海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1970年

製作国:アメリカ
日本公開:1970年6月27日
監督:フランクリン・J・シャフナー 製作:フランク・マッカーシー 脚本:フランシス・フォード・コッポラ、エドマンド・H・ノース 撮影:フレッド・コーネカンプ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
アカデミー作品賞

コッポラがシナリオ参加した、もしかしたら反戦映画?
 原題は"Patton"。第二次世界大戦の北アフリカ・ヨーロッパ戦線で機甲軍団を率いて活躍したパットン将軍を描いた伝記的映画。
 戦記映画と誤解を受けそうな邦題で、実際それを狙ってつけられたと思われるが、映画は平家物語の生者必衰の理を表すが如く、戦場の猛者としパットンの北アフリカ戦線における華々しいデビューと、兵士を将棋の駒のごとく扱う将としての適格性から、次第に主力部隊から遠ざけられ、囮や援軍に回りながらも勇猛果敢さから戦功を立て、それでも左遷されて、最後は名ばかり部隊の司令官として第一線を退くまでの姿を描く。
 このパットンに哀愁の姿を見るのは、彼が時代遅れの武人であり、近代式の軍隊とは相容れない将軍で、実際、ローマ帝国や近世以前の戦史研究家であり、戦術・兵法もそこから学んで実践した。そうした一見アナクロなパットンの真実は、戦争とは非人間的なものであり、そこで生き延びるには非情さと恐れない勇気が必要だというもの。
 それを実行するパットンは非人間的で、精神的に病んだ兵士を殴りつけて人間性のかけらもないように見えるが、結局戦場で屍となった者はハゲタカのような民衆に凌辱されてみじめな姿を晒すということを冒頭のシーンで見せる。
 ヒューマニストを装って兵士を殺す国家と、死を避けるために兵士に突撃させる将軍とどちらが正義なのかという問題を提起するが、連合軍が戦勝に酔いしれる中ではその問いかけもパットンの哀愁同様に儚く、好戦的将軍を扱った戦争映画と考えた日本の映画評論家からも高評価は得られなかった。
 監督は『猿の惑星』『パピヨン』のフランクリン・J・シャフナー。フランシス・フォード・コッポラが脚本に参加している。 (評価:3)

製作国:イ​ギ​リ​ス
日本公開: 1971年4月24日
監督:デヴィッド・リーン 製作:アンソニー・ハヴロック=アラン 脚本:ロバート・ボルト 撮影:フレディ・ヤング 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:2位

アカデミー撮影賞のアイルランドの自然が美しい
​ ​原​題​"​R​y​a​n​'​s​ ​D​a​u​g​h​t​e​r​"​。​ラ​イ​ア​ン​は​主​人​公​の​娘​の​姓​。
​ ​舞​台​は​2​0​世​紀​初​頭​の​ア​イ​ル​ラ​ン​ド​の​寒​村​。​独​立​戦​争​前​で​イ​ギ​リ​ス​の​支​配​下​に​あ​る​。​物​語​は​ラ​イ​ア​ン​の​娘​ロ​ー​ジ​ー​(​サ​ラ​・​マ​イ​ル​ズ​)​が​、​妻​と​死​別​し​た​歳​の​離​れ​た​教​師​(​ロ​バ​ー​ト​・​ミ​ッ​チ​ャ​ム​)​と​結​婚​し​、​追​わ​れ​る​よ​う​に​し​て​村​を​出​て​い​く​ま​で​。
​ ​冒​頭​に​独​立​運​動​の​話​が​出​て​く​る​が​、​す​ぐ​に​忘​れ​ら​れ​て​、​小​さ​な​村​に​収​ま​る​こ​と​の​で​き​な​い​ロ​ー​ジ​ー​が​、​夫​に​不​満​を​持​ち​、​イ​ギ​リ​ス​軍​少​尉​と​不​倫​す​る​話​が​ほ​と​ん​ど​。​後​半​に​な​っ​て​思​い​出​し​た​よ​う​に​独​立​運​動​グ​ル​ー​プ​が​村​に​現​れ​、​武​器​を​陸​揚​げ​す​る​が​、​イ​ギ​リ​ス​軍​に​見​つ​か​っ​て​逮​捕​さ​れ​て​し​ま​う​。​こ​の​逮​捕​劇​で​ロ​ー​ジ​ー​が​愛​人​の​イ​ギ​リ​ス​軍​少​尉​に​密​告​し​た​と​疑​わ​れ​て​教​師​と​も​ど​も​村​を​追​わ​れ​る​こ​と​に​な​る​が​、​密​告​者​は​別​に​い​た​。
​ ​物​語​は​こ​れ​で​全​部​で​特​に​エ​ピ​ソ​ー​ド​も​な​い​。​そ​れ​を​3​時​間​1​5​分​に​渡​っ​て​見​せ​ら​れ​る​わ​け​で​、​2​1​世​紀​だ​っ​た​ら​こ​れ​ほ​ど​ア​ナ​ク​ロ​な​映​画​は​な​い​。​と​こ​ろ​が​ま​だ​終​わ​ら​な​い​の​か​と​思​い​つ​つ​も​つ​い​見​て​し​ま​う​の​が​本​作​の​不​思​議​な​と​こ​ろ​で​、​ス​ロ​ー​テ​ン​ポ​の​演​出​に​も​係​わ​ら​ず​、​ア​イ​ル​ラ​ン​ド​の​自​然​が​あ​ま​り​に​美​し​す​ぎ​て​、​こ​れ​ぞ​映​像​マ​ジ​ッ​ク​の​ア​カ​デ​ミ​ー​撮​影​賞​。​こ​れ​だ​け​で​も​必​見​の​価​値​は​あ​る​の​だ​が​、​あ​ま​り​に​長​尺​。​嵐​の​海​岸​の​シ​ー​ン​で​は​、​子​供​を​含​む​俳​優​た​ち​が​溺​れ​て​し​ま​わ​な​い​か​と​気​が​気​で​は​な​い​く​ら​い​に​凄​い​が​、​こ​れ​だ​け​は​観​な​い​と​わ​か​ら​な​い​。
​ ​た​だ​の​浮​気​女​に​過​ぎ​な​い​ロ​ー​ジ​ー​が​村​人​た​ち​に​苛​め​ら​れ​る​段​に​な​る​と​、​な​ぜ​か​ロ​ー​ジ​ー​に​同​情​し​て​し​ま​っ​て​、​ア​イ​ル​ラ​ン​ド​独​立​派​住​民​が​悪​者​に​見​え​て​し​ま​う​の​は​、​や​は​り​大​英​帝​国​の​映​画​だ​か​ら​か​。
​ ​そ​れ​に​し​て​も​教​師​は​ロ​ー​ジ​ー​を​好​き​で​も​何​で​も​な​さ​そ​う​だ​っ​た​の​に​、​口​説​か​れ​て​い​き​な​り​熱​い​抱​擁​を​交​わ​し​た​り​、​糞​真​面​目​そ​う​だ​っ​た​将​校​も​突​然​豹​変​し​て​ロ​ー​ジ​ー​を​抱​き​し​め​た​り​し​て​、​ふ​た​り​と​も​変​。​デ​ヴ​ィ​ッ​ド​・​リ​ー​ン​は​こ​ん​な​に​演​出​が​下​手​だ​っ​た​の​か​、​そ​れ​と​も​役​者​が​下​手​な​の​か​。​ロ​バ​ー​ト​・​ミ​ッ​チ​ャ​ム​な​ど​徹​頭​徹​尾​仕​方​な​く​ロ​ー​ジ​ー​と​結​婚​生​活​を​送​っ​て​い​る​よ​う​に​し​か​見​え​な​い​の​に​、​最​後​に​ず​っ​と​愛​し​て​い​た​と​い​う​台​詞​に​腰​を​抜​か​す​。 (評価:3)

ひまわり

製作国:イ​タ​リ​ア
日本公開: 1970年9月30日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:ヴィットリオ・デ・シーカ、カルロ・ポンティ 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、トニーノ・グエッラ、ゲオルギ・ムディバニ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ヘンリー・マンシーニ

丘に並ぶ兵士たちの墓の十字架の列が印象的
 ​原​題​は​"​I​ ​G​i​r​a​s​o​l​i​"​で​邦​題​の​意​味​。​名​匠​ヴ​ィ​ッ​ト​リ​オ​・​デ​・​シ​ー​カ​が​ソ​フ​ィ​ア​・​ロ​ー​レ​ン​と​マ​ル​チ​ェ​ロ​・​マ​ス​ト​ロ​ヤ​ン​ニ​を​主​役​に​撮​っ​た​、​反​戦​映​画​。
​ ​第​二​次​世​界​大​戦​の​イ​タ​リ​ア​が​舞​台​で​、​新​婚​夫​婦​の​夫​が​ロ​シ​ア​戦​線​に​召​集​さ​れ​る​。​戦​争​が​終​わ​っ​て​夫​が​雪​原​に​置​き​去​り​に​さ​れ​た​こ​と​を​知​っ​た​妻​は​単​身​ロ​シ​ア​に​赴​き​、​現​地​で​助​け​た​女​と​子​供​を​持​っ​て​暮​ら​す​夫​に​再​会​す​る​。​失​意​の​妻​は​帰​国​し​て​新​し​い​生​活​を​始​め​る​が​、​妻​を​忘​れ​ら​れ​な​い​夫​が​ロ​シ​ア​か​ら​訪​ね​て​く​る​。​妻​に​恋​人​と​子​供​が​い​る​こ​と​を​知​っ​て​、​夫​は​戦​地​に​赴​い​た​の​と​同​じ​ミ​ラ​ノ​駅​か​ら​去​る​・​・​・​と​い​う​の​が​ス​ト​ー​リ​ー​。​つ​ま​り​、​戦​争​が​幸​せ​な​男​女​を​引​き​裂​い​て​し​ま​っ​た​と​い​う​話​。
​ ​ヘ​ン​リ​ー​・​マ​ン​シ​ー​ニ​の​哀​愁​あ​る​テ​ー​マ​曲​が​当​時​ヒ​ッ​ト​し​た​。​物​語​は​よ​く​あ​る​話​だ​が​、​出​来​過​ぎ​て​い​る​感​も​あ​っ​て​反​戦​映​画​と​し​て​は​ス​テ​レ​オ​タ​イ​プ​。​マ​ス​ト​ロ​ヤ​ン​ニ​が​歳​を​食​い​過​ぎ​て​い​る​点​を​除​け​ば​演​出​も​演​技​も​安​定​感​が​あ​っ​て​、​安​心​し​て​観​ら​れ​る​。
​ ​問​題​は​、​ロ​シ​ア​人​妻​の​リ​ュ​ド​ミ​ラ​・​サ​ベ​ー​リ​エ​ワ​が​ソ​フ​ィ​ア​・​ロ​ー​レ​ン​よ​り​も​若​く​て​可​愛​く​、​マ​ス​ト​ロ​ヤ​ン​ニ​演​じ​る​夫​が​彼​女​を​捨​て​て​薹​の​立​っ​た​ロ​ー​レ​ン​を​選​ぼ​う​と​す​る​の​が​1​0​0​%​説​得​力​を​持​た​な​い​こ​と​。​そ​れ​で​は​映​画​に​な​ら​な​い​と​い​う​無​理​や​り​な​作​劇​が​見​え​て​し​ま​う​。
​ ​タ​イ​ト​ル​と​な​っ​て​い​る​ウ​ク​ラ​イ​ナ​の​ひ​ま​わ​り​畑​の​映​像​は​見​事​。​近​く​の​丘​に​並​ぶ​兵​士​た​ち​の​墓​の​十​字​架​の​列​の​映​像​は​、​そ​れ​以​上​の​も​の​を​語​る​。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1971年8月28日
監督:アーサー・ペン 製作:スチュアート・ミラー 脚本:カルダー・ウィリンガム 撮影:ハリー・ストラドリング・Jr 音楽:ジョン・ハモンド
キネマ旬報:3位

白人至上主義の歴史観を修正する西部劇映画
 原題は"Little Big Man"で、インディアンに育てられた男が、体は小さいが勇者だということで付けられた名前。トーマス・バーガーの同名小説が原作。
 100歳を超えた老人が、19世紀西部開拓時代、第7騎兵隊のカスター将軍の思い出を軸にインディアンと白人の戦いを語るという構成。
 それまでの西部劇では、インディアン=野蛮人、白人=文明人、という白人から見た歴史観で語られていたが、1960年代からは黒人の公民権運動を含めて白人至上主義の歴史観が修正された時代で、インディアンに対しても、野蛮な原住民からネイティブ・アメリカンへの呼称変更を含めて、アメリカ先住民の名誉回復が行われた。
 本作はそうした歴史観修正の流れに則って制作された映画で、当時としては非常に意味のある映画だったが、半世紀を経るとカスター将軍の残虐ぶりを描く、ただの歴史映画となってしまった。
 主人公の小さな巨人を演じるのがダスティン・ホフマンで、心優しいシャイアン族に育てられた主人公は、白人社会に戻ってもその優しい心根を捨てることができず、抜群の射撃の才能があっても人を撃てず、ガンマンの道を諦める。
 最初に出合った白人牧師の妻(フェイ・ダナウェイ)は淫乱で、主人公は白人と同じキリスト教信仰を持つことができず、仲良くなった親方はペテン師で、文明人であるはずの白人の野蛮ぶりを対照的に描く。
 スウェーデン女と結婚するも、インディアンに誘拐されてしまい、妻を探してカスター将軍の偵察員となるが、彼の悪逆非道に再びインディアン社会に。カスターにインディアン妻を虐殺されるも、優しいインディアンの心根を持つ彼は、カスターに復讐できない。
 そうして、彼の手を経ずにリトルビッグホーンの戦いでカスターと騎兵隊は全滅。主人公はシャイアン族と共に生きる。
 インディアンになった白人という視点から白人の腐敗と残虐ぶり、インディアンの側の正義を描くが、当時の歴史観を逆転させたという意味はあっても、その使命を果たし終えてしまえば懐かしい映画でしかないのが残念なところ。映画にも賞味期限があるという好例。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1972年2月5日
監督:ウィリアム・フリードキン 製作:マート・クロウリー 脚本:マート・クロウリー 撮影:アーサー・J・オーニッツ 音楽:チャールズ・フォックス
キネマ旬報:6位

同性愛が違法だった時代背景を考えると感慨深い
 原題"The Boys in the Band"で、仲間の男たちの意。マート・クロウリーの戯曲が原作。
 ゲイの仲間たちが、マイケルのアパートで行われるハロルドの誕生パーティに集まるという物語で、そこに予期せぬ訪問客、マイケルの学生時代の友人アランが紛れ込んだことから騒動が起きる。
 アランはマイケルがゲイだと知らず、しかもゲイ嫌い。マイケルはゲイの集まりだということを隠そうとするが失敗、アランは4歳からの生粋のゲイ、エモリーと殴り合いになってしまう。
 一段落してマイケルが、一番愛している人に電話するというゲームを始め、それぞれが赤裸々な告白をするという展開になる。
 前段は舞台劇だからか、あるいはゲイだからか、速射砲のような言葉の応酬でとにかくやかましい。それがゲームに移った途端、寡黙でシリアスな心理劇になるという演出効果が上手い。
 原作のクロウリー自身がゲイで、登場人物は実在の人間をモデルにしている。誕生パーティなのに互いに罵りあうなど、如何にも芝居臭いが、舞台となるニューヨークでは1980年まで同性愛は違法だった時代背景を考えると、社会の片隅で息を潜めていたゲイたちが、性愛について如何に真摯だったか、それをクロウリーが真っ向から描こうとしたことがわかる。
 アランがなぜマイケルを訪ねたのかが最後に明らかになるが、自分がゲイであることに嫌悪し、それでも妻子を愛そうとする男の姿が悲しい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1971年4月3日
監督:マーティン・リット 製作:ローレンス・ターマン 脚本:ハワード・サックラー 撮影:バーネット・ガフィ 音楽:ライオネル・ニューマン
キネマ旬報:10位

黒人であることを越えようとしたボクサーの悲劇
 原題"The Great White Hope"で、大いなる期待の星の意。字幕では白人の期待の星と訳されている。ハワード・サックラーの同名戯曲の映画化。20世紀初頭、黒人初のボクシング世界ヘビー級チャンピオンとなったジャック・ジョンソンがモデル。
 ジャック・ジェファーソン(ジェームズ・アール・ジョーンズ)は黒人初のボクシング世界ヘビー級チャンピオンとなり、白人たちの反感を買う。さらに白人女性のエレノア(ジェーン・アレクサンダー)との結婚が火に油を注ぎ、不道徳的な目的での女性の州間移動を禁じるマン法で州境を越えた二人を摘発、ジェファーソンは禁錮2年の刑を受けてしまう。
 ジェファーソンは保釈中に逃亡、エレノアとともに欧州に渡ってタイトルマッチを行うが、なかなか対戦が組めずに窮乏。エレノアとの関係も悪化し、メキシコ滞在中にエレノアは自殺してしまう。ジェファーソンはアメリカ帰国を条件に再三持ち掛けられていた白人との八百長試合を受諾するが、途中で反撃に出てしまう。ところが結果はKO負け。すでに往年の力は失われていた、という結末。
 ジェファーソン自身は黒人の名誉のために戦うことを否定し、自らを黒人でも白人でもない人種を超えた一人のボクサーと位置づけ、同様の信念から白人女性と結婚する。その結果、ジェファーソンは不自由な生き方を強いられ、自分を不幸にしたのはエレノアだと言った恨み言が彼女を自殺に走らせる。
 黒人であることを越えようとするジェファーソンは、一方で黒人たちの反感も招くが、それが黒人としてのコンプレックスの裏返しだったのかは明確には描かれず、ラストは幾分すっきりとしない。
 劇中のThe Great White Hopeは、白人たちが口にする言葉で、黒人から王座を奪い返すべく選ばれる挑戦者を指す。 (評価:2.5)

真昼の死闘

製作国:アメリカ
日本公開:1971年2月6日
監督:ドン・シーゲル 製作:マーティン・ラッキン、キャロル・ケイス 脚本:アルバート・マルツ 撮影:ガブリエル・フィゲロア 音楽:エンニオ・モリコーネ

余計な説明を入れないラストシーンがオシャレ
 原題"Two Mules for Sister Sara"で、シスター・サラのための二頭のラバの意。
 ラバはサラが連れている1頭と、もう1頭は同行するガンマンのこと。頑固者の意のmuleとのダブル・ミーニング。
 夕日をバックに流れ者のガンマン(クリント・イーストウッド)が登場するマカロニウエスタン風のプロローグで始まり、男たちに襲われている女サラ(シャーリー・マクレーン)を助けるという出会いで、硬骨漢と気丈女の付かず離れずの関係を二人が好演する。
 とりわけ西部劇は初出演のマクレーンを見るための作品となっていて、メキシコ革命の協力者としてフランス軍に追われながら尼僧のフリをしている娼婦の役を絶妙に演じている。
 色っぽいマクレーンに惹かれながらも尼僧なので手を出せないイーストウッドと、金のためながらも革命軍のために働くイーストウッドを正体を隠して手引きするマクレーンという微妙な関係でドラマを引っ張り、クライマックスのフランス軍駐屯地襲撃となるが、ドラマを離れてシリアスになる終盤がやや段取りなのがつまらない。
 革命派の勝利でラストはイーストウッドとマクレーンが仲良く連れ立って旅立つが、それまでのマクレーンの演技で十分とばかり、余計な説明を入れないのがオシャレでいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1971年5月1日
監督:ボブ・ラフェルソン 製作:ボブ・ラフェルソン、リチャード・ウェクスラー 脚本:エイドリアン・ジョイス 撮影:ラズロ・コヴァックス
キネマ旬報:7位

ニコルソンが、あの顔で女にモテまくるのに違和感
 原題"Five Easy Pieces"で、5つの簡単な曲の意。
 劇中演奏される5つのピアノ曲のことで、ショパン『幻想曲』ヘ短調作品49、バッハ『半音階的幻想曲とフーガ』半音階的幻想曲とフーガBWV903、モーツァルト『ピアノ協奏曲第9番』変ホ長調K.271、ショパン『24の前奏曲』作品28第4番ホ短調、モーツァルト『幻想曲』ニ短調K.397。
 時代性を反映した作品で、音楽一家に育ちながら生き方を見いだせない青年の浮草、ないしは高等遊民の物語。
 その青年を演じるのがジャック・ニコルソンで、のうのうと浮世離れしたプチブル的生活を送っている家族を見限り、石油採掘所の肉体労働者として働いている。
 その恋人がポピュラー歌手志望のウエイトレス(カレン・ブラック)で、青年の音楽界とのコネに期待するものの、青年はプロレタリアートとしての信念を貫く。
 父親が老い先短いのを知って恋人とともに実家を訪れるが、兄たちは相変わらずで、クラッシック音楽以外の音楽は屁とも思わず、自分たちが異分子であることを悟る。そうして自分に愛想を尽かす代わりに恋人を放り出して、どこへともしれない浮草の旅に出る・・・という物語。
 家に戻るドライブでアラスカに移住するという女の子2人を拾うが、この二人が当時の時代風潮を反映していて、人間はゴミを吐き散らす悪で、だからゴミのないアラスカに行くと言うと、青年がアラスカがきれいなのは雪解けまでだと答える。
 2人は自然崇拝のヒッピーで、しかし彼らの夢想にもついて行けない青年は、どこにも自分の居場所がなく、時代と対峙せざるを得ないというのが全体的テイストで、解の見つからない旅を続ける。
 描かれるテーマは普遍だが、半世紀が経ってしまえば、浮草の背景が様変わりしてSF映画を見るようで、所詮はブルジョアに飽きた高等遊民の物語でしかない。
 ニコルソンが、あの顔で女にモテまくるのにも違和感がある。 (評価:2.5)

暗殺の森

製作国:イタリア、フランス、西ドイツ
日本公開:1972年9月2日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ 音楽:ジョルジュ・ドルリュー

今ひとつ作品に順応できないのは、民主主義者だから?
 原題は"Il conformista"で、体制に順応する者の意。アルベルト・モラヴィアの同名小説(邦題:孤独な青年)が原作。
 ベルトルッチの初期作品で、全体はサスペンスタッチだが、1938年イタリアのファシズムをテーマに描いた作品。
 子供の頃にホモの男を殺してしまったというトラウマを持つ主人公が、大学時代に反ファシズムの恩師にパリに逃亡され、ファシズムに傾斜。ファシストの秘密組織に入って、恩師の暗殺命令を受ける。
 物語は、サヴォイアの別荘に向かう恩師夫妻の車の追跡を開始するところから始まり、回想と並行して描かれるので、時系列が前後して若干わかりにくい。
 本作のポイントは、主人公がなぜファシストになったのか? という点だが、劇中で彼が目立つことよりも周囲と同化することを好むという性格が語られるくらいで、不明瞭。トラウマや恩師との関係、没落した家系と父親の発狂という背景から探るしかないが、原題の体制順応者というには積極的な行動で、かつ懐疑的。彼が何となくファシストになってしまったということだけはわかるのだが、流されるだけで暗殺者になってしまうというのはどうにも納得しがたく、最後までもやもや感が残る。
 もう一つの不明瞭は恩師の若妻アンナで、金髪美人というのが最大のポイントだが、なぜファシストと知りつつ主人公に魅かれるのかが不明。主人公が知っているファシスト側の高級娼婦と同一人物なのか、それとも似ているだけなのかが不明のままで、前者ならば彼女が実は隠れファシストなのではないか、だから最後に主人公が見放したのではないか、と辻褄は合う。そうでないなら???
 こうした諸々の不明瞭さを、思わせぶりと好意的にとるか、作劇・演出上のまずさと批判的にとるかで、評価は変わる。
 ラストで彼が殺した思った男が生きていて錯乱するが、こいつのために俺はファシストになってしまったというには牽強付会で、理知的に見える男がどうしてここまで狂ってしまうのか不思議。
 タイトルの割には今ひとつ作品に順応できないのは、民主主義者だから? (評価:2.5)

狼の挽歌

製作国:イタリア
日本公開:1970年12月19日
監督:セルジオ・ソリーマ 製作:ピエロ・ドナーティ、アリゴ・コロンボ 脚本:セルジオ・ソリーマ、サウロ・スカヴォリーニ、ジャンフランコ・カリガリッチ、リナ・ウェルトミューラー 撮影:アルド・トンティ 音楽:エンニオ・モリコーネ

イタリア語だと地中海やモナコのカーレースに思えてしまう
 原題"Città violenta"で、暴力の街の意。
 「う〜ん、マンダム」のCMが日本で一世を風靡した年の映画で、チャールズ・ブロンソン主演の代表作。
 ブロンソンはプロの殺し屋という設定で、一匹狼のヒットマン。マフィアからは引く手あまたで、殺しの依頼は引きも切らないという、そんな皆を敵に回すような人気者の殺し屋がいるか!と突っ込みたくなるようなカッコつけの設定。
 美女と野獣張りの恋人が登場して、マフィアの女にありがちな、心は純だけどいい女ゆえに男から男へと渡り歩く宿命で、でも本当はブロンソン命で、最後はブロンソンの手で終止符を打ってもらう。結末をいってしまえば、アメリカ風(マカロニ風?)道行きの物語=心中物という悲しい物語。
 ラストのガラス張りのエレベーターの狙撃シーンが、最大の見せ場となっている。
 水上飛行機の着陸から島でのカーチェイス、ニューオリンズのカーレースと、おしゃれなアクションが続き、ドラマというよりはアクション映像が見どころの作品で、もう一つはマフィアの女役でブロンソンの奥さんのジル・アイアランドが美貌とセクシーな肢体を披露してくれる。
 本作のもっとも残念なところは、オリジナル版がイタリア語であることで、観ているとつい地中海の島やモナコのカーレースに思えてしまうこと。犯罪組織もコルシカ・マフィアのような気がしてきて、頭の中で舞台をアメリカとアメリカのマフィアに一生懸命に翻訳するが、ブロンソンの話すイタリア語がそれを邪魔する。
 エンニオ・モリコーネの音楽がいい。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1970年7月18日
監督:ロバート・アルトマン 製作:インゴー・プレミンジャー、レオン・エリクセン 脚本:リング・ラードナー・Jr 撮影:ハロルド・E・スタイン 美術:アーサー・ロナーガン、ジャック・マーティン・スミス 音楽:ジョニー・マンデル
キネマ旬報:5位
カンヌ映画祭グランプリ

ただのおふざけでパルム・ドール受賞とは恐れ入る
 原題"M*A*S*H"で、Mobile Army Surgical Hospital(アメリカ陸軍移動外科病院)の略。リチャード・フッカーの"MASH: A Novel About Three Army Doctors"が原作。
 朝鮮戦争を舞台にMASHに勤務する3人の軍医を描いたブラックコメディで、ベトナム戦争最盛期の作品だというのがミソ。戦争の悲惨、軍隊や軍律のナンセンスを野戦病院を通してシニカルに描くが、半世紀たって見るとドリフターズ程度のただのおふざけにしか見えないのが残念。反戦映画としてはアメリカン・ジョークの底の浅さが覗けてしまう。
 腕は確かだがノリの軽い3人の外科医に、ドナルド・サザーランド、トム・スケリット、エリオット・グールド。手術中も軽口を叩き、看護婦の尻を追いかける。立たなかったことを悲観した巨根の歯科医に自殺薬と称して睡眠薬を飲ませ、婦長にベッドで看病させるエピソードや、堅物だが役に立たない外科医と新任婦長の密会を隠しマイクで放送するなど、小学生のガキ紛いの悪戯でいささか白ける上に、フジヤマ・ゲイシャの通俗的なエピソードまで入り、半世紀前の作品とはいえ、これでブラックジョークだというのでは、制作者の程度が知れる。
 後半のアメフトの対抗試合などは戦争とも野戦病院ともまったく関係がなく、ネタ切れがアリアリ。ブラックでもないスラップスティック・コメディで延々と引っ張り、しかも朝鮮戦争の片鱗は描かれず、これでカンヌ国際映画祭グランプリ(パルム・ドール)受賞とは恐れ入る。 (評価:2.5)

大空港

製作国:アメリカ
日本公開:1970年4月18日
監督:ジョージ・シートン 製作:ロス・ハンター 脚本:ジョージ・シートン 撮影:アーネスト・ラズロ 美術:E・プレストン・エイムス、アレクサンダー・ゴリツェン 音楽:アルフレッド・ニューマン

パニック映画なのに何故かほのぼのしてしまう
 原題"Airport"。アーサー・ヘイリーの同名小説が原作。
 リンカーン空港という架空のシカゴの空港を舞台にしたグランドホテル方式の人間ドラマで、後半はローマに向かって飛び立った707で爆発が起き、機体損傷のまま空港に引き返すというパニック・ドラマになる。
 冒頭、大雪の空港で着陸した飛行機が誘導路で立ち往生することから、大雪が重要な要素になるのかと思うと、ほとんど関係がない。そうした間の抜けた作劇は全体に満ちていて、他愛のないアメリカ映画というスタンスで見るのが賢明。
 空港長が大雪のトラブルのため妻とのホテル・ディナーをキャンセルすると、妻が怒るというエピソードが最初に登場するが、「大雪じゃ、トラブルがなくたってディナーはキャンセルだろう」と突っ込みつつ、その後もおつむの軽いアメリカ女が続々登場するエピソードで、パニック映画なのに何故かほのぼのしてしまう。
 その空港長にバート・ランカスター、707の機長にディーン・マーティン、その不倫相手のスチュワーデスにジャクリーン・ビセットという豪華キャストが見どころのひとつ。無賃乗車の老女役のヘレン・ヘイズがこれまた如何にもなアメリカドラマ的なほのぼのとした役どころでアカデミー助演女優賞を受賞している。
 本作の大ヒットにより、『エアポート』シリーズの'75、'77、'80が制作された。 (評価:2.5)

いちご白書

製作国:アメリカ
日本公開:1970年6月15日
監督:スチュアート・ハグマン 製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ 脚本:イスラエル・ホロヴィッツ 撮影:ラルフ・ウールジー 音楽:イアン・フリーベアーン=スミス

学園紛争を舞台にした苺のようなラブ・ストーリー
 原題"The Strawberry Statement"で、苺の意見の意。ジェームズ・クーネンの同名の学園紛争体験記が原作。タイトルはコロンビア大学学部長の発言、学生の意見は苺が好きだと言ってるようなものに由来する。
 原作は1960年代後半のコロンビア大学の学園紛争を描いたものだが、本作ではサンフランシスコの架空の大学を舞台にしている。
 ボート部のノンポリ男子学生(ブルース・デイヴィソン)がバリケード内のカワイ子ちゃん(キム・ダービー)を見染め、取り敢えずバリケード内に入って活動家のフリをするという物語で、学園紛争を舞台にしたラブ・ストーリー。
 公開当時は、時代の風もあって若者の異議申し立てと体制の不当な弾圧を描いた作品というイメージだったが、半世紀経って見ると、香港やミャンマーの権力による民主活動家弾圧とは雲泥の違いで、"Strawberry Statement"と言った学部長の見解ももっともな気がしてくる。
 ラストシーンでは成り行きから学内に立て籠もったノンポリ学生が警官隊に逮捕され、それでも彼女めがけてジャンプするという潔いまでのノンポリぶりを発揮するが、彼が何故学内に立て籠もったのかという理由はラブ以外に描かれていない。
 学生たちの"Strawberry Statement"もベトナム戦争に寄与する軍学協同を批判するものだが、スローガン以外に詳しい説明はなく、学園紛争の表層をただファッショナブルに描いただけに過ぎない。
 本作のスタンスそのものが、学園紛争を苺が好きだと言ってる程度の甘ちゃんたちのお遊びと言っているに等しく、半世紀も経てば単なる時代の風俗映画でしかない。
 主題歌はユーミンの「『いちご白書』をもう一度」ではなく、"The Circle Game"。 (評価:2.5)

クレールの膝

製作国:フランス
日本公開:1989年7月29日
監督:エリック・ロメール 製作:ピエール・コトレル、バーベット・シュローダー 脚本:エリック・ロメール 撮影:ネストール・アルメンドロス

ロリータにときめかない人にはどうでもいい作品
 原題"Le genou de Claire"で、邦題の意。連作「六つの教訓話」第5作。
 中年男(ジャン・クロード・ブリアリ)が故郷に帰ってきて、昔の友人で女流小説家(オーロラ・コルニュ)と再会。彼女の小説のネタとなるために、彼女が間借りしている家のローティーンの娘ローラ(ペアトリス・ロマン)を誘惑するが、ローラの初心さに気づいてストーリーは終わり。
 次に、中年男はローラの異父姉クレール(ローランス・ドゥ・モナガン)の膝に欲情を感じて、膝に触るという新たなネタを女流小説家に提案。クレールとボーイフレンドとの仲を裂き、彼女が動揺するのを利用して念願を果たすが、欲情は冷めてしまい、大人しく婚約者の下に帰っていくという物語。
 一言でいえば、少女嗜好の中年男が、未成熟な少女を如何に自分のものにするかというウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の類作で、ロリータ(Lolita)がローラ(Laura)の愛称であることからも意図的に妹の名としたことが窺える。
 この作品を見て胸ないしは下半身がときめくかどうかは、その人の嗜好によるもので、大してときめかない人にとっては、どうでもいい作品となっている。 (評価:2)

製作国:イタリア、フランス、スペイン
日本公開:1971年1月23日
監督:ルイス・ブニュエル 脚本:ルイス・ブニュエル、フリオ・アレハンドロ 撮影:ホセ・アグアイヨ 音楽:クロード・デュラン
キネマ旬報:7位

夢の中の生首だけでは脂の抜けたブニュエル作品
 原題"Tristana"で、主人公の女の名。ベニト=ペレス・ガルドスの同名小説が原作。
 両親を亡くし初老の没落貴族ドン・ロぺに親代わりとして育てられた美しい娘トリスターナの物語で、女との情事が人生であるドン・ロぺは、友人の妻と無垢な娘にだけは手を出してはならないという戒めを破って、トリスターナを愛人にしてしまう。
 トリスターナは従前より、教会の鐘楼の鐘にドン・ロぺの生首がぶら下がっている夢を見ていて、フロイト流にいえばドン・ロぺに対する性的な恐れと欲望ということになるのか、簡単に毒牙に掛かってしまうのだが、ドヌーヴは演技が下手なのか、それとも毒牙にかけたくなる美貌が鉄壁過ぎるのか、ドン・ロぺに対する好悪を含めた内面が全く伝わってこない。
 ずるずるとドン・ロぺとの関係が続き、それも周囲の知るところとなるが、若い画家にモデルになることを求められて通ううちに相思相愛となり、ドン・ロぺの要求を拒絶し駆け落ちしてしまう。
 2年後、脚に悪性の腫瘍ができたトリスターナが舞い戻り、片足を切断。ドン・ロぺは彼女を引き取り神父の勧めで結婚するが、トリスターナはベッドを共にせず、老いたドン・ロぺが発作の夜、医者を呼ばずに故意に死なせてしまう。
 そうしてトリスターナの復讐は成し遂げられるが、やはり問題はドヌーヴの演技にあって、何に対して復讐したのか、そもそも邦題にあるトリスターナの哀しみの正体が見えてこない。
 ドン・ロぺの生首も『青髭』のように何度も象徴的に現れるが、夢の中ではシュールというほどでもなく、何となく脂の抜けたブニュエル作品を見させられているような気になる。 (評価:2)

シャーロック・ホームズの冒険

製作国:アメリカ
日本公開:1971年3月13日
監督:ビリー・ワイルダー 製作:I・A・L・ダイアモンド、ビリー・ワイルダー 脚本:I・A・L・ダイアモンド、ビリー・ワイルダー 撮影:クリス・チャリス 音楽:ミクロス・ローザ

癇​癪​持​ち​の​自​己​中​、​オ​タ​ク​な​ホ​ー​ム​ズ​が​見​ど​こ​ろ​だ​が​…
 原題は"The Private Life of Sherlock Holmes"で、コナン・ドイルの原作にはないオリジナル。
 遺言でワトソンの死後50年後に開けられた箱の中に収められた手記で、存命時に公表を憚られた事件簿という設定になっている。
 監督・脚本はビリー・ワイルダーで、オリジナルフィルムは4つのエピソードからなる4時間の大作だったが、公開時には2つのエピソードに削られた。そのためか、私生活と謳う割にはホームズの描き方にまとまりのない作品になっている。
 前半は、ロシアバレエのプリマに子種を求められ、ワトソンとゲイだと嘘をつくコミカルな話、後半はベルギー人妻の夫を捜索してネス湖に行くとネッシーが出現。実は国家機密に関係しているというエピソード。
 ホームズが癇癪持ちのジコチュー、オタク野郎と若干鼻もちならない人間に描かれていて、BBC版TVシリーズ『SHERLOCK (シャーロック)』に通じるものがある。前半はその設定が生きているために楽しめるが、ミステリーらしさを出した後半のエピソードが、国家機密・ネッシーと道具立てが通俗で凡庸な話の上にアクションがないので、すこぶる退屈。
 シャーロックにロバート・スティーブンス、ワトソンにコリン・ブレークリー。マイクロフトにクリストファー・リーが出演している。 (評価:2)

製作国:アメリカ
日本公開:1971年3月6日
監督:アーサー・ヒラー 製作:ハワード・ミンスキー 脚本:エリック・シーガル 撮影:リチャード・クラディナ 音楽:フランシス・レイ
ゴールデングローブ作品賞

病気のジェニーに同情してしまう自分が情けない
 原題は"Love Story"。ロマンチックな邦題とアカデミー作曲賞を受賞したフランシス・レイの曲が女性層にアピールし、日本の71年興行ベストワン。エリック・シーガルの同名小説が原作。
 40年前の話題作を初めて見た。当時映画好きは相手にしなかったが、フランシス・レイの曲とアンディ・ウイリアムスの歌が大ヒットした。
 名門ハーバードの学生で大金持ちのドラ息子とパン屋の女子大生の恋物語。おまけに彼女は白血病で死んでしまうとなれば、見なくても内容が想像できる。病気ものなら実話を基に映画化された『愛と死を見つめて』(1964)がすでにあったし、最近なら『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)が5番煎じくらい。白血病なら夏目雅子の実話が遥かに感動的。
 映画が始まって70年代的現代青年男女が皮肉を言い合う姿を見ていると、やはり駄作だったと後悔する。エリート学生二人が勉強もせずに理屈を並べながらいちゃいちゃしている姿は、頭でっかちなだけで空疎な当時の青春を思い出させ、観ていて辛い。
 父親と絶縁して苦学生となっても、結局はブルジョア息子とシンデレラに憧れる女の子の結婚ごっこ。出会った途端にfall in love、高貴な王子様、貧しい娘、身分違いの恋、親との確執、不治の病・・・と少女小説的設定がてんこ盛り。
 それでも後半、ジェニファーが白血病に倒れると思わず引き込まれてしまう自分が情けない。やはり病気恋愛ドラマは普遍ということか。ジェニファーの父、ジョン・マーレーがいい。
"Love means never having to say you're sorry."は「愛とは決して後悔しないこと」と訳されていて、フレーズとしてはお洒落だが、実際の場面では相手の"I'm sorry."を制して言うので、意味が合わない超訳。実際には「愛していればsorryなんて言葉はいらないよ」といった感じ。 (評価:2)

製作国:イタリア
日本公開:1971年4月17日
監督:マウロ・ボロニーニ 脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、マウロ・ボロニーニ、ルイジ・バッツォーニ 撮影:エンニオ・グァルニエリ 音楽:エンニオ・モリコーネ 
キネマ旬報:4位

所詮は鼻の下が長いだけの生温いヘタリア映画
 原題"Metello"で、主人公の名。ヴァスコ・プラトリーニの同名小説が原作。
 19世紀末のイタリアが舞台で、イタリア王国の下、近代資本主義による資本家と労働者の対立を背景に描く恋愛映画?
 赤ん坊の時に両親を亡くし親戚に育てられたメテロは、無政府主義者で革命家を父に持つ。成長して生まれ故郷のフィレンツェに戻ったメテロは、父の友人の無政府主義者の世話になり、煉瓦工として身を立て、新思想の社会主義に傾倒して階級闘争に参加・・・というように、これは階級闘争の作品なんだと思いきや、仕事中に知り合った未亡人と恋仲になったメテロは、彼女が結婚したのを知ると煉瓦工仲間の娘と結婚、さらには隣家の金持ち夫人と浮気するというように、階級闘争は時代背景でメテロの退屈な女性遍歴のドラマというのが本題という肩透かしを食らう。
 生れた子供にリベロ(自由)と名付けるが、これは父がメテロに付けたかった名で、誕生が投獄中だったために適わなかったという伏線がある。もっとも両親は赤ん坊の時に死んでいて、夫婦間のこの会話をどうして知ったのかが謎。
 それはともかくメテロに第二子が誕生することになると、女の子が生れたらヴィオラと名付けようと、昔の恋人の名を持ち出すあたり、メテロがろくでもない人間だという感想しか生まれない。
 資本家の搾取だとか、労働者の権利だとか、人はみな平等だとか言いいながら女を抑圧し、社会主義を堕落させている反革命分子はこういった連中なのだ、と描いているわけでもなく、所詮は鼻の下が長いだけの生温いヘタリア映画。 (評価:2)

ロールスロイスに銀の銃

製作国:アメリカ
日本公開:1971年11月27日
監督:オシー・デイヴィス 製作:サミュエル・ゴールドウィン・Jr 脚本:オシー・デイヴィス、アーノルド・パール 撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド 音楽:ガルト・マクダーモット

黒人向けに作られた内輪な作品性は否めない
 原題"Cotton Comes to Harlem"で、綿がハーレムにやってくるの意。チェスター・ハイムズの同名小説が原作。
 黒人向けに作られたコメディ映画で、黒人刑事2人組が主役。
 ハーレムの黒人指導者オマリー牧師(カルヴィン・ロックハート)は、アフリカ帰還船運動を主導し、希望者を募って出資金を集めている。これを貧乏な黒人から金を吸い上げる詐欺と疑うハーレム担当刑事のジョンソン(レイモン・サン・ジャック)とジョーンズ(ゴッドフリー・ケンブリッジ)が見ている目の前で、覆面集団が出資金を強奪。金の行方を追って黒人刑事2人組が捜査するという物語。
 オマリーの恋人アイリス(ジュディ・ペース)が全裸サービスをするという娯楽作で、金はハーレムには用のない綿花の梱包の中に隠されていたというのが原題の由来。
 しかし綿花の中は空っぽで、出資金が消えたと知れれば黒人たちの暴動が起きると刑事2人がマフィアのボスを説き伏せ、出させた金を綿花に入れて誤魔化す。
 肝腎の出資金は綿花を拾ったクズ屋のバド(レッド・フォックス)が持ち逃げしてアフリカに渡ったというオチだが、話としてはさほど面白くない。
 ハリウッド映画での画一的な黒人の描き方に対し、黒人内部にも権力対民衆、人種差別を利用して仲間を搾取する偽善者や悪者など、黒人社会に多様な要素が存在することを描いているが、黒人向けの内輪な作品性は否めない。 (評価:2)

トラ・トラ・トラ!

製作国:アメリカ、日本
日本公開:1970年9月25日
監督:リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二 製作:エルモ・ウィリアムズ 脚本:ラリー・フォレスター、菊島隆三、小国英雄 撮影:チャールズ・F・ホイーラー、姫田真左久、古谷伸、佐藤昌道 美術:村木与四郎、川島泰造 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

実機の飛行シーンは頑張っていて迫力もあるが…
 英題"Tora! Tora! Tora!"で、真珠湾攻撃の暗号「ワレ奇襲ニ成功セリ」のこと。
 真珠湾攻撃決定から12月8日までを日本側とアメリカ側の双方から描く。包囲網の中でアメリカとの開戦やむなしとなる日本、奇襲に備えながらも疑心暗鬼のままに後手を踏むアメリカの当時の事情が描かれるが、『忠臣蔵』と同じでメインイベントの討ち入りを待つだけの物語は正直退屈で冗長。
 戦争に至るドラマがあればまだしも、シナリオは段取りを踏むだけで、その退屈さを補うために本筋には関係のない幕間のコントが日米双方に入る。日本側コントは渥美清と松山英太郎だが、これをもって本作が如何に凡作であるかの証明ともなっているが、当初、日本側監督は黒澤明で、アメリカ側とのトラブル続きで制作が遅れ、病気を理由に途中解雇となった曰く付きの作品。
 黒澤が撮ればもう少しましな作品になったかどうかは神のみぞ知るが、兵役を忌避して翼賛映画を作った黒澤に、まともな史観のある戦争映画が撮れたかどうかは疑問。黒澤の尻拭いでピンチヒッターとなった舛田利雄、深作欣二にしても、撮り終わるだけで精いっぱいだった感はひしひしと伝わってくる。
 最大の見どころは実機を使った飛行シーンで、一部特撮もあるが、真珠湾攻撃のシーンは迫力十分。ただ、似たような芸のないシーンが続くために多少飽きる。地上すれすれの低空飛行もどうか?
 山本五十六の本当は開戦したくなかったというラストも言い訳臭くて白々しい。
 大作だが、大作にありがちな凡作で、合作だが、合作にありがちな総花作品、ということを証明してしまった残念な作品。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:ピーター・サスディ 製作:アレクサンダー・パール 脚本:ジェレミー・ポール 撮影:ケン・タルボット 音楽:ハリー・ロビンソン

イングリッド・ピットの萎んだ胸の特殊メイクが見たかった
 原題は"Countess Dracula"でドラキュラ伯爵夫人の意。邦題が示すようにB級感たっぷりのホラー映画だが、製作はハマーフィルム。
 17世紀のハンガリー王国で「血の伯爵夫人」と呼ばれたエリザベート・バートリの吸血鬼伝説がモデル。
 もっとも実話同様、映画の伯爵夫人も吸血鬼ではなく、若い娘を殺してその血を浴びて若返るというもの。皺くちゃオバサンが肌ツルツルになってしまう。
 物語は伯爵が死んで遺言を読み上げる場面から始まるが、厩舎を相続する伯爵の友人の息子に伯爵夫人が惚れて、オッサンの愛人から若いツバメに乗り換えようと若返りを図るお話。
 夫人には19歳の美人の娘がいて帰省するが、領地に入ったところで拉致されて、若返った夫人が娘に成りすましてツバメを騙すという寸法。特殊メイクの皺くちゃ夫人をイングリッド・ピット33歳が演じるが、色っぽくてどうしても19歳には見えない。それを娘だと信じ込むツバメが哀れというか、無理が有りすぎ。
 侍女、ジプシー女、娼婦と殺人を重ねるが、娼婦の血だけは肌に合わず若返れないというのがミソで、処女の血でなければならないという邦題の基になっている。伯爵夫人の魔術がばれて結婚式できっとこうなるという予想通りのことが起きるが、実物は幽閉されて生涯を終えている。
 B級らしくおっぱいが見えるシーンもあるが、イングリッド・ピットの萎んだ胸の特殊メイクを期待したが、なかったのが残念。
 B級でもそれなりに見どころはあるが、それが思いつかないのが本作が凡作たる所以。 (評価:2)

おしゃれキャット

製作国:アメリカ
日本公開:1972年3月11日
監督:ウォルフガング・ライザーマン 製作:ウォルフガング・ライザーマン、ウィンストン・ヒブラー 脚本:ラリー・クレモンズ、ヴァンス・ジェリー、フランク・トーマス、ジュリアス・スヴェンセン、ケン・アンダーソン、エリック・クレワース、ラルフ・ライト 音楽:ジョージ・ブランス

アニメの猫にもリラクゼーション効果があって眠りに誘われる
 原題"The Aristocats"で、aristocrat(貴族)のもじり。富豪婦人に飼われている貴族ぶった猫の一家が主人公。
 婦人が弁護士を呼んで遺言状を書かせているのを盗み聞きした執事のエドガーが、全財産が猫に相続されるのを知って、母猫と子猫3匹をパリ郊外に捨ててしまうというのが物語の発端。
 男気のある野良猫オマリーが捨て猫たちをパリに送り届けるまでの冒険譚がメインストーリーだが、ただそれだけの凡庸なストーリー。
 気位の高い母猫と可愛いキティたちを愛でるための愛玩動物アニメというのが、本作の最大にして唯一の眼目で、猫同士の意味のない会話がシナリオの穴埋めなら、あってもなくても良いエピソードもラストまでの時間繋ぎ。
 では猫好きのための作品かといえば、琴線に触れる猫の生態を描けているわけでもなく、イメージだけで作り上げた猫の可愛さを描いているだけで、話に中身がないと猫好きといえど飽きてくる。
 猫にはリラクゼーション効果があって、眠っている猫を眺めていると人間もつい眠りに誘われてしまうが、本作の猫たちにもリラクゼーション効果があるらしく、見ているうちに眠りに誘われてしまう。 (評価:2)

殺人捜査

製作国:イタリア
日本公開:1971年9月18日
監督:エリオ・ペトリ 製作:ダニエル・セナトーレ 脚本:ウーゴ・ピロ、エリオ・ペトリ 撮影:ルイジ・クヴェイレル 音楽:エンニオ・モリコーネ
アカデミー外国語映画賞

マゾ女の美貌とモリコーネの音楽くらいしか見どころを見い出せない
 原題"Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto"で、いかなる嫌疑も超える市民の捜査の意。
 口論から愛人(フロリンダ・ボルカン)を殺害した警察の殺人課長(ジャン・マリア・ヴォロンテ)が、数多くの証拠を残しながらも容疑者にはならず、自白さえもノイローゼと否定されてしまうという権力機構の傲慢を皮肉った社会派作品。
 ストーリー展開のためとはいえ、殺人現場で課長が手袋も嵌めずにグラスでワインを飲んだり、素手であちこち触るというのがシナリオ以前の問題で、課長の鶴の一言で愛人の元夫が逮捕され、指紋を始め証拠は課長のものばかりなのに、エリートだからと誰も疑わないという、ミステリーとしては出来の悪さばかりが目に付いて、途中で退屈する。
 整合性よりはドラマ優先という古いミステリーの典型で、たとえ課長が犯人でも警察機構のためには隠蔽するという結末。ならばもう少しドラマとしての描きようがあっただろうにと思うが、シナリオ・演出が舌足らずすぎて、マゾ女のフロリンダ・ボルカンの美貌とエンニオ・モリコーネの音楽くらいしか見どころを見い出せない。 (評価:2)

続・猿の惑星

製作国:アメリカ
日本公開:1970年8月29日
監督:テッド・ポスト 製作:アーサー・P・ジェイコブス 脚本:ール・デーン 撮影:ミルトン・クラスナー 音楽:レナード・ローゼンマン

今回は反核未来人もので、モーロックを連想させる
 原題"Beneath the Planet of the Apes"(猿の惑星の下で)。
 大ヒットした前作のストーリーを引き継ぐ続編で、こうした例にもれず作らなければよかったという作品。もっとも、これもヒットしてしまってさらに続編が作られることになる。
 前作ラストの映像から始まって、新たな宇宙船が猿の惑星に不時着する。しかし宇宙船は陸上にランディングした挙句に大破していて、どう考えても生存者がいるはずないのに一人だけ生き残る。
 さらによくわからないのが、この生き残りのブレント(ジェームズ・フランシスカス)と前作のテイラー(チャールトン・ヘストン)が知り合いで、偶然不時着したには出来すぎ、救助に来たにしてもなぜ消息が分かったのか不明で、しかも時間差がなさすぎ。
 そんな説明は無視して、テイラーとはぐれたヒューマンの美女と出会い、類人猿に捕まったり逃げたりを繰り返すという芸のない展開が続く。
 本作の肝は、無能化したヒューマンとは別に知能ある未来人が地下で生き残っていたという点で、今回は未来人もの。素顔はただれていて人間の仮面を被っているのだが、地下暮らしで仲間内しかいないのに、なんで仮面を被るのかも疑問。
 なんとなく『タイムマシン』のモーロックを連想させ、ヒューマンの美女もイーロイのウィーナと同じ。
 TVドラマの安っぽい未来人ものを見ている感じで、セットも安直。彼らの神は核ミサイルという、あまりに反核思想だけが突出したリアリティ無視の設定に白ける。
 未来人は必殺超能力を持っていて猿など相手にならないはずなのに、類人猿に簡単に地下帝国を滅ぼされてしまうという都合良いストーリーで、瀕死のテイラーによって地球は全滅という終末もの。
 艶人ジーラ(キム・ハンター)の活躍も少なく、見どころは半裸美女だけか。 (評価:1.5)