海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1974年

製作:東宝、俳優座映画放送
公開:1974年11月02日
監督:熊井啓 製作:佐藤正之、椎野英之 脚本:広沢栄、熊井啓 撮影:金宇満司 音楽:伊福部昭 美術:木村威夫
キネマ旬報:1位

海外娼婦の実像を描く田中絹代名演の秀作
 山崎朋子のノンフィクション『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』が原作で、映画も女性史研究家(栗原小巻)がボルネオのサンダカンに売られた天草の娼婦から話を聞き取るという形式をとっている。この娼婦の若き日を高橋洋子が熱演し、老いた老婆を田中絹代が演じ、田中はこの演技でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。
 朝鮮人従軍慰安婦問題がクローズアップされる以前に公開された映画で、この映画が日本人の海外娼婦を描いたという点で、従軍慰安婦の実際を知る上でも価値のある作品となっている。
 そのような政治問題を離れても、この作品は貧しかった時代と戦争・植民地の実像を秀れて客観的に描いた歴史映画で、とりわけ田中と高橋の演技は素晴らしく、熊井啓の代表作ともなっている。 (評価:4)

製作:松竹、橋本プロダクション
公開:1974年10月19日
監督:野村芳太郎 製作:橋本忍、佐藤正之、三嶋与四治 脚本:橋本忍、山田洋次 撮影:川又昂 美術:森田郷平 脚本:橋本忍、山田洋次 撮影:川又昂 美術:森田郷平
キネマ旬報:2位
毎日映画コンクール大賞

出雲を放浪する父と子の心情を日本の叙情の中に描き出す
 松本清張の同名小説が原作。
 かつて癩病患者の父(加藤嘉)と出雲を乞食のように放浪していた少年(春田和秀)が、終戦のどさくさで戸籍を偽造し、才能を花開かせて人気ピアニストとなり、政界の大物(佐分利信)の娘(山口果林)と婚約するが、過去を知る元巡査(緒形拳)に見破られ、殺してしまうというもので、物語は事件後に担当刑事(丹波哲郎)が捜査していく過程として描かれ、事件のあらましと犯人(加藤剛)の動機、犯人の過去が明らかになるという構成になっている。
 事件が起きるのが今はなき国鉄の蒲田操車場で、犯人の愛人(島田陽子)が血痕の付着したシャツを切り刻んで中央線の車窓から吹雪のように散らして証拠隠滅を図るシーンが有名で、事件を追う刑事が「東北訛のカメダ」を追って、秋田や出雲、伊勢へと旅するシーンが、松本清張らしく鉄道ファンにはたまらない旅情を誘う。
 終盤、犯人が新曲「宿命」の発表演奏会でオーケストラと共にピアノを弾き始めるのと並行して、逮捕状請求の捜査会議で刑事が全容を説明し、同時に犯人の曲に込めた思いをかつて父子で放浪した心象風景として描き出すという手法をとっていて、泣かせの野村芳太郎らしく父と子の心情を日本の叙情の中に描き出している。
 刑事役の丹波哲郎の演技が大袈裟なのと、過去を消してしまった犯人を少年時代の面影から本人と見分けるのはいささか無理があるだろうという点を除けば、よくできた作品で、無駄足を踏んで捜査がなかなか捗らずに刑事が鬱々とするのもいい。
 父親役の加藤嘉が秀逸の演技で、ハンセン氏病施設で刑事に犯人の写真を見せられて、「おらあ、こんな人知らねえ」と叫ぶシーンが感涙もの。
 本作のもう一つの主役であるピアノと管弦楽曲組曲「宿命」は菅野光亮の作曲で演奏も本人。
 車窓から吹雪を散らす名シーンは今の鉄道では無理で、藁葺き屋根の山村風景ともども、日本から抒情の失われたことを痛感させる。
 丹波哲郎の相棒刑事に千葉県知事の森田健作。 (評価:3.5)

製作:日活映画
公開:1974年9月21日
監督:神代辰巳 製作:三浦朗 脚本:神代辰巳 撮影:姫田真佐久 美術:横尾嘉良

新しい時代に生まれ変わることのできない女たちを描く哀歌
 清水一行の『赤線物語』が原作。
 4月の売春防止法施行を前にした昭和32年新年、玉の井の特殊飲食店・小福で働く売春婦たちの一日を描く。
 ヤクザ者のヒモ(蟹江敬三)に惚れて稼ぎをそっくり貢いでいるシマ子(宮下順子)、堅気の男(古川義範)と結婚して荒川のアパートに引っ越したものの性生活に不満で、小福に立ち寄ったついでに客を取ってしまう公子(芹明香)、新春早々、繁子(中島葵)の作った一日の客取りの最高記録26人に挑戦する直子(丘奈保美)、その繁子は5年経って客が減ってしまったため夜明けにひっそりと品川に店替えするという、女たちの哀歌が綴られる。
 BGMはそれぞれの売春婦たちの鼻歌で、時折挿入される滝田ゆうのイラスト共々、いやが上にも哀愁を盛り立てる神代辰巳の演出がいい。
 タイトルは、東向島にあった赤線玉の井には路地の入口のあちこちに「ぬけられます」の看板があったことから。玉の井の象徴ともいえる「ぬけられます」の看板とは裏腹に、玉の井の女たちはこの人生の隘路を抜けることができないという悲しさが、ユーモラスなエピソードの裏にどんよりと重く流れている。
 冒頭、昭和34年の成婚前の明仁皇太子と正田美智子さんがテニスをする姿が映し出され、ラストの一日の終わりにNHKラジオから君が代が流れる。
 戦後復興を遂げた日本が、新しい時代へと生まれ変わろうとしている中で、売防法と共に時代から切り捨てられていく女たちの生まれ変わることのできない姿を描く秀作。
 小福の経営者夫婦に絵沢萠子、殿山泰司。 (評価:3.5)

製作:人力飛行機舎、ATG
公開:1974年12月28日
監督:寺山修司 製作:九条映子、ユミ・ゴヴァース、寺山修司 脚本:寺山修司 撮影:鈴木達夫 音楽:J・A・シーザー 美術:粟津潔
キネマ旬報:6位

寺山修司の心象を通して描かれる青森の原風景
 寺山修司の自伝的作品。作品中に同名歌集の歌が詠まれるが、寺山は歌人でアングラ劇団・天井桟敷を主宰した。天井桟敷は演劇実験室を標榜し、本作も実験的・前衛的映画だが、今見ても斬新さは古びていない。
 私(寺山)の少年時代の心象風景が描かれ、心象は誇張されて描かれるので一般の映画を見慣れた目にはかなり奇異に映る。フィルムも現像で彩度が強調され、部分的にカラーフィルターを掛けられている。その映像はサイケデリックかつ幻想的で、不思議な空間に観客を誘う。
 映画は母に呪縛された少年が人妻と駆け落ちするという話を軸に、サーカス団、恐山のイタコ、生まれた子を間引く女が、戦時中の風景とともに少年の世界を描きだす。映画は中盤で、これが大人となった私が制作している映画の劇中劇で、私が少年時代の記憶を改変した虚構だと明かす。ここに至って、少年が白塗りの顔であった意味、仮面=虚構の記号性がわかる。
 ここからは記憶の真実性と創作の関係性といった寺山自身のテーマになり、一方では美化された記憶が突き崩されていくが、最終的には母から逃れようとして逃れられない私が、上京して新宿の雑踏で古里の呪縛と対峙するという形で終わる。それは戦後、古里を出て上京した人々が総じて感じていたものだったのかもしれない。  公開時、前衛性に面喰いながらも寺山の土着的な感性に圧倒された記憶がある。土の香りとやませの寒さが伝わってくる。この作品は極めて寺山の私的映画でありそれ以上でもそれ以下でもないが、寺山を通して彼の見た青森の原風景を感じとることができる。
(評価:3)

製作:映画同人社、ATG
公開:1974年8月3日
監督:黒木和雄 製作:黒田征太郎、富田幹雄、葛井欣士郎、宮川孝至 脚本:清水邦夫、田辺泰志 撮影:田村正毅 美術:山下宏 編集:浅井弘 音楽:松村禎三
キネマ旬報:5位

24歳の松田優作が初々しい
 竜馬の暗殺前の3日間を描いたフィクション。滞在していた近江屋の娘(桃井かおり)をめぐって、中岡慎太郎(石橋蓮司)とライバル関係にあり、武力倒幕を主張する中岡とは友人でありながら政治的には対立しているという設定。
 近江屋の隣家の女(中川梨絵)に夜這いを掛け、その弟(松田優作)が薩摩藩配下で竜馬暗殺を狙い、これら登場人物を中心にドラマが展開される。
 本作の見どころは、16ミリモノクロフィルムを使ったコントラストの強い映像で、不思議な光沢感と幻想感があり、ドキュメンタリータッチのカメラワークを駆使した臨場感とリアリズムが映像的にも演出的にも大きな見どころとなっている。
 エンタテイメントな映像作品としては、黒木和雄屈指の出来栄え。
 竜馬を演じる原田芳雄がはまり役で、硬軟両面を併せ持つ無頼漢ぶりを演じる。えんじゃないかの踊りの中に紛れ込んで刺客を逃れるシーンでは、石橋蓮司と二人で女装して歌舞伎者を演じるが、原田はピッタリで、いやいや同じ格好をさせられる石橋の滑稽さが楽しい。
 作品的には坂本龍馬ものの一つでしかなく、竜馬暗殺の真相に迫る謎解きものでもなく、幕末の青春群像を描くというエンタテイメント以上のものはない。
 24歳の松田優作が初々しい。 (評価:2.5)

愛と誠

製作:松竹映画、芸映プロ
公開:1974年07月13日
監督:山根成之 製作:樋口清、秦野貞雄 脚本:石森史郎、山根成之 撮影:竹村博 音楽:馬飼野康二 美術:横山豊

映画で劇画表現に挑戦した山根成之の意欲作
 梶原一騎原作・ながやす巧作画の同名漫画が原作。監督に山根成之、共同脚本に石森史郎、音楽に馬飼野康二。
 公開時に観た時に衝撃的だったのは、劇画を映画で表現するとどうなるか? ということに挑んだ山根成之のアナーキーさだった。
 物語は、子供の頃に愛を助けた誠が額に傷を負い、それから数年後、再会した愛が不良となった誠を援助するという学園を舞台にした純愛物語。梶原一騎の破天荒な原作だけに、芝居がかったストーリーや台詞のアナクロ感が映画でどう表現されるかだが、石森はこれを逆手にとってシリアスな原作を笑って楽しめる脚本にした。
 山根の演出は、映画の1カットを劇画の1コマとして定着させることに挑戦し、成功している。冒頭の誠がスキー板で怪我をするシーンや空が赤く染まるシーン等では、モノクロとカラーのコントラストで劇的効果を演出。ストップモーションなど劇画的映像表現に見どころは多い。
 俳優の演技も学芸会的な棒の台詞回しだが、ウエットになるのを避けた劇画的でドライな芝居がかった演出になっている。
 誠役に西城秀樹、愛役に役名を芸名にした新人・早乙女愛。岩清水役は仲雅美。『津軽じょんがら節』(1973)の織田あきら、中川三穂子も出ている。 (評価:2.5)

製作:東映京都
公開:1974年1月15日
監督:深作欣二 脚本:笠原和夫 撮影:吉田貞次 美術:井川徳道 音楽:津島利章
キネマ旬報:7位

寒さが堪えるようになって舞台は回る
「仁義なき戦い」シリーズの第4作。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
 第3作「代理戦争」の続編として描かれ、神戸の広域暴力団明石組と神和会の抗争が広がる中で、明石組傘下の広能組・打本会と、神和会傘下の山守組との抗争が激化、中立派の暴力団、マスコミ、市民を巻き込んで、暴力団撲滅のための頂上作戦が警察によって展開されていく。明石組と神和会のモデルは山口組と本多会。
 ナレーションでも語られる通り、この抗争の主役は各暴力団組長ではなく、ダイナマイトにまで抗争をエスカレートさせていく若い暴力団員たちで、映画としては広島抗争の歴史を追いかけていく形をとる。
 すでに第1作の敗戦の混乱からヤクザの道を選んでいった広能たち若者の青春物語ではなくなり、ただ抗争のために血を流す殺伐とした若者たちの姿という、舞台となる1963年の高度経済成長に突き進む時代を映し出す。
 その中で目立つ役回りが原爆スラムで育った気弱なチンピラの小倉一郎で、義理のあった松方弘樹を殺すことになる。
 後半は頂上作戦により各暴力団組長が収監され、広能の出番もなくなって、舞台は回った感が強い。
 ラストシーン、裁判所の廊下の広能(菅原文太)が武田(小林旭)に言う「もうわしらの時代は終いで。口が肥えてきちょって、こう寒さが堪えるようになってはのぅ」が本作を一言で言い表す台詞。
(評価:2.5)

製作:「わが道」製作実行委員会、近代映画協会
公開:1974年9月7日
監督:新藤兼人 製作:高島道吉、佐藤不器、能登節雄、赤司学文 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 美術:大谷和正 音楽:林光
キネマ旬報:6位

出稼ぎ労働者にも顔があることを主張する物語
 佐藤不器、風見透の裁判闘争記録「ある告発――出稼ぎ裁判の記録」の映画化。
 十和田の出稼ぎ労働者(殿山泰司)が行き倒れ、身元を示す手掛かりがありながら東京・大井警察署、港区役所の不作為により半年間身元が判明せず、妻(乙羽信子)が遺体引き取りに上京すると、身元不明人として慈恵医大の研究解剖用に供されていたという昭和41年の事件の再現フィルム。
 記録をもとに丹念に事件を追っていて、当時の地方の状況、二百万人の出稼ぎ労働者が置かれた状況、都市での扱いなどが、男の足跡を追うことによって炙り出されていく。
 戦力にならない労働力として弾き出された男の悲惨な運命よりも、彼を単に機械同様の労働力としか見ない斡旋人や使用者、警察、役所(港区も十和田市役所も含めて)の人間性を欠いた姿が浮き彫りにされる。それは警察署長が男を顔のない労務者としか認識しない姿勢に表れていて、本作はその妻が、男には顔があることを主張する物語となっている。
 それがもっともよく描かれているのは公判の証言記録で、妻のために必死に思い出そうとする者や、逆に保身のために虚偽の証言をする者たちが、男を取り巻く社会の様相を示す。
 勝訴して、警察・港区との戦いに勝ち、夫の無念を晴らしたハッピーエンドのように見えるが、実は妻は十和田の人々にも見切りをつけ、夫の骨を抱いて生まれ故郷の九州へと旅立ち、都会だけでなく出稼ぎを当然とする地方の人々もまた同罪であることを示して終わる。
 時代は高度成長期だったが、社会の本質はそれほど変わってなく、出稼ぎ労働者が格差社会や外国人労働者になっただけという点で、本作は今も同じ問題を突き付けている。 (評価:2.5)

卑弥呼

製作:表現社、日本ATG
公開:1974年03月09日
監督:篠田正浩 製作:岩下清、加藤正夫、葛井欣士郎 脚本:富岡多恵子、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 音楽:武満徹 美術:粟津潔

悠久の神話世界と暗黒舞踏派の呪術的な演技がお薦め
 TUTAYAでは時代劇に分類されているが、もちろん間違いで邪馬台国を舞台とする史劇。ただ、よくある古代劇や神話を期待すると面喰う、前衛的ファンタジー。
 物語は、天つ神の卑弥呼の国が国つ神を平定していく中で、卑弥呼(岩下志麻)が異母弟(草刈正雄)に恋したために神託に疑いをもたれて幽閉され、臺與(とよ)に巫女の座が移るまでを描く。映画では政治は大君が執行し、卑弥呼は神権政治の巫女で、三國連太郎演じる長老が卑弥呼を背後で操るという構図になっている。  中国の歴史書を基に、卑弥呼が男に恋したために政権が揺らいだという話になっており、脚本は富岡多恵子と篠田正浩が担当した。
 本作は邪馬台国を舞台にした古代ファンタジーであり、なによりも雄大な自然が美しい。ロケ地は北海道と思われるが不明。公開から40年経つが、鹿や梟の幽玄な森とセットの様式的な映像美は今見ても素晴らしい。その中に投げ込まれた巫女たちのメイク、土方巽と暗黒舞踏派の呪術的な演技が、悠久の神話世界へと誘う。とりわけ暗黒舞踏派は、個人的にお薦め・必見。
 俳優陣も若き日の草刈正雄、河原崎長一郎、加藤嘉が懐かしい。三國連太郎も怪優振りを如何なく発揮する。 (評価:2.5)

製作:映画「襤褸の旗」製作委員会
公開:1974年5月1日
監督:吉村公三郎 製作:木原啓允、瀬戸要、山崎守邦 脚本:宮本研 撮影:宮島義勇、関根重行 美術:戸田重昌 音楽:岡田和夫
キネマ旬報:8位

国家権力の前に敗れ去った悲しく虚しい農民たちの物語
 足尾銅山鉱毒事件を告発した田中正造の半生を描くもので、襤褸(らんる)はボロのこと。タイトルは、鉱毒被害を受けた渡良瀬川流域・栃木県谷中村の農民たちが、ボロ布で作った銅山操業停止請願の旗を立てて抗議したことから。
 映画制作時、千葉県三里塚の農民たちが新空港建設のための土地収用に対して激しく抵抗していて、国家権力対農民という構図が同じだったことから、映画の制作に全面協力。撮影は三里塚で行われ、農民や学生もエキストラで出演している。
 物語は、国会請願のために幟を立てて谷中村を農民たちが出発するところから始まる。利根川を渡ろうとして警官に弾圧され、請願は失敗。栃木県選出の代議士・田中正造が国会で鉱毒事件を追及するも富国強兵策の前に無視され、議員を辞職。幸徳秋水の助力を得て、天皇直訴に及ぶも狂人扱いされてこれまた無視。
 鉱毒を川底に沈めるため谷中村を遊水地にする計画となり、田中は谷中村に移住。以後、渡良瀬川の堤防破壊、強制立ち退きと土地収用が進む中、田中は抵抗を続けるが斃れてしまう。
 映画は淡々とこの間の経過を追うが、藁葺きの農家や広大な田圃の広がる農村風景が、ロケ地の三里塚と明治の谷中村を重ね合わせて少しも違和感がない。
 三國連太郎が田中正造を熱演。村の若者を演じる西田敏行、田村亮が若い。幸徳秋水に中村敦夫、鉱山主・古河市兵衛に志村喬。
 廃村になった谷中村は現在の渡良瀬遊水地となったが、谷中村の農民同様、映画に協力した三里塚の農民も国家権力に敗れ、明治と昭和に起きた農民一揆が今では何事もなかったかのように忘れられている現実が哀しく虚しい。 (評価:2.5)

あゝ決戦航空隊

製作:東映京都
公開:1974年9月14日
監督:山下耕作 製作:俊藤浩滋 脚本:笠原和夫、野上龍雄 撮影:塚越堅二 美術:井川徳道 音楽:木下忠司

鶴田浩二が任侠の思想ならぬ、特攻の思想を演じる
 神風特別攻撃隊の創始者とされる大西瀧治郎の、特攻隊誕生から終戦までを描く伝記映画。原作は草柳大蔵の『特攻の思想 大西瀧治郎伝』。
 インターミッションの入る3時間弱の大作で、特攻隊の歴史が学べるという点が見どころだが、捉えどころのない話がダラダラと続き、もう少しコンパクトさがほしかった。
 テーマ的には大西や海軍の首脳、航空兵たちの特攻の思想が主軸となるが、大西自身が精神論と現実論の狭間で揺れ動いていて、彼の真意がどこにあったかという点が描き切れていないのが残念。もっとも、そうした迷い、矛盾こそが人間そのものであるという考えに立てば、彼自身、戦争の渦中に合理的な考えを持ちえなかったということもできるが、映画はそれを描けたわけでもない。
 総じていえば、軍需局にいた大西は日本にはアメリカと戦う戦力のないことを熟知していて、開戦に反対、早期の収拾を具申していたが、軍部も天皇も徒に国民を死に駆り立てるだけで、現状を知らしめるために行った特攻も戦術として称賛され、大西自身、戦争に負けるのを覚悟で特攻に日本存立の最後の望みを託さざるを得なかったというように語られる。
 そのためには天皇を始めとして国民全員が特攻をするしかないと考える大西は、終戦を決定した天皇に、それならばなぜ開戦したのかと問う。大西は自決することで、特攻した航空兵たちに対する責任をとったが、国として特攻することこそが天皇の責任ではないかと。
 つまり、それが大西のいう特攻の思想ということになるが、わかりにくいテーマのためにむしろ迷走しているように感じられ、最終的には天皇の戦争責任がクローズアップされるという、わかりやすいラストになっている。
 大西を鶴田浩二が演じ、東映の俳優陣総出演のため若干任侠映画クサく、戦争娯楽作っぽい雰囲気が漂うが、内容は硬派。特撮がちゃちいのが残念。 (評価:2.5)

製作:芸苑社
公開:1974年01月26日
監督:山本薩夫 製作:市川喜一、森岡道夫 脚本:山田信夫 撮影:岡崎宏三 音楽:佐藤勝 美術:横尾嘉良 、大村武
キネマ旬報:3位

52歳の月丘夢路の濡れ場は誰も見たくなく不要
 原作は山崎豊子の同名小説。神戸銀行をモデルに銀行合併と財閥の暗躍を描いた内幕もの。
 合併相手は協和銀行がモデルだが、実際には太陽銀行と合併。さらに三井、住友と合併して、現在は三井住友銀行となっている。劇中の万俵家は岡崎財閥がモデルとされ、神戸銀行のほか、1965年に倒産した山陽特殊鋼にも関係していた。
 銀行合併を巡る話を軸に、特殊鋼専務の長男との確執、万俵家内のスキャンダルと硬軟両面の物語。経済ドラマでもあるため、この部分に興味がないと辛いが、上流家庭の内紛劇としてもよくできていて、休憩入りの3時間半を飽きさせない。もっとも、ドラマとしては面白いが、特別よくできたシーンがあるわけでもないので、繰り返して見る気にはならない。
 親子の確執を演じる佐分利信と仲代達矢が上手いが、愛人の毒婦・京マチ子と屈辱に耐える妻の月丘夢路がなかなかいい。小沢栄太郎、西村晃、二谷英明等々、豪華キャスト。
 劇中、月丘夢路が義父(仲代達矢の二役)に犯されるシーンがあるが、それまでの会話で十分わかることで、52歳の月丘の濡れ場など誰も見たくなく不要。 (評価:2.5)

仁義なき戦い 完結篇

製作:東映京都
公開:1974年6月29日
監督:深作欣二 脚本:高田宏治 撮影:吉田貞次 美術:鈴木孝俊 音楽:津島利章

わかりやすいドラマにはなったが、脂が抜けてしまった最終作
「仁義なき戦い」シリーズの5部作の最終作。原作は呉市の暴力団組長・美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いた同名小説。
 第4作「頂上作戦」の続編として描かれるが、広能(菅原文太)は収監中で出番がなく、画竜点睛を欠く感は否めない。全体としては頂上作戦ののち、山村組が政治結社・天政会に衣替えして生き残りを図る物語。
 ヤクザ体質を引き摺る守旧派・大友組組長を宍戸錠が演じているが、この役は第1作では千葉真一が演じている。
 一方、天政会会長の小林旭の世代交代を狙う現代派ヤクザを北大路欣也が演じ、新旧世代の内部抗争を描く。北大路は第2作の主役、山中正治役以来。
 笠原和夫が脚本から抜け、北大路欣也を中心にしてストーリーはわかりやすくなったが、笠原脚本のドロドロした生々しい緊迫感が弱くなり、小綺麗にまとまった感が、カオス的『仁義なき戦い』を期待する人には物足りないかもしれない。
 ロートルになった金子信雄や、山城新伍、田中邦衛、松方弘樹らも脂が抜けてミイラ化し、出所してきた菅原文太も老成して、若いモンの顔もわからないといって引退する。
 戦後を駆け抜けてきたヤクザの話は前作で終わっていて、テーマ的にも本作は前作の繰り返し、念押しにしか過ぎず、見せ場のシーンもないままに終わる。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎子守唄

製作:松竹
公開:1974年12月28日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純

下條正巳初登場で気合の入った練れたシナリオ
 寅さんシリーズの第14作。マドンナは十朱幸代で看護婦。
 本作から松村達雄に替り下條正巳が3代目おいちゃんとなり、最終作まで務めることになった。
 唐津で出会った、女房に逃げられたという男(月亭八方)に赤ん坊を押し付けられ、困った寅が柴又に連れ帰るエピソードを中心とした赤ちゃん騒動物語。
 熱を出した赤ん坊を連れて行った病院の看護婦(十朱幸代)に寅が一目惚れ。彼女の参加するコーラスサークルの鬚面青年(上條恒彦)と知り合い、青年が看護婦に片思いしているのを知って元気づけたところ、青年がプロポーズしてしまい、瓢箪から駒で相思相愛となり、あえなく寅が失恋してしまうというのが大筋。
 赤ん坊をめぐる騒動を中心にギャグが冴えていて、下條正巳初登場のためか、気合の入った練れたシナリオになっている。十朱幸代も庶民感があり、渥美清との絡みも良くて全体に安心感のある出来。
 もっとも後半はお約束のワンパターンで、勤労青年のコーラスサークルという、山田洋次らしいプロレタリアートな展開がいささか鼻につく。青年のボロアパートも京成関屋という、地元民でないとニュアンスの伝わらないローカル感が漂う。 (評価:2.5)

あさき夢みし

製作:ATG、中世プロ
公開:1974年10月26日
監督:実相寺昭雄 製作:東条あきら 脚本:大岡信 撮影:中堀正夫 美術:池谷仙克 音楽:広瀬量平

ジャネット八田が大根から達観に変身する
 鎌倉時代、4歳で即位、17歳で弟に譲位した御所(後深草天皇)の愛人・四条を主人公とした物語。『とはずがたり』の二条が元になっている。
 四条(ジャネット八田)は、思い人・霧の暁(岸田森)、御所(花ノ本寿)の異母弟・阿闍梨の子を産むがいずれも里子に出され、宮廷社会での男たちの弄びものであることを自覚する。京で踊念仏の西行を目にし、貴族仏教の天台・真言ではない、民衆のための仏教に心を奪われるようになる。
 絵師の才能を持つ四条は出家して西行のように放浪、老いて御所と再会した後、再び旅に出るというのが大筋。
 武家が権力を掌握していく時代を背景に、旧態然とした歌垣や遊びの雅の権威から変わることのできない宮廷が、時代から取り残されていく姿が描かれる。
 接写による顔のアップによる実相寺昭雄のいつもの映像手法は、余分な客観を排したことで登場人物たちの心象を切り取り、貴族たちの精神の衰退と武士の武骨なパワーを描くことに成功している。
 自己改革できない貴族社会の中で、四条は性人形でしかない自らの存在に疑問を持ち、自己解放を果たしていくというのがテーマで、始めは演技にもなっていないジャネット八田が、感情を持たない性人形としては意外と適役で、終盤では感情表現のなさがむしろ達観しているようにさえ見える。
 ジャネット八田は後にプロ野球の田淵幸一と結婚。ハーフ顔が人形風で役に合っている。 (評価:2.5)

宵待草

製作:日活
公開:1974年12月28日
監督:神代辰巳 製作:岡田裕 脚本:長谷川和彦 撮影:姫田真佐久 美術:横尾嘉良 音楽:細野晴臣

まったりとしているが、この気だるさが良いのかもしれない
 大正末期が舞台。アナキスト集団に属する金持ち息子の大学生・国彦(高岡健二)と水呑百姓の倅・平田(夏八木勲)が、身代金目的で華族令嬢・しの(高橋洋子)を誘拐して追われる身となるが、国彦は令嬢と以前温泉場の保養地で会ったことがあり、惹かれ合う二人と平田が、華族のガードマンの追跡を逃れ、仲良く3人で逃避行をするという奇妙な展開になる物語。
 セックスをしようとすると強烈な頭痛に襲われるという奇妙な持病のある国彦が、逃避行中にめでたく令嬢と北国の納屋でベッドイン。憲兵の服を奪って銀行強盗にも成功し、大金を手に入れた3人はそのまま満州に逃げようという話になるが、アナキスト仲間の政治テロを知った平田は初心に返って東京に戻る決心をし、国彦は令嬢を浜に残して満州に渡る漁船をチャーターするが、潜んでいた追っ手に殺される。
 ラストシーンは何も知らずに砂浜ででんぐり返しをする令嬢の夕景の美しいシーンで終わる。弘前ロケでの姫田真佐久の情景描写が美しく、ズームからアウトして全景に移るカメラワークが見どころ。大正時代を思わせる街並や路面電車、蒸気機関車など映像的には頑張っている。
 全編、「宵待草」などの鼻歌がBGMに入り、大正ロマン風というかヌーヴェルヴァーグ風というか、ゴダールのようなテイストが楽しめるが、とりわけ中盤までは絵と合わないぼそぼそしたアフレコとともにドラマにメリハリがなく、まったりとしているために眠くなる。
 そうした点では神代らしい演出の作品で、この気だるさがいいという人もいるかもしれない。
 セックス時の頭痛やでんぐり返しなど、神代的メタファーは意味不明。 (評価:2.5)

製作:東京映画、渡辺企画
公開:1974年06月29日
監督:神代辰巳 製作:田中収 脚本:長谷川和彦 撮影:姫田真佐久 音楽:井上尭之 美術:育野重一
キネマ旬報:4位

70年安保後の若者の閉塞感が色褪せて見える
 石川達三の同名小説が原作。1966年に佐賀県で起きた事件がモデルとされる。
 事件の概要は、学生の男女が交際していて、女が妊娠。結婚を迫られた男が山に連れ出して絞殺して逮捕される。ところが女はA型、男はO型で、嬰児はAB型だという結末。つまり男の子ではなかった。
 本作では、男(萩原健一)には裕福な伯父の娘の婚約者(壇ふみ)がいて、妊娠したのは家庭教師の生徒(桃井かおり)という設定。萩原は高校時代は学生運動をしていたが、今はノンポリで司法試験を目指している。そんなエリートへの道を進み始めた萩原が桃井の妊娠で躓き、殺人で将来を失うという青春の蹉跌=躓きを描く。
 70年安保で挫折したの若者たちの閉塞感、残り火のような学生運動や内ゲバが描かれ、目的を見失った主人公と女のデラシネの人生観が描かれ、当時観たときにはそれなりの共感もあったが、40年経つと当時の虚無感が色褪せて見え、本作が時代とともに意味を喪失した感がある。
 ストーリー上、気になるのは、桃井には別に肉体関係を持つ男がいたということになるが、それがまったく感じられないこと。意外性だけでなく、可能性は描いておいてほしかった。
 萩原と桃井は好演している。監督・神代辰巳だけでなく、脚本・長谷川和彦、撮影・姫田真佐久、音楽・井上堯之となかなかの布陣。日ソ合作『モスクワわが愛』の併映作品だったが、メインを完全に食った。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎恋やつれ

製作:松竹
公開:1974年8月3日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純

宮口精二の演技が寅次郎を食うほどに見事
 寅さんシリーズの第13作。マドンナは吉永小百合。
 『男はつらいよ 柴又慕情』(1972、第9作)のOL歌子の再登場で、前作で小説家の父(宮口精二)の反対を押し切って結婚したものの、夫が病死して津和野の婚家で嫁として姑に苛められているという設定。
 前作の金沢、本作の津和野と、マドンナ・吉永小百合のアンノン路線が続くが、役どころといい演技といい、こちらも前作を引き継いでいて、当時の吉永のアイドル女優としての立ち位置がわかる。
 津和野で図書館に勤めていた歌子は、寅に偶然出会って上京を決意、婚家の籍を抜いたかどうか不明のまま、女としての生き甲斐を求めて再就職先を探す。最終的には伊豆大島の子供のための養護施設に勤務するという、これまた吉永らしい設定なのが白けるが、シナリオの出来はまずまず。
 プロローグは寅が旅先で結婚相手(高田敏江)を見つけ、さくらとタコ社長が会いに行くという、逆パターンのエピソードで、タコ社長がいい役どころ。
 歌子と再会してからの話の中心は、寅が取り持つ歌子と父との和解で、ウエットながらも宮口精二の演技が渥美を食うほどに見事なのが見どころ。
 寅が静かに寅屋を出て行くシーンも泣かせどころで、ラストシーンで歌子に会いに伊豆大島に立ち寄ったのかと思わせて、忘れていた冒頭のエピソードに還るのも洒落ている。 (評価:2.5)

製作:日活
公開:1974年3月23日
監督:藤田敏八 製作:三浦朗 脚本:中島丈博、桃井章 撮影:萩原憲治 美術:山本陽一 音楽:石川鷹彦
キネマ旬報:9位

感傷主義に流されるフォークソング的青春の挫折
 盛り場で知り合った17歳少女とバイト青年が同棲・結婚・出産を経て、引っ越しを繰り返しながらも、少女が精神病となって夫婦生活が崩壊していく様を描く青春哀歌。
 かぐや姫の同名曲が主題歌、「神田川」もBGMに使われ、山本コウタローも脇役で出演するなど、70年代前半のフォークソング的青春の挫折をテーマにするが、貧しくも必死に生きる男女の悲劇という情緒的な感傷主義だけでは心に残るものはない。
 この四畳半夫婦を演じるのが秋吉久美子と高岡健二で、鶏肉に食らいつく秋吉の狂女ぶりがなかなかイケてるが、なぜ狂ってしまったのかが今ひとつ不明瞭で、これが本作がセンチメントだけで終わってしまった原因となっている。
 直接的には大家が鶏肉を捌くのを見てしまったことがトリガーで、一家心中のあった部屋に住んだこと、さらにはそれまでの経済的・精神的ストレスや未熟さと、そうした中で繰り返された引っ越しということなのだろうが、新人の秋吉の演技力不足もあって、可憐さだけでは生活に疲弊し精神を病んでいく少女の内面を伝えられていない。
 河原崎長一郎・長門裕之・石橋正次・小松方正・樹木希林らが脇を固めるものの、転居によって次々と交替していくためにドラマを支え切れていない。
 そうした中で、中央線沿線、幡ヶ谷、新宿、葛飾と転居するたびに替る東京の70年代風景が懐かしい。 (評価:2)

修羅雪姫 怨み恋歌

製作:東京映画
公開:1974年06月15日
監督:藤田敏八 製作:奥田喜久丸 脚本:長田紀生、大原清秀 撮影:鈴木達夫 音楽:広瀬健次郎 美術:樋口幸男

修羅雪姫、社会主義者たちの論理に組み伏せられる
 前作の続編。小池一夫原作、上村一夫作画の同名漫画が原作。監督は藤田敏八。
 殺し屋となった雪(梶芽衣子)は警察に追われる身に。雪が警官を切りながら手前に進んでくる冒頭の長回しのショットは、梶の貫録たっぷりの演技でかっこいい。殺陣も少しはよくなった。捕縛されて刑場に送られる途中、特高(岸田森)に拉致され、腕を見込まれてエージェントになる。幸徳秋水風社会主義者(伊丹十三)の住み込み女中となって潜入。大逆事件風事件の真相が書かれた秘密メモの奪取と伊丹の殺害を命じられるが、逆に伊丹に説得されて修羅雪姫らしく反権力側に寝返る。伊丹は特高に逮捕・拷問され、雪が逃げ込んだ伊丹の弟(原田芳雄)の住む下谷の貧民窟に瀕死で帰される。伊丹の妻(吉行和子)の復讐の後、貧民窟が住民ごと焼き払われ、雪と原田が権力への復讐に燃える・・・といった物語。
 芸達者を集め、明治後期を舞台にした反権力劇として重厚な作りにはなっている。しかし、雪が個人的復讐ではなく反権力側に立った時点で、梶の恨みに燃えた瞳は戸惑いに揺れる。
 梶の着る和服も地味になって、血で真っ赤に染まる白ではなくなる。梶の歌う主題歌もなく、修羅雪姫が社会主義者たちの論理に組み伏せられ、復讐に政治色を持ち込んだ反権力映画になってしまったのは、1974年という政治の季節の燻った残り火のせいか? (評価:2)

無宿 やどなし

製作:勝プロダクション
公開:1974年10月4日
監督:斎藤耕一 製作:勝新太郎、西岡弘善、真田正典 脚本:中島丈博、蘇武道男 撮影:坂本典隆 美術:太田誠一 音楽:青山八郎

青い海もセピア色がかっているのが寂しい
 勝新太郎と高倉健が共演したということ以外に見どころのない作品で、出所した前科者2人が、健さんは復讐のため、勝新は海底に眠るお宝探しのための旅を続け、脚抜け遊女の梶芽衣子が道連れとなり、ヤクザ者が健さんと梶を追うという展開。
 ベースはアラン・ドロン主演の『冒険者たち』(1967)だが、健さんと勝新ではじっとり日本映画風で、3人がやり直しのために夢を追うというフランス映画の洒脱さも楽しさもない。
 別々に見果てぬ夢とニヒリズムを追う2人という展開からは、宝は見つからず、結末がつかないことは容易に想像できるため、ラストは2人が死ぬ『俺たちに明日はない』しかないが、物語はその通りになり、梶だけが生き残って幕となる。
 ストーリーに山場があるわけでもなく、復讐と宝捜しというだけでドラマ性もエピソードの起伏もない旅が延々と続き、至って退屈な物語となっているが、それを救うのが製作者でもある勝新の演技で、大根の健さんだけではとても話が持たなかった。梶もそれなりに崩れた遊女を熱演して、眠気を覚ましてくれるのは立派。
 斎藤耕一の映像はそれなりに美しいが、『津軽じょんがら節』などで見せたインパクトはなく、青い海もどこかセピア色がかっているのが寂しい。
 ヤクザ者に安藤昇、山城新伍、石橋蓮司と定番すぎるが、音楽にバリエーションがないのも単調さを奏でていて、宿無しならぬ制作費が金無しだったのか。 (評価:2)

製作:日活映画
公開:1974年8月14日
監督:藤田敏八 製作:岡田裕 脚本:内田栄一 撮影:萩原憲治 美術:横尾嘉良 音楽:木田高介
キネマ旬報:10位

秋吉久美子が目くらましの妹弾を乱射する
 妹は可愛いという幻想と誤解に基づいて企画された映画で、同年3月に公開された『赤ちょうちん』で人気の出た秋吉久美子を主演においたアイドル映画の作りになっている。
 このため、冒頭からお姫様ドレスの秋吉が登場し、リカちゃん人形のようにヌードを含めた衣装替えをして、さまざまな"妹"カットによる表情やポーズを交えて、全観客の妹・秋吉の可愛らしさを引き出している。
 秋吉はそれに応えて十分可愛く、それが本作最大の見どころとなっているが、内容は薄く、映画評論家も目くらましの妹弾を喰らってキネ旬10位にしてしまった。
 妹は可愛いものだという先入観なしに見れば、兄の林隆三が妹弾を喰らっている理由がわからない。兄が近親相姦的な思いを妹に抱いているようには見えないし、むしろ張り倒したくなるような性格の妹で、顔が可愛ければ兄は妹の魔力に振り回されるという幻想だけを頼りに物語は進むため、リアリティのない設定に輪をかけてリアリティのないドラマとなっている。
 亭主が行方不明となって兄だけしかいない実家に出戻った妹が、実は過失で亭主を死なせていたというのが伏線で、亭主の兄弟たちが大騒ぎするというストーリー。
 その長兄の伊丹十三がバイで、それを妻に見られて一家心中とか、林隆三の廃業した食堂がヤクザの地上げに遭っているとかというエピソードを適当に散らしながら、最後は妹自身が行方不明となり、兄が廃業した食堂の名で鎌倉海岸で屋台のおでん屋を開いて妹を探すというそれなりのエンディングになっている。
 別の見どころとしては半世紀近く前の高田馬場、飛鳥山、鎌倉などの風景が楽しめる点で、高円寺に至っては農民まで拝めるのが隔世の感がする。 (評価:2)

ゴジラ対メカゴジラ

製作:​東​宝​映​像
公開:1974年03月21日
監督:福田純 製作:田中友幸 脚本:福田純、山浦弘靖 特技監督:中野昭慶 撮影:逢沢譲 音楽:佐藤勝 美術:薩谷和夫

復帰後の沖縄で、なまはげ巨大シーサーが立ち上がる!
 ゴジラ第14作。東宝チャンピオンまつりで公開。
 1972年に本土復帰し、75年の海洋博を控えた沖縄が舞台というメモリアル作品。
 沖縄の守護神シーサーの怪獣キングシーサーを呼び覚ます置物と言い伝えを軸に、玉泉洞に侵略基地を置く宇宙人が操るスペース・チタニウム製ロボット怪獣メカゴジラの乱暴狼藉と、これに立ち向かうために怪獣島からやってくるゴジラ+キングシーサーの戦い。スペース・チタニウムの破片の謎、置物を奪おうとする謎の一味、言い伝えにインターポールも絡んだミステリアスな展開。
 怪獣的にはキングシーサーが二足歩行するのに違和感がある。必殺技を持たないために格闘するだけだが、なまはげのようでイマイチ。メカゴジラが東映合体ロボットもののように手足にミサイルを装備しているのも賛否の分かれるところ。怪獣vs巨大ロボットというコンセプトでいいのか? 何よりブリキ感が漂い、鉄人28号を連想する。
 沖縄の娘が万座毛に向かってキングシーサーを呼び出す歌も普通の歌謡曲でしっくりこない。なぜ琉球旋律にしなかったのか?
 岸田森、田島令子、平田昭彦、小泉博、が出演。宇宙人は人間に化けていて、死ぬと猿の惑星になる。 (評価:2)

伊豆の踊子

製作:​東宝、ホリプロ
公開:1974年12月28日
監督:西河克己 製作:堀威夫、笹井英男 脚本:若杉光夫 撮影:萩原憲治 美術:佐谷晃能 音楽:高田弘

山口百恵以外に何を見せたいのかわからない
 川端康成の同名小説が原作。都合6回映画化されていて、新しい順に①山口百恵・三浦友和、②内藤洋子・黒沢年男、③吉永小百合・高橋英樹、④鰐淵晴子・津川雅彦、⑤美空ひばり・石濱朗、⑥田中絹代・大日方傳。この映画は①山口百恵・三浦友和。
 山口百恵、15歳の映画初主演作で、14歳の踊子の役を違和感なく演じているのが見どころ。デビュー後間もない、まだ幼さの残る少女っぽい表情がいいが、異性に対しての恥じらいや心ときめく演技ができていないのが、やはり素人。
 一方の三浦友和は、バンカラな高橋英樹など主人公の私を演じた他の俳優に比べれば純真さがあって、よほど旧制高校の学生さんらしく見える。
 酌婦おきみ(石川さゆり)と踊子が幼馴染というエピソードが入るが、これまた石川さゆりの演技力不足もあってエピソードとして生きてなく、全体に脇役陣の演技力が今一つのこともあって、山口百恵以外に何を見せたいのかがわからない。
 西河克己は、③吉永小百合・高橋英樹の1963年版に続く2回目の監督だが、アイドル売り出しのための映画として若干やっつけ仕事のところがあって、前作同様にいささか俗っぽいだけの青春映画『伊豆の踊子』になっている。
 大人になってからの回想を意図した宇野重吉のナレーションも中途半端で、素人臭い作品を締めるためだったのだろうが、むしろ浮いている。
 踊子の兄(中山仁)の義母を演じる一の宮あつ子が、唯一まともな演技。 (評価:2)