海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1972年

製作:東宝、新星映画
公開:1972年3月12日
監督:深作欣二 製作:松丸青史、時実象平 脚本:新藤兼人 撮影:瀬川浩 美術:入野達弥 音楽:林光
キネマ旬報:2位

国家の暴力の前にはヤクザの暴力など可愛いもの
 結城昌治の同名小説が原作。
 敵前逃亡罪で処刑された富樫軍曹(丹波哲郎)の未亡人(左幸子)が夫の死の真相を探る物語。タイトルからは戦記物がイメージされるが、"軍旗はためく下"で、虫けらのように死んだ兵士の悲惨を描く反戦映画で、敵に向かう国家の暴力ではなく、内なる国民への国家の暴力がテーマになっている。
 『仁義なき戦い』(1973)に繋がるカメラワークや演出・編集が随所に見られ、暴力の本質を炙り出すための過激な描写も多いが、戦争によって内に向けられた国家の暴力の前には、ヤクザの暴力など可愛いもので、深作の国家権力とその執行者たちに対する憤りと、国家による戦争への憎しみが伝わってくる。
 その最たるものが、終戦後に突撃命令を下す気の狂った小隊長(江原真二郎)から身を守るための上官殺しで処刑された富樫が、戦没者として慰霊されることもなく、多くの国民を死に追いやったA級戦犯の岸信介が戦後首相になる不条理を説くもので、8月15日に天皇から菊を献花される資格もないが、理由もないと突き放す。
 未亡人が最初に出会う寺田上等兵(三谷昇)は富樫が名誉の戦死だったと褒めるが、他の者たちは反する証言をする。巡り巡って寺田が保身のために嘘の証言をしていたことがわかるというストーリーがよく出来ていて、処刑される前に僅かな米を食べる最後の晩餐のシーンが、兵士たちのやりきれない悲しみを描いて感動的。
 もっとも真実を知っている兵士たちの証言が食い違っていたり、過去との繋がりを断っているはずの寺田が、なぜ富樫以外に処刑された兵士の遺族の消息を知っているのかというのは気になるところだが。
 戦争の記録フィルムを使わずにスチールと効果音で想像を喚起させ、ストップモーションを使って余韻を残す深作ならではのドライな演出が堪らない。 (評価:3.5)

製作:松竹
公開:1972年10月28日
監督:斎藤耕一 製作:上村務 脚本:石森史郎 撮影:坂本典隆 美術:芳野尹孝 音楽:よしだたくろう
キネマ旬報:4位

少女の旅立ちを瑞々しく描く青春映画の佳作
 素九鬼子の同名小説が原作。
 16歳の女子高生が、家と学校が嫌になり、四国遍路の旅に出るという物語で、人との出会い、未知の体験を通して自立・成長していく過程が描かれる。
 彼女が母に宛てた手紙というモノローグ形式で旅の様子が語られるが、母一人子一人の家庭で、娘だけでなく、相互に依存し合う母の子離れの物語でもある。
 これがデビュー作となる高橋洋子が少女の旅立ちを瑞々しく演じ、スチルカメラマン出身の斎藤耕一が映し出す四国の海と山の自然、田園風景がまた瑞々しい。
 とりわけ、冒頭の番屋の暗闇の中で少女が蝋燭の火を吹き消すシーンからの暗転、番屋の引き戸を開けて外光が射し込む暗転からの転換は、少女の旅の始まりを象徴する秀逸な演出。番屋から出た少女が伸びをし、吉田拓郎の主題歌に乗せて歩き出すスナップショットの一連のシークエンスが、少女の解放感を描き出す。
 愛媛から高知にかけての海沿いをロードムービー風に旅していくが、旅芸人一座に出会い、善意だけではない、人間が生きるということの現実を知る。
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻るが如く漂泊の旅は終わりを告げ、少女は助けられた貧しい行商人と暮らし始めたことを母に報告。「この生活には何はともあれ愛があり、孤独があり、詩があるのよ」という文学少女らしい言葉で締めくくられる。
 少女が定住を決意するきっかけは、これがやはりデビュー作の秋吉久美子(公開時は小野寺久美子)演じる文学少女の自殺で、小説の中が本当の世界のように思えるという彼女の言葉に、現実から逃げずに現実に立ち向かうという、少女の旅の終着点を示す。
 娘の突然の出立に動揺し、男に頼らなければ生きていけない母を岸田今日子、人間の性を知り尽くした旅芸人一座の座長を三國連太郎、少女と心を通わす女芸人を横山リエが好演。 (評価:3)

製作:東宝映画
公開:1972年8月12日
監督:今井正、製作:望月利雄、内山義重 脚本:鈴木尚之 撮影:岡崎宏三 美術:村木与四郎
キネマ旬報:7位

複雑な心情の上等兵曹を地井武男が好演する反戦映画
 海軍特別年少兵は海軍中堅士官の養成を目的として昭和17年に創設された制度で、国民学校卒業後の1年間訓練を受けて前線に送り出された。1~4期まで17,000余名、戦死者は5,000余名。本作で描かれる硫黄島には3,800名の特年兵がいた。
 本作では、硫黄島で特年兵が玉砕するプロローグから、横須賀の海軍兵学校での1年を追憶し、彼らの生い立ちを描く。
 少年たちをしごく鬼教官は力の教育が信条の上等兵曹。愛の教育が信条の東大出の中尉とことごとく対立するが、しごくのは少年たちに生き延びる術を教えるためで、実のところは誰よりも少年たちを思っている。少年たちは家が貧しく、口減らし、親への仕送りのために給金をもらえる特年兵を志願していて、その実情を知る上等兵曹は父親代わりとなって、入隊した子供たちが独りでも生きていけるように自立心を育む。
 心の底では戦死を美化して少年を戦場に送り出すことを否定していて、愛の教育という中尉を偽善だと考えている。しかし兵学校の教官である以上、彼にできるのは少年たちが生き述べる術を教えることだけ。そうした複雑な心情を持った上等兵曹を地井武男が好演する。
 生徒の自殺をきっかけに、子供たちを教育しきれなかったことに自責の念を抱いた上等兵曹は戦場を志願、硫黄島で教え子とともに果てる。
 よくできたシナリオで、特年兵を題材に戦争の悲惨、社会の矛盾、軍国の実相に迫る。
 貧乏人は国から何も恩恵も受けていないという特年兵の父親(三國連太郎)、脱走兵と駆け落ちする特年兵の娼婦の姉(小川真由美)などのエピソードを織り交ぜるが、共産党員の今井正が若干階級差別を強調しすぎたきらいがあって、それがなければもっと心に響く反戦映画になったのではないか。
 自殺する少年は、二代目中村梅雀となる中村まなぶが好演している。 (評価:3)

午前中の時間割り

製作:羽仁プロ、日本ATG
公開:1972年10月14日
監督:羽仁進 製作:額村喜美子、多賀祥介 脚本:中尾寛治、浜田豊、荒木一郎、羽仁進 撮影:佐藤敏彦 音楽:荒木一郎 美術:石岡瑛子

70年代の閉塞した青春を描く羽仁進の実験的映画
 岩波映画出身の羽仁がドキュメンタリー手法で作った劇映画。女子高生二人が8ミリカメラで撮影した旅行映像を織り交ぜて物語は進行する。
 女子高生の一人が旅行中に事故死し、もう一人が帰ってきたところから物語は始まる。怪我をして旅行に参加できなかった男子高生が、旅行映像を見ながら事故死の原因を探っていくという構成になっている。
 公開当時、三無主義という言葉が流行り若者が目的を喪失しているといわれた。三人は高三で、男子高生は大学進学に意味を見いだせず、女子高生の一人は優等生だが親に大学は必要ないと言われる。そうした三人の閉塞感を現実の視点から32ミリ白黒フィルムで撮影し、旅の映像、その日常を離れた非現実を、現実感の乏しい粒子の粗い8ミリカラーで表現する。
 女子高生二人は旅の途中で男と出会い、気球で空を飛ぶという夢、ユートピアの海辺の共同生活を送るが、彼もまた社会に戻れば小さな現実に絡め取られている。そうした鬱屈を描く青春映画で、70年代の臭いが色濃く反映しているが、時代や風俗こそ違え今の若者たちも同じ姿かもしれない。
 ドキュメンタリー手法の8ミリ映像は、映画好きの高校生が撮影したものということになっているが、公開当時の感覚では8ミリとはいえフィルム代は高かったので、彼らがスナップ映像を撮りまくることに虚構を感じた。ただ、その映像感覚は優れていて、とりわけ事故死する国木田アコが多感で妖精のような女の子を好演する。彼女は8ミリの中にしか登場せず、現実には存在しない抽象かもしれない。
 8ミリ映像は見づらいが、ビデオは劇場のスクリーンで観た時よりはまし。タイトルは、人生の時間割りにすればまだ午前中という意味か。 (評価:3)

製作:近代映画協会、ATG
公開:1972年12月29日
監督:新藤兼人 製作:新藤兼人、葛井欣士郎、赤司学文 脚本:新藤兼人 撮影:黒田清巳 音楽:林光 美術:渡辺竹三郎

『春琴抄』のSM的谷崎ワールドを忠実に再現
 原作は谷崎潤一郎『春琴抄』で、過去6回映画化されているが本作が最も谷崎の世界に迫っている。
 谷崎文学は耽美的で、佐助(河原崎次郎)の女性崇拝・マゾヒズム、春琴(渡辺督子)のサディズムの究極にある純化された愛を本作は描き、他のロマンティシズムの純愛とは一線を画す。佐助はエゴも糞尿も含めて春琴を女神の如く崇拝し奉仕することに究極の愛を見い出す。春琴は好悪含めた自己のすべてを佐助に委ねることで愛を受け入れる。
 本作は佐助が目を潰して春琴の世界を共有することで真に一心同体となる。目に見えるもの、身分の違い、師弟の上下、そうしたすべてを超越する。
 新藤は谷崎の追求する至高の愛の理想形を忠実に描くが、河原崎と渡辺の演技もいい。物語上は春琴は美人となっているが、決して美人ではない渡辺の起用が、佐助同様に観客に心眼を与えて成功している。
 概ね良くできた作品だが、新藤の出演がマイナス。口から血を流すといった意味不明のカットがあって、てる(乙羽信子)との会話も意味がない。
『黒い雪』監督の武智鉄二、原田大二郎も出演。 (評価:2.5)

男はつらいよ 寅次郎夢枕

製作:松竹
公開:1972年12月29日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純

八千草薫の純情が青いレモンの味気分に
 寅さんシリーズの第10作。マドンナは八千草薫で美容師。
 寅屋の二階に御前様の甥で、東大の素粒子物理の助教授(米倉斉加年)が間借りする。そこに寅が帰ってきて怒って出て行こうとすると、幼馴染の千代(八千草薫)が現れて・・・というパターンだが、ここに至るまでのエピソードが不要に長い。この冗長さがなければ、米倉の熱演と八千草の嫌味のない演技で、シリーズ中でもよく出来た作品になっているのだが。
 インテリ朴念仁の米倉が千代に惚れたのを寅がからかっているうちに、人情家の寅が米倉のために愛のキューピッドを買って出るというのが本作のポイントで、インテリ朴念仁の気持ちを千代に伝えに行くと、千代は寅からのプロポーズと勘違いして受諾してしまう。思い違いに気づいた寅はそれを冗談にして誤魔化すが、インテリ朴念仁には失恋を伝えねばならず、自ら招いた窮地に寅は旅に出ざるを得なくなる。
 思い出話に花を咲かせる寅屋の面々は、寅にフラれたという千代の話を本気にしないが、一方の寅も旅先で思い出話を聞かせ、千代をフラざるを得なかった渡世人の義理と辛さを語るという洒落たシナリオになっている。
 寅が寅だけに美しきマドンナとの立場が逆転したこの手の話には嘘っぽさが付きまとうが、清純派オバサン・八千草の純情がそれを感じさせず、千代が本気で寅に惚れていたという説得力のある演技をしていて、「おさななじみ」の青いレモンの味気分にさせてくれる。
 地方ロケは信州。田舎の旧家の奥様を演じる田中絹代が味のある演技。 (評価:2.5)

製作:日活
公開:1972年10月7日
監督:神代辰巳 脚本:神代辰巳 撮影:姫田真佐久 美術:土屋伊豆夫 音楽:世田のぼる
キネマ旬報:8位

一条さゆりのストリップ芸のアーカイブとして貴重かも
 公開年の春に引退した関西ストリップの女王、一条さゆりの引退公演を中心に、大阪・野田の吉野ミュージック劇場のストリッパーを描くドラマ。
 主人公は前座から独り立ちして一条さゆりの後釜を狙う若いストリッパーはるみ(伊佐山ひろ子)で、レスビアン・ショーの相手役に、まり(白川和子)。
 ストーリーは引退公演で猥褻物陳列罪で逮捕された一条さゆりが寿司店を開業して裁判を待っている現在と、引退公演に至るまでの吉野ミュージック劇場の日々をはるみのドラマを通して描く形をとっているが、神代辰巳の主眼は裸で権力に立ち向かう女たちの姿、すなわち性を通しての反権力映画となっている。
 このためポルノ映画としては淡泊で、見どころはむしろ一条さゆりが演じる十八番ともいうべき「花笠お竜」「緋牡丹お竜」やローソクショーのストリップ芸となっていて、ある種、アーカイブ映像として貴重かもしれない。
 はるみもローソクショーやヴァギナの括約筋を鍛えてのお座敷芸に挑戦するが、ラストシーンでは見事アソコから何かを飛ばすのに成功するというストップモーションで、猥褻罪ともども一条さゆりを引き継いで終わる。
 ストリップ嬢を演じる伊佐山ひろ子の体当たり演技もみどころ。 (評価:2.5)

製作:勅使河原プロダクション
公開:1972年3月25日
監督:勅使河原宏 製作:富沢幸男 脚本:ジョン・ネースン 撮影:大島満洲男 美術:栗津潔 音楽:武満徹
キネマ旬報:9位

ベトナム脱走米兵という化石化した現代史の断片を描く
 ベトナム戦争時、岩国基地から脱走した若い米軍兵士の逃亡を描くドキュメンタリー・タッチのドラマで、実話に基づく。
 バーの馴染みのホステス(李麗仙)のアパートに匿われ、脱走兵援助組織によって支援者の日本人家庭を転々とした後、籠の鳥の生活に嫌気がさし、長距離トラックをヒッチハイクして京都へ。頼る者もなく野宿を重ねていたところを再び脱走兵援助組織に保護され、岩国に戻る。
 脱走兵として脱走兵援助組織に組み込まれて利用され、ベトナム反戦運動の広告塔となるか。それとも、米軍に戻って内部からの改革に取り組むか。脱走兵が後者を選び、岩国基地に出頭するところで映画は終わる。
 もっとも米軍内部からの改革といっても良心的兵役拒否が軍法違反にならないようにするといった程度のもので、そこに日本の反戦運動と脱走米兵との間に意識の大きな溝があり、それが数週間に及ぶ米兵の迷走に繋がっている。
 公開から半世紀経てば、脱走米兵の事件も遠い記憶の彼方にあり、まして事件を知らない者が見ても何のことやらさっぱりわからないという賞味期限切れの作品。今では良心的兵役拒否は普通のことで、言葉そのものが死語になっている。
 化石化した現代史の断片としての歴史的価値もあるのかないのか…ただ李麗仙の崩れた水商売の女ぶりが名演で、いちいち語尾に「ね」が付く英語がまたいい。
 支援者の日本人家族に、北村和夫、小林トシ子、観世栄夫、中村玉緒、小沢昭一、黒柳徹子。脱走兵援助組織メンバーに井川比佐志、田中邦衛。トラック運転手に加藤武とバラエティ豊かなのが見どころか。 (評価:2.5)

製作:斎藤プロダクション、松竹
公開:1972年3月29日
監督:斎藤耕一 製作:斎藤節子、樋口清 脚本:石森史郎 撮影:坂本典隆 美術:芳野尹孝 音楽:宮川泰
キネマ旬報:5位

雪の中、海岸線を走る列車が詩情をかき立てる
 日本海を青森に向けて走る急行に仮釈放中の女囚(岸恵子)とチンピラ青年(萩原健一)が乗り合わせ、互いの不遇な身から心の機微を通じ、やがて恋に落ちるという物語。
 結末はもちろん悲恋で、二人の目的地が偶然にも同じ駅だったことから急速に接近し互いの境遇を知るが、男は町でトラブルから相手を刺殺してしまう。二人は同じ列車で帰路に着き、青年は逃走を誘うが女は拒否。2年後の出所での再会を約して二人は別れるが、直後に男は逮捕され、約束は反故となる。
 出所した女が約束の公園で空しく待つラストという、『望郷』(1937)のようなメロドラマになっている。
 もっとも、二人が犯した犯罪の説明はほとんどなく、颯爽とした姿の岸恵子がなぜ青年を好きになったのか、二十歳の年上の女になぜ青年が心惹かれたかの説明もなく、雰囲気だけで押し通してしまうのもフランス映画風。雪の中を走る急行列車の俯瞰、日本海のうねりが押し寄せる海岸線を走る急行列車がとにかく美しく、斎藤耕一らしい映像で哀愁に満ちたこの物語の詩情をかき立てる。
 女囚の看視官に南美江。 (評価:2.5)

製作:日活
公開:1972年6月7日
監督:村川透 脚本:神代辰巳、村川透 撮影:姫田真佐久 美術:松井敏行 音楽:小沢典仁
キネマ旬報:10位

三無主義の若者たちの孤独を描く日活ロマンポルノの名作
 村川透の監督デビュー作にして、伊佐山ひろ子の主演デビュー作。いわゆる日活ロマンポルノの名作の一つ。
 70年代の典型とされた無気力・無関心・無責任の三無主義の若者たちを描いたもので、レッカー移動される車に涙する感受性の強い娘ゆき(伊佐山ひろ子)がナンパされた二郎(谷本一)の窃盗・掏摸グループに仲間入りし、収監された二郎と入れ替わりに出所した拓(荒木一郎)に弄ばれた挙句、拓の窮地を救って代わりに逮捕されてしまうという少女の悲しくも切ない青春を描く。
 ゆきが八王子に住んで工場に勤めていた以外は、出身も家族もわからない。友人もなくレッカーで連れ去られていく車に自己を投影する都会の孤独の中で、最初は二郎に人との繋がりを求め、二郎が去って拓に代償を求める。
 掏摸グループの洋子(石堂洋子)は、そんなゆきに掏摸や窃盗をするような男たちは家庭を持ってそこから仕事に出かけるような人間ではなく、女の部屋を渡り歩く冷血な根無し草で、ゆきが求めるような愛情や人間的な繋がりなど持ち合わせていない人種だと諭す。
 しかし、それでも男たちに人間的な繋がりを求めるゆきの寂しさと哀れに、当時の若者たちの孤独を描き出すが、それは同時に掏摸グループの若者たち一人ひとりの孤独で、アジトのバスルームで泡だらけになってはしゃぐ姿が彼らの孤独を映し出す印象深いシーンとなっている。
 レズビアンを含めてベッドシーンが数回登場するが、改めて見ると今ではポルノ映画とも言い難い程度になってしまった。
 タイトルは、掏摸と愛撫のダブルミーニング。 (評価:2.5)

製作:松竹
公開:1972年10月28日
監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、宮崎晃 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:3位

時代の変革期に取り残される人々と故郷
 広島県倉橋島で零細な砕石運搬業を営む夫婦の物語。
 夫が船長、妻が機関士のデッキの広い小さな運搬船は石船と呼ばれ、採石場から呉の埋立地に石を運ぶ。クレーンの重石で船を傾け、甲板の砕石を海に落とすシーンが映像的な最大の見せ場で、過去のあまり知られていない仕事が興味深い。
 物語は、そうした石船を操る零細な自営業が、高度経済成長によって大きくなった同業者の鉄鋼船やトラック運送とのコスト競争に破れ、転職を余儀なくされる姿を描く。
 真面目に働いているにも拘らず、社会の変化に付いて行けず敗者となっていく下層の人々という、山田洋次お得意のプロレタリア映画で、額に汗して働く可哀想な夫婦をこれまた適役な井川比佐志と倍賞千恵子が演じる。
 時代の大きな変革期に取り残される人々という点では、本作に描かれる70年代の高度経済成長と今のIT革命やグローバリゼーションは似通っていて、現在の視点からも共通項を見いだせる作品かもしれない。
 満州生れ、東京育ちという魚屋の渥美清が、近代化に敗れて自営から都市労働者に転換を余儀なくされる地方の人々を指して、故郷の崩壊といい、なぜそうなってしまうのかと慨嘆するが、その結果が現在の地方の姿であり、地方消滅の未来を先取りしていたともいえる。
 結論から言えば、それが豊かさばかりを追求した日本という国の末路ということになるが、成城に住むブルジョアの山田洋次にそれを言われても釈然としない。
 瀬戸内の海、とりわけ夕景が美しい。夫婦の父親を演じる笠智衆の枯淡とした演技が、この暗い作品の中で唯一和む。(評価:2.5)

製作:松竹
公開:1972年8月5日
監督:監督:山田洋次 製作:島津清 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:山本直純
キネマ旬報:6位

女の幸せは結婚という山田洋次の極めて常識的な作品
 寅さんシリーズ第9作。マドンナは吉永小百合。
 森川信がこの年の春に60歳で病死し、松村達雄がおいちゃんを演じた最初の作品。それまで森川信がはまり役だっただけに、公開時、松村のおいちゃんに正直がっかりした思い出がある。今でも、おいちゃん役は森川信が一番だと個人的に思っているが、松村は第13作までおいちゃんを務めるが、松村独自のおいちゃん像を創り上げていって味のある演技となった。
 冒頭のエピソードは、とらやの2階を貸間にしようとして例の如く寅と揉めるが、それ以降のストーリー展開にはまったく関係のないエピソード。
 吉永小百合と出会うのは北陸だが、OL3人組の金沢旅行は当時のアンノン族と国鉄のキャンペーン、ディスカバージャパンを反映していて、世相が窺える。プロローグの寅の夢でも木枯し紋次郎のパロディがある。
 物語は、寅と仲良くなった吉永が柴又を訪ねて再会するというパターンだが、吉永は小説家の父との二人暮らしで、好きな男との結婚に踏み切れないでいるという設定。そのためいつも沈んでいて寅に笑いを求めるが、それを恋心と誤解した寅が・・・といういつものパターン。
 吉永の演技が上手くないため、寅の誤解がどうにも不自然で無理やり感があるが、渥美清の演技の方は絶好調で、とらや一家がどうにかドラマをまとめている。
 OL3人組の一人が金沢の宿屋で、これが最後の独身旅行で、あとは平凡な主婦の生活が待っているだけという台詞を吐くが、女の幸せは結婚で、専業主婦としてその先には夢がないというのが通念となっていた当時の世相が表れていて興味深い。
 そうした点では、山田洋次自身が、女性の生き方については極めて保守的・常識的で、小津安二郎や川島雄三のような生き方に悩む女の映画が撮れなかったことが本作から窺える。 (評価:2.5)

製作:東宝、俳優座
公開:1972年5月25日
監督:熊井啓 製作:佐藤正之、椎野英之 脚本:長谷部慶次、熊井啓 撮影:黒田清巳 音楽:松村禎三 美術:木村威夫
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞

見どころは栗原小巻のヌードと抒情的映像
 三浦哲郎の同名の芥川賞受賞作が原作。
 主人公の学生(加藤剛)は三浦がモデルで、兄姉がそろって自殺・失踪という呪われた家。「忍ぶ川」という深川の小料理屋の酌婦(栗原小巻)と恋仲になるが、彼女も洲崎遊郭の射的屋の娘で、病気の父がいるという、双方暗い家庭事情を持つカップル。
 その主人公の主観で、繊細な心の機微が語られていくが、粗野な神経には理解が及ばず、書生の宇宙語か中二病にしか見えない。もっとも、精神をやられた呪われた一家で、自分も気が狂ってしまうのではないかと恐れている主人公らしい意味不明の言葉ともいえなくもないが。  物語はそんな根暗カップルのラブストーリーで、どうでもいいミクロコスモスな心理描写が延々と続くが、女の父の死をきっかけに二人は男の郷里・青森で結婚する。
 この家族3人との結婚式や馬橇、汽車など雪景色のシーンは、抒情的なモノクロ映像とも相まって本作最大の見どころ。冒頭の永代通りを走る都電軌道、木場、洲崎遊郭、浅草寺のシーンともども、熊井啓の映像へのこだわりが見て取れる。撮影は黒田清巳。
 もう一つの見どころは、初夜のシーンの栗原小巻のヌードで、俳優座の清純女優のベッドシーンで話題になった。
 もっとも栗原はどう演じても山の手のお嬢さんで、洲崎遊郭の射的屋の娘にはどうしても見えない。おまけに言葉遣いまで山の手言葉で、清純イメージはともかく、小料理屋で酌をしたり畑仕事をしていても常に違和感が付きまとう。
 全体にさすが俳優座映画というくらいに超文芸作品で格調高いが、どことなくミスキャストで背中がムズムズする。 (評価:2.5)

製作:実相寺プロ
公開:1972年6月17日
監督:実相寺昭雄 製作:東條あきら 脚本:石堂淑朗 撮影:中堀正夫 美術:鳥居塚誠一 音楽:冬木透

映像は厭きないが物語がつまらな過ぎる
 哥(うた)は歌の異体字。
 丹波の旧家の当主(嵐寛寿郎)と女中(荒木雅子)との間の隠し子(篠田三郎)が主人公で、正妻(毛利菊枝)の二人の長兄(岸田森)・次兄(東野孝彦)よりも家と山を守ることに執着しているという話。
 長兄がインポで、その妻(八並映子)が隠し子と不倫、書生(田村亮)と女中(桜井浩子)がデキているエピソードを盛り込みながら、隠し子と兄二人を、日本の伝統の守護者とそれをなし崩しにする者という対立構図に描く。
 戦後日本の精神が崩壊していく中で、形を守ることが大切なのだと主張する隠し子は、2年前割腹自殺を遂げた三島由紀夫に重なるものがあり、家と山を守るという形を通して日本の伝統とそれを拠り所とする精神の崩壊を食い止めようとする。
 このテーマは劇中でわかりやすく語られ、独特のカメラフレームと広角・接写を駆使した実相寺昭雄のモノクロ映像はなまめかしくエロチックなのだが、いかんせん物語がつまらな過ぎる。
 映像だけ見ている分には退屈はせず、隠し子が夜中に家屋敷を懐中電灯で見回るシーンや、独り粗食を摂るシーンなど緊張感が持続する。
 ラスト、階段を這いながら登ってくるシーンは人物のアップで終わると予想するのだが、その後に2、3段転げ落ちて終マークとなるのは、敗北の意味が込められているのか?
 公開時以来、改めて見たが、このテーマを語るのにこのシナリオでの2時間は長すぎる。 (評価:2)

パンダコパンダ

製作:東京ムービー
公開:1972年12月17日
演出:高畑勲 製作:稲田伸生 脚本:宮崎駿 作画監督:大塚康生、小田部羊一 音楽:佐藤允彦 美術:福田尚郎

宮崎駿+高畑勲の5歳の時に観るべきアニメ
 東宝チャンピオンまつりの併映作品で、いずれも34分の小品。宮崎駿原案・脚本・画面設定(演出は高畑勲)でファンには評価の高い作品だが、幼児向きに作られているためにストーリーは平板で退屈。アニメーションというよりはキャラクターの動きで見せるカートゥーンに近い。
 ただカートゥーンとしてはディズニーのコミカルさはなく、パンダの可愛らしさだけで見せているが、バンク(使い回し)が多いこともあって動きが単調で飽きる。
 公開年の秋、上野動物園にカンカン、ランランがやってきた。本作はパンダブームに便乗して作られ、その年末に公開された。この時、宮崎の長男・吾朗は5歳で、自分の子供が喜ぶようにパンダが主役の動物アニメを作ったと思われる。つまり、本作は5歳の時に観るべき作品で、幼児に見せるには健全で楽しい。
 物語は、両親のいないミミ子が祖母が法事で留守番をしている時に、動物園を逃げ出したパンダの父子が家に住みついてしまうというもの。ミミ子は父子の世話をするが、やがて動物園に帰ることになる。『パンダコパンダ』のラストは洒落ていて、父パンダはミミ子の家から動物園に出勤することになる。
 40年前の作品ということもあり、パパは会社に行くものという男女の役割の固定化もあって、幼い子供に悪影響を与えるという批判があるかもしれない。 (評価:2)

地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン

製作:東宝
公開:1972年03月12日
監督:福田純 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 撮影:長谷川清 音楽:伊福部昭 美術:本多好文

アンヌ隊員の菱見百合子がゴジラに声援を送る
 ゴジラ第12作。東宝チャンピオンまつりで公開。
 地球同様の惑星が環境汚染によって滅び、生き残ったゴキブリが地球に棲み処替えにやってきたという設定。ゴキブリはインベーダー(当時放映されたアメリカのTVドラマ)の如く人間の体を乗っ取り、ゴジラランドに本拠を構え・・・という物語。キングギドラと新怪獣ガイガンを宇宙から呼び寄せ、邪魔なゴジラを抹殺するべく、特殊音波でおびき寄せる。特撮シーンは過去のフィルムの使い回しが多い。
 子供向きに作られているが、前2作よりはだいぶマシ。ただ、怪獣同士が戦うシーンが冗長かつテンポに欠け、だれたプロレスの試合を延々と見せられる気分。人間のために戦うゴジラが弱すぎるのが、何ともいただけない。主人公をピンチに陥れるのはアクションものの常道だが、やられっぱなしであまりに工夫がなさすぎ。
 主人公が漫画家という設定で、ゴジラとアンギラスが漫画の吹き出しで会話するがいらない。子供に媚びれば子供が喜ぶと思う発想が、ゴジラ製作スタッフの黄昏を象徴している。
 ガイガンは腹に電動のこぎりを持っていて、従来の生物型怪獣とは一線を画す。『ウルトラセブン』アンヌ隊員の菱見百合子が出ているのがネタ。なぜか、葦原邦子が出演。 (評価:2)

夏の妹

製作:創造社、ATG
公開:1972年08月05日
監督:大島渚 製作:葛井欣士郎、大島瑛子 脚本:田村孟、佐々木守、大島渚 撮影:吉岡康弘 音楽:武満徹 美術:戸田重昌

普天間問題の原点がこの映画にあるのかもしれない
 沖縄返還直後に撮影され、その夏に公開された。観念的な大島作品のなかでもとりわけ観念的で、公開当時、描かれた内容を含めてかなり違和感があった。
 当時、沖縄戦や米軍占領・基地問題について罪悪感を感じる本土のインテリが持っていた沖縄に対する偏見を、逆説的な意味でこの映画は見事に体現している。大島が本土にいて机上で想像した沖縄が、本土のフィルターを通して描かれる。
 何より違和感を感じるのは、沖縄人を演じるのが小山明子・石橋正次・佐藤慶・戸浦六宏と本土の人間ばかりで、しかも全員が標準語で話す。つまり本土の人間が演じるエセ沖縄人ばかりで、シェークスピア劇を日本人の俳優で見せられているような嘘くささがスクリーンを最初から最後まで覆う。その中で、登場人物は沖縄問題を二項対立的に割り振られ、観念的で記号的。主人公も素直子と極めて記号的。つまり、沖縄返還によって曝け出された矛盾、しかも何ら解決されることなく棚上げされた矛盾のぐじゅぐじゅした中で、素直子だけが白紙の状態で将来の解決を託される。もちろん、その矛盾は2013年となった今でも解決されていない。
 この作品は撮影スタッフによるロードムービーであって、撮影中に実際の沖縄を知ることによって次第に観念論だけではなくなっていくが、それでも最後まで旅人の視点は変わらず、その視点は今も沖縄を理解しえない本土のギャップとなって表れている。
 そういった点では、今この映画を見る意味はあるのかもしれない。「作ったことが間違い」の★一つのつもりだったが、評点にはそれを加味した。
 素直子が乗船する大島海運のさくら丸は、当時食中毒を起こしたことがある。また右側通行だった時代の那覇や沖縄三越・国際通り・金城町の石畳・壺屋・未整備のひめゆりの塔・守礼の門などが出てきて、当時の沖縄を知る者としては懐かしく、記録映像としても貴重。デビューしたての栗田ひろみが可愛い。 (評価:1.5)

天使の恍惚

製作:若松プロ、ATG
公開:1972年03月11日
監督:若松孝二 製作:葛井欣士郎、若松孝二 脚本:出口出 撮影:伊東英男 音楽:山下洋輔 美術:戸田重昌

ピンクの存在意義を失った若松孝二のATG初期作品
 ATGと提携した若松孝二の初期作品。ATGは1960~80年代に非商業的映画の製作・配給を行った会社で、大手映画会社から飛び出して独立プロを設立した若手映画監督と組み、日本映画界のヌーベルバーグ運動を支えた。ATG、日本アート・シアター・ギルドの名が示す通り、芸術映画・実験作品が多く、時代を反映して新左翼的な映画もつくられた。この作品は、ピンク映画に政治的イデオロギーを持ち込んで注目された若松が、ATGと組んだという背景を理解してないと、なんだこれは? という感想しか出てこない。
 この評を読んで観てみようかと思う人もいないと思うが、当時の背景を説明しておくと、1969年から赤軍派による火炎瓶闘争や爆弾闘争が始まり、劇中にも登場する鉄パイプ爆弾や缶ピース爆弾によるテロが始まった。この爆弾闘争は東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件などの爆弾テロへと引き継がれていく。この映画はそうした革命家たちの爆弾闘争を描いたもので、後に日本赤軍メンバーとなった足立正生も出演している。
「キネマ旬報 全映画作品データベース」によれば、「作中に登場する四季協会とは19世紀後半、パリ・コミューンの炎の中で激烈な闘いを展開したプランキストの結社の名から採られ、一年、四季、月、曜日に分られた軍団の組織形態も、それを下敷きにしたもの」だそうで、テーマは「自分の身体を張って闘えるヤツ、本気で孤立できるヤツ、個的な闘いを個的に闘える奴等、孤立した精鋭こそが世界を換える、世界を創る」だそうだ。
 しかし劇中の革命家たちはナイトクラブで打ち合わせをし、ソファーやベッドのある眺めの良い部屋でブルジョア的生活をするなど、若松が意味を持たせているように見える。劇中、横山リエと吉沢健が背中合わせにそれぞれが自慰に恍惚とする表情を天井からカメラが見下ろすシーンがあるが、まさにこのシーンがこの映画の革命家たちのマスターベーション的思想を象徴しているのかもしれない。もっとも、若松がこのシーンにそのような意味を込めていたかは不明で、映画そのものが若松のマスターベーションなのかもしれない。
 胸を揉むシーンは按摩のマッサージのようだし、性交シーンは体を揉み合っているだけにしか見えず、果てたのか疲れて眠ってしまったのか判然としない。しかも政治について語りながらのセックスシーンなど、どっちかにしろ! といいたくなるくらいにピンク映画としての意味をなさない。
 台詞やシーンに意味を見い出そうというのも徒労で、若松は革命家たちのこの記号的な闘争の無意味さを描きたかったのだろうかと深読みすらしてしまうが、すでにその時点でこの映画そのものの無意味さに気づく。
 声優の柴田秀勝が出演しているのが、ネタ。 (評価:1.5)