海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1991年

製作国:アメリカ
日本公開:1991年8月24日
監督:ジェームズ・キャメロン 製作:ジェームズ・キャメロン 脚本:ジェームズ・キャメロン、ウィリアム・ウィッシャー 撮影:アダム・グリーンバーグ 美術:ジョセフ・P・ラッキー 音楽:ブラッド・フィーデル
キネマ旬報:8位

四半世紀前の作品とは思えない高いクオリティ
 原題"Terminator 2: Judgment Day"で、副題は「最後の審判の日」の意。Terminatorは終わらせる者の意。
 1984年の前作のヒットを受けて制作されたが、CGと特殊メイクを使ったSFXが格段の進歩を遂げ、今見ても四半世紀前の作品とは思えない高いクオリティが最大の見どころ。
 とりわけT-1000の殺人兵器ぶりはCGを使った画期的なもので、液体金属で変幻自在という設定を十二分に生かした演出が新鮮だった。
 ストーリーは前作の続きで、ジョン・コナーが生まれて少年になっている。サラ(リンダ・ハミルトン)はターミネーターの妄想から警察病院送り。それまで2人は最後の審判に備えて戦闘訓練を積んてきて、サラは女戦士並に逞しい。
 舞台は1994年。最後の審判の日、1997年8月29日が迫る中で、ジョンを抹殺するためにスカイネットから送り込まれたT-1000と、それを阻止するためにやってくるT-800。一方、サラは病院を脱出してスカイネット誕生の種子となる半導体の開発者ダイソンを殺そうとしているというのが全体状況。ダイソンの開発の元となるのが、前作で破壊されたT-800の半導体と右腕だったというのもミソ。
 T-800の外観=シュワちゃんなので、今回レジスタンスが送り込む旧型もシュワちゃん。前回はジョンを抹殺する側のシュワちゃんが、今回はジョンを守る側になるという理屈も押さえておきたい。この設定も、シナリオで上手く消化されていて、警察は10年前の殺人鬼と同一犯、サラも最初の出会いで敵と勘違いする。
 通常は2匹目の泥鰌になりがちな続編だが、本作では前作の設定を上手く生かしていて、シナリオ・映像共に前作を超える出来となっている。
 前半はバイク対トラックのカー・チェイス、後半は車対へり&タンクローリーのチェイスが見せ場で、アクロバティックな演出が度肝を抜く。液体窒素で凍ってしまうT-1000のシーンは印象的。
 ラストは例によって追い詰められての肉弾戦になるが、製鉄所のシーンは前作と似ていながら非となるもので、最後もまた感動的に終わる。
 エンドのサラのモノローグ"The luxury of hope was given to me by the Terminator. Because if a machine can learn the value of human life... maybe we can too."(ターミネーターから贅沢な希望を与えられた。機械が人の命の価値を学べるなら、私たちにも同じことができるかもしれないということを)が、現代の黙示録のようでちょっとカッコいい。 (評価:4)

製作国:台湾
日本公開:1992年4月25日
監督:エドワード・ヤン 製作:ユー・ウェイイン 脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンカー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン 撮影:チャン・ホイゴン
キネマ旬報:2位

いくつものifによる台湾の一つの時代が産んだ悲劇
 原題同じ。1961年に台湾で起きた中学生による同級生殺人事件を基にした実話。牯嶺街(クーリンチェ)は、台北市中心部、中正紀念堂の南の街区で、主人公の通う台北建国中学も近くにある。
 小四(シャオスー、張震)は国民党政府とともに上海から逃れてきた外省人公務員一家の子弟で、政府が日本人から接収した日本家屋に住んで、鬱屈した日々を送っている。
 国民党政府が台北にやってくるのは1950年で、それから10年が経過して捲土重来も遠い夢となり、親の世代は勿論、外省人の若者たちにとっての未来は不透明なものとなっている。
 そうした停滞感・挫折感の中で中学受験に失敗して建国中学の夜間部に入学した小四は不良グループに入り、教師から素行を咎められてますます負の連鎖へと向かう。
 ふとしたきっかけで同級生の小明(シャオミン、楊静恰)と付き合うようになるが、彼女は不良グループのボス・ハニー(林鴻銘)の女で、ハニーは小明の取り合いで対立するグループのボスを殺して台南に逃げていた。
 小明は可憐そうに見えるが、男たちはみんな自分に言い寄ってくると公言し、校医や軍指令官の息子小馬(シャオマー、譚至剛)とも関係を持っていた。教師とのトラブルから夜間部を退学し、再起を期して昼間部への編入試験のために小明との交際を控えていた小四は、小明と再会して思わずナイフで刺してしまう。
 事件そのものは初心な少年の一途な思いが、空回りした挙句に少女に裏切られたとう感情によって招いた不幸なのだが、背景に目を向けた時に、この事件がいくつものifによって起きたことに気づく。
 もし彼が受験に失敗していなければ、もし彼が外省人の子弟でなかったら、もし国民政府が台湾に追われなければ、もし日本が台湾を統治していなければ・・・小四がこの事件を起こすことはなかったかもしれない。
 小四の父(張國柱)は上海時代の交友から共産党との関係を疑われ不遇を囲う。妻(金燕玲)から本省人の店の仕事の紹介を受けるが、国民党政府の役人というプライドを捨てられずにいる。
 台湾の一つの時代が産んだ悲劇であるとともに、今なお続く外省人と本省人のアイデンティティのギャップの根源を本作は示している。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年6月22日
監督:ジョナサン・デミ 製作:エドワード・サクソン、ケネス・ウット、ロン・ボズマン 脚本:テッド・タリー 撮影:タク・フジモト 音楽:ハワード・ショア
キネマ旬報:2位
アカデミー作品賞

公開時はレクター博士がなぜ怖かったのか?
 原題は"The Silence of the Lambs"で、トマス・ハリスの同名小説の映画化。公開当時は衝撃的で面白かったが、改めて観るとアカデミー賞で作品賞、主演男優賞、主演女優賞、監督賞、脚色賞の5部門を総なめしたのが意外。この年、たいした作品がなかったということか。
 この映画は何度か見ているが、腰を落ち着けてみるとシナリオに意外と突っ込みどころがある。スリリングな展開に惑わされてこれまで気がつかなかったということか。二度三度観てると、レクター博士もそれほど怖くなくなるし、レクターとクラリスの心理分析も結構、手前勝手だったりする。この手のサスペンス映画には初見だけが面白いというのが殆どだが、この作品もよく出来てはいるがその中のひとつ。
 それでもラストまで飽きずに見させてくれるし、クラリスとFBIが別々にバッファロー・ビルの隠れ家に突入するシーンの演出は秀逸で、精神病院とカニバリズムが苦手でなければ、初めて見る人にはたぶんスリリング。露骨な残酷シーンはないが、猟奇殺人の死体と変質的残酷シーンを連想させるので要注意。 (評価:3)

製作国:ベルギー、フランス、ドイツ
日本公開:1991年12月21日
監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル 製作:ピエール・ドゥルオー、ダニー・ジェイ 脚本:ジャコ・ヴァン・ドルマル 撮影:ウォルター・ヴァン・デン・エンデ 音楽:ピエール・ヴァン・ドルマル
キネマ旬報:9位

子役の大人顔負けの妖女ぶりが大きな見どころ
 原題"Toto le heros"で、主人公トトの意。
 産院の火事で、向いの家の同じ誕生日の男の子アルフレッドと取り違えられたと信じる男の子の物語。なぜ、そう信じるかといえば、向かいの家は金持ちなのに対し、自分の家は庶民の上に次々と不幸が襲うから。
 不幸の始まりはパイロットの父親の死で、それが原因で貧しくなり、姉は万引きを働いた上にスーパーマーケットに放火するというひねくれ者。洗濯機から生れたと信じる弟は知的障害児。
 トトと姉のアリスは仲が良いを通り越して近親相姦すれすれ。ところが姉は向かいの家のアルフレッドと仲良くなり、怒ったトトに姉弟愛を証明するため向かいの家に放火。その際に、焼死してしまう。
 青年になったトトは、アリスに瓜二つの人妻エヴリーヌと出会い、逢瀬を重ねるうちに懇ろとなるが、これがアルフレッドの妻で、駆け落ちしようとして行き違いから別れ別れになってしまう。
 これらの物語は、老人となったトトの回想ないしは妄想として語られるため、断片的な上に不確か。監督のジャコ・ヴァン・ドルマルの独特の語り口で描かれ、ヨーロッパ映画にしかない独特の雰囲気を漂わせている。
 とりわけ、幼少期のアリスを演じるサンドリーヌ・ブランクが大人顔負けの妖女ぶりを発揮して、大きな見どころとなっている。
 アルフレッドは大事業家となるものの老いて会社は倒産。恨みを持つ人々から命を狙われることになるが、取り違えっ子を葬るのは自分の役目だとトトがアルフレッドの家に向かう。
 ここでアルフレッドは、トトの自由な人生が羨ましかったと告白し、離婚したエヴリーヌと再会させる。再婚したエヴリーヌは今でもトトを愛していて、取り違えられた人生が幸せだったことに気付いたトトは、産院での間違いを正すべく、最後はアルフレッドに戻って自分を葬ることにする。
 トトの妄想によって語られるわかりにくいストーリーだが、老人のトトを演じるミシェル・ブーケの名演もあって、不思議な魅力のある作品となっている。 (評価:3)

冬物語

製作国:フランス
日本公開:1992年12月19日
監督:エリック・ロメール 製作:マルガレート・メネゴス 脚本:エリック・ロメール 撮影:リュック・パジェス 音楽:セバスチャン・エルムス

心温まるクリスマスに見るに相応しいメルヘンな作品
 原題"Conte d'hiver"で、邦題の意。
 ブルターニュの海で美男のシャルル(フレデリック・ヴァン・デン・ドリエッシュ)とゆきずりのひと夏を送ったフェリシー(シャルロット・ヴェリ)は、名も知らず、住所だけを伝えて再会を約す。ところが国語力の乏しいフェリシーは住所を間違え、しかも妊娠して子を産み、彼と逢えないままに5年が過ぎる。フェリシーに思いを寄せる青年ロイック(エルヴェ・フュリク)と同居しながらも、勤務先の美容院の妻帯者の店長(ミシェル・ヴォレッティ)と不倫。離婚が成立し、二人でヌヴェールで美容院を開業するも、シャルルへの思いは深まりパリに出戻り。ロイックの求婚も断り、一途にシャルルへの誠を貫いていると、神に思いが通じたのか、あら不思議、バスで偶然シャルルに出会い、思いが叶うハッピーエンド。
 出来過ぎの物語だが、クリスマスから新年にかけての舞台設定と、頭はプアだが心はピュアというフェリシーのキャラクターが幸いして、嫌味のない、見ている方もハッピーになれる作品となっている。
 中盤まで、まさかフェリシーがシャルルと再会して何事もなくメデタシメデタシの少女漫画な展開はないと高を括っていると、フェリシーがロイックに誘われてシェークスピア劇『冬物語』を観に行くことになって怪しくなる。劇の最後は、シチリア王が死んだと思っていた王妃ハーマイオニとの再会を果たすシーンで、フェリシーは自分の境遇を重ねて涙する。
 本作のタイトルと重ねると、ここでシェークスピア劇の通りにフェリシーがシャルルと再会するラストがバレてしまうのだが、逆にその後のハッピーエンドに向けての予定調和な展開も安心して見ていられるという、不思議と心温まる、クリスマスに見るに相応しいメルヘンな作品になっている。 (評価:3)

ロアン・リンユィ 阮玲玉

製作国:香港
日本公開:1993年8月14日
監督:スタンリー・クワン 製作:ウィリー・チェン、ツイ・シャオミン 脚本:ヤウ・タイ・オンピン、ペギー・チュウ 撮影:プーン・ハンサン 美術:ポク・ヨークモク 音楽:シウ・チョン

艶めかしく耽美的な映像で描かれる女優ロアンの蜻蛉のような儚さ
 原題"阮玲玉"。
 1920〜30年代に活躍した中国の人気女優ロアンが25歳で自殺するに至った経緯を、再現フィルム、関係者へのインタビュー、再現フィルム出演者の感想、残された当時の映画フィルム、写真等を交えて複合的に描くドキュメンタリー風の作品。
 16歳でデビューしたロアン(マギー・チャン)は清純派から汚れ役までこなす演技力を武器に脇役から主役俳優へと駆け上がって行く。一方、私生活ではヒモ同然のチャン(ローレンス・ウン)に貢いでいたが、映画監督のタン(チン・ハン)に惹かれ愛人となる。
 盧溝橋事件をきっかけにロアンは上海の映画人と共に排日愛国に傾倒。映画に於ても先進的な女性を選んで演じるようになる。そうした代表格の女優が新聞に叩かれ自殺した事件をモデルに映画『新女性』が製作され、ロアンがその女優を演じるが、これに新聞が反発。左翼系映画を危惧する国民党政府もチャンにロアンを不貞で告訴させる。
 ロアンはタンに上海から逃げようと持ち掛けるがタンは妻と別れることを拒否、失意のロアンは睡眠薬自殺をする。
 ベルリン映画祭最優秀女優賞を獲得したマギー・チャンは、ロアンを演じてロアンが乗り移ったような熱演で、『花様年華』(2000)の妖艶な演技の片鱗を見せている。
 中国幻想小説を思わせるようなファンタスティックでソフトフォーカスの映像が艶めかしく耽美的。
 ロアンは演じる先進的な女性とは裏腹な古典的な女で、やがて魂となって昇華していく蜻蛉のような儚さを感じさせる佳作となっている。 (評価:3)

わが街

製作国:アメリカ
日本公開:1992年5月16日
監督:ローレンス・カスダン 製作:ローレンス・カスダン、チャールズ・オークン、マイケル・グリロ 脚本:ローレンス・カスダン、メグ・カスダン 撮影:オーウェン・ロイズマン 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
ベルリン映画祭金熊賞

グランドキャニオンと牛の尻にとまったブヨの処世訓
 原題"Grand Canyon"。
 劇中、グランドキャニオンの崖の端に座ると、人間が如何に小さい存在かを実感できるという台詞があり、最後に主人公たちがグランドキャニオンに行く。
 台詞が登場するのは、弁護士のマック(ケヴィン・クライン)がロサンゼルスの黒人スラムでのピンチを黒人のサイモン(ダニー・グローヴァー)に救われるプロローグで、以降、マックと周囲の人々のトラブルと人間関係の話になる。
 様々なことで人々は悩むが、サイモンの父の言によれば生きることは習慣(habit)で、雄大で悠久の自然を前にすれば、それらは些細なこと、牛の尻にとまったブヨのように小さく思えてくるという処世訓を描く。
 物語に登場する些事は、マックと秘書(メアリー=ルイーズ・パーカー)の浮気、息子の巣立ち、妻が拾ってきた捨て子の養子縁組、友人の映画プロデューサー(スティーヴ・マーティン)の強盗被害、その恋人(サラ・トリガー)との結婚問題、マックの秘書の友人(アルフレ・ウッダード)とサイモンの恋愛、黒人スラムに住むサイモンの妹の白人街への引っ越し、その息子の不良問題、黒人差別、マックの秘書の退職と恋愛など。
 マックが秘書の友人とのデートをコーディネイトしてくれた御礼に、サイモンがグランドキャニオンに案内するが、同行する関係者の中にマックの元秘書はいない。
 ダニー・グローヴァーとアルフレ・ウッダードの黒人俳優がいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1992年6月6日
監督:ジョン・アヴネット 製作:ジョン・アヴネット、ジョーダン・カーナー 脚本:ファニー・フラッグ、キャロル・ソビエスキー 撮影:ジェフリー・シンプソン 音楽:トーマス・ニューマン
キネマ旬報:8位

何ものをも恐れぬ女の爽快感のある物語
 原題"Fried Green Tomatoes"で、主人公の女性が経営するカフェの名物料理、青トマトをスライスしたフライのこと。ファニー・フラッグの小説"Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe"(各駅停車駅前カフェのグリーントマト・フライ)が原作。
 アメリカ南東部ジョージア州の小さな町が舞台。病院の叔母を見舞いに来た平凡な主婦エブリン(キャシー・ベイツ)が老女ニニー(ジェシカ・タンディ)と出会い、廃線となった駅前にある朽ちたカフェにまつわる昔話を聞くうちに、自己改革に目覚めるという女の物語。
 昔話は第一次世界大戦が終わった頃のことで、老女の義姉にあたるイジー(メアリー・スチュアート・マスターソン)という男勝りで自由奔放な娘が主人公で、彼女が犯したという殺人事件を物語る。
 イジーは最愛の兄を鉄道事故で亡くし、慰め役の兄のガールフレンド・ルースを連れ回すうちにルースはイジーに感化され二人は親友となる。殺人事件のきっかけはルースが結婚した夫がDV男で、妊娠中のルースを救出して仲間と駅前カフェを開店。子供を連れ戻しに来たDV夫を過って殺してしまうが、事件そのものは行方不明の迷宮入りとなり、これを疑う保安官がDV夫の車の発見によってイジーと仲間を起訴する。
 駅前カフェの仲間と牧師までが偽証してイジーは無罪放免。しかしルースが癌で亡くなり、遺児をイジーが引き取り、最後に殺人事件の真相が語られる。
 イジーは貨物列車に乗り込んで積荷の食料を沿線のテント生活者にばらまいたり、仲間の黒人をカフェで雇い、生活困窮者に食べさせ、黒人客を店に入れるという、当時の南部では異端な自由思想の持主。そのためにクー・クラックス・クランの襲撃を受けたりもする。
 エブリンはイジーの武勇談を聞くうちに、夫との倦怠生活を改め、ダイエットに目覚め、若者たちの傍若無人な行動に反撃し、受動的な自分から脱皮するが、変身したエブリンを含め、イジーの何ものをも恐れぬ行動は、鬱屈した日常のフラストレーションを晴らす爽快感のある物語となっている。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1992年3月14日
監督:ジョエル・コーエン 製作:イーサン・コーエン 脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 撮影:ロジャー・ディーキンス 美術:デニス・ガスナー 音楽:カーター・バーウェル
キネマ旬報:5位
カンヌ映画祭パルム・ドール

コーエン兄弟のハリウッド映画界への批判
 原題"Barton Fink"で、主人公のシナリオライターの名前。パルム・ドール受賞作。
 ブロードウェーで成功を収めた脚本家がハリウッドの映画製作会社にスカウトされ、専属ライターとなる物語。作劇よりも市井の人々を題材にした社会派作品で新潮流を目指す新進ライターで、ハリウッド行きに躊躇するものの高給と社会的影響力を説得されて単身ロスでのホテル住まいとなる。
 しかし、社長の注文は通俗的なレスリング映画で、自らの志向とのギャップにスランプに陥り1行も書けない。隣室の生命保険のセールスマンと仲良くなり、先輩作家に助言を求めるものの無駄で、秘書で愛人の年増女に魅かれてベッドを共にしてしまう。
 ・・・とここまでは、いつになったらサスペンスになるのかという展開だが、目覚めると女が血だらけで死んでいて、いよいよサスペンスの幕開けと思う間もなく不条理な展開になり、セールスマンを主人公に書き上げたシナリオを文芸的だと社長に却下され、書いても映画化されない籠の鳥を宣告され、海辺で一人虚脱するとホテルの部屋にあった写真の美女が現れてエンドとなる。
 どこまでが現実で、どこからが幻想なのかが不明瞭のため、見終わってポカンとする。合理的に考えれば、物語全体がバートン・フィンクが書いたシナリオで、ホテル以外のシーンは現実にあった出来事で、事実と創作が混然となって出来上がった物語と解釈するとすっきりする。
 背景にハリウッドの商業主義と映画人たちの奢侈で俗悪な生態への批判があって、その異様さがホテルに象徴され、馴染めず苦しむバートンが生み出す醜悪な物語に結実する。
 一方で、時代設定を1941年の日米開戦前夜におき、戦争に協力する映画会社社長を独裁者になぞらえて、その後の赤狩りに進むハリウッドの体質を象徴させている。
 そうした点でコーエン兄弟のハリウッド映画界への批判の作品であると解釈しない限り、本作は意味不明なままに終わる。ラストシーンはホテルの写真と同一で、これがバートンのイマジネーションであったことを示す。
 生命保険で安心を売るものの安心を買わない人々に落胆し、バートンの救世主となるセールスマンをジョン・グッドマンが好演、主人公バートンにジョン・タトゥーロ。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1992年5月23日
監督:ジャック・リヴェット 製作:マルチーヌ・マリニャック 脚本:ジャック・リヴェット、パスカル・ボニツェール 撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー 音楽:イゴール・ストラヴィンスキー
キネマ旬報:1位

ヌードモデルとカルチャーセンターのビデオが見どころ
 原題は"La Belle Noiseuse"で、美しいトラブルメーカーの意。バルザックの短編小説『知られざる傑作』が原案。カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞して話題になった作品だが、邦題が上手かった。
 物語は売り出し中の若い画家ニコラが教えを請うために老画家を訪ね、妻をモデルに描いたLa Belle Noiseuseが未完成であることを知る。画商の企てもあって、絵を完成させるために恋人マリアンヌをモデルにすることを承諾する。初めは嫌がっていたマリアンヌは老画家の挑発に乗り、モデルに協力する。ニコラはそれが恋人を失うことに気づくが、後の祭り。完成した絵はマリアンヌの冷淡な本性を描きだしたもので、老画家はそれを壁に塗りこめ、画商には別の絵を渡す。
 本作の見どころはマリアンヌ役エマニュエル・ベアールのヌードと延々と映し続ける描画のシーンで、ある意味、カルチャーセンターのビデオかEテレを見ている気分になれる。もっとも絵画教室ビデオではないので、約4時間は長すぎ。
 人間の究極の本質を描くことが画家のテーマというのが映画のテーマで、最後にその夢(モデルにとっては悪夢)のような作品が完成するが、もちろんその絵を観客に見せることはなく、そんなオチのために4時間もかけるなとラストに恨み事を言いたくなる。 (評価:2.5)

製作国:ギリシャ、フランス、スイス、イタリア
日本公開:1992年9月19日
監督:テオ・アンゲロプロス 製作:ブリュノ・ペズリー テオ・アンゲロプロス 脚本:テオ・アンゲロプロス、トニーノ・グエッラ、ペトロス・マルカリス 撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス、アンドレアス・シナノス 音楽:エレニ・カラインドロウ
キネマ旬報:3位

国境について語るメタファーと観念に満ちた作品
 原題"Το μετέωρο βήμα του πελαργού"で、コウノトリの止った歩みの意。冒頭とラストのシーンで、国境線を跨ごうとして脚を上げたまま立ち止まるポーズをコウノトリが片足を上げる様子に譬えたもの。
 舞台はギリシア北部、川を挟む国境地帯の町。アルバニアやイランから逃れてきた難民たちが入国許可を待って暮らしている。
 貨車などに暮らす難民を取材にきたテレビクルーのディレクターが主人公で、難民の中に失踪した政治家を発見したことから、その妻を呼んで対面させるが、妻は彼じゃないといって立ち去ってしまう。そして政治家は再び国境を越えて去ってしまうというのが大筋。妻は"Not him"と言って、政治の無力を感じて失踪した夫は、別人に生まれ変わってしまっていたことを示唆する。
 政治家と妻をマルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローが演じ、人々の心を隔てる国境と、国境なき自由への憧憬を描く。
 国境の橋に引かれた国境線で、人が引いた一本の線が国を分け、人々の生死を分けていると語られるシーンが印象的な場面。全体はメタファーに満ちていて、やや観念的な作品となっているが、国境線を持たない鳥たちへの憧憬と、人為的な国境線への懐疑がテーマとなっている。
 川を挟んで、越境したアルバニア人と故郷の村のアルバニア人たちが再会し、許嫁同士が結婚式を挙げるシーンが、ロングショットの長回しで詩情あふれる映像で、印象に残る。
 映画の舞台は20数年前のソ連崩壊とそれに続く東欧での民族紛争、中東の民族対立と、世界がイデオロギーに変わる新しい戦争を手に入れた時代だったが、それが国境なき戦争へと発展して継続し、難民たちが溢れている今、国境は人々の心の中に引かれているのだと改めて実感させられる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年10月19日
監督:リドリー・スコット 製作:リドリー・スコット、ミミ・ポーク 脚本:カーリー・クーリ 撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ハンス・ジマー
キネマ旬報:4位

『明日に向かって撃て』女性版だが遠く及ばない
 原題"Thelma and Louise"で、主人公二人の女の名。
 息抜きの女二人旅に出たはずが、ひょんなことから男を殺してしまい、メキシコへの国外逃亡を図るドライブ中に逃走資金を得るためのコンビニ強盗、警官監禁、タンクローリー爆破と行動はエスカレート、グランドキャニオンで警官隊に取り囲まれて絶体絶命となる。
 ラストシーンを含めて、本作を一言でいえば女性版『明日に向かって撃て』(1969)。本家の原題が"Butch Cassidy and the Sundance Kid"で、銀行強盗二人の名前であることからも、オマージュであることがわかる。
 本家が、西部開拓時代が終わりを告げ、時代から乗り遅れた男二人の悲しい自滅の物語であったのに対し、本作の拠って立つものは何かといえば、男に抑圧された女が自らを解放しながらも社会から排除されてしまうという、ある種のウーマンリブ。もっとも、テルマ(ジーナ・デイヴィス)が馬鹿すぎてテーマに説得力を持ち得ず、二人が逃避行を始めるきっかけとなるレイプ事件もテルマの自業自得といえなくもないのが本作の中身を薄くしている。
 ノータリンのテルマに比べてルイーズ(スーザン・サランドン)は遥かにまともで、この二人が親友であるのも不自然。足手まといのテルマを置いて逃げた方がよっぽどマシに思える。
 壊れてからのテルマのはち切れぶりが爽快だが、前半のアッパラパーぶりとの落差が大きすぎて、これまた違和感アリアリ。名作だった本家には遠く及ばない。
 ルイーズ役のスーザン・サランドンは『デッドマン・ウォーキング』(1995)でアカデミー主演女優賞。ヒッチハイカー強盗役でブラッド・ピット。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1992年4月25日
監督:ジム・ジャームッシュ 製作:ジム・ジャームッシュ 脚本:ジム・ジャームッシュ 撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:トム・ウェイツ
キネマ旬報:10位

人間模様を小噺風に描くが、それからがないのが物足りない
 原題"Night on Earth"で、地球の夜の意。ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキ、それぞれの街のタクシー運転手のエピソードを描くオムニバスのコメディ。
 ロスでは、ヤンキーな女性運転手(ウィノナ・ライダー)がハリウッドのキャスティング・ディレクター(ジーナ・ローランズ)を客に乗せる。女優にならないかと勧誘を受けるが、スターが夢の女の子もいるだろうけど、自分には整備工になる夢があると言って断る。
 NYでは乗車拒否でタクシーが捉まらないブルックリンに住む黒人客(ジャンカルロ・エスポジート)を、東ドイツ移民の運転手(アーミン・ミューラー・スタール)が乗せる。右も左もわからずオートマ車の運転にも不慣れで、客が代ってタクシーを運転して自宅に帰る。
 パリでは、コートジボワール移民のタクシー運転手(イザーク・ド・バンコレ)が盲人女性(ベアトリス・ダル)を乗せる。まるで目明きのように感覚の鋭い彼女に運転手は出身地まで言い当てられて降参。降車時に料金を安く請求するが、同情は要らないとメーターの料金を渡される。気を付けてと送り出した直後に、前方不注意の衝突事故を起こしてしまうというお粗末。
 ローマでは、心臓の悪い神父(パオロ・ボナチェッリ)を乗せたお喋りな運転手(ロベルト・ベニーニ)が勝手に懺悔を始め、イタリア男らしい艶笑話に気分の悪くなった神父が急死。運転手は公園のベンチに死体を置き去りにする。
 ヘルシンキでは、酔い潰れた男を介抱する労働者三人組を乗せた運転手(マッティ・ペロンパー)。酔い潰れたのは今日解雇されたばかりの男で、他の二人が男の不幸を並べ立てる。運転手が子供を失った自分の不幸自慢を始めると、二人は涙を流し、解雇された男の不幸など大したことがないと思い直す。
 それぞれの街の特色を生かした人間模様を小噺風に描くが、どれも小粒なために次第に飽きてくる。ラスト後のそれからがないのが物足りない。 (評価:2.5)

美女と野獣

製作国:アメリカ
日本公開:1992年9月23日
監督:ゲイリー・トルースデール、カーク・ワイズ 製作:ドン・ハーン、ハワード・アシュマン 脚本:リンダ・ウールヴァートン 音楽:アラン・メンケン
ゴールデングローブ作品賞(ミュージカル・コメディ部門)

魔法で家具に姿を変えられた城の召使いたちが楽しい
 原題"Beauty and the Beast"で、邦題の意。J・L・ド・ボーモンによるフランス民話が原作のミュージカル・アニメーション。
 傲慢で心の曇った王子が、それゆえに魔女によって野獣に姿を変えられ、王子が真実の愛を見つけることで元の姿に戻ることができるという教訓的メルヘン。
 王子に真の愛をもたらすのが本好きで変わり者の村娘ベルで、城に迷い込んで人質となった父の身代わりに野獣と暮らし、頑なだった野獣の心を解きほぐす。村男ガストンが野獣退治に村人たちと城を襲撃。死にかけた野獣にベルが涙を流した瞬間、魔法が解けて野獣は王子の姿に戻り、傷も癒えてハッピーエンドとなるというお話。
 1946年のジャン・コクトー監督『美女と野獣』を踏まえた映画化だが、モノクロだったコクトー版に比べ、ディズニーらしく極彩色の美術がメルヘンで美しく愉しい。城の召使いたちも魔法で家具などに姿を変えられるが、カトゥーンらしいコミカルさで、アニメーションの特長を十二分に生かして成功している。
 プロローグとエピローグの扉風の絵も、メルヘンらしい効果を引き出している。
 ベルと王子の恋物語が従来のディズニーアニメーションのように類型的で通俗的なのが難で、「嫌い」から「好き」にそれぞれの感情が移り変わっていく過程に説得力がない。特に、ラストシーンの肝となるジルが怪獣に心を寄せていく場面が今一つなのが残念なところ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1992年3月21日
監督:オリヴァー・ストーン 製作:A・キットマン・ホー 脚本:オリヴァー・ストーン、ザカリー・スクラー 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:9位

検事の妻のホームドラマが鬱陶しいほどにウザい
 原題"JFK"で、暗殺されたアメリカ大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの略。
 ケネディ暗殺の真犯人を追う映画で、ニューオーリンズの検事ジム・ギャリソン(ケビン・コスナー)が主人公。
 キューバ危機後のケネディの防共政策に不満を持つ、CIA、マフィアの複数犯による犯行と考える検事は、実行犯の黒幕で実業家のクレイ・ショー(トミー・リー・ジョーンズ)をCIAエージェントと断定して起訴する。映画は、当初のFBI捜査の不自然さや、オズワルド(ゲイリー・オールドマン)単独犯の矛盾点などを解明していく検事チームを追いながら、対キューバ・対ベトナムのケネディ政策に反対する、軍部やジョンソン副大統領が絡む国家による暗殺であることを仄めかしていく。
 犯人捜しのミステリーとしては面白いのだが、司法長官であった弟ロバート・ケネディにはほとんど触れられず、軍部やジョンソンの関わりについても具体性が伴わず、検事の牽強付会の憶測しか描かれないところが辛い。
 そうした点ではミステリードラマとしても不十分で、検事の思い込みに付き合わされるだけ。憶測部分を再現映像として描けば面白みもあっただろうが、検事の捜査を追う検証ドラマでしかない。
 一方で、家庭サービスを求める専業主婦の妻と子供たちを登場させ、定番のアメリカン・ホームドラマで味付けをするが、正直、鬱陶しいほどにウエットで、暗殺解明ミステリーとしては余計なエピソードを入れない方がドライで良かった。
 クレイ・ショーの起訴が無理やりで、ケビン・コスナーの最終弁論の熱演も空しく、観客が陪審員であっても無罪しかありえないのが、クライマックスとしては力が抜ける。
 2029年または2039年に事件の公文書が公開になるというのが、本作で唯一得られる有益情報。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1992年2月22日
監督:バリー・レヴィンソン 製作:マーク・ジョンソン、バリー・レヴィンソン、ウォーレン・ベイティ 脚本:ジェームズ・トバック 撮影:アレン・ダヴィオー 美術:デニス・ガスナー 音楽:エンニオ・モリコーネ
ゴールデングローブ作品賞

ラスベガス旅行でフラミンゴ・ホテルの蘊蓄が語れる
 原題"Bugsy"で、虫けらのこと。ディーン・ジェニングスの"We Only Kill Each Other"が基になっている。
 小規模なカジノホテルしかなかったラスベガスに高級ホテル・フラミンゴホテルを建設し、町の発展の基礎を作ったギャング、ベンジャミン・シーゲルの物語。バグジーはシーゲルの綽名。
 1930年代が舞台で、冷酷というよりは狂犬に近いギャング、シーゲルが、ニューヨークに妻子を残し、縄張りを広げるためにハリウッドに移るところから物語は始まる。
 ビバリーヒルズに邸宅を構え、ハリウッドの社交界入りを果たし、俳優にもなろうとするが、ショーガール、ヴァージニア・ヒルに一目惚れ。西海岸に勢力を広げながら、まだ砂漠の中の田舎だったラスベガスのしけたカジノ場の買収に出かけるが、天啓ひらめき、高級ホテル建設に乗り出す。
 当初100万ドルの建設費で出資者を集めるが、シーゲルの理想は高く、600万ドルにまで膨張してしまう。最後はヴァージニアに200万ドルをくすねられ、兄貴分のマイヤー・ランスキーに落とし前をつけられ、殺されてしまう。
 ラスベガス事業からはヴァージニアも追い出され、ラスベガス発展を見ることなく死んだ、悲しい功労者の物語というのが本作のコンセプト。
 シーゲルをウォーレン・ベイティが演じ、狂犬・情熱家の二面性を演じるが、この種の役を演じると抜群のロバート・デ・ニーロやジャック・ニコルソンまでには至っていない。
 ニューディール政策による砂漠の町の発展を構想したシーゲルの先見性、フラミンゴ・ホテルとラスベガス誕生秘話を知ることができ、ラスベガス旅行で蘊蓄を傾けられるが、それ以上のものはない。
 見どころは、砂漠に造ったフラミンゴ・ホテルのオープンセット。フラミンゴは、シーゲルが付けたヴァージニアの綽名。 (評価:2.5)

深夜カフェのピエール

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製作国:フランス、イタリア
日本公開:1994年6月4日
監督:アンドレ・テシネ 製作:モーリス・ベルナール、ジャック・エリック・ストラウス 脚本:アンドレ・テシネ、ジャック・ノロ 撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:フィリップ・サルド

都会で夢破れ挫折していく若者を慰撫する以外のものはない
 原題"J'embrasse pas"で、キスはしないの意。
 ピレネー山脈の麓ルルドの田舎から、17歳の少年が大都会に憧れてパリに出てくるという物語で、「木綿のハンカチーフ」のように都会の生活に純粋さを失い、生きるために男娼に身を落としていく。
 北海道や東北の田舎から東京に出てきた若者が、夢破れて歌舞伎町の風俗に身を落とすのに相似していて、こうした物語は世界共通なのだと改めて認識させてくれる。
 これも良くある話だが、始め若者ピエール(マニュエル・ブラン)は都会に行けば何とかなるという幼い考えで、一度会っただけの看護師の中年女性(エレーヌ・ヴァンサン)を頼りに病院の下働きとなる。これも良くある話で、同僚が役者を目指していて、美少年であるピエールも演劇学校に通い始めるが長くは続かず、生活のためにブローニュの森で男娼となる。
 ヒモ付きの娼婦の少女に一目惚れして相思相愛となるが、少女(エマニュエル・ベアール)の前でヒモにレイプされ、都会の生活を捨てて軍隊に。パリで成功して母を呼ぶつもりだったピエールは合わす顔がなく、退役(?)して故郷にもパリにも帰らず、歌手が夢だった少女の故郷ニース(?)の海に行く。
 本作のピエールは少々したたかで、美貌と若い肉体で独身の看護婦を利用する。半面若者にありがちな唯我独尊、プライドが強くて人に借りを作ることも媚びることもしない。
 その結果、体を売るより他に方法がなくなるが、「キスはしない、口は使わない、性交はしない」の原則を条件にする。
 それでも結局は自尊心をズタズタにされてしまうわけで、都会で夢破れ挫折していく若者の寂しい姿を描くが、彼らを慰撫する以外、その先に見えるものはない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1992年04月25日
監督:バリー・ソネンフェルド 製作:スコット・ルーディン 脚本:キャロライン・トンプソン、ラリー・ウィルソン 撮影:オーウェン・ロイズマン 音楽:マーク・シェイマン

目玉はアダムス一家の漫画的なメーキャップ
 ​原​題​は​"​T​h​e​ ​A​d​d​a​m​s​ ​F​a​m​i​l​y​"​で​、​同​名​コ​ミ​ッ​ク​が​原​作​の​お​化​け​一​家​の​ホ​ラ​ー​・​コ​メ​デ​ィ​。
​ ​ア​ダ​ム​ス​一​家​に​2​5​年​前​に​失​踪​し​た​伯​父​が​突​然​現​れ​る​。​バ​ミ​ュ​ー​ダ​ト​ラ​イ​ア​ン​グ​ル​で​マ​グ​ロ​網​に​掛​っ​た​の​を​助​け​ら​れ​た​と​い​う​触​れ​込​み​だ​が​、​実​は​ア​ダ​ム​ス​家​の​財​産​を​狙​う​高​利​貸​し​の​息​子​で​伯​父​に​そ​っ​く​り​。​怪​し​ま​れ​な​が​ら​も​一​家​と​仲​良​く​な​っ​て​い​く​が​ラ​ス​ト​に​ど​ん​で​ん​返​し​・​・​・​と​い​う​物​語​。
​ ​本​作​の​目​玉​は​ア​ニ​メ​に​も​な​っ​た​ア​ダ​ム​ス​一​家​の​漫​画​的​な​メ​ー​キ​ャ​ッ​プ​で​、​そ​れ​ぞ​れ​が​キ​ャ​ラ​ク​タ​ー​と​し​て​立​っ​て​い​る​こ​と​。​ス​ト​ー​リ​ー​は​忘​れ​て​も​、​母​の​モ​ー​テ​ィ​シ​ア​、​父​の​ゴ​メ​ズ​、​娘​の​ウ​ェ​ン​ズ​デ​ー​、​伯​父​の​フ​ェ​ス​タ​ー​の​顔​は​忘​れ​ら​れ​な​い​。​ゴ​ー​ル​デ​ン​ラ​ズ​ベ​リ​ー​賞​最​低​主​題​歌​賞​を​取​っ​た​テ​ー​マ​曲​も​印​象​的​。
​ ​た​だ​、​総​じ​て​ア​メ​リ​カ​の​コ​メ​デ​ィ​は​日​本​人​に​は​肌​が​合​わ​ず​、​ア​メ​リ​カ​人​ほ​ど​に​は​笑​え​な​い​の​が​残​念​。​お​化​け​一​家​な​の​で​ブ​ラ​ッ​ク​ジ​ョ​ー​ク​が​多​い​が​、​ツ​ボ​が​今​ひ​と​つ​わ​か​ら​な​い​。 (評価:2.5)

スタートレックVI 未知の世界

製作国:アメリカ
日本公開:1992年2月29日
監督:ニコラス・メイヤー 製作:スティーヴン・チャールズ・ジャフィ、ラルフ・ウィンター 脚本:ニコラス・メイヤー、デニー・マーティン・フリン 撮影:ヒロ・ナリタ 音楽:クリフ・アイデルマン

『宇宙大作戦』卒業式にウフーラ、ミニスカで頑張る
 TVシリーズ『宇宙大作戦』(Star Trek)と同キャストで製作された劇場版最終作、第6作。前作『新たなる未知へ』の続編だが、話は独立している。原題は"Star Trek VI: The Undiscovered Country"で邦題の意。本作では惑星連邦とクリンゴンとの和平がテーマになるが、それによって生まれる新しい宇宙秩序のこと。
 スールーはエクセルシオール号艦長となっているが、他のメンバーはエンタープライズ号のまま。クリンゴンの資源衛星が爆発したために、クリンゴン星は50年後には滅びてしまうというところから話はスタートする。クリンゴン総統は惑星連邦との和平を望み、その護衛をエンタープライズがするが、逆にゴルゴン艦を攻撃して総統を暗殺したという罪を着せられる。カークとマッコイは流刑星に送られ、スポックたちは真相の解明に乗り出すといった、謎解きの展開。ストーリー性のある話で、まずまずの出来となっている。
 本作の見どころは、これがレギュラー全員で出演するのが最後となる『宇宙大作戦』メンバーの卒業式で、物語設定上もカークたちは3か月後に退役することになっている。
 カーク(ウィリアム・シャトナー)、マッコイ(ディフォレスト・ケリー)、スコット(ジェームズ・ドゥーアン)、スールー(ジョージ・タケイ)、チェコフ(ウォルター・ケーニッグ)と、注目はウフーラ役のニシェル・ニコルズ。
 TVシリーズでは太股も露わなスカートだったが、劇場版はおばさんになってかスラックス。前作『新たなる未知へ』では黒ストッキングながらスカートに履き替え、本作の卒業式は肌色のストッキングにミニスカートとTVシリーズを髣髴させる。公開時59歳。ウフーラの頑張りに★0.5。
 スールーのジョージ・タケイは、『ヒーローズ』のヒロ・ナカムラの父親。 (評価:2.5)

夢の涯てまでも

製作国:ドイツ、アメリカ、日本、フランス、オーストラリア
日本公開:1992年3月28日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:ジョナサン・タプリン、アナトール・ドーマン 脚本:ヴィム・ヴェンダース、ピーター・ケアリー 撮影:ロビー・ミューラー 美術:ティリー・フラモンド、サリー・キャンベル 音楽:グレーム・レヴェル

世界版ロードムービーが撮りたかっただけの映像の垂れ流し
 原題"Bis ans Ende der Welt"で、世界の終わりまでの意。
 ヴェネツィアに始まり、南仏、パリ、ベルリン、リスボン、モスクワ、中国、日本、サンフランシスコ、オーストラリアと世界を股に掛けるロードムービーで、さすらう主人公同様に映画もとりとめなく、公開版3時間弱、ディレクターズカット版5時間弱という長尺とともにスクリーンの中をさすらっている。
 物語は、浮気女クレア(ソルヴェーグ・ドマルタン)が主人公で、パリに作家の元恋人ユージーン(サム・ニール)を残し、ヴェネツィアでアバンチュールを楽しみ、蝶の如く南仏に向かったところで、銀行強盗二人組と出会う。パリへの現ナマ輸送を頼まれるが、スパイに追われるトレヴァー(ウィリアム・ハート)を同乗させ、現ナマの一部を盗まれてしまう。
 ベルリンの探偵ウィンター(リュディガー・フォーグラー)とトレヴァーを追ってモスクワ、北京、東京へ。追跡の目的は金から恋心へと移っていく。東京でようやくトレヴァーを見つけるが失明寸前。ここで治療に当たるのが笠智衆で、薬草で視力を回復させる! 
 トレヴァーの本名はサムで、父ヘンリー(マックス・フォン・シドー)が発明したカメラで盲目の母エディス(ジャンヌ・モロー)に見せるための映像を集めていることがわかる。カメラは脳の視覚野に送る画像信号を記録するための新発明で、ヘンリーが研究所から持ち出したのが各国スパイに追われる理由。
 最後にサンフランシスコに住む姉エルザ(ロイス・チャイルズ)のビデオを収め、両親の研究室があるオーストラリアのアボリジニの村へ。ユージーン、ウィンター、銀行強盗の一人のチコ(チック・オルテガ)らもやってくるが、制御不能のインドの核衛星をアメリカが撃墜。核電磁パルスで全て電子機器が破壊される中、サムが収集したビデオをエディスに見せることに成功するが、無理をしたエディスは死亡。
 ヘンリーはエディスとの思い出のために夢の映像化実験を続け、クレアは幼い日の記憶を辿るためサムと共に協力、夢の世界に引き籠る。
 1999年末にかけての近未来SFで、設定の終末観はノストラダムスの大予言を想起させる。ビデオ電話や追跡装置といった近未来アイテムも登場するが、SF設定はかなり貧弱。制作時の1990年代初頭の生活感が充満していて、警察車両や街中には申し訳程度に近未来カーが走るだけで、SF感は殆どない。
 そもそも近未来設定でのロードムービーに無理があり、ヴィム・ヴェンダースには近未来的に映ったのか、東京ではカプセルホテルが登場する。乗っている電車はセットの近未来車両、合成映像の車窓の擦れ違う列車は現行車両と随所にチグハグ感が否めず、B級感が払拭できない。
 終盤でようやくテーマらしきものに辿り着くが、それまでの二転三転する物語はプロローグか前座話でしかなく、ロードムービーが撮りたかっただけでしかない。
 発端の核衛星の終末話に収束するわけでもなく、視覚を通した現実と虚構の認識論というには物足りなく、クレアを自己洞察の泥沼から引き戻すユージーンの愛の物語というには話が長すぎる。
 結局、何を描きたかったのか、何のための長尺だったのかが不明で、単なる映像の垂れ流しになっている。 (評価:2.5)

ケープ・フィアー

製作国:アメリカ
日本公開:1991年12月21日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:バーバラ・デ・フィーナ 脚本:ウェズリー・ストリック 撮影:フレディ・フランシス 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:エルマー・バーンスタイン、バーナード・ハーマン

スコセッシにしては安手のB級サスペンス映画
 原題"Cape Fear"で、アメリカ・ノースカロライナ州のフィア岬・ケープフィア川のある地域名。ケープフィア川はラストシーンの舞台となる。
 ジョン・D・マクドナルドの小説"The Executioners"(死刑執行人)を原作とする、1962年『恐怖の岬』(脚本:ジェームズ・R・ウェッブ)のリメイク。
 14年前に少女暴行で刑務所に入れられたマックス(ロバート・デ・ニーロ)が出所、当時の公選弁護人サム(ニック・ノルティ)の弁護が職務に忠実でなかったとして復讐する物語。
 復讐する過程を見るとマックスは相当に知能が高く、同じサイコホラーの『羊たちの沈黙』(1991)のレクター博士並みだが、文盲だったマックスが刑務所内で独学で文字を覚え、法学や文学のみならず聖書や哲学書にまで精通するようになったというのには相当無理がある。
 マックスがサム邸にどうやって侵入したのか、身一つでどうやって情報収集したり、ストーキングできたりしたのかといった疑問は終始つき纏い、終盤でサム一家の乗る乗用車の腹にへばりついて追跡する段になると、どう考えても無理。
 復讐のために探偵、家政婦の殺人まで犯す必然性がよくわからず、娘に手を出さない善良な面を見せたり、復讐の理由も理路整然としていたりで、快楽のために人を恐怖に陥れるといったレクター博士のようなサイコパスにも変質者にも見えない。
 好奇心旺盛な年頃とはいえ娘(ジュリエット・ルイス)がマックスに惹かれてしまうのも無理があり、サムの浮気に対する妻(ジェシカ・ラング)の今更ながらの痴話喧嘩、サムが警察を頼らずマックスと対峙するのも説得力に欠ける。
 そもそもマックスが悪党だからと、サムが証拠隠滅して重い刑罰を負わせたというが、サムがそれほどの正義漢に見えないのもつらい。
 デ・ニーロの熱演もあってそれなりに楽しめてしまうが、娘の陰画で始まり陰画で終わる演出や、クルーズ船が嵐で転覆するシーンの特撮など、安手のB級サスペンス映画を感じさせて、スコセッシにしては名折れ。サムの娘も可愛くない。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年9月21日
監督:ピーター・ヒューイット 製作:スコット・クルーフ 脚本:クリス・マシスン、エド・ソロモン 撮影:オリヴァー・ウッド 音楽:デヴィッド・ニューマン

死神と出来損ないロボットが魅力的でかわいい
 原題"Bill & Ted's Bogus Journey"で、ビルとテッドの贋者旅行の意。SFコメディ『ビルとテッドの大冒険』の続編。
 ビルとテッドがロックで救済した世界を好ましく思わない未来の魔王デ・ノモロス(ジョス・アクランド)が、歴史を変えるためにビルとテッドそっくりのロボットを二人の時代に送り込み、成功を阻止しようとする物語。
 二人はロボットに殺されて死神(ウィリアム・サドラー)と出会うが、生き返りを求めて一勝負。勝って天国に行き、火星人に悪者ロボットをやっつけるために二人に似せた出来損ないロボットを作ってもらい、一同で現世にやってくる。
 そこからはロックバトルの会場に突入して、悪者ロボットとデ・ノモロスを倒し、お約束通りに優勝して、ビルとテッドばかりか死神もロックスターになって、ロックで世界を救済するというオチ。
 アメリカ的ナンセンスコメディなので、これに乗れるか乗れないかで、本作が面白いか面白くないかも決まる。怖いはずの死神がひょうきんキャラに変身するというトリックスターぶりもアメリカのナンセンスコメディの定番だが、火星人の作る出来損ないロボット共々、魅力的でかわいい。
 ロックが一番!というポップカルチャーの代名詞的な作品だが、『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)には遠く及ばず、単なるB級コメディに終わっているのが寂しいところ。
 テッドをキアヌ・リーブスが演じているというのが、数少ない見どころか。 (評価:2)

ヴァン・ゴッホ

製作国:フランス
日本公開:劇場未公開
監督:モーリス・ピアラ 製作:ダニエル・トスカン・デュ・プランティエ 脚本:モーリス・ピアラ 撮影:エマニュエル・マシュエル 、 ジル・アンリ 美術:フィリップ・パリュ 、 カティア・ワイスコフ

あまりに淡々としてつまらない日記を見ているよう
 原題" Van Gogh"。
 ゴッホの晩年を描いた伝記映画で、療養のために滞在したフランス・オーヴェルでの最後の2か月間が描かれる。
 主治医の娘マルグリットとの関係、弟テオとの不仲などが淡々と描かれるが、あまりに淡々としてつまらない日記を見ているようで、ゴッホの死に至るドラマが感じられず、文字通り精神を病んだ人間の場当たり的で気分に左右される行動にしか見えず、見終わって残るものがない。
 そうした点では、ゴッホの内面を対象とするのではなく、出来事と生態を観察的に描いたという点で立派な伝記ということができ、晩年の様子をノート的に知ることができるが、ゴッホの人物像、ないしは終局に至るドラマを期待して見るとがっかりする。
 見どころを強いて挙げるなら、ゴッホの描いたオーヴェルの麦畑の黄金色がとってもきれいなことか。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1991年11月16日
監督:ジャック・ベンダー 製作:ロバート・レザム・ブラウン 脚本:ドン・マンシーニ 撮影:ジョン・R・レオネッティ 音楽:コリー・レリオス、ジョン・ダンドリア

大人相手ではただの悪鬼のゴブリンにしか見えない
 原題は"Child's Play3"。
 前作から8年後という設定で、グッド・ガイ人形が8年前に破壊された工場の残骸から再生産されるところから物語は始まる。
 あろうことか主人公は再びアンディで、 陸軍兵学校に入学した青年という、いくら学園ホラーが定番とはいえトンデモな舞台。そこに復讐に燃えた再生産第1号人形のチャッキーがやってくるが、さすがに大人と人形ではバランスが悪いと考えて、幼年学校の黒人の少年がチャッキーの友達になる。
 もっともこの少年、前作までのアンディと同じ年頃の割には、人形が喋って動き回るのも不思議に思わず、かくれんぼまでして遊んでしまう始末で、いささか幼稚というか精神年齢が低く、これが黒人だから許されるというのでは「ちびくろサンボ」並みの制作者の意識の低さ。
 兵学校の武器庫に簡単に入れるなど描写も設定もストーリーもが杜撰で、そもそも玩具会社の社長を殺したばかりのチャッキーが再びパッケージに入れられて、キレイに包装された上に兵学校のアンディ宛に送られてくるなど、いったい送り主は誰なんだというツッコミもまだましな方で、終盤では遊園地にまで乱入してしまう始末。
 そもそも『チャイルド・プレイ』のホラー的なコンセプトは子ども相手の玩具人形にあって、兵学校だの青年だの戦闘だのというのでは本来の趣旨から大きく遊離していて、ただの悪鬼のゴブリンにしか見えず、怖くもなんともない。 (評価:2)


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