海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1986年

製作国:アメリカ
日本公開:1987年4月18日
監督:ロブ・ライナー 製作:アンドリュー・シェインマン、ブルース・A・エヴァンス、レイノルド・ギデオン 脚本:レイノルド・ギデオン、ブルース・A・エヴァンス 撮影:トーマス・デル・ルース 音楽:ジャック・ニッチェ
キネマ旬報:5位

将来を決定づけられた子供たちの束の間の友情物語
 原題は"Stand by Me"(僕のそばにいて)で、同名の主題歌がヒットした。主題歌は1961年にベン・E・キングが歌った曲で、黒人霊歌がオリジナル。映画の原作はスティーヴン・キングの短編"The Body"(死体)。
 作家が、新聞の友人死亡記事をきっかけに少年時代の体験を回顧する物語。構造的には良く取られる手法で、内容的にもアメリカの片田舎で50キロ先の子供の轢死体を友達3人と見に行くだけのありきたりの冒険譚でしかない。
 しかし本作が名作たりえたのは、中学校に上がる前の小学生4人の将来がすでに決定づけられていることで、それぞれの進路=階層に分けられる前の、子供たちが社会システムに組み込まれる前の自由で自然な束の間の友情が哀惜とともに描かれていることにある。
 その時点で優等生の主人公ゴーディは進学校に進み、将来作家になる才能が約束されていて、精神病の父親の家庭内暴力で耳を火傷したテディは、それでも父親を愛そうとしながら犯罪者となる将来を約束されている。平凡で取柄のないバーンは、専門学校に進み、地元から出ることなく平凡な結婚と生活を送ることになる。その中で劣悪な家庭環境にあるクリスだけは決定づけられた将来から抜け出すことに成功し、大学に進んで弁護士となる。
 物語はゴーディとクリスとの友情を軸に展開し、宿命から抜け出すために互いを勇気づけるが、正義感の強いクリスはそのために命を落とし、やはりそれが宿命だったという結果に終わる。
 4人が轢死体探しに向かうストーリーは鉄橋で汽車に追いかけられる危機、コヨーテの唸り声に囲まれた野宿、ゴーディの創作したパイ食い競争の物語、沼でのヒル騒動、不良との死体争奪という、定番のエピソードで描かれるが、その中に4人の子供たちの宿命が描かれ、作家の切なくも甘酸っぱい思いが語られる。
 作家の脱稿とともに、書斎に思い出と同じ年頃の子供たちが現れるシーンが、次の子供たちに語り継がれ繰り返される物語の余韻を残して、上手い。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1987年4月29日
監督:オリヴァー・ストーン 製作:アーノルド・コペルソン 脚本:オリヴァー・ストーン 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:2位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

敵はベトコンではなく自分というアメリカ人の戦争
 原題"Platoon"は、小隊の意。1975年のベトナム戦争終結後に制作された『ディア・ハンター』(1978)、『地獄の黙示録』(1979)、『フルメタル・ジャケット』(1987)等のベトナム戦争映画の一つ。
 ベトナム戦争の実態と戦争が生み出す人間の異常性が描かれるが、監督のオリバー・ストーン自身のベトナム戦争従軍体験を基に作られているため、リアリティと説得力のある映画になっている。
 主人公の青年は、下層の若者だけが兵士となり国のために戦っている社会構造に疑問を感じ、大学を中退して志願兵となる。泥沼化したベトナム戦争の実態は、ベトコンと疑って村人たちを射殺し、少女を強姦しようとするほどモラルが低下している。それを咎めた下士官同士の怨嗟は戦闘中の闇討ちにまで発展し、青年は仇を討って傷病兵として後方に退く。
 インテリ青年の目を通して、戦争によって人間性を失った下層出身の兵士たちを描くが、それが戦争のせいなのかというのは疑問で、現実社会での暴力や犯罪を見ればそれほど単純ではないのもわかる。実際、小隊内の暴力性を持ったグループと倫理を失わないグループの対立が描かれ、それが現実社会の縮図だということに気付く。
 ラストのモノローグでは、その二つが人間の内面にあるとし、戦った敵はベトコンではなく自分の中にあるもので、それは一生住み続けるとする。(we did not fight the enemy, we fought ourselves, and the enemy... was in us. The war is over for me now,but it will always be there, for the rest of my days.)それを伝えるのが生き残った者の役割だとして、最後に戦死者への献辞が捧げられる。(Dedicated to the men who fought and died in the Vietnam War.)
 非常によくできた映画で、ほとんどが戦闘シーンの連続も息つく間もなく見せる。しかし、最後の献辞を見て思うのは、劇中でも描かれた殺されたベトナムの人たちへの視線がないことで、よくできてはいるが、やはりアメリカ人のためのベトナム戦争映画でしかない。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1986年8月30日
監督:ジェームズ・キャメロン 製作:ゲイル・アン・ハード 脚本:ジェームズ・キャメロン 撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ジェームズ・ホーナー
キネマ旬報:9位

細かいことは忘れて、キャメロンの職人技に酔うしかない
 原題は"Aliens"で、"Alien"(1979)との違いは、エイリアンが複数形になっていること。1体だった異星生物がたくさん登場する。
 本作で明らかになるのはエイリアンが卵生だということで、幼虫で人間に寄生し、成長して人間を食餌するという生命サイクルと生態が明らかになる。
 リドリー・スコットの前作同様、ジェームズ・キャメロンの本作も設定的には若干穴があるが、アクション要素をかなり強めたホラーとなっていて、手に汗握る展開が延々と続き、正直、何度見てもハラハラする。
 57年後に救出された冷凍睡眠下のリプリー(シガニー・ウィーバー)は前作のLV-426惑星の開拓団との交信が途絶えたことを知って、再び社命でLV-426惑星に向かう。生存者は少女1名のみ。調査に向かった宇宙海兵隊とエイリアンとの壮絶な戦いというか、人間側が一方的にやられる展開が続き、相変わらずエイリアンを持ち帰ろうとする会社側の社員の姑息な策略もあって、リプリーと少女が窮地に立つが、そこは勧善懲悪で、あとはマザー・エイリアンとの息詰まる戦いが大きな見せ場。
 冒頭、公開時に話題になったガンダムばりのモビルスーツが登場し、リプリーが操るが、ラストのマザー・エイリアンとの戦いの伏線になっていて、シガニー・ウィーバーがモビルスーツで格闘するという娯楽の殿堂的な見せ場が用意されている。
 キャメロン脚本・監督のアイディアと演出は一級で、エンタテイメント作としての出来はトップクラス。
 残念なのはSFの宿命ともいえる設定で、30年経つと、当時は斬新だったモビルスーツも現在ではただの工作機械に成り下がっていて、プロトタイプというか時代遅れ。宇宙海兵隊もヤンキー過ぎて、ベトナム戦争と変わらない海兵魂の肉弾戦。まあ、これがアメリカ人の琴線をくすぐるのだろうと思いつつも、現代のロボット化した軍事技術からは、20世紀の未来映画を見る感じで、だからといってその古めかしさを超えた普遍性があるわけでもないただのエンタテイメント作品なので、細かいことは忘れて、キャメロンの職人技に酔うしかない。
 シガニー・ウィーバーの超女ランボーぶりも大きな見どころ。 (評価:3)

レネットとミラベル 四つの冒険

製作国:フランス
日本公開:1989年7月29日
監督:エリック・ロメール 脚本:エリック・ロメール 撮影:ソフィー・マンティニュー 音楽:ロナン・ジレ、ジャン=ルイ・ヴァレロ

親切で正直な田舎娘レネットが都会人には眩しく見える
 原題"Quatre aventures de Reinette et Mirabelle"で、レネットとミラベルの四つの冒険の意。
 "L'Heure Bleue"(青い時間)、"Le Garcon de Cafe"(カフェのボーイ)、"Le Mendiant, La Kleptomane, et L'Arnaqueuse"(乞食、盗癖者、詐欺師)、"La Vente du Tableau"(絵画の販売)の連作短編4話からなるオムニバス。
 パリジェンヌのミラベル(ジェシカ・フォード)が田舎町で自転車のパンクで立ち往生していると、親切な田舎娘のレネット(ジョエル・ミケル)に助けられ、家に泊めてもらって友達になるというのが第1話。夜明け前の一瞬の静寂の時、青い時間について語り合い、パリの美術学校で学びたいというレネットとルームシェアをすることになる。
 第2話は、モンマルトルのカフェの話で、強情に小銭で払えと言うボーイにミラベルがキレて金を払わずに立ち去る。払わなくていいというミラベルに対し、正直者のレネットは後日小銭を持って払いに行く。
 第3話は、倫理についての二人の見解の相違について。乞食に対して同情的なレネットは、万引きに対しては犯罪者として容赦ない。乞食に厳しく万引きに対しては病気だからと同情的なミラベルに反発する。そんなレネットが駅で困っている女に電車賃を与えるとこれが詐欺師。電話を掛ける小銭がなくなって周囲の人に乞うが無視される。女が詐欺師だと気づいて返金させるが、必要な電話代だけ受け取って残りを与え、慈悲と正義を両立させる。
 第4話は、レネットの絵を画商に売りに行く話。安く買い叩かれるからとミラベルが一芝居打って言い値で買い取らせるが、画商は倍の値段で客に売りつける。
 生き馬の目を抜くパリで、親切で正直な田舎者が価値観の壁にぶつかっていく姿をユーモラスに描く。それでも信念を変えないレネットが、人を信じられなくなった都会人からは新鮮で眩しく見える。  (評価:3)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1988年4月23日
監督:クロード・ベリ 製作:ピエール・グルンステイン 脚本:クロード・ベリ、ジェラール・ブラッシュ 撮影:ブルーノ・ニュイッテン 音楽:ジャン=クロード・プティ
キネマ旬報:9位

PARTⅠは待てば海路の日和あり、PARTⅡは因果応報
 2部構成になっていて、「PARTⅠ/フロレット家のジャン」「PARTⅡ/泉のマノン」のそれぞれの原題は"Jean de Florette" "Manon de Source"で邦題の意。ジャンとマノンは父娘で、それぞれの主要人物として描かれる。
 「フロレット家のジャン」では、マルセイユ近郊の村レ・バティード・ブランシュに兵役を終えた男ウゴランが帰ってくるところから物語は始まる。
 ウゴランは村の名家スベランの一人だが、スベラン家には伯父で独身のセザールしか残ってなく、ウゴランが子孫を残さなければ家系は途絶えるという運命にある。これが本作の最大の伏線になっていて、いわば名家の血筋をめぐる「愛と宿命」の物語で、PARTⅠが起承、PARTⅡが転結で、文芸の香り高き前半に比べると、後半はいささか横溝正史か橋田寿賀子のようで、謎解きとシニカルな結末は若干通俗的かもしれない。
 起承の部分は、ウゴラン(ダニエル・オートゥイユ)が農場でカーネーションを栽培する計画を立て、伯父(イヴ・モンタン)が後ろ盾となって、水利のために泉を持つ隣家の土地を買おうとするものの過って殺してしまう。そこに現われるのが相続人のフロレット一家で、家長のジャン(ジェラール・ドパルデュー)は生まれついてのせむしで、税吏を辞めて自給自足の生活を目指している。ウゴランとセザールは泉を埋めてフロレット一家の追い出し作戦に掛かり、2年後日照りが続き、ジャンの事故死もあって困窮した一家から見事土地を手に入れるのに成功。泉を掘り出して復活させる。
 やった者勝ち、待てば海路の日和あり、の教訓話のようで、悪人が成功する話だけに、こんなシニカルな結末でよいのかと思いきや、転結の「泉のマノン」では、村に残ったジャンの娘マノン(エマニュエル・ベアール)が成長し、復讐戦に乗り出す。この復讐戦がウゴラン・セザール組のやったことと全く同じで、ヤギ追いをしていて偶然見つけた洞穴の水源をやはり止めてしまう。ウゴランのカーネーション畑だけでなく、村全体が干上がってしまい、マノンが司祭に懺悔したことからウゴラン・セザールの悪だくみが発覚、マノンに恋していたウゴランは首を括ってしまう。
 ここで本来の主役セザールの本人も知らない運命の悪戯が明らかとなり、マノンと恋人の教師との結婚でメデタシメデタシとなる。
 後半の教訓は因果応報で、それなりに落とし前はつけられるのだが、村人全員に被害を及ぼしたマノンの罪が帳消しのように無視されるのはあまりに都合が良すぎ、それでいいのか! と何かブラックなシンデレラ・ストーリーを見せられたような気になる。
 悪漢セザールをイヴ・モンタンが演じ、渋い魅力を見せる。「泉のマノン」で成長したマノンを演じたエマニュエル・ベアールは、『美しき諍い女』(1991)同様の脱ぎっぷりを本作でも披露している。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1987年2月21日
監督:ウディ・アレン 製作:ロバート・グリーンハット、チャールズ・H・ジョフィ、ジャック・ロリンズ 脚本:ウディ・アレン 撮影:カルロ・ディ・パルマ
キネマ旬報:3位

平凡な日常の中に潜む平凡な危機のアイロニー
 原題"Hannah and Her Sisters"。
 芸能一家に育った3姉妹の1年間の男模様を描く作品で、長女・次女・三女と、長女の夫、長女の前夫を中心に物語が展開する。
 長女に物足りなさを感じる夫は、若い三女ととデキてしまい、長女と離婚することを約束しながら決断できず、三女は別の男を見つけて結婚。
 夫は結局、何事もなかったように長女との鞘に納まる。
 長女の前夫は、子種がないのが離婚原因で、その後は些細なことでも大騒ぎする病気恐怖症。仕事も男関係も上手くいかない女優の次女は、この前夫と仲良くなり姉との元夫婦生活をネタに戯曲を書いて一躍売れっ子になり、何と子種がなかったはずの前夫の子を宿す。
 いろいろあったけど結局はハッピーエンドという毒にも薬にもならないウディ・アレンらしい小品で、土曜の午後にカップルで映画を見て、おしゃれなカフェで感想を語るのにちょうどいい作品。
 ただ一人蚊帳の外に置かれたままで、夫や妹たちの起きたことを何も知らずにハッピーエンドを迎える長女ハンナがちょっと可哀想で、この間抜けで人の善い平凡な主婦をミア・ファローが演じる。
 特に目立った演技でもない次女役のダイアン・ウィーストがアカデミー助演女優賞、夫役のマイケル・ケインが助演男優賞。
 よくできたシナリオで脚本賞をとったウディ・アレンが前夫役で、機関銃のように気の利いた台詞を聞かせてくれる。
 平凡な日常の中に潜む平凡な危機といった内容で、ウディ・アレンらしい風刺が利いている。 (評価:2.5)

トップガン

製作国:アメリカ
日本公開:1986年12月6日
監督:トニー・スコット 製作:ドン・シンプソン、ジェリー・ブラッカイマー 脚本:ジム・キャッシュ、ジャック・エップス・Jr 撮影:ジェフリー・キンボール 音楽:ハロルド・フォルターメイヤー、ジョルジオ・モロダー

見どころは米海軍協力の空中戦とパイロット同士の友情
​ ​原​題​は​"​T​o​p​ ​G​u​n​"​で​、​劇​中​で​も​説​明​さ​れ​る​が​、​空​中​戦​エ​リ​ー​ト​を​養​成​す​る​ア​メ​リ​カ​海​軍​戦​闘​機​兵​器​学​校​の​こ​と​。
​ ​ト​ム​・​ク​ル​ー​ズ​の​出​世​作​と​し​て​有​名​だ​が​、​当​時​、​二​枚​目​ハ​リ​ウ​ッ​ド​俳​優​と​し​て​宣​伝​さ​れ​た​た​め​に​女​性​向​き​映​画​の​イ​メ​ー​ジ​が​強​か​っ​た​。​観​直​し​て​み​る​と​、​ト​ム​は​紅​顔​の​美​少​年​で​今​の​方​が​か​っ​こ​い​い​。​そ​ん​な​少​年​の​よ​う​な​青​年​の​ラ​ブ​ス​ト​ー​リ​ー​が​軸​と​な​っ​て​い​る​が​、​見​ど​こ​ろ​は​空​中​戦​と​パ​イ​ロ​ッ​ト​同​士​の​友​情​に​あ​っ​て​、​作​品​的​に​は​ラ​ブ​ス​ト​ー​リ​ー​は​む​し​ろ​余​計​だ​っ​た​気​が​す​る​。​も​っ​と​も​、​そ​れ​で​は​映​画​は​ヒ​ッ​ト​せ​ず​、​女​性​客​を​呼​び​込​む​要​素​が​必​要​と​い​う​こ​と​に​な​る​が​、​所​詮​は​『​ラ​イ​ト​ス​タ​ッ​フ​』​(​1​9​8​3​)​に​は​な​れ​な​い​ハ​リ​ウ​ッ​ド​的​エ​ン​タ​テ​イ​メ​ン​ト​映​画​と​い​う​こ​と​に​な​っ​て​し​ま​う​。
​ ​F​1​4​ト​ム​キ​ャ​ッ​ト​の​飛​行​シ​ー​ン​は​米​海​軍​が​協​力​し​て​い​て​迫​力​満​点​。​艦​載​機​の​発​着​に​は​原​子​力​空​母​エ​ン​タ​ー​プ​ラ​イ​ズ​が​使​わ​れ​て​い​る​。
​ ​ラ​ブ​ス​ト​ー​リ​ー​部​分​は​と​も​か​く​、​冒​頭​の​ミ​グ​と​の​空​中​戦​、​戦​闘​訓​練​、​終​盤​の​イ​ン​ド​洋​で​の​ミ​グ​と​の​戦​闘​シ​ー​ン​を​見​て​い​る​だ​け​で​飽​き​な​い​。​劇​中​の​ミ​グ​2​8​は​架​空​で​、​F​5​を​使​用​。​父​親​の​秘​密​は​若​干​腰​砕​け​。
​ ​劇​中​で​ト​ム​の​父​が​好​き​だ​っ​た​と​流​れ​る​の​は​オ​ー​テ​ィ​ス​・​レ​デ​ィ​ン​グ​の​"​T​h​e​ ​D​o​c​k​ ​o​f​ ​t​h​e​ ​B​a​y​"​で​、​1​9​6​8​年​の​ヒ​ッ​ト​曲​。 (評価:2.5)

製作国:香港
日本公開:1986年12月20日
監督:リッキー・リュウ 脚本:バリー・ウォン 撮影:アンドリュー・ラウ、ツィン・ウェイケイ、ピーター・ゴー、アーサー・ウォン

可愛い仕草の子供キョンシー登場編
 原題は"殭屍先生續集之殭屍家族"で、「キョンシーさん続編・キョンシー家族」の意。
 本作の最大の見どころは、タイトル通りに登場するキョンシーの家族で、中でも子供キョンシーが人気となった作品。本作の魅力はそれに尽き、そのアイディアに対し評価を0.5プラスした。
 墓荒らしが洞窟から親子3体のキョンシーを持ち去り、売ろうとするのが発端。札を剥がしてしまって、ドタバタ劇が始まる。子供キョンシーは輸送中の車から逃げ出してしまい、裕福な家の女の子と友達になって子供部屋に居候。親2体は墓荒らしの事務所で暴れ出し、一味のひとりが咬まれたことから漢方医に治療に行く。それを知った前作の道士=漢方医がキョンシー退治に参加。警察も加わって騒動が広がる。
 ストーリー的にはそれだけの話だが、遅鈍剤でキョンシーや登場人物の動きがスローモーションになったり、パワーアップして車の上を飛び跳ねるなどのアイディアが楽しい。かつてのドリフターズの『8時だョ!全員集合』を思わせるようなたかがスラップコメディでしかないが、香港映画らしいばかばかしさが詰まっていて、それに可愛い仕草の子供キョンシーを絡ませることで、ファミリーで楽しめる作品にした。
 ファミリー映画らしく、ラストはキョンシーの親子愛で締めくくられる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1987年10月17日
監督:オリヴァー・ストーン 製作:オリヴァー・ストーン、ジェラルド・グリーン 脚本:オリヴァー・ストーン、リチャード・ボイル 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:8位

風化した現代史に戦場カメラマンの真の姿が映る
 原題は"Salvador"で、エルサルバドル内戦の取材カメラマンの体験を基に描かれたセミ・ドキュメンタリー。
 フリーの戦場カメラマン、リチャード・ボイルは妻子にも逃げられて暮らしにも事欠く毎日。友人とともに起死回生の写真を撮るため、1980年、内戦のエルサルバドルに潜入する。
 軍事クーデター直後の混乱の中で、人権派のオスカル・ロメロ神父暗殺など警察・軍隊の弾圧とテロが続き、左翼ゲリラの台頭を恐れたレーガンは、政権に武器供与。内戦は1992年まで続くことになる。
 映画はアメリカの武器供与が始まる内戦初期を描き、ボイルの命懸けの撮影、友人カメラマンの死亡等を経て、身の危険を感じて現地妻とアメリカに脱出するまでが描かれる。
 東西冷戦下の当時、共産ドミノ倒しを恐れたアメリカは軍事支援により右派勢力や傀儡政権を支えたが、ベトナム戦争敗戦でアジアで失敗。キューバを擁する中庭の中南米では、作品中にも出てくるように、アカよりは極右テロの方がましだとして、非人道的な右派テロ組織にまで武器供与を行った。
 当時アメリカ国内にも批判があり、本作もその延長線上にある。
 30年を経て、作品の意義的には若干風化した感はあり、現代史を眺めるよう。もっとも昨今の共産勢力からイスラム過激派へと敵が変わった非正規戦の構造は同じかもしれない。
 同様に、ボイルが正義感に駆られながらも、金と名声のために危険な戦場に潜入していく姿にも、ジャーナリズムについて考えさせられるものがある。
 サルバドルはスペイン語で救世主の意味で、エルは定冠詞。国名としてはエルサルバドルが正しい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1986年10月10日
監督:ベルトラン・タヴェルニエ 製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ 脚本:ベルトラン・タヴェルニエ、デヴィッド・レイフィール 撮影:ブリュノ・ド・ケイゼル 音楽:ハービー・ハンコック
キネマ旬報:4位

ジャズに生きジャズに死んだ男の孤高のジャズ論
 原題"Round Midnight"で、セロニアス・モンクのジャズのスタンダード・ナンバーの曲名。タイトル曲に使用されている。
 パリのライブハウス「ブルーノート」のレギュラーとなったアル中の世界的サックス奏者と、彼の音楽に霊感を与えられるイラストレーターのフランス人青年の友情を描く音楽映画。
 サックス奏者にジャズマンのデクスター・ゴードンが扮し、音楽を担当したハービー・ハンコックがピアニストとして出演。本格的な演奏を聴かせるというのが本作最大の見どころ・聴きどころで、ハービー・ハンコックはアカデミー作曲賞を受賞した。
 サックス奏者にとって、音楽は喜びであると同時に苦しみでもあって、毎晩の演奏は酒なしではいられない。その結果がアル中だが、自滅していく彼の音楽を愛する青年の涙を見て酒を断つことを誓う。
 青年の友情に支えられたサックス奏者は新曲を次々と発表し、立ち直ってニューヨークに凱旋するが、彼を取り巻く環境は彼の心と音楽を癒すことなく、離れて暮らしていた娘とも心が離れていたことに気づく。青年をパリに戻して間もなくサックス奏者に死が訪れるが、理由は明かされない。
 ジャズに生きジャズに死んだ男の孤高のジャズ論ともいえる作品だが、人間平凡であることが一番幸せというメッセージも付け加えられる。 (評価:2.5)

ダウン・バイ・ロー

製作国:アメリカ、西ドイツ
日本公開:1986年11月22日
監督:ジム・ジャームッシュ 製作:アラン・クラインバーグ 脚本:ジム・ジャームッシュ 撮影:ロビー・ミューラー 音楽:ジョン・ルーリー

シーンを切り張りしたモンタージュのような演出・編集
 原題"Down by Law"で、直訳は法律によるダウン。刑務所のスラングで「非常に密接な関係」のこと。
 ニューオリンズの長屋のような共同住宅が並ぶ街区をカメラがゆっくりパンしながら移動して行くシーンから始まり、それが繰り返されて行くが、よく見るとその中に町の人々の生活が映し出されていて、警官の取り調べを受けている不審者や、ボール遊びをする子供達などがいる。パンというよりはゲームの横スクロール画面のようなカメラワークが不思議な効果を出している。
 最初に登場するのは街のラジオでDJをしているザック(トム・ウェイツ)。不器用な性格から流れ流れてこの街にやってきたが、それに不満な妻が家を出て行ってしまう。
 次に登場するのはポン引きのジャック(ジョン・ルーリー)で、同棲している女とも上手くいかず、仲間に嵌められて未成年者との淫行で逮捕されてしまう。
 続けてザックも、頼まれて車を代行運転中に警察に呼び止められ、トランクから死体が発見されて、そのまま刑務所へ。
 同房になったのがジャックで、さらにイタリア人で殺人犯のロベルト(ロベルト・ベニーニ)が入ってきて、ロベルトの発案で脱獄。ルイジアナからテキサスへと向かう道中で何となく友情が芽生えるという物語で、森の一軒家のカフェのイタリア女ニコレッタ(ニコレッタ・ブラスキ)とロベルトが意気投合。
 ロベルトを置いて、ザックとジャックは別れ道でそれぞれ西と東に別れて終わるという、ヤマなしオチなしのシンプルストーリー。
 3人の会話を中心に、シーンを切り張りしたモンタージュのような演出・編集で、連続したシークエンスで描かれる通常の映画とは異質な演出。警官隊との追跡劇でもシークエンスの必要なアクションシーンは省略されていて、幕・場で構成される舞台のような静的な演出が不思議な味を出している。
 テーマ的には、それぞれ人生が上手くいってない3人が、刑務所→脱獄→逃亡を経てそれぞれに再出発するという、奇妙な友情を描き出す。 (評価:2.5)

ミッション

製作国:イギリス
日本公開:1987年4月18日
監督:ローランド・ジョフィ 製作:フェルナンド・ギア、デヴィッド・パットナム 脚本:ロバート・ボルト 撮影:クリス・メンゲス 音楽:エンニオ・モリコーネ
カンヌ映画祭パルム・ドール

教会に騙されたグアラニー族は可哀想というただの歴史ドラマ
 原題"The Mission"で、布教の意。
 18世紀、南米パラナ川上流を舞台に、スペイン・ポルトガルの国境策定に伴う強制移住に抵抗するグアラニー族+イエズス会宣教師たちと、スペイン・ポルトガル軍との戦いを描く。
 主人公はスペインの奴隷商人ロドリゴ(ロバート・デ・ニーロ)で、恋人を寝取られたことから弟を決闘で殺害。宣教師ガブリエル(ジェレミー・アイアンズ)の奨めでイエズス会の修道士になり、スペイン領にあるグアラニー族の教会を手伝う。ところが、ポルトガル領となったために布教区の退去を命じられ、ロドリゴはグアラニー族信徒とともに武器を取って玉砕、ガブリエルは十字架とともに果てる。
 実際の事件をベースにしたフィクションで、4年間の戦争を数日間のドラマに凝縮している。
 スペイン、ポルトガルの神をも恐れぬ残虐な植民地政策、それに追従するローマ・カトリックの枢機卿と、本来なら神の無力、宗教の欺瞞がテーマとなるところだが、歴史的に見れば事の善悪は勿論、両国の残虐性は目新しくないので今更テーマになりようがない。
 それを見せられても、スペイン、ポルトガルは酷いですね、ローマ・カトリックも酷いですね、改宗させられて殺されたグアラニー族は可哀想ですねという感想以外にはなく、ただの歴史ドラマでしかない。
 ローランド・ジョフィは、前作『キリング・フィールド』(1864)と同じような国家と人間の残虐性を取り上げてはいるものの、出来事を素のままに描いているだけで、その間に流れた200年の歴史への洞察がなく、国家や宗教の欺瞞について現代的な視点を与えているわけでもないのが残念なところ。
 カンヌ映画祭パルム・ドール受賞。 (評価:2.5)

製作国:フランス、イタリア、西ドイツ
日本公開:1987年12月11日
監督:ジャン=ジャック・アノー 製作:ベルント・アイヒンガー 脚本:ジェラール・ブラッシュ、ハワード・フランクリン、アンドリュー・バーキン、アラン・ゴダール 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:ジェームズ・ホーナー
キネマ旬報:10位

まるで純愛物語のようなラストが何とも軽い
 原題"The Name of the Rose"。ウンベルト・エーコの"Il Nome della Rosa"(薔薇の名前)が原作。
 教皇庁がローマからアヴィニヨンに移されていた1327年の物語で、教皇庁がフランシスコ会との清貧論争の決着をつける会談に参加するためにウィリアム修道士(ショーン・コネリー)が弟子のアドソ(クリスチャン・スレーター)とともに、北イタリアの修道院を訪れるところから物語は始まる。
 修道士の一人が塔から謎の転落死したのをきっかけに次々連続死する事件に遭遇し、真相究明に乗り出すウィリアムとアドソというホームズをオマージュしたミステリーで、悪魔だとか黙示録だとかといった迷信に対して、知性こそが絶対というホームズとワトソン君の犯人探しが始まる。
 謎解きについてはホームズの閃きと知性について行けないところがあって、むしろ当時の教皇庁を巡る数々の論争と異端審問を巡る歴史ドラマといった方が馴染みやすい。
 かといって西洋史好きでない限り、論争そのものを映画の中で理解するのは困難で、せいぜいが富と権力に堕落した教皇庁と、清貧を貫きながらも過度の禁欲生活が同性愛や肉欲、禁書という異形を生んだ修道会の不毛な対立を見るくらいしかない。
 ラストは修道院の火事と異端審問官の死によって、貧者たちの鬱憤が晴れるといった程度の爽快感を残すが、アドソが簡単に貧者の娘とセックスしてしまったり、それだけで少女に恋したと勘違いして、最後はまるでロミオとジュリエットの純愛物語のように"She was the only earthly love of my life..."(彼女は私の人生のただ一つの世俗の愛だった)と締めくくられるのが何とも軽い。
 全体はアドソの回想として描かれるが、"yet I never knew nor ever learned...her name"(けれども私は彼女の名を知らなかったし聞くこともなかった)と、名前を知らない少女がタイトルの薔薇であることを示唆するという、何とも恥ずかしい物語となっている。 (評価:2.5)

スター・トレックIV 故郷への長い道

製作国:アメリカ
日本公開:1987年3月7日
監督: レナード・ニモイ 製作:ハーヴ・ベネット 脚本:スティーヴ・ミアーソン、ピーター・クリークス、 ハーヴ・ベネット、ニコラス・メイヤー 撮影:ドナルド・ピーターマン 音楽:レナード・ローゼンマン

捕鯨問題を扱ったタイムトリップ・コメディ
 前作『ミスター・スポックを探せ!』の続編だが、エピソードは独立している。TVシリーズ『宇宙大作戦』(Star Trek)と同キャストで製作された劇場版第4作。監督は、前作に引き続きスポック役のレナード・ニモイ。原題は"Star Trek IV: The Voyage Home"で、邦題の意。
 カークらは奪ったクリンゴンの宇宙船でバルカン星から地球へと向かうが、地球は謎の探査船によって滅亡の危機を迎えている。探査船は地球の鯨と交信をしていて、それが途絶えたために探査にきていたが、鯨は21世紀に絶滅していた。カークはタイムトラベルにより20世紀末の地球に行き、鯨を捕獲してくることにする。
 公開当時は国際的に捕鯨が問題になっていた時期で、この年、日本は商業捕鯨を終える。それもあってか、劇中に登場する捕鯨船はアイスランドかノルウェーをイメージしている。但し、劇中のザトウクジラは1966年に捕鯨禁止になっていて、時代考証は若干合わない。
『スター・トレック』にこのような政治問題を取り入れるのが相応しいかどうかという考えは当然あって、公開時なら反捕鯨のプロパガンダ映画という反発もあったが、四半世紀を過ぎると懐かしい気分で観られる。鯨を飼っている水族館の反捕鯨・女性学芸員に対して、飼育そのものが鯨への虐待だとスポックに言わせるなど、ある程度の配慮もなされている。
 変化のある話でロケシーンも多く、舞台的演出から動的な演出に大きく変わっていて、前作と同じニモイ監督の映画とは思えない。捕鯨問題で躓かなければ、タイムトリップの落差を利用したコメディで楽しめる。鯨と一緒に23世紀に渡った学芸員が能天気なのも『スター・トレック』らしくていい。
 冒頭、この年に起きたチャレンジャー号爆発事故への献辞がある。 (評価:2.5)

パラダイスの夕暮れ

製作国:フィンランド
日本公開:2002年2月9日
監督:アキ・カウリスマキ 製作:ミカ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン 美術:ペルッティ・ヒルカモ
慎ましく生きる二人は本当に幸せに生きていけるのか?
 原題"Varjoja paratiisissar"で、楽園の影の意。
 ヘルシンキでゴミ収集人をしている独身男ニカンデル(マッティ・ペロンパー)とスーパー店員イロナ(カティ・オーティネン)の慎ましい恋物語で、合理化でイロナが失業したことからニカンデルの部屋に転がり込む。しかしイロナがブティックに再就職し、店長がニカンデルを嫌ったことから次第に二人の仲が冷めていき、イロナは部屋を出て行ってしまう。
 ニカンデルは生活が荒み、店長に口説かれたイロナはニカンデルへの思いに気づく。ニカンデルはブティックに行き、イロナにプロポーズ。ニカンデルの同僚メラティン(サカリ・クオスマネン)に見送られ、二人で新天地を求めて船で旅立つ。
 登場人物は皆木偶の棒というカウリスマキらしい演出で、シリアスなのかコメディなのかわからないところがミソ。
 女性とのデートは映画と食事と言うメラティン同様の凡人には、ニカンデルが初デートでビンゴに連れて行くのはブラックジョークとしか思えない。
 風貌を見たレストランのマネージャーに入場を断られ、ゴミ収集人の作業着を見たブティック店長はニカンデルを出禁にし…と差別され捲りのニカンデルをイロナまでが恥と感じて冷たくするという可哀想な男だが、最後は開き直ってイロナと再出発する。
 清く正しく貧しくと、慎ましく生きる二人をメラティンのように送り出したいのは山々だが、本当に二人は幸せに生きていけるのか? とカウリスマキの理想主義に水を差したくなる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1987年5月2日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:フレッド・カルーソ 脚本:デヴィッド・リンチ 撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
キネマ旬報:9位

脳味噌が消しゴム頭のように吹き飛ぶラスト
 原題"Blue Velvet"で、劇中に登場するクラブ歌手の持ち歌で、彼女の部屋着。変態男がそのどちらにも執着する。
 物語は、空地で耳を拾ったことから大学生の青年(カイル・マクラクラン)が名探偵コナン君となって事件に首を突っ込むというミステリーになっている。
 父親の友人(ジョージ・ディッカーソン)が刑事で、その娘の女子高生(ローラ・ダーン)が、クラブ歌手(イザベラ・ロッセリーニ)が事件に関係しているらしいとコナン君に情報を提供するのが発端。立ち位置的には妹だが蘭姉さん。
 端から納得がいかないのは、赤の他人の耳なのにコナン君がクラブ歌手宅に家宅侵入してしまうことで、おまけに見つかった挙句にセックスを迫られてしまうという、登場人物全員が精神異常者にしか見えないこと。
 この辺りから、これは青年の幻想かと思い始め、オープニングの青い空と白いフェンス、真っ赤なバラの花という導入と青年の父の突然の卒倒が、すでに現実と幻想を不明とする演出であったことに気づく。
 それからは変態、同性愛、SM、ドラッグとカオスな展開が続き、背後に別の刑事がいたというよくある設定から、クライマックスの殺戮場面へと向かうのだが、ストーリーは相当につまらない。
 デヴィッド・リンチ信奉者なら、これでも作品世界に浸れるかもしれないが、作中人物同様に観客も精神異常者にならないと、まともな精神では耐えられないほどに月並み。
 ラストは青年と娘が結婚して、娘の夢見ていた愛と光が満ちたコマドリの世界になって、物語が現実であるにせよ幻想であるにせよ、あまりのトリップぶりに、観客の脳味噌は消しゴム頭のように吹っ飛んでしまう。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1987年7月25日
監督:ジェームズ・アイヴォリー 製作:イスマイル・マーチャント 脚本:ルース・プラワー・ジャブヴァーラ 撮影:トニー・ピアース=ロバーツ 音楽:リチャード・ロビンズ
キネマ旬報:6位

つまらない話でも映画的にはよく出来ている
 原題"A Room with a View"で、邦題の意。E.M.フォースターの同名小説が原作。
 よく出来ているがつまらない映画というのがあるが、本作はまさにその典型。
 時代は20世紀初頭。イギリスの良家の子女がフィレンツェに旅行に行き、そこで出会ったやはりイギリス青年と恋に落ちるが、自由恋愛ははしたないということか、キスしてしまったという恥辱をひたすら隠してイギリスに帰り、教養あるジェントルマンと婚約する。ところが、そのジェントルマンが偶然にもフィレンツェでキスした青年父子に家を貸してしまい、良家の子女と青年との燻った恋に火を点けてしまう。
 結果、良家の子女は婚約を解消して青年と結婚。新婚旅行は二人が出会ったフィレンツェというメデタシメデタシの恋愛映画。
 二人が出会うきっかけが、良家の子女のフィレンツェでの宿屋の窓がアルノ川に面していなかったため、同行の行かず後家の従姉が文句を言っていると、それを聞いた青年の父が部屋の交換を申し出たというもの。いささかストレートな物言いで礼儀に適っていないと感じた行かず後家の従姉が一度は断るものの、居合わせた牧師のとりなしで部屋を交換する。
 これがタイトルに繋がっているが、要はリベラルな父子と保守的な行かず後家の時代的相克がテーマになっていて、主人公の良家の子女は始めは保守的なルールを受け入れているが、自由民権の魅力には抗えず、旧習を捨ててリベラルな恋を選ぶというもの。その自由民権の風景が眺めのいい部屋から見える景色であって、眺めの悪い部屋で我慢せずに、はしたなくても勇気を出して眺めのいい部屋と交換しようというのが本作のテーマ。
 原作はもちろん20世紀初頭に書かれたもので、当時としては意味のある作品だったに違いないが、リベラルが当たり前の時代に見せられても相当にどうでもいい。
 しかし、両家の子女をヘレナ・ボナム=カーター、行かず後家の従姉をマギー・スミスが演じ、とりわけマギー・スミスが上手く、自然の情景も美しいので、つまらない話でも映画的にはよく出来ている。
 ほかにジュディ・デンチ、ダニエル・デイ=ルイス。 (評価:2)

刑事グラハム 凍りついた欲望

製作国:アメリカ
日本公開:1988年10月15日
監督:マイケル・マン 製作:リチャード・ロス 脚本:マイケル・マン 撮影:ダンテ・スピノッティ 音楽:ザ・レッズ&ミシェル・ルビーニ、喜多郎

天才捜査官の推理は科学的というよりは霊能力に近い
 原題"Manhunter"で、人を狩る者の意。トマス・ハリスの"Red Dragon"が原作で、ハンニバル・レクター3部作の1作目。
 FBI捜査官ウイル・グラハム(ウィリアム・L・ピーターセン)が主人公の刑事もので、犯人はサイコパスの殺人鬼フランシス・ダラハイド(トム・ヌーナン)。レクター博士(ブライアン・コックス)は、グラハムの捜査の助言者として登場するが、すでに収監されている脇役ながらも、ダラハイドにグラハムの妻子を襲うように仕向けるというサイコパスぶりを発揮する。
 本作のいただけないのは、グラハム捜査官がレクター博士とタメを張るほどの天才的頭脳の持ち主で、シャーロック・ホームズ並みの推理を展開するのだが、ホームズが誰にでも納得できる天才的推理をするのに対し、グラハムは神がかりに近い推理で、科学的というよりは霊視、ないしは霊感、霊能力に近い。
 このため推理に相当無理があって、都合が良すぎる推理と思われても仕方がないこと。
 犯人のダラハイドは狼男の血筋なのか、満月の夜に美人の奥さんのいる家を狙って一家惨殺。サイコパスの素質を持ったグラハム捜査官が、自分ならこうすると独り言を言いながら推理すると、その通りに証拠が挙がってくるという仕掛け。
 惨殺された二つの家族がいずれもホームムービーを撮っていて、同じ現像所に出していたことから犯人が割れるという推理ものにしてはつまらない展開で、グラハムの家族も事件解決に関わらない。
 収監中のレクター博士がチューイングガムの銀紙で回路を繋ぐというシーンが出てくるが、銀紙は銀色のインクの印刷なので導電性があるのか疑問。
 全体にシナリオと演出のテンポが悪く、無駄なシーンが多いのが退屈。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1987年1月15日
監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作:スチュアート・コーンフェルド 脚本:チャールズ・エドワード・ポーグ、デヴィッド・クローネンバーグ 撮影:マーク・アーウィン 音楽:ハワード・ショア

『ローズマリーの赤ちゃん』もどきだが、ラストは中途半端
 原題"The Fly"。『ハエ男の恐怖』(The Fly、1958)のリメイクで、原作はジョルジュ・ランジュランのフランス小説"La Mouche"(蠅)。
 ホラーの名作を金をかけて現代風にアレンジしたが、脚本も俳優もB級感が拭えず、いっそモノクロでゴシック風に撮った方が良かったのではないかと思われる作品。
 テレポート装置の研究者と雑誌記者がパーティーで出会うシーンからジーナ・デイヴィスの演技がめちゃくちゃ下手で、しかも30歳と薹がたっているので、ティーンエイジャーの下手可愛らしさもない。ジェフ・ゴールドブラムも棒の演技で、やっぱりB級だなと思っていると、訳が分からないうちに二人がセックスを初めて、どうも好きになったみたいだと気づく。
 これはラストで蠅人間の子を妊娠したという『ローズマリーの赤ちゃん』もどきの伏線になっているのだが、無駄にセックス絡みのシーンや会話が入ってきて、B級エロホラー映画の雰囲気が充満する。
 転送すると蒸気のようなものが上がるのだが、あれは転送物に含まれる水分なのだろうか? その物質は転送されないのか? それでは転送は不完全ではないか?
 未発表の研究を記者に見せてしまったり、聞いた話だけで記事にしてしまう編集長もなんで、SF設定も含めて、突っ込みどころだらけの脚本。
 科学者が自分を転送しようとした時に蠅が混じってしまい蠅人間という原作を踏襲しつつ、後の見どころはグロシーンで、SFには中途半端、ホラーには怖くなく、ただグロいだけの醜悪映画となっている。
 最後、悲劇の蠅人間は死を請い、恋人の女が願いを叶えるのだが、腹の中の子は置き去りでこれまた中途半端。『ローズマリーの赤ちゃん』的ラストもなく、ただ続編へ引き継ぐだけというのは何ともいただけない。 (評価:2)

ラビリンス 魔王の迷宮

製作国:アメリカ
日本公開:1986年7月5日
監督:ジム・ヘンソン、ピーター・マクドナルド、ジミー・デイヴィス 製作:エリック・ラットレー 脚本:テリー・ジョーンズ 撮影:アレックス・トムソン 音楽:トレヴァー・ジョーンズ

お姫様ドラマのアイドル映画ではあまりに芸がない
 原題"Labyrinth"で、迷宮・迷路のこと。本作では、どちらかというと迷路の意。
 継母とそりの合わない少女が、義弟の赤ん坊の子守をさせられて、どこかに消えてしまえばいいのにと願ったところ、本当にゴブリンの王が連れ去ってしまい、迷路を抜けて王宮に赤ん坊を取り戻しに行くという冒険譚。
 ジャンルでいえばファンタジーで、『不思議の国のアリス』的なメルヘンでもあり、ゴブリンや芋虫、毛むくじゃらの怪物等々、『セサミストリート』のようなマペットが迷路に登場する。
 これに魔王を演じるデヴィッド・ボウイを中心とした歌が入り、ファンタジー・ミュージカルといった趣になっている。ストーリーは至って単純なので、マペットとミュージカルで何とか間を持たせるが、それでも単調さは免れない。
 しかし、本作ではマペットとミュージカル、ファンタジーは添え物、従でしかなく、この作品を端的に言い表せば、少女を演じるジェニファー・コネリーのアイドル映画、ということになる。
 少なくともジェニファー・コネリーが主人公の少女を演じなければ、中身もなくストーリーもつまらない退屈極まりない作品で、評価1.5の駄作。15歳のジェニファーのアリスのような可愛らしさを鑑賞することで、どうにか見続けることができる。
 もっとも15歳のジェニファーの可愛らしさを存分に引き出せたかというとそうでもなく、前年の『フェノミナ』ほどには魅力的ではない。ホラー映画の恐怖に怯える美少女の魅力に比べると、童話のお姫様の魅力というのは所詮人形のような表面的なものでしかなく、美少女の内面に秘められた魅力までは引き出せないことがよくわかる。
 最後はおそらく夢落ちで、お姫様ドラマのアイドル映画ではあまりに芸がない。
 マペットはよくできているが、ジェニファーが踊るブルースクリーンの合成の粗さが気になる。 (評価:2)


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