鬼。上院委員会でマイケルが告発され、委員会の追及で窮地に立たされる。横軸は、妻ケイ(ダイアン・キートン)の離反、フレドとの確執、母の死、をめぐる家族の物語。前作でケイについたマイケルの嘘が、本作でも鍵となる。
 それと並行するヴィトーの物語は、コルレオーネ家の誕生物語で、父を殺されたヴィトーがシチリアに戻って復讐するまで。20世紀初頭のイタリア移民社会の姿も描かれる。
 最大の見どころはアル・パチーノの演技。マフィアを嫌っていたマイケルがファミリーを継ぎ、その結果、妻や兄との溝が広がる。妻は善良な家庭を望み、兄はドンとなったマイケルに嫉妬する。マイケルはファミリーのために、情を捨て冷徹なゴッドファーザーになっていくが、妻と兄を愛するマイケルの怜悧で孤独な、痛々しい姿をパチーノが名演する。マイケルの顔が映画の始めと終わりではまったく変貌している。妻を殴る時の真のマフィアの顔となったマイケルの演技は秀逸。
 一方、それと重なるのがヴィトーを演じるデ・ニーロで、家族を愛する良き夫、良き父のヴィトーが、家族のために善心を捨ててマフィアとなっていく姿がマイケルとの対照をなす。デ・ニーロの発声は、パート1のヴィトー役・マーロン・ブランドの声に似せている。アカデミー助演男優賞を受賞。
   アカデミー作曲賞のニーノ・ロータの音楽も素晴らしい。コッポラは監督賞も受賞。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1974年8月3日
監督: ジャック・クレイトン 製作:デヴィッド・メリック 脚本:フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ネルソン・リドル

村上春樹訳よりも素敵かも
 第一次世界大戦後、大恐慌前夜のアメリカン・ドリームとブルジョアジーの精神的退廃を描くスコット・フィッツジェラルドの小説が原作。映画は有楽座で上映され、当時あまり知られていなかった小説と作家を有名にした。その後、村上春樹が称賛したことから、今ではファンの多い小説。原題は映画・原作ともに"The Great Gatsby"。悲劇で始まり喜劇となって再び悲劇で終わる──という、フィッツジェラルドの小説の定型を踏んだ代表作でもある。
 軽佻浮薄なブルジョア女デイジーを演じるのがミア・ファロー。逃げ水のような彼女の幻影を追い掛けるギャツビーの滑稽な悲劇を原作は描いたが、フランシス・フォード・コッポラ脚本の映画は彼女を夫とともに精神的に退廃した女として、ギャツビーの夢の幻滅感を強調している。
 ミア・ファローはそんな女を好演しているが、残念なのはギャツビーが追い続けるほど魅力的な女に見えないことで、娘に対して言う「女はきれいでバカな方がいい(つまり自分は利口)」という台詞も説得力に欠ける。  レッドフォードの演技は決して上手くないが、美男だけにつまらない女に夢中になった愚かな男の雰囲気は良く出ていて、寂しげな男の哀愁が光る。空騒ぎを繰り広げる絢爛な豪邸の庭から、独り対岸の緑の灯を見つめるレッドフォードの表情が胸を締めつける。
 映像的にも当時の雰囲気がよく出ていて、オープニングとラストの荒廃したギャツビー邸の空虚さが効果的。好対照をなすエンディング・フィルムの浮かれた人々が、ギャツビーが緑の灯の中に疑わなかった遠ざかっていく"orgastic"(原作にあるF.S.フィッツジェラルドの造語=狂乱のオルガスムスといった意味)な未来を象徴する。
 公開当時から評論家の評価は今ひとつだったが、いま見ても佳作。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年3月21日
監督:ジャック・ヘイリー・Jr 製作:ジャック・ヘイリー・Jr 脚本:ジャック・ヘイリー・Jr
キネマ旬報:6位

ハリウッドがエンタテイメントで世界を凌駕した理由がわかる
 原題"That's Entertainment!"。
 MGMが創立50周年を記念して製作した、MGMミュージカルの40年を振り返るミュージカル作品のアンソロジー映画。
 トーキー初のミュージカル作品『ブロードウェイ・メロディー』(1929)に始まるMGMミュージカルの名シーンをフランク・シナトラ、エリザベス・テイラー、ミッキー・ルーニー、ジーン・ケリー、フレッド・アステア、ライザ・ミネリ、ビング・クロスビーらがプレゼンターとなって、テーマごとに紹介するという形式を採っている。
 プロローグは「雨に唄えば」がテーマで、ジーン・ケリーから遡り『ホリウッド・レビュー』ですでに歌われていたという紹介。
 以降、レヴューや各ミュージカル・スターがテーマとなっていくが、トーキーの草創期において、歌と踊りを華やかに見せるミュージカル作品が大量に作られ、ブロードウェイから歌や踊りなどの才能を呼び集め、ミュージカル作品の供給と発展を支えたという説明が、映画史的には興味深い。
 当初のミュージカル作品は質的に低いが、40年の間に俳優も演出も急速に磨き上げられ、ショーアップされていく様子が良くわかる。と同時に、ハリウッドがエンタテイメントで世界を凌駕していく理由─才能の層の厚さと切磋琢磨する環境、エンタテイメントに賭ける情熱と投じる巨費、その実行力が他と比較にならないことがわかる。
 本作を見ていると日本未公開の作品を含めて、あまり目にする機会のない作品が数多く登場し、ミュージカル映画の歴史の資料としても価値がある。名シーンの特集という点でも不世出のミュージカルスターの才能を堪能できる。
 プレゼンターがそれぞれ撮影所内の思い出の場所を訪れるので、ちょっとした撮影所見学ツアーにもなっている。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1977年11月19日
監督:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 製作:セルジュ・シルベルマン 脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:エドモン・リシャール
キネマ旬報:3位

自由の幻想に生きていることを理解できないと理解できない
 原題"Le Fantome De La Liberte"で、邦題の意。
 登場人物たちによって物語が次々にリレーされていくドラマで、プロローグは1808年のトレド。
 「自由くたばれ!」と叫ぶスペイン人たちを処刑するナポレオン軍の尉官が美女の墓を暴くシーンから、それを本で読んでいる婦人がいる現代パリの公園、そこを横切る少女たちが変質者風の男に写真を渡され・・・といったように繋がっていく。
 この写真を見た両親はいかがわしいと嫌悪するが、そこに写るのは凱旋門とか教会の塔とかで、見ようによっては性器のシンボライズに見えるが、要は自由というものの恣意性、常識に縛られて真の自由を理解できない人々を徹底的に茶化してやろうというのが、ブニュエルの意図。
 便器に座っての食事と逆に一人での食事を不浄なものとする対比や、酒・煙草・ギャンブルの修道僧、性的倒錯者などを登場させる。
 最後は二人の警視総監が仲良く動物園に行き、「自由くたばれ!」の声を聞くという不条理、ブラックコメディになっていて、これを面白いと感じるか、つまらない戯言と取るかは観客に任されるが、ブニュエルのいう我々は自由の幻想の中に生きているということを理解できないと、本作を楽しめないのかもしれない。 (評価:2.5)

製作国:ア​メ​リ​カ​、​フ​ラ​ン​ス​、​イ​タ​リ​ア
日本公開:1​9​7​5​年​4​月
監督:ポール・モリセイ 製作:アンドリュー・ブラウンズバーグ、アンディ・ウォーホル 脚本:ポール・モリセイ 撮影:ルイジ・クヴェイレル 音楽:クラウディオ・ジッツィ

可哀そうな吸血鬼を熱演するウド・キアが白眉
 ​原​題​は​"​B​l​o​o​d​ ​f​o​r​ ​D​r​a​c​u​l​a​"​(​ド​ラ​キ​ュ​ラ​の​た​め​の​血​)​で​処​女​は​関​係​な​い​が​、​処​女​の​血​以​外​は​受​け​付​け​ら​れ​な​い​と​い​う​の​が​ミ​ソ​。
​ ​初​め​て​見​た​時​は​、​こ​の​ト​ン​デ​モ​設​定​と​処​女​の​血​を​求​め​て​必​死​の​形​相​を​す​る​ウ​ド​・​キ​ア​の​演​技​に​抱​腹​絶​倒​し​た​が​、​次​第​に​名​作​な​の​で​は​な​い​か​と​思​い​始​め​た​。​見​る​た​び​に​評​価​が​上​が​る​不​思​議​な​作​品​。​改​め​て​見​て​、​本​作​ほ​ど​吸​血​鬼​の​哀​愁​を​描​く​こ​と​の​で​き​た​作​品​は​、​漫​画​や​小​説​を​含​め​て​他​に​な​い​の​で​は​な​い​か​。
​ ​滅​び​の​危​機​に​直​面​し​、​生​き​残​り​を​賭​け​て​カ​ソ​リ​ッ​ク​の​北​イ​タ​リ​ア​に​処​女​を​追​い​求​め​る​吸​血​鬼​。​し​か​し​、​1​9​世​紀​で​さ​え​処​女​は​稀​少​と​な​り​、​獲​物​を​直​前​に​し​て​好​色​な​若​者​に​奪​わ​れ​て​し​ま​う​。​喪​失​し​た​ば​か​り​の​床​に​流​れ​る​処​女​の​血​を​舐​め​る​吸​血​鬼​の​悲​し​い​ま​で​の​姿​。​お​そ​ら​く​は​吸​血​鬼​に​同​情​し​た​女​か​ら​よ​う​や​く​処​女​の​血​を​得​た​も​の​の​、​人​外​の​魔​物​で​あ​る​た​め​に​斬​殺​さ​れ​て​し​ま​う​。 ​ ​悲​し​き​絶​滅​危​惧​種​。​そ​の​可​哀​そ​う​な​吸​血​鬼​を​ウ​ド​・​キ​ア​が​顔​面​の​血​管​を​浮​き​上​が​ら​せ​、​血​反​吐​を​吐​き​な​が​ら​熱​演​す​る​。
​ ​美​人​4​姉​妹​の​父​君​侯​爵​に​ヴ​ィ​ッ​ト​リ​オ​・​デ​・​シ​ー​カ​、​ロ​マ​ン​・​ポ​ラ​ン​ス​キ​ー​も​出​演​。​ア​ン​デ​ィ​・​ウ​ォ​ー​ホ​ル​監​修​。 (評価:2.5)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1978年11月25日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ 脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、エンリコ・メディオーリ 撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス 美術:マリオ・ガルブリア 音楽:フランコ・マンニーノ
キネマ旬報:1位

改めて見直すとそれほどでもない疑似家族のコメディ
 原題"Gruppo di famiglia in un interno"で、屋内の家族集団の意。英題は"Conversation Piece"で、18世紀イギリスの会話する家族の集団肖像画のこと。劇中の教授がコレクターで、青年との美術談議に登場する。
 日本で絶賛され、ヴィスコンティ・ブームを巻き起こすきっかけとなった作品だが、改めて見直すとそれほどでもない。
 教授(バート・ランカスター)の住むローマの豪邸に伯爵夫人(シルヴァーナ・マンガーノ)が押しかけてきて、奇妙な連中が2階に住みついてしまうというコメディで、ひたすら孤独で静謐な隠者のような生活を好む教授の平穏な生活を破壊してしまうというもの。
 押しかけてくる連中というのが夫人の娘(クラウディア・マルサーニ)、その婚約者(ステファノ・パトリッツィ)、夫人の愛人(ヘルムート・バーガー)の3人。勝手に部屋を改造するわ、平気で嘘をつくわ、約束は破るわ、侵入者を呼び込むわ、警察の世話になるわで、その中心となるのが伯爵夫人の愛人。教授は青年の美貌と妖しい魅力に引き付けられるが、青年は自殺。息子のように慈しんだ教授は病に臥せってしまう。
 人との接触を嫌う教授に疑似家族がやってきて、教授を孤独から救い上げるという物語で、彼らを家族と思えば傍若無人も許せてしまうという、人と人との関係性がテーマだが、特別な視点を与えてくれるわけでもない。
 もっとも疑似家族の奇行の積み重ねで見せていくため盛り上がりに欠け、途中で若干退屈する。
 豪邸の室内は絵画や書棚などのアンティークな調度でヴィスコンティらしいが、ノーブルな絢爛豪華さと没落貴族の退廃の美には至ってないのがやや物足りない。テイスト的には『ベニスに死す』(1971)に近い。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年12月20日
監督:ポール・マザースキー 製作:ポール・マザースキー 脚本:ポール・マザースキー、ジョシュ・グリーンフェルド 撮影:マイケル・C・バトラー 音楽:ビル・コンティ
キネマ旬報:1位

人生に何が必要かを語る老人と猫のロードムービー
 原題"Harry and Tonto"で、ハリーは老人、トントはその愛猫の名。トントは1949~58年にテレビ放送されて人気だった『ローン・レンジャー』のインディアンの相棒の名から採られていると劇中で説明がある。
 このほか、映画公開時に放送中だった人気テレビドラマ『鬼警部アイアンサイド』の話題が再三登場。アイアンサイドがユダヤ系の名前だという話も興味深い。
 マンハッタンのアパートが取り壊されて住み家を失ったハリーが、トントを連れて子供たちの家を転々としながらシカゴ、ロスとアメリカを横断するロードムービー。1970年代の社会の価値観の変化を背景に、居場所を失った老人の孤高の放浪と初恋の人との再会、愛猫の死を描く佳作だが、初恋の人と出会った後のエピソードがいささか間延びしているのが残念。
 猫だけに『名犬ラッシー』のようには演技してくれず、可愛さだけでは旅の道連れとしては役不足。代りに長男の孫と、家出娘が旅を盛り上げる。
 認知症となっている初恋の人との出会いが最大の見せ場で、二人がダンスを踊るのを廊下の窓から家出娘が見守るカメラワークが秀逸。人生の悲哀を象徴するシーンとなっている。その後にトントが死んで一人ぽっちになったハリーが、海辺でよく似た猫を見かけて抱き上げるが、人生に何が必要かを語る。
 ハリー役のアート・カーニーが味のある演技でアカデミー主演男優賞を受賞。シェイクスピアを愛する多少頑固なインテリのハリーには、気の利いたセリフも多い。 (評価:2.5)

セリーヌとジュリーは舟でゆく

製作国:フランス
日本公開:1993年7月17日
監督:ジャック・リヴェット 製作:バルベ・シュローデル 脚本:ジュリエット・ベルト、ドミニク・ラブリエ、ビュル・オジエ、マリー=フランス・ピジェ、ジャック・リヴェット 撮影:ジャック・レナール 音楽:ジャン=マリー・セニア

ホラーでミステリアスでファンタスティックな不思議体験を楽しめる
 原題"Celine et Julie vont en bateau"で、邦題の意。
 パリの公園のベンチで図書館司書ジュリー(ドミニク・ラブリエ)が魔術の本を読んでいると、通り掛かったウサギならぬ魔術師セリーヌ(ジュリエット・ベルト)が落とし物をしてウサギ穴ならぬ町中に去っていき、それを追いかけたジュリーが迷宮に入り込む…という『不思議の国のアリス』に着想を得たコミカルなファンタジーで、二人を待ち受けるのはハートの女王ならぬ幽霊屋敷の亡霊たち。
 亡霊屋敷で得たキャンディを舐めると屋敷で起きた殺人事件を追体験でき、当初は断片的だったシーンが次第に物語として形を成していくが、不条理なストーリー構成を理解するまでがわかりにくいのを除けば、3時間余りの長尺ながらホラーでミステリアスな不思議体験を2人とともに楽しめる。
 屋敷内で殺されることになる少女(ナタリー・アズナル)を二人が助け出し、物語を変えてしまうが、『不思議の国のアリス』同様に最後は夢オチとなり、物語はプロローグに戻る。
 もっとも、夢物語で二人が何度も同化したり入れ替わったりした如く、ベンチに座っているのがセリーヌで、ファンタジーに誘うのがジュリーと入れ替わり、ネバーエンドとなるが、最後まで心地よいトリップ感が味わえる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年4月12日
監督:ロマン・ポランスキー 製作:ロバート・エヴァンス 脚本:ロバート・タウン 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
ゴールデングローブ作品賞

ラストシーンの車のクラクションが鳴りやまない
1930年代後半のロサンゼルスを舞台にしたサスペンス映画。ジャック・ニコルソンが私立探偵という、まだ比較的ノーマルな役を演じていた頃の作品。ポランスキーがチンピラ役で出演しているのも当時話題になった。
 探偵が騙されて殺人事件に巻き込まれてしまうという展開と、ラストの車がクラクションを鳴らしながら止まるという暗示的なシーンが印象的かつ名場面。オレンジ畑の広がる農園風景もいい。
 物語は町の有力者と水道局の癒着を中心に物語が進み、それにロス市警の腐敗や近親姦が絡む。ニコルソンは元警官で、孤軍奮闘しながらのアウトロー探偵ぶりがいい。シナリオもよくできていてサスペンス映画としては一級だが、作品的な深みにはやや欠ける。30年代の退廃的で虚無的な雰囲気を漂わせていて、アメリカン・ニューシネマ風。それを評価する人も多い。
 タイトルは原題も"Chinatown"で、ニコルソンが警官時代にチャイナタウンを担当したことになっている。チャイナタウンはラストシーンに出てくるだけで、物語にはまったく絡まないが、警察も犯罪を見て見ぬふりをする腐敗の温床の町といったように描かれる、物語の象徴的存在。 (評価:2.5)

続・激突!/カージャック

製作国:アメリカ
日本公開:1974年6月8日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:リチャード・D・ザナック、デヴィッド・ブラウン 脚本:ハル・バーウッド、マシュー・ロビンス 撮影:ヴィルモス・ジグモンド 音楽:ジョン・ウィリアムズ

スピルバーグ劇場用第1作には原点が詰まっている
 スピルバーグの劇場用映画第1作。出世作となった前作『激突!』は日本では劇場公開されたが、テレビ用に製作されたものだった。続く『ジョーズ』で映画監督としての地位を固めるが、初期作品群に見える若々しさと伸びやかさをこの作品に見ることができる。
 個人的には一部を除いてスピルバーグ作品は退屈であまり評価しないが、この作品にはその後の彼の方向性を見ることができる。『レイダース』等のスピード感や迫力で見せる純粋なエンタテイメント、『未知との遭遇』等のハートウォームな作品、そして『太陽の帝国』等の彼の哲学を投影したシリアス作品。三つ目は、おそらくユダヤ人としてのアイデンティティが影響している。
 本作は、その三つの方向性の萌芽を見ることができるが、題材が実話に基づいているためかもしれない。カーアクションは理屈抜きで面白い。逃亡する夫婦と人質となる警官、追跡する隊長のいずれもが善人で心温まる。そして夫婦を応援する人々と悲劇的なラスト。そこに複雑で理不尽な感情が残る。スピルバーグの原点を探るという意味で価値があるが、そこまで興味がなくても十分に楽しめる。 出所前に社会復帰のためのトレーニングがあるとか、国道には最低速度規制があるとか、アメリカ人気質を含めて勉強にもなる。阿呆な妻の役をゴールディ・ホーンが好演。
 原題は"The Sugarland Express"で、文字通り「シュガーランド急行」。パトカーをカージャックした夫婦が、子供のいるシュガーランドの町を目指して走り抜ける。邦題は『激突!』の看板を借りただけで、全くの別作品。劇中でパトカーをハイジャック(hijack)されたという台詞があるが、語源は諸説あって、英語では乗物を乗っ取る行為はすべてハイジャック。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年10月31日
監督:メル・ブルックス 製作:マイケル・グラスコフ 脚本:ジーン・ワイルダー、メル・ブルックス 撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド 音楽:ジョン・モリス

元ネタを知らなくても楽しめるパロディの傑作
 原題"Young Frankenstein"で、フランケンシュタインの息子の意。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』が原作。
 『フランケンシュタイン』(1931)、『フランケンシュタインの花嫁』(1935)などの古典映画を下敷きにしたパロディで、元ネタを知っていればもちろん、知らなくても十分楽しめるホラー・コメディの傑作。
 主人公のフレデリック(ジーン・ワイルダー)は、怪物を作り出したヴィクターの息子で、著名な脳外科医の大学講師。父との関係を嫌って、英語発音でフロンコンスティンを名乗っているのが可笑しい。
 祖父の遺言で不動産を相続することになるが、これがヴィクター(映画『フランケンシュタイン』ではヘンリー)が実験室として使って怪物を生み出した、山の頂に建つ城。描割りの美術、モノクロ映像、蓄音機のようなざらついた音楽をバックに、古典映画の舞台が蘇るといった仕掛けになっている。
 横道に外れながらも大筋では古典映画の筋をなぞり、墓場からの屍体の掘り出し、脳の取り違え、怪物(ピーター・ボイル)の誕生、盲目の男(ジーン・ハックマン)との触れ合いとエピソードが続く。
 フレデリックはバイオリンの子守唄で怪物を手名付けるのに成功。学者たちを集めて劇場でショーを披露するが、事故から怪物が暴れ出し警察に捕まるも脱出。そこにフレデリックの婚約者エリザベス(マデリーン・カーン)が訪ねてきて誘拐するが、思わぬ展開に…
 最後はフレデリックの脳の一部を移して知性ある怪物に改造し、フレデリックは助手のインガ(テリー・ガー)と二つのカップルが誕生し、ハッピーエンドとなる。
 怪物は古典映画のボリス・カーロフに似せたメイク。使用人のアイゴール (マーティ・フェルドマン)はギョロ目のせむし男で、本作のアイコンと言って良いくらいに印象的。ケンプ警部(ケネス・マース)、ヴィクターの恋人だった家政婦ブルッハー(クロリス・リーチマン)も個性的。
 下ネタも絡ませた艶笑コメディもあり、テリー・ガーが色っぽい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年10月25日
監督:ボブ・フォッシー 製作:マーヴィン・ワース 脚本:ジュリアン・バリー 撮影:ブルース・サーティース 音楽:ラルフ・バーンズ
キネマ旬報:4位

言葉を武器に舞台で戦ったレニーの悲劇
 原題"Lenny"で、主人公の名。1950~60年代に活躍した実在のアメリカのコメディアンの伝記で、ジュリアン・バリーの同名の戯曲が原作。
 レニー(ダスティン・ホフマン)の下積み時代から始まり、ストリッパーのハニー(ヴァレリー・ペリン)との結婚、ハニーの麻薬での投獄、その間に売れっ子となったレニー自身も麻薬に溺れ死ぬまでを、ハニーとプロモーターの回顧談とともに追っていくという構成。
 中心になるのは、売れっ子となったレニーの話芸で、人種差別や猥褻な言葉、政治家への揶揄を機関銃のように捲し立て、官憲に目をつけられて逮捕、起訴される。
 日本の寄席でも政治ネタは漫談のひとつで、庶民の視点から政治家たちをコケにして笑い飛ばすというのはよくある話で、レニーもそうした庶民の鬱憤を晴らすことで人気を得ていく。
 劇中のレニーの言葉からは、表現の自由のために戦うというよりは、社会の良識の偽善性を暴くということに主眼が置かれていて、現に存在している人種差別をあからさまに口にすることで差別の実態を浮かび上がらせ、誰もが陰でこそこそと話している猥褻語を表に引っ張り出す。
 ベトナムで民衆が殺されているが、猥褻語で人は殺せないというのがレニーの主張で、社会の欺瞞こそがレニーの批判対象だったことがわかる。
 裁判では弁護人を解任し、自分の言葉で語らなければ真実は見えてこないというように、言葉そのものを大切にする。やがてレニーの言葉は純化され、漫談としての面白味を失っていくのが必然とはいえ哀しい。
 そうした言葉を武器に舞台で戦ったレニーの悲劇を見るように、麻薬に溺れて人生の舞台からも退場する。 (評価:2.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1981年03月
監督:イングマール・ベルイマン 製作:ラーシュ=オーヴェ・カールベルイ 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:オウェ・スヴェンソン
キネマ旬報:8位

愛人リヴ・ウルマンに夫婦愛を語らせるベルイマン
 原題は"Scener ur ett äktenskap"で、邦題の意。スウェーデン国営放送で50分6回のTVシリーズとして制作されたものを168分に編集して劇場公開された。心理学者の夫と離婚調停の弁護士の妻を中心としたホームドラマ。
 二人は経済的にも恵まれ円満な夫婦生活を送っているが、夫の浮気をきっかけに二人の愛が虚構だったことに気づき、別居・離婚と進むが、その間も二人の関係は切れない。それぞれ再婚して再び巡り合った二人が、それぞれのパートナーの留守を利用して不倫旅行に出かけ、ようやく真の愛情に目覚めるという結末。
 冒頭に夫婦に必要なのは金か愛か? という提起があり、夫婦は一生添い遂げるものか毎年契約更新するものなのか? セックスは愛の一部か駆け引きの道具か? といった各種の問題が俎上に上る。
 映画はそれらの問いに対する夫婦の迷走する議論の会話劇で、そういった二人芝居、ないしは議論が好きでないと飽きる。そもそもあるのかどうかわからない、摑みどころのない愛を理詰めで考え始めたところにこの夫婦の破綻があり、夫婦関係を離れ、そうした鎧、体面や虚飾を取り除いた裸の精神を得て初めて夫婦愛を知るという、あまりに平凡な結論に終わる。
 この映画ではスウェーデンの夫婦における先進的自由恋愛の考え方も披露され、1970年代のフリーダムの時代における夫婦関係の懐疑へのベルイマンの回答だったのかもしれない。もっともベルイマンは5度結婚して、本作の妻役リヴ・ウルマンが愛人。ベルイマンが劇中の夫の姿にダブるが、ウルマンで夫婦愛をテーマにした作品を撮ってしまうところに常人にはないものがある。
 それにしても、会話劇だけで長々としたドラマを成立させてしまうベルイマンの脚本と演出力には脱帽。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年5月
監督:ビリー・ワイルダー 製作:ポール・モナシュ 脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド 撮影:ジョーダン・S・クローネンウェス 音楽:ビリー・メイ
キネマ旬報:9位

最後まで楽しませる新聞記者稼業のシニカル・コメディ
 原題"The Front Page"で、新聞の第一面の意。ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーの同名戯曲が原作。
 1929年、シカゴの裁判所の記者クラブが舞台。
 恋人ができ、昼夜クリスマスなく働く新聞記者稼業に嫌気がさした主人公のヒルディ(ジャック・レモン)が寿退社を決意。トップ記者の退職を何とか阻止しようとするデスクのウォルター(ウォルター・マッソー)の策略との攻防を描くシニカルなコメディ。
 ヒルディが婚約者のペギー(スーザン・サランドン)と駅に向かおうとした矢先、死刑囚(オースティン・ペンドルトン)が拘置所を脱走。スクープを前にしてヒルディの記者魂が燃えるが、犯人隠匿でウォルターともども御用。ところが市長が選挙のために死刑囚を利用していたことがわかり、スキャンダルでフロント・ページを飾るという物語。
 ヒルディとペギーはめでたく汽車に乗り、ウォルターが退職祝いに時計をプレゼントして送り出しハッピーエンドと思いきや、思いがけないウォルターの罠が待っていて、最後までどんでん返しで楽しませてくれる。
 舞台劇のため記者クラブ室から舞台がほとんど動かないが、オープニングだけは新聞が印刷されていく過程を実際に撮影したもので、組版を作るところから始まり、製版、輪転で印刷されるまでの様子が実際に見られるのが、隠れた見どころ。 (評価:2.5)

カンバセーション…盗聴…

製作国:アメリカ
日本公開:1974年11月26日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:フレッド・ルース、フランシス・フォード・コッポラ 脚本:フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ビル・バトラー 音楽:デヴィッド・シャイア
カンヌ映画祭グランプリ

現代の監視社会の恐怖を40年前に描いた
 原題は"The Conversation"で会話の意。映画ではその会話を盗聴することが仕事の男が殺人事件に巻き込まれていくというサスペンス。フランシス・フォード・コッポラ監督・脚本、ジーン・ハックマン主演で、見ごたえは十分。ジョン・カザールと『スターウォーズ』前のハリソン・フォードが重要な役で出ている。
 盗聴の音声をバックに、ビルの屋上から真下の広場を見おろして、ズームで人物に寄っていくシーンは秀逸。プロの盗聴屋が男女の会話を録音、女は依頼人の妻で、主人公は殺害に手を貸しているのではないかと怯える。劇中、主人公が盗聴グッズ見本市で仲間に盗聴器を仕掛けられるシーンがあるが、観ていても盗聴器ではないかと疑えるので、プロにしては無警戒。テープを盗まれるシーンを含めて若干シナリオ的には難があるが、ラストのどんでん返しはよくできている。
 この映画の骨子はミイラ取りがミイラになるというものだが、それ以上はルール違反になるので書かない。当時、ウォーターゲート事件が発覚して盗聴がクローズアップされたが、この映画は盗聴の恐怖というものを盗聴する側から描いていて、監視カメラが張り巡らされた現代の監視社会の恐怖を40年前に先取りしていた。
 カンヌ国際映画祭グランプリ(パルムドール)を受賞している。 (評価:2.5)

流されて…

製作国:イタリア
日本公開:1978年5月27日
監督:リナ・ウェルトミューラー 製作:ロマノ・カルダレッリ 脚本:リナ・ウェルトミューラー 撮影:エンニオ・グァルニエリ 音楽:ピエロ・ピッチオーニ

女は現実主義者だからこそ夢物語を願う、やるせない作品
 原題"Travolti da un insolito destino nell'azzurro mare d'agosto"で「8月の青い海で異常な運命に見舞われる」の意。
 ブルジョアの人妻がヨットで地中海クルーズ中、船員と二人で乗ったボートが故障して無人島に流され、二人で暮らす物語。
 当時のイタリアは不安定な多党連立政権が続き、ユーロコミュニズムによって共産党が躍進した時代で、本作でも冒頭に共産党をめぐる会話が延々と続く。
 人妻は反共主義、船員は共産党支持のプロレタリアートという対立構図で、当初は互いを嫌悪するが、無人島では生活力のない人妻は船員に従うしかなく、主従が逆転する。
 ブルジョアとプロレタリアートという階級支配が状況次第で逆転するという皮肉をコメディタッチに描くが、当初は性についても服従せざる得なかった人妻が、やがて船員を愛するようになるというのがミソ。
 無人島の近くに船影が見えた時、人妻は助けを呼ぶことが今の状況を逆転し、二人が社会の階級関係に戻らざるを得ないことを予見し、助けを求めない。
 一方、男は階級関係に戻ることによって二人の愛が本物であるかどうかを確かめる試金石と考え、救助を求める。この時、女は男が「分っていない」と呟き、結果、夢物語を終わらせることになる。
 本作は女性監督で、男は現実を理解できないロマンティストで、女は現実主義者だからこそ夢物語を願うという、やるせない作品になっている。同時に、男をイタリア共産党、女をイタリア国民の暗喩と見ることも可能で、リナ・ウェルトミューラーはそれを男女に置き換えて見せたともいえる。
 国民に夢物語を提供したイタリア共産党は、現実政治に揺さぶられながら、東西冷戦の終結とともに解党した。
 地中海の海がきれい。 (評価:2.5)

ガルシアの首

製作国:アメリカ
日本公開:1975年7月5日
監督:サム・ペキンパー 製作:マーティン・ボーム 脚本:サム・ペキンパー、ゴードン・ドーソン 撮影:アレックス・フィリップス・Jr 音楽:ジェリー・フィールディング

純情男のバイオレンスが炸裂するザッツ・ペキンパー
 原題"Bring Me the Head of Alfredo Garcia"で、アルフレド・ガルシアの首を持ってこいの意。
 メキシコの大地主の娘が女たらしのガルシアに孕ませられ、怒った父親がガルシアの首に100万ドルの懸賞金をかけるというもの。
 ガルシアの立ち寄る酒場を見つけた賞金稼ぎが、情報を持つピアノ弾きのベニー(ウォーレン・オーツ)に1万ドルで首を持ってくるように命じる。ベニーは、情婦のエリータ(イセラ・ヴェガ)がガルシアと密通し、ガルシアが自動車事故で死んだことを知ると、それを隠して依頼に応じ、エリータに案内させて墓掘りに向かうというストーリー。
 墓を掘り終わったところで別の賞金稼ぎに襲われ気絶。エリータは殺されてしまう。
 エリータ命で、賞金を元手に結婚して人生やり直そうと思っていたベニーは、完全にプッツン。賞金稼ぎを追いかけて殺しガルシアの首を取り戻すと依頼人のもとへ。エリータの命と引き換えに首は渡せないとばかりに皆殺し。さらに首を持って大地主の屋敷に届けると、生まれてきた子供の洗礼式。エリータの恨みとばかりに大地主を殺して大暴れ。門扉を突破して終わる。
 殺戮の限りを尽くすベニーだが、エリータに強制性交しようとしたチンピラを射殺して「初めて人を殺してしまった」と慚愧するほどに初心。エリータが誰と寝ようが愛し続けるという純情で、バイオレンスもベニーがエリータのために、という鬱憤を晴らす開放感があり、後味の悪さはない。
 バイオレンスシーンのスローモーションも快調で、ザッツ・ペキンパーを丸ごと味わえる。 (評価:2.5)

オリエント急行殺人事件

製作国:イ​ギ​リ​ス
日本公開:1975年5月17日
監督:シドニー・ルメット 製作:ジョン・ブラボーン、リチャード・グッドウィン 脚本:ポール・デーン 撮影:ジェフリー・アンスワース 音楽:リチャード・ロドニー・ベネット

オリエント急行同様の豪華キャストが見どころの映画
 ​シ​ド​ニ​ー​・​ル​メ​ッ​ト​が​監​督​し​、​豪​華​キ​ャ​ス​ト​で​話​題​に​な​っ​た​ア​ガ​サ​・​ク​リ​ス​テ​ィ​原​作​の​ミ​ス​テ​リ​ー​映​画​。​原​題​は​"​M​u​r​d​e​r​ ​o​n​ ​t​h​e​ ​O​r​i​e​n​t​ ​E​x​p​r​e​s​s​"​で​原​作​も​同​じ​。
​ ​シ​ョ​ー​ン​・​コ​ネ​リ​ー​、​ア​ン​ソ​ニ​ー​・​パ​ー​キ​ン​ス​、​イ​ン​グ​リ​ッ​ド​・​バ​ー​グ​マ​ン​、​ジ​ャ​ク​リ​ー​ン​・​ビ​セ​ッ​ト​ら​が​出​演​し​、​バ​ー​グ​マ​ン​が​ア​カ​デ​ミ​ー​助​演​女​優​賞​を​獲​得​し​て​い​る​が​、​た​い​し​た​役​で​も​な​い​し​、​特​別​な​演​技​を​し​て​い​る​わ​け​で​も​な​く​、​正​直​な​ぜ​受​賞​し​た​の​か​わ​か​ら​な​い​。
​ ​冒​頭​、​ア​メ​リ​カ​で​起​き​た​幼​女​誘​拐​殺​人​事​件​と​関​係​者​の​悲​劇​か​ら​始​ま​り​、​舞​台​は​イ​ス​タ​ン​ブ​ー​ル​の​オ​リ​エ​ン​ト​急​行​始​発​駅​へ​と​移​る​。​列​車​が​ユ​ー​ゴ​ス​ラ​ビ​ア​で​雪​の​た​め​に​立​ち​往​生​し​、​そ​の​夜​惨​劇​が​起​き​る​。​よ​く​知​ら​れ​た​原​作​で​あ​り​サ​ス​ペ​ン​ス​で​も​あ​る​の​で​、​以​後​の​ス​ト​ー​リ​ー​は​省​略​。
​ ​原​作​の​発​表​は​1​9​3​4​年​。​映​画​は​1​9​3​0​年​か​ら​始​ま​る​が​、​今​は​な​き​ユ​ー​ゴ​ス​ラ​ビ​ア​が​存​在​し​た​の​は​1​9​2​9​年​か​ら​2​0​0​3​年​、​当​時​は​ユ​ー​ゴ​ス​ラ​ビ​ア​王​国​。​ト​ル​コ​は​オ​ス​マ​ン​帝​国​か​ら​共​和​国​に​移​行​し​た​ば​か​り​で​、​ト​ル​コ​帽​の​着​用​が​禁​止​さ​れ​て​い​た​が​、​映​画​で​は​被​っ​て​い​る​人​間​が​登​場​す​る​。
​ ​全​体​が​室​内​劇​の​た​め​、​変​化​の​あ​る​の​は​イ​ス​タ​ン​ブ​ー​ル​の​シ​ー​ン​の​み​で​、​ボ​ス​ポ​ラ​ス​海​峡​を​渡​る​船​か​ら​見​え​る​ア​ヤ​ソ​フ​ィ​ア​、​ブ​ル​ー​モ​ス​ク​や​駅​構​内​の​物​売​り​の​様​子​が​楽​し​い​。
​ ​状​況​設​定​上​、​ポ​ア​ロ​の​謎​解​き​が​中​心​の​会​話​劇​で​、​舞​台​劇​に​近​い​。​ル​メ​ッ​ト​の​演​出​は​、​退​屈​な​会​話​劇​を​う​ま​く​ま​と​め​て​は​い​る​が​、​退​屈​さ​を​避​け​る​た​め​か​、​ポ​ア​ロ​役​の​ア​ル​バ​ー​ト​・​フ​ィ​ニ​ー​の​大​仰​な​演​技​が​鼻​に​つ​く​。 (評価:2.5)

ハノイの少女

製作国:ベトナム
日本公開:不詳
監督:ハーイ・ニン

記録フィルムも織り交ぜた戦禍のシーンがリアルで生々しい
​ 1972年の北爆開始後のハノイが舞台。
​ 街道を一人の少女が歩きながら、ロケット部隊にいる父に会うために車を呼び止めているシーンから始まる。爆撃を受けた町から来たと聞いた若い軍人が同情して少女を軍用車両に乗せ、彼女の身の上話を聞く形で物語は進む。
​ 小学校で空爆を受けた受けた少女は母と妹を探しに自宅へ向かうが、直撃を受けた家は跡形もなく、焼け焦げた妹のノートを見つけて二人が死んだことを知る。さらに家族の楽しい思い出へと回想が重なるために3つの時制が並行して進むことになるのが若干わかりにくい。
​ 若い軍人に送られて父との再会を果たすものの、父にはB52を迎撃するという重要な仕事があり、父から母が何人もの子供たちを救うために犠牲となったという話を聞いて、少女は学校に戻り、仲間とともに健気に生きて行くというラストで、子供たちが平和に過ごせる世の中への希求で締めくくられる。
​ 戦争によって犠牲となる民間人の象徴として、子供を主人公に描くいわば直球の作品だが、ベトナム戦争中に撮影されたこともあって、北爆や対空砲火、捕虜のパイロット、戦車の残骸・瓦礫等の記録フィルムも織り交ぜた戦争のシーンはリアルで生々しく、ストレートな映像表現がむしろベトナムの人々の平和へのありのままの想いを伝えている。 ​ (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:テレンス・フィッシャー 製作:ロイ・スケッグス 脚本:ジョン・エルダー 撮影:ブライアン・プロビン 音楽:ジェームズ・バーナード

スプラッターもあるテレンス・フィッシャー監督作品
 原題は"Frankenstein and The Monster from Hell"で邦題の意。
 ハマー・フィルム製作、テレンス・フィッシャー監督の最後の作品で、当時流行りだったスプラッター・シーンを取り入れた異色作。個人的には、ハマー・フィルムにスプラッターはやって欲しくなかったが、血糊べとべと、内臓ぐちゃぐちゃもある。もっとも、血糊は流しただけ、内臓も犬猫程度の可愛さでちょっと笑える。
 墓堀から始まる冒頭はフランケンシュタインものとしては王道だが、人造人間作りを目指す青年医師が捕まって精神病院=刑務所送りとなる。ところが、この精神病院に入れられて死んだはずのフランケンシュタイン博士が君臨している。
 青年医師は尊敬する博士の助手に採用されて入院患者たちを診るが、博士の研究を探るうちに・・・という展開。博士のもう一人助手に唖の娘がいて、博士に頭を押さえられている所長に絡む重要な存在。
 ストーリーはミステリアスで退屈させないが、おっかなびっくりのスプラッターシーンを含め、同じフランケンシュタインものの73年『悪魔のはらわた』と比較しても、74年作品にしては若干クラシカルな印象は免れない。
 見どころは、博士を演じるピーター・カッシングで、狂気の男を貫録で演じ切る。 (評価:2.5)

ファントム・オブ・パラダイス

製作国:アメリカ
日本公開:1975年5月31日
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:エドワード・R・プレスマン 脚本:ブライアン・デ・パルマ 撮影:ラリー・パイザー 美術:ジャック・フィスク 音楽:ポール・ウィリアムズ、ジョージ・アリソン・ティプトン

ゲリット・グレアムのステージは、一見の価値あり
 原題"Phantom of the Paradise"で「パラダイス劇場の幽霊」の意。"Phantom of the Opera"(オペラ座の怪人)を現代のロックに置き換えた翻案で、タイトルはもじり。ゲーテの『ファウスト』も使われていて、『オペラ座の怪人』+『ファウスト』+ロックをミックスしたミュージカル作品。
 パラダイス劇場の幽霊になるのはシンガー・ソング・ライターの青年で、劇場主でレコード会社社長に騙されて作品を盗用された挙句、刑務所に入れられて拷問、脱走してレコード工場に侵入して顔を潰され、オペラ座の怪人よろしく仮面をつけて劇場に棲みつく。彼が恋するのは社長が歯牙にもかけない小娘で、主役を殺して彼女をトップシンガーに起用させる、ところまでは『オペラ座の怪人』。
 社長というのがロックのために魂を売り買いする悪魔の男で、青年や小娘と悪魔の契約を結ぶ。青年とは永遠に曲を書き続ける契約を結び、劇場の部屋に閉じ込めてる。社長と小娘の情事を目撃した青年が絶望してナイフで胸を刺しても、永遠に曲を書き続けなければならないので死なない、というのが『ファウスト』。
 最後に青年が知る、社長が悪魔と交わした契約というのが、永遠の若さを保つためにビデオの中のもう一人の自分に老いを担わせるというもので、これは『ドリアン・グレイの肖像』の借用。
 社長と小娘との結婚式で青年がビデオを破壊すると、社長は老いた醜い顔となって老衰する。それは同時に青年と社長との契約の終了を意味し、青年は死んでしまう。
 元ネタ・ちゃんこ鍋のごった煮作品だが、オリジナルなんか糞くらえがロック精神とばかりに、天衣無縫のコメディタッチで楽しませてくれる。ミュージカルとしても、ロックの味付けが利いていて、ロック版『オペラ座の怪人』として、これはこれでアリ。
 ゲリット・グレアムのステージは、これぞパンクなロック・シーンとして一見の価値あり。 (評価:2.5)

トラベラー

製作国:イラン
日本公開:1995年9月16日
監督:アッバス・キアロスタミ 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:フィルズ・マレクザデエ 音楽:カンビズ・ロシャンラヴァン

因果応報? アイロニー? キアロスタミの制作意図は不明確
 原題"مسافر‎"で、旅行者の意。
 サッカーに夢中の小学生ガッセム(ハッサン・ダラビ)は、学校の勉強も宿題もはそっちのけ。毎年落第を繰り返して、先生も親もお手上げとなっている。
 授業に遅れれば、歯が痛いと顎に布を巻いて嘘をつく。そのガッセムが、テヘランで行われるサッカーの試合を見に行くためにあの手この手の悪事を働くという物語。
 バス代と入場券のため、親が寄進のために用意した金を盗む罰当たり。学用品や友達の家のカメラを売ろうとして失敗。そこで思い付いたのが写真詐欺で、フィルムが入っていないカメラで撮影費を稼ぐ。それでも足りず、仲間と共有のサッカーボールとゴールを売り、親に内緒で夜行バスに乗る。
 しかし入場券は売り切れ。帰りのバス代も構わずダフ屋から高額の券を手に入れるが、試合まで3時間も待つことになり施設内を見学。芝生で横になると、興奮のために夜行バスで眠れなかったのが災いして熟睡。目が覚めると試合は終わっていたというお粗末。
 夜行バスに乗り遅れそうになったあたりから不幸な結末は予想できるが、これを因果応報の物語として描いたのか、はたまた貧しい地方の少年のアイロニーとして描いたのか、あるいはイランの少年たちの夢を持てない現状を描いたのか、キアロスタミの意図は明確ではない。
 本作はキアロスタミの初期作品にあたり、シナリオ的にも演出的にもよくできた作品だが、制作意図は上手く描けていない。あるいは多くを語らずとも、当時のイラン人には理解できたのだろうか? (評価:2.5)

サンダーボルト

製作国:アメリカ
日本公開:1974年9月28日
監督:マイケル・チミノ 製作:ロバート・デイリー 脚本:マイケル・チミノ 撮影:フランク・スタンリー 音楽:ディー・バートン

アウトローの刹那的な友情と悲劇が物悲しい
 原題"Thunderbolt and Lightfoot"で、サンダーボルトとライトフット。
 サンダーボルト(クリント・イーストウッド)がモンタナ銀行強盗後、50万ドルを隠して教会牧師に成りすましていると、仲間のレッド(ジョージ・ケネディ)が見つけ出して襲ってくる。逃げ出したサンダーボルトは車泥棒のライトフット(ジェフ・ブリッジス)に助けられ逃走。レッドとエディ(ジェフリー・ルイス)が追いかけるというコメディタッチのロードムービー。
 50万ドルは銀行強盗のリーダーがほとぼりが冷めるまでと母校の黒板の裏に隠したが、死んでしまって知ってるのはサンダーボルトだけ。ところが母校は新校舎に建て替わっていた…というお粗末。
 ライトフットは伝説のサンダーボルトに今一度とモンタナ銀行強盗に誘い、50万ドルが失われたことを知ったレッドとエディも参加。街で働きながら強盗の準備。手に入れた20ミリ機関砲での金庫破りのシーンが見もの。
 銀行強盗がバレて警官隊に追いかけられることになり、逃走中にエディが死亡。金を独り占めしようとしたレッドも敢え無い最期。サンダーボルトとライトフットは命からがら逃げ出すが、街はずれで偶然歴史建造物となって移転・保存されている旧校舎を発見する。
 50万ドルを黒板裏から取り出し、ライトフットが夢に見たキャデラックを手に入れるが、衰弱したライトフットが死亡。サンダーボルトと友達になりたがっていたライトフットを乗せたまま、キャデラックが走り去っていくという友情物語。
 『明日に向って撃て!』(1969)同様、アウトローの刹那的な友情と悲劇が物悲しい。 (評価:2.5)

こわれゆく女

製作国:アメリカ
日本公開:1993年2月27日
監督:ジョン・カサヴェテス 製作:サム・ショウ 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:マイク・フェリス、デヴィッド・ノウェル 音楽:ボー・ハーウッド

神経症の妻を演じるジーナ・ローランズが迫真の演技
 原題"A Woman Under the Influence"で、影響下の女の意。
 夫(ピーター・フォーク)が水道工事員をしている労働者階級の家庭が舞台。神経症の妻(ジーナ・ローランズ)は他者との愛情をコントロールできず、寂しさからバーで男を誘ったり、夫の同僚を口説いたり、他人の子供に過剰な愛情を注いだりする。
 そんな妻に夫は優しく接しようとするが、時に強圧的な態度に出たりして、言うことを聞かない妻を殴ったことから、妻は錯乱してしまい精神病院に入院。
 半年後、夫は妻の退院祝いに仲間を大勢招集するが、心配した両親が客を帰し、さらに妻が夫と二人きりになることを望んだことから親族も辞去。激昂する夫に妻は手首を切ろうとする。
 漸く気を静めた妻は子供たちの愛情を確かめ、夫と寝室に向かうという一応のハッピーエンド。
 家族の在り方をシリアスに描いたともいえるが、入院前を同じような不安定な家庭生活が繰り返されるだろうと予想され、これで一件落着とはいかない。
 前半、狂っているのは妻ではなく、夫を始めとした周囲なのではないかと錯覚させるものがあり、それが制作意図だとすればそれなりに味わい深い作品なのだが、そこまで明確に示唆されているわけでもテーマ的に掘り下げられているわけでもなく、家族愛の再確認というヌルイ結末とも取れて、どっちつかずに終わっている。
 神経症の妻を演じるジーナ・ローランズの迫真の演技が見どころ。 (評価:2.5)

アラン・ドロンのゾロ

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1975年7月15日
監督:ドゥッチオ・テッサリ 製作:ルチアーノ・マルチーノ 脚本:ジョルジオ・アルロリオ 撮影:ジュリオ・アルボニコ 音楽:グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリス

主役はドロンではなくゾロのZにしてほしかった
 原題"Zorro"。スペイン語で狐の意で、劇中では正義のヒーローの名。
 ジョンストン・マッカレーの小説"The Curse of Capistrano"(カピストラの呪い)が原作で、ダグラス・フェアバンクス主演、フレッド・ニブロ監督のサイレント映画『奇傑ゾロ』(The Mark of Zorro、1920)で人気となった剣戟ヒーロー。数度の映画化の後、ABCでテレビシリーズ(1957-59、邦題:怪傑ゾロ)で放映された。
 19世紀初頭のスペイン領メキシコが舞台。剣豪ディエゴの友人がヌオバ・アラゴナの新総督に赴任するが、総督の座を狙うウェルタ大佐によって暗殺され、ディエゴが代わりに就任。腰抜けぶりで大佐を油断させ、仮面の騎士ゾロとして大佐麾下のスペイン軍から虐げられている民衆を救い、最後は一対一の決闘で大佐を倒すというストーリー。
 テレビシリーズのガイ・ウィリアムズの印象が強いので、フレンチ二枚目アラン・ドロンのゾロは違和感アリアリだが、剣劇シーンは頑張っている。
 一番の肩透かしはゾロのトレードマーク、切っ先でZの文字を書くシーンが見せ場で使われないために効果的でなく、今一つ爽快感が得られないこと。主役はドロンではなく、ゾロのZにしてほしかった。
 アクションシーンが多い中で、ヒロインとなる没落貴族の娘オルテンシアを演じるオッタヴィア・ピッコロが安らぎ。 (評価:2)

007 黄金銃を持つ男

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1974年12月21日
監督:ガイ・ハミルトン 製作:ハリー・サルツマン、アルバート・R・ブロッコリ 脚本:リチャード・メイボーム、トム・マンキウィッツ 撮影:テッド・ムーア、オズワルド・モリス 音楽:ジョン・バリー

ネグリジェとビキニ姿で頑張るブリット・エクランドが可愛い
 3代目ボンド、ロジャー・ムーア第2作。原題は"The Man with the Golden Gun"で、邦題の意。シリーズ第9作。イアン・フレミングの同名小説が原作。
 本作の最大の見どころは、ボンドの敵となる殺し屋スカラマンガにクリストファー・リーを迎えたことだが、その魅力を生かせず、シナリオも無駄なシーンの多いメタメタな内容で、心地よい眠りに誘う。
 そこで、どアップになるクリストファー・リーの口から牙が光れば、まだ眠気も冷めるのだが、画竜点睛を欠いた魔人と合体変形玩具のような黄金銃では、迫力不足。
 ボンドがスカラマンガと対決するだけの話で、舞台はベイルート、マカオ、香港、タイと移るが、本筋とは関係のないアクションシーンを無理やり突っ込んで、オリエンタリズムで装飾しただけの作品で、ただストーリーを混乱させるだけに終わっている。
 観光映画として見る分には、沈没したクイーン・エリザベスや、スカラマンガのアジトとなるプーケットの美しい島々(設定上は中国)、ザ・ペニンシュラ香港の緑色のロールス・ロイス・リムジンなど見どころは多い。しかし、物語はお粗末で、科学設定も無茶苦茶。おまけに空手、ムエタイ、相撲まで登場する東洋文化のごった煮は、ギャグにもなっていない。
 笑えるのは重要設定と思わせるスカラマンガの第3の乳首がほとんど生かされていないことで、スカラマンガの愛人アンドレア(モード・アダムス)がボンドに黄金弾を送った理由も失笑もの。
 MI6の女諜報員グッドナイトのズッコケぶりも、全体がシリアスなのかコメディなのか中途半端なために生きて来ないが、演じるブリット・エクランドが可愛くて、ネグリジェとビキニ姿で頑張っているのがせめてもの救い。 (評価:2)

エマニエル夫人

製作国:フランス
日本公開:1974年12月21日
監督:ジュスト・ジャカン 製作:イヴ・ルッセ=ルアール 脚本:ジャン=ルイ・リシャール 撮影:リシャール・スズキ 音楽:ピエール・バシュレ

エマニエル、おまえが腐女子の始まりだった
 原題は"Emmanuelle"で、エマニュエル・アルサンの同名小説が原作。女性向けのソフトコア・ポルノという日本ヘラルドの宣伝が功を奏して話題となった作品。
 監督はファッション写真家、主演のシルビア・クリステルはファッションモデルという組み合わせで、ヌードグラビアを映画にしたようなオリエンタルで美しい映像が展開される。シルビア・クリステルが可愛く、途中挿入されるボーイッシュな彼女の姿はアイドルPVのよう。タイの自然は美しく、デルタ地帯の町並みもエキゾチック。
 テーマとしては性学なるものも登場するが、要はとってつけた理屈でポルノシーンの連続。内容的には★1.5の駄作だが、妙に切って捨てられないところがあって、1つはこの作品が時代性を色濃く反映していること。性の開放と人間性の解放がイコールで結びつけられていた時代で、性の呪縛が女性の解放を妨げていると考えられていた。
 本作は確かに女性の性からの自立を目指しているように見えるが、それが本物かどうかは観た人の判断。自立を促す側は男で、それが白人なのも問題で、性解放の道具として利用されるのがタイ人の男で、それが猿人のように野獣扱いされているのも公開当時、批判された。
 切って捨てられないもう1つは、それまで男しか考えていなかった一般映画のセックスシーンが女も意識して作られるようになったこと。女性もポルノを観たいということが製作側にも観客側にも認識されたことで、現在の腐女子に繋がる性文化史の1つの転換点となった。
 ポルノ以外に見どころはないが、タイのストリッパーが所謂お座敷芸を披露する場面は人によっては必見で、ヴァギナで煙草を吹かす。 (評価:2)

オデッサ・ファイル

製作国:イギリス、西ドイツ
日本公開:1975年3月1日
監督:ロナルド・ニーム 脚本:ケネス・ロス、ジョージ・マークスタイン 撮影:オズワルド・モリス 音楽:アンドリュー・ロイド・ウェバー

反ナチ社会派ドラマが極私的な仇討ではズッコケる
 原題"The Odessa File"で、邦題の意。オデッサは元ナチの秘密組織名。フレデリック・フォーサイスの同名小説が原作。
 ハンブルグのフリー新聞記者が自殺したユダヤ老人の日記を手に入れ、リガ強制収容所長ロシュマンの消息を追う過程で、元ナチ支援組織オデッサの存在を知り、隊員たちの消息を記したファイルを手に入れるという社会派ドラマ。
 ロシュマンら元ナチ隊員が偽名を使ってドイツ社会に復帰しているという設定で、ハンブルグ警察もオデッサと繋がっているために信用できないという設定。ドイツ社会の中枢に巣食うナチ残党たちが、ドイツ帝国の再興を狙っているという、いかにもイギリス人らしい見立てで、エジプトのナセル大統領がオデッサと結んで、細菌兵器と放射能兵器を積んだミサイルをイスラエルに撃ち込む計画を立てていたという物語になっている。
 ミラー(ジョン・ヴォイト)が取材の領域を超えて、反ナチ・グループのスパイとしてオデッサに潜入することになるが、ミラーがそこまでのめり込む理由が、ユダヤ老人の日記からドイツ士官であった父がロシュマンに殺されたことを知ったことによる復讐だったというサプライズが最後に用意されている。
 もっとも反ナチ社会派映画と思っていたら、最後は極私的な仇討では若干ズッコケるところがあって、所詮は勧善懲悪のサスペンス映画というのが相場で、中東戦争もネオナチも道具立てに過ぎない。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1975年2月1日
監督:トビー・フーパー 製作:トビー・フーパー、ルー・ペレイノ 脚本:トビー・フーパー、キム・ヘンケル 撮影:ダニエル・パール 音楽:ウェイン・ベル、トビー・フーパー

怖ければ合理性はどうでもいい制作姿勢がカルト
 原題"The Texas Chain Saw Massacre"で、テキサス・チェーン・ソー大虐殺の意。
 墓荒らし事件の起きたテキサスの町に帰郷した男女5人組が、頭のおかしいヒッチ・ハイカーを拾ったことから始まる怪奇事件を描く。
 親爺の経営するガソリンスタンドにはガソリンはなく、5人組の一人がかつて住んでいた家に到着。男女2人が水浴びに川に行くが涸れていて、人気のない家を見つけたのが運の尽き。チェーン・ソーを持った仮面の大男に襲われ、それを探しに行った男が消え、残りの二人が探しに行くと・・・
 チェーン・ソー男の兄がヒッチハイカーでスタンドの親爺がその父親で、一家揃って狂人の殺人鬼というオチで、女一人だけが突然現れたトラックに助けられ、弟がチェーン・ソーを振り回してラストシーンとなるという、何ともカルトな終わり方。
 突然現れたトラックの男は何者なのか、逃げ出した大型トラックの運転手はどうなったのか、狂人一家はどうなったのかという結論が示されないまま、ご都合主義的に続編が作られることになるが、とにかく怖ければ設定の合理性などどうでもいいという制作姿勢がまたカルト。
 ミイラ化した狂人一家の爺さんまで登場して生血を吸うが、爺さんを筆頭にみんながハンマーで頭を叩いて殺すのが趣味な牛の屠殺人という設定がまた何とも言えない。 (評価:2)

私、あなた、彼、彼女

製作国:ベルギー、フランス
日本公開:2022年4月29日
監督:シャンタル・アケルマン 製作:シャンタル・アケルマン 脚本:シャンタル・アケルマン 撮影:ベネディクト・ドゥルサール

目玉のレズビアンシーンはギネスブックものの最長記録
 原題"Je, tu, il, elle"で、邦題の意。
 監督のシャンタル・アケルマンが自ら主人公の女を演じ、オールヌード、レズビアンと体当たりで制作した24歳の時の作品だが、正直何を描こうとしたのかわからない。
 アケルマンがまさしく自らの孤独や迷走、混沌を表現したかったのかもしれないが、極私的なプライベートフィルムを見させられている気分になる。
 病的なほどに毎日部屋の模様替えをする意味のないシークエンスから始まり、ストップモーションと勘違いするほどに被写体が動かず、それを延々と見せられる。見どころは、わけもわからずアケルマンが全裸になることか。
 食糧の砂糖がなくなり外に出たアケルマンはトラックのヒッチハイカーとなり、ドライブインで食事を奢ってもらったりするうちに運転中の男に頼まれて手で射精させるが、映像は上半身の男の表情だけ。男は妻子の話を始めるが、人生の空虚さをそこはかとなく語る。
 トラックを下りたアケルマンは女友達の部屋に行き、長居するなと素っ気ない扱いを受けるが、彼女を誘って濃厚なセックスを始める。このレズビアンシーンを撮りたいがために本作を作ったのではないかというくらいに、延々と続き、おそらくポルノ映画を含めてギネスブックもののレズビアンシーンの最長記録ではないか。
 約束だからと朝になって女友達の部屋を出て終わるが、シュールといえばシュール、アバンギャルドといえばアバンギャルドで、実験映画を超えてキワモノめいている。 (評価:2)

タワーリング・インフェルノ

製作国:アメリカ
日本公開:1975年6月28日
監督:ジョン・ギラーミン、アーウィン・アレン 製作:アーウィン・アレン 脚本:スターリング・シリファント 撮影:フレッド・コーネカンプ、ジョセフ・バイロック 特撮:L・B・アボット 音楽:ジョン・ウィリアムズ

パニック映画だが長閑だった時代が懐かしくなる
 原題"The Towering Inferno"で、高く聳える地獄の意。リチャード・マーティン・スターン"The Tower"とトーマス・N・スコーシア、フランク・M・ロビンスン"The Glass Inferno"が原作。
 超高層ビル火災を描くパニック映画で、本作に映画史的価値を見出すか、ポール・ニューマン、スティーブ・マックイーンのファンでない限りは、観ても時間の無駄にしかならない。
 最新超高層ビルの落成式が最上階で行われている当日にビル火災が発生、大惨事となるが、ビル設計者(ポール・ニューマン)と消防隊隊長(スティーブ・マックイーン)の活躍によって、消火に成功するというパニック&ヒーロー物語。
 出火原因は手抜きによる電気系統の発火というものだが、当時としてはビル火災に対する認識が低かったのか、発火から延焼、消火、避難に至る一連のプロセスの描写がお粗末で見ていられない。
 火災発生を知ってもビル管理者は何もせず、しかも延焼のスピードが信じられないくらいに遅い。消防車が出動しても火災報知機も鳴らず、最上階ではパーティが続けられ、上層マンションでは火災発生も知らずにのんびり過ごしている始末。ビル設計者に至っては火災が発生しているにも拘らず、施工の不備を調査するために外出してしまう。
 スプリンクラーや防火扉は全く登場せず、配電盤が燃えている割にはエレベーターは動くし、建物自体は可燃性で炎が広がってもダクトから煙が広がることがない。ビル全体が燃え出しても有線電話が通じるというのも訳が分からない。
 ビルの窓ガラスも椅子で簡単に割れるくらいに薄く、耐熱性でも強化ガラスでもないという超高層ビルからは信じられないような手抜きぶり。
 そんな中で、のんびりと夫婦愛や家族愛などの人間ドラマを見せられても、退屈で白けるばかりで、パニック映画といえども長閑だった時代が懐かしくなる。
 ビルのオーナーにウィリアム・ホールデン、ビル設計者の妻にフェイ・ダナウェイ、ロバート・ヴォーンなど豪華出演陣。 (評価:1.5)

ザ・ヤクザ

製作国:アメリカ
日本公開:1974年12月21日
監督:シドニー・ポラック 製作:シドニー・ポラック 脚本:ポール・シュレイダー、ロバート・タウン 撮影:岡崎宏三、デューク・キャラハン 音楽:デイヴ・グルーシン

ロバート・ミッチャムのエアライン・バッグがお茶目
 原題"The Yakuza"。
 シドニー・ポラック監督で、ヤクザ映画の俊藤浩滋がプロデューサーに入ったハリウッド版ヤクザ映画だが、内容はオリエンタリズムに溢れた無茶苦茶な物語。冒頭、ヤクザ同士が清水次郎長ばりに仁義を切るシーンで始まり、のっけからズッコケる。
 江戸時代と現代をチャンポンにしたようなヤクザ文化に、わけのわからない禅思想まで持ち込んで、仁義、指詰め、ドス、恩義など独自な任侠道の解釈を展開し、ほとんど変な外人のヤクザ・コメディ。
 これに高倉健、岸恵子、岡田英次までが登場して、誰が見ても変なシナリオに付き合うのだから、俊藤浩滋が付いていながら、これはもう何を間違えて企画したの? というよりない。
 そんな新春かくし芸大会みたいなシナリオの演技をまともにできるわけもなく、主演のロバート・ミッチャムを含めての俳優の戸惑いが全シーンに横溢し、相手役の岸恵子のセリフをミッチャムは手持無沙汰に聞いているのがよくわかる。
 物語は日本のヤクザ(岡田英次)に銃を密売するはずだったアメ公が金だけもらってシラを切ったために娘を誘拐され、それを救出するために友人のミッチャムが占領軍時代の愛人(岸恵子)のヤクザの兄(高倉健)を頼って来日する。娘は救出したものの今度は健さんが恨みを買うことになって、殺し合いの末、謝罪と友情のために健さんとミッチャムが指を詰めるという、アメージング・ストーリー。
 昔、ツアー客にサービスされた航空会社のバッグをミッチャムが空港で下げているのが時代性を感じさせてお茶目。来日時はJAL、離日時はPANAMで、飛んでる飛行機はKLMなのだが、3社ともに撮影協力だったのか? (評価:1)