海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1938年

製作国:ドイツ
日本公開:1940年6月19日
監督:レニ・リーフェンシュタール 音楽:ヘルベルト・ヴィント
日本映画雑誌協会:1位(映画旬報:1位)
ヴェネツィア映画祭作品賞

映像美の中にオリンピック本来の意義と精神性を描く
 原題"Olympia 1. Teil — Fest der Völker"で、「オリンピア 第一部-民族の祭典」の意。
 1936年ベルリン・オリンピックの記録映画で、単なる記録映画ではないドキュメンタリー映画となっている。スローモーション、特異なカメラアングルなどの多彩な映像技術を駆使し、レニ・リーフェンシュタールならではの美的感覚に優れた映像作品になっている。
 とりわけギリシャのオリンピア遺跡から始まり聖火リレーへと繋ぐ荘厳なプロローグは、現在の商業オリンピックに失われた本来の意義と精神性を思い出させてくれる。
 第1部ではオリンピック・スタジアムを舞台とする開会式・陸上競技・閉会式までが描かれるが、国家の威信を背負う選手、自国の選手を応援する観客、ドイツ選手に一喜一憂するヒットラーの3つが特徴的。
 これらの映像には二面性があり、ナショナリズムの観点からはナチ賛美のプロパガンダとの批判が当然ある。もっとも、ナショナリズムの高揚とそれに陶酔する国民という批判は現在のオリンピックにも言えて、世界平和を標榜しながら成し得ない矛盾を抱えるオリンピックの宿命であることが本作から感じ取れる。
 もう一面は、国家の威信を抱えながらも自らの限界に挑戦する選手たちの純粋さ、その姿に感動する観客、そのひとりになり切っているヒットラーの無邪気さで、それが今もオリンピックが人々を魅了する精髄なのだと得心する。
 そうした二面性を映像美の中に描き出したレニ・リーフェンシュタールは、優れて映像作家なのであり、ナチ協力者の烙印を押されたその後の不遇が惜しまれる。
 競技シーンには明らかな選手以外による別撮りが含まれていて、ドキュメンタリーとしての作為性を問題にする向きもあるが、レニの芸術性の方が勝る。ヴェネツィア映画祭最高賞受賞。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1939年4月
監督:フランク・キャプラ 製作:フランク・キャプラ、モス・ハート、ジョージ・S・カウフマン 脚本:ロバート・リスキン 撮影:ジョセフ・ウォーカー 音楽:ディミトリ・ティオムキン
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞

性善説に立つ懐かしきアメリカ人の良心が意外と心地よい
 原題は"You Can't Take It With You"で、「あの世には持って行けない」の意。ジョージ・S・カウフマン、モス・ハートのピュリッツァー賞を受賞した同名戯曲が原作。
 タイトルの意味は、金や名声などはあの世には持って行けないという意味で、本作では金儲けにしか興味のない銀行家が、曲折を経て慈善家に変身するまでを描く。ディケンズの『クリスマス・キャロル』とテーマは同じ。
 この銀行家を教え諭す老人役がライオネル・バリモアで、渋い演技を見せる。この老人を中心とする一家が、工場建設の為に地上げ屋の追い立てを喰らっているが、好条件にも同意しない。その理由が、老人の亡妻の思い出が染みついた家ということで、自由に生き、好きな仕事をしたい人間を家に集めている。
 その家には"Sweet home sweet"と書かれたプレートが常に下がっていて、字幕では「我が家の楽園」と訳されている。
 人情コメディで、80年前の作品にも関わらず思わず笑ってしまうシーンもあって、家族で楽しめる良質なコメディ。
 生活のためにしたくない仕事をするんじゃなくて、生きてるうちが華、したいことをやろうというのが老人のポリシーだが、設定はお伽噺で、理想論だと一蹴したくもなるが、現実を忘れて一時、"Sweet home sweet"で生きていけたらいいなと夢を見ることが大切だという気にさせてくれる。
 物語は老人の孫娘(ジーン・アーサー)と銀行家の息子(ジェームズ・スチュワート)が恋に落ち、"Sweet home sweet"を訪ねた銀行家夫婦が曲折を経て二人の結婚を認め、地上げした土地を町の人たちに返すという、アメリカ映画らしいハッピーエンドを迎える。
 予定調和だが、性善説に立つ懐かしきアメリカ人の良心が意外と心地よい。もっとも、"Sweet home sweet"には一家の為に家事をする黒人メイドがいて、結局誰かがやりたくない仕事を引き受けなければならないという矛盾が、人種差別のオブラートによって隠されている。
 黒人夫婦はそれでも楽しそうな顔で演技していて、それがキャプラにできたせめてもの演出ということになる。3度目のアカデミー監督賞受賞作品。
 反資本主義や共産主義といった1930年代の時代背景が出てくるのも見どころの一つ。 (評価:3)

製作国:ドイツ
日本公開:1940年12月21日
監督:レニ・リーフェンシュタール 音楽:ヘルベルト・ヴィント
日本映画雑誌協会:5位(映画旬報:5位)
ヴェネツィア映画祭作品賞

消える聖火同様にどことなく燃焼不足の第2部
 原題"Olympia 2. Teil — Fest der Schönheit"で、「オリンピア 第2部-美の祭典」の意。
   1936年ベルリン・オリンピックの記録映画で、単なる記録映画ではないドキュメンタリー映画となっている。スローモーション、特異なカメラアングルなどの多彩な映像技術を駆使し、レニ・リーフェンシュタールならではの美的感覚に優れた映像作品になっている。
 第2部は陸上競技以外の種目を中心に描かれるが、冒頭より人間の肉体美が強調され、とりわけ鍛え抜かれた体操選手の肉体美を礼賛する。人間の身体はここまで美しくなれるのかと素直に驚嘆する半面、これをナチスの優生思想に結び付けることもできて、レニ・リーフェンシュタールの異常なまでの肉体美への執着に首肯せざるを得ない。
 ヨット、フェンシング、ボクシング、近代五種、ホッケー、ポロ、総合馬術、ロードレース、ボート、十種競技、競泳、高飛込と続くが、第1部に比べて今一つ迫力がないのは、「より速く、より高く」に比べて、「より強く、より美しく」という抽象概念をゲーム競技として描くことの難しさで、レニ・リーフェンシュタール自身も明確な視点を持ちえなかったように見える。
 記録映画、ドキュメンタリー映画としての作品性を別にすれば、面白いのは近代五種と馬術競技で、近代五種は、馬術・射撃・フェンシング・水泳・クロスカントリーを通じて最も優秀な兵士を選び出すという、競技の原点を思い出させてくれる。この競技によって、オリンピックのどこが平和の祭典だという思いに駆られる。
 総合馬術クロスカントリーは、野山の中の障害をクリアしていく過酷なもので、池の中に突っ込んで落馬し、中には骨折する選手が続出する。無事クリアするのにドイツ選手が多いのは、事前に練習していたせいかと邪推する。
 ラストは消える聖火で第1部のプロローグと対照しているが、どことなく燃焼不足の第2部となっている。  (評価:2.5)

黒蘭の女

製作国:アメリカ
日本公開:1939年10月5日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ヘンリー・ブランク 脚本:クレメンス・リプレー、アベム・フィンケル、ジョン・ヒューストン、ロバート・バックナー 撮影:アーネスト・ホーラー 音楽:マックス・スタイナー

南北戦争前夜の古き良きアメリカへの郷愁をくすぐる
 原題"Jezebel"で、イゼベルの意。
 劇中、主人公のジュリー(ベティ・デイヴィス)を旧約聖書列王記に出てくる毒婦、古代イスラエル王妃イゼベルに喩える台詞がある。オーウェン・デイヴィス・Srの同名戯曲が原作。
 南北戦争前夜の1852年、ニューオーリンズが舞台。ジュリーは大農場を経営する美貌の女当主で、銀行家のプレス(ヘンリー・フォンダ)と婚約中。
 鼻っ柱の強いジュリーがデートをすっぽかしたプレスに復讐するため、マナー違反の夜会服を着たことから逆に舞踏会の見せしめにされ、婚約破棄。
 ジュリーは、ニューヨークに去ったプレスが必ず自分を迎えにくると高を括るが、1年経ってプレスが北部育ちの新妻を連れて戻ってきたから一大事。プレスを奪い返してやると女の戦いを始めたことから、友人バック(ジョージ・ブレント)が決闘に誘い込まれて犠牲者に。
 その頃、ニューオリンズで黄熱病が猛威を振るい、プレスが感染。隔離される島に決死の覚悟で看病に向かう。
 ラストでは、新妻と看病の座を争うが、プレスが愛しているのは新妻の方だと言って、無償の愛を貫くという気丈な南部女の意地を見せる。
 『風と共に去りぬ』(1939)のスカーレット・オハラにも劣らぬ南部女の高慢ともいえる気高さを描くが、その芯の強さを演じるベティ・デイヴィスの熱演が光る佳作で、アカデミー主演女優賞を受賞。
 北部の先進性とスマートさに対する、南部の奴隷制や生活習慣の保守性、両者の思想の対比が面白く、ジュリーが守ろうとする古き良きアメリカへの郷愁をくすぐる。 (評価:2.5)

ロビンフッドの冒険

製作国:アメリカ
日本公開:1940年3月9日
監督:マイケル・カーティス、ウィリアム・キーリー 製作:ハル・B・ウォリス 脚本:ノーマン・ライリー・レイン、シートン・I・ミラー 撮影:トニー・ゴーディオ、ソル・ポリト 音楽:エリック・ウォルフガング・コーンゴールド

化粧バッチリのマリアンが場違いな異彩を放つ
 原題"The Adventures of Robin Hood"。ロビンフッドは中世イングランドの伝説上の人物で、さまざまな人物像に変遷しているが、本作はノルマン征服後、獅子心王リチャード1世治世下のサクソン人貴族の義賊という設定になっている。
 リチャード1世が十字軍遠征中にオーストリアで逮捕され、弟のジョン王子がサクソン人に圧政を敷いて王権を奪おうとしているのに対し、ロビンフッドが抵抗し、リチャード1世の帰還と共に名誉を回復するという物語。
 相棒のリトル・ジョンとともにタック修道士らの仲間を加えていく過程が描かれ、シャーウッドの森や弓の名人としての見せ場もある。
 全体にはセット撮影の舞台劇の趣で、アクションは型に嵌っていて迫力はない。その中で、ロビンフッド役のエロール・フリンがアクション・スターらしく身軽で軽快なアクションをこなしているのが見どころ。樹上からノルマン軍の馬上に襲い掛かるシーンも頑張っている。
 本作のもう一つの見どころは、マリアン姫を演じるオリヴィア・デ・ハヴィランドで、ロビンフッドを始めムサイ男ばかりが登場する中の紅一点。マックスファクターの化粧バッチリで、紗もかかったハリウッド美人女優として一人、場違いな異彩を放っている。
 敵役のガイ卿を演じるのは、シャーロック・ホームズ役で有名なベイジル・ラスボーン。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1939年12月
監督:レオニード・モギー 脚本:レオニード・モギー、ハンス・ウイルヘルム 撮影:クリスチャン・マトラ、クロード・ルノワール
キネマ旬報:2位

少女がインドに行くかどうかの結末は観客に委ねられる
 原題"Prison sans barreaux"で、邦題の意。
 ニースに近い女子感化院が舞台。感化院とはいっても軽微な罪や家庭内の虐待等、不幸な経緯から収容された者も多く、重罪者のように扱う職員に反発して情況はさらに悪化している。更生という本来の目的を忘れて懲罰に頼る、院長アッペルに批判的な青年医師ギイは、市に手紙を出し新しい院長イヴォンヌが赴任するが、実はギイの婚約者。
 イヴォンヌは早速、院生たちの面談を始め、改革に乗り出す。性善説に立つ彼女の態度は公平に見ればいささか不遜で、制作者たちの偽善が鼻につく。
 罪もないのに入れられたと抗議する問題児ネリーにイヴォンヌは目をかけ、期待に応えて模範的な院生となり、ギイ直属の看護婦を任せられる。ところが、二人が恋人同士とは知らないネリーはギイが好きになり、ギイはギイで仕事を恋人とするイヴォンヌに愛想を尽かしネリーに乗り換えてしまう。
 院生に手を出すとは遺憾な医者だが、愛染かつらの炎は燃え盛り、遂にはイヴォンヌに聖女と嫌味を言い、二人で新生活を始めるはずのインドに一人旅立ち、あろうことかイヴォンヌではなくネリーを呼び寄せようとする。
 イヴォンヌはそのことに気づき、遅まきながらネリーも二人の関係を知る。イヴォンヌに恩のあるネリーはそのまま感化院に留まることを申し出るが、イヴォンヌは更生相成ったネリーを退所させる。
 イヴォンヌがネリーを送り出すシーンで終わり、ネリーがインドに行くかどうかは観客に委ねられるが、一番不実なギイが一人インドに取り残されるという結末が相応しい。
 聖女になる決意を固めたイヴォンヌは、院生はいつか感化院から出ていくが、格子なき牢獄に囚われているのは自分たちだと同僚と慰め合う。 (評価:2.5)

世紀の楽団

製作国:アメリカ
日本公開:1939年8月
監督:ヘンリー・キング 製作:ダリル・F・ザナック 脚本:アーヴィング・バーリン、キャスリン・スコラ、ラマー・トロッティ 撮影:ペヴァレル・マーレイ 美術:バーナード・ハーツブラン、ボリス・レヴィン 音楽:アーヴィング・バーリン、アルフレッド・ニューマン

よくできたシナリオと歌唱が楽しめるミュージカルの佳作
 原題"Alexander's Ragtime Band"で、アレクサンダーのラグタイム・バンドの意。
 サンフランシスコの酒場で出会ったバンド・リーダーのロジャー(タイロン・パワー)と歌手のステラ(アリス・フェイ)の恋物語で、必然的に音楽シーンが多くなるので、違和感なく楽しめるミュージカルになっている。
 二人の出会いは喧嘩から始まり、ピアニスト兼作曲家のチャーリー(ドン・アメチー)の取りなしでやがて恋仲に。ステラはバンドのヴォーカリストとなるが、ブロードウェイのプロデューサーの目に留まり、ニューヨークでスターに。
 残されたロジャーは陸軍でバンドを結成して人気になるが、ヨーロッパ戦線に出征。2年後にステラに会いに行くと出征中にチャーリーと結婚していて大ショック。
 それを救うのが歌手のジェリー(エセル・マーマン)で、新楽団を結成。一方、ステラは離婚してロジャーに会いに行くが、ジェリーに遠慮して身を引いてしまう。
 アレクサンダー・ラグタイム・バンドは大人気となり、欧州ツアーを成功させてカーネギーに凱旋公演。
 引退していたチャーリーがバンドに加わるが、ステラは芸名を変えてのドサ回りで行方知れず。
 四人四様の恋模様となるが、恋と仕事を切り離すジェリーがカッコいい。
 カーネギーのラストソングに誘われたステラが、ステージに立つラストシーンが感動的だが、ヴォーカルが二人? という不安を隠してのハッピーエンドとなる。
 よくできたシナリオで、アリス・フェイとエセル・マーマンの歌唱が耳に心地よい。 (評価:2.5)

獣人

製作国:フランス
日本公開:1950年7月15日
監督:ジャン・ルノワール 脚本:ジャン・ルノワール 撮影:クロード・ルノワール、クルト・クーラン 音楽:ジョセフ・コズマ

シモーヌ・シモンとフェルナン・ルドゥーが顔まで似た者夫婦
 原題"La Bête humaine"で、人の姿をした獣の意。エミール・ゾラの同名小説が原作。
 主人公の機関士ジャック(ジャン・ギャバン)は女を殺したくなる性衝動を持っていて、そのために恋人とも結婚しないでいる。
 ル・アーヴルからパリへ帰る列車で助役夫婦が富豪を殺害したのを知るが、警察には証言せず妻(シモーヌ・シモン)と懇ろになる。妻から駆け落ちを迫られたジャックは夫(フェルナン・ルドゥー)殺害を果たせず二人は疎遠になるが、年末の機関区のパーティで再会し、忘れられずに助役の家へ。妻と抱き合ったところで殺害衝動が起きて刺殺。自分の性癖に耐えきれなくなったジャックは勤務中に列車から飛び降りて自殺してしまう。
 ルノアールらしい美しい映像も見られるが、最大の見どころは疾走するSLのシーンにあって、しかもたっぷり見せてくれる。運転席からのスピード感あふれる映像、踏切を通過する汽車の映像、とりわけ機関区での車両基地の様子が機関士を主人公とする映画の臨場感を盛り上げる。
 序盤の主人公の病気については説明不足で、関連するシーンもわかりにくいのがやや残念なところ。富豪殺害の警察の取り調べも、一番怪しいのはジャックだろうと思うが夫妻にしか疑惑が向かないのがシナリオとしては甘く、ジャン・ギャバンを見せるための映画になっている。
 ヒロインのシモーヌ・シモンが大して美人ではなく、夫役のフェルナン・ルドゥーと顔まで似た者夫婦なのがちょっと笑える。 (評価:2)

アレクサンドル・ネフスキー

製作国:ソ連
日本公開:1962年12月29日
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ドミトリー・ワシーリエフ 脚本:ウラジミール・ナウーモフ、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ピトートル・A・パブレンコ 撮影:エドゥアルド・ティッセ 美術:イサク・シピネリ、ニコライ・ソロヴィヨフ 音楽:セルゲイ・プロコフィエフ

故事を引き合いに対独徹底抗戦を呼びかける愛国映画
 原題"Alexander Nevsky"。アレクサンドル・ネフスキーは、スウェーデン、ドイツの北方十字軍との戦いに勝利した13世紀ロシアの英雄。
 物語は、ノヴゴロドに侵攻したスウェーデン軍を撃退した後のことで、アレクサンドル(ニコライ・チェルカーソフ)は西方のモンゴルとは戦わず、侵攻してきたドイツ騎士団との戦いに全力を挙げる。
 本作が製作されたのは、ヨーロッパではナチス・ドイツ、アジアでは日本が台頭した時期で、ソ連が日本とは争わずにドイツ戦線に集中していく時期に一致していて、故事を引き合いに対独徹底抗戦を呼びかける愛国映画となっている。
 エイゼンシュテイン初のトーキーだが、これまでの記録映画的なサイレント作品とは勝手が違い、中世のヒーロー物語というドラマ性のためか、今一つ精彩がない。セット撮影も多く、書割や舞台装置などの作り物めいた感じもエイゼンシュテインらしくない。
 隠遁して漁師をしていたアレクサンドルが、ノヴゴロド公に復帰してドイツ騎士団を撃破するというのが大筋だが、農民中心の義勇軍内の恋愛話も絡んだり、コミカルな演出も入ってフィクション感は強いが、かといってドラマが面白いわけでもなく、見せ場となる戦闘シーンは繰り返しが多く、迫力にも変化にも乏しくて冗漫。
 親ドイツ派の商人を国よりも金が大事な卑しいブルジョアジーとして描き、対独協力の裏切り者に比定。命を捨てて国を守ろうという愛国スローガンが何とも言えない。 (評価:2)

青髭八人目の妻

製作国:アメリカ
日本公開:1939年5月
監督:エルンスト・ルビッチ 製作:エルンスト・ルビッチ、アルフレッド・サヴォアール 脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー 撮影:レオ・トーヴァー 音楽:ウェルナー・リヒャルト・ハイマン

元祖に比べると腑抜けた青髭で話が締まらない
 原題"Bluebeard's Eighth Wife"で、邦題の意。アルフレッド・サヴォワールの戯曲"La huitième femme de Barbe-Bleue"が原作。
 6人の妻を次々に殺害したという青髭伝説を基にしているが、こちらはロマンチック・コメディなので妻は殺さず離婚する。しかも別れた妻に年5万ドルの慰謝料を払うというから気前がいい。
 そんな大金持ちのブランドン(ゲイリー・クーパー)が、避暑地リヴィエラのデパートで見染めたのが貧乏貴族の娘ニコル(クローデット・コルベール)で、出会いは上下のパジャマをそれぞれ半分ずつ買うことになるという良く出来たシナリオ。
 金持ちは吝嗇家を地で行くが、ニコルの父親から偽物のバスタブの骨董品を大枚で買い、8番目の妻に迎える。
 ニコルはブランドンが青髭であることを知りつつも金のために結婚。ところが1回キスしただけで、新婚旅行から家庭内別居。慰謝料年10万ドルの離婚条件を武器に夫婦生活を拒否するニコルをブランドンは何とか籠絡しようとするが、遂に精神を病んで入院。
 最後は仲直りしてハッピーエンドとなるが、病気になるほどニコルを愛しているだけで青髭の性癖が消えるとは思えず、都合の良いラストになっている。
 二人が結婚するまでは軽快なテンポのコメディになっているが、結婚してからがもたついていて、あまり出来は良くない。
 猟奇的な青髭伝説に比べるとロマンチック・コメディとはいえ腑抜けた青髭で、話の設定に無理があって、今一つ締まらない。 (評価:2)

バルカン超特急

製作国:イギリス
日本公開:1976年11月13日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:エドワード・ブラック 脚本:シドニー・ギリアット 撮影:ジャック・コックス 音楽:ルイス・レヴィ

『オリエント急行の殺人』に似ているが不出来
 原題"The Lady Vanishes"で、婦人が消えるの意。エセル・リナ・ホワイトの1936年の小説"The Wheel Spins"(車輪が回転する)が原作。
 雪崩で列車が立ち往生した後、動き出した列車の中で1人の老女が忽然と姿を消す。老女と知り合った主人公の美女が騒ぎ出すと、車掌を含め誰もが老女なんて最初から乗っていなかったと口裏を合わせるミステリー・・・とここまで書けば、この設定はアガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』によく似ていることに気づく。
 『オリエント急行の殺人』は1934年で、これをパクったのかどうかはわからないが、ミステリーとしては穴だらけでかなり不出来。
 老女誘拐事件なのだが、老女はイギリスの諜報員で、誘拐犯は架空の国ながら想定はナチス・ドイツと時代を反映した設定。最後は美女と俄か探偵との銃撃戦という、いきなりのアクション展開が度肝というよりは腰が抜ける展開で、彼女が託した情報をメロディの暗号に託すというのがアイディア。
 しかし肝腎の列車全員の口裏合わせの理由の説明がなく、自己都合で嘘をつく乗客はともかく、車掌を含め全員がナチスとグルだったのか? と納得がいかず、だったら初めから老女を殺せば済む話で、ストンと落ちず、これといった見どころはないが、全体がコメディタッチなのがヒッチコック的には見どころか。 (評価:2)

ルーム・サービス

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ウィリアム・A・サイター 製作:パンドロ・S・バーマン 脚本:モリー・リスキンド 撮影:J・ロイ・ハント 音楽:ロイ・ウェッブ

スパイスの足りないテレビコメディ程度のぼやっとした作品
 原題"Room Service"で、邦題の意。ジョン・マーレイとアレン・ボレッツの同名戯曲が原作。
 戯曲が原作なので舞台はホテルの一室からほぼ動かない。マルクス兄弟のコメディで、ブロードウェイのプロデューサー・ミラー(グルーチョ)がスタッフ・キャストを引き連れ、義兄が支配人を務めるホテルに泊まっているが、宿泊費を払えず、退去を迫られる。
 以下、グルーチョ、スタッフのチコ、ハーポのマルクス兄弟とホテル側との宿泊費を巡る攻防戦となり、芝居の後援者の代理人、脚本家も加わってのドタバタとなるが、変化の少ないシチュエーション・コメディではギャグはそれほど弾けない。
 小切手を巡るやりとりもわかりにくくて、話もそれほど面白くない。
 俳優志望のレストランのウェイターを騙して、部屋に食事を運ばせるのがタイトルの由来だが、内容的には大して関係なく、全体にスパイスの足りないテレビコメディ程度のぼやっとした作品になっている。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1939年2月8日
監督:ジョージ・キューカー 製作:エヴェレット・リスキン 脚本:ドナルド・オグデン・スチュワート、シドニー・バックマン 撮影:フランツ・プラナー 音楽:ロッジ・カニンガム
キネマ旬報:6位

贅沢に染まった連中が贅沢は敵だと叫んでも空しい
 原題"Holiday"。フィリップ・バリーの同名戯曲が原作。
 金融会社で株の投資運用をしている有能な男ジョニー(ケイリー・グラント)が銀行家シートン(ヘンリー・コルカー)の娘ジュリア(ドリス・ノーラン)と婚約。父から銀行入りを求められるが、独立して人生の夢を追いたいと拒否。父に同調するジュリアを振って、その姉で父の拝金主義に反発するリンダ(キャサリン・ヘプバーン)を好きになって、駆け落ちするという物語。
 人はパンのみに生きるに非ずがテーマだが、テーマばかりが青臭く上滑りしていて中身がない。金ではない人生の目的を探したいというジョニーの主張がすでに自分探しを夢見るだけの中二病で、贅沢な生活を否定する根拠も示されず、シートンとの議論さえない。
 そもそも株運用で儲けていた自分に対する反省も葛藤も示されず、資本家を悪として対置するだけの単純な構図で、それで庶民の共感が得られるという思考力を欠いたシナリオが、物語を空しくしている。
 暮らすに困らない財産を築いたジョニーや、シートン家の酒浸りのぼんくら息子や何不自由ない生活をしているリンダが、贅沢は敵だ、人はパンのみに生きるに非ずとスローガンだけを叫んでみても、説得力をまるで持たないことに気づかない制作者もまた空しい。 (評価:1.5)