海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1931年

製作国:アメリカ
日本公開:1934年1月13日
監督:チャールズ・チャップリン 製作:チャールズ・チャップリン 脚本:チャールズ・チャップリン 撮影:ロリー・トザロー、ゴードン・ポロック 音楽:アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:10位

ペーソスとやさしさに溢れた足長おじさんだが・・・
 原題は”City Lights”。チャップリンの代表作中の代表作。
 浮浪者のチャーリーが、盲目の花売り娘に恋し、娘も金持ちの足長おじさんと勘違いする。娘は祖母との二人暮らしだが、貧しくて家賃が払えずに家を追い出される危機にある。
 チャーリーは大金持ちの男を自殺から救ってやったことから友人になるが、この男、酔った時にしかチャーリーのことを思い出さない。チャーリーの頼みで困窮した娘の援助金を出してくれるが、素面に戻ってしまうとチャーリーは泥棒扱いされる。
 娘に家賃と目を治すためにその金を渡すと、チャーリーは警官に捕まり収監される。半年後に出獄して町に戻ると、目が見えるようになった娘は花屋を開いている。足長おじさんとは気づかずに通りかかった浮浪者のチャーリーに一輪の花と小銭を恵む。チャーリーの手を握った瞬間、盲目だった時の感触を思い出し、足長おじさんの正体に気づく。
 映画はここでエンドクレジットとなり、後日談を描かず余韻だけを残すという点で優れたハッピーエンドとなっている。
 盲目の花売り娘と貧しい足長おじさんという、ペーソスとやさしさに溢れたチャップリンらしさが横溢する作品で、なおかつサイレントのコメディとしても非常によくできていて、まさしく笑いあり涙ありの人情喜劇。
 よくよく考えれば、娘の窮地を救い、目を治す治療費を拠出したのは友人の金持ちで、チャーリーは人の金で足長おじさんになっただけのいいとこ取りにすぎないが、それを感じさせないところが本作の魅力となっている。
 コメディではチャーリーが資金稼ぎのためにするボクシング試合のシーンが傑作。レフリーを間に挟んだ打ち合いは抱腹絶倒する。 (評価:4)

製作国:ドイツ
日本公開:1933年2月
監督:レオンティーネ・サガン 脚本:クリスタ・ウィンスロー、F・D・アンダム 撮影:ライマール・クンシュ、フランツ・ワイマール 音楽:ハンソン・ミルデ・マイスナー
キネマ旬報:1位

ドイツ表現主義の美しい映像で百合の世界を耽美的に描く
 原題"Mädchen in Uniform"で、制服を着た少女の意。クリスタ・ウィンスローの戯曲"Gestern und heute"(昨日と今日)が原作。
 軍人の娘で14歳の少女マヌエラ(ヘルタ・ティーレ)が、母を亡くしてオーガスタ皇后の設立した寄宿学校に入れられ、担任となった美人の担任教師ベルンブルク(ドロテア・ヴィーク)に恋をするというもので、主要スタッフも女性なら出演者は全員女性という、徹底した百合もの。
 マヌエラも長身、手足がすらりと伸びたボーイッシュな美少女で、宝塚的には美形の男役。ベルンブルク先生のおやすみのキスに心奪われ、先生も存外その気がないでもなく、自分の下着をプレゼントしてくれたことからマヌエラは有頂天になってしまう。
 学芸会でシラーの『ドン・カルロ』を演じた夜、パンチに酔っ払ってみんなの前で愛を告白。大騒ぎとなって先生との接触禁止となったのを受けて自殺未遂。全員の非難の目を浴びた院長がトボトボと歩いていくシーンで終わる。
 レズビアンを初めて描いた映画として歴史に残る作品で、ドイツ表現主義の美しい映像と相まって、百合の世界を耽美的に描く。とりわけベルンブルク先生のキラキラと輝くメイクばっちりの顔アップと、貴公子ドン・カルロを演じるマヌエラの美脚を共演者がすりすりするシーン、そしておやすみのキスのシーンが見逃せない。
 それにしても、先生がベッドの女生徒一人一人の額におやすみのキスをするというのも、親許を離れて暮らす女生徒を母親のように思いやる教師というにはやりすぎで、自ら生徒たちを百合の花園に誘っているようにしか見えない。先生恋しさに泣きそぼるマヌエラには、ホームシックかと言って唇にキスしてしまう。
 もっとも当時としては反道徳的ながらも人間主義を明確に貫いていて、規律を重んじる厳格な院長を通して、ナチズムに傾くドイツの全体主義を告発している。
 冒頭、マヌエラがセーラー服で転校してきて、これぞ制服の処女と勘違いさせられるが、セーラー服は私服で、着替える制服が少々ダサい。 (評価:3.5)

製作国:ドイツ
日本公開:1934年1月27日
監督:エリック・シャレル 製作:エリッヒ・ポマー 脚本:ノルベルト・ファルク 撮影:カール・ホフマン 音楽:ウェルナー・リヒャルト・ハイマン、フランツ・グローテ
キネマ旬報:2位

会議と恋の終わりを告げるラストシーンがお洒落
 原題"Der Kongreß tanzt"で、邦題の意。1814年のウィーン会議が舞台で、ナポレオン戦争後の領土分割で各国が対立し、舞踏会ばかりで会議が進展しないことを揶揄した言葉、「会議は踊る、されど会議は進まず」から。半年を経て、ナポレオンが追放されていたエルバ島を脱出、パリに戻ったことをきっかけにウィーン議定書の合意に至る。
 本作では、この会議の始まりからナポレオンのエルバ島脱出で会議が中断されるまでが描かれ、会議中のウィーンの手袋屋の娘とロシア皇帝アレクサンドル1世との束の間の恋を描く。
 全体はオペレッタ映画で、歌曲や軍楽隊、舞踏会のシーンなどで楽しませるが、録音技術のせいなのか劇場で流れる『だったん人の踊り』の演奏がひどい。主題歌の『唯一度だけ』が有名。
 物語は、各国首脳のパレードに店の宣伝の入ったブーケを投げ入れる娘(リリアン・ハーヴェイ)が逮捕され、ロシア皇帝(ヴィリー・フリッチ)が釈放させる。それをきっかけに二人の居酒屋での密会が始まるが、ナポレオンのエルバ島脱出で皇帝はウィーンを去り、束の間の恋が終わるというシンプルストーリー。
 ラストで事情を知らない娘が「また明日」というのに対し、皇帝が「次に会う日を楽しみに」といって別れるシーンが極めつけの名場面で、長かった会議と別れの切なさ、乙女心の悲しさを重ね、『唯一度だけ』だけの曲が流れるというお洒落なエンディングとなっている。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年10月8日
監督:トッド・ブラウニング 製作:カール・レムリ・Jr 脚本:ギャレット・フォート 撮影:カール・フロイント 美術:チャールズ・D・ホール

古色蒼然としたモノクロ映像はそれだけでゴシック
 原題"Dracula"で、劇中の吸血鬼の名。ブラム・ストーカーの同名小説が原作。
 サイレントの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)に続く、吸血鬼映画の第二作で、ストーカーの未亡人の正式な許諾を得て制作されたもの。
 大筋では原作に沿っていて、ロンドンの弁護士レンフィールド(ドワイト・フライ)がトンラシルヴァニアのドラキュラ城を訪ねるシーンから始まる。
 バレエ曲「白鳥の湖」のBGMとともに、古色蒼然としたモノクロ映像はそれだけでゴシックで、これから始まるゴシック・ホラーへの期待感を高めてくれる。
 ロンドンの家の不動産契約が済ませたドラキュラ伯爵(ベラ・ルゴシ)は船で渡英。船員たちは全員変死。ドラキュラの下僕にされたレンフィールドだけが、蠅や蜘蛛を食べる狂人として発見される。
 ドラキュラは隣に住むセワード博士一家の家に蝙蝠姿で忍び込み、娘ミナ(ヘレン・チャンドラー)の友人ルーシー(フランシス・デイド)を吸血死させ、次にミナを吸血する。
 ここでヘルシング教授(エドワード・ヴァン・スローン)が登場。鏡に映らぬドラキュラを吸血鬼と見抜き、ミナの部屋に大蒜ならぬトリカブトの結界を張り巡らすが、破られてミナを連れ去られてしまう。
 精神病院を抜け出したレンフィールドを尾行するヘルシングとミナの婚約者ハーカー(デヴィッド・マナーズ)は、ドラキュラの隠れ家を発見。地下墓所の棺で眠るドラキュラの胸に杭を打ち込み、ミナを助け出す。
 原作のエッセンスを75分に要領よく纏めていて楽しめるが、ドラキュラが美女を襲うシーンがイメージで終わり、耽美やエロティシズムに欠けるのが少々寂しい。
 ベラ・ルゴシの目だけをスポットでライティングするなど、ホラー本来の怪奇演出が見どころ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1932年4月26日
監督:ジェームズ・ホエール 製作:カール・レムリ・Jr 脚本:ギャレット・フォート、フランシス・エドワード・ファラゴー、ロバート・フローリー 撮影:アーサー・エディソン 美術:チャールズ・D・ホール 音楽:バーンハルド・カウン

人造人間以外の何物にも見えない怪物のメイクが秀逸
 原題"Frankenstein"で、主人公の名前。メアリー・シェリーの同名小説が原作。
 1910年のサイレント映画に次ぐ、"Frankenstein"の2回目の映画化作品。ボリス・カーロフがフランケンシュタインの怪物を演じ、その容姿がその後の怪物像を決定づけた。
 ストーリーは原作を簡略化したもので、科学者フランケンシュタイン(コリン・クライブ)が北極探検隊長に自らの体験を語るという枠物語を外し、墓荒し、怪物の創造、怪物の少女の殺害、フランケンシュタインと許嫁(メイ・クラーク)との結婚式、怪物の襲撃を経て、原作とは大きく異なる村人たちの手による怪物退治で終わる。
 怪物に犯罪者の脳が使われたために狂暴化したり、怪物に生命の力を与える雷の放電エネルギーといった視覚的な描写は、フランケンシュタイン映画に欠かせないものとなり、怪物の創造物としての絶望を描いた原作とは全く異なる、エンタテイメントとしての二次創作的な怪物像を作り上げた。
 怪物名がフランケンシュタインだという誤解と同様に、知性なき狂暴で非人間的な怪物という誤解を確立してしまうほどに、強烈な印象を与える。
 ボリス・カーロフ演じる怪物のメイクは、人造人間以外の何物にも見えず、秀逸の一言。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1933年1月
監督:キング・ヴィダー 脚本:エルマー・ライス 撮影:グレッグ・トーランド、ジョージ・バーンズ 音楽:アルフレッド・ニューマン
キネマ旬報:5位

庶民の生活をスケッチ風に描くがテーマが曖昧
 原題"Street Scene"で、邦題の意。エルマー・ライスの同名戯曲が原作。
 マンハッタンのアパートの玄関が舞台で、出入りする住民・関係者の織り成す群像劇。
 中心となるのはモーラン一家で、妻のアンナ(エステル・テイラー)は牛乳屋のサンキー(ラッセル・ホプトン)と浮気。井戸端会議の噂となり、浮気現場に夫のフランク(デイヴィッド・ランドー)が飛び込んで二人を銃殺してしまう。幼い弟の世話をしなければならなくなった娘のローズ(シルヴィア・シドニー)は、ユダヤ人家庭のサム(ウィリアム・コリアー・ジュニア)のプロポーズを受けながらも、街を出る決意をして物語は終わる。
 アパートには多様な人々が住んでいて、アパート代を払えず立ち退きを迫られる人、社会主義者、セクハラする男、臨月の若夫婦と、庶民の様々な人間模様を描くが、人種の違いが日本人には姓で見分けにくいのが残念。
 庶民の生活をスケッチ風に描くが、モーラン一家のエピソードを含めて、何を描きたかったのかわからないというテーマの曖昧さがラストまで付き纏う。アパートにくすぶっている人たちを否定的に捉えて、ローズが生活を変えるために街を出て行ったのだろうと推測できるが、明確には描かれてなく不明瞭なままで終わっている。
 アパートのスピーカーとなるジョーンズ夫人にビューラ・ボンディ。 (評価:2.5)

製作国:ソ連
日本公開:1932年4月
監督:ニコライ・エック 脚本:ニコライ・エック 撮影:V・プロニン
キネマ旬報:2位

浮浪児撲滅の真摯さが伝わり教宣映画の嫌らしさがない
 原題"Путёвка в жизнь"で、人生への切符の意。
 1917年のロシア革命とロシア内戦後の1923年が舞台。
 モスクワには浮浪児が溢れ、窃盗等が横行。掴まえて施設に収容しても脱走を繰り返し、そこで党指導部のセルゲーエフが浮浪児たちのための勤労工場を作り、自由意志で働くように教育するという教宣映画。不良だった彼らは、かつて彼らに盗みを働かせていた親玉フォムカや娼婦たち労働者の敵を駆逐。勤労工場に鉄道を敷設するものの、少年たちのリーダー、ムスターファがフォムカに殺されてしまう。
 機関士になる夢の潰えたムスターファの死を嘆いて物語は終り、フォムカの退治に至らないのがミソで、教宣映画としてはフォムカは労働者の敵、国内の反動勢力の象徴として生き残ってもらわなければならない。
 ムスターファが良い子となって労働者の模範になってからがつまらないが、前半の浮浪児たちの犯罪場面の描写がリアルで楽しめる。ムスターファを演じる蒙古系のイワン・クイルラが上手い。
 教宣映画ながら、労働者のための理想の国を造ろうというニコライ・エックの真摯な気持ちが伝わってきて、プロパガンダ映画の嫌らしさが意外とない。
 ソ連初のトーキー映画だが、随所に説明のための字幕が入るというサイレント映画の残滓があり、表現を模索しているのが見ていて楽しい。プロローグではモスクワの塔の中にバベルに似せた螺旋の塔があり、その側面にクレジット文字が嵌めこまれていて、回転しながら見せていく手法も面白い。
 開幕と終幕に俳優のニコライ・バターロフが登場して、浮浪児撲滅の意義を語る口調が、北朝鮮のニュースアナウンサーのようで可笑しい。 (評価:2.5)

製作国:ドイツ
日本公開:1932年9月
監督:ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト 製作:シーモア・ネベンザル 脚本:カール・オッテン、ペーター・マルティン・ランペル、ラディスラウス・ヴァホダ 撮影:フリッツ・アルノ・ヴァグナー、ロベルト・バベルスケ
キネマ旬報:4位

パプストの平和への願い虚しい独仏炭鉱夫の友情物語
 原題"Kameradschaft"で、仲間意識・友情の意。
 1906年のフランスのクーリエ炭鉱事故を第一次大戦後の1919年に置き換えて描いたもので、鉱山はフランスとドイツに分割され、地下の坑道に国境の柵が築かれている。
 戦争を戦った独仏は炭鉱町でも仲が悪く、フランスのダンスホールを訪れたドイツ人炭鉱夫がフランス女をダンスに誘って断られ、あわやフランス人と喧嘩になりかかる。
 そんな折、フランス側の鉱山でガス爆発が発生、多くの炭鉱夫が坑道に閉じ込められる。それを知ったドイツ側の炭鉱夫は救助隊を編成、フランス人の救助に向かうというヤマの男の友情物語。ダンスホールでフラれた3人も、坑道の国境線を超えてフランス側に行く。
 パプストはこの事件を国家の対立を超えた国民同士の人間愛を炭鉱夫の友情に置き換えて描いていて、戦争を戦った者同士の和解の物語、国境を越えた人間同士の繋がり、反戦平和への思いを込めている。
 しかし、ラストシーンは悲しみに満ちていて、破壊された坑道の国境の柵が堅固に修復され、再び国境線が復活する象徴的なシーンで終えている。
 制作は1931年。ナチス・ドイツ成立の前夜であり、パプストの平和への願い虚しく独仏は再び戦火を交えることになる。
 リアルに再現された坑道と爆発、落盤シーンがリアル。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年9月
監督:ルーベン・マムーリアン 脚本:マックス・マーシン、オリヴァー・H・P・ギャレット 撮影:リー・ガームス 
キネマ旬報:3位

ヒロインの父親がクズ過ぎて楽しめるギャング映画
 原題"City Streets"で、邦題の意。
 ビール密造のマフィアの娘ナン(シルヴィア・シドニー)と射的屋で働く青年キッド(ゲーリー・クーパー)は恋仲。
 ところがマフィアの親分(ポール・ルーカス)というのがどうしようもないクズで、子分ブラッキー(スタンリー・フィールズ)の情婦アグネス(ウィン・ギブソン)を愛人にするためにナンの父親(ガイ・キッビー)にブラッキーを殺させ、手伝ったナンが警察に捕まってしまう。
 ナンの父親というのもどうしようもないクズで、娘を庇うことなく刑務所送りにしてしまう。銃の腕のいいキッドはナンの父親にスカウトされ、ナンの服役中にマフィアの幹部に出世。
 ところがボスが出所したナンに目を付け、ナンの父親もこれに同調。ボスが邪魔なキッドを始末しようとしたことから二人の争いに。ナンはボスを殺すために誘いに乗るが、捨てられたアグネスがナンに逆恨みして、ボスを殺して罪をナンに擦り付ける。
 あわやというところでキッドがマフィアの連中を巻いて、ナンを助けて愛の逃避行・・・で、幕。
 テンポの良いストーリーと肩の凝らないサスペンスフルな展開で楽しめる娯楽作。ラストの車で疾走するシーンがスピード感溢れるが、フィルムの早回しなのがちょっと残念。
 ゲーリー・クーパーが若い。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1932年5月
監督:ルネ・クレール 製作:フランク・クリフォード 脚本:ルネ・クレール 撮影:ジョルジュ・ペリナール 音楽:ジョルジュ・オーリック
キネマ旬報:1位
ヴェネツィア映画祭作品賞

大人のメルヘンと洒脱を楽しむためのオペレッタ
 原題"À nous la liberté"で、邦題の意。
 「自由を我等に」を実現させるために、刑務所を脱獄した男ルイ(レイモン・コルディ)と、失敗してルイを逃がした男エミール(アンリ・マルシャン)の物語で、ルイは露天商から蓄音機メーカーの社長となって大成功。刑期を終えて出所したエミールは、見初めた娘ジャンヌ(ローラ・フランス)が勤める会社にたまたま就職すると、なんとルイの会社で、二人は再会を喜び友情を復活させる。
 ルイの仲介も空しくジャンヌには恋人がいることがわかりエミールは失恋。一方のルイも妻の不貞に加え、脱獄犯と知った刑事がやってきてルイと逃亡。二人は無一文となるが、昔のような気楽な身になって、「自由を我等に」を実現するというお粗末。
 少ない台詞とパントマイムを主体としたコミカルな演出は、チャップリンを髣髴させてサイレント映画風。プラス、ミュージカル風に歌唱場面が挿入されるが、歌と台詞に口が合っていないのがご愛敬。
 もっとも、これがリアリズムを排したロマンティシズム効果を出していて、意図的だったのかどうかはともかく、自由を求める大人のメルヘンにはしっくりしている。
 どちらかといえばオペレッタで、フランス流の洒脱を楽しむ作品となっている。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1931年9月29日
監督:ルネ・クレール 脚本:ルネ・クレール 撮影:ジョルジュ・ペリナール 音楽:ジョルジュ・ヴァン・パリス、フィリップ・バレス、アルマン・ベルナール
キネマ旬報:4位

芸術と音楽とパリのエスプリが味わえるフレンチ・コメディ
 原題"Le Million"で、100万フランの意。ジョルジュ・ベルの戯曲が原作。
 カルチェ・ラタンのアパルトマンが舞台。貧乏画家ミシェル(ルネ・ルフェーブル)に賞金100万円の宝くじが当たるが、それを保管していた友人プロスペル(ルイ・アリベール)のボロ上着を泥棒(ポール・オリヴィエ)が持っていってしまい、それを舞台衣装にとオペラ歌手ソブラネリ(コンスタンタン・シロエースコ)が買い取ってしまったことから、それを取り戻そうと奮闘するドタバタ喜劇。
 貧乏芸術家に恋人のバレリーナ(アナベラ)、絵画モデル、ピアニスト崩れの泥棒、オペラ歌手が絡むという、如何にもなフレンチ・コメディ。さらにシャンソンのミュージカル仕立てで、ルネ・クレールらしい洒脱な気分が楽しめるが、オシャレな分、時々演出がのんびりしてテンポが緩み、欠伸が出る。
 オープニングはパリの屋根の上をパンしていくという、これまたルネ・クレールらしい導入で、ハッピーエンドに喜ぶアパルトマンの住人たちが、今日一日の出来事を振り返る構成になっている。
 宝くじ争奪戦のクライマックスはオペラ座の舞台で、朗々と歌い上げるソプラノとテノールの歌唱が聴きどころとなっていて、パリのエスプリがたっぶり味わえる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年11日
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 脚本:サミュエル・ホッフェンスタイン 撮影:リー・ガームス
キネマ旬報:10位

凡庸なサスペンスドラマが転じて楽しめる法廷劇に
 原題"An American Tragedy"で、邦題の意。テオドルー・ドライザーの同名小説が原作。
 貧しい青年が令嬢に恋し、邪魔になった恋人を殺すという凡庸な物語だが、裁判劇になっていて、殺意を持ちながら翻意した結果事故死となり、結果的に第一級殺人と評決されて死刑になってしまうという捻りが退屈しない作品にしている。
 主人公のグリフィス(フィリップス・ホームス)は叔父の襟を造るカラー工場で主任をしていて、ハンサムが売りで女工たちの人気者だが、職長と女工の交際は禁止されている。そこにキュートな新人ロベルタ(シルヴィア・シドニー)がやってきて一目惚れ。交際を始めるがバレれば二人とも首になるため結婚に踏み出せない。
 そうこうしているうちにロベルタは妊娠。そこに金持ち娘ソンドラ(フランセス・ディー)がグリフィスに熱を上げたため、早速グリフィスは乗り換えるが、ロベルタに結婚を迫られ殺害を決意。山奥の湖に誘い出してボート事故に見せかけようとするが、直前になって思い直し、好きではないが結婚すると告白しようとした矢先、ロベルタが立ち上がったためにボートは転覆。
 事故を主張した裁判の結果は、信じてもらえずに死刑。無実を信じる母に、溺れるロベルタを助けずに逃げ帰ったことを告白すると、母は死刑を受け入れるように諭すというラスト。
 母は伝道師の父とともにカンサス市で救護施設を経営しているというのがミソで、法的には無実でも宗教的には有罪という結末になっている。
 金が人の心に魔性を生むという点で悲劇という物語。前半はありきたりのサスペンスドラマだが、事故後はどっちに転ぶかわからない法廷劇として楽しめる。 (評価:2.5)

民衆の敵

製作国:アメリカ
日本公開:1931年11月
監督:ウィリアム・A・ウェルマン 脚本:ハーヴェイ・シュウ 撮影:デイヴ・ジェニングス

ギャングへの社会批判だけでなく戦争に対する懐疑もある
 原題"The Public Enemy"で、邦題の意。キューベック・グラスマンとジョン・ブライトの小説"Beer and Blood"が原作。
 1900年代初頭のシカゴで、ギャングとなっていく二人の若者を描いた作品で、主人公のトム(ジェームズ・キャグニー)と悪友マット(エドワーズ・ウッズ)の少年時代の窃盗に始まり、ビールの密売で羽振りが良くなるものの、競合相手との抗争になり、二人が惨殺されるまでを描く。
 一言でいえば若くして自滅するギャングの半生記、ないしは因果応報物語で、それ以外にはない。
 悪事に手を染めると碌なことはない、少年時代の些細な悪事が破滅の人生を招く…といった青少年のための教訓話で、ギャング映画ながらもウェルマンらしい健全でヒューマンな作品となっている。
   作中にはPublic Enemyであるギャングに対する社会批判だけでなく、戦争に対する懐疑もあり、トムが優等生の兄マイク(ドナルド・クック)と口論するシーンで、血まみれの成功だと非難されると、第一次世界大戦に出征した愛国者のマックが、敵を殺したのと変わりがないと反論する。
 ギャング映画としてはいささか定型だが、エピソードはよくできていて、毛皮店に盗みに入った二人が熊の毛皮に驚いて発砲するシーンが可愛い。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1932年12月
監督:ウェズリー・ラッグルス 製作:ウィリアム・ルバロン 脚本:ハワード・エスタブルック 撮影:エドワード・クロンジャガー 音楽:マックス・スタイナー
アカデミー作品賞

アメリカ発展史としては面白いが物語は散漫
 原題"Cimarron"で、オクラホマ州最西端にある地域の名。エドナ・ファーバーの同名小説が原作。
 シマロンは19世紀、白人にとってはNo Man's Land(無人の地)と呼ばれた未開拓地で、大統領令による土地開放、先着順による土地獲得レースが冒頭に描かれる。大荒野を幌馬車や馬が疾走するシーンが大スペクタクルで見もの。
 新聞社を営むヤンシーが一家でオクラホマのオーセージに移住。持ち前の正義感で町から無法者を追放、町の名士となるが5年と居続けられない放浪癖から、家族を置いて次の土地獲得レースに参加してしまう。
 残された妻は女手一つで新聞社を切り盛り。そこに米西戦争に従軍していたヤンシーがひょっこり帰り、たまたま知り合いの女が不道徳の廉で裁判にかけられているのを知って弁護、無罪にする。
 ヤンシーは人権派で息子がインディアンのメイドと結婚するのを許可するが、黒人のボーイが殺されても平然とし、インディアンの権利を擁護しているように見えて土地獲得レースに参加するなど、いささか偽善者めいているのは時代性か、それとも制作者の問題か。
 オクラホマに石油が出てインディアンたちが裕福になるとヤンシーは再び放浪に出て、行方不明となる。残った妻は新聞社を大きくして下院議員にまで出世。オクラホマの開拓者ヤンシーの像の除幕式が行われる直前、油田で事故があり、みんなを助けるために老人が犠牲になるが、これがヤンシーで、妻に抱えられて息を引き取るという、西部開拓史の男のドラマとなっている。
 原作はかなり脚色されていて、開拓魂に燃えた男の物語としては町の外のエピソードが決定的に欠けていて、後半は妻の物語になってしまっている。ラストではなぜ油田で働いていたのかが明かされず、リーダー格だったヤンシーが一労働者になった動機がわからず、ご都合主義の単なる西部男のヒロイズムに終わっている。
 オクラホマの町を舞台にしたアメリカ発展史としては結構面白く、インディアンの土地が西部開拓、オイルブームを経て町が近代都市に変っていく様子が興味深い。
 もとは人種差別主義者だった妻が財と名声をなしてアメリカのエスタブリッシュメントにのし上がっていくのに対し、正義感とフロンティア精神を失わない夫との対照のドラマと見れば、拝金主義のアメリカ社会に対し、初心を思い出すアンチテーゼといえなくもないが、アカデミー賞脚色賞を受賞した割にはシナリオに丁寧さが足りず、結局、何が描きたかったのかさっぱりわからない作品となっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年10月
監督:アーチー・L・メイヨ 脚本:J・グラッブ・アレクサンダー 撮影:バーニー・マッギル 美術:アントン・グロット
キネマ旬報:7位

ジョン・バリモアの鬼気迫る悪魔ぶりと全裸ヌードが見どころ
 原題"Svengali"で、登場する催眠術師の名、人を操る人物の意。ジョルジュ・ルイ・デュモリエーの小説"Trilby"が原作。
 パリのカルチエ・ラタンで音楽教師を営むスヴェンガリ(ジョン・バリモア)は、催眠術で女を操って食い物にする悪党で、ある日、画学生たちのモデルをしている美少女トリルビー(マリアン・マーシュ)を見初める。彼女が美声の持ち主であったことから、彼女が恋人ビリー(ブラムウェル・フレッチャー)にヌードモデルをしているところを見られた恥辱から入水自殺したと見せかけて連れ出し、オペラ歌手スヴェンガリ夫人として売り出し、成功するという物語。
 トリルビーが人気歌手になれたのはスヴェンガリの暗示のお陰だったが、ビリーを忘れられないトリルビーの心を手に入れることはできず、数年ぶりに帰ってきたパリでビリーらにトリルビーが生きていることを知られてしまう。
 それからはビリーがしつこく公演先を追いかけ、公演の中止を続けて人気はガタ落ち。ドサ周りのカイロのカフェに追い詰められたところで魔力も衰え、トリルビーとともに絶命するというラスト。
 トリルビーとビリーにとっては悲劇に終わるが、スヴェンガリにとっては思いを達した最期で、なんとなくスヴェンガリが勝った印象。
 ジョン・バリモアの鬼気迫る悪魔ぶりが見どころで、髭だらけの顔でバリモアとわからない。金髪の前髪を揃えたマリアン・マーシュの美少女ぶりがすこぶる可愛いが、足が自慢という台詞もあって、足だけでなく太腿も大胆に披露。胸の谷間も遠景ながら全裸ヌードも見せてくれるが、吹き替えかどうかは不明。
 キワモノ臭さもあるが、そこそこに楽しめるエンタテイメント作品。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1932年7月
監督:キング・ヴィダー 脚本:フランセス・マリオン 撮影:ゴードン・アヴィル
キネマ旬報:6位

赤面するほどステレオタイプなアメリカ父子物
 原題"The Champ"で、チャンプは元ボクシング・チャンピオンのアンディに対する息子ディンクの呼び名。
 父子ものの感動ドラマで1979年にリメイクされているが、ディンク役の名子役ジャッキー・クーパーの演技以外には大した見どころはない。
 強かった父親とそれを慕う小さな息子の友情物語という、如何にもアメリカ人受けしそうな作品で、父親にかつての栄光を取り戻させようとする健気な子供の姿が感動の涙を誘うという通俗パターン。
 父親は飲んだくれの上にギャンブル好きで、それが王座を転落したきっかけでもあり、現在の貧しい生活の原因でもありながら、復活に父子の夢を託し、どうしようもない父を息子は愛し許す、というダメな親父垂涎の孝行息子というアメリカ人好みの設定。
 母親はまともな再婚相手と暮らすプチブルで、息子を引き取ろうと言い寄るが、反対する父も息子の幸せを考えて元妻に引き渡すことに合意、ところが息子は父恋しさに帰ってくるという、この上もない展開。
 父親の復活戦が決まるものの、ぶくぶくに体の弛んだ父の再戦は死と隣り合わせと息子は悟り、父に引退を勧告するものの、男たるものチャレンジしなくなったらお終い「恥を知れ!」と言われ、リングにタオルを投げるのを躊躇う。その結果、父は勝利するものの命を落し、これぞアメリカ魂とばかりに男の生きざまを見せつけて終わる。
 タフでなければ男じゃない、男に必要なのは金や富ではなく名誉、ボロに身を纏い酒とギャンブルを友とするのがタフガイという、アメリカ人の男の理想像を示すが、赤面するほどのステレオタイプに反面バカバカしくもある。
 子供が馬を欲しがるというのもアメリカ父子ものに花を添える。
 ジャッキー・クーパーは大人顔負けの演技をするが、あざとすぎるのが難。アンディを演じるウォーレス・ビアリーがアカデミー主演男優賞受賞。元妻を演じるアイリーン・リッチの戸惑いがちな母親ぶりがちょっといい。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年8月
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 脚本:ダニエル・N・ルービン、ジョセフ・フォン・スタンバーグ 撮影:リー・ガームス
キネマ旬報:5位

女スパイ、ディートリッヒの美貌と気品を魅せる映画
 原題"Dishonored"で、不名誉の意。
 1915年のウィーンを舞台にした、不幸な女スパイの物語。死ぬことも生きることも恐れない娼婦(マレーネ・ディートリッヒ)はオーストリア諜報局長官(グスタフ・フォン・セイファーティッツ)にスカウトされ、X27号のコードネームを与えられる。
 最初の任務はヒンダウ大佐(ワーナー・オーランド)がロシアに内通している証拠を見つけることで、ロシア製煙草を発見したことから大佐は自殺。その過程で知り合ったオーストリア将役クラノウ(ヴィクター・マクラグレン)を愛してしまうが、正体がロシア軍大佐であることを知る。
 クラノウはロシアに逃れ、次の任務に向かったX27号はポーランドでロシア軍司令部の女中に化けるがクラノウに正体を見破られ、楽譜に見せかけた暗号文を焼却されてしまう。しかしワインに眠り薬を仕込んで脱出に成功。
 やがて両軍の戦いとなり、クラノウはオーストリア軍に捕らえられてくる。それを知ったX27号は尋問するといってクラノウを逃がしてしまったことから、裏切り者として銃殺刑に。
 最後は毅然として刑場の露と消えるという、ディートリッヒの美貌と気品を魅せるための映画。そのためにストーリーの方はディートリッヒを艶っぽくかっこよく見せるのに終始して、若干説明不足でわかりにくいのはご愛敬。
 脚を投げ出して太腿を見せるなどサービスも満点だが、歌わないのが残念。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1931年11月
監督:エルンスト・ルビッチ 脚本:エルネスト・ヴァイダ、サムソン・ラファエルソン 撮影:ジョージ・J・フォルシー
キネマ旬報:9位

ただ笑っているだけのバカにしか見えない中尉さん
 原題"The Smiling Lieutenant"で、笑顔の中尉の意。ハンス・ミュラーの小説"Nux, der Prinzgemahl"(女王の夫、エヌウッィクス)を原作とする、レオポールト・ヤコブソン、フェリックス・ドルマンのオペレッタ"Ein Walzertraum"(ワルツの夢)の映画化。
 いつもにこやかなオーストリアの親衛隊中尉ニキ(モーリス・シュヴァリエ)が主人公。キャバレーの楽団を指揮するヴァイオリニストのフランジー(クローデット・コルベール)と意気投合したニキは、オーストリア帝国の属国フラウゼンタウム公国の大公を警備中に過って公女アンナ(ミリアム・ホプキンス)に笑いかけてしまったことから大公に召喚される。ところがお調子者でプレイボーイのニキはアンナを籠絡してしまい、結婚する羽目に。
 ニキは小便臭いアンナと寝室を共にせず、フランジーを求めて外出を繰り返すが、それを知ったフランジーがアンナを大人の女に大変身させ、ニキをアンナに託すというミュージカルコメディ。
 ラストは女二人の爽やかな友情で終わるが、主人公の陽気な中尉さんがただ笑っているだけのバカにしか見えないのが作品のイメージを下げている。そうした点では、落ちぶれたオーストリア帝国ならば親衛隊もさもあらんと思わせるルビッチの皮肉な演出か?
 ミュージカルの割にはシュヴァリエの歌が下手なのも興を削ぐ。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1932年3月
監督:ルーベン・マムーリアン 製作:ルーベン・マムーリアン 脚本:サミュエル・ホッフェンスタイン、パーシー・ヒース 撮影:カール・ストラス
キネマ旬報:10位

ストッキングを脱ぐシーンに内なるハイドを見出す作品
 原題"Dr. Jekyll and Mr. Hyde"で、ジキル博士とハイド氏の意。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説"The Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde"(ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件)が原作。
 二重人格をテーマにした作品で、ジキル博士が研究を実証するために善の人格と悪の人格を乖離させる薬を調合して、もう一つの人格ハイドが出現する。
 もっとも表現方法は狼人間そのもので、満月の代わりに薬を飲むと醜悪な人間に変化してしまう。
 ハイドは売春婦を自宅軟禁して暴君として振る舞うが、遂に殺してしまう。このため警察に追われることになり、ジキル博士の恋人との婚約発表もすっぽかし、最後は変身のコントロールが利かなくなってハイドとして彼女を襲ってしまい、銃殺されるというラスト。
 ジキルが恋人との結婚を父親に反対されていたという設定はあるものの、倫理観に抑圧されていたハイドの人格が分離したというような精神医学的な考察には程遠く、ジキルの性欲動がハイドの人格をもたらしたというようにも描けてない。
 また人間には根源的に二面性があるというような主題に向かっているわけでもなく、単に二重人格を通俗的に面白がっているだけで、せいぜいが薬物の乱用はやめましょう的なキャンペーンにしかなっていない。
 結局のところ、単に狼男のアレンジにしか過ぎず、ラストも殺される以外にはないと容易に想像できてしまうため、ホラーとしてもミステリーとしても予定調和。
 売春婦役のミリアム・ホプキンスがスカートを捲り上げてストッキングを脱ぐシーンに、当時のセクシャルな楽しみを見出すしかなく、内なるハイドに微かなスリルを感じるという作品。
 ジキルとハイドを演じ分けるフレドリック・マーチのアカデミー主演男優賞の演技も見所か。 (評価:2)