海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1937年

製作国:アメリカ
日本公開:1937年7月
監督:レオ・マッケリー 製作:レオ・マッケリー 脚本:ヴィナ・デルマー 撮影:ウィリアム・C・メラー
キネマ旬報:5位

老夫婦の別れを描く切なくも甘い大人のラブストーリー
 原題"Make Way for Tomorrow"で、明日に道を譲るの意。ジョセフィン・ローレンスの小説"The Years Are So Long"を原作とする、ヘンリ・リアリー、ノーラン・リアリーの戯曲からの映画化。
 真面目に働いて5人の子供を独立させたが、老後の貯えなく、ローンが払えずに家を手放すことになったクーパー夫妻が、子供たちの世話になるという物語。
 夫(ヴィクター・ムーア)は長女(エリザベス・リスドン)、妻(ビューラ・ボンディ)は長男(トーマス・ミッチェル)の家に世話になるが、それぞれ邪魔者扱いされ、具合の優れない夫は転地療養を兼ねて三女のいるカリフォルニアへ引っ越すことになる。
 一方、夫と一緒に暮らすことを望んでいた妻は、子供たちに負担をかけないよう身を引いて養老院行きを決める。夫がカリフォルニアへ旅立つ日、お別れのために再会した妻は養老院行きを伏せたまま、新婚旅行で訪れたニューヨークのホテルに向かう。
 バーでカクテルを飲み、レストランで食事をし、ワルツを踊りながら、過ぎ去った50年が二人にとって幸せだったことを確かめ合い、駅でカリフォルニア行きの列車に乗る夫と、これが今生の別れと妻が見送るシーンが感動的。
 "In case I don't see you again... anything might happen. The train could jump off the track. If it should happen that I don't see you again, it's been very nice knowing you, Miss Breckenridge." (君に二度と会えないかのしれない…何が起きるかわからない。列車が脱線するかもしれない。その時のために言っておく、君と知り合えてよかった、ブリケンリッジ嬢)、"I just want to tell you, it's been lovely. Every bit of it. The whole 50 years. I'd sooner have been your wife, Bark, than anyone else on earth."(私にも言わせて。楽しかったわ、何から何まで、50年間のすべてが。妻になるとしたら、あなた以外には考えられなかった)
 親不孝な子供たちを育ててしまったという落胆とともに、子供たちには子供たちの生活があるという諦観、子供が独立して再び二人になった老夫婦が身を引いて、二人の歩んだ道を振り返るという構造は、小津安二郎の『東京物語』(1953)の基になっているが、親子の関係に重きを置いた『東京物語』に比べて、本作は夫婦の関係に重きを置いていて、切なくも甘い大人のラブストーリーとなっている。
 ビューラ・ボンディとヴィクター・ムーアが名演。長男の妻、フェイ・ベインターもいい。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1937年12月23日
監督:ヘンリー・コスター 製作:ジョー・パスターナク 脚本:ブルース・マニング、チャールズ・ケニヨン、ハンス・クレイリー 撮影:ジョセフ・ヴァレンタイン 音楽:チャールズ・プレヴィン
キネマ旬報:2位

太目ながら明るく溌剌とした少女がいい
 原題"One Hundred Men and a Girl"。
 失業中の演奏家100人の男たちを集めてオーケストラを結成し、公演に漕ぎ着ける一人の少女の物語。
 世界恐慌後の不況の時代、失業中のトロンボーン奏者(アドルフ・マンジュー)が実業家夫人の財布を拾い、急場の家賃に充ててしまうのが物語の発端。
 正直者の娘(ディアナ・ダービン)が財布を落とし主に届けると、事情を聞いた夫人が失業者を集めたオーケストラのスポンサーになることを約束。ところが夫人は欧州旅行に出かけ、夫は約束を反故にする。
 この時、客を集められる有名な演奏者がいればという言質を得た娘が、フィラデルフィア管弦楽団の指揮者ストコフスキー(本人)に会いに行き、ひょんなことから新聞にストコフスキーが失業者オーケストラを指揮するという虚報が載ってしまい、ついには実現してしまう。
 ストーリーそのものはご都合主義のヒューマンコメディだが、失業中の父親と仲間の演奏家たちのために無茶も顧みずに奔走する少女の熱意が伝わってくるのが心地よい。
 少女を演じるディアナ・ダービンは当時16歳で、やや太目ながら明るく溌剌とした少女ぶりがいい。劇中、モーツァルトの「ハレルヤ」、ヴェルディの「乾杯の歌」のアリアを歌うが、本人の歌唱によるもので、タクシー運転手ならずともその美声に聞きほれる。フィラデルフィア管弦楽団が演奏しているのも聴きどころ。
 金が発端で始まる話だけに、練習会場としてガレージを貸す男やスポンサーとなる実業家が吝嗇家として描かれるが、反面、少女とタクシー運転者は貧乏だが善人な庶民の代表。
 少女が実業家夫人に財布を返す場面では、使ってしまった家賃50ドルとタクシー代10セントを謝礼にしてほしいと願い出る。金持ち夫人は200ドルを謝礼にと申し出るが家賃とタクシー代だけでいいと断り、その謙虚さが楽団のスポンサー話へと結びつく。
 駆けずり回る少女を運んだタクシー運転手が、少女に金がないのを知ると、タクシー代を少女の未来に投資すると言って許す台詞がまたいい。
 貧しく清く正しくのピューリタン精神が若干押しつけがましい当時のハリウッド映画にあって、ダービンの熱演もあり、嫌味のない爽やかな好編に仕上げっている。 (評価:3.5)

製作国:フランス
日本公開:1939年2月15日
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 製作:レイモン・アキム、ロベール・アキム 脚本:ジャック・コンスタン、アンリ・ジャンソン 撮影:ジュール・クリュージェ 音楽:ヴィンセント・スコット
キネマ旬報:1位

大悪党が失恋したくらいで命を絶つとは
 原題"Pépé le Moko"で、主人公の盗賊の通称で、トゥーロン出身の男ペペの意。アンリ・ラ・バルトの同名小説が原作。
 アルジェのカスバを舞台にした日本で人気の高い作品。
 パリ警察に追われてフランスを逃げ出したペペが、当時フランス領であったアルジェのカスバに潜伏、カスバの犯罪者たちのボスに収まっているという設定。そこにパリ警察の刑事たちがやってきて地元警察とペペ逮捕の策を練るが、魔窟のカスバに手を焼く。
 そこでペペとも顔なじみの地元刑事が、パリからやってきた美女を囮にして、女好きなペペを町におびき出し逮捕するというのがストーリーの骨子。
 美男で頭が良く女好きで人気者というワル親父のプロトタイプで、これをジャン・ギャバンが演じる。
 カスバのワル親父に興味を持つパリ女は、老人と旅行に来ているが、妻なのか愛人なのかは今ひとつ不明。この女にペペがゾッコン惚れこんでしまったのが命取りになるが、女が高価な宝飾類とともにパリの優雅な香りを身につけていて、カスバに引き籠っていたペペが懐かしいパリへの郷愁に魅かれたのが、惚れた大きな理由。
 邦題はここからきているが、パリに帰ってしまう女を追って船に乗り込むものの逮捕され、望郷の思いは女への愛とともに叶わず、自滅してしまうというセンチメンタルなラストシーンとなる。
 もっとも、カスバを仕切っていた天下の大悪党が失恋したくらいで自らの命を絶つというラストは、何十年かぶりに見直してみると、劇的だが違和感が残るのは、歳を取ったからだろうか。
 パリ女を演じるミレーユ・バランにしても、実際、命を絶つほどには見えない。
 ペペの最後の叫びは汽笛に消されて女の耳に届かないが、その後の映画などにしばしば利用される名シーンとなっている。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1939年6月
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:サミュエル・ゴールドウィン 脚本:リリアン・ヘルマン 撮影:グレッグ・トーランド 音楽:アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:5位

希望を感じさせつつ100%のハッピーエンドでないのがいい
 原題"Dead End"で、行き止まりの意。シドニー・キングスレーの同名戯曲が原作。
 ニューヨーク、イースト川下流、マンハッタンの対岸にあるブルックリンのスラム、デッドエンドの川岸が舞台。
 いつかこのスラムから出て行きたいと考えているドリーナ(シルヴィア・シドニー)を軸に、密かに恋している青年デイヴ(ジョエル・マクリー)と不良仲間と付き合う弟トミーのエピソードが最後に一本に纏まるという形をとっている。
 トミーはスラムに隣接する金持ちの少年を苛めたいざこざから、その祖父をナイフで傷つけてしまう。警官に訴えられ不良仲間の密告で素性がバレて捕まってしまう。
 青年デイヴには好きな女がいるが、彼女が豊かな生活だけに憧れていることを知り、ドリーナへと思いが傾く。たまたま幼馴染のお尋ね者(ハンフリー・ボガート)がスラムに舞い戻り、これと争いになって警察と共に仕留めたことから懸賞金が手に入り、更生を誓うトミーに優秀な弁護士をつけて、ドリーナと3人でスラム脱出を誓うというラストに繋がっていく。
 ワイラーらしいよくできたヒューマンドラマで、希望を感じさせはするものの100%のハッピーエンドでないのもいい。ハンフリー・ボガート演じる幼馴染のお尋ね者が会おうとした母に拒絶され、恋人は売春婦になっていたという人生の哀愁も効いていて、彼を不良のなれの果てと描きつつも、スラムの不良少年たちが同じ道を辿るであろう現実も直視する。
 生まれた時から敗北者であることを運命づけられた者たちを描きながらも、なおそこから這い出す希望を説く好編。
 全編セット撮影で、書割と模型を使った高層ビルの街の風景からスラムにパンダウンしていくプロローグと、この逆をパンアップしていくエピローグが上手い。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1938年4月
監督:ウィリアム・A・ウェルマン 製作:デヴィッド・O・セルズニック 脚本:ドロシー・パーカー、アラン・キャンベル、ロバート・カーソン、ウィリアム・A・ウェルマン 撮影:W・ハワード・グリーン 音楽:マックス・スタイナー
キネマ旬報:5位

スタア誕生の裏にあるハリウッドの光と影を描く
 原題"A Star Is Born"で、邦題の意。
 女優を夢見るエスター(ジャネット・ゲイナー)が、ハリウッドで映画関係者のパーティのウエイトレスに雇われ、大スターのノーマン・メイン(フレデリック・マーチ)に気に入られてチャンスを掴み、人気スターになるという物語。ノーマンと結婚するが、アル中のノーマンは落ちぶれるばかりで、ついには豚箱に入れられてしまう。
 それを機にエスターは恩のあるノーマンのために女優引退を決意。ノーマンは入水して身を引くことでエスターに女優復帰をさせるという感動的ラスト。ノーマンが赤い夕日の海に入っていくテクニカラーのシーンが美しい。
 新作試写会のインタビューで、芸名のヴィッキー・レスターではなく、ノーマン・メイン夫人と名乗るのが夫婦別姓論者からすれば異論のあるところだが、開拓時代に西部の荒野を目指した祖母(メイ・ロブソン)の夫の屍を踏み越えて進むど根性が逞しく、形式論を超えて女の自立を主張する。映画界と道こそ違え、エスターも祖母の歩いた跡を進むことになる。
 二枚目ノーマン役のフレデリック・マーチのエスターに愛情を捧げる哀愁がよく、入水の意志を固めて海に向かうシーンで、"One more look at you."(もう一度顔を見せてくれ)の台詞が泣かせる。
 苦難を乗り越えた時に初めて夢を掴むことができるという祖母の言葉に従えば、エスターのスタア誕生はノーマンに見出されて人気者となった時ではなく、ノーマンの死によって女優として生きる決意を固めたラストがスタア誕生の瞬間だったといえる。
 1954年のジュディ・ガーランド主演のミュージカル仕立てのリメイク版に比べると、ハリウッドの光と影を描いたシリアスな作品になっている。ジャネット・ゲイナーは大して美人ではないが演技力は抜群。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1937年11月
監督:シドニー・フランクリン 脚本:タルボット・ジェニングス、テス・スレシンジャー、クローディン・ウェスト 撮影:カール・フロイント 音楽:ハーバート・ストサート
キネマ旬報:7位

似非中国人ながらL・ライナーの糟糠の妻が感動的
 原題"The Good Earth"。パール・バックの同名小説が原作。
 清朝末期、中国安徽省の貧農の夫婦、王龍と阿蘭の結婚から阿蘭の死までの波瀾の人生の物語。テーマは「土地は農民の命」だが、中国の故事「糟糠の妻は堂より下さず」のドラマとなっている。
 王龍(ポール・ムニ)は貧農の息子、阿蘭(ルイーゼ・ライナー)は地主の家事奴隷で、幼い頃、飢饉により売られてきた。二人は結婚して真面目一徹に働き、金を蓄えては少しずつ耕す土地を増やしていったが、飢饉により土地を手放すよう叔父(ウォルター・コノリー)に勧められる。しかし阿蘭は土地は農民の命だと拒み、一家は捲土重来を期して都市に移住する。
 しかし仕事はなく一家は乞食に身を落とすが、辛亥革命の混乱の中、阿蘭は襲撃された邸宅の床で宝石の詰まった袋を拾う。一家は故郷に戻り財産を基に土地を広げ、使用人を使い、地主の館を買い占めるまでに成功するが、慢心した王龍は糟糠の妻を忘れて、淫婦・蓮華(ティリー・ロッシュ)を第二婦人に迎え、奢侈な生活を送るようになる。
 蓮華にかどわかされた王龍の次男は屋敷を追放となるが、その日イナゴの大群が農地を襲い、大学で農政を学んだ長男の機転により一家協力して被害を食い止める。
 目の覚めた王龍は館を手放し、一家は家族の絆を取り戻し、息子の婚礼の夜、土地は農民の命だと遺言して阿蘭は眠りにつく。
 メインキャストを欧米人が演じていて、キャスティングに纏わる人種差別もあったが、それを別にすればポール・ムニもルイーゼ・ライナーも、多少の違和感はあるものの中国人らしさをよく演じている。
 とりわけ糟糠の妻を演じるライナーは、設定上は不器量で寡黙で勤勉な、農家には理想的な妻となっていて、これまた美人のライナーからは多少の違和感があるが、そのギャップを演技で埋めていて、アカデミー主演女優賞を受賞。
 欧米人キャストによる東洋劇ながら、骨格のしっかりした演出とライナーの好演により感動的な作品になっている。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1938年6月
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 脚本:アンリ・ジャンソン 撮影:ミシェル・ケルベ、フィリップ・アゴスティーニ、ピエール・ルヴァン 音楽:モーリス・ジョーベール
キネマ旬報:1位
ヴェネツィア映画祭作品賞

幻想を纏った過去を清算し再出発を図る自立の物語
 原題"Un carnet de bal"で、邦題の意。
 舞踏会の手帳は、主人公のクリスティーヌ(マリー・ベル)が16歳の初めての舞踏会で踊った相手の男たちの名を記したリストのこと。
 年嵩の資産家の男と結婚したクリスティーヌは20年後に未亡人となり、特に愛のない夫の遺品を処分している時に舞踏会の手帳を発見する。
 青春の日の残影を追い求めるべく、舞踏会で「一生愛する」と口説いた男たちのその後の消息を訪ね歩くという物語で、その過程を通して幻想を纏った彼女自身の過去を清算し、彼女自身の再出発を図るという自立の物語となっている。デュヴィヴィエらしいセンチメンタル・ストーリー。
 クリスティーヌが訪ね歩くのは、彼女の結婚を知って自殺した青年、犯罪者になっていた元文学少年のキャバレー経営者、少年合唱団を指導する元作曲家志望の神父、山岳ガイドとなって山を恋する元詩人、田舎の町長となっている政治家志望だった男、隻眼となってやさぐれてしまった医者。
 若き日に夢を語った男たちはかつての光彩を失っていて、厳しい現実の中に沈んでいる。彼女の男たちへの憧憬は、16歳の彼女の輝きとともに失われていた。
 最後に故郷のパリに行ったクリスティーヌは、今は美容師となっている男と彼女がデビューしたダンスホールに行くが、かつての印象とは異なってる。
 本作で描かれるのは、若き日の夢の喪失であり、若き日の彼女自身の喪失でもある。過去が幻影に過ぎなかったことに気づいた彼女は、かつて恋して今は消息不明となっているジェラールを追い求める。そのジュラールは、意外にも彼女の住まいの湖を挟んだ向かいにひっそり暮らしていたが、今は亡く、瓜二つの息子が遺されていた。
 ジェラールだけがクリスティーヌを生涯愛していたという結末で、彼女はジェラールの遺児を引き取る。
 このジュラールの設定は、容易にスコット・フィッツジェラルドの小説"The Great Gatsby"(1925)のギャツビーを連想させるが、他の男とは違って幻想に包まれたままで終わらせるというのがズルい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1948年6月1日
監督:ウィリアム・ディターレ 脚本:ノーマン・ライリー・レイン、ハインツ・ヘラルド、ゲザ・ハーゼック 撮影:トニー・ゴーディオ 音楽:マックス・スタイナー
アカデミー作品賞

いや、でも君を忘れないよと返すセザンヌがいい
 原題"The Life of Emile Zola"。エミール・ゾラの半生を描く伝記ドラマ。
 前半は、画家セザンヌとの貧しい同居時代から、娼婦を題材に『ナナ』で人気作家となり、社会派作家としての名声と富を得るまで。後半はドレフュス事件でゾラが軍部を批判、名誉棄損で実刑判決を受けイギリスに亡命、新陸軍大臣によるドレフュス釈放、再審無罪、一酸化炭素中毒死までを描く。
 ハリウッド映画なので、ゾラや史実はドラマチックに脚色され、冒頭、その断り書きから始まる。
 貧しかったゾラが社会派作家として成功を収めるものの、肥えて志しを失い、
"An artist should remain poor.Otherwise his talent, like his stomach,grows fat and stuffy."(芸術家は貧しくなければだめだ。さもないと胃のように才能に贅肉がついてしまう)
とセザンヌに訣別されてしまう。しかし、その言葉から初心を取り戻してドレフュス事件に関わり、ドレフュスの釈放を勝ち取るという、一篇のドラマとしてうまく構成されている。
 もっとも中盤、ドレフュス事件の概要を描くためにゾラが登場しないシーンが続き、誰の話なのかわからなくなってしまうのはシナリオ的に工夫がない。
 ゾラにポール・ムニ、ドレフュスのジョセフ・シルドクラウトがアカデミー助演男優賞。
 訣別のシーンで、"Will you write?"(手紙をくれるかい?)と訊くゾラに、"No.But I'll remember."(いや、でも君を忘れないよ)と返すセザンヌの台詞がいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1938年4月20日
監督:レオ・マッケリー 製作:レオ・マッケリー 脚本:ヴィナ・デルマー 撮影:ジョセフ・ウォーカー 音楽:モリス・W・ストロフ
キネマ旬報:8位

犬の見事なコメディアンぶりが楽しい大人のラブコメ
 原題"The Awful Truth"で、恐ろしい真実の意。
 誤解から互いに相手が浮気したと思い込み、離婚してしまう夫婦の物語で、どうして『新婚道中記』という邦題がついてしまったのか謎。
 夫役にケーリー・グラント、妻役にアイリーン・ダン。よくできた軽妙なコメディで、今観てもセンスのあるギャグと会話で楽しませてくれる。とりわけ、犬を使ったギャグが面白く、犬も見事なコメディアンぶりを見せてくれる。
 裁判の結果、60日後に離婚が認められることになるが、妻は早速お節介な叔母の手引きでオクラホマの石油王を紹介され、夫への反発もあって交際を始める。
 石油王はすっかりその気になってプロポーズするが、夫は都会生活にどっぷり浸った妻が田舎生活などできないことを婚約者に盛んにアピールして妨害。妻の愛人と思い込んでいる声楽教師と妻の部屋で喧嘩しているところを婚約者とその母に見つかって破談に追い込む。
 一方、夫は金持ち女と婚約し、妻を妹と偽ったのを妻に逆に利用され、女の家族の前でふしだらな妹を演じられて婚約は解消。
 結局、妻も夫も相手のことが忘れられず、意地と嫉妬でドタバタを演じた挙句に元の鞘に収まってしまうという、ストーリー的には展開が急でいくつか突っ込みどころはあるものの、楽しめる大人のラブコメとなっている。 (評価:2.5)

白雪姫

製作国:アメリカ
日本公開:1950年9月26日
監督:デヴィッド・ハンド 製作:ウォルト・ディズニー 脚本:テッド・シアーズ、オットー・イングランダー 音楽:フランク・チャーチル、リー・ハーライン、ポール・J・スミス

白雪姫が年増女のようで可憐な少女に見えない
 原題"Snow White and the Seven Dwarfs"で、白雪と七人の小人の意。グリム童話収録の民話"Schneewittchen"(邦題:白雪姫)が原作。
 ディズニーの長編アニメ第1作で、絵本でもディズニーランドでも本作のキャラクターは浸透し、白雪姫といえばグリムよりもこのアニメがオリジナルではないかというくらいに有名で、映画史的にも知名度的にも価値の高い作品だが、内容的にはかなり退屈。
 技術的には冒頭に井戸を覗き込む白雪姫の水の波紋や曇った窓を拭くシーンなどが素晴らしいが、白雪姫の過剰な品やプレスコの口の動きは気持ち悪いくらいにリアルで、見ていて居心地が悪い。
 白雪姫のキャラクター・デザインは世界で一番という台詞ほどには美しくも可愛くもなく、継母の女王の方が美人に見えてしまう。白雪姫に付けた過剰な身振り・手ぶりは、体全体から艶っぽさを振りまく年増女のようで、可憐な少女に見えてこない。
 子供向けのアニメーションということから、小人を子供に見立て、部屋の掃除や手洗いなどの躾を学ばせる教育映画的要素が入っているのも興を削ぐ。
 それでも本作が技術的にも興行的にも人気的にも群を抜き、高水準なカラーアニメが戦前に創られたという歴史的価値は高い。
 小人のマーチ"Heigh-Ho"や"Someday My Prince Will Come"が流れると、少しだけディズニーランドにいる気分になって退屈さがまぎれる。 (評価:2.5)

シカゴ

製作国:アメリカ
日本公開:1939年2月
監督:ヘンリー・キング 製作:ケネス・マッゴーワン、ダリル・F・ザナック 脚本:ソニア・レヴィン、ラマー・トロッティ 音楽:ルイス・シルヴァース

草創期のシカゴがぬかるみだらけだった描写が面白い
 原題"In Old Chicago"で、かつてのシカゴにての意。
 1871年のシカゴ大火の原因となったとされるオリアリー一家をモデルにした、ニーヴェン・ブッシュの小説"We the O'Learys"が原作。
 1854年、アイルランド移民オリアリー一家が新しい町シカゴを目指し、途中父が死ぬところから始まり、母モリー(アリス・ブラディ)が女手一つで3人の息子を育て上げ、シカゴの発展と軌を一にして繁栄した一家が、シカゴ大火を引き起こして、町が灰燼に帰すまで。
 3人の息子、ジャック(ドン・アメチー)は正義派弁護士から市長に、ダイオン(タイロン・パワー)は酒場のオーナーとして成功、ボブ(トム・ブラウン)は成功した母のランドリーを手伝う。
 この間、シカゴの町の発展史と政治家と事業家の癒着と腐敗が描かれるが、草創期のシカゴがぬかるみだらけだったという描写が面白い。
 ダイオンの共同経営者で妻となる歌手ベル(アリス・フェイ)のレビューシーンが多く、バックダンサーを含めて網タイツやフレンチカンカンと、エンタテイメントのサービスシーンも多い。
 通史的な構成で、若干メリハリに欠けるのがマイナス。大火のシーンは大掛かりで見応えがある。 (評価:2.5)

歴史は夜作られる

製作国:アメリカ
日本公開:1937年7月
監督:フランク・ボーゼージ 製作:ウォルター・ウェンジャー 脚本:ジーン・タウン、グレアム・ベイカー 撮影:グレッグ・トーランド 音楽:アルフレッド・ニューマン

タイタニックも出てくるサスペンスフル・メロドラマ
 原題"History Is Made at Night"で、邦題の意。
 夫と離婚したがっている人妻(ジーン・アーサー)とたまたま出会った給仕長(シャルル・ボワイエ)の恋を描くメロドラマで、これを邪魔するのが夫の海運王(コリン・クライヴ)という通俗的な設定。
 もっとも後半は、海運王の所有する客船が二人を乗せてタイタニック号そっくりの海難事故を引き起こすというパニック映画になっていて、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)を連想させる。フランク・ボーゼージらしい楽しめる作品。
 前半はパリを舞台に離婚裁判を起こした妻を夫が離婚できないように罠にかけ、窮地を救ったレストランの給仕長と妻がfall in love。夫が正体不明の給仕長を殺人犯に仕立て、それを材料に妻を強引にアメリカに連れ帰るが、それを追って給仕長が渡米、人妻と再会。
 ところがパリで誰かが殺人犯として誤認逮捕されたのを知って、無実を証言するために二人で船に乗り、遭難する。
 出会いから始まり、二人が次々と障害に見舞われ、別離、再会、誤解、和解、悲劇と目まぐるしいサスペンスフルなラブストーリーとなる。
 二人の出会いと再会の核となるシーンが夜から朝までで、これがタイトルの由来。料理長が人妻との再会のために耐え忍ぶシーンは『華麗なるギャツビー』(1974、2013、原作は1925)を思わせ、喜劇と悲劇の王道をいく。
 パリから始まり、フランス男とアメリカ女のロマンスとなるが、風味はフレンチではなくアメリカンで、タイタニックの悲劇も予想外のハッピーエンドというのもアメリカン。
 三枚目役の料理長を演じるレオ・キャリロがいい。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1938年1月
監督:ジャック・フェデー 脚本:フランセス・マリオン 撮影:ハリー・ストラドリング 音楽:ミュア・マシースン、ミクロス・ローザ
キネマ旬報:7位

スパイ映画と思いきや恋愛映画にヘンシーン!
 原題"Knight Without Armour"で、邦題の意。タイトルから想像するような中世の物語ではなく、ロシア革命を題材にしたジェームズ・ヒルトンの同名小説が原作。
 物語は1913年から始まり、主人公のイギリス青年フォザギル(ロバート・ドーナット)は翻訳の仕事のためにペテルスブルグに渡る。ロシアに向かう列車にはロシア貴族の娘アレクサンドラ(マレーネ・ディートリヒ)が同乗していてすれ違うだけだが、これが二人の因縁の始まり。
 フォザギルは帝政に批判的な記事を書いた廉で国外追放となるが、イギリスの諜報員となって革命派のロシア青年に成りすまして諜報活動をすることでロシアに留まることになる。
 ここでスパイ映画を期待するとまさかのドンデン返しで、革命を背景にした貴族未亡人と蝙蝠革命青年の大恋愛映画に変貌する。
 シベリア送りになったフォザギルは革命勃発で名誉回復、幹部の側近となるが、貴族未亡人となったアレクサンドラが処刑されそうになるのを再三助けて、愛の逃避行となる。最後は中立地帯に逃れ、病気で国外に送られるアレクサンドラの汽車に飛び乗ってロシア脱出でエンドとなるが、諜報員云々の設定が全く吹っ飛んでしまって、ただの似非革命家と伯爵未亡人の恋愛話でしかなくなるのが何とも間が抜けている。
 マレーネ・ディートリヒの水浴びシーンがあるが、見どころと言えるかどうかは微妙。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1949年5月21日
監督:ジャン・ルノワール 脚本:ジャン・ルノワール、シャルル・スパーク 撮影:クリスチャン・マトラ、クロード・ルノワール 音楽:ジョセフ・コズマ
キネマ旬報:2位

ルノアールの大いなる幻影についていけないと退屈
 原題"La Grande Illusion"で、邦題の意。
 第一次大戦下、ドイツの捕虜となったフランス将兵が収容所を脱走する物語で、収容所内の生活と脱走して匿われるドイツ人農婦との恋愛を中心に描かれる。
 収容所内では脱走計画と並行して、フランス人とドイツ人の気質の違いを超えた交流、仏独の貴族将校同士の騎士道精神が描かれ、国境と民族の壁を超えた人間同士の関係、平和へのイリュージョンを提示する。
 独軍の貴族将校(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)のキャラクターが強烈で、現在からみるとアナクロニズムな騎士ぶりが何ともいえないが、本作最大の見どころでもある。
 仏軍捕虜内部の階級間の溝は、貴族将校(ピエール・フレネー)が平民将校(ジャン・ギャバン)とユダヤ人兵士の脱走に命を捨てて協力するという形で埋められるが、これも自己満足的な騎士道精神というイリュージョンでしかない。
 逃走した二人を匿うドイツ人農婦もまた、独軍の捜索から二人を守るというヒューマニズムに溢れた売国奴で、おまけにジャン・ギャバンと恋に陥ってしまうというイリュージョン。スイス国境に逃れたジャン・ギャバンは、戦争が終わったら彼女の元へ戻ると誓ってファンタジーの幕を閉じる。
 ルノワールらしいファンタジックな反戦映画で、このタイトル通りのイリュージョンな理想主義をもって評価されるが、正直収容所内の長閑な生活は退屈で、農家での物語も巻きを入れたくなるくらいに冗長。
 ルノアールの感受性に頼ったストーリーとテンポについていけない身には、2時間弱は辛い。 (評価:2)

天使

製作国:アメリカ
日本公開:1946年7月4日
監督:エルンスト・ルビッチ 製作:エルンスト・ルビッチ 脚本:サムソン・ラファエルソン、ガイ・ボルトン、ラッセル・メドウクロフト 撮影:チャールズ・ラング 音楽:フレデリック・ホランダー

夫は仕事を言い訳にせずに妻をもっと大事にしろという教訓話
 原題"Angel"で、邦題の意。メルキオール・レングィエルのハンガリーの戯曲"Angyal"が原作。
 仕事人間のイギリス外交官の妻(マレーネ・ディートリヒ)が、放っておかれる自分を可哀想に思い、亭主の出張中に亭主のプライベート・ジェットでパリにお忍び旅行。旧友の白系ロシア大公妃の高級出会い系サロンに行き、ハンサム(メルヴィン・ダグラス)にナンパされて食事をする。
 一夜の遊び相手と妻は名も告げずにロンドンに戻るが、ハンサムはなんと夫の旧友で、そうとは知らない夫(ハーバート・マーシャル)は食事に招待。
 ハンサムは探し求めていた名も知らぬ"Angel"が旧友の妻と知り、よせばいいのにハンサムは夫人を口説く。夫人は拒否するものの、夫に急な出張が入り夫婦旅行がキャンセルされ、ハンサムとの出会いを求めてパリへの買い物旅行を計画。
 ところが二人の仲に気づいた夫が出張を中止してパリのサロンに現れ、3人が鉢合わせ。最後は夫人が夫を選ぶという無難なラストとなる。
 夫は仕事を言い訳にせずに妻をもっと大事にしろという教訓話で、ピューリタンなアメリカ人好みの作品になっているが、あまりに牧師の説教みたいなラストシーンには腰が抜ける。
 タイトルはハンサムがパリで出会った名も知らぬ夫人を"Angel"と呼ぶところから。
 夫とハンサムはかつて同じ女の子を取り合ったことがあり、またしてもその再現ということから、二人の女の趣味が同じというのが、本作の隠れされた伏線か? (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1937年6月3日
監督:フリッツ・ラング 製作:ウォルター・ウェンジャー 脚本:ジーン・タウン、グレアム・ベイカー 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:9位

悲劇のための悲劇のあざとさが鼻につく
 原題"You Only Live Once"で、人生は一度きりの意。
 シルヴィア・シドニーとヘンリー・フォンダの美男美女コンビが出演するヒューマニック・サスペンスドラマが売りなだけの凡作。
 物語の流れは、前科者を更生させようとする恋人を中心に、結婚と妊娠、新たなる無実の罪、その冤罪を晴らそうと出頭、それに対する無理解な民衆の糾弾、一方的な死刑判決、入獄と冷酷な刑務所所長、遅すぎる冤罪の判明、しかし無罪釈放を知らないままの脱走、追い詰められた妻との逃避行、出産、そして国境線を前にした妻の死、妻を抱いた夫の射殺と、これでもかの不運・不幸が盛り込まれる。
 悲劇もここまでテンコ盛りにされると、観客の同情を狙うあざとさばかりが鼻について、途中でいささか辟易する。
 そもそもなんで前科者(ヘンリー・フォンダ)を女(シルヴィア・シドニー)が愛してしまったのか説得力がまるでなく、せめて「チョイワルのイケメンだから」くらいの開き直った台詞がほしかった。
 検事に仕事を斡旋された運送屋の社長も、前科者だからという理由でクビにするなど、シナリオは相当にご都合主義で、悲劇のための悲劇のシナリオにしかなっていない。
 後半の逃避行はボニーとクライド張りだが、ボニーとクライドが最期を遂げたのが1934年で、この事件をモデルにしているということで納得。 (評価:2)

新しき土

製作国:日本、ドイツ
日本公開:1937年2月4日
監督:アーノルド・ファンク、伊丹万作 脚本:アーノルド・ファンク、伊丹万作 撮影:リヒアルト・アングスト 音楽:山田耕筰

ドイツ国家社会主義から見たディスカバー・ジャパン
 日独防共協定締結のために、ドイツでの日本のイメージアップを図るために製作された国策映画。山岳映画のアーノルド・ファンクの撮影隊が来日、日本の文化や自然・風土を網羅的に紹介する内容になっている。
 ファンクのストーリーは日本人から見ると矛盾だらけのパッチワークで、編集で一部修整した伊丹版が作られている。
 物語は、7年間のドイツ留学を終えて帰国した青年(小杉勇)が、西洋の自由の精神を学び、許嫁(原節子)との婚約を解消する問題を中心に展開。
 青年は婿養子となることを前提に留学費用を養父に負担してもらっていて、日本の家制度と個人の自由を対立軸に置く。
 これに対し、青年と一緒に来日した恋人(ルート・エヴェラー)は、個人の自由よりも社会の規範が優先すると青年を説得、翻意した青年が自殺を図る許嫁を救出する。
 養父の農業を拒否し、日本のために働くことを掲げていた青年は、建国された満州を開拓することが日本のためと知り、鋤を手に畑を耕すラストとなる。
 これが日本のタイトルの由来で、独題は"Die Tochter des Samurai"(侍の娘)と分かりやすい。
 東西の価値観の違いをファンクは東からの風・西からの風と形容し、どちらが優れているかではなく、日独協調を示すかのように相和すことをテーマにする。同時に、個人の自由に対してナチズムの国家社会主義を優位に置く。
 地震や火山、富士山などの山々といった山岳映画のファンクらしい描写が多く、許嫁が自殺しようとするクライマックスは焼岳で行われている。
 屋敷の庭が厳島神社だったり、東京に阪神電車が走っていたりという無茶苦茶な編集が行われているが、ドイツ人の目から見たディスカバー・ジャパンでそれなりに楽しめるが、話がつまらないので後半は飽きて退屈する。 (評価:2)