海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1961年

製作国:アメリカ
日本公開:1961年12月23日
監督:ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス 製作:ロバート・ワイズ、ソウル・チャップリン 脚本:アーネスト・レーマン 撮影:ダニエル・L・ファップ 音楽:アーウィン・コスタル、シド・ラミン
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞

ロミジュリを超えたマイノリティの若者群像の秀作
 原題"West Side Story"。同名のブロードウェイ・ミュージカルの映画化で、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が下敷きになっている。
 ニューヨークの二つの不良グループ・ジェット団とシャーク団の抗争を描く話で、それぞれがイタリア系とプエルトリコ系社会に属している。
 その対立の中でそれぞれの社会に属す二人のカップルの悲恋が描かれるが、単に『ロミオとジュリエット』の現代アメリカ版というだけでなく、それがアメリカの底辺に生きる移民社会の対立という悲しい人種問題を背景として、社会への不満のはけ口が格差社会をもたらす体制ではなく、マイノリティの若者同士の憎悪と暴力に向かう救いようのなさが、ラストシーンで重く心に圧し掛かる。
 ジェット団はモンタギュー家、シャーク団はキャピュレット家、トニーがロミオ、マリアがジュリエット、リフがマキューシオ、ベルナルドがティボルトに対応していて、『ロミオとジュリエット』に沿ったストーリーになっているが、ラストシーンは異なる。
 レナード・バーンスタインの作曲で、序曲のオープニング映像と壁の悪戯書きがクレジットとなっているエンディングがお洒落。運動場でジェット団が指を鳴らしながら群舞に入っていくシーンは昔は格好よかったが、今見ると若干滑稽。中盤以降も群舞のシーンが多少違和感があるが、舞台の再現 で、バックが舞台装置でなく実景に置き換わっただけと思うと納得がいく。
 そうした違和感もトゥナイトの名シーン以降は、ドラマ性の中で消え失せる。マリアをナタリー・ウッド、トニーをリチャード・ベイマーが演じるが、歌唱は吹替え。ちなみにナタリー・ウッドはロシア移民。 (評価:4.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1962年4月21日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ウィリアム・ワイラー 脚本:ジョン・マイケル・ヘイズ 撮影:フランツ・プラナー 音楽:アレックス・ノース
キネマ旬報:9位

同性愛に揺れるヘプバーンとマクレーンの大人の演技
 原題"The Children's Hour"で、「子供たちの時間」の意。リリアン・ヘルマンの同名小説が原作。
 ウィリアム・ワイラーの1936年映画のセルフ・リメイク。
 私立女子校を運営している二人の女教師(オードリー・ヘプバーン、シャーリー・マクレーン)が主人公で、ヘプバーンは婚約者の医師(ジェームズ・ガーナー)と結婚するすることになり、それを共同経営者で親友のマクレーンに伝えるが、学校設立から2年が経過して経営も順調になってきたところで、マクレーンは快く思わない。
 私立女子校といっても私塾のようなもので、戦前なので寄宿するのは良家の娘たち。フランス語の授業風景も出てくるが、好奇心も旺盛な年頃で、問題児の少女が二人に厳しく当たられているのを逆恨みし、祖母に二人が同性愛だと告げ口する。祖母はこの話を真に受けて保護者達に告げ、全員の生徒が退学してしまう。
 事実無根だと、二人は祖母を名誉棄損で訴えるが敗訴。裁判は全国に知れ渡り、二人は町の見世物となる。ヘプバーンはガーナーの疑心が解けないのを知って婚約解消。ふとしたきっかけで少女の嘘を知った祖母が謝罪と賠償を申し入れるものの、ヘプバーンはこれを拒絶する。
 これが物語の大筋だが、この事件をきっかけにマクレーンはヘプバーンに親友以上の感情を抱いていたことに気付き、それをヘプバーンに告白する。そうして自殺してしまうのだが、同性愛が罪悪とされ、抑圧されていた時代に、その罪深い思いに気づいた女と、それを上手く受け止められない女の二人の心の機微を描いた好編となっている。
 マクレーンが自殺するのは、社会に抗って生きていく同性愛者たちが実際にいて、彼らはそれを罪とは思っていないにもかかわらず、マクレーン自身が強い心を持つことができなかったからで、ヘプバーンへの告白が失恋だったのかどうかは明確には描かれない。
 そういった点で、同性愛に向き合えなかった時代性もあってかテーマの未消化感は拭えないが、葬儀を終えて、ヘプバーンがマクレーンを死に追いやった人々に背を向けて、一人去っていく姿が余韻を残す。
 『ティファニーで朝食を』と同じ年の公開だが、アイドルではないヘプバーンの大人の演技を見ることができる。冒頭のシーンで、マクレーンがヘプバーンに対して同性愛感情を持っているのでは? と思わせる演技をしていて、全体を通して屈折した女ごころを演じて上手い。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1962年4月28日
監督:スタンリー・クレイマー 製作:スタンリー・クレイマー 脚本:アビー・マン 撮影:アーネスト・ラズロ 音楽:アーネスト・ゴールド
キネマ旬報:2位

法に従うか良心に従うべきか、現代の司法にも通じる作品
 原題"Judgment at Nuremberg"で、ニュールンベルグの審判の意。史実としてのニュルンベルク裁判後のニュルンベルク継続裁判を題材にしたフィクションで、1959年にCBSでTV放映されたものが原作。
 ニュルンベルク継続裁判は連合軍による主裁判とは異なりアメリカによる軍事裁判で、12の裁判の内、1947年に行われた法曹裁判(Judges' Trial)がモデル。戦争犯罪と人道に対する罪によってナチスドイツの司法関係者16人が起訴されたが、ドラマでは終身刑を言い渡された4人の裁判が中心となる。
 ドラマの焦点は、ナチスドイツの司法関係者がヒットラーによって立法された国内法に従って下した判決に対し、国際法からその責任を問えるかという点にあって、要は悪法も法なりと裁判官は法に則って判断を下すべきか、良心に基づいて判断を下すべきかが争点になるという、現代の司法にも通じるテーマ。
 被告の中心人物である元法務大臣ヤニング(バート・ランカスター)は、それを問うこと自体が裁判にはなじまないとして公判そのものを認めないが、ドイツ人弁護士ロルフ(マクシミリアン・シェル)は前者の立場に立ってヤニングを弁護する。
 弁護士は、ユダヤ人虐殺を知らずに裁判を行ったヤニングが有罪なら、ナチスの悪行を見過ごしたドイツ国民すべてが有罪であり、一時はヒットラーと手を組もうとしたスターリンもチャーチルも、広島・長崎に原爆を落としたアメリカも、同様に世界中が有罪だと論じる。
 ソ連のチェコ侵攻やベルリン封鎖と東西冷戦が始まり、対ソ戦略からドイツ国民への融和工作の必要性を感じた米軍は無罪判決を望むが、ダッハウ強制収容所を解放して虐殺の実態を目の当たりにした米軍大佐の検察官(リチャード・ウィドマーク)は、強硬に有罪を主張。
 裁判長(スペンサー・トレイシー)は、ニュルンベルク法に基づきユダヤ人少女(ジュディ・ガーランド)と関係した男に死刑判決を下したヤニングが、結果的にユダヤ人虐殺への道を開いたとして有罪判決を下す。
 法律家は法や政治に従うのではなく良心に従うべきという結論で、一方、裁判長と親しくなる独軍将軍の夫を主裁判で絞首刑にされた夫人(マレーネ・ディートリヒ)に対して、虐殺に関与しなくても知り得る立場にいたのなら有罪、つまりはナチスの悪行を薄々感じていながら、それを許したドイツ国民全員に責任があると言わせている。
 裁判長は弁護士のアメリカを含めた汎有罪論を否定もせず、大切なのは一つ一つの人間の命という普遍的なヒューマニズムに導いている。
 独英両語で熱弁を振るう弁護士役のオーストリア人俳優マクシミリアン・シェルがアカデミー主演男優賞、脚本のアビー・マンが脚色賞。
 マレーネ・ディートリヒとジュディ・ガーランドが歌わないのが少々残念。
 ヤニングのモデルは元司法大臣フランツ・シュレーゲルベルガー、裁判長ヘイウッドのモデルは元オハイオ州地方裁判所判事キャリントン・マーチャル。 (評価:3.5)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1964年5月2日
監督:アラン・レネ 製作:ピエール・クーロー、レイモン・フロマン 脚本:アラン・ロブ=グリエ 撮影:サッシャ・ヴィエルニ 美術:ジャック・ソーニエ 音楽:フランシス・セイリグ
キネマ旬報:3位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

良く言えば幻惑的だが観る方は混乱して眠くなる
 原題"L'Année dernière à Marienbad"で、邦題の意。マリエンバートはチェコにある温泉保養地でドイツ語読み。
 黒澤明の『羅生門』をモチーフにした作品で、『羅生門』の原作の一つである芥川龍之介の『藪の中』が物語の下敷きとなっている。
 男と女、女の夫の3人が主要登場人物。複雑な構成の物語で、一言で言えば話がよくわからない。解説によれば、男が事実とする物語と女が事実とする物語があって、食い違っている。そこに女の夫による証言と現在進行形の物語が重なり、相互にモザイクのように話が進行していくため、良く言えば幻惑的な展開に観客は混乱するか、眠くなる。
 舞台は夫妻の住む城館で、撮影にはミュンヘンにあるニンフェンブルク宮殿とフランス庭園他が使われている。
 城館は多くの部屋、長い廊下からなる迷宮で、『藪の中』が下敷きということからもわかるように、3人はこの城館同様の迷路に迷い込む。しかもただの迷路ではないのが本作の見せ場で、城館は古い歴史を持った文化的な遺産というより前近代的な遺物。ゴシックの過剰な装飾とともに、夜毎、社交界の着飾った男女によって19世紀的なパーティが開かれている。
 男は去年マリエンバートで女が離婚すると約束したと言い、女はそんな覚えはないと言い、終盤、夫は確かに2人は密会していたと言い、最後に男が事故死してわけのわからないままに終わる。
 男女の主観的物語が心象的な描写で進むため、具象的には脈絡のないストーリーとなっている。心象描写は語り手の主観視点であるため、関係者以外の周囲の人間がストップモーションになるという演出が面白い。
 ココ・シャネルの衣装デザインと、女を演じるデルフィーヌ・セイリグの美貌も見どころ。 (評価:2.5)

ビリディアナ

製作国:スペイン
日本公開:1964年10月1日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:グスタボ・アラトリステ 脚本:ルイス・ブニュエル、フリオ・アレハンドロ 撮影:ホセ・フェルナンデス・アグアイヨ 音楽:グスタボ・ピッタルーガ
カンヌ映画祭パルム・ドール

美人の出家は勿体ないと思わせるのがブニュエルのツボ
 原題"Viridiana"で、主人公の名。メキシコ時代のブニュエルが故国スペインに招かれて撮った作品。
 修道院で育ったビリディアナ(シルヴィア・ピナル)が出家を前にして、資金援助をしてくれた叔父(フェルナンド・レイ)の家を訪ねるという物語で、ビリディアナ役のシルヴィア・ピナルが美人のため、出家するのは勿体ないと誰もが思う。そう思わせるのがブニュエルのツボで、物語はこの勿体ないを中心に展開していく。
 あしながおじさんの叔父の亡妻がビリディアナと血縁のある叔母で、これがビリディアナにそっくり。滞在を終えて修道院に戻ろうとすると、叔父から突然の愛の告白。修道院に戻らずに屋敷で一緒に暮らそうと言われる。
 ビリディアナはこれを断って修道院に帰ろうとするが、悲観した叔父が首吊り自殺。罪を感じたビリディアナは出家を諦め、代わりに町の貧者を屋敷の下働きとして住まわせ、聖女と敬われる。
 美人のビリディアナを捨て置かないのは叔父の放蕩息子、即ち従弟のホルヘ(フランシスコ・ラバル)も一緒で、情婦と屋敷に移り住みながらビリディアナを口説く。ビリディアナは満更でもないが、情婦がいるからと断ると、ホルヘは情婦を屋敷から追い出し、代わりに家政婦の情婦に。
 3人が留守の間に、貧民たちは屋敷の広間で最後の晩餐。帰ってきた聖女ビリディアナを手籠にしようとする。ホルヘの機転で事なきを得るが、修道女を目指した処女ビリディアナが世俗に塗れて俗人に成り下がるという、二重三重にキリスト教を揶揄した作品になっている。スペイン、イタリアで上映禁止。
 カンヌ映画祭パルムドール受賞。 (評価:2.5)

鏡の中にある如く

製作国:スウェーデン
日本公開:1964年7月10日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:アラン・エーケルンド 脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
アカデミー外国語映画賞

家族と世界に遍在する愛こそが神というベルイマンの答え
 原題"Såsom i en spegel"で、邦題の意。
 仕事優先で家族を顧みない壮年の作家が、精神病の長女とその夫、大学受験の長男とともに海岸にある別荘を訪れるという物語で、信仰が主題となる「神の沈黙」三部作の第1作。
 医師である長女カリン(ハリエット・アンデルソン)の夫マーチン(マックス・フォン・シドー)が、義父ダビッド(グンナール・ビヨルンストランド)に彼女の病気が治らないことを告げると、ダビッドはそれをネタに小説を書こうと日記に付ける。
 カリンが偶然これを読んでしまい、同じ精神病だった母の死も、娘の病気も作家の父にとっては小説の材料でしかなく、父が小説のテーマに選ぶ神と信仰もまたネタに過ぎないと絶望する。
 父が欲しいのはベストセラーではなく作家としての名声だと姉に話す長男もまた作家を目指している。書いた戯曲を姉と父の前で上演するが、父の才能を皮肉ったもの。
 そうした中、カリンの病状が悪化し、神がもう一つの世界に迎えに来たという幻覚を見て、再入院することになる。
 ダビッドは家族を蔑ろにしてきたことを省み、彼が追究してきた神と信仰の問題について一つの結論に至る。神そのものは存在しないが、人と人の間のちっぽけな愛、そうして家族と世界に遍在する愛こそが神なのだと。
 神と信仰を追究するベルイマンを作家のダビッドに重ね合わせた作品で、ベルイマンの一つの結論ともいえる。ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1961年11月17日
監督:エリア・カザン 製作:エリア・カザン 脚本:ウィリアム・インジ 撮影:ボリス・カウフマン 音楽:デヴィッド・アムラム
キネマ旬報:9位

草原の輝きが遠い過去となって観るべき映画ではない
 原題"Splendor in the Grass"で、邦題の意。ワーズワースの詩"Ode: Intimations of Immortality"(頌歌:不滅の暗示)からの引用で、ラストシーンで朗読される。

Though nothing can bring back the hour of splendour in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind.
(草原の輝き、花の咲く頃は還ってこないが、歎くのはやめよう。
それよりも残されたものの中に強さを見つけるのだ)

 物語は、高校生の男女が親の干渉によって仲を引き裂かれ、イエール大学に進学した青年はドロップアウトして食堂の娘と結婚して牧場主に、娘は精神を病んで医療施設で知り合った開業医と婚約し、青春時代の光輝は失われたもののそれぞれに成長してそれぞれの道を歩み始めるというもの。
 それがワーズワースの詩と相対していてる。
   それだけを捉えれば物語はよく出来ていて、エリア・カザンらしい巧みな演出で青春映画の佳作と呼ぶに相応しいが、前半の二人が狂おしいほどに恋愛に傾倒していく姿がどうにも受け入れがたい。
 もっとも高校生の頃に観た時は、ナタリー・ウッドの可愛らしさもあってそうは思わなかったのはやはり年齢の相違で、草原の輝きが遠い過去となってからは観るべき映画ではないということか。
 どうにも納得できないのは、高校生の二人がまるで発情期の動物のようで、全く理性を持たずに日夜ベタベタしていることで、親が無理解だとか過干渉だとかいう以前に、これじゃ教育的指導も仕方がないという状態であること。
 発情期の動物を無理やり引っぺがして、少年は勉強とフットボールに身が入らなくなったと言われても、それは発情している時も同じだろうと突っ込みたくなるし、そのために別のメスと交尾したから少女が自暴自棄になったといわれても、ホモサピエンスとしての理性はないのかといいたくなるし、そんな二人になったのは親のせいだと言われても、甘やかされて育てられたからだとしか思えず、親の過干渉が二人を追い込んだという言い分は納得できない。
 それでも、二人が引き裂かれてからはようやく大人の映画になっていて、ワーズワースの詩もいい効果を発揮して、エリア・カザンらしい甘酸っぱい青春映画なっている。
 青年役にウォーレン・ベイティ。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1962年1月27日
監督:セス・ホルト 製作:ジミー・サングスター 脚本:ジミー・サングスター 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:クリフトン・パーカー

ハマー・フィルム制作のよくできたホラー・ミステリー
 原題"Taste of Fear"で、恐怖の味の意。
 母が死に、再婚していた父の邸を訪れた娘が体験するホラー・ミステリー作品。
 冒頭、若い女性の溺死体が収容されるシーンから始まるが、これがラストのどんでん返しの伏線となる。
 主人公は父の娘(スーザン・ストラスバーグ)で下半身不随の車椅子。溺死女性は彼女の親友で世話係だったという設定。身寄りを亡くし、10年間会っていない父の家に引き取られることになる。
 ところが父は不在。継母(アン・トッド)と住み込み運転手(ロナルド・ルイス)に迎えられ、ほかは通いのメイドと夕食に訪ねてくる父の主治医(クリストファー・リー)が関係者。夜中に娘は父の死骸を見るが、継母と主治医は厳格だと取り合わず、運転手だけが信じてくれる。
 父の遺産継承者は娘で、彼女が死ぬか精神病で禁治産者となった場合は継母が相続人になるという説明があり、さて娘の幻覚なのか、はたまた継母の陰謀なのか、という筋立てで、ラストのどんでん返し&どんでん返しが上手くできている。
 全体のストーリーが理路整然としているかといえばそうでもないが、シナリオの妙味がそれを補っている。
 主人公の娘が体験する恐怖のシーンも演出的に上手いと思ったら、制作はハマー・フィルムだった。
 主治医のクリストファー・リーがキャスティングの目玉で、ドラキュラ並みの活躍を期待したいところだがそうでもないのがちょっと残念。主人公のスーザン・ストラスバーグが、ホラー向き美人で良い。 (評価:2.5)

馬上の二人

製作国:アメリカ
日本公開:1961年5月24日
監督:ジョン・フォード 製作:スタン・シュペトナー、ジョン・フォード 脚本:フランク・ニュージェント 撮影:チャールズ・ロートン・Jr 音楽:ジョージ・ダニング

コマンチに受ける扱いの方があなたたちよりもマシだ
 原題"Two Rode Together"で、二人は一緒に馬に乗ったの意。ウィル・クックの"Comanche Captives"(コマンチの虜)が原作。
 タイトルは保安官マケーブとコマンチ族から救出したエレナが駅馬車でロサンゼルスに旅立つラストシーンを象徴する。
 時は1880年代のテキサス。タスコサの保安官マケーブ(ジェームズ・スチュアート)は、グランド砦の人々に頼まれ、ゲイリイ中尉(リチャード・ウィドマーク)とともにコマンチ族に連れ去られた子供たちの返還交渉に向かう。しかし、いずれも10年以上前の出来事で、幼かった少女は何人もの子供を産んでいて、帰還を断る。
 マケーブたちが連れ帰ったのはすっかりコマンチになり切った英語を話せない少年ウルフと、メキシコ人の女エレナ(リンダ・クリスタル)の二人。しかしコマンチの妻にされていたエレナは、砦の女たちに蔑まれ、ロサンゼルスに旅立つことに。
 この時のマケーブが名演説で、コマンチの女は3日間で45時間働いて日曜日はなく料理がリクリエーションだと語った後、"...this afternoon she asked me to take her back. Because she was treated much better by the Comanches than she's been treated by some of you."(昼間、エレナは私にコマンチのもとに帰してくれるように頼んだ。というのは、コマンチに受ける扱いの方が、あなたたちに受けた扱いよりもマシだったからだ)と女たちを皮肉る。
 西部劇の名手ジョン・フォードのヒューマニズムの本領発揮のシーンで、コマンチに弟を攫われた若い娘マーティ(シャーリー・ジョーンズ)が大事にしていたオルゴールの音楽を聴いたウルフが、「僕のだ」と叫ぶのを無視して砦の男たちがウルフを処刑してしまうエピソードと併せ、白人の側の非人間性を告発する。
 現実主義者のマケーブが誰よりも不幸なエレナに心を寄せ、誰よりも歳月の残酷さを知っていたという結末が、フォードらしいクールな西部劇。 (評価:2.5)

荒野のガンマン

製作国:アメリカ
日本公開:1962年5月22日
監督:サム・ペキンパー 製作:チャールズ・B・フィッツシモンズ 脚本:A・S・フライシュマン 撮影:ウィリアム・H・クローシア 音楽:ピーター・ツィンナー、マーリン・スカイルズ

徹頭徹尾ハードボイルドなペキンパーらしい西部劇
 原題"The Deadly Companions"で、命取りの仲間たちの意。A・S・フライシュマンの同名小説が原作。
 南北戦争後、南軍兵士に頭の皮を剥がされかけた北軍兵士が復讐のために西部の町を彷徨う話で、冒頭イカサマ博打で首を吊られかけた男がいきなり登場するところがペキンパーらしい。
 これを主人公(ブライアン・キース)が助けようとして首吊り男(チル・ウィルス)とその相棒(スティーヴ・コクラン)とアウトロー・トリオを結成する。
 この主人公が得体の知れない二人に平然と背中を向け、傷を隠すために寝る時にも帽子を脱がない、右肩に銃弾が入ったままなので拳銃も上手く撃てないという一匹狼のガンマンで、だったら左手で銃を撃てるようにすればいいじゃないかというツッコミは置いといても、主人公のハードボイルド感はペキンパーらしい。
 次の町で、シングル美人ママ(モーリン・オハラ)の息子を不調法な拳銃で誤射してしまい、息子をパパの墓に埋葬したいというママに無理矢理付き合って、仲間二人とともにアパッチのテリトリーにある廃墟の町に向かう。
 最後は宿敵を追いつめる段まで行くが、ママの頼みで殺すのを諦め司直の手に引き渡すが、宿敵は銀行強盗を犯しているのでどのみち縛り首。
 女も登場するが徹頭徹尾ハードボイルドで、ペキンパーらしい西部劇に仕上がっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1961年8月15日
監督:J・リー・トンプソン 製作:カール・フォアマン 脚本:カール・フォアマン 撮影:オズワルド・モリス 音楽:ディミトリ・ティオムキン
ゴールデングローブ作品賞

古き良きハリウッドの戦争映画-舞台はエーゲ海
 ずいぶん昔にテレビで観たことがあって、どんな映画だっけ? と思って見直した。
 アリステア・マクリーンの戦争小説が原作。第二次世界大戦でドイツ軍に占領されたエーゲ海諸島でのイギリス軍の敗北が題材で、ナバロン島も登場人物も架空。決死隊による嵐の中の上陸、ロックライミングと話に若干無理はあるが、そこは娯楽アクション映画。戦争映画からヒーローが消える前の、1960年代のハリウッドの雰囲気が楽しめるかも。
 原題は"The Guns of Navarone"で、「ナバロンの銃火器」の意。 (評価:2.5)

ほら男爵の冒険

製作国:チェコスロヴァキア
日本公開:2004年12月25日
監督:カレル・ゼマン 脚本:カレル・ゼマン、ヨーセフ・カイナール 撮影:イジー・タランチーク 音楽:ズデニェク・リシュカ

映像表現だけでなくストーリー的に心に残るものが欲しい
 原題"Baron Prášil"で、大ぼら吹き男爵の意。
 ミュンヒハウゼン男爵の体験談を基にした物語をドイツの詩人ゴットフリート・ビュルガーが翻訳・加筆した"Wunderbare Reisen zu Wasser und Lande: Feldzüge und lustige Abenteuer des Freiherrn von Münchhausen"(陸と水の素晴らしい旅:ミュンヒハウゼン男爵の遠征とおかしな冒険)が原作。
 実写と絵画、ストップモーション・アニメーション等を合成したファンタジー映画で、中世風かつ幻想的、影絵的な要素を盛り込み、通常の実写やアニメーションからは得られない異次元なイマジネーションを喚起させられる、映像表現において秀逸な作品。
 月面を探査する宇宙飛行士トニークが19世紀に打ち上げられたロケットを発見。宇宙服も着ずにワインを傾けるミュンヒハウゼン男爵に出会う不思議感が素晴らしい。ついでキャプテン・ハーロックよろしく男爵の船で地球に向かうが、地球に到着してからが月並みな物語になってしまうのが惜しい。
 トルコの宮殿で囚われのビアンカ姫を救出という中世騎士道物語になり、船ごと鯨に呑み込まれてしまう段になるとピノッキオの冒険を連想させる。敵国と戦う王国に助勢して食客となるが、ファンタジーに染まったトニークはビアンカ姫とハネムーンに行くことを決意。男爵の協力を得て城の塔をロケットに月に向かうというハッピーエンド。
 異世界に誘う映像表現だけでなく、ストーリー的に心に残るものが欲しかった。 (評価:2.5)

女は女である

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1961年12月23日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ミシェル・ルグラン

性から離れられない女と男の傲慢にうんざりする
 原題"Une femme est une femme"で、邦題の意。
 冒頭、スクリーン一杯の文字でコメディ、ミュージカル、フランセーズなどと銘打つが、フランセーズを除けばどれもお題目だけで、シャンソンを織り交ぜたフランス小噺を映画にしたというのが当を得ている。
 小噺にしては1時間半は長く、フランス人にしか通じないセンスのギャグに失笑し、アンナ・カリーナのストリップにしか見どころを見い出せないが、それがコメディにおけるゴダール一流のヌーヴェルヴァーグだと言われれば、筋の繋がらない刹那的演出と画面構成に退屈しながらも、最後まで見通してしまうことで納得してしまう。
 アンナ・カリーナ演じるストリップ嬢アンジェラは、コペンハーゲンからやってきて、エミール(ジャン=クロード・ブリアリ)と同棲中。フランス語のRが上手く発音できないとエミールにからかわれているが、突然子供が欲しいと言い出し、エミールからは他の男に頼めと相手にされない。
 そこでアンジェラに夢中なアルフレード(ジャン=ポール・ベルモンド)に頼むが、エミールの子供が欲しいアンジェラは躊躇。しかし、とうとうアルフレードと寝てしまう。
 それを聞いたエミールは、今ならアンジェラと寝てしまえば妊娠しても自分の子になると、ベッドインするというオチ。
 フランス小噺なので突っ込むのも野暮だが、恋愛と性から離れられない女と、それが所詮女だと突き放すゴダールの男特有の傲慢さに、半世紀前の作品ながらうんざりする。 (評価:2)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1962年11月28日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 製作:エマヌエレ・カッスート 脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エンニオ・フライアーノ、トニーノ・グエッラ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ジョルジオ・ガスリーニ
キネマ旬報:8位
ベルリン映画祭金熊賞

夫婦喧嘩は犬も食わないという格言を思い出す
 原題"La notte"で邦題の意。
 舞台はミラノ。高層階から下層階へとカメラが移動しながら、高層ビルの窓ガラスに街の景色が映るオープニング・クレジットがこれから始まるドラマを予感させて秀逸だが、本編は倦怠期の夫婦の話で、いささか退屈。
 二人(マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー)で末期癌の親友(ベルンハルト・ヴィッキ)を病床に見舞ったことがきっかけで二人の間に隙間風が吹くが、その親友は妻の元彼で、今も変わらぬ彼の愛情を知った妻の心にさざ波が立つ。
 一方の夫は売れ出しの作家で、金持ちたちからのお呼びで夜ごとパーティ三昧。ちやほやされた挙句に浮気心も芽を出して、富豪の娘(モニカ・ヴィッティ)といちゃいちゃ。
 心に穴の開いた妻は元彼が死んだのを知って家に帰ってしまうが、親友の病状も気にならない夫は極楽とんぼで朝帰り。妻がかつてもらったラブレターを読ませても、夫はそれを覚えていない始末。
 ゴルフ場のバンカーみたいなところに座り、妻を抱き寄せる夫と「愛していないと言って」と抵抗する妻。無理矢理愛撫する二人からカメラがパンしてfinとなる。
 ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しているが、倦怠期の夫婦の戯れ事を描いてだからどうだというところもあって、次第にどうでもよくなってくるが、二人がもつれ合いながら「愛していないと言って」「いや言わん」という台詞を聞きながら、夫婦喧嘩は犬も食わないという格言を思い出す。
 『情事』『太陽はひとりぼっち』と並ぶ、ミケランジェロ・アントニオーニ愛の3部作、2作目。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1962年6月13日
監督:ロバート・ロッセン 製作:ロバート・ロッセン 脚本:ロバート・ロッセン、シドニー・キャロル 撮影:ユージン・シャフタン 音楽:ケニヨン・ホプキンス
キネマ旬報:9位

スタイリッシュだが空疎な、男と女の腐った話
 原題は"The Hustler"でプロの賭博師のこと。ウォルター・テヴィスの同名小説が原作。
 ポール・ニューマンが、ポケットビリヤードで伝説のハスラーに挑む話。博打のマネージャー、アル中の女、キャロムビリヤードの名手が絡む。
 落伍者(loser)か勝者(winner)かというアメリカ人の好きなテーマが持ち出され、博打において真の勝者には人格が必要だという話も出てくるが、正直、この映画の登場人物はニューマンを含めて全員が人生の落伍者であり、言葉に説得力を持たない。
 映画はプールバーでキューを衝く男たちの物語ということで、全体にライトでスタイリッシュ。バーボンを飲み、煙草をふかして、歯の浮くような気の利いた会話をするが、そのどれもが恰好つけだけで中身に乏しく、上っ面を撫でただけで軽い。日本でもそんな小説や小説家が人気があったりするが、虚無と空疎を勘違いしているのはこの作品も同じ。
 プロの賭博師なら勝負に命を張ってもらいたいし、女に感傷的になるのではなく、質に入れるくらいにもっと泥臭く生きてほしい。それがないとただの恰好つけのギャンブラーで、どうでもいい男と女の腐った話を見せられただけに終わる。
 ラストシーンでニューマンが、勝負にしか拘らず、人間性を失った者こそ落伍者だとマネージャーを諭すが、改めて言われなくても小学生にもわかる結論に、この映画の凡作ぶりを感じる。 (評価:2)

突撃隊

製作国:アメリカ
日本公開:1962年8月29日
監督:ドン・シーゲル 製作:ヘンリー・ブランク 脚本:ロバート・ピロッシュ、リチャード・カー 撮影:ハロルド・リップスタイン 音楽:レナード・ローゼンマン

アメリカ人も爆弾三勇士と同じ精神構造というのが貴重
 原題"Hell is for Heroes"で、地獄は英雄のためにの意。
 内容的には邦題の突撃隊よりは特攻隊が相応しい戦争ヒロイズム映画で、第二次世界大戦でドイツ軍と対峙する前線が舞台。
 前線での戦闘を終えて後衛に戻ったラーキン軍曹(ハリー・ガーディノ)の小隊は、アメリカに帰国できるという噂に沸いている。
 そこに編入されたのが兵隊ヤクザの元軍曹リース(スティーブ・マックイーン)で、命令に背いて特攻した廉で軍法会議にかけられ二等兵に降格。とにかく戦闘で暴れたいという喧嘩上等男で、噂は嘘で前線に戻ると聞いて俄然やる気になる。
 前線に戻された小隊は、中隊が移動したのも知らずに置き去りにされ、決死の守備隊を命じられ、ドイツ軍に対し6人で中隊に見せかけるというお話にもならない作戦。空き缶に石を詰めて鳴らしたり、散開して銃撃したりという子供騙しの挙句に、リースのアイディアで地雷原を匍匐前進して敵のトーチカを奇襲攻撃しようとする。
 最後は中隊が戻ってくるが、リースの特攻精神に煽られたか、無謀な攻撃を仕掛ける有り様でバッタバッタと狙撃され、撃たれたリースが爆弾もろともトーチカに特攻して自爆するという、爆弾三勇士も顔負けのヒーローとなる。
 特攻精神は日本の十八番と思いきや、アメリカにも似たような精神構造の者がいるのがわかるというのが貴重な作品で、スティーブ・マックイーンの狂気が見どころとなっている。 (評価:1.5)

ティファニーで朝食を

製作国:アメリカ
日本公開:1961年11月4日
監督:ブレイク・エドワーズ 製作:マーティン・ジュロー、リチャード・シェファード 脚本:ジョージ・アクセルロッド 撮影:フランツ・プラナー、フィリップ・H・ラスロップ 音楽:ヘンリー・マンシーニ

お洒落だが、高級娼婦ヘプバーンの中身の薄い恋愛映画
 原題は"Breakfast at Tiffany's"。ニューヨークのティファニーにはレストランはなく、冒頭、朝帰りのヘプバーンがティファニーの前でショーウインドウを覗きながら朝食のパンを食べるシーンがあって、それがタイトルとなっている。原作はトルーマン・カポーティの同名小説。
 映画では婉曲な表現しか出てこないがヘプバーンは売春婦役。タイトルも、まだ開店していないティファニーの前で朝食を食べる仕事帰りの娼婦を表している。ヘプバーンは、同じアパートに移り住んできた作家のベッドにいきなり潜り込むといった、娼婦らしい奔放ぶりを見せる。もっともジバンシーのロングドレスに身を包むヘプバーンでは、誰も娼婦だとは思わないし、実際娼婦に見えない。当時32歳のヘプバーンの体当たり演技とはいえ、ミスキャスト。
 恋人のいる作家はやがて娼婦に惹かれ、一方の娼婦は南米の富豪の二号となるはずが、仲間の麻薬取引の嫌疑をかけられる。それでもヘプバーンに相応しいハッピーエンドで、ヘンリー・マンシーン作曲の挿入歌"Moon River"が大ヒット。
 原作者のカポーティが不満だったというのも頷ける中身の薄い恋愛もので、可憐なヘプバーンのアイドル映画になっている。
 劇中登場するユニオシという日系人も当時アメリカ人の日本人観を反映したカリカチュアで、演じているのは白人だが、眼鏡を掛け、口には出っ歯の入れ歯を入れている。当時、このような人種的ステレオタイプ化が流行っていて、日本人の記号化した表現だったが、それが差別的で不快というよりも、こうした時代があってこのような迷作を生んだということを知る材料になる。
 ティファニー、ヘプバーン、ムーン・リバーというお洒落なイメージだけで有名となった作品だが、冒頭のティファニー前のシーンを除けば見るべきものがない。 (評価:1.5)

SF巨大生物の島

製作国:イギリス
日本公開:未公開
監督:サイ・エンドフィールド、製作:チャールズ・H・シニア 脚本:ジョン・プレブル、ダニエル・ウルマン、クレイン・ウィルバー 特撮:レイ・ハリーハウゼン 音楽:バーナード・ハーマン

巨大な蟹や鶏と戦う人形アニメとの合成が見どころ
 原題は"Mysterious Island"(神秘の島)で、ジュール・ヴェルヌの同名冒険小説(原題:L'Île mystérieuse)が原作。
 南北戦争下のアメリカ、リッチモンドで、南軍の捕虜収容所から気球で脱出した北軍兵士らが、南太平洋の巨大生物の棲む島に不時着、潜水艦ノーチラス号のネモ船長の協力で海賊船を奪って帰還する物語。
 19世紀の原作なので、科学的には突っ込みどころは満載だが、神秘の島の場所は南緯34度57分 西経150度30分となっていて、ニュージーランドの東3000kmだがもちろん該当する島はない。
 原作にはない巨大な蟹や鶏と戦う人形アニメとの合成が見どころだが、その他のシナリオや演出に工夫がなく、ストーリーが単調な上に演技も今ひとつで全体を通して退屈感は否めない。
 空撮や火山の噴火などは資料映像などの実写も取り入れてリアルだが、特に火山のミニチュアが迫力不足で、『ゴジラ』程度の頑張りが欲しいところ。
 人形アニメも『キングコング』(1933)や『猿人ジョー・ヤング』ほどには登場も少なく、売りとしては中途半端。難破船から流れ着いたグラマラス美女ベス・ルーガンの太股とパンチラで辛うじて眠気を堪えるような出来。難破船のグラマラス美女は、1976年版『キングコング』でも使われている。
 ベス・ルーガンはイギリス生まれの26歳。1956~61年に十数本の映画に出演したが、1968年の"Salt and Pepper "を最後に姿を消している。 (評価:1.5)