海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

日本映画レビュー──1966年

製作:今村プロダクション
公開:1966年03月12日
監督:今村昌平 脚本:今村昌平、沼田幸二 撮影:姫田真佐久 音楽:黛敏郎 美術:高田一郎
キネマ旬報:2位

小沢昭一白眉の名演。究極の愛の化身はダッチワイフ
 原作は野坂昭如の小説『エロ事師たち』。人間という生き物を描いて今村の右に出る者はいない。その作品は観る者の内面を映し出す鏡となり、映画の中に自分の本性、醜さや業、欲望、虚勢といったものを見ることになる。だから、鏡に映し出される自分の姿を嫌悪し、目を背けたい人は今村の映画を好まない。
 この作品に描かれるのは赤裸な性愛。ブルーフィルムや猥褻写真、売春斡旋といった性産業の底辺に生きる男の虚飾を取り去った人生が描かれる。「人間生きる楽しみいうたら食うことと、これや」という男(小沢昭一)にとって、性はすでにタブーではない。性産業でメシを食うことをカッコ悪いとは承知しながらも、自らの性欲に忠実。猥褻罪で警察に逮捕されたりもするが、世間に迷惑を掛けているわけではないという信念がある。男は内縁の妻(坂本スミ子)の娘に欲情し、内縁の妻も実の息子(近藤正臣)と危ない関係。社会的にはどうしようもない一家だが、倫理的には道に外れながらもしたたかに生きていく。
 まっとうに生きる者が彼らを蔑むのは、性愛に対するモラルを打ち破ることができないからで、自分の本性を恥ずかしいと考えるから。警官がソープに通っていても建前としてそれを認めない、そういう殻の中に人は閉じこもっている。主人公はその殻をもたない男で、だからこの映画を観る者は自分の背負う殻を意識することになる。
 ラストで男が到達する性愛の極致は、愛する女そのものであるダッチワイフ。肉体だけとなった彼女は苦しみや悲しみからも解放された、男にとって愛の化身。この映画は、主人公の男と内縁の妻の純愛物語でもある。
 小沢の演技は群を抜いていて、坂本の素晴らしい演技が霞むほど。40年くらい前に見たきりなのだが、今回見直して、狂った坂本が病院の窓から半裸で叫ぶシーンとラストシーンを憶えていた。このような映画が1960年代に作られていたことに改めて驚く。
 8ミリカメラを何台も束ねて二人で撮影するという、昔のブルーフィルムの撮影方法も歴史的記録。ポジしかないのでカメラ台数分の限定本数しか撮れない。劇中で現像所を持てばネガから何本でも焼けて儲かるという話がでてくる。
 性描写はテレビ以下だが、内容が内容なのでファミリーでの鑑賞はお勧めしない。 (評価:4)

製作:大映東京
公開:1966年10月15日
監督:山本薩夫 製作:永田雅一 脚本:橋本忍 撮影:宗川信夫 音楽:池野成 美術:間野重雄
キネマ旬報:1位
毎日映画コンクール大賞 ブルーリボン作品賞

前半は面白いが、後半は硬直した社会派ドラマ
 山崎豊子の同名小説が原作。その後、6回TVドラマ化されている人気作品。白い巨塔そのものが大学医学部の代名詞ともなった。
 浪速大学付属病院の外科医・財前が医学部内の派閥抗争の中で教授選挙に勝ち残っていく前半と、誤診を訴えられ、危機を乗り越えていく後半に分かれるが、後半部分はステレオタイプな社会派ドラマ。当時はこうした社会派ドラマが評価され、キネ旬1位になっているが、半世紀たった現代からは正邪を明確にしたがる硬直した考え方に正直辟易とする。
 ただ前半の教授選挙は、医学部内のどろどろとした人間関係やヒエラルキーだけでなく、政治的人間も学究的人間も含めて滑稽な中にも人間らしさがあって面白い。この部分だけで完結していれば、★3は上げられた。
 野心家で成り上がりの財前を演じる田宮二郎が好演。対する第一外科教授・東役の東野英治郎、融通の利かない病理学教授・加藤嘉がいい。
 他に、田村高廣、小沢栄太郎、加藤武、滝沢修、船越英二、小川真由美。藤村志保が大根。 (評価:3)

製作:松竹
公開:1966年06月11日
監督:中村登 製作:白井昌夫 脚本:久板栄二郎 撮影:成島東一郎 美術:梅田千代夫 音楽:武満徹
キネマ旬報:3位

紀の川を下る嫁入り舟のシーンが美しい
 有吉佐和子の同名小説が原作。
 時は明治32年、紀の川上流の旧家の娘・花が下流の真谷家に嫁ぎ、政治家となる夫を支えながら日露・日中戦争の時代を通して、真谷家の灯を守り続けるという女の一生の物語。
 家を重んじる花(司葉子)と女性解放思想に染まる長女・文緒(岩下志麻)の確執を描きながら、守るべき家とは何かというのが全体のテーマとなっていて、紀の川の治水に尽くした政治家の夫(田村高廣)が頓死し、その遺志を継ぐことなく人生に失敗した長男(中野誠也)を見て、文緒は花が一生をかけて守ろうとした家が失われたと告げる。
 ラストで、家は失われても真谷家の灯は台風をも凌いだ紀の川の堤防に灯り続けているという、分りやすいメッセージとなり、花の人生そのものが紀の川のようにすべての流れを包容してゆったり流れるものだったという結論になるが、近代日本の時代に翻弄される旧家の歴史を概観するという点では、興味深い作品になっている。
 格式ある旧家の歴史を描く中村昇の演出はロングショットを中心として重厚で格調高く、成島東一郎のカメラがいい。とりわけ冒頭の紀の川を下る嫁入り舟のシーンが美しい。
 3時間近い長尺だが、それでも女の一生を描くには短く、前半が駆け足で時間の流れが唐突な印象。もう少し丁寧な演出と編集が欲しかった。
 若い娘から老女までを司葉子が違和感なく好演するが、3年後に実際に政治家の妻となったのは、本作の影響か。
 花の義弟に丹波哲郎。祖母の東山千栄子が存在感のある演技で、冒頭の無言で嫁入り舟を見送るシーンは見応えがある。 (評価:2.5)

あこがれ

製作:東宝
公開:1966年10月01日
監督:恩地日出夫 製作:金子正且 脚本:山田太一 撮影:逢沢譲 音楽:武満徹 美術:育野重一

山田太一脚本の内藤洋子アイドル映画
 内藤洋子の映画初主演作。同年のテレビドラマ『氷点』で主役を演じ、陰のある薄幸の少女役が人気となった。本作でも養護施設で育った不幸な少女役で同一路線。
 もっとも、本作の主役かというと若干微妙で、主人公は同じ養護施設で育ち陶器屋の養子となった青年(田村亮)。妹的な内藤洋子に恋するも、養父(加東大介)は良家の子女との結婚を望み、養父への恩と恋慕の板挟みとなる。施設に預けられてからは一度も会ったことのない実母(乙羽信子)が、再婚した一家とブラジルに移民する前日に施設を訪ねる。青年は実母の真実の愛を知り、同時に養父母と真に親子の愛情を結ぶという筋立てで、内藤と結ばれることを予感させて終わる。
 設定も物語も1960年代風にウエットで平凡だが、テレビシリーズ「木下恵介アワー 記念樹」を基に再構築した山田太一の脚本は良くできていて、施設を訪ねた実母が息子から贈られたというティーカップで紅茶を飲み、その足で人知れず息子の顔を見るために陶器店を訪れて同じ柄のティーカップを買い求めるというエピソードが泣かせる。このシーンは説明されるだけで実際には描かれない。
 作品全体は生硬な演技と演出で出来はよくない。とりわけ、少女が施設にやってくる冒頭シーンは少年の主観で描かれるべきところを、内藤洋子主演のアイドル映画として作られているために少女主観で、後半、少年と母親の話が中心となると、前半の少女との恋愛話がどこかに行ってしまい、前後半で主人公が入れ替わるチグハグさが出てしまう。
 少女のどうしようもない父親に小沢昭一。青年の養父母役の加藤と賀原夏子がいい。内藤洋子の幼女時代を演じるのは、のちにアイドルとなる林寛子。 (評価:2.5)

製作:創造社
公開:1966年07月15日
監督:大島渚 製作:中島正幸 脚本:田村孟 撮影:高田昭 音楽:林光 美術:戸田重昌
キネマ旬報:9位

実際の事件を基にした形而上学的犯罪映画
 原作は実際にあった連続殺人事件を基にした武田泰淳の小説。生きる意味を見いだせずに心中で死んでしまう男に戸浦六宏、その心中で生き残る生命力のある娘に川口小枝、その彼女を好きで失神したところを犯したことから変質的犯罪者となる男に佐藤慶、教え子であるその男と結婚する女教師に小山明子。こう書けば、この映画の込み入った人間関係と物語は想像がつく。そういった社会派映画で、大島渚なので少々理屈っぽい。  立派な悪役俳優となった佐藤慶の犯罪者ぶりが出色。
(評価:2.5)

製作:東京映画・勅使河原プロダクション
公開:1966年7月15日
監督:勅使河原宏 製作:堀場伸世、市川喜一、大野忠、馬場和夫 脚本:安部公房 美術:磯崎新、山崎正夫 音楽:武満徹
キネマ旬報:5位

テーマを離れれば新橋ミュンヘンで歌う前田美波里が見どころ
 安部公房の同名小説が原作。
 工場の爆発事故による顔面火傷で顔を失った男(仲代達矢)が主人公。プラスチック樹脂製のお面を作って被ると、他人は彼の正体を見破れない。ところが精薄の娘(市原悦子)は知能が低いために顔識別ができず、逆に直感で彼を見破る。
 男は事故以来ベッドを共にしない妻(京マチ子)を試そうとして別人になりすまして誘惑すると、彼女はホイホイと引っかかる。目覚めてお面を剥がし詰問しようとすると妻は最初から正体を見破っていたことがわかる。
 落胆した男は夜の街頭で女を襲い、警察に捕まり、彼に仮面を被せた精神科に引き取られていく途中、医者を刺す・・・という物語。
 原作が安部公房なので物語はしごく観念的。顔の表象性、顔と自己の同一性、ペルソナの多重人格性、顔を失った時のアイデンティティ等々を形而上学的に思考しながら、顔は人にとっていかなる意味を持つのかを問いかけるが、正直、そんなものはどうでもいいと考える人にはどうでもいい映画。
 ただ配役は演技派揃いで、精神科医の平幹二朗と看護婦の岸田今日子が若い。会社の専務に岡田英次、秘書に村松英子、アパートの管理人に千秋実、精神病患者に田中邦衛、男の仮面製作に協力する男に井川比佐志、ケロイドの女に入江美樹。
 テーマを離れれば、新橋ミュンヘンでドイツ語の歌を歌う前田美波里も見どころか。 (評価:2.5)

製作:東京映画、羽仁プロ
公開:1966年9月23日
監督:羽仁進 製作:馬場和夫 脚本:羽仁進 撮影:長野重一 音楽:林光、ドン・マテオ
キネマ旬報:6位

現地ロケを敢行した羽仁進夫妻の意気込みが伝わる
 夫と死別したシングルマザー(左幸子)がペルー・アンデスのインディオの村で暮らす日本人男性と再婚、コブ付きの花嫁になるという物語。
 夫の仕事は農業指導が名目で、実はインカの財宝を発掘している。文明から隔絶した生活に戸惑いながらも村人たちに溶け込み、村のために日本人入植地に出かけて種籾を仕入れてくるなど、インディオのために尽くす姿が描かれる。
 本作のテーマは現代文明に対する批判で、400年前のインカ帝国の文明が高度で市民的であったことを理想と捉え、現代のインカ帝国の末裔たちが土人と貶められ、欧米人に水利を奪われて苦労させられ、町に出れば商人たちに騙され、村で発掘した古代の埋蔵品は政府の博物館に取り上げられるという搾取される状態に置かれていることを告発する。
 妻の夫は発掘中に事故死するが、妻は村に留まることを選択し、村で雑貨屋を開き、幼い息子ともども夫の遺志を継いでインディオの一人となる。
 村の青年に愛を告白されたり、種籾を分けてくれる日本人入植者(高橋幸治)に淡い思いを抱きながらも、夫の死後、男が結婚したことを知るなど、羽仁進らしい恋物語で味付けもされているが、全体としての見どころはインディオの村の暮しとアンデスの自然。
 半世紀前に、現地ロケを敢行した羽仁進夫妻の意気込みが伝わってくる。 (評価:2.5)

沈丁花

製作:東宝
公開:1966年10月1日
監督:千葉泰樹 製作:藤本真澄 脚本:松山善三、脚千葉泰樹 撮影:中井朝一 美術:阿久根厳 音楽:黛敏郎
キネマ旬報:6位

行き遅れの京マチ子、司葉子の掛け合いが楽しいコメディ
 上から順に、菊子(京マチ子)、梅子(司葉子)、桜(団令子)、あやめ(星由里子)の美人四姉妹の物語だが、妹二人が結婚した中で、父なき歯科医院を継いだ女医・菊子と看護婦・梅子の行き遅れの姉二人を中心に物語は展開する。
 心配する母(杉村春子)のもとに叔父(加東大介)が縁談を持ち込み、宝田明、佐藤允、小泉博、高島忠夫と見合いをするが帯に短し襷に長し、姉妹の取り合いもあったりして、結局、梅子は近所で開業したライバル歯科医の小林桂樹、菊子は弟(田辺靖雄)の大学の先生・仲代達矢と恋愛結婚というハッピーエンドとなる。
 京マチ子、司葉子の掛け合いが楽しいコメディで、当時としては肩の凝らないホームドラマとして笑って映画館を出られただろうが、今となっては女にとって結婚がすべての反動保守映画で、前半は結婚には目もくれない京マチ子がどのような女の生き方を示してくれるかという期待も膨らむが、次第に周囲の常識に流されていき、当時としては予定調和なハッピーエンドになってしまうのがつまらない。
 冒頭、杉村春子を含めて美人四姉妹が一列に並んで歩くシーンが壮観。京マチ子、司葉子で十分に楽しめるが、折角の揃踏みに団令子、星由里子の出番が少ないのがちょっと寂しい。 (評価:2.5)

カミカゼ野郎 真昼の決斗

製作:にんじんプロ、国光影業
公開:1966年6月4日
監督:深作欣二 脚本:深作欣二 撮影:山沢義一 音楽:八木正生

深作欣二のアクション演出の原点を見ることができる
 日本と台湾の合作で、半分はアクション映画、半分は観光映画になっていて、台湾の観光名所や行事、民族衣装を着た高砂族などが紹介される。
 見どころは半世紀前の近代化以前の台湾が見られることで、台北市内を自転車が走り回り、一昔前の東南アジアのような売春窟も登場する。
 日本も高度成長の前期だが、八方尾根の誰もいないゲレンデのスキーシーンから始まり、三菱重工やセスナの小型ビジネス機で台湾旅行と、庶民の夢を描く。
 ストーリーそのものはどうでもいい内容で、戦時中に台南に隠された何億円ものダイヤモンドを手に入れる陰謀に、パイロットの青年・千葉真一が巻き込まれるというもの。これに台湾美女の白蘭が絡み、サスペンス風に展開。ダイヤを隠したのが実は青年の父親だったというオチ。
 もっとも最大の見どころはテレビドラマ『キーハンター』(1968-73、TBS・東映)の原点となった深作欣二のアクション演出にあって、カーチェイス、モーターボート、セスナと、トム・クルーズも真っ青の千葉真一が、陸海空で活躍する。
 スキーシーンを含めて映画『007』を髣髴とさせ、現在のアクション映画の基本形をすでに完成させている。『仁義なき戦い』へと発展していく深作欣二の演出法と作家性を窺うことができる。 (評価:2.5)

製作:東映京都
公開:1966年11月13日
監督:田坂具隆 製作:大川博 脚本:鈴木尚之 撮影:飯村雅彦 美術:鈴木孝俊 音楽:佐藤勝
キネマ旬報:4位

悲恋物語の悲恋そのものがわからない致命的欠陥
 水上勉の同名小説が原作。
 滋賀県北部、琵琶湖に隣接する余呉湖とその水で洗った生糸で琴糸を紡ぐ糸とり女(佐久間良子)と同僚の若者(中村賀津雄)の悲恋物語。だが、その悲恋そのものがよくわからないという致命的欠陥を持っている。
 時は大正末期、女は若者の出征中に京都から絃糸作りの見学に来た三味線の師匠(中村鴈治郎)に気に入られ、内弟子として三味線を習うことになる。
 師匠の本妻が死んだため稽古場から本宅の女中となるが、女を観音様のように崇める師匠は手を出さない。ところが女に恋人がいることを知り、二人が帰省することを知って、ついに手を出してしまう。
 ここからは製作者の意図を斟酌するしかないが、おそらくはそれを恋人への操が立たないと考えた女は、恋人と一夜の夫婦の契りを結んで縊死。恋人は賤ヶ岳からともに余呉湖に身を投げて心中する。
 しかし、操が立たないと思いつめるほどには見えず、あまつさえ師匠に対して多少の思いはあるようにも見えてしまい、自殺の理由がわからない。
 原作では女が師匠の子を身籠ってしまい、隠しきれなくなって死を選ぶが、本作ではそれを描かなかった理由がわからず、センチメントで押し切るにはシナリオも演技も演出も力不足。
 郷里の若狭から賤ヶ岳に向かうシーンでは戦国時代の戦いが幻想としてダブったり、師匠との濡れ場では狂言の場と交錯したりと演出的な試みもなされているが、作品的に生かされたかというと疑問。
 師匠が女に手を出した後、観音様が見えなくなったという暗喩も生かされないままに終わる。 (評価:2)

製作:大映東京
公開:1966年5月21日
監督:池広一夫 脚本:成沢昌茂 撮影:宗川信夫 美術:仲美喜雄 音楽:池野成

文芸よりは通俗、妖姿媚態の若尾文子を楽しむための作品
 森鴎外の同名小説が原作。
 1953年の豊田四郎版のリメイクだが、通俗の作りで文芸色は薄くなっている。
 物語は、貧しい飴屋を父に持つ一人娘が、呉服問屋の後妻になったつもりが騙されて高利貸しの妾となり、湯島・無縁坂の妾宅を構える。通りがかる本郷の帝大生に惚れ、一途に乙女心を燃やすが、帝大生は不忍池の雁と共にドイツに旅立ってしまうという薄幸な娘の儚い恋。
 もっとも若尾文子33歳は妖艶すぎて、妾どころか花街のお姐さんに見えてしまい、帝大生(山本学)への淡い思いというよりは初心な学生をたらし込んでいる感じ。檀那の小沢栄太郎とも対等に渡り合っていて、薄幸な娘の儚い恋に見えないのが残念。
 金貸しのシャイロックを演じる小沢栄太郎も貫禄があり過ぎて、裸一貫から妾を囲うに至るいじましくも情けない中年男の哀愁が漂わない。
 要は妾と檀那、狐と狸の化かし合い、大仰な音楽や本妻(山岡久乃)の反応を含めて俗っぽいだけの話になっているが、それはそれで通俗ドラマとしては楽しめるかもしれない。
 姿美千子が可愛すぎて、女中らしく見えないのもミスキャスト。妖姿媚態の若尾文子を楽しむための作品。 (評価:2)

製作:東宝
公開:1966年1月25日
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄、金子正且 脚本:井手俊郎 撮影:福沢康道 美術:中古智 音楽:林光
キネマ旬報:10位

罪悪感がテーマの割には周りの罪悪感がなさすぎ
 エドワード・アタイヤの『細い線』(The Thin Line)が原作。
 親友の細君と不倫していた男が、首締めのSMプレイで過って絞殺。事件を隠し通そうとするが罪悪感に耐えきれなくなって妻に告白。妻は家庭を守るために二人だけの秘密にしようとするが、夫はついに親友にも告白。ところが親友も放蕩な妻よりも友情を選んで秘密にする。しかし、それでも夫が自首すると言い張ったため仕方なく妻が夫を毒殺して、平穏が訪れるというお話。
 成瀬巳喜男は冒頭から男(小林桂樹)が犯人だとわかるように演出しているため、ミステリーとしての面白味はない。要は罪を抱えた男の葛藤のドラマで、小林桂樹がそれをストレートに演技するため、周囲がその挙動を疑わないのがむしろ不自然に見える。
 ドラマのチグハグぶりはここから始まっていて、秘密を知った善良な妻(新珠三千代)には葛藤がなく、親友(三橋達也)もあっさり友情を選ぶ。主人公の罪悪感をテーマにしている割には周囲の人物に罪悪感がなさすぎ。冒頭、妻(若林映子)の死を知ってからの親友の反応も淡泊で他人事に見えるし、主人公の無感情ぶりもわざとらしい。
 遺体確認のために警察に呼ばれていった現場が鑑識も来ていないそのまんまの状況だったり、温泉場での転落死体が警察も来ないまま放置されていたりと、リアリティも希薄。
 全体に段取りのために段取り感が強くて、映像を除けばテレビのミステリードラマ程度のクオリティでしかない。 (評価:2)

刺青

製作:大映京都
公開:1966年1月15日
監督:増村保造 脚本:新藤兼人 撮影:宮川一夫 美術:西岡善信 音楽:鏑木創

増村保造も女郎蜘蛛に魂を吸われてしまった失敗作
 谷崎潤一郎の短編小説『刺青(しせい)』と『お艶殺し』が原作。
 タイトルとは逆に、『お艶殺し』の物語を中心に『刺青(しせい)』を織り込んだ内容になっている。
 質屋の娘・お艶(若尾文子)が使用人の新助(長谷川明男)と駆け落ち。知り合いの権次(須賀不二男)の船宿に匿われるが、お艶をモノにしたい権次が新助を殺害しようとして失敗。権次の手下を殺した新助は逃亡する。
 一方、お艶は徳兵衛(内田朝雄)に売られ、背中に女郎蜘蛛の刺青を彫られて辰巳芸者にされる。彫物師・清吉(山本学)の入魂の女郎蜘蛛はお艶に乗り移って男を狂わせ、権次夫婦、徳兵衛、旗本芹沢(佐藤慶)の命を奪い、新助も殺してしまう。清吉は悲劇を終わらせるべく女郎蜘蛛に短刀を刺し、お艶ともども自らも果てる…という物語。
 気の弱い新助を引き回すほどに性格の強いお艶が、権次、徳兵衛に利用されて芸者に売り飛ばされるという設定がどうにも無理があって説得力がない。女郎蜘蛛が乗り移って男を食い物にする性格になったという説明もなく、身売りした徳兵衛に大人しく従っているのも腑に落ちない。
 お艶がもともと淫乱だというには若尾の演技が悪いのか、演出が良くないのかそう見えないし、新助が殺されたと思って自暴自棄になった風にも見えない。
 若尾は妖艶だがどこかに可愛さがあって、小悪魔にはなれても京マチ子や音羽信子、岩下志麻のような狂女・鬼女にはなれない。
 そうした点でお艶の描写が中途半端な失敗作。増村までもが女郎蜘蛛の刺青に魂を吸い取られてしまったのかもしれない。 (評価:2)

けんかえれじい

製作:日活
公開:1966年11月09日
監督:鈴木清順 脚本:新藤兼人 撮影:萩原憲治 音楽:山本丈晴 美術:木村威夫

ファンしか楽しめない鈴木清順のハチャメチャ喧嘩映画
 鈴木清順の代表作の一つ。原作は鈴木隆の同名自伝小説。脚本・新藤兼人。
 昭和初期、岡山の硬派を気取るバンカラ旧制中学生(高橋英樹)が、日々喧嘩に明け暮れ、放校となって会津若松の親戚の家を頼って転校。ここでもバンカラの本領を発揮して暴れ回る。岡山から思い続けてきた女学生(浅野順子)との恋に破れ、地元の硬派学生グループ、その名も昭和白虎隊と喧嘩して勝利するが、226事件で逮捕された北一輝と出会い、喧嘩する相手は地元の中学生ではなく国家だと知って上京するという物語。
 このような喧嘩ばかりしている映画が当時受けたのかどうか疑問だが、思えば暴走族映画も似たようなもの。もっとも、暴走族映画の方が暴走シーンがあるだけまだましか。今では死語となったバンカラや硬派が流行った昔を思い出すも、化石以上の感慨はない。北一輝や、国家との喧嘩というものが時代性を感じさせるが、これもまた化石。ただ、喧嘩映画の割には不思議と長閑さが漂う。
 高橋英樹の喧嘩の兄貴分に川津祐介。浜村純、加藤武も先生役で出演。浅野順子は当時アイドルで、後に大橋巨泉と結婚した。見どころは清順ファンならハチャメチャな喧嘩シーン、そうでなければ可憐で可愛い浅野順子。 (評価:2)

ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘

製作:東宝
公開:1966年12月17日
監督:福田純 製作:田中友幸 脚本:関沢新一 特技監督:円谷英二 撮影:山田一夫 音楽:佐藤勝 美術:北猛夫

正月飾りのイセエビが怪獣になった!
 『怪獣大戦争』に続くゴジラ映画第7作。
 今回の初登場キャラは、エビラ。往時、初めて観た時に衝撃を受けた。正月飾りにくっつくような伊勢海老が怪獣になったことに。
『怪獣大戦争』ノシェーでゴジラ映画は変質したが、本作では鼻を人差し指で擦る。当時、流行歌の『君といつまでも』で加山雄三が鼻を擦るのが話題で、それを取り入れている。ゴジラもすっかりエンタティナーとして凋落していく。
 物語は南海の孤島を舞台にした秘密基地もので、内容的にも本来の『ゴジラ』から遠ざかる。ヨットで漂流する四人組(宝田明・砂塚秀夫ほか)が水爆を作る島に打ち上げられ、秘密を知ることからのゲリラ戦。島にはインファント島民が強制労働させられている。島民を救うためにモスラ(成虫)を目覚めさせ、なんとゴジラまで仮死状態で島に埋まっている。秘密基地を守るのはエビラで、怪獣同士の戦いの末、もちろん悪党は滅び、主人公たちは生還する。
 秘密基地司令官に田崎潤。平田昭彦、天本英世も。残念なのはモスラの小美人がザ・ピーナッツではないこと。見どころはビキニに近いコスチュームを見せてくれるインファント島の住民・水野久美。 (評価:2)

大魔神

製作:大映京都
公開:1966年4月17日
監督:安田公義 製作:永田雅一 脚本:吉田哲郎 撮影:森田富士郎 美術:内藤昭 音楽:伊福部昭

大魔神登場までの段取りを踏むだけのストーリーは退屈
 大魔神といえば今は元プロ野球投手の佐々木主浩のニックネーム・ハマの大魔神の方が有名だが、そのもととなった特撮映画。
 村の鎮守としての石像姿は埴輪だが、守護神の魂が入って活性化すると佐々木そっくりの青銅色の顔になる。
 時代劇と特撮を組み合わせたアイディアと大魔神のフォルムはいいが、物語は凡庸を通り越して駄作。大魔神登場と活躍を見せ場に、ただ段取りを踏むだけのストーリーは、展開が読める上にエピソードも使い古されたものばかりで、大魔神が登場するまでの退屈な時間稼ぎ。
 本来なら駄作の評価だが、大魔神がキャラクターとして確立したことと佐々木に敬意を表して、下駄を履かせた。
 舞台設定は戦国時代で、豪族の家老(五味龍太郎)が謀反を起こし城を乗っ取る。家臣の一人(藤巻潤)が幼い嫡子と姫君を連れて、神官の伯母の助けを借りて、大魔神の眠る滝上の奥の宮の洞穴に隠れる。10年を経て悪政が敷かれる村で家臣・若君が捕まり、神官も殺されて大魔神が姿を現し・・・と後はお決まりのパターン。
 村に災厄があれば大魔神が怒って復活するという話なのに、10年間活性化せず、若君が捕まっても動かず、神官が殺されても微動だにしないのが待たせ過ぎ。しかも育った姫君(高田美和)が直接働きかけても無視され、「身を捧げます」といって滝上から身投げしようとして漸く発動する。
 特撮時代劇だからという蔑んだ見地からは、設定をとやかく言っても仕方がないが、姫君が身を捧げるのであれば身投げではなくて巫女になるべきで、しかも大魔神が発動したから身投げを中止するのもおかしい。
 ラストで砂塵と化した大魔神が、その後、石像として復活するのかも気がかり。
 特撮の合成シーンはよくできているが、演出的もシナリオ的にも工夫がなくて退屈。人間では、五味龍太郎と月宮於登女がまともな演技をしているくらい。 (評価:2)