海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1960年

製作国:アメリカ
日本公開:1961年6月10日
監督:ジョージ・パル 製作:ジョージ・パル 脚本:デヴィッド・ダンカン 撮影:ポール・C・ヴォーゲル 音楽:ラッセル・ガルシア

特殊効果とイヴェット・ミミューの可憐な色気
 H.G.ウェルズの1895年のSF小説の名作「タイム・マシン」が原作。原題はともに"The Time Machine"。
 19世紀に書かれた原作は当時の社会主義の影響を受けていたのに対し、20世紀に作られた映画は当時の核戦争の危機を反映していて、ともに未来の世界がどうなるのかという社会派の作品。21世紀の2002年にもガイ・ピアース主演でリメイクされたが、社会派というよりはラブ・ロマンスで、それなりに楽しめる作品だった。
 ジョージ・パル版「タイム・マシン」は、始まりの19世紀の雰囲気がよく出ていて、主人公の乗ったタイムマシンの風景が、時間変化とともに早送りに移り変わっていくシーンが何度見ても楽しい。アカデミー特殊効果賞を受賞している。
 未来世界に降り立った主人公は、そこで意外な事実を知っていくわけだが、案内人となるウィーナ役のイヴェット・ミミューの可憐な色気がたまらない。当時18歳だったが、従順な子羊のような白い肌、金髪のイーロイの娘を好演している。 (評価:4)

製作国:フ​ラ​ン​ス​、​イ​タ​リ​ア
日本公開:1960年6月11日
監督:ルネ・クレマン 製作:ロベール・アキム、レイモン・アキム 脚本:ポール・ジェゴフ、ルネ・クレマン 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:3位

上流の人間になろうとしてなれない青年の悲しさ
 ​原​題​は​"​P​l​e​i​n​ ​s​o​l​e​i​l​"​で​、​邦​題​の​意​。​ア​メ​リ​カ​人​作​家​パ​ト​リ​シ​ア​・​ハ​イ​ス​ミ​ス​の​"​T​h​e​ ​T​a​l​e​n​t​e​d​ ​M​r​.​ ​R​i​p​l​e​y​"​(​才​能​の​あ​る​リ​プ​リ​ー​氏​)​が​原​作​。​1​9​9​9​年​に​マ​ッ​ト​・​デ​イ​モ​ン​主​演​で​再​映​画​化​さ​れ​て​い​る​。
​ ​貧​乏​な​若​者​の​ト​ム​(​ア​ラ​ン​・​ド​ロ​ン​)​は​ア​メ​リ​カ​に​す​む​フ​ィ​リ​ッ​プ​(​モ​ー​リ​ス​・​ロ​ネ​)​の​父​親​か​ら​、​大​金​を​報​酬​に​イ​タ​リ​ア​に​い​る​放​蕩​息​子​を​連​れ​戻​す​こ​と​を​依​頼​さ​れ​る​が​、​フ​ィ​リ​ッ​プ​は​話​を​聞​く​ど​こ​ろ​か​遊​び​に​付​き​合​わ​す​。​ヨ​ッ​ト​で​セ​ー​リ​ン​グ​に​出​る​が​フ​ィ​リ​ッ​プ​は​ト​ム​を​下​男​か​虫​け​ら​の​よ​う​に​扱​い​、​恋​人​マ​ル​ジ​ュ​(​マ​リ​ー​・​ラ​フ​ォ​レ​)​と​い​ち​ゃ​つ​く​始​末​。​フ​ィ​リ​ッ​プ​の​態​度​に​怒​り​、​マ​ル​ジ​ュ​を​横​取​り​し​よ​う​と​決​め​た​ト​ム​は​、​フ​ィ​リ​ッ​プ​を​殺​し​て​錨​と​と​も​に​海​に​沈​め​る​。​フ​ィ​リ​ッ​プ​を​詐​称​す​る​ト​ム​は​ヨ​ッ​ト​を​売​り​払​い​悪​事​は​成​功​し​た​か​に​見​え​た​と​こ​ろ​で​・​・​・​と​い​う​話​。
​ ​何​度​か​観​た​映​画​だ​っ​た​が​、​観​直​し​て​舞​台​が​イ​タ​リ​ア​だ​っ​た​こ​と​に​驚​く​。​ニ​ー​ス​あ​た​り​と​思​い​込​ん​で​い​た​。
​ ​非​常​に​よ​く​で​き​た​ス​ト​ー​リ​ー​、​よ​く​で​き​た​映​画​で​、​太​陽​だ​け​で​な​く​ア​ラ​ン​・​ド​ロ​ン​の​魅​力​も​い​っ​ぱ​い​、​い​わ​ゆ​る​ピ​カ​レ​ス​ク​ロ​マ​ン​と​し​て​楽​し​め​、​し​か​も​ラ​ス​ト​シ​ー​ン​が​ゾ​ク​ッ​と​す​る​。​最​初​に​見​た​頃​は​ま​だ​日​本​が​貧​し​く​て​、​こ​れ​が​地​中​海​バ​カ​ン​ス​と​い​う​も​の​か​と​羨​む​く​ら​い​に​、​ブ​ル​ジ​ョ​ア​で​デ​カ​ダ​ン​ス​、​ニ​ヒ​ル​、​そ​し​て​若​者​的​だ​っ​た​。
​ ​そ​う​し​た​気​分​を​ル​ネ​・​ク​レ​マ​ン​は​上​手​く​描​い​て​い​て​、​サ​ス​ペ​ン​ス​だ​け​で​な​く​第​二​次​世​界​大​戦​後​を​象​徴​す​る​け​だ​る​い​若​者​像​を​提​示​し​た​。
​ ​貧​し​い​ト​ム​は​、​上​流​の​フ​ィ​リ​ッ​プ​の​生​活​を​手​に​入​れ​、​恋​人​を​手​に​入​れ​、​フ​ィ​リ​ッ​プ​そ​の​も​の​に​な​り​た​か​っ​た​わ​け​で​、​そ​の​た​め​に​パ​ス​ポ​ー​ト​を​偽​造​し​、​彼​の​靴​と​服​で​着​飾​る​。​そ​れ​が​外​面​に​過​ぎ​ず​、​結​局​叶​わ​な​い​と​い​う​あ​る​種​の​階​級​映​画​で​、​そ​こ​に​人​間​の​悲​し​さ​を​見​る​ル​ネ​・​ク​レ​マ​ン​の​視​線​が​あ​る​。
​ ​ニ​ー​ノ​・​ロ​ー​タ​の​テ​ー​マ​曲​も​い​い​。 (評価:3.5)

製作国:イタリア
日本公開:1961年4月29日
監督:ロベルト・ロッセリーニ 製作:フランコ・マグリ 脚本:セルジオ・アミディ、ディエゴ・ファッブリ、ブルネッロ・ロンディ、ロベルト・ロッセリーニ 撮影:カルロ・カルリーニ 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
キネマ旬報:8位

前半は温かい人間ドラマだが定番の戦争悲劇の後半がつまらない
 原題"Era Notte a Roma"で、邦題の意。
 1943年のイタリア降伏後が舞台で、北部の捕虜収容所を脱走した連合国兵士3人が、無防備都市宣言下のローマ、ポンテ地区の家を隠れ家に連合軍の救出を待つという物語。
 隠れ家を提供するのはヤミ屋の娘エスペリア(ジョバンナ・ラッリ)で、農家から小麦や食用油を手に入れるのと交換に兵士3人を預かるが、ローマを占拠するドイツ軍に知れれば銃殺と知って3人を追い出しにかかる。
 ところが婚約者のレナート(レナート・サルヴァトーリ)はレジスタンスの協力者で、3人をクリスマスまで預かり、別の隠れ家に移送しようとする。
 3人はイギリス兵(レオ・ゲン)、アメリカ兵(ピーター・ボールドウィン)、ロシア兵(セルゲイ・ボンダルチュク)で、言葉の通じない5人が必死に意志を交わそうとする姿が可笑しいが、同時に友情を深めていき、別れの日には離れがたい気持ちになっているのが本作最大の見せ場。立場や国、人種こそ違っても互いに理解し合えるという普遍的人間愛が温かい気持ちにさせる。
 もっとも感動的なのはここまでで、ドイツ軍に見つかって追われる展開になると、レジスタンスが逮捕され、ロシア兵が死に、レナートが殺されるという定番の悲劇となり、イギリス兵とエスペリアが密告者の元司祭への復讐を果たす中、連合軍のローマ入城でfinとなる。
 中盤までは、打算的だが人の好いイタリア人ばかりだったのが、密告者の元司祭だとか、エスペリアがレナートを助けるためにドイツ軍に協力したとか、急に戦争下での人間の醜さに焦点が移り、普通の戦争映画になってしまう。語り部であるイギリス兵が、逃げ回るだけの受け身で観察者でしかないのが、とりわけ後半をつまらなくしている。
 イタリア人は風向き次第でファシストにも反ファシストにもなると言いながら、カトリックだから本質は善良で、教会はレジスタンスを匿う神の代理と、妙にカトリック教会寄りなのが鼻につく。
 ロシア兵を演じるセルゲイ・ボンダルチュクは『戦争と平和』(1965~7)の監督。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1960年9月4日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:ジョセフ・ステファノ 撮影:ジョン・L・ラッセル 音楽:バーナード・ハーマン

ホラーのテンプレートいっぱいの元祖サイコ・ホラー
 ヒッチコックのスリラー映画の代表作。ロバート・ブロックの同名小説が原作。原題の"Psycho"は精神病者のこと。
 物語はフェニックスの不動産会社に勤める独身女(ジャネット・リー)が会社の金を持ち逃げし、カリフォルニアに住む恋人のところに向かう途中、大雨で旧街道にあるモーテルに泊まる。母親と二人暮らしだという青年(アンソニー・パーキンス)が経営するモーテルは他に宿泊客がなく、事件はここから始まる。
 本作の特徴の一つは主人公と思っているとそれが次々と変わっていくことで、一人称的映画に慣れていると意表を突かれる。結局主人公はアンソニー・パーキンスということになるが、ストーリー的にはよくできているが、何か残るものがあるかというと難しく、あくまでもよくできたスリラー映画。
 久し振りに見ると、モーテルを営む青年と母というシチュエーションや、シャワーや沼のシーンは覚えていても、物語は洞だったりする。
 多重人格を扱ったスリラーという点では、サイコ・ホラーの元祖的作品。音楽やSE、ショットの見せ方など、その後に引き継がれたものも多くホラーのテンプレートともいえるが、歳月を経るとこれといった個性や特長がないことに気づく。 (評価:2.5)

製作国:スウェーデン
日本公開:1961年3月18日
監督:イングマール・ベルイマン 製作:イングマール・ベルイマン、アラン・エーケルンド 脚本:ウラ・イザクソン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:エリク・ノルドグレン
キネマ旬報:1位
アカデミー外国語映画賞

泉の奇蹟で終わらせずに死んだ娘を甦らせてほしかった
 原題は"Jungfrukällan"で、Jungfru=処女、källan=泉・水源・源。昔は名作だと思って観た映画が、今は色褪せて見える。アカデミー外国語映画賞等を受賞。
 中世のバラッドを基に脚色しただけにストーリーは単純。中世スウェーデンの地主の娘が教会の勤めとしてローソクを届けに行くが、途中山羊飼いたちに強姦された上に殺される。牧童たちは一夜の暖を求めて偶然地主の家に泊めてもらうが、娘から奪った服を持っていたことから犯行がばれ、地主に殺される。娘の亡骸のあった所に泉が湧きだす。
 敬虔なクリスチャンでありながら娘は殺され、父は殺人を犯す。神はなぜ沈黙したままなのか? その答えが泉なのか? と神学的意味を深読みすることもできるが、それを頭から切り離せば単なる犯罪と復讐劇。父親は若い娘を護衛も付けずに狼のいる森にお使いに出し、案の定、赤ずきんちゃんは狼に食べられてしまう。そして父親は狼を退治する。
 このバラッドの原型は『赤ずきん』と同じなのか、という民話学的問題設定は置いておくとして、この単純な犯罪・復讐劇に宗教的意味合いを被せただけで、遠藤周作『沈黙』ほどに神学的に深い話でもない。アイスクリームに散らしたトッピング程度にしか見えないのは、半世紀の時代の変化か?
 そもそもこの娘はそれほど宗教的でもなく、両親も娘を溺愛するだけで敬虔なのは表面だけ。娘を羨む下女はゲルマンの主神オーディンに災厄を祈り、あろうことかオーディンがイエスに勝ってしまう。イエスが成し得たのは沢のすぐそばに泉を湧かすという意味のない奇蹟と恩寵。(科学的にはたまたま伏流水があったということか)
 深読みすれば、ベルイマンはイエスよりもゲルマン古来の神々の優位をこの映画で主張したかった? 歴史的にゲルマンの神々を滅ぼしたキリスト教が嫌い? むしろゲルマン民族主義者?
 そうならば、泉の奇蹟で終わらせるのではなく、死んだ娘を甦らせて、父親に棄教させてほしかった。オーディンのイエスに対する確たる勝利として。そうすれば、この映画はもっと味わい深いものになったかもしれない。
 父親は神の不在を嘆きながら娘の死んだ地に教会を建てると誓うが、その時の演技が神を呪って復讐を誓っているように思えたのは見間違いか? 神の不在の教会を建ててやるぞと・・・
 ベルイマンのコントラストの強いモノクロ画像は、印象派の絵画を見るように美しい。 (評価:2.5)

荒野の七人

製作国:アメリカ
日本公開:1961年5月3日
監督:ジョン・スタージェス 製作:ジョン・スタージェス 脚本:ウィリアム・ロバーツ、ウォルター・バーンスタイン 撮影:チャールズ・ラング・Jr 音楽:エルマー・バーンスタイン

ガンアクションとメキシコ風陽気な西部劇『七人の侍』
 黒澤明の『七人の侍』の翻案の西部劇。原題は"The Magnificent Seven"で高貴な7人の意。
 盗賊に収奪されるメキシコの寒村を舞台に、農民たちが国境の町でガンマンに村の防衛を依頼。クリス(ユル・ブリンナー)が一人20ドルで仲間を集め、村の防衛をする。最後に盗賊を退治するものの、4人を失う。
 物語の流れは大まかには原作に沿っている。派手なガンアクションとメキシコの村という陽気さもあって、原作ほど陰鬱さや重さはなく、エンタテイメントとして別の楽しみ方ができる。
 ラストの村の長老の台詞"Only the farmers have won. They remain forever. They are like the land itself. You helped rid them of Calvera the way a strong wind helps rid them of locusts. You are like the wind, blowing across the land and... passing on. "で、クリスたちは害虫であるイナゴを大地から吹き払った風でしかなく、土地そのものである農民だけが永遠に勝利する、といって本作のテーマのすべてを語っている。
 その後、クリスは残った仲間に"The old man was right. Only the farmers won. We lost. We always lose."(老人は正しい。勝ったのは農民、俺たちの負けだ。俺たちはいつも負ける)と言う。
 農民の立場に立てばきれいごとに過ぎず、収奪する側の体のいい言い訳でしかないが、ガンマンたちを利用する農民のしたたかさがいい。
 スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンが出演。音楽も牧歌的でいい。 (評価:2.5)

ブーベの恋人

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1964年9月12日
監督:ルイジ・コメンチーニ 製作:フランコ・クリスタルディ 脚本:ルイジ・コメンチーニ、マルチェロ・フォンダート 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:カルロ・ルスティケリ

時代と宗教に流された「ブーベの女」の人生を描く
 原題"La ragazza di Bube"で、ブーベの女の意。カルロ・カッソーラの同名小説が原作。
 イタリアのパルチザンの青年ブーベと婚約者マーラの悲恋の物語で、婚約したことによりブーベの女となったマーラの視点から描かれる。
 哀愁を誘うテーマ曲は映画音楽の名曲だが、当時は本作の背景をよく理解できず、単なる悲しい恋の物語としか捉えられていなかった。
 物語は1947年7月に始まるが、イタリア南部から連合軍が北上し、本作の舞台となるイタリア中部ではローマに続きフィレンツェが陥落する寸前にある。ドイツ軍と連合軍、ファシスト軍とイタリア王国軍にパルチザンも加わった内戦で複雑な構図が背景となり、マーラの悲しい人生が描かれることになる。
 もし内戦がなかったらブーベと平穏な結婚ができたかもしれない、ステファーノに出会うこともなかったかもしれない。いや、そもそもパルチザンのブーベと知り合うこともなかったのかもしれない。ユーゴに逃亡したブーベが送還されなければステファーノと結婚することになったかもしれない。
 そうしたifの積み重ね、歴史の歯車に狂わされるマーラの人生にとって、もう一つの背景となるのがカソリック国であるイタリアの保守性で、マーラ抜きでブーベが父親に結婚を申し込み、父親が勝手に承諾してしまう。さらには結婚前の性交渉をマーラが拒絶し、ブーベの国外逃亡前夜にカソリックの教えに反して性交渉をする。
 宗教の前にマーラは恋人ができてもブーベの婚約者としての操を通し、そうした点でマーラは「ブーベの女」であり、マーラの悲しい人生のもう一つの要素となっている。
 逮捕されて人生を悲嘆するブーベをマーラは叱り、初めはブーベを助けてやれるのは自分だけという思いから、次第にブーベに対する愛が確信に変わっていく。
 ブーベは14年の刑を受け、物語は7年後のマーラの回想として描かれる。ステファーノは別の女と結婚し、ブーベの面会を続けるマーラは、7年があっという間だったのだから残りの7年も耐えられると思う。
 そこで初めて、時代や宗教に流されてしまったマーラが自分の意思で人生を選択したことを知る。
 誇り高い女マーラをクラウディア・カルディナーレが好演する。ブーベはジョージ・チャキリス。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1961年2月16日
監督:ルイ・マル 脚本:ルイ・マル、ジャン=ポール・ラプノー 撮影:アンリ・レイシ 音楽:フィオレンツォ・カルピ
キネマ旬報:7位

映像の魔術としての映画の原点を見せる作品
 原題"Zazie dans le métro"で、邦題の意。レイモン・クノーの同名小説が原作。
 ザジは10歳のおかっぱ頭の少女の名で、母親とともにパリにやってくるが、母親は恋人とのデートが目的で、叔父夫婦に預けられたザジがパリを去るまでの2日間の物語。
 上京したザジの楽しみは地下鉄に乗ることだが、ストのために駅は閉鎖、道路は大渋滞という状況の中、街中に飛び出した少女とともに破天荒なパリ見物をするという趣向。
 早送り・スローモーション・トリック撮影と短いカット割り・編集を駆使した忙しいスラップスティック・コメディで、映像の魔術としての映画の原点を見せる作品となっているが、古臭いといえば古臭いし、コメディ技法としてアマチュア的といえばアマチュア的。
 フランス風の小洒落たユーモアが随所に利いていて、考え落ちからパイ投げに至るまで、ギャグのデパートと化しているが、ザジ役のカトリーヌ・ドモンジョの可愛さだけで90分余りを持たすには辛いところがあって、後半は観る方がだれる。
 ザジがパリを出発する朝、地下鉄ストは解除されて、美人の叔母さんに抱かれてザジはようやく地下鉄に乗ることができるが、疲れて眠りこんでいてそれを知らず、結局、楽しみにしていた地下鉄を知らないままにパリを去るというオチになっている。
 ザジの2日間で、エッフェル塔やセーヌ川を始め、大渋滞する道路や夜のパリ、カフェなど、半世紀前のパリ見物ができるのも本作の見どころのひとつか。
 叔父さんのフィリップ・ノワレは『ニュー・シネマ・パラダイス』のアルフレード、叔母さん役のカルラ・マルリエの人形のように変化しない表情がいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1960年12月15日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:エドワード・ルイス 脚本:ダルトン・トランボ 撮影:ラッセル・メティ 音楽:アレックス・ノース
ゴールデングローブ作品賞

キューブリックを期待するとガッカリする大作映画
 原題"Spartacus"。史実を基にしたハワード・ファストの同名小説が原作。
 スパルタカスの反乱は、紀元前1世紀の共和政ローマで起きた奴隷の反乱で、奴隷軍は12万人に上ったとされる。
 スパルタカス(カーク・ダグラス)は養成所の剣闘士で、後に執政官となるマルクス・リキニウス・クラッサス(ローレンス・オリヴィエ)の前で死闘を命じられたことがきっかけで他の剣闘士たちと反乱を起こし、イタリア各地の奴隷を解放しながら奴隷たちの帰郷を図る。ローマは反乱を鎮圧するためにクラッサスを総指揮官とする軍団を投入し、奴隷軍は全滅する。
 物語では、これに女奴隷バリニアとの恋が絡み、スパルタカスは捕えられて磔刑となるが、バリニアとの間にできた子に父の遺志を託すというラストになっている。
 スパルタカスは奴隷たちを解放して自由を求めた英雄として描かれ、冒頭、彼の思いが実現したのは2000年後の現代だという字幕が入る。
 キューブリックはそういったテーマを提示しながら、現代もなお残る階級構造に目を向けさせるが、ある意味そのテーマの通俗ともいえる単純明解さゆえに、人の深淵を描くキューブリックらしさを期待すると、がっかりする。
 映画そのものは3時間に及ぶ大作で、前奏、インターミッション、終幕と、当時の大作スタイルを踏襲している。合戦シーンなどでは多数のエキストラが投入され、CGでは得られない壮大さもあって映像的にも見せどころは多いが、剣闘士の戦いや戦闘シーンは大掛かりなわりには迫力不足で、キューブリックがアクションなどのエンタテイメントには長けていないことが見て取れる。
 キューブリックがこうした『ベン・ハー』や『十戒』のような歴史スペクタクルを撮ったということでは興味深いが、そうした作品と違うところはどこにもなく、退屈しないが、それ以上には何もない。
 女奴隷バリニアを演じたジーン・シモンズは、ローレンス・オリヴィエの『ハムレット』(1948)のオフィーリア役の女優。 (評価:2.5)

バファロー大隊

製作国:アメリカ
日本公開:1960年8月13日
監督:ジョン・フォード 製作:ウィリス・ゴールドベック、パトリック・フォード 脚本:ジェームズ・ワーナー・ベラ、ウィリス・ゴールドベック 撮影:バート・グレノン 音楽:ハワード・ジャクソン

ジョン・フォードの黒人差別への思いが先走って生硬
 原題"Sergeant Rutledge"で、ラトレッジ軍曹の意。劇中に登場する騎兵隊の黒人隊員の名前。
 騎兵隊の黒人隊員の軍事裁判を描く、法廷西部劇という変わり種で、ジョン・フォードの作品群の中でもやや異質。黒人差別問題をテーマにしている。
 法廷劇という形をとって、事件を再現していくというスタイルを取っているが、証言によってドラマを再構築していくために裁判の形式を利用しているだけで、検察と弁護が丁々発止する法廷劇を期待すると肩透かしを食う。
 ならば普通に物語を追えばよかったが、最後にどんでん返しのミステリー劇を仕組んでいるために、この形式を選んだという事情も分からなくはないが、成功しているとはいいがたい。
 騎兵隊の黒人が白人娘をレイプし、目撃した上官を射殺したという嫌疑で逃亡。彼を信頼する隊長が隊を率いて捜索し逮捕するが、隊長自身が裁判で弁護人となり、彼の冤罪を晴らすというのがストーリー。
 白人娘をレイプした真犯人は別にいて、それが裁判の最後で明かされるが、黒人隊員は端から状況証拠と黒人への偏見により自分が犯人に仕立てられて死刑になると考え、逃亡を図ってしまう。
 検察も傍聴人も、黒人隊員が犯人と決めつけ、弁護人となった隊長が裁判長以下の人種差別を告発するというのがテーマで、1960年にジョン・フォードがこのようなテーマの作品を撮った勇気とリベラル性には敬意を表するが、思いが先走って生硬な作品になってしまったのが残念。法廷劇ではなく、正攻法でドラマとして取り組んだ方がよかったのではないか。
 キャスティングが今ひとつ格落ちなのは、題材のせいか?
 邦題は、劇中に登場する騎兵隊のニックネームからで、英語では"Buffalo Soldier"。黒人だけの騎兵隊のことで、インディアンによって名付けられた。作中では、野牛の革を着ていたからだと説明されている。
(評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1961年7月4日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:カルロ・ポンティ 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ 撮影:ガボール・ポガニー 音楽:アルマンド・トロヴァヨーリ
キネマ旬報:6位

ソフィア・ローレンの魅力炸裂の教科書的反戦映画
 原題"La Ciociara"で、邦題の意。アルベルト・モラヴィアの同名小説が原作。
 第二次大戦中のローマで食料品店を営む母(ソフィア・ローレン)と娘(エレオノーラ・ブラウン)が、空襲を逃れて母の故郷に疎開。ムッソリーニが監禁され、連合国の進駐で戦況が変り、ローマに戻ろうとするまでの物語。
 美人ママはどこにいてもモテモテで、食料品店の留守は好意を持つ亡父の友人(ラフ・ヴァローネ)に任せ、故郷に帰っても豊かな家族の青年(ジャン・ポール・ベルモンド)に食料品調達の便宜を図ってもらい、愛を告白される。
 ところが青年は理想主義者で、ドイツ軍占領下の村に潜入したイギリス兵を手助け。ドイツ兵に目を付けられて撤退の道案内を頼まれ、そのまま殺されてしまう。
 連合軍が進駐し、母娘はローマへ徒歩で向かう途中、モロッコ兵に輪姦され、一時は心を失うが、村の青年の死を知って抱き合い感情を取り戻すところで幕となる。
 空襲、疎開、ファシストの恐怖、エゴイストの民衆、そして解放勢力からの暴行と、戦争の悲惨さをラインナップさせる反戦映画で、それはそれで御尤もなのだが、あまりに教科書的で心に引っかかるものがない。
 最大の見どころはと言えば、26歳のソフィア・ローレンの美貌とグラマラスで均整の取れたプロポーションで、改めて彼女の魅力に感じ入る。ソフィア・ローレンはアカデミー主演女優賞を受賞。 (評価:2.5)

栄光への脱出

製作国:アメリカ
日本公開:1961年6月22日
監督:オットー・プレミンジャー 製作:オットー・プレミンジャー 脚本:ダルトン・トランボ 撮影:サム・リーヴィット 音楽:アーネスト・ゴールド

ユダヤ人の虫のいい理想主義が今は空しい
 原題"Exodus"で、集団脱出の意。ユダヤ系アメリカ人レオン・ユリスの同名小説が原作。
 "Exodus"は出エジプト記のことでもあり、劇中モーゼがユダヤ人を率いて紅海を渡るエピソードが引用され、ポール・ニューマン演じるアリ・ベン・カナンがモーゼになぞらえられる。
 物語は、第二次大戦終戦後の1947年、パレスチナへの不法移民を収容する英領キプロス島の難民キャンプから始まり、イスラエル建国を目指す軍事組織ハガナのベン・カナンの策略で国際世論を背にパレスチナへの集団移民を成功させ、パレスチナ分割の国連決議で建国に漕ぎ着けるまで。
 入植地はアラブ人の地主からプレゼントされ、地主の息子タハ(ジョン・デレク)が親友で、その親友がアリを助けたために裏切り者として処刑され、中東戦争勃発の中で、アリがユダヤ人とアラブ人が共存できる事を願ってラストとなる。
 アラブ人の土地にイスラエルが建国され、アリがタハに、アラブ人も一緒に暮らそうと虫のいいことを言うのが何ともいえず、脚本のダルトン・トランボもせいぜいこの程度の理想しか掲げられなかったが、そんなユダヤ人にとっての理想がアラブ人に受け入れられなかったのは歴史が示す通り。
 ユダヤ人に偏見を持つアメリカ人キティ(エヴァ・マリー・セイント )が、アリに共感して入植村でユダヤ人と暮らすまでになるが、キティがアメリカ人の立場を象徴していて、本作がアメリカのイスラエル支持の世論形成に影響を与えたともいわれる。
 そうした点で政治的には微妙な作品だが、パレスチナ統治国イギリスの関与、大量移民の原因を作ったドイツのホロコーストを含め、イスラエル建国の経緯とユダヤ人の心情がわかるという点で参考になる。 (評価:2.5)

101匹わんちゃん大行進(101匹わんちゃん)

製作国:アメリカ
日本公開:1962年7月27日
監督:ウォルフガング・ライザーマン、ハミルトン・S・ラスケ、クライド・ジェロニミ 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:ビル・ピート 美術:ケン・アンダーソン 音楽:ジョージ・ブランス

子供にはダルメシアンの登場が待ち遠しいオシャレなオープニング
 原題"One Hundred and One Dalmatians"で、101匹のダルメシアンの意。ドディ・スミスの児童小説"The Hundred and One Dalmatians"が原作。
 個人的には、映画館で見た記憶に残る最初の映画で、近所の商店街の映画館で見たという思い出深い作品。改めて全編を通して見ると、子供だけを対象に作られていたわけではないことがわかる。
 オープニングは、ダルメシアンの斑点をモチーフにして変化するスタッフ・クレジットのアニメーションで、音楽スタッフでは五線譜に変化。それがロンドンの街並みの線画に変わり、カラーリングされて物語が始まるというもので、従来のファンタジーなディズニーアニメとは異なる都会的なイラストが演出を含めてオシャレ。
 もっともザッツ・アニメーションなオープニングが延々と続くのは子供的には退屈で、ダルメシアンの登場が待ち遠しかったのではないかと思われる。
 物語も独身の貧乏作曲家ロジャーと暮らす牡のダルメシアンのポンゴが、ご主人の嫁探しを始めるというあまり子供向きではないもので、同じく牝のダルメシアン、パーディタを飼っている美人アニータと娶せ、自らもパーディタと結婚する。パーディタが15匹の子を産み、そこにアニータの友人クルエラがやってきて、毛皮にするために盗んでしまう。
 行方不明になった我が子をポンゴとパーディタが探すと、クルエラの隠れ家に我が子を含めて99匹のダルメシアンがいて、都合101匹のダルメシアンが逃走を図るというもの。
 子供にとっての見どころはこの脱出劇で、犬の様々な仕草やスリリングな逃走、カーチェイスなどのアクションが楽しい。冒頭、ロジャーの嫁探しで街を歩く様々な犬と女性が登場するが、服装などお揃いのコンビネーションなのがファッション・カタログのよう。
 パーディタも色っぽくて、大人も楽しめる作品になっている。  (評価:2.5)

ゼロ地帯

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1961年5月20日
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ 脚本:フランコ・ソリナス、ジッロ・ポンテコルヴォ 撮影:アレクサンドル・スクロヴィチ、ゴッフレード・ベリサリオ、マルチェロ・ガッティ 音楽:カルロ・ルスティケリ

今一つモヤモヤ感が拭えないホロコースト物語
 原題"Kapo'"で、ナチスの強制収容所で労働の監督・管理業務などをした特権的な囚人職員のこと。
 パリに住む14歳のユダヤ人少女エディット(スーザン・ストラスバーグ)が強制収容所に入れられるが、運よく死亡した窃盗常習の一般囚人ニコルと入れ替わり、ガス室行きを免れる。それからはニコルに成りすまし、ドイツ人士官の目に留まったことから体を与えてカポに引き上げられる。
 囚人たちの強制労働を監視する傍ら、捕虜として収容所にやってきたサシャ(ローラン・テルジェフ)と恋に落ち、将来を約して脱走の企てに加担。作戦は、カポとして自由に行動できるエディットが監視所脇の配電室の電源を切り、高圧電流の流れる鉄条網を破るというものだったが、その際にサイレンが鳴るためエディットが犠牲になるのは必定。
 それをサシャに打ち明けられたエディットは生きていても仕方のない命と作戦を遂行し、多くの囚人の命を救うという物語。
 若くして聖女となった少女の悲劇といえば涙を誘うが、生き延びるためとはいえドイツ士官に身を任せてカポとして特権を得たことへの葛藤が描かれず、サシャを好きになってからは恋人のためという『ロミオとジュリエット』張りのロマンス・ドラマでは、今一つモヤモヤ感が拭えない。
 また囚人たちが脱走するラストでは、多くがドイツ軍の掃射の犠牲となり、とても作戦成功といった爽快感はない。
 エディットは死に際にカポとしてのナチスの記章を引きちぎり、罪を清め天国に受け入れてもらうためにイスラエルの神への祈りを捧げるが、親しいドイツ人士官カールへのセリフ「彼らは私たちを裏切ったのよ、私たちの両方を裏切ったのよ」の真意がわからない。
 エディットを演じるスーザン・ストラスバーグは、当時22歳のユダヤ系アメリカ女優で、14歳の少女を演じて違和感ない童顔。 (評価:2.5)

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1962年1月30日
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ 撮影:アルド・スカヴァルダ 音楽:ジョヴァンニ・フスコ
キネマ旬報:4位

ストーリーは不毛だが、地中海の映像は不毛ではない
 原題"L'avventura"で、冒険の意。ミケランジェロ・アントニオーニの愛の不毛3部作の第1作。他は『夜』と『太陽はひとりぼっち』。
 つまらない映画ではない。しかし、面白い映画でもなく、句読点なくダラダラと物語が進行していく退屈な映画で、そのまったり感というか、倦怠感というか、不毛感を魅力と感じられれば、傑作かもしれないという錯覚を得られる。
 ストーリーは、愛を不毛に感じているハイソ女アンナが仲間たちと遊びに行った地中海の無人島で姿を消す。溺れたのかもしれないし、失踪したのかもしれず、恋人と親友がアンナの足跡を追う。
 やがて二人は親密になって行き、親友はアンナにやましさを感じるが、旅先で男が別の女と寝ているのを目撃して絶望する。そうして二人は自らに嫌悪しつつも、互いの精神の欠落を慰撫するようなラストシーンとなる。
 最初に精神を欠落させたのはアンナで、その欠落によって恋人と親友の二人もまた己の精神を欠落させてしまう。しかし、その欠落はもともとあったもので・・・と理屈をつければいくらでも語れるが、山なしオチなし意味なしの退屈な作品であることに変わりはない。
 アンナの親友役のモニカ・ヴィッティはミケランジェロ・アントニオーニお気に入りの金髪美人で、愛の不毛3部作のいずれも主役。
 アンナの消息が最後まで不明で、ストーリー的な不毛感も半端でない。アンナが行方不明になる岩だらけの島も不毛感を盛り上げるが、地中海に行った気になる映像だけは不毛ではない。 (評価:2)

若者のすべて

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1960年12月27日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作:ゴッフリード・ロンバルド 脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザ、エンリコ・メディオーリ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ

都会が悪いという話のために3時間は長すぎる
 原題"Rocco e i suoi fratelli"で、ロッコと彼の兄弟たちの意。5人の兄弟の物語で、ロッコは三男。
 5部構成で、長男ヴィンチェンツォから順に名前がタイトルされるが、4・5部は内容的にはロッコと次男シモーネの話で、無理やり5部構成にした感がある。
 父親が死んでイタリア南部の町から母親と4兄弟が、ミラノに住む長男を頼ってやってくる。長男は喪中にも拘らず婚約パーティの最中で、早速母親同士が大喧嘩。長男の面倒で一家はミラノの小さな部屋で暮らし始める。
 物語は才能を認められてボクサーになったシモーネが娼婦ナディアのために自堕落になり、その兄を庇おうとするロッコの3人を中心に展開する。
 兵役から戻ったロッコが、刑務所帰りのナディアと偶然出会い恋仲になり、シモーネとの三角関係に発展。ロッコはナディアから身を引きボクサーとして頭角を現すが、借金まみれのシモーネが娼婦に戻ったナディアに怒って刺殺、四男チーロの通報で逮捕されてしまう。
 チーロを責める五男ルーカに返す言葉が本作のテーマを語っていて、都会がシモーネをダメにした、つまり善良な田舎者の一家が都会に出てきたがために不幸に陥ってしまったという半世紀前に流行った反文明的な問いかけだが、いかんせんそれを描くのに3時間は長すぎて、もっと短くまとめられなかったのかと、いささかゲンナリする。
 ロッコにのボクシングシーンでは、アラン・ドロンのハンサムな顔が傷つくと余計な心配までしてしまう。
 長男の婚約者で、物語の終わりには結婚して子供まで生んでしまうジネッタをクラウディア・カルディナーレが演じるが、出番が少ない。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1964年8月14日
監督:アンリ・コルピ 脚本:マルグリット・デュラス、ジェラール・ジャルロ 撮影:マルセル・ウェイス 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:1位
カンヌ映画祭パルム・ドール

戦争の傷もいつか癒えるという時代の雰囲気しかない
 原題"Une aussi longue absence"で、邦題の意。
 第二次世界大戦でゲシュタポに逮捕されたフランス軍兵士が、記憶を喪失してパリに戻ってくるドラマ。
 ストーリー上では、帰巣本能によってか、パリ郊外の妻が経営するカフェの近くでホームレスをしているところを妻に発見され、記憶喪失の夫(ジョルジュ・ウィルソン)の記憶を呼び戻そうと妻(アリダ・ヴァリ)が過去を語りかけて次第に全体像が見えてくるという構成になっている。
 本作はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞していて、終戦から16年経った当時として、戦争がパリにもたらした傷跡を描いて共感を得たであろうことは想像に難くなく、シナリオ構成もよくできている。
 ただ、それから半世紀を経過して見れば、記憶喪失という傷跡と反戦・厭戦気分といった時代の雰囲気しか描かれてなく、よくある記憶喪失物のミステリーにしかなっていない。
 戦争ないしは心の傷そのものに迫れてなく、表面だけを舐めた感があり、主人公がいつか記憶を取り戻すだろう、焦る必要はないというラストに、パリ市民たちの戦争の傷もいつか癒えるだろう、焦る必要はないというメッセージを重ねていることで、本作が時代を描いただけの作品に過ぎず、普遍性を持ちえないことを示している。
 ただ終盤で町を去っていく男を町中の人々が「アルベール・ラングロワ」と初めて本名で呼び止めるシーンで、ゲシュタポに逮捕された記憶から思わず両手を挙げてしまう後姿の男のシーンが秀逸で、ジョルジュ・ウィルソンの演技力不足なのか演出力が足りなかったのか、このシーンに至る男の内面が描けていれば、作品が普遍性を持ちえただろうにと惜しまれる。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1963年7月23日
監督:フランソワ・トリュフォー 製作:ピエール・ブラウンベルジェ 脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー 撮影:ラウール・クタール 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:9位

スタイリッシュが取り柄のはずが中途半端
 原題"Tirez sur le pianiste"で、邦題の意。デイビッド・グーディスの小説"Down There"が原作。
 基本はB級アクション映画で、凡庸なストーリーに愛だ結婚だといったトリュフォーらしい会話を散りばめたのが結果的に禍して、つまらない作品にした。
 犯罪者一家の次男坊が主人公で、パリのカフェでピアノを弾いているが、もとは人気のコンサート・ピアニストだったという設定。周りからは臆病とみられているがそれには理由があって、彼のファンだったカフェの女給と昵懇となって、それが次第に明かされるという構成になっている。
 ピアニストの元妻は自分のことにしか関心がない夫に不満を持ち、彼を売り出すためにプロデューサーと寝たことを告白。それを許さない夫を見て自殺してしまう。これが夫のトラウマとなり、女を口説けなくなるが、そうした内面の葛藤の声をモノローグで語らせるというのがトリュフォーらしい演出。
 兄がしでかした事件のとばっちりを食って、女給と仲良くなったピアニストは兄を追う連中に尾行されることになり、弟を拉致された上に、実家に戻ったところをやってきた女給まで殺されてしまうという結末。
 女給とともにコンサート・ピアニストとしてやり直そうとした夢は潰えてしまったというオチで、トリュフォーなので娯楽映画にもアクション映画にもなってなく、スタイリッシュが取り柄のはずがそれも中途半端な作品になっている。
 ピアニストにシャルル・アズナヴール。 (評価:2)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1961年10月15日
監督:ピーター・ブルック 製作:ラウール・J・レヴィ 脚本:マルグリット・デュラス、ジェラール・ジャルロ 撮影:アルマン・ティラール 音楽:アントニオ・ディアベリ
キネマ旬報:10位

日常に倦んだブルジョア女の寂しい結末
 原題"Moderato cantabile"で、音楽用語、中くらいの速さで歌うようにの意。劇中で少年が弾くピアノ曲、アントニオ・ディアベリのソナチネ集作品168-4の第二楽章のこと。
 マルグリット・デュラスの同名小説が原作。
 フランス西海岸の港町が舞台で、製鉄所長の夫人(ジャンヌ・モロー)と工員(ジャン・ポール・ベルモンド)の道ならぬ恋の物語だが、要は日常に倦んだブルジョア女が、カフェで起きた痴情殺人に触発され、首を突っ込もうとして工員と痴情を持ち、事件を追体験するが、互いに交わすセリフは観念的というよりはポエムすぎて、まともな神経では付いていけない。
 これぞポエティックなハーレクインロマンスと割り切れば、本作に意義を見いだせるかもしれないが、日常に倦んだブルジョア女とそれに付き合う男の戯れ事をアホらしいと考えるリアリストには、どうでもいい不倫話は退屈極まりない。
 それでも1時間半をつまらないと思いながらも見てしまうのは、ピーター・ブルックの演出力か、はたまたジャンヌ・モローの美貌のなせる技か?
 ラストシーンは、恋人に殺してほしかった夫人が、事件のように上手くは事が運ばなかったという寂しい結末で終わる。 (評価:2)

小さな兵隊

製作国:フランス
日本公開:1968年12月31日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:モーリス・ルルー

ゴダールのアンナ・カリーナ愛が強くてPVシーンが長すぎる
 原題"Le Petit Soldat"で、邦題の意。
 アルジェリア独立戦争を背景に、ジュネーヴを舞台にしたフランス極右組織とアルジェリア民族解放戦線のスパイ同士の闘いを描く。
 通信社のカメラマン・ブリュノ(ミシェル・シュボール )はフランス極右組織OASに脱走兵の弱みを握られたスパイで、アルジェリア独立を支持するパリヴォダの暗殺を強要されている。
 そのブリュノが好きになったのがヴェロニカ(アンナ・カリーナ)で、実はアルジェリア民族解放戦線(FLN)の女スパイだったという設定。
 二人は互いにそれを知らずに恋に落ち、ブリュノはパリヴォダ暗殺に逡巡し逆にFLNに狙われることになる。ブリュノはヴェロニカと海外逃亡を図るが、ヴェロニカがFLNに拘束されてしまい、彼女を救うためパリヴォダ暗殺を実行する…というストーリー。
 もっともゴダールなので形而上学的台詞が多く、ドキュメンタリー風に撮っていて説明的台詞が少ないので、ストーリーはわかり辛い。
 加えてゴダールのアンナ・カリーナ愛が強くて、PVかと思えるくらいにカメラマン・ブリュノによるモデル撮影シーンが過剰なのが、全体のバランスを壊して足を引っ張る。
 フランスの植民地政策を批判するプロパガンダ映画のため、政治的主張が多弁・饒舌なのもドラマの足を引っ張っている。
 FLNにおけるヴェロニカの役割が不明瞭なのと、OASがパリヴォダ暗殺をブリュノの遂行に拘るのもよくわからない。 (評価:2)

オルフェの遺言 私に何故と問い給うな

製作国:フランス
日本公開:1962年6月1日
監督:ジャン・コクトー 脚本:ジャン・コクトー 撮影:ローラン・ポントワゾー 音楽:ジョルジュ・オーリック

内面の自分史を映画で語られても錯乱しているようにしか見えない
 原題"Le testament d'Orphée, ou ne me demandez pas pourquoi!"で、オルフェの遺言、ないしは私に何故と聞くな!の意。
 『オルフェ』(1950)の続編で、ジャン・コクトーの最後の映画作品。
 前作のラストシーンの後、コクトーはルイ15世時代の詩人の姿で現代に現れるが、目当ての化学教授は亡く息子がいる。姿を消したコクトーは非時間の中で老化学教授となった息子と再会、ピストルで撃たれて現代に生きることになる。
 以下、詩人コクトーの不条理でファンタスティックな物語となり、非時間という時空の中で様々な人と出会い、コクトーの映画論、詩論が展開されていくが、正直コクトーの極私的体験と内面の自分史を語られても、映画が錯乱しているようにしか見えず何が何だかわからない。
 それからいえばタイトル通り、誰に遺したものかわからないコクトーの遺言であり、それがわからないからといって私に何故と問い給うな、という利己的で突き放した作品だといえる。
 コクトーの詩人としての一生を非時間の中で振り返るという、コクトーにとってはリアリズムの坩堝をファンタスティックに描いたという、わけのわからない結論で納得するしかない。
 リアリズムを映画の中では夢で描けると、フィルムの逆回しなどのトリック撮影を見せるが、残念ながらメリエスの『月世界旅行』(1902)の足許に及ばない。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1960年10月8日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド 脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド 撮影:ジョセフ・ラシェル 音楽:アドルフ・ドイッチ
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

ジャック・レモンばかりか観客も狐につままれるラストシーン
 原題は"The Apartment"。保険会社に勤める主人公が、出世のために上司の浮気に自室をレンタルするという話で、それが邦題となっている。
 本作を見て感じるのは、ニューヨークには東京のようなラブホや連れ込み宿がないということで、会話からは車をラブホ代わりに使っているのが窺える。夏季休暇は妻子をキャンプに送り出して浮気するチャンスというのも、同じビリー・ワイルダー監督の『七年目の浮気』と同じで、上司は昇進・降格・解雇をちらつかせるというパワハラ・セクハラの日常化。
 部長にアパートの鍵を渡したところ、お相手は主人公のジャック・レモンが恋するエレベーター・ガール(シャーリー・マクレーン)だったという設定。部長の元愛人だった部長秘書から浮気遍歴を聞かされた彼女がアパートの部屋で睡眠薬自殺未遂を起こし、懸命の介護の後の告白も彼女を振り向かせることはできない。部長は怒って秘書をくびにするが、事件を妻にばらされて離婚を決意。マクレーンは部長に求婚され、レモンは割を食っただけに終わる。
 部長はアパートの鍵を要求するが、失意のレモンは会社を辞めてアパートを引き払う。
 ここで映画が終わっていれば、本作は特に秀でたところはないがそれなりの作品だった。
 ところがハッピーエンドが定番のハリウッド映画は、すでに相当弛緩したストーリー展開にさらに蛇足を重ねる。念願の部長との結婚を手に入れたマクレーンが、どういう風の吹き回しかレモンのアパートを訪れて求愛を受け入れてしまう。
 ストーリーの伏線などシナリオはよくできていて前半は飽きさせないが、自殺未遂を起こしてからの展開がもたついて若干退屈。蛇足気味のシーンが始まって嫌な予感がするが、その通りのラストに、レモンばかりでなく観客も狐につままれたようになり、エンドマークだけが空虚に躍る。
 それにしてもゴールデングローブのコメディ部門というのは、笑いどころのない本作で訳が分からない。 (評価:2)

血を吸うカメラ

製作国:イギリス
日本公開:1961年7月14日
監督:マイケル・パウエル 製作:マイケル・パウエル 脚本:レオ・マークス 撮影:オットー・ヘラー 美術:アーサー・ローソン 音楽:ブライアン・イースデイル

変態の性と純愛を描いただけで作品的には未完成
 原題"Peeping Tom"で、覗き魔の意。
 女性の恐怖の表情を映画フィルムに収めることに取り憑かれた男のサイコホラーで、主人公マーク(カールハインツ・ベーム)は撮影所の映画カメラマン。幼い頃、恐怖について研究する心理学者の父の実験体にされたことがトラウマとなり、女性の恐怖の表情を集めたプライベートなドキュメンタリーを個人所有の16ミリカメラで制作している。
 度を越したカルトのため、三脚の先が槍になっていて女性の喉元に突きつけながら顔を撮影する。さらにカメラに鏡が取り付けてあって、女性は恐怖に歪んだ自分の表情を見ながら一層顔を歪ませるという仕掛けになっている。
 そんな変態のマークも下宿人の娘に普通に恋していて、彼女の恐怖の表情を見ることだけは望まない。
 最後は刑事に追い詰められたマークが自分の究極の恐怖の表情を撮影しながら三脚を喉に突き刺して自殺する。
 こうしてドキュメンタリーを完成させるというオチだが、ドキュメンタリーには女性たちが殺されるシーンだけでなく、現場検証する警察を盗み撮りしていて確かにPeeping Tomなのだが、何のためにそのようなシーンを撮っているかの説明がない。
 撮影完了だけで編集されていないが、主人公的には完成したドキュメンタリーがどのような意味を持つのかも説明されてなく、本作自体は単に変態の性(さが)と純情な恋を描いただけで、作品的には未完成なのが残念。
 殺害シーンは結構怖い。 (評価:2)

ガリバーの大冒険

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:ジャック・シャー 製作:チャールズ・H・シニア 脚本:アーサー・ロス、ジャック・シャー 撮影:ウィルキー・クーパー 特撮:レイ・ハリーハウゼン 音楽:バーナード・ハーマン

リリパット国よりワニやネズミの特撮の方が楽しい
 原題"The 3 Worlds of Gulliver"で、ガリヴァーの三つの世界の意。ジョナサン・スウィフトの小説"Gulliver's Travels"(正式タイトルは、 Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of Several Ships)が原作。
 原題の3つの世界は、原作の第1編リリパット国と第2篇ブロブディンナグ、そしてガリバーの故郷イングランドで、原作にあるそれ以外の国は登場しない。
 小人の国リリパットと巨人の国ブロブディンナグのエピソードはほぼ原作と同じだが、それぞれオリジナルキャラの恋人同士や少女、魔術師を登場させ、全体を通してはガリヴァーの婚約者との恋愛を絡ませるなど、18世紀当時のイギリスを風刺する原作の内容のエンタテイメント化を図っている。
 もっともそれが成功しているとは言い難く、総じて物語は退屈。レイ・ハリーハウゼンの特撮を楽しむための作品になっている。
 小人の国、巨人の国での原寸大のガリバーとのブルースクリーンでの合成が制作当時としては大きな見どころだったが、CG全盛の今から見ると新鮮さはなく、大西洋上の架空の国なのに、小人の国ではガリバーが嵐を操るなど、まるで地球や大気そのものが小さくなったような描写がむしろ不自然。
 巨人の国でガリバーが戦うワニや巨大ネズミなどのストップモーションアニメが、レイ・ハリーハウゼンらしい特撮で楽しめる。 (評価:2)


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