海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1972年

製作国:アメリカ
日本公開:1972年7月15日
監督:フランシス・フォード・コッポラ 脚本:マリオ・プーゾ、フランシス・フォード・コッポラ 撮影:ゴードン・ウィリス 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:8位
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

マーロン・ブランドの弛んだ顔はすべてを超越している
 原題は"The Godfather"で、名付け親のことだが、ここでは犯罪組織のボスのこと。マリオ・プーゾの同名小説が原作。
 コルレオーネ・ファミリーとニューヨーク・マフィアとの抗争を軸に、長男ソニー、ドン、娘婿の死と、三男マイケルが抗争に巻き込まれ、ファミリーを継いでいくまでが描かれる。ラストで一家は合法的なビジネスを目指してラスベガスに移転する。
 この映画の主人公はドンのマーロン・ブランドとマイケルのアル・パチーノで、作品的にはマフィアを嫌って大学に進んだマイケルが、父を守るために抗争に巻き込まれ、殺人を犯してシチリアに逃亡。真面目で誠実だった青年が立派なギャングとなってニューヨークに戻り、ファミリーを継ぐという宿命と変貌が骨子となる。
 恋人ケイがいながら、シチリアで娘と略奪結婚。その娘が暗殺の身代わりとなって爆死するシーンは、この映画の最大の見どころ。ニューヨークに戻ってケイと結婚するが、殺人を問われて「殺してない」と嘘をつくラストが、マイケルがドンを跡目相続して立派なギャングになった、つまり善良な市民から暗黒街のボスへと人間性を変貌させた象徴のシーンで、これまたゾクッとする名場面。
 アカデミー作品・脚色賞を受賞しており、エンタテイメントとして第一級の傑作。陰湿な抗争とシチリアの長閑な自然の対照も映像的に素晴らしい。
 アル・パチーノを始めとした演技は素晴らしいが、ゴッドファーザーといえばやはりマーロン・ブランドのたるんだ顔が代名詞で、飛び抜けてキャラが立っている。アカデミー主演男優賞をとってはいるが、ほとんど演技らしい演技なしにその強烈な存在感は、あらゆる批評を超越したものがある。
 人気歌手として登場するジョニー・フォンテーンはフランク・シナトラがモデル。シナトラとマフィアの繋がりは有名だった。 (評価:5)

製作国:ソ連
日本公開:1997年4月26日
監督:アンドレイ・タルコフスキー 脚本:アンドレイ・タルコフスキー、フリードリッヒ・ガレンシュテイン 撮影:ワジーム・ユーソフ 音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
キネマ旬報:5位

SFファンには受けの悪い、SF?映画の名作
 原作はポーランドのスタニスワス・レムのSF小説『ソラリスの陽のもとに』だが、原題はどちらも『ソラリス』("Solaris")。カンヌ国際映画賞審査員特別賞を受賞。2002年にスティーブン・ソダーバーグがリメイクしている。
 タルコフスキー版の『惑星ソラリス』は、原作とはまったく違う主題のもとに描かれていて、SF映画を期待すると肩透かしを食らう。惑星ソラリスの海は不定形の知的生命体で、人間の思念を具象化する。現代風にいえばソラリスはヴァーチャル・リアリティを提示することができ、主人公は死んだ妻のヴァーチャル・リアリティによって、愛というものの形而上学的問題に直面する、哲学的ともいえる作品に仕上がっている。
 日本では1977年に公開されて話題となったが、作品の深遠さとは別に、映画で描かれる未来の地球のシーンに、首都高が登場したことだった。東京をくねくね曲がる首都高が、当時ソ連のタルコフスキーには未来都市に見えたということなのだろう。 (評価:4.5)

製作国:イタリア、西ドイツ、フランス
日本公開:1980年11月8日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、エンリコ・メディオーリ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ 撮影:アルマンド・ナンヌッツィ 音楽:フランコ・マンニーノ
キネマ旬報:2位

絢爛豪華な夢の世界を具現化した元祖引き籠りの退廃と狂気
 原題は"Ludwig"。バイエルン王ルートヴィヒ2世の即位後の半生を描く伝記映画。
 長尺で、日本公開時は184分編集版。オリジナルは237分で、こちらを再見したがやはり長い。しかし長いが冗長ということもなく、時間さえ許せば見応えはあるし、ルートヴィヒ2世の人物像はより明確。イタリア語吹替えのため、口が合わないのが若干気になるが、ルートヴィヒ2世のヘルムート・バーガーは自身が吹替えしている。
 ルートヴィヒ2世は、ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を建設したことで知られ、大のオペラ好きとしてワグナーのパトロンとなって天文学的浪費を繰り返し、国家財政を破綻させたことで知られる。
 彼がいなければワグナーの壮麗な音楽も、オペラも生まれなかったわけで、ノイシュヴァンシュタイン城、バイロイト祝祭劇場の遺産もなかった。
 ある種、芸術的遺産はこうした退廃と狂気によってもたらされるもので、ルートヴィヒ2世の滅びの美学は、貴族の血を引くヴィスコンティによってしか描けないことを改めて感じる。
 本作では王位に就くにあたり、ルートヴィヒ2世はその知性で平和と文化を守ることを誓う。しかし、王に求められるのは政治や外交であって、そうした世俗的なものを忌避した結果、大国に翻弄されるバイエルン国は滅びへの道を転げ落ちていく。
 従姉のオーストリア皇后エリーザベト(ロミー・シュナイダー)を愛し、美青年を愛し、芸術や文学、ひたすら美しいものだけを愛したルートヴィヒは純粋ゆえに潔癖で、婚約者との愛のない結婚を拒絶する。
 ルートヴィヒの『ローエングリン』の夢の世界を象徴するリンダーホーフ城地下の白鳥の池、給仕なしで上下するテーブルの個室は、幻想的なほどだが、一方で完全なる孤独の世界となっている。
 ロミオとジュリエットをただ一人で見るシーンがあるが、ルートヴィヒの異常な個の世界を象徴するだけに、わかりにくいのが残念。
 ルートヴィヒ2世の伝記、封建王政の終焉など、さまざまな見方ができる4時間だが、過ぎ去った栄華にロマンチックな思いを馳せることはできても、浮世離れした物語に今ひとつ得心できる意味を見いだせない。 (評価:3.5)

製作国:イタリア、イギリス
日本公開:1973年6月23日
監督:フランコ・ゼフィレッリ 脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、ケネス・ロス、リナ・ウェルトミューラー、フランコ・ゼフィレッリ 撮影:エンニオ・グァルニエリ 音楽:ドノヴァン、リズ・オルトラーニ
キネマ旬報:3位

狂人のフランチェスコに清々しささえ感じる
 原題"Brother Sun Sister Moon"で、兄弟の太陽・姉妹の月の意。挿入歌として歌われるが、兄弟の風・姉妹の大気という歌詞も登場して、虚飾のないありのままの自然を愛でる呼びかけの言葉。
 12世紀のイタリアの都市国家アッシジが舞台。
 裕福な商人の一人息子フランチェスコが神の言葉を聞き、廃墟となっていたサンダミアーノ教会を再建し、フランチェスコ会を創始する物語で、1210年、教皇イノケンティウス3世に許可を得るまでが描かれる。
 ペルージャとの戦争に敗れアッシジに帰ってきたフランチェスコが、病から癒えて窓辺の小鳥に誘われ、屋根の上を進み天啓を得るシーンが印象に残るシーン。
 何も所有せずに日々の糧を得て生きる小鳥から、人間も同じように生きるべきだと考えたフランチェスコは、家の財産を窓から投げ捨て、親からも町の人からも狂人扱いされる。
 その様子は、見ていて町の人と同感で、常軌を逸した行動にしか見えないが、サンダミアーノ教会の廃墟を一人で建て直し、やがて友人たちがこれに加わるようになると、どういうわけかフランチェスコの一切を所有しないという清貧の活動に清々しささえ感じてしまう。
 これぞまさしく聖人の姿で、狂人と聖人の紙一重の差をフィルムで表現したゼフィレッリの演出力に感服。
 ラストシーンの教皇との謁見では、清貧とは対極にあるヴァチカンや枢機卿たちの金満ぶりが描き出され、フランチェスコに恥じ入る教皇の姿が演技だと示唆し、それを見抜くように振り返るフランチェスコで終わる。
 フランチェスコの伝記としても、宗教説話としても、清貧の哲学としても楽しめる好編。 (評価:3)

製作国:西ドイツ
日本公開:1983年2月26日
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 製作:ヴェルナー・ヘルツォーク 脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク 撮影:トーマス・マウホ 音楽:ポポル・ヴー
キネマ旬報:9位

インカの神の怒りを再現したロケ映像は見応えがある
 原題"Aguirre, der Zorn Gottes"で、邦題の意。
 宣教師ガスパール・デ・カルバハルの記録を基に、16世紀アンデスで黄金郷エル・ドラドを目指したスペイン探検隊の物語。
 冒頭、インカ帝国を滅ぼしたことで悪名高いフランシスコ・ピサロの弟ゴンサロ・ピサロの探検隊が、アマゾン奥地を目指してアンデス山脈越えをするシーンから始まる。
 スクリーンの天地がわからないほどに急峻な崖の道をスペイン人の探検隊と鎖で縛られた歩荷のインディオ、リャマや豚が長蛇に進むシーンは圧巻で、すでにここからコンキスタドールたちの狂気が始まっていることが伝わってくる。
 アマゾンの沼地に嵌ったピサロは、40人余りの先発隊に川を下らせる。この先発隊が物語の中心で、インディオに襲われ、増水で筏を流されて立ち往生した隊長は本隊に戻る決断をする。これに副官のアギーレは反逆して、あくまでエル・ドラドを目指して川を下る。
 ここからは黄金郷に目の眩んだアギーレの狂気となり、同行の貴族をエル・ドラド皇帝に仕立て、スペインからの独立を宣言する。こうして苦難の探検行となり、食糧も尽きて醜い争いとインディオの襲撃の地獄絵図となり、一人生き残ったアギーレは、これは偉大な反逆であり、自らが神の怒りであると宣言する。
 スペイン探検隊はキリスト教の神の加護を信じて、黄金郷の欲望に囚われてインディオたちの文明を破壊するが、狂気に陥ったアギーレ自身が神の怒りであり、侵略者たちへの反逆だという逆説を示す。
 アマゾンの自然破壊をしながらの撮影には若干の嫌悪があるものの、インカの神の怒りを再現したロケ映像は見応えがある。
 アギーレは最後に、自分の娘と結婚して大帝国を打ちたてると宣言するが、それを実践してしまったクラウス・キンスキーがアギーレを演じて、反逆と神の怒りを示す。 (評価:3)

製作国:イタリア
日本公開:1972年10月28日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:テューリ・ヴァーシル 脚本:ベルナルディーノ・ザッポーニ、フェデリコ・フェリーニ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ 美術:ダニーロ・ドナーティ
キネマ旬報:2位

近代化と郷愁についてフェリーニと共に自問する
 原題は"Roma"。
「すべての道はローマに通ず」のヨーロッパ史最古の都市ローマ。少年の日、「賽は投げられた」ルビコン川を渡ったフェリーニは、青年となってローマに下宿し、猥雑で生活力に溢れた庶民と共に生きる。
 一方で、現代の映画監督フェリーニは、渋滞する高速道路、交通事故、学生デモといった変貌したローマを撮影しながら、ローマとは何かを自問する。象徴的に描かれるのは、歴史の積み重なった地層にトンネルを通す地下鉄工事が、遺跡に立ち往生する場面。長い歴史と近代化の狭間で揺れるローマを提示する。
 このシーンでは遺跡に描かれた壁画が現代の外気に触れた途端に消えていき、レリーフも風化して崩れ、古きローマは近代化によって侵食される。
 もう一つはローマの歴史と共にあったバチカンで、バチカンの近代化は権力と華美と形骸のファッションショーという形で風刺される。
 本作はフェリーニにとってのローマとその歴史の心象で、1972年という時点ですでにローマという近代都市が人間性を喪失し、生き生きとした町と人々、生活が過去のものとなったという近代化への批判と戦前へのノスタルジーが描かれる。
 若い頃に見た時にはそこまでの洞察はできなかったが、改めてフェリーニのローマが自分にとっての東京であり、誰かにとってのロンドン、パリ、ニューヨークであることに気づく。そうして点では普遍的な映画だが、おそらく歴史のあらゆる時点に共通する映画であり、ノスタルジーで心を癒すことが果たして歴史に対して前向きなのかということをフェリーニと共に自問する。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1974年5月25日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:セルジュ・シルベルマン 脚本:ルイス・ブニュエル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:エドモン・リシャール
キネマ旬報:6位
アカデミー外国語映画賞

見世物としてのブルジョアという種族への哀愁
 原題"Le Charme discret de la bourgeoisie"で、ブルジョアの控え目な魅力の意。
 南アメリカの架空の駐仏大使夫妻と、友人の2組の夫婦のシュールなブルジョア的生態を描くシニカルな不条理ドラマ。中盤からは現実と夢が混在し始め、ストーリーに連続性が失われて良く言えばシュールなわけのわからない展開となるが、全体のエピソードを俯瞰的に捉えれば、一般人とは異なる価値観・倫理観に生きるブルジョアたちの生態を点描的に描き、そうした社会から遊離した特権的地位に不安を感じながら、それが現実となって滅んでいく彼らの物語となっている。
 それを象徴するのが駐仏大使で、母国のテロリストたちの姿に怯え、外交特権を利用して麻薬密売を行う。ストーリーでは一貫して食事がキーワードとなり、大使たちはさまざまな障害により食欲を満たすことができないという飢餓を持ち続けるが、ようやく豪華な食卓に着いた時に、テロリストの乱入で全員殺されてしまう。
 貪欲で醜悪で奇怪なブルジョア階級の終焉というメタファーを見出すのは簡単だが、彼らの生活態度がどこかハイソな魅力に満ちているのも事実。怒ることもせず、ひたすら川の流れに身を任せるように漂流する中に、ある種、高等遊民たちの美意識、ヴィスコンティが描く貴族たちのデカダンスの美学にも通じるものがあって、劇中で最も印象的なシーンである、カーテンを開けると彼らが劇場の舞台で食事をしていたという見世物としてのブルジョアという種族への哀愁ともなっている。
 ブルジョアたちに寄生する聖職者や軍人たちの欺瞞も描きながら、ルイス・ブニュエルのアイロニーが全開する。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1972年10月28日
監督:サム・ペキンパー 製作:ジョー・ワイザン 脚本:ジェブ・ローズブルック 撮影:ルシアン・バラード 音楽:ジェリー・フィールディング
キネマ旬報:7位

化石であることに男のロマンを感じる空しい父子を描く
 原題"Junior Bonner"で、主人公の名。
 ジュニア・ボナー(スティーブ・マックイーン)は、ロディオ大会出場のために各地をツアーする現代のカウボーイという、西部開拓時代のノスタルジーから逃れられない化石男で、その男の父親エース・ボナー(ロバート・プレストン)もゴールドラッシュの時代を今も生きる化石男。
 ともに化石であることに男のアイデンティティを感じる父子の絆を描く、ペキンパーらしい硬派な男のドラマとなっている。
 ペキンパーには付き物の過激なバイオレンスシーンはない代わりに、余りあるロディオシーンが見どころで、演出抜きで暴れ牛と格闘するカウボーイたちが迫力満点。ロディオ大会には8秒ルールがあって、その前に振り落とされるカウボーイたちを次々に見せられるが、クライマックスはジュニア・ボナーが宿敵のサンシャインに挑戦して見事乗りこなす。この8秒間が意外に長く感じられて、バイオレンス描写を凌駕するロディオの魅力を感じることになる。
 ドラマ的にはジュニア・ボナーの家族の物語で、金鉱で一山当てるのが人生の父親は採掘用に買った土地を手放し、不動産屋の長男はそれを買い叩いて事業をしているという現実的な人間。母親も父親には愛想を尽かしていて、理解者はジュニアだけだが、そのジュニアも時代遅れのカウボーイ稼業で破産している。
 故郷でロディオ大会が開かれることになり、久し振りに家に戻ったジュニアが父親とロディオに出場。優勝賞金を手に入れると、父の次なる夢である豪州での金鉱掘り移住のために、航空券を買ってやるという親孝行で終わる。
 暴力の果てに行き場をなくすペキンパーの他作品の登場人物同様、見果てぬ夢のために先のことを考えないという男の空しいロマンを描く。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1972年8月5日
監督:ボブ・フォッシー 製作:サイ・フューアー 脚本:ジェイ・プレッソン・アレン、ヒュー・ホイラー 撮影:ジェフリー・アンスワース 音楽:ジョン・カンダー
キネマ旬報:9位

ストーリー性が強く若干ミュージカルらしさに欠ける
 原題"Cabaret"で、ジョー・マスタロフ戯曲の同名ミュージカルが原作。1931年のベルリンのキャバレーの歌手とロンドンからの留学生の淡い恋物語が展開するが、背景にナチズムの台頭が描かれ、ストーリー性が強く歌唱場面が少ないこともあって、若干ミュージカルらしさには欠けるきらいがある。
 キャバレー歌手、留学生の間に男爵が割り込み、三人はそれぞれに関係を持ち、かつキャバレー歌手はどちらか判らない子を妊娠してしまう。それを知って留学生は歌手への恋が本物だと悟り結婚を決意するが、歌手は留学生との結婚が互いの幸せをもたらさないことをを思って堕してしまい、二人の別離という切ないラストとなる。
 ミュージカルスターの見果てぬ夢を見続けるキャバレー歌手の悲しい恋と人生の物語で、ライザ・ミネリが豊満な肉体と歌唱力で演じ、アカデミー主演女優賞を受賞。キャバレーの司会役のジョエル・グレイが助演男優賞、ほか監督賞、撮影賞、編集賞、作曲賞、美術賞、録音賞の8部門を制した。
 サイドストーリーとして絡む、ユダヤ人の金持ち娘とユダヤ人であることを隠している青年との恋物語がちょっといい。 (評価:2.5)

ゲッタウェイ

製作国:アメリカ
日本公開:1973年3月16日
監督:サム・ペキンパー 製作:デヴィッド・フォスター、ミッチェル・ブロウアー 脚本:ウォルター・ヒル 撮影:ルシアン・バラード 音楽:クインシー・ジョーンズ

ペキンパーらしくない腑抜けたハッピーエンド
 原題"The Getaway"で、逃走の意。ジム・トンプソンの同名小説が原作。
 妻キャロル(アリ・マッグロー)の身体を張った裏取引で仮出所となった囚人ドク(スティーブ・マックイーン)が、その見返りに銀行強盗するが、実は銀行家の横領を隠すための罠で、依頼主ベニヨン(ベン・ジョンソン)を殺した夫婦は50万ドルを持って国境の町エルパソに逃走。
 ペニヨンの弟たち、銀行強盗共犯のルディ(アル・レッティエリ)、警察に追われながら、ショットガンをぶっ放して逃走を続け、国境を越えてメキシコに逃げ延びるまでの物語。
 ペキンパーらしい派手なアクションが見どころで、銀行強盗、カーアクション、列車内でのチェイス、激しい銃撃戦が繰り広げられる。
 ペキンパーらしい殺伐さはなく、パトカーをショットガンでぶっ放して炎上させたり、手ごわい相手を向こうに回したガンアクションは、むしろ爽快。バイオレンスの心理描写を強調するスローモーションもない。
 ボニーとクライド張りに喧嘩ばかりしていた血も涙もない犯罪カップルのドクとキャロルが、最後は50万ドルと共に楽園に辿り着き、仲直りしてハッピーエンドというのも腑抜けていて、ペキンパーらしくない。 (評価:2.5)

ポランスキーの欲望の館

製作国:イタリア、フランス、西ドイツ
日本公開:劇場未公開
監督:ロマン・ポランスキー 製作:カルロ・ポンティ 脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ 撮影:マルチェロ・ガッティ

ポランスキーの変態趣味全開。水色のペンキが色っぽい
 原題"Che?"で、「何?」の意。
 ポランスキーらしい変態趣味に溢れたエロチック・コメディだが、主演にマルチェロ・マストロヤンニを起用したにも関わらず日本未公開というのが、豪華組み合わせの割には解せない。ただ、見始めるとほとんどアドリブのような不条理なドラマが展開し、常人の理解を超えることから、輸入を躊躇ったのだろうというのも頷ける。
 イタリアでレイプされそうになったヒッチハイカーのアメリカ娘が逃げ込んだのが、変人ばかりが寝泊まりしている海辺のヴィラで、ホテルのようなそうでないような不思議な建物。丘の上の道からはケーブルカーのようなリフトで出入りする。
 鞄を取られて身一つでやってくるが、ヴィラでも破れたTシャツを盗まれ、次にジーンズを盗まれて、無断使用する主人のパジャマの下はスッポンポンというサービスぶり。片足に塗る水色のペンキが色っぽい。
 ヴィラの人々は『不思議の国のアリス』のキャラクターそのもので、まともな会話は成立せず、行動も理解不能。そうした不思議の国に迷い込んだアリスが、戸惑いながら撒き散らす色気が、ロリータではなく大人のアリスというのが見どころで、アリスならぬナンシーを演じるシドニー・ロームがコケティッシュ。
 ヴィラの主人が死ぬと不思議の国は夢から覚めて、アリスは再び旅立つというラスト。
 ポランスキーが何を考えてこの映画を撮ったのかは謎で、肩の凝らないお遊び映画だというのが素直な見方だが、シネフィル的にはいろいろな解説も可能で、ラストシーンのアリスの台詞「これはChe?という映画なのよ」から推し量れば、映画とは不思議の国そのものであり、不条理と虚構の世界なのだということかもしれない。
 撮影はプロデューサーのカルロ・ポンティの別荘で行われたそうだが、こんな素晴らしい別荘を手に入れられる映画人そのものが、不思議の国の住人といえる。 (評価:2.5)

狼は天使の匂い

製作国:フランス、アメリカ
日本公開:1974年2月2日
監督:ルネ・クレマン 製作:セルジュ・シルベルマン 脚本:セバスチャン・ジャプリゾ 撮影:エドモン・リシャール 音楽:フランシス・レイ

大人になり切れない男たちのフィルムノワール
 原題"La Course du Lièvre à Travers les Champs"で、野原を駆ける野兎の意。デヴィッド・グーディスの小説"Black Friday"が原作。
 パリでヘリコプターがロマの居住地に墜落。多数の子供たちが死んだことから操縦していたパイロット・トニー(ジャン・ルイ・トレンティニヤン)がロマに追われ、カナダのモントリオールに逃げてくる。しかし、そこにロマが待ち受けていたという、若干無理な設定で始まる。
 途中フラッシュバックで事故の映像も入るが、それがわかるのは終盤で、なぜロマに追われているかという謎と、トニーが逃げ込んだギャング一味が計画している大仕事が、物語を引っ張るミステリーとなっている。
 逃げる途中、トニーはギャング一味の仲間割れに巻き込まれ、拉致されてアジトの島に行く。ボスのチャーリー(ロバート・ライアン)は役に立つかどうかで判断する現実主義者で、トニーは警官殺しで追われていると嘘をつき、殺しのプロであることをアピール。二つのミステリーと共に、トニーが生き延びられるかというサスペンスが中盤のドラマ。
 チャーリーたちの大仕事というのは、裁判中のギャングの大親分の検察側の証人を誘拐して大親分に引き渡すというもの。ところが証人は死んでいるため、偽装して大親分から礼金をせしめなければならなくなる。
 金は手にするが撃ち合いでチャーリーとトニーを残して仲間は全滅。アジトに立て籠もって警官隊を迎え撃つというラスト。
 メタファーとしてビー玉と野兎の話が出てくるが、いつまでも童心が抜けない大人になり切れない男たちのフィルムノワールという作品。『ワイルドバンチ』(1969)と似た趣向で、チャーリー役のロバート・ライアンは同作で賞金稼ぎを演じている。 (評価:2.5)

明日に処刑を…

製作国:アメリカ
日本公開:1976年11月20日
監督:マーティン・スコセッシ 製作:ロジャー・コーマン 脚本:ジョイス・H・コリントン、ジョン・ウィリアム・コリントン 撮影:ジョン・M・スティーヴンス 音楽:ギブ・グィルボー、タッド・マクスウェル

低予算B級映画ながら見応えのあるスコセッシ初期作品
 原題"Boxcar Bertha"で、主人公の通称。Boxcarは有蓋貨車のこと。ベン・ライトマンの小説"Sister of the Road"が原作。
 冒頭、主人公のボックスカー・バーサ・トンプソンは実在の人物だと説明されるが、自伝を装ってベン・ライトマンが創作した架空の人物。
 スコセッシの初期作品で、製作費60万ドルの低予算B級映画ながら、見応えのある作品にしてしまうスコセッシの並々ならぬ力量を感じさせる。
 舞台は不況の1930年代。バーサ(バーバラ・ハーシー)は貧しい田舎娘で、父親が事故死したために天涯孤独となり、有蓋貨車に無賃乗車して町を渡り歩く。鉄道工夫のビル(デイヴィッド・キャラダイン)と知り合い、初めてのセックスをするが、翌朝ビルは5ドル札を置いて去ってしまう。
 こうして売春を学んだバーサは、イカサマ師のレーク(バリー・プリマス)と組んで旅を続けるうちに、鉄道労働者を扇動するビルと再会。ビルは逮捕され監獄に入れられるが、かつてバーサの父の使用人だった黒人ヴォン(バーニー・ケーシー)と知り合い、懲役中にバーサの手引きで脱獄。以降、4人で強盗を繰り返すギャングとなる。
 恨みを持つ鉄道会社を潰そうと列車強盗をしたため、逆にオーナー(ジョン・キャラダイン)配下の暴力団に襲われレークは射殺。3人は散り散りとなり、バーサは売春で凌ぎながらヴォンとビルに再会。
 ところがビルは暴力団に居場所を知られてリンチされ、有蓋貨車に磔刑に。ヴォンが暴力団を皆殺しにするが、貨車が動き出し、追いすがるバーサを残して去っていくというラスト。
 犯罪映画特有のアナーキーな爽快感があって、スコセッシの軽快な演出が楽しめる。 (評価:2.5)

ペトラ・フォン・カントの苦い涙

製作国:西ドイツ
日本公開:2023年6月16日
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 製作:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ミハエル・フェングラー 脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 撮影:ミヒャエル・バルハウス

クソみたいな女のお喋りに辛抱するだけの忍耐力が必要
 原題"Die bitteren Tränen der Petra Von Kant"で、邦題の意。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの同名戯曲が原作。
 中年のファッション・デザイナー、ペトラ・フォン・カント(マーギット・カーステンゼン)を主人公とした女しか登場しない会話劇で、ペトラの寝室から動かないので、ペトラの言葉を借りれば、クソみたいな女のお喋りに辛抱するだけの忍耐力が必要な作品。
 夫と離婚したペトラは仕事をする気も起きず、寝間着を着たままで1日を過ごしている。ペトラを愛してやまないアシスタント、マレーネ(イルム・ヘルマン)との二人暮らしで、マレーネは下女のようにペトラにかしずいている。
 友人シドニー(カトリン・シャーケ)が連れてきた美しい娘カーリン(ハンナ・シグラ)に夢中になり家に同居させるが、カーリンはすぐに軽薄で自堕落な本性を見せ、ペトラを精神的に支配するようになる。
 別れたはずのカーリンの夫から電話が入り、カーリンはペトラから金をせびって会いに行ってしまう。
 ペトラの誕生日、娘(エファ・マッテス)とシドニー、母( ギーゼラ・ファッケルディ)がお祝いに来るが、カーリンは現れず、泥酔したペトラは3人に悪口雑言を吐く。
 その夜遅く、カーリンから断りの電話が入り、ペトラがただ一人の理解者マレーネに謝罪と和解を申し出ると、唖のように終始無言のマレーネが荷物を纏めて出て行ってしまい、ペトラは部屋に取り残されるという結末。
 クソ女のペトラに理解も同情も感情移入もできないのが最大の難点で、謙虚であるべしという教訓以外、何も得られず何も楽しめない。
 寝室に飾られた神話の神々の巨大な裸体画、マネキン等が意味有り気に映され、会話劇からも、人間とは? がテーマの気配もあるが、マレーネが描き続ける服飾デザイン画同様、デッサンだけに終わっていて、クソ女のクソな映画を見せられた気分になる。
 ラストシーンは、カリスマに服従することに喜びを感じるマレーネが、カリスマ性を失ったペトラに失望したと解釈することもできるが、今一つ意味不明。 (評価:2.5)

愛の昼下がり

製作国:フランス
日本公開:1996年2月3日
監督:エリック・ロメール 製作:ピエール・コトレル 脚本:エリック・ロメール 撮影:ネストール・アルメンドロス 音楽:アリエ・ジェルラトカ

結婚式の誓いの言葉で締め括られると急に萎える
 原題"L'Amour l'apres-midi"で、午後の愛の意。連作「六つの教訓話」第6作。
 弁護士の男(ベルナール・ヴェルレイ)は束縛されるのが嫌いで、友人と二人で弁護士事務所を開いている。英語教師で妊娠中の妻(フランソワーズ・ヴェルレイ)、幼い娘と暮らしているが、妻とは互いに不干渉というのが信条。浮気もせず、妻以外の女は皆同じに見えると言いながらも、カフェで街ゆく女を観察して妄想するのが趣味。
 そんな男の前に学生時代の親友の恋人だったクロエ(ズーズー)が突然現れたことから波瀾が始まるという物語。
 仕事も家庭も順風満帆で幸せなフレデリックに、浮気をしないのは妻を愛しているからではなく、結婚生活を義務と考えているからだと核心を突くフロエは、仕事探し、アパート探しにかこつけて纏わりつき、ついには男の子供が欲しいと言い出す。
 誘惑に負けてベッドインする寸前、冷静に戻った男はその場を逃げ出し、事務所で秘書たちの嘲笑を受けながら、妻のいる家に帰る。そして初めて、男は妻を愛していることに気づくという寓話。
 クロエは一種の自己投影、自分の内面の声で、彼女もまた男の妄想の一人と言えなくもないが、女に惑う男たちへの「六つの教訓話」の最後に、結婚式の誓いの言葉で締め括られると、これまで道徳の授業を受けていたみたいに急に萎えてしまう。
 男たちの哀しい姿を散々見せつけられた挙句が、尻尾を巻いて貞淑に戻る男ではつまらなすぎる。 (評価:2)

荒野のストレンジャー

製作国:アメリカ
日本公開:1973年6月2日
監督:クリント・イーストウッド 製作:ロバート・デイリー 脚本:アーネスト・タイディマン 撮影:ブルース・サーティース 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:ディー・バートン

ニヒルでカッコいいという、そのためだけの作品
 原題"High Plains Drifter"で、高原の放浪者の意。クリント・イーストウッドの監督2作目にして初の西部劇。
 一匹狼の非情なガンマンというマカロニウエスタンの設定をコピーした作品。
 流れ者(クリント・イーストウッド)が砂漠を抜けて湖畔の鉱山の町にやって来ると、住民は監視するようによそよそしく、バーに入るとゴロツキ3人組に因縁を付けられ、床屋で椅子に腰かけたところを襲われて瞬時に射殺。保安官、町長ともに銃の腕を買い、間もなく出所してくる別のゴロツキ3人組から町を守るように依頼される。
 この出所3人組は鉱山会社の元用心棒で、増長して保安官ダンカンを殺したために刑務所に入れられたという過去があり、流れ者が殺した3人組は後任の用心棒。
 流れ者はすべての要求を飲むことを条件に、死んだゴロツキに代って用心棒を引き受けるが、女を強姦するわタダ酒を飲むわでこれまたゴロツキに。見かねた鉱山会社幹部が寝込みを襲うが返討ちに遇う。
 流れ者は住民たちに出所3人組を迎え撃つ作戦を伝授するが、本番で町を去る。他力本願の住民たちはあっさり出所3人組に降参し、祝杯を挙げているところに流れ者が帰ってきて3人組を抹消。
 流れ者がダンカンの復讐を果たすというストーリーで、とにかくイーストウッドがニヒルでカッコいいという、そのためだけの作品。
 流れ者の正体は、彷徨うダンカンの幽霊ではないかと思わせる台詞もあり、ミステリアスさもマカロニ風。 (評価:2)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1973年6月23日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:アルベルト・グリマルディ 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、フランコ・アルカッリ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:ガトー・バルビエリ
キネマ旬報:10位

娘と中年男のセックス以外のことが知りたかった
 原題"Ultimo tango a Parigi"で、邦題の意。パリが舞台で、終盤に主人公のカップルがダンスホールでタンゴを踊るのがタイトルの由来。
 アパルトマン探しで出会った中年男(マーロン・ブランド)と若い娘(マリア・シュナイダー)が空室でいきなりセックスしてしまうというトンデモナイ物語。女は度々その部屋を訪れてはセックスするが、男は互いに名乗るのを拒否する。
 男は安ホテルを経営していた妻が謎の自殺をしたばかりで、一切の過去、一切のプロフィールを白紙にして純粋にセックスだけで結びつく男女の在り方を求めている。
 愛する相手のことを知りたい、愛する相手に自分のことを知ってほしいと思う娘と、愛するがゆえに相手のことを知りたくない、相手に自分のことを教えたくないと思う男。いわば分別を考えない若さと、分別を持ってしまった老いとの相克なのだが、娘が結婚すると知った途端に、愛を引き留めるために娘のことを知りたがり、自分のことを知ってほしいという正反対の行動をとる中年男が悲しい。
 要は相手のことを知りたい、愛する相手に自分のことを知ってほしいと思うことが愛なんだという結論で、付き纏う男を射殺した娘の「私はあなたのことを知らない」という台詞でfinとなる。
 公開当時、過激なセックスシーンが話題となった作品だが、宣伝戦略もあったのか今見るとそれほどでもない。
 テーマからもセックスシーンを見せるための作品になっていてポルノ映画同様の退屈さがあり、中年男と娘のセックス以外のことを知りたかったという気にさせる。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1973年3月17日
監督:ロナルド・ニーム 製作:アーウィン・アレン 脚本:スターリング・シリファント、ウェンデル・メイズ 撮影:ハロルド・E・スタイン 特撮:L・B・アボット 音楽:ジョン・ウィリアムズ
キネマ旬報:5位

冒険というよりはあら捜しが楽しいコメディの趣き
 原題"The Poseidon Adventure"で、ポセイドン号の冒険の意。ポール・ギャリコの同名小説が原作。
 ニューヨークからアテネに向かう豪華客船ポセイドン号がクレタ島沖の海底地震による津波で転覆。船内に取り残された船客たちが船底に逃れ、救出されるまでを描くパニック映画。
 冒頭、老朽船でポンプの故障でバラストのバランスが取れないのに、船主がスピードを上げさせているという説明があるが、船の位置が説明されないため、津波襲来と言われてもピンとこない。(原作では地中海)
 さらには津波襲来の方向がわかっていながら、船首を回さずに横っ腹に津波をモロに受ける描写がいささかガックリする。
 180度転覆してホールの天井に落下するが、鋼鉄船で密閉性が高いからと浸水しないのも何ともいえず、あとは船底目指しての脱出劇となるが、船の構造や科学設定の随所に不自然さが目立ち、むしろあら捜しが楽しいコメディの趣きがある。
 リーダーとなって肉体派の男を演じるジーン・ハックマンが何故牧師という設定なのかが謎で、テーマ的には神の不公平や自己責任論を説いているが、テーマは付け足し程度で説得力はない。
 ハックマンと対立する刑事(アーネスト・ボーグナイン)、セクシー要員の元娼婦(ステラ・スティーヴンス)、愛し合う老夫婦(ジャック・アルバートソン、シェリー・ウィンタース)、ハックマンを助ける少年、足手まといの女(キャロル・リンレイ)といったキャラクターシフトで、色気や泣かせどころも取り入れているが、やや定型的。
 最終的には6人が助かるが、海難救助隊は活躍せず、量ったような定員ギリギリのヘリで救助というラストもガックリくる。
 当時としては頑張った特撮シーンが見どころ。 (評価:1.5)

汝のウサギを知れ

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製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ブライアン・デ・パルマ 製作:スティーヴン・バーンハード、ポール・ギア 脚本:ジョーダン・クリッテンデン 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽:ジャック・エリオット、アリン・ファーガソン

『卒業』のパロディ以外に見どころはない
 原題"Get to Know Your Rabbit"で、邦題の意。
 デ・パルマのハリウッド・デビュー作で、大企業の若き幹部がモーレツな仕事社会からドロップアウトして人間らしい人生を得るという、70年代初期の時代性を反映したコメディ。
 冒頭、忙しすぎて爆弾犯の予告電話もほったらかしにし、会社が爆破されてしまうというエピソードまでは笑えるが、以降はまったく不調で、オーソン・ウェルズとキャサリン・ロスが出ているという以外に見どころはない。
 最悪なのは主人公のドナルド(トム・スマザース)の恋人がキャサリン・ロスということから、『卒業』(1967)のラストシーンを2か所でパロディ化していることで、オマージュというには志が低い。
 ドナルドは爆破後、会社復帰せずにオーソン・ウェルズの教室でタップダンスマジシャンの勉強。ドサ周りでキャサリン・ロスと運命の出会いを果たす。ボロボロになった元上司のターンブル(ジョン・アスティン)を引き受けてマネージャーにするが、ターンブルがビジネスの才覚を取り戻してタップダンスマジシャンの養成に乗り出し、マネージメント会社として大成功させてしまう。
 ドナルドには再び経営者の椅子が与えられるが、キャサリン・ロスとの質素ながらも幸福な人生を求めて、得意の袋を使った篭脱けのマジックでオフィスを脱出、ドサ周りに出る。
 『卒業』のパロディは、ロスを奪って逃げだすシーンと、バスの最後部にロスが赤子を抱いて座っているシーン。 (評価:1.5)

突然の訪問者

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製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:エリア・カザン 製作:クリス・カザン、ニコラス・T・プロフェレス 脚本:クリス・カザン 撮影:ニコラス・T・プロフェレス 音楽:ヨハン・セバスチャン・バッハ

エリア・カザンのベトナム戦争への立ち位置が窺える
 原題"The Visitors"で、訪問者たちの意。
 ベトナム帰還兵ビルの家に二人の戦友が訪ねてくる物語で、夕暮れの田舎の家の全景から始まるプロローグが、これから惨劇が起きるというホラー的な予感を感じさせる、エリア・カザンらしい熟練の演出。
 ビルには内縁の妻と赤ん坊がいて、それなりに幸せそうだが、家は作家である妻の父の持ち物で、父は離れに住んでいる。
 ビルの留守に訪ねてくる二人の戦友は曰く有り気。夫が帰宅すると、金髪眼鏡で『わらの犬』(1971)風の妻は、シャワーを浴びてミニスカートに着替えて来客の男を誘う風。カメラもミニスカートを中心に妻をセクシーに撮るが、予想通りに展開する。
 鍵になるのが、戦友二人はベトナム戦争で村の女を犯した上に殺害。それをビルが報告したために軍事刑務所に入れられ、出所したばかりだということ。
 ベトナムで二人の蛮行を止められなかったビルが、今度は妻なので抵抗するが、それも空しくベトナムと同じことが繰り返される。
 赤狩りに協力したエリア・カザンの戦時暴力に対する態度は曖昧で、暴力肯定派の戦友二人と義父を是、反対派のビルを敗北主義、どっちつかずの妻を日和見主義として描いているようにも見える。
 制作時、ベトナム反戦の潮流の中で、反共のエリア・カザンの立ち位置がどことなく窺える作品。 (評価:1.5)


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