海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1994年

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1996年5月18日
監督:マイケル・ラドフォード 製作:マリオ・チェッキ・ゴーリ、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ、ガエタノ・ダニエレ 脚本:アンナ・パヴィニャーノ、マイケル・ラドフォード、フリオ・スカルペッリ、ジャコモ・スカルペッリ、マッシモ・トロイージ 撮影:フランコ・ディ・ジャコモ 音楽:ルイス・エンリケス・バカロフ
キネマ旬報:1位

詩は誰のためにあるかをナポリの島を舞台に詩情豊かに描く
 原題"Il Postino"で、郵便配達人の意。
 ノーベル文学賞を受賞したチリの詩人パブロ・ネルーダのイタリア亡命時代を題材にしたアントニオ・スカルメタの小説"Ardiente paciencia"(燃える忍耐)が原作。
 カプリ島の架空の村が舞台で、そこに住む無学な漁師の息子が主人公。チリを追われたネルーダがやってきて、彼の家に郵便物を届ける配達人の仕事を得る。ネルーダに世界中の女性からファンレターが送られてくるのを知って、詩人になれば女にもてると考え、ネルーダに接近し、やがて詩作の手ほどきを受けるようになる。
 内気な青年はネルーダの仲介で居酒屋の娘と結婚し、ネルーダの影響を受けて共産党員となる。チリ共産党の合法化によってネルーダは帰国。5年後に再び島の居酒屋を訪れると、パブリートと名づけられた息子と母だけがいて、青年がイタリア共産党の集会で命を落としたことを知る・・・というのが物語の骨子。
 青年は詩作をネルーダから学んでいく中で、詩とは詩人のためにあるのではなく、その詩を必要としている者のためにある、という本質に辿りつく。ネルーダが祖国を愛したように青年もまた故郷の島を愛し、ネルーダが残した録音機に波の音や風の音を録音して送ろうとするシーンが美しい。
 その録音は、夫の思い出として妻の手許に残されたままになり、ネルーダは島を再訪して初めてその録音を聴き、それが詩そのものであり、妻には必要だったことを知る。
 青年は詩を必要としている者のために、共産党の集会で自作の詩を朗読し、そのために死ぬ。そしてネルーダは、青年こそが真の詩人であったと気付き、二人で歩いた砂浜で独り思いに耽るシーンで終わる。
 詩をテーマにしているだけに、映像そのものが詩的であり、撮影に使われたプローチダ島の風景もまたリリカル。青年を演じるマッシモ・トロイージ、村娘のマリア・グラツィア・クチノッタや他の俳優たちも素朴な島民を演じて、詩情豊かな情感と余韻のある作品になっている。
 マッシモ・トロイージは心臓病をおして出演し、主人公同様、撮影終了後に命を落としてしまった。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年6月3日
監督:フランク・ダラボン 製作:ニキ・マーヴィン 脚本:フランク・ダラボン 撮影:ロジャー・ディーキンス 美術:テレンス・マーシュ 音楽:トーマス・ニューマン
キネマ旬報:1位

二人の友情が新たな希望に向かうという清々しい脱獄ドラマ
 原題"The Shawshank Redemption"で、ショーシャンクの回収の意。
 スティーブン・キングの小説"Rita Hayworth and Shawshank Redemption"が原作。原題のリタ・ヘイワースは1940年代に活躍した肉体派女優で、主人公のアンディ(ティム・ロビンス)が壁に空けた抜け穴を隠すために貼ったポスターのモデル。ポスターは2度貼り換えられ、2代目はマリリン・モンロー、3代目はラクエル・ウェルチとなる。
 刑務所脱獄もので、如何に脱獄するかのアイディアとサスペンスが肝となるが、抜け穴をポスターで隠すというのも平凡で、脱出劇に至ってはほとんど描写がない。
 それでも本作が面白いのは、アンディとレッド(モーガン・フリーマン)の友情ドラマになっていて、レッドの視点で物語られることで、モーガン・フリーマンの演技によるところが大きい。
 刑務所では誰もが無実を主張するというジョークの中で、冤罪で収監された元銀行家のアンディが、刑務所長(ボブ・ガントン)の不正経理を手伝って架空口座に蓄財。脱獄後にその金を刑務所での労賃として回収し、メキシコに逃亡。
 一方、レッドは有罪であることを認め、40年の服役の後に仮釈放される。かつて社会復帰できなかったブルックス(ジェームズ・ホイットモア)が自殺した轍をアンディが踏まないようにレッドを呼び寄せ、新たな希望に踏み出すという友情物語となっている。
 無実のアンディと罪を償ったレッドが、新たな希望に向かっという清々しい脱獄ドラマ。アンディの収監時に空撮で閉ざされたショーシャンク刑務所を俯瞰するのと対照させて、ラストシーンでどこまでも続く青い海と快晴の空の下の砂浜で二人が再会する空撮映像が美しい。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1994年12月3日
監督:ヤン・デ・ボン 製作:マーク・ゴードン 脚本:グレアム・ヨスト 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 音楽:マーク・マンシーナ
キネマ旬報:8位

爆弾を抱えたバスのノンストップ・アクションが出色
 原題"Speed"。『ダイ・ハード』『氷の微笑』などカメラマン出身のヤン・デ・ボンの初監督作品で、随所にスピードと迫力のある映像が活かされている。
 サイコな爆弾犯(デニス・ホッパー)と対決するロス市警のSWAT隊員(キアヌ・リーブス)が主人公の物語で、バスに仕掛けられた爆弾がスピードを落とすと爆発するようになっていることがタイトルの由来。
 暴走するバスシーンしか憶えていなかったが、再見すると前後の話のボリュームも結構あって、この設定がいかに上手くできたものであったかを再認識させられる。
 冒頭はエレベーターに仕掛けられた爆弾処理。これが犯人を刺激して手段が巧妙化する。バスの後は地下鉄シーンへと繋がるが、逆転また逆転の息つく暇のない展開とスリリングな映像は、類種のノンストップ・アクションものの中でも出色の出来。
 建設中の高速道路を疾走するバスシーンと空港のシーン、地下鉄での対決はとりわけ見どころのシーンとなっている。
 キアヌ・リーブスの出世作で、ヒロインとなるサンドラ・ブロックのバスの運転ぶりがいい。 (評価:3)

製作国:ロシア、フランス
日本公開:1995年7月15日
監督:ニキータ・ミハルコフ 製作:レオニド・ヴェレシュチャギン、ジャン=ルイ・ピエール、ウラジミール・セドフ 脚本:ニキータ・ミハルコフ、ルスタム・イブラギムベコフ 撮影:ヴィレン・カルタ 音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
キネマ旬報:6位
アカデミー外国語映画賞

革命の英雄に恋人を奪われた青年貴族の反革命
 原題"Утомлённые солнцем"で、疲れた太陽の意。劇中で歌われる歌の題名。
 1936年のモスクワが舞台。スターリン大粛清を背景に、革命に恋人を奪われた青年の復讐を描く。
 冒頭、青年と執事とのフランス語についてのやりとりで、青年が貴族出身であることがわかる。一方、郊外に住む、青年の元恋人と結婚した初老の大佐が、フランス語を話せないことから労働者階級の革命世代で、同居する妻の一族もまたフランス語を話す貴族階級であることがわかる。
 かつて貴族出身であることを案じた青年に秘密警察員となって国外に行くことを勧めた大佐は、その後、青年の恋人と結婚、一女を設ける。10年後、隠棲した革命世代の英雄として村人の尊敬を集める大佐の家に突如現れた青年の目的は、彼を枢軸国のスパイとして逮捕すること。
 大佐の一家にはその目的を隠し、10年ぶりの再会を楽しみ、過去の経緯を仄めかして恋人の変心を期待するが、彼女の心を取り戻せない。大佐を処刑し復讐を果たした青年は、かつて恋人が試みて失敗したリストカットで自殺する・・・というのが粗筋。
 革命によって翻弄された青年のラブストーリーで、ハンサムな青年をオレグ・メンシコフ、大佐を監督のニキータ・ミハルコフ自身、妻をインゲボルガ・ダクネイトが演じる。
 大佐に連座して妻と娘も投獄され、戦後名誉回復されたというクレジットが入り、青年の愛憎劇は幕を閉じるが、農地を踏み荒らす軍事訓練や、民間防衛隊の毒ガス避難訓練、宣伝用のスターリン気球など、スターリン独裁時代のロシアの様子が描かれて興味深い。
 大佐の幼い娘をニキータ・ミハルコフの娘ナージャ・ミハルコワが好演する。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年7月15日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット 脚本:ウディ・アレン、ダグラス・マクグラス 撮影:カルロ・ディ・パルマ 美術:サント・ロカスト
キネマ旬報:7位

すべては芝居に口を出すマフィアのボディーガードに尽きる
 原題は"Bullets Over Broadway"でブロードウェイを飛ぶ銃弾の意。
 売れない劇作家(ジョン・キューザック)が書いた戯曲が、マフィアの愛人(ダイアン・ウィースト)のコーラス・ガールを主演にすることを条件に上演されることになる。落ち目の女優、過食症の男優を集めて稽古が始まるが・・・というブロードウェイを舞台にしたコメディで、これに銃弾=マフィアが絡む。
 この物語で最高に面白く魅力的なのが、マフィアの愛人の監視役についた強面の男(チャズ・パルミンテリ)で、無学ながらショー・ビジネスの環境に育ったせいで劇作家よりも才能がある。ただの監視役として退屈そうに稽古を見ているうちに、脚本に意見を言うようになり、彼の才能に気付いた劇作家が脚本を直していく。
 ボディーガードはボディーガードで、口が堅いのがマフィアだと言って、その秘密を洩らさないため、ほとんど書き直された脚本について周囲は劇作家を褒めちぎる。
 そうして芝居は大成功を収めるが、すでに自分の作品となっているボディーガードは、主役のマフィアの愛人が芝居の最大の欠陥だと気付き交替を劇作家に進言する。
 そんなことをしたらボスに殺されるという劇作家に、ボディーガードが選択したのは・・・というのが物語の結末で、ラストは自分の才能のなさに気付いた劇作家が故郷に帰る。
 この間のボディーガードと劇作家の台詞のやり取りが本作最大の見どころで、ウディ・アレンの真骨頂となっている。それ以外のキャラクターもコメディしているが、ボディーガードの前に影が薄い。
 ウディ・アレンらしいお洒落なコメディ映画だが、アカデミー助演女優賞をダイアン・ウィーストが取り、チャズ・パルミンテリは逃した。 (評価:3)

ナチュラル・ボーン・キラーズ

製作国:アメリカ
日本公開:1995年2月4日
監督:オリヴァー・ストーン 製作:ジェーン・ハムシャー、ドン・マーフィ、クレイトン・タウンゼント 脚本:デヴィッド・ヴェロズ、リチャード・ルトウスキー、オリヴァー・ストーン 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:トレント・レズナー

映像の暴力に疲れて反暴力映画であることに気づかない
 原題"Natural Born Killers"で、生まれつきの殺人者たちの意。もっとも殺戮を繰り広げる狂人夫婦のミッキー(ウディ・ハレルソン)とマロリー(ジュリエット・ルイス)は、それぞれ生い立ちに事情を抱えていて"Natural Born"ではなく、むしろ2人を育てた世界そのものが"Natural Born Killers"だという皮肉になっている。
 オリジナルの脚本はクエンティン・タランティーノで、曲折を経てオリヴァー・ストーンが改変・監督した。暴力がテーマのブラック・コメディに相応しく、カラー・モノクロ・アニメ・TVカメラ等々を駆使した撮影と編集もまた暴力的で、刺激的ではあるが疲れる。
 プロローグはレストランでマロリーをからかう客にキレた2人の殺戮で、危ない2人の性格を描いた後、2人の出会いへと遡る。性的虐待を受けているマロリーの両親を殺して2人は愛の逃避行となり、殺戮を繰り返した末に刑務所へ。
 ベストセラーを書きたい刑事(トム・サイズモア)や視聴率狙いのTVキャスター(ロバート・ダウニー・ジュニア)も登場し、盛り上がった刑務所で暴動が発生。それに乗じて2人が脱獄し、その修羅場が生中継されるという無茶苦茶ぶり。数年後に生まれた子供たちと旅を続ける2人の車のシーンで終わる。
 暴力に満ちた世界を歌うレナード・コーエンの"The Future"をエンディングに使用して、本作が単にバイオレンス映画ではなく、それを写し絵として暴力に加担する人々を皮肉った映画であることを示しているが、作中その真意が伝わったかどうか。
 観客もまた映像の暴力に疲れてしまい、反暴力映画であることに気づかず、その効果を上げていない。
 刑務所長にトミー・リー・ジョーンズ。ジュリエット・ルイスのキレ方がいい。 (評価:2.5)

サタンタンゴ

製作国:ハンガリー、ドイツ、スイス
日本公開:2019年9月13日
監督:タル・ベーラ 脚本:クラスナホルカイ・ラースロー、タル・ベーラ 撮影:メドヴィジ・ガーボル 音楽:ヴィーグ・ミハーイ

自由の到来という変革の中で希望と不安に揺れる民衆
 原題"Sátántangó"で、サタンのタンゴの意。クラスナホルカイ・ラースローの同名小説が原作。
 7時間18分という長尺ながら、約150カット、平均1カット3分の長回しという、『ニーチェの馬』(2011)のタル・ベーラならではの作品。
 『ニーチェの馬』同様の動かない映像に何度も睡魔が襲い、思考力を失って起きている事象を理解できず、しかも説明不足のために話の筋がよくわからないという作品にも関わらず、霧の中の脳みそが何か面白いと感じ、時間があればもう一度見てみたいと思わせてしまう不思議な魅力がある。
 解説によれば、6歩前に6歩後へというタンゴのステップに合わせた12章構成で、前半の6章は複数の視点からの村の一日の出来事、後半の6章は死んだはずの男イリミアーシュが村に帰ってからを描いている。
 舞台はハンガリーの寒村。荒廃した村は貧しく、酒とセックスしか楽しみはない。
 秋の長雨が始まると大地は泥だらけとなり、冬まで村は孤立する。そこでシュミット夫婦、間男のフタキが村の金を持ち逃げして新天地に行こうとするが、イリミアーシュが村に帰って来ることを知って諦める。
 役所の警視に仕事をしろと言われたイリミアーシュは相棒のペトリナ、シャニとともに村に帰るが、シャニの妹エシュティケの死を受けて村人たちに、村を捨てて移住するように説得。村人たちを自由にし、警視に報告書を書く。
 プロローグはフタキが町の礼拝堂の鐘を聞いて目覚めるところから始まるが、礼拝堂は崩壊し鐘は存在しないと語られる。
 ラストは町に入院していた村医者が「トルコ軍が来るぞ」と廃墟の礼拝堂で鐘を鳴らすのを見て村に帰り、部屋の窓に板を打ち付けて光を閉ざし、ノートにプロローグの文章を書いて終わるというエピローグとなる。
 暗喩に満ちた台詞と内容で、ハンガリーの国情を知らないと何を描こうとしているのかわからないが、魂に直接語りかけるものがあって、言葉やドラマではなく、映像でしか伝わらないものがあると感じさせる。
 原作は東欧革命前の1985年に発表されたもので、ハンガリー民主化運動と自由の到来という変革の中で希望と不安に揺れる民衆を描き出したのかもしれない。  (評価:2.5)

製作国:マケドニア、フランス、イギリス
日本公開:1996年2月3日
監督:ミルチョ・マンチェフスキー 製作:ジュディ・クーニヤン、チェドミール・コラール、サム・テイラー、キャット・ヴィラーズ 脚本:ミルチョ・マンチェフスキー 撮影:マヌエル・テラン 音楽:アナスタシア
キネマ旬報:9位
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

殺伐とした物語とは対照的にマケドニアの風景が観光写真のように美しい
 原題"Before the Rain"で、その雨の前に、の意。
 三部構成の物語で、時制的には第2部・顔、第3部・写真、第1部・言葉の順になっている。
 尤も注意深く見れば、第2部でロンドンの雑誌社の編集者アン(カトリン・カートリッジ)がチェックしている写真に、第1部のラストで殺される少女ザミラ(ラビナ・ミテフスカ)の死体が写っていて、時空が捻じれていることがわかる。
 これは本作のテーマの一つ、民族間の憎悪と暴力は円環をなすように因果を繰り返し、無限に続くことへの絶望であり、同時にその円環を断ち切るためには、第3部のラストでカメラマンのアレキサンダー(ラデ・シェルベッジア)が示すように、民族間の和解でしかない。
 監督・脚本のマンチェフスキーはマケドニアの出身で、1991年のユーゴスラビアから分離・独立後のマケドニア人とアルバニア人の対立を村レベルで描いている。
 第1部はマケドニアの村が舞台で、アルバニア人の少女ザミラがマケドニア人に追われて修道院に逃げ込み、沈黙の修行を続ける青年僧キリル(グレゴワール・コラン)とともに村から逃げ出そうとして、兄に殺される。この時、キリルはロンドンにいる叔父のアレキサンダーを頼ろうとするが、第2部でアンが受ける電話がこの時にキリルが掛けたもので、ここでも時空の捻じれを生じている。
 第2部はロンドンに舞台が移り、アレキサンダーがカメラマンという職業に限界を感じて恋人のアンにマケドニアの村への帰郷を誘う。人妻のアンはこれを断りアレキサンダーは一人飛行機に乗るが、アンはレストランで夫のニック(ジェイ・ヴィラーズ)に離婚話を切り出す。ところがボスニア出身の給仕と揉めていた客が機関銃を乱射。ニックは死んでしまう。
 ニックが暴れている客をアイルランド人だと冷笑すると、給仕長が私もアイルランド人だと答えるシーンがあり、平和に見える街にも民族間の憎悪があることを示す。これは第3部でマケドニアに比べて都会は平和だろうとアレキサンダーが従兄に問われて、都会にももっとひどい暴力があると答える会話と対をなしている。
 第3部は村に帰ったアレキサンダーの話で、かつて恋人だったアルバニア人のハンナの娘ザミラが、村人を殺した罪を着せられたのを助けて逃がしてやるが、代わりに従兄たちに殺されてしまうまで。生前、いつまで村にいるんだと問われて、死ぬまでと答えるのと対照している。
 民族間の憎悪の円環を描くが、ユーゴスラビア解体に伴う民族間の紛争により村の隅々にまで武器が行きわたり、子供たちが機関銃や弾薬を玩具にして遊んでいる様子が寒々しい。
 アレキサンダーがカメラマンに限界を感じたのは、彼のせいでボスニアで捕虜が殺されたのがきっかけで、どのように素晴らしい写真を撮っても、写真には実際に戦争や暴力は止める力はないという無力がもう一つのテーマとなっている。
 その唯一の希望として、第3部でアレキサンダーが親族と撮る記念写真に、和解こそが平和への道という可能性が託されている。
 タイトルは、マケドニアでもロンドンでも雨が来るという会話の後に殺害事件が起きていることから。殺伐とした話だが、それとは対照的にマケドニアの風景が観光写真のように美しく、カメラワークを含めた映像も見どころ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年3月11日
監督: ロバート・ゼメキス 製作:ウェンディ・フィネルマン、スティーヴ・ティッシュ、スティーヴ・スターキー 脚本:エリック・ロス 撮影:ドン・バージェス 音楽:アラン・シルヴェストリ
キネマ旬報:4位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

古き良きアメリカ人を賛美するためのウルトラ保守映画
 原題は"Forrest Gump"で、ウィンストン・グルームの同名の小説が原作。  題名は主人公の名前で、Forrestについては劇中で南北戦争の南軍の英雄で、白人至上主義の秘密結社クー・クラックス・クランの創始者ネイサン・ベッドフォード・フォレストに由来するという説明がある。Gumpは俗語で馬鹿、間抜けの意味。確かに主人公だけでなく母親の言動からも愚か者の家系かもしれない。邦題にある副題は、フォレスト・ガンプだけでは分からないということだろうが、内容からも一期一会は意味不明。
 幼馴染みの彼女を訪ねに来た知能指数の低い主人公トム・ハンクスがバス停で半生を回想し、それから彼女を訪ねるという話。ラストはある意味ハッピーエンドで、アメリカ人受けするコメディタッチの如何にもなヒューマンドラマで、アカデミーでは作品賞のほかに監督・脚色・主演男優・編集賞・視覚効果と主要な賞を総なめにした。
 シナリオもよく、トム・ハンクスもうまい。映像もきれいで確かに完成度は高いのだが、わだかまるものが残る。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズにも感じることだが、監督のロバート・ゼメキスの映画には白人にとっての良きアメリカという保守主義が色濃い。
 主人公は愚直だが一途で、それによって良き人々と良き運命を引き寄せる。アメリカのピューリタニズム賛美ともいえる作品で、主人公にとっては軍隊も黒人排斥、ベトナム戦争、反戦、黒人解放、ヒッピー等々は単に目の前を流れていく風景でしかない。
 むしろ否定的に描かれるのは、そうした時代に翻弄される彼女ロビン・ライトで、父親のDVで不幸な家庭に育った彼女は、ストリップ劇場でジョーン・バエズを歌い、ヒッピーになり、ブラックパンサーや反戦運動に加わって彼氏に暴力を受け、最後はエイズに罹ってしまう。中国には宗教がないと言って驚くジョン・レノンも嘲笑の対象。バエズもレノンも著名な反戦活動家だった。
 結局、古き良きアメリカ人を象徴する愚直な主人公が人生に勝利をおさめ、「真の愚か者」である彼女の改心を長く待ち、それを包容することで古き良きアメリカ人の懐の深さを示す。
 これを肯定的に捉える人、あるいは気にしない人にはとても心地よい作品だが、そうでなければバリバリの保守主義が気に障る。
 主人公が繰り返すママの言葉、"Mama always said life was like a box of chocolates. You never know what you're gonna get."(人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでは何が入っているか分からない) と"Mama says, "Stupid is as stupid does."" (バカなことをするのがバカだ)も格言としては今ひとつ。
 ダン中尉役のゲイリー・シニーズがいい。 (評価:2.5)

おっぱいとお月さま

製作国:スペイン、フランス
日本公開:1995年9月30日
監督:ビガス・ルナ 製作:ギザヴィエ・ジェラン、ステファーヌ・マルシル 脚本:キュカ・カナルス、ビガス・ルナ 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:ニコラ・ピオヴァーニ

おっぱいフェチの少年がタマを手に入れる話
 原題"La Teta i la Lluna"で、邦題の意。
 バルセロナ出身のルナが幼少期の記憶を基に描いたファンタスティックな作品で、9歳の少年テテ(ビエル・ドゥラーン)が、カタルーニャ地方の伝統行事・人間の塔の頂点に挑戦して失敗するシーンから始まる。
 テテの父親は人間の塔に成功することが男の通過儀礼という信念の持ち主で、失敗したテテはタマ無しになる。
 テテには弟が生まれたばかりで、大好きなママのおっぱいを独占されてしまう。以下、テテが「僕のおっぱい」捜しをする物語となり、海浜キャンプ場のトレーラーハウスに住むフランス人の踊子(マチルダ・メイ)のおっぱいを目標に定めるが、年上の青年ミゲル(ミゲル・ポヴェダ)が踊子に恋してライバルとなる。
 踊子には芸術的なオナラをする内縁の夫がいて二人で見世物小屋をしているが、涙フェチの踊子がミゲルの涙に感激して関係を持ったことから、芸人コンビは姿を消す。
 テテは次の祭りの人間の塔に再挑戦。バルコニーに立つ父親の隣におっぱいを出した踊子の幻影を見て見事成功、タマを手に入れる。一方、ミゲルは芸人コンビに加わってトリオとなり、みんながハッピーエンドとなる。
 ラストでテテの乳歯が大人の歯に生え変わることから、テテの子供から大人への成長を描いているが、おっぱいフェチはフロイト流にはテテがリビドーの口唇期にいることを象徴している。
 男が女にミルクを入れると、女のおっぱいにミルクが溜るという表現もあって、少年期のリビドーをおおらかに描く作品。
 テテの夢が月に行ってEUとカタルーニャの旗を立てるというのも、父親の言い癖がカタルーニャはローマ人の末裔というのと対をなしていて、カタルーニャ人の気質が窺えて可笑しい。 (評価:2.5)

愛情萬歳

製作国:台湾
日本公開:1995年8月12日
監督:ツァイ・ミンリャン 製作:チャン・フー・ピン 脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・ビ・リン、ツァイ・イチャン 撮影:リャオ・ペンジュン
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

都会のエアポケットに落ち込んだ男女の孤独を描く
 原題"愛情萬歲"で、愛情万歳の意。
 主人公は前作『青春神話』(1992)と同じくシャオカン(李康生)で、団地式墓地のセールスマンになっている。
 前作の道路などのインフラ工事からさらに進んで、近代的なマンションや公園などの住宅開発が進む台北が舞台となる。
 上手く生きていけないシャオカンは、仕事中に高級マンションで不動産業者が鍵を抜き忘れた空き部屋を見つけ、中に入って自殺を試みるが、そこへ不動産業者の女・メイ(楊貴媚)と街で引っ掛けた男・アーロン(陳昭栄)がやってきてセックスを始めるのを目撃。自殺は未遂に終わり、シャオカンは空き部屋に無断で寝泊まりするようになる。
 メイとアーロンも休憩に空き部屋を使い始め、ある日、アーロンとシャオカンが鉢合わせ。二人は遊び歩く仲になる。  こうして都会のエアポケットに落ち込んだ、3人の奇妙で孤独な生活が描かれる。
 台北の経済発展とその中で暮らす人々の孤独を、華やかな外見の高級マンションの中の空き部屋との対比で見せるのが上手い。外からは窺い知れぬ高級マンションの中の空虚、そこに墓地セールスマンと露天商の経済発展から取り残された男二人が巣食う。
 華やかな高級マンションを売るメイもまた男で孤独を癒しているが、アーロンとセックスをした翌朝、郊外に造成中の公園の高台に登り、賑やかな市街を見下ろしながら訳知れず嗚咽するというラストシーンになっている。
 ほとんど台詞がなく、ストーリーや登場人物の心情・背景については若干不親切で、観客に理解力と想像力を求める作品になっている。
 ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。 (評価:2.5)

レオン

製作国:フランス、アメリカ
日本公開:1995年3月25日
監督:リュック・ベッソン 製作:パトリス・ルドゥー 脚本:リュック・ベッソン 撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:エリック・セラ

ナタリー・ポートマンは美貌も胸も演技も未熟
 原題"Léon"で、主人公の名。
 中年男とまだ胸の小さい少女の物語というのは、プラトニックな恋人関係にある疑似父娘ものとして、ある種の共感を得やすい。
 テレビドラマでは『パパと呼ばないで』(1972-3)、映画では『ペーパー・ムーン』が代表作で、喧嘩をしても仲直りできる奇妙な愛情で結ばれるドラマとなる。
 本作もまた、不良な中年男と小生意気な少女の組み合わせで、コブ付きを嫌って邪険にする男に少女が勝手に娘志願して、奇妙な疑似父娘のコンビができてしまう。
 レオンは腕の立つ殺し屋だが文盲、一方のマチルダは蓮っ葉だが頭の切れる孤児という、少女は男の保護を必要とし、男は少女の頭脳と癒しを必要とするという父娘ものには不可欠な補完関係にある。
 見どころはジャン・レノ演じる殺し屋の完璧なまでの仕事ぶりと、ナタリー・ポートマン演じる少女の小悪魔的ぶりになるが、『ペーパー・ムーン』のテータム・オニールほどには上手くないのが残念なところ。成長してからの美貌もまだ開花してない。
 子役に食われない分、ジャン・レノの少女の前では冴えないオジサンぶりは堂に入っていて、無敵の殺し屋ぶりと併せ、名人独演会となっている。
 ストーリーは単純で、麻薬売人を父に持つ少女が悪徳麻薬捜査官に親姉弟を皆殺しにされ、捜査官のボスに復讐するために隣室の馴染みの殺し屋に弟子入りするというもの。跳ねっかえり娘を助けるため逆に当局に襲われることになるが、命を賭して娘を助け、復讐を果たす。
 ゲイリー・オールドマンが、サイコパスな麻薬捜査官のボスを演じて上手い。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1995年9月2日
監督:ティム・バートン 製作:デニーズ・ディ・ノヴィ、ティム・バートン 脚本:スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー 撮影:ステファン・チャプスキー 音楽:ハワード・ショア
キネマ旬報:5位

エド・ウッドを通したベラ・ルゴシの映画
 原題"Ed Wood"で、『死霊の盆踊り』などの低俗映画ばかりを制作していた映画監督の名。
 晩年不遇を託っていた『魔人ドラキュラ』などのホラー映画で知られるベラ・ルゴシを起用して、『グレンとグレンダ』『怪物の花嫁』『プラン9・フロム・アウタースペース』を制作したエピソードを中心に描く実話作品。
 エド・ウッドをジョニー・デップ、ベラ・ルゴシをマーティン・ランドーが演じ、マーティン・ランドーがアカデミー助演男優賞を受賞、本人かと見紛うばかりにそっくりなメイクアップ賞。
 実話とは思えなくくらいにひどい制作体制と制作現場で、1950年代とはいえ、4日で映画を撮り終えるなど、B級映画にしかならない状況が手に取るように描かれる。その中での落ち目のベラ・ルゴシの哀愁が本作を際立たせる大きなファクターとなるが、マーティン・ランドーの演技が最大の見どころ。
 作品的には、低予算・低俗映画ばかりを作り続け、ある意味、映画界の面汚しでもあったエド・ウッドが、それでも映画をこよなく愛したという映画愛のドラマで、そこに映画に魂を奪われてしまった人間の哀しみを見られれば、堪らなく愛おしい映画となるが、所詮は低俗映画監督を描いただけではB級以上にはなり得ないと思えば、愚にもつかない暇潰し映画にしかならない。
 それでも最後まで見通せるのは、ティム・バートンのエド・ウッドを通した映画愛が仄見えるからだが、それでもベラ・ルゴシの存在は欠かせず、エド・ウッドを通したベラ・ルゴシの映画というのが正鵠か。 (評価:2.5)

製作国:イラン
日本公開:1994年12月10日
監督:アッバス・キアロスタミ 製作:アッバス・キアロスタミ 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:ホセイン・ジャファリアン、ファルハッド・サバ
キネマ旬報:9位

ウニ化した脳に映る抒情溢れるラストシーンが素晴らしい
 原題"زیر درختان زیتون‎"で、オリーブの林の下の意。
 イラン北部、オリーブの木が茂る村が舞台。映画監督(モハマッド・アリ・ケシャヴァーズ)は、村の若者を俳優に選んで若い夫婦の映画を撮ろうとするが、たまたま選んだ二人が因縁付きで、青年ホセイン(ホセイン・レザイ)は娘タヘレ(タヘレ・ラダニアン)に求愛中で、映画の撮影を通して出演中の二人のラブストーリが並行して進むという物語になっている。
 ホセインは文盲のため、結婚相手に高校生のタヘレを望むが、タヘレの祖母の条件は金持ちで教育のある男。ホセインは映画監督に村娘を薦められるが、文盲同士が結婚しても子供に教育を施せないといって断る。
 ホセインの理屈が振るっていて、文盲と教育のある者が結婚すれば、子に教育を施せる。貧乏人同士が結婚しても家を持てないが、貧乏人と金持ちが結婚すれば、みんなが家持になれる。
 つまりホセインはイスラム社会主義を説いているが、この映画は4万人が死亡した1990年のイラン北部地震を背景にしていて、タヘレはこの地震で両親を失っている。
 本作を純朴な男女のラブストーリーというだけでなく、キアロスタミは二人のラブストーリーの中に、イラン地震後の人々に対して互いに助け合うというイスラムの本義を説いている。
 プロポーズをなかなか受け入れないタヘレを追いかけて、ホセインがオリーブの林から畑の道をいく、豆粒のように小さい二人のロングショット。追い付いた後、ホセインが駆け戻ってくるところで映画は終わるが、おそらくはプロポーズが受け入れられて喜び勇んで戻ってくるのであろうことを想像させる。
 抒情溢れたラストシーンが素晴らしい。
 もっとも、刺激の少ないラブストーリーである上に、語り口は全体的にイスラム的会話とイスラム的時間軸に従っているので、都会人が見ると脳がウニ化して弛緩する。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1994年12月10日
監督:ニール・ジョーダン 製作:スティーヴン・ウーリー、デヴィッド・ゲフィン 脚本:アン・ライス 撮影:フィリップ・ルースロ 美術:ダンテ・フェレッティ 音楽:エリオット・ゴールデンサール

ブラピよりもトム・クルーズの吸血鬼の方が魅力的
 原題"Interview with the Vampire"で、ヴァンパイアへのインタビューの意。アン・ライスの同名小説が原作。
 インタビューされるのは、ブラッド・ピット演じる吸血鬼ルイで、18世紀末にフランス移民として農場を経営していたが、妻子を失って自暴自棄となり、死にたがっているのを吸血鬼レスタト(トム・クルーズ)がスカウト。仲間にするが、それもそのはずレスタトも独りぼっちが寂しくて、友達が欲しかったというわけ。
 二人の出会いと吸血鬼の儀式はホモセクシュアルで、BL好きならググッとくるところ。
 人間の理性を捨てられず人を殺せずにいたルイが、ペストで孤児となった少女クローディア(キルスティン・ダンスト)を慰めるうちに思わず噛みついてしまうが、ルイがロリコンだったのかは不明。
 不老不死の吸血鬼ゆえに、いつまでも少女の姿でいることに耐えられなくなったクローディアは、レスタトを恨んでワニに喰わせ、ルイと共にパリへ。ヴァンパイア劇場で正体を隠す吸血鬼たちと知り合うが、リーダーのアーマンド(アントニオ・バンデラス)がルイを気に入り、邪魔なクローディアを灰に。劇場の吸血鬼たちを焚刑にしたルイはアメリカに戻り、現在に至る。
 インタビュアーのマロイ(クリスチャン・スレーター)は、ルイの話を理解せず、刺激的な人生を送る吸血鬼になることを欲し、怒ったルイが襲う。
 逃げ出したマロイが車で金門橋を逃げるが、襲ってきたのは意外にもワニの血を吸って生き延びたレスタトで、死か不死かの選択を迫るというオチ。
 吸血鬼の孤独をモチーフとしたヴァンパイア映画で、下膨れのブラピよりもトム・クルーズの方が魅力的な吸血鬼を演じていて、クレジットもトップになっている。
 夜の金門橋の空撮からサンフランシスコの街並み、1ショットで街を移動するオープニングの映像が秀逸で、全編に漂うゴシックな雰囲気がいい。 (評価:2.5)

トリコロール 赤の愛

製作国:フランス、ポーランド
日本公開:1994年11月12日
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー 製作:マラン・カルミッツ 脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ、クシシュトフ・キエシロフスキー 撮影:ピョートル・ソボチンスキ 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

人間不信の元判事が見い出した友愛のマリア
 原題"Trois Couleurs: Rouge"で、トリコロール:赤の意。Trois Couleursはフランス国旗、自由・平等・友愛の3色を指す。
 タイトルの赤は友愛を意味し、キエシロフスキーの「トリコロール」三部作の完結編。
 ジュネーヴに住む大学生のヴァランティーヌ(イレーヌ・ジャコブ)が、犬を車で撥ねたことから飼い主の元判事(ジャン=ルイ・トランティニャン)と出会い、彼が近所を盗聴していることを知る。
 盗聴の理由というのが、機械的に人間を扱う裁判に嫌気がさし、生々しい人間観察に面白味を見い出したというもので、若い時に恋人の情事を目撃して人間不信に陥ったということが明かされる。
 この元判事と重ねられるのが法学生のオーギュスト(ジャン=ピエール・ロリ)で、元判事の若い頃と同じ体験をする。ヴァランティーヌとは接点がないものの、最後に海難事故で二人が出会い、オーギュストが元判事同様にヴァランティーヌによって人間不信から救われる予感で終わる。
 元判事がヴァランティーヌに問うのは、犬を助けた善意あるいは友愛の理由で、盗聴による更なる人間不信-そこには裏切りばかりが渦巻いているーに陥っている。
 ヴァランティーヌさえも、ロンドンにいる恋人に男関係を疑われていて、そうした世の中で友愛を体現するマリアとして描かれる。
 そのシンボルとなるのがヴァランティーヌがモデルとなった街頭の巨大なポスターで、友愛の赤で彩られる。
 「トリコロール」三部作の中では最もテーマが消化されていて、ドーヴァー海峡の海難事故で助かるのがこの二人のほかに、「青」のジュリー(ジュリエット・ビノシュ)とオリヴィエ(ブノワ・レジャン)、「白」のカロル(ズビグニェフ・ザマホフスキ)とドミニク(ジュリー・デルピー)で、それぞれに難破しかかった愛が救われるという、完結編らしい結末になっている。 (評価:2.5)

恋する惑星

製作国:香港
日本公開:1995年7月15日
監督:ウォン・カーウァイ 製作:ジェフ・ラウ 脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル、ケン・ラーワイ 美術:ウィリアム・チャン 音楽:チャン・ファンカイ、ロエル・A・ガルシア

フェイ・ウォンの飄々とした道化じみた演技がいい
 原題"重慶森林"で、重慶の森の意。
 香港・尖沙咀にある重慶大厦を舞台に2組の男女の恋模様を描く。前半は刑事(金城武)と麻薬密売の金髪女(ブリジット・リン)、後半は警官(トニー・レオン)と売店の店員(フェイ・ウォン)。二つの話を繋げるのは刑事と警官が立ち寄る売店だけで、完全に交わらないオムニバスなのだが、前半の話が中途半端なので今一つすっきりしない。
 刑事は恋人にフラれたばかりで、バーで金髪女をナンパ。酔い潰れてホテルで一夜を過ごすが、翌朝誕生日おめでとうメールが届く。恋には賞味期限があって、それを誕生日と定めていた刑事は、このメールで失恋から立ち直る。一方、金髪女は裏切った取引相手を殺し、金髪のカツラを脱ぎ捨てる。
 警官はCAの恋人と別れたばかりで、恋人が部屋の返却キーの入った封筒を警官に渡すように売店の店主に預ける。警官が封筒を受け取りたがらないため、店員のフェイはこっそり合鍵で警官の部屋に出入り。やがて警官にバレてしまうが初デートの日、フェイは1年後のチケットを残して渡米してしまう。
 1年後、CAとなったフェイが売店を訪れると、店を譲り受けた警官がいて二人の始まりを予感させて終わる。
 前半は、手持ちカメラで雑踏の中を走り回る残像を利用した映像が効果的で、ストーリーはともかく映像マジックに酔いしれる。もっともあまりに動きが激しすぎるので映像酔いに注意。
 後半は、なんといってもフェイ・ウォンの飄々とした道化じみた演技が抜群で、鍵となるママス&パパスの「夢のカリフォルニア」同様のドリーミーな物語になっている。 (評価:2.5)

活きる

製作国:中国
日本公開:2002年3月23日
監督:チャン・イーモウ 製作:チウ・フーション 脚本:ユイ・ホア、ルー・ウェイ 撮影:リュイ・ユエ 音楽:チャオ・チーピン

皮肉な中国共産党賛美は明日への希望か諦めか?
 原題"活着"で、邦題の意。ユイ・ホアの同名小説が原作。
 福貴(グォ・ヨウ)を主人公とする1940年から1970年頃に至る、中国の一家族の年代記を描く。
 地主の跡取りの福貴は博打好きで、影絵の芝居小屋を持つ龍二に騙され家屋敷を奪われ、家族と借家暮らしとなる。生活費を稼ぐため龍二の影絵道具をもらい受け、仲間の春生とともに地方巡業中に国共内戦に巻き込まれて革命軍に捕まるが、兵士たちを慰問する影絵芝居が幸いして無事故郷に帰還。地主と間違えられた龍二が反動分子として処刑されるのを見て、災い転じて福となす身の幸運に喜ぶ。
 共和国建国により人々が飢えから解放され、武器製造のための鍋釜供出、プロレタリアート万歳、台湾解放を叫ぶ段になると、共産党翼賛のプロパガンダ映画と見紛うが、党の地方幹部となった春生が起こした交通事故で福貴の一人息子の有慶が死ぬ段になって、少し風向きが変わってくる。
 文化大革命が始まり、影絵が反革命的と指弾されるとの春生の忠告で商売道具を焼却。長女・鳳霞が青年労働者幹部の二喜と婚約すると、媒酌人の春生から毛沢東の大きな絵がお祝いに送られてくるという、チャン・イーモウの皮肉が込められる。そうして文革に迎合した春生も走資派と糾弾され、妻は自殺し、春生は失脚する。
 妊娠した鳳霞が出産のために入院すると、医者は反革命分子と看護学生に追放されていて、男の子を出産するが出血が止まらずに死んでしまう。
 ここまでくると前半の共産党賛美も皮肉に思えてきて、同じように感じたのか本作は中国での検閲を通らずに未だ未公開のままとなっている。
 数年後、文革の嵐が通り過ぎたのかは不明だが、妻(コン・リー)、二喜、孫の饅頭と鳳霞、有慶の墓参りを終えた後、福貴は口癖である「その頃は今よりもっといい世の中だ」と、明日の中国に希望を繋ぐというラストシーンとなっている。
 この台詞について、中国が昨日よりも今日、今日よりも明日と少しずつ良くなっていると解釈するか、共産党政権下で進歩しない中国でせめて未来に希望を繋ぐしかないという諦めと捉えるかをチャン・イーモウは観客に委ねている。
 文革までの中国の歴史を庶民の視点から描く試みだが、文革を描いた他の作品よりも深堀り出来たかは疑問。 (評価:2.5)

パリのランデブー

製作国:フランス
日本公開:1995年11月23日
監督:エリック・ロメール 製作:フランソワーズ・エチュガレー 脚本:エリック・ロメール 撮影:ディアーヌ・バラティエ 音楽:パスカル・リビエ

上手くいかない恋愛模様を描く花のパリ観光案内
 原題"Les Rendez-vous de Paris"で、邦題の意。3話からなるオムニバスで、3組の男女の恋愛模様をコミカルに描く。
 第1話"Le Rendez-vous de 7 heures"(7時の待ち合わせ)は、浮気な恋人に悩む女子学生エステル(クララ・ベラール)の物語で、市場で男にナンパされカフェでのデートを約束する。
 行くつもりはなかったが、財布を掏られたことに気づき、それを拾ったアリシー(ジュディット・シャンセル)が同じカフェでのデートの約束があるというので、ナンパ男がスリかどうか確かめるために一緒にカフェに行く。ところがアリシーのデート相手がエステルの恋人オラス(アントワーヌ・バズレル)で、怒って立ち去るとオラスが追いかけてくる。
 カフェに置き去りにされたアリシーがテーブルを立つと、入れ替わりにエステルのナンパ男が座るという擦れ違いのドラマ。
 第2話"Les Bancs de Paris"(パリのベンチ)は、郊外に住む大学講師(セルジュ・レンコ)が同棲中の彼氏がいるpa\\パリジェンヌ(オロール・ローシェール)とパリ中の公園をデートして口説く話。
 娘の気持ちも傾いて、彼氏がリヨンに出掛ける間にモンマルトルのホテルでの逢引を承諾する。二人がホテルに入ろうとすると、パリにいないはずの彼氏がカップルでホテルに入っていくのを見つけ、彼氏があってこそのアバンチュールだと大学講師を袖にする女心のドラマ。
 第3話"Mère et Enfant 1907"(母と子1907年)は、若い画家(ミカエル・クラフト)がピカソ美術館で編集者の女(ベネディクト・ロワイヤン)に一目惚れする話。
 新婚の彼女をストーカーしてアトリエに招待するが、画家が世話をしているスウェーデン娘(ヴェロニカ・ヨハンソン)を口説いた方がいいと去られる。
 不誠実な画家はスウェーデン娘にもフラれ、製作中の絵に手を入れて一日が無駄ではなかったと自分を納得させる。画家の超自然主義の絵に描かれた人々をスウェーデン娘に虚ろだと評されるのがミソ。「母と子1907年」はピカソの絵のタイトル。
 いずれも待ち合わせの約束が守られないというオチで、それなりに楽しめるフランス小噺になっているが、上手くいかない男女間を描写しただけで、パリ観光案内以上のものにはなっていない。 (評価:2.5)

ファウスト

製作国:チェコ
日本公開:1996年8月10日
監督:ヤン・シュヴァンクマイエル 製作:ヤロミール・カリスタ 脚本:ヤン・シュヴァンクマイエル 撮影:スバトプルク・マリー 美術:エヴァ・シュワンクマイエロヴァー、ヤン・シュヴァンクマイエル

異種交合という悪魔的な見どころもあるファンタジー
 原題"Lekce Faust"で、ファウストの教えの意。
 現代を舞台に『ファウスト』の世界に迷い込む男の幻想的な物語で、実写と人形劇、ストップモーション・アニメーションを駆使したユニークな作品。
 中年男がプラハの街角で配られていた地図によって古びた建物の劇場の楽屋に誘われる…という不思議なプロローグで物語は始まる。
 その建物内で男は『ファウスト』の台本を手に入れ、衣装を身に着けるとファウストの姿に。逃げ出した男は錬金術の実験室に迷い込み、悪魔の誘惑と天使の忠告を受ける。レストランで手に入れた道具と魔方陣を使ってメフィストフェレスを呼び出し、快楽と引き換えに24年後に悪魔に魂を売り渡す契約をする…というもの。
 幻惑的な上に説明不足でストーリーは若干わかり辛いが、見どころはこの幻惑的な世界観にあって、それをストップモーション・アニメーションとチェコの伝統的なマリオネットで表現する。粘土でできた赤ん坊の口に呪符を押し込むと動き出し、骸骨へと変化していくクレイ・アニメーションが良くできている。
 ファウストがマリオネットの美女ヘレナを押し倒すシーンも異種交合という大人向けの悪魔的な見どころか。
 契約満了となり、男は『ファウスト』の台本を燃やしてファウストの役を降りて逃げ出すが、無人の車に撥ねられて死ぬというオチで終わる。 (評価:2.5)

ザッツ・エンタテインメントPART3

製作国:アメリカ
日本公開:1994年12月17日
監督:バド・フリージェン、マイケル・J・シェリダン 製作:バド・フリージェン、マイケル・J・シェリダン 脚本:バド・フリージェン、マイケル・J・シェリダン 音楽:マーク・シェイマン

MGMミュージカル=ザッツ・エンタテイメント総括版
 原題"That's Entertainment! part III"。
 前作から19年、MGM創立70周年を記念して製作されたもので、第1作のミュージカル名場面集、第2作の方向性の定まらない失敗作に対し、第3作はミュージカルの歴史・スター・制作背景を俯瞰する、MGMミュージカル=ザッツ・エンタテイメント総括版となっている。
 序曲から始まるというアナクロな構成で、最初はミュージカルの歴史をおさらいする。サイレントからトーキーへの大転換の中で、MGMが先ずボードビル(寄席)をそのままフィルムにしたというのが興味深い。ステージショーがミュージカルの原型となり、初めはMGMスター総出演のレビューで、その中にバスター・キートンも参加している。
 工夫のないステージショーはすぐにマンネリになってストーリー性が求められ、オペラが取り入れられ、タップなどの踊りと歌を重視したミュージカルへと発展。エスター・ウィリアムズの水中レビュー、曲芸などに広がっていくミュージカルの歴史が語られる。
 週一で新作が公開され人気を集めるが、テレビの登場により衰退への道を辿ることになる。
 プレゼンターとしてデビー・レイノルズ、ミッキー・ルーニー、エスター・ウィリアムズ、レナ・ホーンが登場。思い出とともに撮影スタジオ、背景部、衣装部、フィルム保管庫などを紹介。フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーランド、エスター・ウィリアムズのフィルモグラフィや、没カットやメイキングフィルムなどの映像も取り入れられているのが映画史的には貴重。
 フレッド・アステアのダンスシーンの手足に目が付いているような運動神経が見もので、ミュージカルの歴史と黄金期のスターたちの至芸を堪能できる作品。 (評価:2.5)

ビバリーヒルズ・コップ 3

製作国:アメリカ
日本公開:1994年9月23日
監督:ジョン・ランディス 製作:メイス・ニューフェルド、ロバート・レーメ 脚本:スティーヴン・E・デ・スーザ 撮影:マック・アールバーグ 音楽:ナイル・ロジャース

第1作からは10年経てばビバリーヒルズも変わる
 原題は"Beverly Hills Cop III"で、シリーズ最終作。第2作から7年、第1作からは10年たてば俳優も歳をとり、続編とはいえ違った作品。
 盗難車を解体して部品を密売する工場を手入れに行くと、工場を襲ったギャング団と鉢合わせ。上司のトッド警部が殺される。ギャングのトラックを追跡するとFBIに妨害され、捜査官から手を引けと勧告される。復讐の念に燃えるアクセルはトラックを追ってビバリーヒルズ警察へ。ローズウッドは広域捜査の担当官、タガートは引退。ボゴミルもいないとなれば、もうこれは『ビバリーヒルズ・コップ』ではない。
 新登場の刑事フリントの紹介でディズニーランド紛いのワンダーワールドの警備主任に会うが、これがギャング団の一人でというところで、あとはワンダーワールドを舞台にした陰謀との戦いとなる。
 冒頭のカーチェイスやワンダーワールド内での銃撃戦など、確実にバイオレンス度は上がっていて、コメディ要素は残っているものの、普通の刑事アクション映画。これでシリーズが終わったのも納得できる。
 映画そのものの出来は悪くないが、舞台がビバリーヒルズである必要もなく、話題はジョージ・ルーカスがワンダーワールドの客で出演しているくらい。 (評価:2.5)

愛しのタチアナ

製作国:フィンランド
日本公開:1995年2月11日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:アキ・カウリスマキ 脚本:サッケ・ジャルヴェンパ、アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン

鬱屈した人生を打破するのは珈琲ではなくウォッカ?
 原題"Take Care of Your Scarf, Tatiana"で、「スカーフを大事にして、タチアナ」の意。
 タチアナはカウリスマキの映画の常連カティ・オウティネン演じるエストニアの女性の名だが、主人公ではない。
 主人公はフィンランドの田舎町の仕立屋の男(マト・ヴァルトネン)で、コーヒーがないのに怒って母親を部屋に閉じ込めて、自動車修理工の男(マッティ・ペロンパー)とナンパしにドライブに出かけるという物語。ドライブインで故障したバスに乗っていた二人の女と出会って港まで送ることになるが、男二人はホテルで同室しても口説くことも出来ず、寡黙なままに港まで来てしまう。
 女二人というのがタチアナとロシア女(キルシ・テュッキュライネン)で、男二人は未練がましくフェリーに同乗、エストニアに着くまでに修理工とタチアナは仲良くなるが、仕立屋は口説けずじまいで、ロシア女は汽車に乗ってしまう。エストニアのタチアナの家に居残った修理工を置いて仕立屋はフィンランドに帰り、母を部屋から出して元の生活に戻るという寸法。
 ただそれだけの話で、人生の鬱屈を描きたかったのか、意図のよくわからない作品。
 仕立屋がコーヒー中毒なのに対し、修理工はウォッカばかりあおっているロックな男という設定。どんなに冴えない男でも、人生はロックに生きなければだめで、コーヒー中毒にはママがお似合いということか? 60年代のフィンランドのシャイな中年独身田舎者の物語。 (評価:2)

トリコロール 白の愛

製作国:フランス、ポーランド
日本公開:1994年8月20日
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー 製作:マラン・カルミッツ 脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ、クシシュトフ・キエシロフスキー 撮影:エドワード・クロシンスキー 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

妻に捨てられた夫の復讐劇だが、そもそも愛の平等って何?
 原題"Trois Couleurs: Blanc"で、トリコロール:白の意。Trois Couleursはフランス国旗、自由・平等・友愛の3色を指す。
 タイトルの白は平等を意味し、愛の平等がテーマ。
 とはいうものの何が平等なのか、あるいは不平等なのかよくわからない。
 パリに住むポーランド人のカロル(ズビグニェフ・ザマホフスキ)がフランス人妻ドミニク(ジュリー・デルピー)に夫のインポを理由に離婚を申し立てられる。カロルはフランス語が不自由なので裁判に勝てないと主張するのが唯一の不平等で、それに根拠があるかどうかも不明な上、個人的な問題である愛の平等とは関係がない。
 メトロで出会ったポーランド人ミコワイ(ズビグニエウ・ザマホフスキ)に誘われてポーランドに帰り、儲け話を手に入れ、ミコワイを共同経営者に事業を成功させて大金持ちに。
 ドミニクに復讐するために全財産を贈る遺言状を書いて死亡を偽装。ドミニクを葬儀に呼び寄せ、遺産目的の殺人にでっち上げ、逮捕されたドミニクは収監されるという物語。
 全体はコメディ仕立てなのだが、何がコメディなのかよくわからない独特のセンスで、コメディだから話の整合性はどうでも良いとばかり、唐突な話の連続で筋が繋がらない。
 葬儀に来たドミニクが涙を流すのを見たカロルは、ホテルに姿を現してベッドイン。インポも治り、幸せだった結婚当初が甦るが、殺人の罪を着せられたドミニクは収監され、監獄の窓から再婚の意思を伝えてカロルは涙するというワケのわからないクロージング。
 復讐を果たしてようやく平等な愛となったということなのか。結婚式の思い出のシーンだけが白のイメージで、そもそも愛の平等って何? とテーマ立てに無理がある。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1994年10月8日
監督:クエンティン・タランティーノ 製作:ローレンス・ベンダー 脚本:クエンティン・タランティーノ 撮影:ンジェイ・セクラ
キネマ旬報:4位
カンヌ映画祭パルム・ドール

タランティーノの映画青年的なウエットな一面が覗ける
 原題"Pulp Fiction"。pulp(更紙)から大衆雑誌の小説、三文小説を意味する。
 タランティーノの初期作品で、カンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞、アカデミー脚本賞を受賞したが、後の軽快なストーリー運びが特長のタランティーノにしては、全体に冗長な印象が否めず、ところどころ退屈なシーンがある。
 レストランのカップル強盗、マフィアのボスから八百長試合を頼まれるボクサー(ブルース・ウィリス)、ボスの若妻(ユマ・サーマン)の相手を頼まれる殺し屋(ジョン・トラボルタ)とその相棒(サミュエル・L・ジャクソン)のエピソードが同時進行し、それぞれの人物が絡んでいく。
 印象としては洋ゲーの『グランド・セフト・オート』(1997)がよく似ているが、本作を真似たのかもしれない。
 ラストシーンがオープニングの過去に戻るため、死んだ登場人物が生き返ってしまい、時系列的にでは中途で物語が途切れてしまった、宙ぶらりんの印象が残る。また何を描きたかったのかテーマが不明瞭で、全体的には作品としての纏まりを欠いている。
 ジョン・トラボルタがユマ・サーマンと『サタデー・ナイト・フィーバー』ばりの踊りを見せてくれるのが見どころで、ブルース・ウィリスは肝腎の八百長試合のシーンがないのが残念。タランティーノならではの過激な暴力場面もまだ少なく、徹底的にドライな爽快感もなく、映画青年的なタランティーノの試みとウエットな一面が覗けるのも映画ファン的には見どころか。 (評価:2)

スター・トレック ジェネレーションズ

製作国:アメリカ
日本公開:1995年12月23日
監督:デヴィッド・カーソン 製作:リック・バーマン 脚本:ロナルド・D・ムーア、ブラノン・ブラーガ 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽:デニス・マッカーシー

カークも応援する『新スタートレック』劇場版第1作
 TVシリーズ『新スタートレック』(Star Trek: The Next Generation)メンバーによる劇場版第1作。劇場版通算としては第7作にあたる。原題は"Star Trek: Generations"で、旧作との新旧両世代を指す。TVシリーズは1987~94にかけて7シーズン放映され、本作は放映終了後に公開された。
 旧シリーズのカークとスコットを引っ張り出して、旧作人気に繋げようとした。カークの去就が本作の一つの目玉。
 冒頭は、『新スタートレック』以前、旧作の後日談で、引退したカークらが新造船エンタープライズBの進宙式に招待されるが、救難信号を受ける。一部の難民を救出するもののリボン状のエネルギーの渦に巻き込まれて爆発。
 ここで話は78年後になり、『新スタートレック』メンバーを乗せたエンタープライズDが救難信号を受け観測基地へ向かいソランを救出するが、78年前の事故の生存者だった。合成物質トリリシウムを使った兵器、永遠に幸福でいられる土地ネクサス、エネルギーリボンの謎、とミステリーはてんこ盛りだが話は煩雑な上に冗長。
 SF設定も甘いが、エンタープライズBが損傷を受けた穴から宇宙服なしに宇宙を眺めるシーンはシュール。
『新スタートレック』のホロデッキの仮想世界やピカード艦長以下のメンバーが説明なしに登場する上に、キャラクターが多すぎて、TVシリーズを見ていないと忙しすぎてついていけない。
 ストーリーのわかりにくさや冗長さもあって、つい眠くなる。脚本で予定されていたスポックとマッコイが出演しなかったのは、前作『未知の世界』で卒業式は終わったというけじめ。  (評価:2)

ポカホンタス

製作国:アメリカ
日本公開:1995年7月22日
監督:マイク・ガブリエル、エリック・ゴールドバーグ 製作:ジェームズ・ペンテコスト 脚本:カール・ビンダー、スザンナ・グラント、フィリップ・ラゼブニク 音楽:アラン・メンケン

白人向けに作られた都合のいいアメリカ建国神話
 原題"Pocahontas"で、16世紀初頭に実在したネイティブアメリカン・ポウハタン族の酋長の娘。
 アメリカの建国神話を題材にしたもので、イギリスが北アメリカに入植した最初の植民地のエピソード。1607年に入植者を乗せた船で上陸したヴァージニア会社のジョン・スミスが、ポウハタン族の酋長の娘ポカホンタスと出会い、二人は恋に落ちるが、当時ポカホンタスは10歳。エピソードはジョン・スミスの回顧録に基づくが、作り話とされている。
 植民地を建設しようとする入植者が森林を伐採、先住民の土地に砦を築き、侵入者とポウハタン族との戦いとなる。
 それまで英語を話していたポカホンタスが、ジョン・スミスと遭遇した途端ポウハタン語を話し、英語が理解できない顔をするのが笑えるが、スミスに英語を教えられてみるみる上達するのも可笑しい。
 二人はたちまち恋に落ち、逢瀬を重ねているところをそれぞれの仲間に見咎められ、スミスはポウハタン族に捕まって処刑されそうになるが、ポカホンタスが守り解放される。
 次に酋長が入植者の指導者に銃撃されるのをスミスが身を挺してお返し。この傷によりスミスはイギリス送還となり、ポカホンタスは迷って生地に残ることを選択。離れ離れとなって二人の恋は幕を閉じるが、この部分だけを見ても入植者に都合の良い話になっている。
 その後、ポカホンタスは入植者の人質となり、利用された挙句に有力者と結婚。イギリスに渡って植民地政策の宣伝に利用され、若くして病死。
 劇中では、入植者たちが先住民に対し始終"savage"(野蛮人)と罵っていて、思わず失笑が出るくらいに力が抜ける。入植者たちの目的が土地の収奪ではなく金鉱探しが目的に変えられているのも白人向けで、当時のディズニーの感覚がわかる。 (評価:2)

レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う

製作国:フィンランド
日本公開:1994年7月23日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン 音楽:マウリ・スメン

『出エジプト記』をモチーフにしているがストーリーがつまらない
 原題"Leningrad Cowboys Meet Moses"で、邦題の意。『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989)の続編。
 メキシコで人気バンドとなったレニングラード・カウボーイズが落ちぶれて故郷に帰るという話で、前作同様、ロードムービー形式の音楽コメディ。
 メキシコに定住して服装までメキシカンスタイルになり、テキーラを飲み過ぎて零落したメンバーが、失踪していた元マネージャーのウラジミール(マッティ・ペロンパー)の手引きでニューヨークにやってくる。死んでモーゼに生れ変ったというウラジミールは、メンバーを導いて約束の地である故郷シベリアを目指し、ボートでヨーロッパ大陸に渡る。
 その際、マネージャーが自由の女神像の鼻を土産に持ち帰ったために指名手配となり、CIA諜報員に追われることになる。
 以下、フランスで新メンバーを加えて、フランクフルト、ライプチヒ、ドレスデン、チェコ、ポーランドと演奏しながらの貧乏旅行。最後にシベリアに辿り着くまで。
 『出エジプト記』をモチーフにしているが、ストーリーがつまらなすぎてコメディにもなっていない。
 預言者エリアや共産党宣言まで持ち出すが、皮肉っているのかただの道具立てなのか意図がよくわからないままに終わる。失敗した続編の好例。 (評価:2)

ライオン・キング

製作国:アメリカ
日本公開:1994年7月23日
監督:ロジャー・アラーズ、ロブ・ミンコフ 製作:ドン・ハーン 脚本:ジョナサン・ロバーツ、アイリーン・メッキ、リンダ・ウールヴァートン 音楽:ハンス・ジマー
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

国盗り物語にしては家族内のコップの争いでしかない
 原題"The Lion King"。ミュージカル・アニメーション。
 公開当時、『ジャングル大帝』の盗作ではないかと話題になったが、それを抜きにしても作品自体は相当につまらない。
 冒頭、ライオンの子シンバが生まれると、父のムファサが、この国のすべては百獣の王たる父のもので、やがて世継ぎであるシンバの所有物となるという台詞が、あまりに傲慢すぎてズッコケる。
 ストーリーの大筋は、次の王の座をシンバに奪われたムファサの弟スカーが、陰謀を巡らしてムファサとシンバを亡き者にせんとするもので、生き延びたシンバがイボイノシシとミーアキャットに育てられ、大人になってスカーに復讐を果たし、王を継ぐというもの。
 要は王座を狙う叔父との国盗り物語なのだが、その割には、登場する動物たちが少なすぎて、広大な無人のサバンナを山の上から眺めながら、この国は俺のものだと言うものの、王国の実態は無きに等しい。
 しかも登場する雄ライオンは、ムファサとシンバとスカーだけで、あとは数頭の雌ライオンだけ。これでは、家族内のコップの争いにしかならず、冒頭のムファサのライオン・キング宣言が大言壮語にしか聞こえない。
 アニメーションとしては、ヌーの群れが押し寄せるモブシーンは壮観だが、子供時代のシンバと幼馴染のナラが可愛くないのが致命的で、狡猾な悪役のスカー以外はキャラクターとして無個性で面白味に欠けるという、つまらない絵本を捲っているような気にさせる、とっても残念な作品。 (評価:2)

甘い毒

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ジョン・ダール 製作:ジョナサン・シェスタック 脚本:スティーヴ・バランシック 撮影:ジェフ・ジャー 音楽:ジョセフ・ヴィタレッリ
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

悪女を気取っただけのビッチにしか見えない
 原題"The Last Seduction"で、最後の誘惑の意。
 『ヤッターマン』のドロンジョ、ないしは『ルパン三世』の峰不二子、映画なら『氷の微笑』(1992)のシャロン・ストーンといった、悪女が主人公の作品。
 もっとも、騙されてもいいと思えるくらいに魅力的で知的なのが悪女の条件で、本作のブリジット(リンダ・フィオレンティーノ)がそれに当てはまるかというと、悪女を気取っただけのビッチにしか見えないのが痛い。
 プロローグは詐欺商法の会社で部下を無能と罵倒するシーンから始まるが、これが大韓航空のナッツ姫程度の小者にしか見えない。医療用コカインの売人の夫(ビル・プルマン)に殴られた腹いせに大金を持ち逃げして田舎町に潜伏。偽名で応募した保険会社にマネージャーで就職出来てしまうのも不思議で、おまけに仕事らしい仕事もしない。
 夫が派遣した探偵(ビル・ナン)を殺害し、町の純情な青年マイク(ピーター・バーグ)を騙して夫を殺そうとするが、真面目なマイクが殺害に乗ってしまうのも不自然。騙されていることに気づいたマイクが躊躇すると、代わりに夫を殺し、マイクに罪を擦り付けようとする。逃げればいいものを挑発に乗ってブリジットをレイプするのも無理筋で、サスペンスとしても訳がわからずに終わる。
 悪女というには貫禄不足で、シナリオの出来も悪い。 (評価:2)


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