海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──2001年

製作:シグロ
公開:2002年4月27日
監督:橋口亮輔 製作:山上徹二郎 脚本:橋口亮輔 撮影:上野彰吾 美術:小川富美夫 音楽:ボビー・マクファーリン
キネマ旬報:2位

性的マイノリティの優しさと悲しさがじっくりと伝わってくる
 タイトルのhush!は、「しっ!」の意。ゲイのカップルと子どもが欲しい女の交流を描いた作品で、タイトルは社会から正体を隠して生きる彼らの存在を象徴する。
 ゲイの同棲生活のリアリティというのは、性的マジョリティには想像がつかず、本作で描かれる姿が正しいのかどうかは判断がつかない。ただ監督の橋口亮輔がゲイであるということを信じて、本作が正しいゲイの姿を伝えているという前提で本作を評価することにする。あるいは、本作に登場するもう一人の主人公である女も、おそらくモデルがいるのだろう。
 勝裕(田辺誠一)は直也(高橋和也)と同棲しているが、ゲイであることは職場でも秘密にし、周囲に気付かれないように細心の注意を払っている。優しいけれども優柔不断な性格で、好意を寄せている同僚のエミ(つぐみ)を突き放すこともできない。
 ある日、見ず知らずの朝子(片岡礼子)に傘を貸した優しさが仇となってトラブルに巻き込まれる。朝子は性的には放縦だがシングル・マザーとなる決意をし、ゲイの勝裕に精子提供を求める。
 直也は同棲生活にさざ波を立てる朝子を排除しようとし、エミは勝裕と朝子の仲を誤解して、勝裕の兄夫婦(光石研、秋野暢子)を巻き込んだ騒動に発展する。
 雨降って地固まり、3人の奇妙な関係が再出発するシーンで終わるが、朝子の生き方を含めて、性的マイノリティの優しさと悲しさがじっくりと伝わってくる作品となっている。
 とりわけ、ゲイであることに気付いていながら、長い間、態度に表さずに普通に振る舞ってくれていた堅物の兄が死んで、勝裕が堪えきれずに涙を流すシーンがいい。
 俳優陣もいいが、片岡礼子と田辺誠一がとりわけ好演。 (評価:3.5)

製作:「GO」製作委員会(東映、STARMAX、テレビ東京、東映ビデオ、TOKYO FM)
公開:2001年10月20日
監督:監督:行定勲 製作:佐藤雅夫、黒澤満 脚本:宮藤官九郎 撮影:柳島克己 美術:和田洋 音楽:めいなCo.
キネマ旬報:1位

民族教育を受ける在日子弟の滑稽で悲しい現実
 同名の金城一紀の直木賞受賞作が原作で、在日朝鮮人である原作者の半自伝的小説。
 朝鮮学校に通っていた主人公が、日本の高校に進学し、ガールフレンドができるものの、自分が朝鮮人だと伝えた途端に別れることになり、最後は彼女から謝られてハッピーエンドという、型に嵌った物語。
 普段は日本名を名乗る主人公を窪塚洋介、ガールフレンドを柴咲コウが演じ、配役的にも新鮮味はない。
 二人が出会ったきっかけは、高校で友達になったヤクザの息子のパーティで、二人がなんで親密になったのかよくわからないが、主人公がバスケ部で差別を受けて暴れまくるという冒頭のシーンが終盤になってキーとなるという構成で、平板なラブストーリーに変化をつけている。
 途中、在日の親友が、朝鮮高校の女生徒に絡んだ日本人高校生を制止しようとして刺殺されるという事件があるが、本作中で最大の見どころは、朝鮮学校での生活の様子が描かれていること。金親子の肖像写真が家にも教室にも掲げられているのはともかくとして、学校での日本語の使用が禁止されていて、使ったことを密告されて裏切り者と教師に殴られるときのやりとりが笑える。
 ハングルの中に日本語で「めっちゃうんこしたいから、めっちゃうんこしたいって言っただけで、めっちゃうんこしたいときになんていえばいいんですか?」と主人公が答え、教師がハングルでウンコがしたいという意味のことを言ったのに対して、それじゃ「めっちゃうんこしたい」という感じが出ないと、日本語とハングルちゃんぽんで何度も言い返す。
 在日に対する定番の差別を中心に描くよりは、日本で民族教育を受ける在日子弟の滑稽で悲しい現実を描いたほうが、『月はどっちに出ている』のような心に響くものを残す。
 本作で、死んだ親友の妹が日本の高校に進学したがっているという話が出てくる。兄は「妹はお前のように強い人間ではないから心配だ」と主人公に言う場面があって、在日子弟にとって日本の学校に行くことが勇気の要ることだという現実が重い。それを中心に描けば、また違った作品になった。
 主人公の両親に山崎努、大竹しのぶ。 (評価:2.5)

製作:Rockwell Eyes
公開:2001年10月6日
監督:岩井俊二 脚本:岩井俊二 撮影:篠田昇 音楽:小林武史
キネマ旬報:6位

センチメンタリズムで終わる青春のナイーブ
 監督の岩井俊二がインターネットの掲示板を用いた実験的小説が原作。作中、掲示板の書き込みが画面中央に表示されて、ストーリーと同時進行する形をとるが、書き込みメッセージにリアリティがある。
 栃木県の田園地帯の中学校を舞台にして、非行、イジメ、援助交際が描かれる。彼らを取り巻く教師は無能で、親たちの存在感は皆無。中学生たちの共通項にリリイ・シュシュという歌手がいて、イジメる側もイジメられる側も実は精神的な成長期特有の共通の孤独感や悩みを抱えている、というのが作品全体のテーマになっている。
 リリイ・シュシュは若者たちのカリスマ的存在で、新興宗教の教祖に近い。ファンはリリイ・シュシュの預言を聞くためにCDを買ってその歌に耳を傾ける。その中のキーワードがエーテルで、本来は古代に信じられた宇宙空間を満たす仮想の物質のことだが、ここでは精神を取り巻く媒質のようなものにイメージされている。
 精神が堕落すればエーテルが穢れ、健全な精神は清浄なエーテルによってもたらされる。
 登場する中学生たちを支配するのは穢れたエーテルで、彼らは神の歌を聞きながら穢れたエーテルからの精神の浄化と昇華を図ろうとして苦悶する。それは家庭が崩壊し、友達を搾取することで精神の均衡を取り戻そうとする少年(忍成修吾)であり、その少年に屈服して友達を傷つけることに苦悶する少年(市原隼人)であり、脅されて売春させられ自殺するる少女(蒼井優)であり、いかなる状況にも自分を守ることのできる少女(伊藤歩)である。
 そうした思春期のナイーブを描いていくが、センチメンタリズムを描くだけで、主題であるイジメに対しても、精神の鬱屈に対しても、本作は何の解決策も針路も提示できていない。
 岩井作品に共通してみられるのは、青春のナイーブは非常にうまく描くが、いつもそれがセンチメンタリズムだけに終わっていることで、青春の甘酸っぱさと人生の哀しさのマスターベーションにしかならない。 (評価:2.5)

製作:シー・アイ・エー、エルクインフィニティ、衛星劇場
公開:2001年12月08日
監督:高橋伴明 製作:遠藤秀、石川富康 脚本:青島武 撮影:柴主高秀 音楽:梅林茂 美術:金勝浩一
キネマ旬報:9位

連合赤軍の総括はできないという高橋伴明 の告白映画
 原作は連合赤軍事件をモデルにした立松和平の同名小説。原作は若者二人が老人の過去話を聞くという形式をとっているが、映画では『光の雨』を撮影するという劇中劇の形式になっている。
 作中では、京浜安保共闘は革命共闘に、赤軍派は赤色パルチザンに置き換えられているが、劇中劇の語り手で主人公の玉井は坂口弘、リーダーの倉重は森恒夫、上杉は永田洋子と、エピソードもメンバーも実際にあった事件を基に描いている。監督の高橋は1949年生まれで、終戦前後に生まれた森ら三人よりは若干年下。妻は『高校生ブルース』でデビューした女優・関根恵子。
 劇中劇は、ドキュメンタリー風に俳優に語らせている部分が演技臭が強く、高橋自身を投影した監督のエピソードなど、シナリオ・演出ともに露骨で鼻につく。ただ、この枠のストーリーがないと相当に暗く落ち込む映画で、萩原聖人演じるドキュメンタリー監督の爽やかさがそれを救っている
。  また以下の理由で、この映画にとって劇中劇の構成は必要だった。この点を評価できないと、自己本位な革命思想に走った若者たちのただの狂気の映画としか受け取れない。
 戦争世代の多くは戦後、自分たちの戦争加害体験を語ろうとしなかった。強制であったにせよ、自らが手を貸した行為について語ることを拒んだ。子の世代である高橋は、戦後の学生運動とその必然的帰結であった連合赤軍事件を狂気として片付けるのではなく、戦後世代が共有する蹉跌と考え、親の世代のように封印せずに、次の世代に伝えるべきだと考えた。そのことは劇中の台詞の荻原の問いかけとして出てくる。
 この陰鬱な世代体験を伝えることは、同じ過ちを繰り返さないために無駄なことではない。それはラストに原作者の立松の肉声のメッセージで語られる。ただ問題は、その意図が正しく次の世代に伝わるかどうかであって、その懐疑は高橋の劇中の分身である大杉漣演じる監督が、学生運動に身を投じた過去を持つために連合赤軍事件を総括できない自分に気づくという形で表わされる。
 監督は途中降板し、映画の製作と連合赤軍事件の総括を次の世代の萩原に委ねるが、萩原自身それを総括できるわけもない。ただ、バトンは萩原と劇中劇を演じる山本太郎らの若い俳優たちに渡され、彼らは映画を完成させることで、バトンを確かに受け取ったと示唆するラストシーンで終わる。
 この作品は高橋自身の連合赤軍事件と学生運動への総括であって、連合赤軍が仲間に対して行った総括のように安易になしうることはできないという不完全な総括。総括の困難さを高橋が正直に語り、それを若い観客に委ねたという誠意は評価したいが、それが次の世代にうまく伝わらないことも容易に想像がつく。 (評価:2.5)

製作:「千と千尋の神隠し」製作委員会(徳間書店、スタジオジブリ、日本テレビ、電通、ディズニー、東北新社、三菱商事)
公開:2001年7月20日
監督:宮崎駿 脚本:宮崎駿 作画監督:安藤雅司、高坂希太郎、賀川愛 音楽:久石譲 美術:武重洋二
キネマ旬報:3位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞 ベルリン映画祭金熊賞


湯屋のアジアンな美術と水の描写が最大の見どころ
 大ヒットしたスタジオジブリ作品。
 物語の骨子は『アリスの不思議な国』で、美術的には台湾・九份、式神やヒンキーパンクなどを借用したいつもの宮崎駿らしいアニメ。
 本作の見どころの第一は、湯屋の美術で、派手派手しい上に日本風・中華風・アジア風がごっちゃまぜになった楽しさがあって、空中楼閣のような屋内だけでなく、香港や東南アジア風の付け足し家屋の外観など、見ているだけで楽しい。その屋外階段やパイプを走り抜ける主人公の動きは『カリオストロの城』を彷彿させて、当時の宮崎が戻ってきた感じがする。
 魔女や赤ん坊などのデザインはいつものジブリ風ではなくて、妙にリアルな大友克洋風味。前半は賑々しく慌ただしく、漫画映画の面白さが際立つ。
 ただ残念なのは後半に入って主人公が竜の少年を助ける段になると、それまでのコミカルさが消えて俄然退屈なドラマとなる。それでも、海の中に建つ湯屋、海面を走る列車など水の描写が美しく、ドラマよりも映像に目を引き付けられる。
 ラストは宮崎らしい環境問題に引き戻されて、それまでの楽しい気分が一気に白け、世俗の穢れや欲望を引き受ける八百万の神の物語という結末になるが、顔なしや赤ん坊や魔女といったキーワードが何だったのか、よくわからないままに白昼夢は終わる。
 どうせ物語を盛り上げるための思い付きのキャラクターなら、いっそスラップスティックなままに小利口なテーマや思わせぶりな設定など止めた方がよかった。
 石炭を運ぶ煤が、真っ黒黒助で可愛い。 (評価:2.5)

製作:「仄暗い水の底から」製作委員会(角川書店、日本テレビ放送網、バップ、日活、オフィスガーガスタ、オズ)
公開:2002年01月19日
監督:中田秀夫 脚本:中村義洋、鈴木謙一 撮影:林淳一郎 音楽:川井憲次 美術:中澤克巳
前半は梅雨のように湿っぽく、後半は蛇口を閉めたい
 鈴木光司の同名ホラー短編集収録の『浮遊する水』が原作。ホラー作品の多くは一度見れば十分というのがほとんどだが、この作品は見返しても怖い。
 水がテーマで、全体を通してじくじくとした湿っぽく、日本の伝統的な怪談の雰囲気を醸し出している。池や川に身投げした女がほとりの柳に幽霊となって現れるのが定番で、お玉ヶ池、番町皿屋敷の井戸、四谷怪談の戸板返しも水に関連している。
 本作は水の生理的恐怖を冒頭から描いていくため幽霊が出る前から怖く、プラス物言わず立っている女の子という『シャイニング』の手法を採る。さらにマンションの狭い通路、エレベーターという閉鎖空間で陰湿なホラーの王道を行く。
 いよいよ幽霊が活躍するクライマックスで残念なのは、湿っぽさを通り越して水浸しになってしまうこと。ジトジトしているから怖いので、水浸しは少しも怖くなく、それまでのいい雰囲気の恐怖感を台なしにしている。派手にすればいいというのはホラーには当てはまらない。
 結末はちょっと意外で、しかし母親の愛情が一番に表れ、ホラーとしては心温まる話。郁子のラストの後日談はホラー的オチを意識しすぎて蛇足。折角の麗しい結末を台なしにしている。郁子の回想だけで終わらせた方が良かった。
 母親役の黒木瞳が好演。 (評価:2.5)

製作:フジテレビジョン、アルタミラピクチャーズ、東宝、電通
公開:2001年09月15日
監督:矢口史靖 製作:宮内正喜、平沼久典、塩原徹 脚本:矢口史靖 撮影:長田勇市 音楽:松田岳二、冷水ひとみ 美術:清水剛
キネマ旬報:8位

本当の主役は黙々とシンクロ演技に励んだ俳優たち
 川越高校水泳部の男子シンクロナイズドスイミングがモデル。
 スポーツラブコメの青春映画。友情・努力・勝利の少年ジャンプのセオリー通りで、ラブコメの罪のないギャグもふんだんで最後まで飽きずに観られるが、それ以外にはない。物語も人物設定も演出も悪い意味で漫画的。矢口がアニメや漫画原作のテレビドラマの影響を強く受けていることが推察できる。話は面白いが男子シンクロという題材同様に奇抜さを狙っているだけで物語に説得力がない。
 竹中直人のイルカの曲芸師に調教されたわけのわからない練習が偶然実を結ぶのが「努力」では、ジャンプ漫画にもバカにされる。勢いで熱い青春を見せられているような気にさせられるが、少年たちも少女も周囲の大人も良く見れば軽佻浮薄なだけ。矢口が好きなのはジャンプではなく、ラブコメのサンデー漫画『タッチ』か?
 ギャグもお約束のものばかりで、美人教師に発奮する生徒、オカマで笑いをとりに行くのも通俗。竹中直人の道化役は白ける上に演技が臭い。
 見どころは終盤のシンクロのシーン。竹中・柄本明以外は全員学芸会だが、最後の発表会のシンクロ演技は「よくできました」という親心的感動がある。つまり、主役グループが本篇を撮影している間、ラストシーンのために黙々とシンクロの練習に励んでいた無名の俳優たちが、最後にこの映画を救ったということ。キャスティングを見ると杉浦太陽がこの中にいる。
 暑い夏にこのラストシーンを観ると涼しげになれる。 (評価:2.5)

製作:とらばいゆ・フィルム・パートナーズ(IMJエンタテインメント、武藤起一事務所、広美、アミューズピクチャーズ、カルチュア・パブリッシャーズ)
公開:2002年3月23日
監督:大谷健太郎 脚本:大谷健太郎 撮影:鈴木一博 美術:都築雄二 音楽:上田禎
キネマ旬報:10位

将棋か夫かの究極の選択にならなかったのが惜しい
 将棋の女流棋士姉妹とそれぞれのカップルが織りなすラブ・ストーリー。
 結婚以来負け続けで、B級降格の危機にいる姉が、将棋を選ぶか夫を選ぶかという岐路に立たされるというのがメインストーリーで、悩める女を瀬戸朝香が好演している。
 2年間同棲の上で結婚したものの、結婚すれば互いに我儘が出て、普通のサラリーマンの夫(塚本晋也)は家事をサボる妻に文句を言い、対局に負けた妻は落ち込んで家事をする気にもならず、それを押し付ける夫に反発する。
 妹(市川実日子)は、夫の収入でいい暮らしをしているのに我儘だと夫の肩を持つものの、しょっちゅう男を変え、男はストレス発散の道具程度にしか考えず、新しい男(村上淳)と同棲を始めたものの元彼とも隠れて会っている。
 そうした二組のカップルを通して、結婚と男女の在り方を問うが、常に真剣勝負を求められ、仕事上では男女の役割の優劣を譲れない立場にいる女流棋士を選んだことに本作の面白さがある。
 C級に降格すれば離婚して、棋士として一から出直す必要があると考える修行僧の如き覚悟を持つ姉の考えは理解できるところで、妻や女としてではなく、人生を生きる一個人として譲れない。転職や左遷にも甘んじることのできる宮仕えのサラリーマンとは立ち位置がまるで異なり、妥協の出来ない中で、男女がどう選択するかが見どころ。
 しかしB級に踏みとどまるというハッピーエンドで、究極の選択にはならなかったところが惜しい。
 夫が妹に勝負を譲るように働きかけたり、妹が姉に八百長を持ちかけるのはあり得ないシチュエーションで、ドラマとはいえ、安易なシナリオに逃げずに真剣勝負をしてもらいたかった。 (評価:2.5)

製作:サトラレ対策委員会(日本テレビ放送網、ROBOT、スタジオカジノ、東宝、博報堂)
公開:2001年3月17日
監督:本広克行 製作:横山茂幹、阿部秀司、鈴木敏夫、高井英幸、小野清司 脚本:戸田山雅司 撮影:藤石修 音楽:渡辺俊幸 美術:部谷京子
キネマ旬報:8位

八千草薫と寺尾聰が熱演する感動超能力ドラマ
 佐藤マコトの同名漫画が原作。
 思考が周囲の人間に声となって伝播してしまうという超能力人間サトラレを主人公にしたSF? で、同時に天才的頭脳を持っているため国家によって保護されているという設定。
 本人がサトラレだと自覚すると思考がダダ漏れ出ることから精神崩壊を招くため、周囲は秘密にしなければならず、違反すると罰せられる。漫画原作の無理無理な設定なので、突っ込み始めたらきりがないが、1973年の東陽一監督『日本妖怪伝 サトリ』の逆バージョン。
『日本妖怪伝 サトリ』は、民話の妖怪サトリが人間社会に紛れ込む話で、他人の思考を聞き取ることができ、考えることがなくなるとその相手を食べてしまう。
 映画は飛行機事故で両親を亡くし祖母(八千草薫)に育てられた青年(安藤政信)がサトラレで、外科医を志しているが意図せずに患者にインフォームド・コンセントしてしまうため、外科部長(寺尾聰)は主治医をさせない。ところが青年の祖母が無告知で膵臓癌の手術を受けることになり、青年が手術をすることになる。結局手術はうまくいかないが、祖母は満足して死に、患者たちも青年の治療を希望するようになる。
 インフォームド・コンセントを中心に人と人との信頼がテーマになっていて、八千草薫と寺尾聰の熱演もあって感動的な作品に仕上がっている。
 もっとも本広克行らしい『踊る大捜査線』的な派手な演出もあって、設定の粗にコミカルな化粧を施してうまく隠している。ただ冒頭の飛行機事故の合成画面がちゃちく、始まりのシーンなのでもう少し何とかならなかったか。
 主人公に絡む精神科医に鈴木京香、好きになる研修医に内山理名、サトラレ第1号に松重豊。手術を諦めてからの安藤政信のセリフが感動を強要しているようにくどい。これももう少し何とかならなかったか。 (評価:2.5)

みんなのいえ

製作:フジテレビ、東宝
公開:2001年6月9日
監督:三谷幸喜 製作:宮内正喜、高井英幸 脚本:三谷幸喜 美術:小川富美夫 撮影:高間賢治 音楽:服部隆之

『お葬式』のマイホーム版は展開の読める予定調和
 マイホームを建てることになったテレビ脚本家(田中直樹)とその妻(八木亜希子)の、設計から竣工までのドラマで、いわば伊丹十三の『お葬式』のマイホーム版。
 妻の友人でアーティスト志向の設計者(唐沢寿明)と、同じく妻の父で職人肌の大工の棟梁(田中邦衛)の侃々諤々のぶつかり合いとすれ違いを三谷幸喜流のコメディに仕立てたもので、展開の読める予定調和なのが残念な作品。
 互いに水と油だと思っていたものが、実は古き日本の建築様式を愛する似た者同士で、最後は価値観が一致して和解するという、如何にもな安心感のある結末。
 それなりにドラマは楽しめるものの、いくらコメディとはいえ、インテリアデザイナーと建築家、大工と家具職人の違いを無視したシナリオはさすがにリアリティを欠く。
 住宅地にはとても見えないTBS緑山スタジオに、家1軒を建てながら撮影したという意気込みは素晴らしいが、これまた三谷幸喜らしい蛇足気味のチェストのエピソードが、ストーリーに変化を加えたというよりは尺を伸ばすためだけに挿入したとしか思えないのが残念なところ。
 神主の香取慎吾、バーの客・戸田恵子、バーテンダー・真田広之など、三谷幸喜らしいバラエティ感のあるキャスティングも見どころか。
 日本では玄関ドアの外開きが常識だが、アメリカでは内開きというのが、外国映画で気づかなかった盲点。 (評価:2.5)

H story

製作:電通、IMAGICA、WOWOW、東京テアトル
公開:2003年08月02日
監督:諏訪敦彦 製作:塩原徹、長瀬文男、仙頭武則、松下晴彦 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 美術:林千奈 音楽:鈴木治行

風化した42年前の原作を前提に風化と言われても
 1959年のアラン・レネ監督"Hiroshima mon amour"(邦題:二十四時間の情事)をリメイクしようとする作品で、途中、フランス人女優のベアトリス・ダル(原作はエマニュエル・リヴァ)がスランプに陥ってしまい、撮影が頓挫してしまう。
 前後から作家の町田康が撮影に加わり、ベアトリス・ダルとともに美術館や市内巡りに移るが、冒頭よりメイキング風に撮影され、リメイクからドキュメンタリーに方向転換したように見せているが、当初からフィクション。
 監督の諏訪敦彦が広島出身でそれがリメイクの動機として描かれるが、原爆投下から14年後に制作された"Hiroshima mon amour"のシナリオを全く変えずにリメイクすることの意味、半世紀以上経って戦争を知らない世代が原作スタッフと同じ気持ちにはなれないこと、ヒロシマが風化せざるを得ないことがテーマとなる。
 これを象徴するのが女優がスランプに陥る原因となる台詞「私はあなたのこと忘れるわ」で、それが14年後のヒロシマの記憶の風化であり、半世紀後の更なる風化に繋がる。
 町田との市内巡りでは、ヒロシマの記憶を微塵も感じさせないドキュメンタリー風映像に、無力感すら漂う。  それが喧噪の一夜が明けた原爆ドームでのラストシーンに繋がるが、記憶の風化という原作のテーマを改めて半世紀後に追認させられても、そんなことはこの映画を見なくても分かっていることさ、という感想しか生まれず、本作制作にどれだけの意義があるのか懐疑的になる。
 42年前の原作を観ていないと、おそらく本作の描いていることは半分も分からない。言葉の通じない町田とダルの広島市内巡りも嘘くさい。 (評価:2)

製作:「赤い橋の下のぬるい水」製作委員会(日活、今村プロダクション、バップ、衛星劇場、マル)
公開:2001年11月3日
監督:今村昌平 製作:豊忠雄、伊藤梅男、石川冨康 脚本:冨川元文、天願大介、今村昌平 撮影:小松原茂 美術:稲垣尚夫 音楽:池辺晋一郎
キネマ旬報:10位

老いてぬるくなったのは水ではなく今村
 辺見庸の同名小説ほかが原作。
 失業者の中年男(役所広司)が、インテリ・ホームレス(北村和夫)から聞いた、赤い橋の見える家に隠された金の仏像を探しに能登半島に行く話。その家に住む女(清水美砂)は、ストレスが溜まると体に水が溜まるという異常体質の持ち主で、主人公がセックスで潮を吹かせて水を抜いてやるうちに惹かれるようになる。
 主人公はバイトから漁師になり、生活費ばかり要求する妻子と別れることになるが、どうやらそれがホームレス同様の人間性の解放で、お宝の金の仏像は、女の水であるというオチが付く。これにカドミウム汚染の話まで引っ張り出され、純粋な人間らしさとは性の快楽というメタファーに満ちた観念が次々と繰り出されると、結局のところよくわからなくなり、今村らしい潮吹きのエンドクレジットで思考停止する。
 こうした作品はメタファーを弄り回してみたところで何かが得られるわけでもなく、きっと今村の中では自己完結したものがあるんだろうなと思いやるだけで十分で、なんか変な映画を見てしまったと鑑賞ノートに書いて、ジ・エンドとなる。
 それにしても赤い橋は、撮影のためにペンキを塗られたことがありありの光沢を放ち、倍賞美津子演じる老婆とインテリ・ホームレスの時代からの歳月が考慮されていない。
 今村らしくない手落ちに、老いてぬるくなったのは今村ではないかと妙な感慨に浸る。 (評価:2)

ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃

製作:東宝映画
公開:2001年12月15日
監督:金子修介 製作:富山省吾 脚本:長谷川圭一、横谷昌宏、金子修介 撮影:岸本正広 音楽:大谷幸 美術:清水剛

クマモン・ひこにゃんでもよかったモスラ・ギドラ
​ ​​​ゴ​​​​​​​ジ​​​​​​​ラ​​​​​​​第​25​作​​​​​​​、​​​​​​​第​3​期​​​​​​​ゴ​​​​​​​ジ​​​​​​​ラ​​​​​​​第3​作​​​​​​​。​監​督​は​平成ガメラの金子修介。ただ、この起用が良かったかは疑問。
 本作ではゴジラ第1作の1954年以来、怪獣の襲撃は一度もなく、ゴジラは死んでいたと思われていたという前提。第3期ゴジラでは一作一作が別々の設定で作られているが、これまで20作以上もゴジラ関係映画が公開された中で、TVゲームのようにリセットされたこの設定は、違和感以上に白ける。
 ゴジラのほかにバラゴン・モスラ・(キング)ギドラが登場するが、旧シリーズの設定をリセットされ倭の国を守る神獣となっている。認知度の高いモスラとキングギドラが全く別物にされてしまう違和感は、長年ゴジラや東宝怪獣に親しんできた者には受け入れ難い。
 しかも劇中では、名無しの神獣で、自衛軍が「取り敢えずの呼称」として理由なく命名する。つまり、クマモン・ひこにゃんでもいいわけで、その通りにフォルムこそバラゴン・モスラ・キングギドラだが、ゴジラを含めてまったく個性を持たない怪獣になっている。
 そうした取り敢えず人気怪獣を出して戦わせておけばいいといった制作姿勢が表れていて、怪獣映画ではなくオカルトな伝奇映画になっている。
 50年ぶりにゴジラが復活。それに呼応して倭の国を守るために、護国聖獣伝記に記されたバラゴン・モスラ・ギドラが妙高山・池田湖・富士樹海に姿を露わす。主人公はTV制作会社の女性レポーターだが、取材するだけ。父(宇崎竜童)が防衛軍の准将で、ゴジラvsバラゴン・モスラ・ギドラを経て、ゴジラを倒す。
 登場する怪獣をゴジラ・バラゴン・モスラ・キングギドラだと思わなければ、そこそこ楽しめる。しかし、これはゴジラ映画である必要はなく、むしろそうすべきで、興行のためにゴジラを弄ぶプロデューサーの富山省吾と金子の過去作品に対するリスペクトのなさだけが、口の中に苦い味を残す。
 ミニチュアセットは箱根・大涌谷、横浜。佐野史郎、南果歩、大和田伸也、村井国夫、天本英世、津川雅彦、中村嘉葎雄と俳優はそれなり。 (評価:1.5)