海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1984年

ターミネーター

製作国:​アメリカ、イギリス
日本公開:1985年5月25日
監督:ジェームズ・キャメロン 製作:ゲイル・アン・ハード 脚本:ジェームズ・キャメロン、ゲイル・アン・ハード 撮影:アダム・グリーンバーグ 特撮:スタン・ウィンストン 美術:ジョージ・コステロ 音楽:ブラッド・フィーデル

結末が分かっていても手に汗握る殺人兵器ぶり
 原題"The Terminator"で、終わらせる者の意。字幕では抹殺者と訳されている。
 シリーズ第1作で、本作のヒットによって4部作となり、タイム・パラドックスを基にした物語はリングとなって完結する。シリーズ全体では、起承転結の「起」に相当するが、単作品としての完成度は高い。
 冒頭、45年後の未来からターミネーターT-800のシュワルツェネッガーが現れるシーンは何度見ても印象的で、アンドロイドにしか見えないシュワちゃんの体型が凄い。続くカイルの登場とスーパーマーケットのシーン、サラ・コナーの保護とターミネーターとのカーチェイスは息つく間もないほどのスリリングさで、しかも未来の状況説明と進行中のストーリーをきちんと見せていくシナリオと演出は完璧。
 シュワちゃんの無敵・不気味ぶりも際立ち、少しずつ破壊されながらもくり返し復活し、爆発炎上後はスケルトンとなり、最後は上半身だけでサラを追いつめるという、never give upのターミネーターぶりが有名なシーンを迎える。
 今から見ると、ターミネーターの一部アニメーションが若干ぎごちないが、執拗な殺人兵器ぶりは結末が分かっていても手に汗握らせ、再見に耐えるアクション作品となっている。
 カイルが未来に譲り受けた写真がサラを見つけるための重要アイテムとなり、その写真に恋したカイルのサラとの一夜の交合がジョン・コナーを生み、最後にその写真が撮影されるエピソードで終わるという、ドラマ的にもよくできたシナリオだったが、公開当時は映画賞にもキネ旬ベストテンにも無縁だった。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1985年2月16日
監督:ミロス・フォアマン 製作:ソウル・ゼインツ 脚本:ピーター・シェイファー 撮影:ミロスラフ・オンドリチェク 音楽:ネヴィル・マリナー
キネマ旬報:1位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

18世紀ウィーンへのトリップと豪華なオペラシーンが見どころ
 原題"Amadeus"。ピーター・シェーファーの同名戯曲が原作。
 モーツァルトを同時代の作曲家サリエリの目を通して描いた伝記で、モーツァルトのウィーン時代を中心に描かれる。
 モーツァルトの死因についてサリエリの毒殺説があって、本作はこの噂を基にしながらも、実はサリエリはモーツァルトを嫉妬・羨望とともに崇拝していたのであり、衰弱するモーツァルトにレクイエムを書かせて死に追い込みはしたものの、殺したわけではないという物語にしている。
 本作はフィクションだが、モーツァルトとサリエリの関係に新たな解釈を行って、公開当時話題になった。とりわけモーツァルトの軽佻浮薄ぶりが印象的だが、その実、ドイツ語でオペラを書いたり、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世が禁止する『フィガロの結婚』を上演するなど、音楽界・宮廷の権威主義を否定して、オペラや音楽に自由な風を吹き込んでいく人物像をトム・ハルスが演じる。
 本作の大きな見どころは、『後宮からの誘拐』『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』のハイライトの華やかなオペラシーンが描かれていることで、撮影に使われたプラハのスタヴォフスケー劇場と併せて見応えがある。マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団の演奏も聴きどころの一つ。
 アカデミー賞を受賞した美術・衣装デザイン・メイクアップも絢爛豪華で、18世紀のウィーンにトリップできる。
 作品のテーマは、世に天才と凡人を造り出す神の不公平であり、中でもサリエリの最大の不幸はモーツァルトの天才を見抜く目を持つ凡人であったことにある。
 サリエリの才能はオーストリア皇帝によって認められはしたが、モーツァルトは凡人の皇帝ではなく神によって認められ祝福されたのであり、天才だけに注がれた神の恩寵を知ったサリエリは、それゆえに神への信仰を捨てる。
 そのサリエリの嫉妬・羨望、そしてモーツァルトに体現された神の奇跡への歓喜・祝福をF・マーリー・エイブラハムが好演し、アカデミー主演男優賞を受賞している。 (評価:3.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1984年10月6日
監督:セルジオ・レオーネ 製作:アーノン・ミルチャン 脚本:レオナルド・ベンヴェヌーチ、ピエロ・デ・ベルナルディ、エンリコ・メディオーリ、フランコ・アルカッリ、セルジオ・レオーネ、フランコ・フェリーニ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 美術:カルロ・シーミ 音楽:エンニオ・モリコーネ
キネマ旬報:1位

幻覚だったかのように失われた友情の儚さを描く
 原題"Once Upon a Time in America"。ハリー・グレイの小説"The Hoods"(ごろつきども)が原作。
 禁酒法時代、ニューヨークのユダヤ人街を舞台に、少年時代に知り合った二人のギャングの生涯を描く。成人してからのヌードルスをロバート・デ・ニーロ、マックスをジェームズ・ウッズが演じる。ヌードルスが恋する友人モー(ラリー・ラップ)の妹デボラ(エリザベス・マクガヴァン)の少女時代を、これがデビューとなる13歳のジェニファー・コネリーが演じて話題になったが、バレエのレッスンシーンが前半の見どころの一つ。
 物語はヌードルスがニューヨークを去る1933年に始まり、35年後に謎の呼び出し状で街に戻り、モーの店を訪れて少年時代を回想するという、レオーネらしいノスタルジックな演出で始まる。
 貧しい子供時代、マックスとの出会い、デボラとの初恋、街のチンピラとの抗争を経て、ヌードルスは監獄行き。
 6年後に出所すると、マックスは葬儀会社を隠れ蓑に非合法ビジネスで成功、女優になったデボラと再会する。しかし上昇志向のマックス、デボラと心が擦れ違い、連邦準備銀行襲撃を計画するマックスの命を救おうと警察に密告。それに気づいたマックスは、これまたヌードルスの命を救うために、他の仲間2人を連れて警官隊と撃ち合い、死んでしまう。
 35年後に3人の墓を訪れたヌードルスは、謎の依頼を受ける。依頼主はデボラの愛人で、汚職事件で窮地に立つベイリー商務長官。自らを殺してほしいという。
 このベイリーの正体が鍵となるが、警官隊との銃撃戦で死んだ3人のうち、1人だけが酷く顔を損傷していることから、冒頭で見当がつくのがレオーネの親切なところ。
 ヌードルスの唯一無二の親友だったマックスとの友情物語で、同時に失われた友情の儚さを描く。
 マックスとの友情が幸せな幻覚だったかのように、ラストは35年前の逃亡直前の阿片窟に横たわるヌードルスの笑顔で終わる。
 殺伐とした暴力の中に男の乾いた哀愁を漂わせる、レオーネならではの集大成にして遺作。
 本作にはいくつかのヴァージョンがあり、カットしたフィルムを追加したエクステンデッド版が最長で4時間11分。伏線となるシーンやエピソードなどがあってストーリーがわかりやすく、ヌードルスの性格も明確になるが、編集前の贅肉が付いた感じで良くない。追加フィルムの解像度が低いのも気になって作品に入り込めない。オリジナル版がベスト。 (評価:3.5)

ビバリーヒルズ・コップ

製作国:​ア​メ​リ​カ
日本公開:1985年4月27日
監督:マーティン・ブレスト 製作:ドン・シンプソン、ジェリー・ブラッカイマー 脚本:ダニエル・ペトリ・Jr 撮影:ブルース・サーティース 音楽:ハロルド・フォルターメイヤー

排気管にバナナを突っ込む良質なコメディ
 原題は"Beverly Hills Cop"でビバリーヒルズの刑事。
 デトロイト市警の敏腕だが問題のある刑事(エディ・マーフィー)が、友人の死の真相を突き止めるために休暇でビバリーヒルズに向かい、究明するというコメディタッチの刑事もの。
 労働者の町の刑事が、お高くとまったセレブの町へという対照が可笑しく、スーツ姿で法令順守の紳士なビバリーヒルズ警察を引っ掻き回しながら、刑事たちを自分のペースに巻き込んでいくマーフィーが楽しい。
 30年ぶりに観てはっきり覚えていたのが、尾行の刑事にホテルの食事サービスを届け、その隙に車の排気管にバナナを突っ込むというシーンで、やはりよくできたシナリオだった。
 何をしでかすかわからないマーフィーの監視役のビバリーヒルズ警察の二人の刑事、ジョン・アシュトンのボケぶりと、マーフィーに洗脳される若手ジャッジ・ラインホルドが目立たないがいい演技をしている。警部補ロニー・コックスもいい。
 ハロルド・フォルターメイヤーのシンセサイザーの音楽もよく、サウンドトラックでグラミー賞受賞。
 出所した友人マイキーがデトロイトにアクセル刑事を訪ねてくるが、襲われて殺される。マイキーが警備員をしていたビバリーヒルズの輸入倉庫を調べたアクセルは、麻薬や盗品が絡んでいることを突き止め、マイキーが盗品のドイツ債権を窃盗したために殺されたと知る。バックにはビバリーヒルズの実業家が絡む。
 肩の凝らない良質なエンタテイメント・コメディ。できればマーフィーの下品な英語と、ビバリーヒルズの刑事たちの上品な英語も聴き比べたい。 (評価:3)

製作国:台湾
日本公開:1990年8月25日
監督:ホウ・シャオシェン 脚本:ホウ・シャオシェン、チュー・ティエンウェン 撮影:チェン・クンホウ
キネマ旬報:4位

台湾でありながら日本人にとっての原風景そのものの映画
 原題"冬冬的假期"で、冬冬の休暇の意。冬冬(トントン)は主人公の少年の名。
 母が胆嚢炎で入院したため、台北の小学校を卒業したばかりの冬冬が、妹とともに田舎の祖父の家で夏休みを過ごす、ひと夏の成長物語。一言でいえば『となりのトトロ』(1988)だが、本作の方が制作は4年早い。
 作中に登場する音楽は2曲のみで、劇伴はつかない。ストーリーも描写も淡々として妙な誇張やドラマチックさもなく、兄妹のドキュメンタリー映画を見ているような感覚になる。その細部の描写のシナリオが秀逸で、列車の中で妹がトイレでパンツとスカートを濡らしてしまうシーンなど、おそらくチュー・ティエンウェンの実体験を基にしたリアリズムに引き込まれてしまう。
 兄妹は医者をしている祖父の家で、田舎の子どもたちと友達になり、列車にひかれそうになるところを頭の足りない女に助けられ、叔父が友人の強盗犯を匿う事件に遭遇したり、母が手術で重態となったり、さまざまなことを体験する中で、大人たちの世界を垣間見て成長していく。そうして、仲良くなった人々や友達との別れを惜しんで台北に帰っていく。
 本作で最も印象的なのは、冬冬がひと夏を過ごす田舎の情景が、日本人にとっての原風景そのもので、遠い過去の記憶と重なり合うこと。戦後間もない頃の小津安二郎、木下恵介、今井正の映画を見ているような錯覚に陥るが、本作には日本の影が色濃い。
 冒頭の小学校の卒業式で歌われるのは「仰げば尊し」(歌詞は中国語)で、冬冬が暮らす祖父の家は総督府時代のものと思われる日本家屋で、畳の部屋もある。そして最後に使われる2曲目は童謡の「赤とんぼ」となっている。  本作が制作された1980年代には、日本ではすでにこのような風景は失われているが、台湾には残っていたということになる。
 冬冬の祖父は、厳格な日本の祖父そのもので、これらが、台湾がかつて日本に統治されていた影響なのか、それとももともと台湾にあったものが日本の原風景と同じだったのか判断がつかないが、本作を見て懐かしい気持ちになるのは台湾人だけでなく日本人も同じ。
 冬冬と妹、田舎の子どもたちを演じる子役たちがいい。 (評価:3)

製作国:イギリス
日本公開:1985年8月31日
監督:ローランド・ジョフィ 製作:デヴィッド・パットナム 脚本:ブルース・ロビンソン 撮影:クリス・メンゲス 音楽:マイク・オールドフィールド
キネマ旬報:7位

『1984』を髣髴させる狂気と人間の持つ悪魔性
 原題"The Killing Fields"で、殺戮の地の意。ニューヨーク・タイムズ記者シドニー・シャンバーグとカンボジア人記者ディス・プランの1970年代のカンボジア内戦の体験を基にした実話の映画化。
 1973年、プノンペンに赴任したシャンバーグはプランの協力を得てクメール・ルージュとの戦いの生々しい記事を送稿し続けるが、1975年にプノンペンが陥落しプランと共にフランス大使館に避難。カンボジア人のプランを残して帰国する。
 残されたプランはクメール・ルージュの下で強制労働に就かされ、身分を隠して殺戮の日々を生き延び、村を脱出してタイに逃亡、1979年にシャンバーグと再会する。
 プノンペン陥落までの前半は、ロン・ノル政府軍とクメール・ルージュの血で血を洗う悲惨な戦いが描かれ、陥落時の混乱は緊迫感がある。
 プランの物語になる後半は、クメール・ルージュの残虐性、ジョージ・オーウェルの『1984』を髣髴させるクメール・ルージュの狂気が映し出されるが、クライマックスはプランの逃避行で、タイトルの道の両側に白骨死体が延々と続く大量虐殺跡の光景がカンボジア内戦の計り知れない残虐を映し出す。
   この光景を作りだした原因がポル・ポトにあるのか、はたまた内戦を作り出したニクソンとアメリカにあるのか、政治や歴史を語りだせばきりがなく、立場によって議論にもなる。しかし、間違いなくいえるのは、直接・間接に手を下したかどうかは別として、人間という生き物はここまで残虐になれる、狂気を手にすることができるということを本作は描いていて、その残虐と狂気を引き出す戦争というものを知ることができる。
 本作は単なるカンボジア内戦の実話という範疇を超えていて、今も人間の持つ悪魔性を提示し続けている。
 ディス・プランを演じたハイン・S・ニョールはクメール・ルージュの強制労働に就かされた医師で、演技未経験ながらアカデミー助演男優賞を受賞。
 撮影はタイとカナダで行われている。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1985年11月2日
監督:ベルトラン・タヴェルニエ 製作:ベルトラン・タヴェルニエ、アラン・サルド 脚本:ベルトラン・タヴェルニエ、コロ・タヴェルニエ 撮影:ブリュノ・ド・ケイゼル 音楽:ガブリエル・フォーレ
キネマ旬報:8位

老画家を描く本作そのものが印象派の絵になっている
 原題"Un Dimanche a la Campagne"で、邦題の意。ピエール・ボストの小説"Monsieur Ladmiral va bientôt mourir"(ラドミラル氏はもうすぐ死ぬ)が原作。
 時は1912年、パリ郊外の田園に住む老画家(ルイ・デュクルー)が主人公で、定期的に長男一家が訪ねてきたある日曜日、突然独身の長女がやってくる。
 画家になることを諦めて平凡な人生を歩む常識人の長男(ミシェル・オーモン)に対し、長女(サビーヌ・アゼマ)は家を出て一人暮らしをし、職業を持ち恋愛をするという当時としては常識外の自由な生き方をしている。
 もっとも老画家は、面白味のない孝行息子よりも、心配ばかりかける娘と心を通わせていて、無頓着に見える娘も父のことを気にかけている。
 大した出来事もなく過ごす平和な日曜日の一日の話だが、そうした親子の目に見えない交流を巧みに描き、絵に対する鑑賞眼を持たない息子に対し、娘は部屋の中ばかりを描いている塞いだ父の絵を批判する。
 そうした中で、屋根裏から見つけた若かりし頃に描いた絵を娘に褒められ、平和な日曜日を終えた老画家はアトリエに戻ると、イーゼルから描き掛けの絵を外し、新しいキャンバスに替えて、彼が好んで描いた庭に向かうというラストシーン。
 妻を亡くし老いて孤独に陥った老画家の心に再び灯を点したのは娘で、そこに父娘の真の信頼の絆が描かれている。
 そうした物語の美しさを支えるのが、20世紀初頭の田園の風景と人々の衣装で、当時のフランス印象派の絵画を思わせるような映像となっている。実際、ルノワールの絵を思わせるよう少女やレストランのシーン、モネやゴッホを思わせる森の風景が散りばめられていて、本作そのものが印象派の絵そのものになっている。 (評価:3)

製作国:アメリカ、西ドイツ
日本公開:1986年4月19日
監督:ジム・ジャームッシュ 製作:サラ・ドライヴァー 脚本:ジム・ジャームッシュ 撮影:トム・ディチロ 音楽:ジョン・ルーリー
キネマ旬報:1位

よそ者=移民が手に入れた楽園の奇妙な現実を描く
 原題"Stranger Than Paradise"で、楽園よりも奇なりの意。
 ハンガリー移民でニューヨークに住む青年ウィリー(ジョン・ルーリー)の物語。"The New World"(新世界)、"One Year Later"(一年後)、"Paradise"(楽園)の3部構成になっている。
 ウィリーのアパートにハンガリーから従妹のエヴァ(エスター・バリント)がやってきて、叔母の家に移るまでの10日間、預かるのが第1部。最初は邪魔者扱いするものの、友人のエディ(リチャード・エドソン)ともども次第に打ち解けて、別れに思いを残す。
 第2部は1年後にウィリーが思い立って、エディが借りた車でエヴァに会うためにクリーブランドの叔母(セシリア・スターク)の家を訪ねる。数日間を過ごして帰ろうとするが、急にエヴァを誘ってフロリダにバカンスに出かける。
 第3部はフロリダのモーテルに落ち着くが、ウィリーとエディがギャンブルで遊興費を稼ごうとしている間、一人残されたエヴァが人間違いから大金を手に入れ、ブダペストに帰ろうとする。それを追ってウィリーが飛行機に乗り込むが、エヴァの方は気が変ってモーテルに戻る擦れ違いで幕。
 楽園を求めてハンガリーからアメリカにやってきた移民たちの人生を描くもので、よそ者(stranger)である彼らが手に入れた楽園の奇妙な現実を描く。
 彼らは日がなテレビを眺めて楽園である世間と繋がっているだけの孤立した存在。母国語を拒絶してアメリカに溶け込もうとするウィリーに対し、叔母は英語を拒絶して母国語を貫く。移民のアイデンティティがテーマで、アイデンティティをアメリカに同化させようとするウィリーは皮肉にもブダペストに戻ってしまうという喜劇だが、移民の現実を描いただけでテーマの生煮え感は残る。
 作品全体は1シーン1カットでフェードアウトする淡々かつ飄々とした構成で、作品全体を奇妙な感覚が包む不思議系作品。
 エヴァを演じるハンガリーのミュージシャン兼俳優のエスター・バリントの不思議ちゃんぶりがいい。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1985年8月12日
監督:デヴィッド・リーン 製作:ジョン・ブラボーン、リチャード・B・グッドウィン 脚本:デヴィッド・リーン 撮影:アーネスト・デイ 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:9位

見どころは、そうだインドに行こう
 原題は"A Passage to India"で邦題の意。Passageは作品内容的には航海。E・M・フォースターが体験を基に書いた1924年の同名小説が原作で、監督デヴィッド・リーンの遺作。
 3時間近い物語を飽きずに見させる演出力はさすがだが、後半説明不足で物語の顛末がよくわからず、完成度は今一つ。
 判事をしている従兄と結婚するために伯母と英領インドにやってきた娘が、インド人医師の案内で洞窟観光に行き、洞窟内で正気を失い、医師に暴行されたと思い込む。医師は逮捕されるが、裁判で娘は思い違いだったことに気付き、告訴を取り下げる。しかしインド独立の気運の中で、医師はイギリスへの反感を強め、娘の世話人となった大学校長のイギリス人と訣別。
 二年後、元校長と再会した医師は、イギリス人ソサエティから弾き出されるのを覚悟で告訴を取り下げた娘のやさしさに気付くという物語。
 テーマ的にはインド人を見下すソサエティと、それに反感を持つイギリス人校長、伯母、そして娘という構図で、娘はソサエティに迎合する婚約者への愛を失い、インド人医師に魅かれる。一方でカーマ・スートラのような異文化と出合い、文化の衝突に混乱する中で洞窟事件となるが、娘の心理が見えてこない。同様に裁判後のインド人医師の心の動きもわかりにくい。
 社会派ドラマなのか恋愛ドラマなのか立ち位置が不明で、イギリス人が植民地を描く限界を感じさせるが、インドの風俗や自然が美しく、そうだインドに行こう、と思わせる。
 インド人医師の無罪を確信し、イギリス人ソサエティとの関わりを拒否し、イギリスに帰ってしまう伯母をペギー・アシュクロフトが好演しているのも見どころ。アカデミー助演女優賞を獲得している。 (評価:2.5)

製作国:​イタリア
日本公開:1985年6月22日
監督:ダリオ・アルジェント 製作:ダリオ・アルジェント 脚本:ダリオ・アルジェント、フランコ・フェリーニ 撮影:ロマノ・アルバーニ 音楽:ゴブリン、サイモン・ボスウェル

蛆虫のプールに沈むジェニファーの名場面
 原題"Phenomena"で現象(複数形)の意。改めてインテグラルハード完全版を見たが、4分長いだけで公開版と基本的な違いはない。
 美少女が怖い目に遭って悲鳴を上げるというホラー映画の鉄則を押さえた傑作で、超絶美少女の主役のジェニファー・コネリー14歳の恐怖に慄く姿が最高にいい。夢遊病者という設定で、寝間着姿や下着姿に肌も露わで、ロリータ・エロティシズムも冴えわたる。
 冒頭でバスに乗り遅れて最初の犠牲者となるダリオ・アルジェントの娘フィオーレ・アルジェントも同じ14歳で金髪に肌が白く、父親が使いたがったのも納得できるホラー向き美少女。ジェニファーのルームメイト、フェデリカ・マストロヤンニも可愛く、虐待される美少女は満点のキャスティングとなっている。
 さらにジェニファーは昆虫と会話のできる超能力を持っていて、ただ虐待されるだけでなく、彼女のやさしさと殺人鬼に対抗できる能力を秘めた、そこはかとない魅力となっている。
 終盤まで殺人鬼を見せない演出も怖くてミステリアスで、人間の死肉に寄生する蛆虫を追ってジェニファーが殺人鬼の家にたどり着き、周囲の人間が次々と殺されていく恐怖の中で、蛆虫のプールに沈むジェニファーが、サディスティックな名場面。
 博士の復讐を果たすチンパンジーも可愛いような怖いようなで、緩みのないホラー映画となっている。 (評価:2.5)

製作国:​ア​メ​リ​カ
日本公開:1986年5月24日
監督:ウェス・クレイヴン 製作:スタンリー・ダデルソン、ジョセフ・ウルフ、ロバート・シェイ 脚本:ウェス・クレイヴン 撮影:ジャック・ヘイトキン 音楽:チャールズ・バーンスタイン

映画初出演の若々しいジョニー・デップも見どころ
 ​ウ​ェ​ス​・​ク​レ​イ​ヴ​ン​監​督​の​オ​リ​ジ​ナ​ル​版​。​原​題​は​"​A​ ​N​i​g​h​t​m​a​r​e​ ​o​n​ ​E​l​m​ ​S​t​r​e​e​t​"​で​邦​訳​の​通​り​。
​ ​殺​人​鬼​フ​レ​デ​ィ​は​『​1​3​日​の​金​曜​日​』​の​ジ​ェ​イ​ソ​ン​と​並​ぶ​、​ホ​ラ​ー​界​の​人​気​キ​ャ​ラ​ク​タ​ー​。​ジ​ェ​イ​ソ​ン​の​斧​に​対​し​、​フ​レ​デ​ィ​は​鉄​の​爪​が​必​殺​武​器​。
​ ​エ​ル​ム​街​に​住​む​少​女​ナ​ン​シ​ー​(​ヘ​ザ​ー​・​ラ​ン​ゲ​ン​カ​ン​プ​)​は​毎​晩​フ​レ​デ​ィ​(​ロ​バ​ー​ト​・​イ​ン​グ​ラ​ン​ド​)​に​襲​わ​れ​る​夢​を​見​る​。​父​は​警​官​で​不​在​が​ち​で​、​母​の​留​守​に​不​安​か​ら​同​じ​夢​を​見​る​親​友​の​テ​ィ​ナ​を​呼​ん​で​他​の​男​友​達​二​人​に​来​て​も​ら​う​が​、​夜​中​に​テ​ィ​ナ​は​夢​で​惨​殺​さ​れ​、​恋​人​の​ロ​ッ​ド​が​逮​捕​さ​れ​て​留​置​所​に​入​れ​ら​れ​る​。​ナ​ン​シ​ー​は​隣​家​の​男​友​達​グ​レ​ン​を​用​心​棒​に​頼​む​・​・​・
​ ​ナ​ン​シ​ー​は​悪​夢​か​ら​現​実​に​フ​レ​デ​ィ​を​呼​び​寄​せ​る​作​戦​を​立​て​、​見​事​成​功​し​た​か​に​見​え​た​が​・​・​・
​ ​夢​と​現​実​の​壁​が​な​く​な​っ​て​し​ま​う​と​い​う​発​想​の​ホ​ラ​ー​で​、​フ​ェ​イ​ク​を​使​っ​た​演​出​の​上​手​さ​も​あ​っ​て​怖​い​。​フ​レ​デ​ィ​は​ジ​ェ​イ​ソ​ン​の​よ​う​な​闇​雲​な​殺​人​鬼​で​は​な​く​、​顔​の​焼​け​た​だ​れ​た​サ​デ​ィ​ス​ト​。​鉄​の​爪​を​光​ら​せ​な​が​ら​カ​チ​ャ​カ​チ​ャ​さ​せ​る​光​と​音​が​恐​怖​感​を​煽​り​、​サ​デ​ィ​ス​ト​に​い​た​ぶ​ら​れ​る​可​愛​い​女​の​子​と​い​う​設​定​が​秀​逸​な​ホ​ラ​ー​。
​ ​フ​レ​デ​ィ​が​夢​か​ら​現​実​に​な​ぜ​引​き​寄​せ​ら​れ​る​の​か​と​い​う​点​は​最​後​ま​で​不​明​の​ま​ま​で​、​幼​児​殺​人​鬼​の​過​去​も​良​く​わ​か​ら​な​い​ま​ま​に​ラ​ス​ト​シ​ー​ン​も​す​べ​て​の​理​屈​を​超​越​し​て​い​る​が​、​整​合​性​を​排​し​て​怖​さ​だ​け​に​拘​っ​た​演​出​は​見​事​。​続​編​が​造​ら​れ​て​人​気​シ​リ​ー​ズ​と​な​っ​た​。
​ ​ナ​ン​シ​ー​の​男​友​達​グ​レ​ン​を​演​じ​た​の​が​、​こ​れ​が​映​画​初​出​演​の​ジ​ョ​ニ​ー​・​デ​ッ​プ​で​2​1​歳​。​す​ぐ​に​居​眠​り​し​て​し​ま​う​頼​り​な​い​少​年​だ​が​、​面​影​の​あ​る​若​い​デ​ッ​プ​も​見​ど​こ​ろ​の​一​つ​。 (評価:2.5)

満月の夜

製作国:​フランス
日本公開:1987年1月17日
監督:エリック・ロメール 製作:マルガレート・メネゴス 脚本:エリック・ロメール 撮影:レナート・ベルタ、ジャン=ポール・トライユ、ジル・アノー 音楽:エリ&ジャクノ

間違いを犯しながらも正直でありたいという女が可愛い
 原題"Les nuits de la pleine lune"で、邦題の意。
 パリ郊外の彼氏の家で同棲している女の話で、冒頭2つの家を持つものは分別をなくすという格言が入る。
 女はルイーズ(パスカル・オジェ)で、週末はパリの街で徹夜で踊り明かしたいタイプの遊び好き。一方同棲相手のレミ(チェッキー・カリョ)は、静かな田舎に引き籠りたいインドア派。そんな正反対の性格だからこそルイーズはレミに惚れていて、互いを尊重するために、週末はパリのアパートで別々に過ごすことにする。
 そんなルイーズを妻帯者のオクターブ(ファブリス・ルキーニ)が付け狙うが、ガードが堅い。ところがルイーズは格言通りに羽を伸ばして行きずりのミュージシャンとベッドイン。反省して朝一番でレミの家に帰ろうとし、カフェで出会った男に、満月の夜は誰も眠れない、と話しかけられるのがタイトル。そして家に戻るとベッドは空。レミも朝帰りで、結婚相手ができたと告げられるというオチ。
 話自体はよくあるフランス小噺で、自業自得の物語なのだが、互いを自分の色に染めようとせずに尊重するのが正しい愛の在り方、というルイーズの考えはいい。ただ、理屈通りに行かないのが男女の関係で、相手を束縛し嫉妬するのが本当の愛、というのがロメールの結論らしい。
 それでも愛について間違いを犯しながらも正直でありたいというルイーズが可愛い。パスカル・オジェの気ままを愛する女ルイーズの演技がいいが、ヴェネチア映画祭女優賞を受賞した翌月急死している。 (評価:2.5)

グレムリン

製作国:​ア​メ​リ​カ
日本公開:1984年12月8日
監督:ジョー・ダンテ 製作:マイケル・フィネル 脚本:クリス・コロンバス 撮影:ジョン・ホラ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

小悪魔モグワイも可愛いが小天使フィービー・ケイツも可愛い
 原題は"Gremlins "で、飛行機など機械類の故障の原因にされる小悪魔のこと。監督のジョー・ダンテも参加したスピルバーグ製作のオムニバス映画『トワイライトゾーン』(1983)でも、第4話「2万フィートの戦慄」(監督:ジョージ・ミラー)で飛行機の窓にグレムリンが登場している。本作もスピルバーグが製作総指揮。
 中華街の骨董品店で手に入れた珍獣モグワイが引き起こすホラー風ブラック・コメディ。青年は父からモグワイをもらいギズモと名付ける。モグワイのタブーは、光が嫌いで日に当てると死ぬ、水を掛けると繁殖する、真夜中に食べると凶悪になる。
 もちろん後2つのタブー通りになって町はグレムリンに乗っ取られて大混乱。夜明けにグレムリンたちは映画館に逃げ込み、青年は恋人(フィービー・ケイツ)とともに退治に向かう。
 最初に見た時は、元親のギズモだけが可愛い良い子で、子供や孫・曾孫だけが悪者になるのに違和感を覚えたが、理屈抜きにギズモは可愛いくて、他のグレムリンは悪戯小僧と楽しむのが正しい観方。悪戯小僧たちもかなり悪意はあるが、小悪魔・小鬼程度の悪さで、バーで飲んだくれたり、映画館で騒いでいるモブシーンは悪ガキ風で可愛い。
 今ならCGだが、モグワイはパペットを使用。一部ヌメヌメやグロいシーンもあるので要注意。
 フィービー・ケイツは当時のアイドル女優で、ハリウッドにもそんな時代があったと妙に懐かしい。 (評価:2.5)

製作国:西ドイツ、フランス
日本公開:1985年9月7日
監督:ヴィム・ヴェンダース 製作:クリス・ジーヴァニッヒ、ドン・ゲスト 脚本:L・M・キット・カーソン、 サム・シェパード 撮影:ロビー・ミューラー 音楽:ライ・クーダー
キネマ旬報:6位
カンヌ映画祭パルム・ドール

ナスターシャ・キンスキーの甘さに魅かれました
 カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作品。単調なストーリーをゆったりと見せて飽きさせないという点ではよくできた映画。動物か子供を使えば感動モノになるという定跡を踏まえた点でもよく計算されている。
 しかし、シナリオの安易さがどうしても気になる。4年間テキサス州のパリを捜して砂漠かどこかを彷徨ったという主人公の存在感が希薄すぎる。砂漠にふらっと現れて、かつての妻を捜して再び旅に出る。『シェーン』のようにスタイリッシュな風来坊ではあるのだが、その実、どこからともなく現れていずこかへ去っていくだけの虚像にしか過ぎない。
 ナスターシャ・キンスキー演じる妻も、テレクラのような仕事をしながらも、相手の男にいつも失踪した主人公を見ていたなどという、あざとい台詞が戦前の『カサブランカ』のようで恥ずかしい。しかも『母をたずねて三千里』ではあるまいに、弟夫婦の養子として平和に暮らす子供を学校帰りに連れ出して母親探しの旅に出るという非現実さ。
 つまりこの映画は虚構の中のメルヘン、ファンタジーであり、センチメンタルでデコレーションされた口当たりのいい砂糖菓子。それが好みであれば、人気のパティスリー程度には期待を裏切らない。美女が好みであれば、キンスキーもなかなかいい味を出している。それにしても、なんで独仏がこんなアメリカ映画もどきを作ったのか。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1984年5月5日
監督:ジョン・カーペンター 製作:リチャード・コブリッツ、ラリー・フランコ 脚本:ビル・フィリップス 撮影:ドナルド・M・モーガン 音楽:ジョン・カーペンター、アラン・ハワース

車でも女の子なんだから、おしゃれには気を遣うはず
 原題"Christine"で、作中に登場する車の名前。スティーヴン・キングの同名小説が原作のモダン・ホラー。
 いじめられっ子の高校生が20年物のオンボロ車1958年型プリムス・フューリーに一目惚れ。実はこの車、生きていて、クリスティーンという名で性別は女。ガールフレンドを乗せると嫉妬して意地悪し、最悪は殺してしまう。自分を汚したり傷つける者は容赦なく殺す。持ち主にも取り憑いて、恋は盲目、狂気へと追いやる。
 この奇想天外な設定が面白い物語で、クリスティーンを如何に破壊するかが焦点となるが、クリスティーンは自己再生能力を身につけて、壊しても新車同然に戻る。クライマックスは、主人公の乗るクリスティーン対ガールフレンドと親友の乗るショベルカーの対決となるが、哀れ主人公は***して、無人となったクリスティーンは潰されて直方体の鉄屑となる。
 しかしそこで映画は終わらず、直方体の鉄屑が動き出すというのがラストシーン。
 最後の対決はホラーとして普通に怖かったりして、エンタテイメントとして楽しめる。v  もっとも矛盾点もあって、自己再生能力を身に付けたクリスティーンが冒頭なんでボロ車だったのかよくわからない。女の子なんだから、おしゃれには気を遣うはずでしょ? それともシンデレラを気取って王子様がきれいな衣装をプレゼントしてくれるのを待ってたわけ?
 主人公の急変も納得がいかないが、そこは車が命を持つというトンデモ設定なので、粗を気にする方が野暮か。 (評価:2.5)

スプラッシュ

製作国:アメリカ
日本公開:1984年9月8日
監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー 脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル、ブルース・J・フリードマン 撮影:ドン・ピーターマン 音楽:リー・ホルドリッジ

タッチストーン・ピクチャーズの記念すべき第1作
 原題"Splash"で水跳ねのこと。少女の時に海で出会った少年を見初めた人魚が、20年後に再会し、海底に落とした財布の身分証を拾ってニューヨークに現れるというラブストーリー。
 ディズニーが実写映画制作会社として設立したタッチストーン・ピクチャーズの記念すべき第1作で、アニメ同様、夢を与えるというディズニー映画のポリシーを受け継いだ如何にもなディズニー映画。
 20年後に青年が再会するきっかけも、テレパシーのようなものに導かれた結果。会いに来た人魚は最初は全裸で、セックスもしてしまうという大人向けのところもあって、ディズニーランドに来る若者向けに作られている。
 人魚がいかにして人間界に現れるかという難問は、下半身が乾くと二本足になるという設定で解決。水に濡れると尾びれに戻ってピチャピチャしてしまうという所がミソで、人魚研究者が正体を暴こうとして水をかけるというようにシナリオ的にも上手く使われている。つまり、魔法とその魔法を解くツールというように、メルヘンの基本を踏襲しているのが、いかにもディズニーらしい。
 人魚は正体がばれて人間界にいられなくなってしまうというお決まりのパターンだが、これまたディズニーらしいラストが意表を突く。
 大人向きだが嫌らしさはないので、ファミリーで見てもOKというのもディズニーらしい。
 青年に若き日の細身のトム・ハンクス。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1984年8月25日
監督:バリー・レヴィンソン 製作:マーク・ジョンソン 脚本:ロジャー・タウン、フィル・ダッセンベリー 撮影:キャレブ・デシャネル 音楽:ランディ・ニューマン
キネマ旬報:3位

タイトルはナチュラルだが、話はスーパーナチュラル
 原題"The Natural"で、天賦の才のある人の意。バーナード・マラマッドの同名小説が原作。
 タイトルはnaturalだが、話はsupernatural。
 投打ともに天賦の才能を持った主人公が、上京する列車で知り合った美女(バーバラ・ハーシー)にホテルの部屋に誘われ、銀の弾丸で撃たれる。美女が銃で撃った理由は最後まで説明されず、同じ列車で乗り合わせたスポーツ紙記者の会話に、最近フットボール選手とオリンピック選手が銀の弾丸で銃殺されたことが出てくるだけ。さては美女がその犯人? という割には直後に飛び降り自殺していて、結局動機は説明されないまま。
 腹部に銃弾を受けながらも助かった主人公が、16年後、弱小大リーグ球団に中年の新人としてスカウトされるが、なぜスカウトされたのか、16年間何をしていたのかも説明されない。あるいは、ホテルの事件で入獄していたのか?
 その彼の強い味方が、少年の時に落雷した樫から作ったバットで、wonderboyと名づけられ、これまたsupernaturalな力を秘めているかのよう。
 球団オーナーは野球賭博の常習で自軍の負けに賭けていて、突然勝ちだしたために主人公をスランプに陥らせようと愛人(キム・ベイシンガー)をけしかける。この愛人もまた魔女のようにsupernaturalで、主人公は突然の大スランプに陥る。そこに現れたのが幼馴染の元ガールフレンド(グレン・クローズ)で、これまたsupernaturalな力で主人公のスランプを救う。
 優勝まであと1勝というところで銀の縦断の古傷が痛みだし、wonderboyが折れてあわやというところで、主人公と仲のいいボールボーイが教わって造ったsupernaturalなバットでサヨナラホームランとなる。
 元ガールフレンドの連れ子が、実は主人公の子供だったというオチまでついて、ロバート・レッドフォードが主人公なら、こんなお伽噺もありかとは思うが、ホテルの美女は何者だったのかという謎は最後まで残る。
 プレーシーンはもちろん吹替えだが、レッドフォードもそこそこ頑張っている。 (評価:2.5)

ネバーエンディング・ストーリー

製作国:西ドイツ
日本公開:1985年3月16日
監督:ウォルフガング・ペーターゼン 製作:ベルント・アイヒンガー、ディエテール・ガイスラー、ベルント・シェーファーズ 脚本:ウォルフガング・ペーターゼン、ヘルマン・ヴァイゲル 撮影:ヨスト・ヴァカーノ 美術:ロルフ・ツェートバウアー 音楽:クラウス・ドルディンガー、ジョルジオ・モロダー

子供向けファンタジーらしい手作り感のSFX
 原題"The Never Ending Story"。ミヒャエル・エンデの"Die unendliche Geschichte"(はてしない物語)が原作。
 物語の後半、とりわけエピローグが原作とは異なり、原作者と裁判沙汰になったが、物語そのものは、空想好きな苛められっ子の少年が"The Never Ending Story"の本を万引きし、授業をサボって読み耽るうちに本の中の世界の崩壊に立ち合い、少年自身の手によって世界を甦らせるという単純なもので、見所はほぼSFXに限られる。
 ラストシーンは本の中の世界ファンタージェンの龍ファルコンに乗って現実世界に戻り、苛めっ子たちを脅して追いかけ仕返しするというカタルシスで終わるが、これが原作者の不興を買った。
 原作では本の世界に入り込んだ少年が空想に遊ぶうちに現実世界の記憶を失うというもので、如何に現実に戻っていくかという話になっている。原作者が怒るのもわかるが、所詮はハリウッドが作るファンタジー映画で、頭を空っぽにし、童心に帰って無邪気に楽しむというのが正解。
 SFXは、CGのなかった当時としてはマペットや造形、背景との合成等抜群で、子供向けファンタジー映画らしい手作り感があり、今のCG映画では真似のできない温かみを感じさせる。とりわけ、岩石人間や王宮での三頭人間などがメルヘンで楽しい。
 龍などのデザインが若干ダサかったり、幼心の君のメイクが気持ち悪かったりするが、子供と楽しめるファミリー映画。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1984年8月11日
監督:ウォルター・ヒル 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルヴァー 脚本:ウォルター・ヒル、ラリー・グロス 撮影:アンドリュー・ラズロ 音楽:ライ・クーダー
キネマ旬報:7位

『ウエスト・サイド物語』+『シェーン』+高倉健のいいとこ取り
 原題"Streets of Fire"で炎の街の意。
 本作から容易に連想されるのは『ウエスト・サイド物語』で、ニューヨークならぬリッチモンドを舞台に、ジェット団とシャーク団のかわりに一匹狼の青年と不良グループのボンバーズが戦う。
 両者が奪い合うジュリエットは人気ロック歌手という点が現代的で、『ウエスト・サイド物語』とは違い誰ひとり死なない。
 もっともジュリエットを手に入れた後は悲劇ではなく、主人公が街を立ち去るという点では『ウエスト・サイド物語』というよりは『シェーン』に近い。
 ストーリーはこれがすべてで、単刀直入にいえばチンケ。ストーリー的には見るべきものは何もない。
 つまるところ任侠映画のバイオレンスとヒロイズムがすべてであり、それがカーアクションやバイク、ロックンロールによって現代風に味付けされているだけ。
 ジュリエットにダイアン・レイン、ボンバーズのリーダーにウィレム・デフォーが出演しているくらいが見どころで、肝腎の歌は吹替え。
 主人公がアメリカ映画には珍しく、健さんのように禁欲的で女に手を出さない。ジュリエット奪還の報酬も愛の証のために返してしまい、手伝った女にだけは報酬を与える。そしてジュリエットの幸せのためには潔く身を引き街を去るが、「シェーン、カム・バーック!」のセリフはなく、やはり健さんの任侠映画を見るよう。
 これをかっこいいと思えれば楽しめるが、過去の映画のいいとこ取りだと気付くと白けてしまう。 (評価:2.5)

製作国:イギリス、カナダ、アメリカ
日本公開:1986年7月12日
監督:トニー・リチャードソン 製作:ニール・ハートレイ、ピーター・クルーネンバーグ、デヴィッド・J・パターソン 脚本:トニー・リチャードソン 撮影:デヴィッド・ワトキン 音楽:レイモンド・レポート
キネマ旬報:7位

アダムス・ファミリーの家族史を見せられている感じ
 原題"The Hotel New Hampshire"で、主人公の一家が経営するホテルの名。ジョン・アーヴィングの同名小説が原作。
 両親はホテルのバイトで知り合い結婚。父はその後、高校教師を辞めて‪一家でホテル経営を始めるというファミリー物語で、長男はホモ、長女と次男は近親相姦、次女は小人症で、長女(ジョディ・フォスター)のレイプ事件、祖父の急死、ウィーンへの移住、母と末子の飛行機事故、過激派テロに巻き込まれて父の失明という数々の不幸が一家を見舞う。
 次女が小説家として成功してアメリカに戻るものの、次女は自殺、8人の家族が4人となって故郷に戻り、長女は結婚、次男(ロブ・ロウ)はウィーンで知り合ったクマの着ぐるみを着た娘(ナスターシャ・キンスキー)と仲良くなり、ファミリーは再出発をする、というのが大筋。
 全体としてはコメディで奇抜な設定やキャラクターが多く登場する上に、話が駆け足で進むため、アダムス・ファミリーの家族史を見せられている感じ。次男と長女との関係が物語の主軸ではあるものの、若干焦点がぼやける。家族を襲う数々の試練を経て、主人公の次男が姉との近親愛を乗り越えて自立する話と言えなくもないが、ナスターシャ・キンスキーのクマが強烈すぎる上に、結局はホテルへの夢を持ち続けた父の物語といえなくもなく、作品としてまとまりを欠いている印象は拭えない。 (評価:2)

デューン 砂の惑星

製作国:アメリカ
日本公開:1985年3月30日
監督:デヴィッド・リンチ 製作:ラファエラ・デ・ラウレンティス 脚本:デヴィッド・リンチ 撮影:フレディ・フランシス 特撮:キット・ウェスト 音楽:ブライアン・イーノ、TOTO

見どころはストーリーよりも独特な世界観の映像表現
 原題"Dune"で、砂丘の意。劇中では、惑星アラキスの別称。フランク・ハーバートの同名SF小説が原作。
 人類がテレパシーで相手の考えを読み取ったり、未来を予見したりする精神世界が舞台で、この世界のすべてを差配する魔法の粉、メランジと呼ばれるスパイスを産出する唯一の惑星が惑星アラキス。
 宇宙を支配する皇帝シャッダム4世(ホセ・フェラー)が、アトレイデス公爵(ユルゲン・プロホノフ)を潰すために陰謀を企み、メランジの採掘権を持つハルコネン男爵(ケネス・マクミラン)と戦わせるというもので、ファンタジーにありがちな煩雑な世界観を簡潔に説明するが、説明が十分かは別で面白みのないシノプシスだけが進行する。
 主人公はアトレイデス公爵の息子ポール(カイル・マクラクラン)で、しかも救世主としての特別な能力を秘めていて、父亡きあと、母(フランセスカ・アニス)と砂の惑星を逃避行。原住民フレーメンに秘跡を披露して味方につけ、皇帝とハルコネン男爵を破り、救世主としてアラキスを水の惑星に変えるまでが描かれる。
 端からドラマを捨てたストーリーダイジェストの作りで、むしろこの独特な世界観を如何に映像で見せるかに重点が置かれている。
 バリアを張った格闘シーン、ハルコネン男爵の空中浮遊、サンドワームの特撮、砂漠の描写など、デヴィッド・リンチらしい映像表現が見どころか。
 メランジや生命の水を生成するサンドワームは、『風の谷のナウシカ』(1984)の王蟲のモデル。 (評価:2)

サブウェイ

製作国:フランス
日本公開:1986年12月20日
監督:リュック・ベッソン 製作:リュック・ベッソン、フランソワ・ルジェリ 脚本:リュック・ベッソン、ピエール・ジョリヴェ、アラン・ル・アンリ、ソフィー・シュミット、マルク・ペリエ 撮影:カルロ・ヴァリーニ 美術:アレクサンドル・トローネル 音楽:エリック・セラ

ロックな若者たちの中身のないヴァーチャル・ファンタジー
 原題"Subway"で、地下鉄の駅構内が舞台。
 カーチェイスで蓋を開け、地下鉄に逃げ込んだ金髪青年(クリストファー・ランバート)が若妻(イザベラ・アジャーニ)に金を要求。受け渡し場所のホームに警官隊が現れ、捕まりそうになった青年は地下駅の地下に潜入…というアンダーグラウンド映画。
 青年と若妻がどこでどう知り合ったかの説明はなく、青年を自宅パーティに招いたら金庫を爆破して、書類を持ち逃げしたというのが事件の全貌。書類が何なのか、若妻の夫が何者なのかの説明は全くなく、夫の仲間がマフィア風でなりふり構わないというくらいのヒントしかない。
 冒頭のカーアクションは迫力たっぷりで、金髪の仲間の地下駅に巣食うアングラ青年たちがローラースケートで構内を滑走するなど、見どころはアクションがすべて。
 アングラ仲間にロックバンドを結成させるのが夢の金髪は、地下鉄構内でのコンサート開催に漕ぎつけるが、最中にマフィア(?)に背中を撃たれて絶命…と思いきや。
 金や権力が象徴する大人たちに反抗するロックな若者たちを描くが、中身のないストーリーと中身のない金髪と若妻の恋愛はカッコ付けだけなのが若気の至り、というベッソン2作目。
 地下駅構内が迷宮のように広がっていて、ゲームのようにヴァーチャルなファンタジー。 (評価:2)

ゴーストバスターズ

製作国:アメリカ
日本公開:1984年12月2日
監督:アイヴァン・ライトマン 製作:アイヴァン・ライトマン 脚本:ダン・エイクロイド、ハロルド・ライミス 撮影:ラズロ・コヴァックス 特撮:リチャード・エドランド 音楽:エルマー・バーンスタイン

宗教的悪魔をゴーストだと言い張るには無理がある
 原題"Ghostbusters"で、幽霊退治屋の意。
 大学を失職した3人の超常現象研究者が、Ghostbustersを開業。運良く、幽霊というよりは大魔王のゴーザが降臨の準備を始め、ニューヨークのあちこちに悪戯な幽霊が出現。最初は暇で潰れかけていたGhostbusters社に仕事が殺到して、3人は過労。降臨の場所に住むシガニー・ウィーバーとリック・モラニスがケルベロスのような番犬に憑依され、大魔王が現れる黙示録・・・という物語。
 これにシガニー・ウィーバーとGhostbustersのビル・マーレイの恋愛が絡み、ゴーザが姿を取ろうとしたとき、Ghostbustersのダン・エイクロイドの頭に浮かんだのがマシュマロマンで、マシュマロマンとなったゴーザとGhostbustersの最終決戦となるという、コメディ。
 ゴーザの最終形態がマシュマロマンだというのが本作の売りで、SFXが当時としてはよくできていた以外は、ギャグもアメリカン・コメディらしいベタさで、それほど面白くはない。
 しかし、悪戯幽霊はともかく、最後の審判で地獄の門が開き・・・といった設定は如何にもキリスト教的で、宗教的悪魔をghostだと言い張るにはどうにも無理があって、大魔王がマシュマロマンとなったことで、どうにか造形的に誤魔化せた。
 悪魔に憑依されたシガニー・ウィーバーがサキュバスのように淫靡なのも見どころで、『エイリアン』の頼もしいお姉ちゃんとは打って変わって色っぽい演技がいい。 (評価:2)

インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説

製作国:アメリカ
日本公開:1984年7月7日
監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作:ロバート・ワッツ 脚本:ウィラード・ハイク、グロリア・カッツ 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ジョン・ウィリアムズ

本当にスピルバーグが監督をしたのかと目を疑う
 原題"Indiana Jones and the Temple of Doom"で、インディアナ・ジョーンズと死の寺院の意。
 インディ・ジョーンズ・シリーズ第2作だが、時代設定は前作より1年遡る1935年。
 物語は上海から始まり、助手の少年、歌姫のアメリカ娘と飛行機で逃走中にインドで墜落。救命ボートで脱出し、デリーに向かおうとするものの、空から降ってきたために村人たちからシバ神の使者と勘違いされる。
 村の神社の秘石が死神カリを崇拝する邪教集団に奪われ、子供たちも連れ去られていて、インディ・ジョーンズは邪教のマハラジャが棲む宮殿に向かうことになる、というストーリー。
 邪教の宮殿は、ゴジラやモスラ、キングコング、タイムマシンの異教人種と大差なく、いささか陳腐。カリに捧げる人身御供、熔岩の火口、ゲジゲジの洞窟、地底の採掘場での強制労働と、目新しさはない。
 ヒンドゥーの神々についての多少の知識があれば、それなりにリアル感もあるが、逆にスーパーナチュラルな西洋人好みの呪術が飛び出して、改めてスピルバーグも通俗的偏見を抜けられないことに感心する。
 アカデミー視覚効果賞を受賞しているが、前作に比べて特に際立つところもなく、冒頭の上海でのレビューくらいが見どころだが、ラインダンスが揃ってなく、ミュージカルシーンとしても今ひとつ。
 トロッコや車でのチェイスは迫力満点のジェットコースタードラマだが、ラスト間近のつり橋シーンも既視感が拭えず、ハリウッド的なラブシーンまで入った総花的エンタテイメントに、本当にスピルバーグが監督をしたのかと目を疑うような作品。
 ヒロインの歌姫ケイト・キャプショーは、後にスピルバーグと結婚した。 (評価:2)

スター・トレックIII ミスター・スポックを探せ!

製作国:アメリカ
日本公開:1984年6月9日
監督: レナード・ニモイ 製作:ハーヴ・ベネット 脚本:ハーヴ・ベネット 撮影:チャールズ・コレル 音楽:ジェームズ・ホーナー

レナード・ニモイ監督のある意味、原点帰りだが
 前作『カーンの逆襲』の続編。前作ラストで死んだスポックが復活する物語で、TVシリーズ『宇宙大作戦』(Star Trek)と同キャストで製作された劇場版第3作。監督は、スポック役のレナード・ニモイ。原題は"Star Trek III: The Search for Spock"で、邦題のまま。
 バルカン星人は死ぬ前に魂を誰かに託して、バルカン星に送り届けてもらうということを知ったカークは、それがマッコイだと知り、廃船の決まったエンタープライズを奪って宇宙に乗り出す。一方、クリンゴンは前作登場のジェネシス装置を奪うために緑の惑星へ。カークの科学者の息子もジェネシスに向かうが、成功を焦ったために惑星は不安定化し爆発の危機を迎える。
 全体にテンポの悪さは相変わらずで、CGとSFXは頑張っているが、TVシリーズの時代の間延びした演出、時代遅れの台詞回しや脚本、チープなセットで、映画化としては無理のあるテレビサイズ作品。トレッキーには安心して観られ、TVシリーズを懐かしむことができるが、一般映画ファンには物足りない。
 エンタープライズ号にまさかの**があるのも目玉。 (評価:2)

炎の少女チャーリー

製作国:アメリカ
日本公開:1984年8月18日
監督:マーク・L・レスター 製作:フランク・キャプラ・Jr 脚本:スタンリー・マン 撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ 音楽:タンジェリン・ドリーム

バリモアの下ぶくれの幼児体型は燃えか?萌えか?
 原題は"Firestarter"で、発火具の意味。スティーブン・キングの同名小説が原作。
 主人公の少女は、薬物の治験で超能力者となった両親から生まれた超能力者。水さえも発火させて燃やすことができるというトンデモ設定で、いったいどういう化学式が成立するのだろうと、火をつけるたびに気になる。
 治験を行ったSHOPという国家組織の悪玉が、少女を最終兵器に利用しようと追いかけ、少女はDaddyと逃げ回る。捕まって脱出するまでの話だが、最後に少女が暴れまくるというのが見どころといえば見どころだが、化学式が頭に浮かんで特撮シーンも今ひとつ気持ちが入らない。ドラゴンボールのような火の玉を繰り出したり、全体に温度上昇する割にはピンポイントで発火させたりと、設定を気にし出すときりがない。
 ストーリー的には平凡で、設定も陳腐だが、少女チャーリーを演じるのがドリュー・バリモアで、父親が『愛と青春の旅だち』で自殺する友人を演じたデヴィッド・キースというのがポイント。バリモアの下ぶくれでお腹もふっくらした幼児体型が可愛い。 (評価:2)

ドリームスケープ

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ジョセフ・ルーベン 製作:ブルース・コーン・カーティス、ジェリー・トコフスキー 脚本:デヴィッド・ロッカリー、チャック・ラッセル 撮影:ブライアン・テュファーノ 音楽:モーリス・ジャール

SF、ホラー、サスペンス、ロマンス、社会派と欲張り過ぎて退屈
 原題"Dreamscape"で、夢の情景の意。
 悪夢に悩まされている人の治療のために、超能力者の脳波を同調させて夢に侵入させて悪夢を根絶する研究をしている研究所が舞台のSFホラー映画。SFはともかく、夢の中に子供が想像するモンスターが出てくるだけなので、ホラーとしては微妙。
 悪夢治療研究のために、予知能力を競馬で浪費している元被験者の青年(デニス・クエイド)を研究所を戻したところ、美人の女性研究者(ケイト・キャプショー)と恋仲に。そこにCIAもどきの大統領補佐官(クリストファー・プラマー)がやってきて、大統領を夢の中で暗殺する陰謀を企てるという物語。
 高官が手なずけたサイコパスの超能力者が暗殺者となるが、主人公の青年が大統領の夢に入って暗殺を阻止、めでたく女性研究者と結ばれるという、SFなんだかホラーなんだかサスペンスなんだかラブストーリーなんだかよくわからないハリウッドテイストの作品。
 夢の中で殺すことに成功すれば現実の本人も心臓麻痺とかで死んでしまうというのもご都合主義なら、夢の中で悪夢の原因となっている怪物とか妄想を除去すれば悪夢もなくなるというのもよくわからない。
 大統領の悪夢は自分が核戦争のボタンを押してしまうというもので、その悪夢を振り払うためにソ連と核軍縮を進めようとしている。政府高官にとっては核軍縮こそが悪夢で、そのために大統領を暗殺しようとする社会ドラマまで織り込んでいて、欲張り過ぎて退屈な作品になっている。
 今一つな企画の割にデニス・クエイドなど俳優はそれなりで、SFXを含めそれなりに金が掛かっているのが残念。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1985年6月8日
監督:ニール・ジョーダン 製作:クリス・ブラウン、スティーヴン・ウーリー 脚本:ニール・ジョーダン 撮影:ブライアン・ロフタス 音楽:ジョージ・フェントン

メルヘンを絵本ではなく映画で創ろうとしたが・・・
 原題は"The Company of Wolves"で、狼人間のホラー映画。
 ファンタジー色が強くホラーに分類してよいのか悩むところだが、少女が主人公でメルヘンタッチの割にグロい。もっとも「本当は怖いグリム童話」のように、ヨーロッパのオリジナルのメルヘンは相当にグロいので、正統といえば正統。ホラーというよりはメルヘンに分類すべきか。
 現代から始まり、ベッドで眠っている少女の夢として物語が始まるが、ラストで現代に戻るだけで後はすべて夢の中の童話世界の出来事というのが、見ていて非常にわかりにくく、童話世界に登場するお婆さんが語る物語がさらに挿入される三重構造なので話がこんがらがる。
 基本は『赤ずきん』がモチーフの狼の森の中の狼人間の怖~い話を少女が聞かせられ、自らも狼の森の中の狼人間の怖~い体験するという話。ラストで現代に戻ると・・・キャッ!というパターン。
 ストーリーの分かりにくさの最大の演出・シナリオ上の失敗は、少女の夢でありながら中の物語が少女の主観ではなく客観であること。観客が少女の夢を体験するのではなく、もう一つ、もう二つの物語を見させられるために、誰の話なのかわからずに混乱してしまう。
 そうした点で、監督は大きな誤りを犯していて、物語そのものも狼人間が登場するだけで単調なため、せいぜいがメルヘン世界の舞台セットを楽しむくらいしか見所がないが、美術についてはある程度成功している。
 メルヘンを絵本ではなく映画で創ろうという制作者の意図だけが先走りした、独りよがりな作品。 (評価:1.5)

2010年

製作国:アメリカ
日本公開:1985年3月23日
監督:ピーター・ハイアムズ 製作:ピーター・ハイアムズ 脚本:ピーター・ハイアムズ 撮影:ピーター・ハイアムズ 音楽:デヴィッド・シャイア

モノリスは続編を作ってはいけないと伝えなかったのか?
 原題"2010: The Year We Make Contact"で、2010年:我々が接触した年の意。アーサー・C・クラーク"2010: Odyssey Two"(2010年探査2、邦題:2010年宇宙の旅)が原作。スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)の続編。
 ディスカバリー号のHAL9000の故障の原因を究明するために、ボーマン船長の上司フロイド(ロイ・シャイダー)が、ソ連の探査船に乗って木星に向かうという物語。
 ディスカバリー号は衛星イオの軌道上にあって、衛星エウロパには何かがいるという謎含みの展開。フロイドの妻や子供が登場してウェットな話から始まり、米ソの政治的対立という生臭さも加わり、前作とは打って変わった通俗SF。女船長(ヘレン・ミレン)はKGBもどきの軍人で、両者の駆け引きの中、最後はHALも加わった宇宙の意思により地球に和平をもたらす。
 無数のブラックホールもどきのモノリスの出現により、質量の増大した木星は新たな恒星となり、地球は2つの太陽によって夜がなくなる。それですべてがハッピーになるが、夜がない地球は温暖化によって破滅してしまうのではないか? と見ていて不安になるエンディング。
 SFは合理的説明を施せば施すほどに陳腐になるのが宿命で、見た者をかりそめの哲学者の気分にさせた前作に比べて神秘性が失われた本作は、続編というのが恥ずかしい出来栄え。そうなるのが初めから分っていたのに作ってしまった製作者は、前作の知的生命体から何も学ばなかったのか? (評価:1)