海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1968年

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1968年4月11日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:スタンリー・キューブリック 脚本:スタンリー・キューブリック、 アーサー・C・クラーク 撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
キネマ旬報:5位

CGでは表現できないSFX映像で見せる宗教的体験
 原題は"2001: A Space Odyssey"で2001年宇宙探査の意。Odysseyは探求といった意味で、ホメロスの放浪の旅の叙事詩オデッセイア(英語ではオデッセイ)が由来。
 これほど評価の難しい作品はない。全体は3部構成で、人類の夜明け(The Dawn of Man)、木星使節(Jupiter Mission)、木星 そして無限の宇宙の彼方へ(Jupiter and Beyond the Infinite)だが、第3部は哲学的というか、難解というか、どうとでも取ることができ、意味不明というか、正直よくわからない。本作は何度か観ているが、今もって釈然としない。
 本来ならこういった作品は評価に値しないのだが、それでも惹きつけてやまないものが本作にはあって、伝説の映画としての地位を確立している。
 第1部はR.シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」の導入部・日の出とともに始まり、太陽・月・地球が並ぶシーンは荘厳。太古の地球の美しい広野、モノリスに手を触れた猿人は道具を使う知恵、人類への進化の第一歩を踏み出す。一匹が大空に放り投げた骨は宇宙船に変わり、J.シュトラウスⅡの「美しき青きドナウ」の優雅な円舞曲へ。宇宙ステーションから月面基地、400年前に埋められたモノリスへ。
 第2部はそれから18か月後に木星に向かう探査船内。人工知能HAL9000ががミスを犯したことからボーマン船長らが不信を抱き、HALが反乱を起こす。木星探査の目的はHALだけに知らされた密命だった。
 第3部は木星の軌道上にあるモノリスと遭遇したボーマン船長が時空を超え、おそらくは宇宙の誕生からの歴史を瞬時に体験して不思議な白亜の部屋に到達する。部屋には食事をしている老人がいるが、ボーマンは急速に老いて、地球軌道上に浮かぶ胎児(スターチャイルド)となる。
 よくわからないのは第3部で、メタファーに満ちた映像はそれぞれが勝手に解釈できる。ただ、本作が秀れているのはメタファーを含む映像表現が言葉や論理を超えて感覚に訴えるからで、その神秘的な視覚の中で直観を得るという、まさしく宗教的体験を描いた映画といえる。
 直観的にいえば、ボーマンは知的生命体=神に導かれ、神そのものに転生した。第1部からを通せば、猿から進化した人類はモノリス=知的生命体=神の導きによって、神そのものに進化する、というのも一つの解釈。そうしたさまざまな解釈を許容することが、人を惹きつける大きな要素となっている。キューブリックとアーサー・C・クラークの共同脚本で、クラークによって小説も書かれた。
 本作がもう一つ評価されるのは、卓越した特撮技術で、今ならCGで簡単に作られる映像を合成やアニメーション、当時のCG、現像技術を駆使し、CGに見劣りしないどころかCGでは表現できない完成度の高い映像を実現している。宇宙船の窓に合成された人物の動きや無重力描写は、本作のSFXを語る際にはつとに有名。アカデミー賞特殊視覚効果賞を受賞している。 (評価:4.5)

製作国:イギリス、イタリア
日本公開:1968年11月23日
監督: フランコ・ゼフィレッリ 製作:ジョン・ブレイボーン、アンソニー・ヘイヴロック=アラン 脚本:フランコ・ゼフィレッリ、フランコ・ブルサーティ、マソリーノ・ダミコ 撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:2位

幼い暴走を止められなかった愚かな大人たちの物語
 原作はイタリア・ヴェローナを舞台にしたシェイクスピアの戯曲。何度か映画化されている中では、本作が有名。
 ロミオには当時18歳のレナード・ホワイティング、ジュリエットには17歳のオリヴィア・ハッセーが扮したが、本作の成功は10代の二人の起用が大きい。オリヴィア・ハッセーはアルゼンチン生まれの黒髪で目の大きなエキゾチックな清純派美少女で、公開当時、日本で人気となった。布施明との2度目の結婚が話題となったが、女優としてはパッとしなかった。
 オリヴィア・ハッセーがとにかく可愛く、この映画の最大の見どころ。改めて観ると胸も大きく、つい目がいってしまう。一瞬だが乳が映るシーンもある。
 二人は夜会で会ってひと目惚れし、翌日には結婚してしまう。直後にロミオは刃傷沙汰を起こして町を追放、愛のために自害する。悲恋としてよく知られた物語だが、何とも幼い。その幼さが、10代の二人を通してよく伝わる。
 これは愛し合う二人の悲恋物語ではなく、幼い二人の暴走を止められなかった、周囲の大人たちの愚かさの物語。堕落した大人社会は若者を不幸にするとこじつければ、半世紀前の映画も何やら現代性を帯びる。実際、ラストで領主は二人を死に追いやったのはヴェローナの諍いを許した大人たちだと言う。
 この物語の舞台となる14世紀のヴェローナは、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の二派に支配層が分かれ、熾烈な闘争を繰り広げた。
 ニノ・ロータの哀愁あふれる主題曲が、切なく胸を締めつける。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ジョージ・A・ロメロ 製作:ラッセル・ストライナー、カール・ハードマン 脚本:ジョン・A・ルッソ 撮影:ジョージ・A・ロメロ

良くできたシナリオのゾンビ映画の名作
 日本では劇場未公開のゾンビ映画の名作。原題は"Night of the Living Dead"で、「生ける死体の夜」の意。
 ゾンビ映画はホラーとしては微妙で、吸血鬼のような耽美もなく、人造人間のような哲学もない。怖いかといえば、大抵はコメディ並みに笑える。それからすれば、この映画はゾンビには珍しく怖い。墓場から始まり、ゾンビに追われた女が建物に逃げ込んで籠城する。そして、ここからがゾンビとの恐怖の戦いになるが、さまざまな仕掛けがあって、実は彼女が主人公ではない。これ以上は反則なので書かないが、この映画はシナリオが実によくできている。とりわけ映画のセオリーを外したラストシーンは秀逸。
 ゾンビになった原因は放射能で、ゴジラ同様、冷戦時代の核の恐怖を背景にしている。ゾンビもバラエティに富んで、棺桶に入れられた状況から、きちんとスーツを着た者、襤褸をまとった者、一部腐敗した者、そして一瞬だが全裸の女のゾンビも登場する。彼女は丸裸で埋められたのか? と楽しい想像もできる。
 この映画ではゾンビの言葉は使われない。ブードゥーのゾンビは全く違うものなので、リビングデッドの方が適切。
 人肉をフライドチキンのように食べるシーンがある。モノクロなので強烈さはないが、エグイことに変わりはないので、残虐シーンともども苦手な人は要注意。 (評価:3.5)

製作国:イタリア、アメリカ
日本公開:1969年10月4日
監督:セルジオ・レオーネ 製作:フルヴィオ・モルセラ 脚本:セルジオ・レオーネ、セルジオ・ドナティ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:エンニオ・モリコーネ

マカロニ風の芝居がかった演出がシュールな西部劇
 原題"C'era una volta il West"で、「昔々西部では」の意。
 西部開拓時代、ド田舎の駅にフランク(ヘンリー・フォンダ)に会いに来たハーモニカ男(チャールズ・ブロンソン)が降り立つ。しかし出迎えたのはフランクの子分3人で、すぐに撃ち合いとなって3人は全滅。続いて場面はマクベインの農場に移り、5人のならず者によって一家皆殺し。
 静けさの中に緊迫感の漂うここまでのシークエンスが無茶苦茶カッコよく、しかもスーパードライ。セルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタンの真骨頂に痺れる。
 そこにやってくるのがマクベインとニューオリンズで結婚式を挙げたばかりの後妻ジル(クラウディア・カルディナーレ)で、役者が揃う。
 物語は、鉄道駅ができるのを見越して手に入れたマクベインの土地を鉄道局の役人モートン(ガブリエル・フェルゼッティ)がフランクを使って横取りしようとする利権争いで、マクベイン一家殺しの濡れ衣を着せられた山賊シャイアン(ジェイソン・ロバーズ)と組んだハーモニカ男がモートンの陰謀を阻止する。
 ハーモニカ男がなぜフランクに会いに来たのかというのがもう一つの謎で、最後の決闘で明らかになる。
 砂漠の鉄路にオープンセットの駅を造り列車を走らせるという金の掛かった作品で、従来の西部劇にはない酒場のセットなど、贅沢なマカロニ・ウエスタンを存分に楽しめる。
 マカロニ風にカッコをつける芝居がかった演出も、シュールでいい。 (評価:3)

製作国:イギリス
日本公開:1968年10月5日
監督:キャロル・リード 脚本:ヴァーノン・ハリス 撮影:オズワルド・モリス 美術:テレンス・マーシュ 音楽:ジョン・グリーン、ライオネル・バート
アカデミー作品賞

スケール感のあるオープンセットと群舞が見どころ
 原題"Oliver!"で、主人公の名。チャールズ・ディケンズの"Oliver Twist"が原作のミュージカル。
 孤児院から追放されて葬儀屋に売られたオリバーが、逃げ出してロンドンでちびっこスリ集団の仲間になり、捕まった相手が祖父で、家に引き取られるものの、窃盗団のボスが秘密がバレるのを怖れて誘拐、その情婦がオリバーを祖父に帰そうとして事件となるという物語。
 オリバーを演じるのがマーク・レスターで、立っているだけで健気で薄幸の美少年が絵になる。相棒となるジャック・ワイルドともども歌は上手くはないが、それがまたナチュラル。
 冒頭の孤児院での食事の合唱シーンは平板だが、孤児院を出てからはキャロル・リードの演出とカメラワークが冴える。
 とりわけ前半のロンドン繁華街での群舞と後半のペントンヴィルの広場での群舞はスケール感のある大きな見どころ。アカデミー美術監督賞・装置賞受賞の大掛かりなセットも見どころの一つで、イーストエンドのスラム街のリアルなセットも見逃せない。
 ちびっこスリ集団の元締めにロン・ムーディー、窃盗団のボスにオリヴァー・リード、情婦にシャニ・ウォリスと可愛らしいマーク・レスターの周りを固める俳優陣もいい。
 劇中歌の"Consider Yourself"、"Oom-Pah Pah"は、日本ではペギー葉山が歌った。 (評価:3)

製作国:アメリカ
日本公開:1969年1月11日
監督:ロマン・ポランスキー 製作:ウィリアム・キャッスル 脚本:ロマン・ポランスキー 撮影:ウィリアム・フレイカー 音楽:クリストファー・コメダ
キネマ旬報:5位

NYに悪魔が棲む。ポランスキーのホラー映画の名作
 原題は"Rosemary's Baby"。アイラ・レヴィンの同名小説が原作。ローズマリーは主人公の若妻の名前。ロマン・ポランスキーのホラー映画の名作。
 ニューヨークの邪教集団の棲み処となっているアパートに引っ越してきた若夫婦の妻がサタンの子を孕んでしまうとい物語で、因縁深いのは翌年、ポランスキーの妻で妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートが惨殺されたこと。
 外観を撮影に使われたダコタ・ハウスは、後年ジョン・レノンとオノ・ヨーコが住んだが、玄関前でレノンが射殺された。
 ローズマリー役はミア・ファローで、妊娠するまではえらく可愛い。つわりがひどくなるとやつれていくが、精神的にもおかしくなっていく若妻を好演している。
 本作の面白さは、因縁のあるアパートに若夫婦が引っ越し、夫が悪魔(英語ではwitch)と契約をしたのではないか? ローズマリーはサタンに犯されたのではないか? 生まれてくる赤ん坊は悪魔の儀式の生贄になるのではないか? ということが、真実なのかはたまたローズマリーの妄想なのかわからず、サイコホラー的な話にも見えること。その結果はラストで描かれるが、もうひとつ意外な結末が用意されている。
 何度見ても、そのたびにゾクゾクする。 (評価:3)

製作国:イギリス
日本公開:1970年2月4日
監督:アンソニー・ハーヴェイ 製作:マーティン・ポール 脚本:ジェームズ・ゴールドマン 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ジョン・バリー
キネマ旬報:8位
ゴールデングローブ作品賞

P・オトゥールとK・ヘプバーンの狐と狸の化かし合いが見どころ
 原題"The Lion in Winter"。ジェームズ・ゴールドマンの同名の戯曲が原作。
 イングランド国王ヘンリー2世と王妃エレノアの確執を描く舞台劇で、この二人を演じるピーター・オトゥールとキャサリン・ヘプバーンの名演が最大の見どころ。ピーター・オトゥールはゴールデングローブの主演男優賞、キャサリン・ヘプバーンはアカデミーの主演女優賞に選ばれている。
 1183年クリスマス、ソールズベリーに幽閉されているエレノアが、年1回束縛を解かれて、家族とともにクリスマスを過ごすためにフランスのシノン城にやってくるところから物語は始まる。
 エレノアがフランスの大領主で、前夫のフランス王ルイ6世とともに十字軍遠征に参加した女傑であることなど、歴史的背景が複雑でわかりにくい作品だが、徐々に関係が説明されて、王妃と3人の王子が領地や国王の座を巡って、骨肉の争いを演じていることがわかってくる。
 タイトルのライオンはヘンリー2世のことで、イングランド・フランスに跨る王国を支配する豪傑であるだけでなく、獅子千尋の谷を地で行く父親で、3人の王子が実力で父の国王の座を奪うことを望んでいる。
 王妃とも策略をもって互いに相手を陥れるという関係で、二人は王子たちを利用して丁々発止の争いを演じる。
 結局のところ、母に愛され王に相応しい勇猛なリチャード(アンソニー・ホプキンス)、父王に愛され従順なジョン、両親の愛を知らず権謀術数に長けたジェフリーの3人が、王位継承をめぐってそれぞれが母の甥のフランス王フィリップ2世の応援を頼んだがために、陰謀が父にばれてしまい、エレノアを含めて全員が幽閉されてしまうという結末を迎える。
 作品そのものは舞台劇として作られていて史実とは異なるが、家族の愛と信頼のすべてを失ってしまう孤独な王=冬のライオンを描く家族の物語なのだが、ピーター・オトゥールとキャサリン・ヘプバーンの演じる狐と狸の化かし合いが凄すぎて、悲しい父王の悲哀を凌駕してしまう。
 化かし合いと権謀術数こそが二人にとっての生き甲斐で、この二人の理想の夫婦像、愛情表現だったのではないかと思わせる。結局のところ、化かし合いはヘンリー2世の勝利に終わるが、二人の会話は虚実入り乱れて、どれが本心だったのかわからない。
 ラストは、跡継ぎの王子3人を見限ったヘンリー2世が、リチャードの婚約者で、愛人にしているフランス王女アリースと結婚し、替わりの王子を得ようと考えるが、最大の敵は時間となる。
 実際、歴史的にはヘンリー2世の死によって王妃と王子たちは戦いに勝つことになるが、本作はあくまで冬のライオンの孤独な物語として終わる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1968年8月17日
監督:シドニー・ルメット 製作:エリー・ランドー 脚本:デヴィッド・フリードキン、モートン・ファイン 撮影:ボリス・カウフマン 音楽:クインシー・ジョーンズ
キネマ旬報:3位

ホロコースト同様に作品そのものに感情と人間性が感じられない
 原題"The Pawnbroker"で、質屋の意。エドワード・ルイス・ウォーラントの同名小説が原作。
 ナチの強制収容所から生き延びた、元大学教授で今はニューヨークのスラム街で質屋を営んでいるユダヤ人、ソル(ロッド・スタイガー)が主人公。妻子を失い、感情をなくし、固く心を閉ざして、妹の家族と一緒に暮らしている。
 店には新入り店員のプエルトリコ人の若者がいて、将来独立するためにソルから質屋の経営について学んでいる。金以外に信じるもののないソルは、面倒を見ている親友の父から生きる屍と非難されるが、その父が死んで物語は急展開する。
 人が変わったように質草を運ぶ人々に気前よく金を貸し、過去のフラッシュバックに悩まされるようになって憔悴。心配する店員に辛く当たったのをきっかけに、店員が不良仲間に強盗を働かせるが、ソルを守ったために銃殺されてしまう。
 店員の犠牲愛にようやく悲しみの感情を取り戻したソルが、人間性を回復して街を彷徨うシーンで終わる。
 ホロコーストをテーマにしているが、物語は相当に説明不足で、ディケンズの『クリスマス・キャロル』に雰囲気だけホロコーストを被せて社会派を気取っている印象。
 ソルの過去をフラシュバックで見せるが、短かすぎて何のシーンなのかよくわからない。質屋に資金援助している街のボス、黒人のロドリゲスが登場するが、そもそもどういうきっかけでソルと手を組むことになったのか、資金援助する理由もよくわからない。質屋を隠れ蓑に管理売春をしているという話が出てくるが、ソルに金を渡す代わりに書類にサインさせていてマネーロンダリングをしているということなのか?
 親友の父が死んで人が変わる理由もわからず、社会福祉事業家の女の立ち位置もよくわからず、ユダヤ人、金貸し、ホロコースト、人種差別といった記号だけで社会派作品に仕立てた感が強く、ソル同様に作品そのものに感情と人間性が感じられない。 (評価:2.5)

チキ・チキ・バン・バン

製作国:イギリス
日本公開:1968年12月21日
監督:ケン・ヒューズ 製作:アルバート・R・ブロッコリ 脚本:ロアルド・ダール、ケン・ヒューズ 撮影:クリストファー・チャリス 音楽:リチャード・M・シャーマン、ロバート・M・シャーマン

ボンドカー並みの車と子供たちの歌が幸せな気分にする
 原題は"Chitty Chitty Bang Bang"で、劇中に登場する自動車の名前。走る時のエンジン音を擬音化したもので、発音はチティチティバンバン。ミュージカルで、主題歌がヒットした。原作は『007』のイアン・フレミングの童話。
 20世紀初頭、自動車のグランプリレースで優勝しながら炎上したポンコツが廃車されることになり、それを引き取った発明家が新車同然に蘇らせる。二人の子供、菓子会社の社長令嬢とともにドライブに行き、そこで見かけた汽船から夢物語が始まり、水陸両用、飛行機となって空を飛ぶ。チティチティバンバンを欲しがる汽船のスパイ、誘拐された発明家の父を巻き込んで、舞台は外国にある悪い男爵の城内へ。男爵を懲らしめて夢物語は終わるが、その後にもう一つの夢物語が待っている。
 物語はよくあるおとぎ話。それほど面白くないが、最後はヘリコプターにまでなってしまう車が本作の見どころにして主役。『007』のボンドカーを思わせるスーパーメカぶりが楽しい。
 もうひとりの主役は発明家の二人の子供で、一家が車に乗って主題歌を歌うシーンが底抜けに陽気で楽しく、何度見ても幸せな気分になれる。
 脚本にはロアルド・ダールも参加している。 (評価:2.5)

ファニー・ガール

製作国:アメリカ
日本公開:1969年2月1日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:レイ・スターク 脚本:イソベル・レナート 撮影:ハリー・ストラドリング 音楽:ウォルター・シャーフ

ギャンブラーと勝利の女神の悲しい恋の物語
 原題"Funny Girl"で、可笑しな女の意。喜劇舞台女優ファニー・ブライス(Fanny Brice)の同名の半自伝的ミュージカルの映画化で、名前のFannyとFunny(可笑しな)を引っかけたタイトル。ファニー役をバーブラ・ストライサンドが演じ、アカデミー主演女優賞を受賞した。
 美人でないファニーにギャンブラーのニック(オマー・シャリフ)がFunnyな才能を直感するというのが発端で、見事賭けに当ったニックはFannyと結婚。ファニーはスター女優となり、ニックもファニーを勝利の女神としてギャンブルに連戦連勝するものの、石油掘りで失敗。ツキに見放され、詐欺で収監されるまでに転落する。
 それでも愛し合う二人は出獄後にやり直しの結婚生活に戻るかと思いきや、ニックにとっての勝利の女神ではなくなったことを悟ったファニーは、ニックのために離婚して再スタートを切らせるという悲しい恋の物語。
 本作が喜劇として楽しめるのは二人が結婚するまでで、意図せずに観客を笑わせるファニーをバーブラ・ストライサンドが好演する。しかし終盤は悲劇に向って物語が進むためシリアスな展開となり、前半のミュージカルな部分はなくなってドラマチックになってしまうのがミュージカルとしては不満なところ。
   喜劇役者こそ悲劇の主人公という古典的パターンの作品だが、悲劇であっても悲劇ではないという終わり方で、心に浸みるラストシーンとなっている。
 歌も演技もほとんどバーブラ・ストライサンドに尽きるといってよい作品だが、彼女を有頂天にさせ翻弄するオマー・シャリフの二枚目ぶりも板について、スケコマシからダメ男まで、バーブラ・ストライサンドの演技を支えている。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1969年8月2日
監督:リンゼイ・アンダーソン 製作:マイケル・メドウィン、リンゼイ・アンダーソン 脚本:デヴィッド・シャーウィン 撮影:ミロスラフ・オンドリチェク
キネマ旬報:3位
カンヌ映画祭グランプリ

若者たちの反乱の時代を妄想で描くがシナリオは生硬
 原題"if...."。
 脚本のデヴィッド・シャーウィンのケント州にあるパブリックスクール、トンブリッジスクールでの体験を基に描かれたもので、上級生による下級生への理不尽な苛めや体罰、同性愛の蔓延る寄宿学校の実態を白日に晒すと共に、制作当時の時代風潮であった反権力・反体制・レジスタンスといった、無批判な伝統や保守主義に対する若者からの異議申し立ての作品になっている。
 ストーリーそのものは、現実と妄想とが綯い交ぜになっていて、カラー映像とモノクロ映像もまた綯い交ぜで、おそらくはカラーが"if"、すなわちシャーウィンがやろうとして出来なかった妄想シーンなのだが、見ていても判然とせずわかりにくい。
 妄想の中ではマルコム・マクダウェル演じるミックたち不良は、少しだけ髪を伸ばし、酒や煙草を飲み、町に女の子を引っ掛けに行く。そうした彼らを監督生たちが許すわけもなく、鞭打ちの教育を受けることになるが、一方で校長は理解のあるふりをする偽善的な大人の代表。
 ついに爆発したミックたちは、地下室から軍事教練の武器・弾薬を持ち出し、PTAだけでなく王族や同窓生の将軍も招いた開校500年の記念式典で火事騒ぎを起こし、校庭に逃げ出した大人たちに銃弾の雨を浴びせる。
 シナリオはいささか生硬なのだが、寄宿学校の前時代的な伝統・習慣・閉鎖性を描いて興味深い。若者たちの反乱の時代も手伝って、カンヌ映画祭グランプリを受賞している。 (評価:2.5)

猿の惑星

製作国:アメリカ
日本公開:1968年4月13日
監督:フランクリン・J・シャフナー 製作:アーサー・P・ジェイコブス、モート・エイブラハムズ 脚本:ロッド・サーリング、マイケル・ウィルソン 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス 特殊メイク:ジョン・チェンバース

猿でありながら色っぽい演技をするキム・ハンター
 原題"Planet of the Apes"、apeは類人猿のこと。ピエール・ブールのフランスのSF小説"La Planète des singes"(猿の惑星)が原作。
 アインシュタインの相対性原理を確かめるために、ケネディ宇宙センターを出発した宇宙船が準光速航行をするという設定。飛行士たちが冷凍睡眠から覚めると未知の星の湖に不時着。女性飛行士はカプセルの空気漏れでミイラ化している。
 脱出した3人は言葉をなくして野生化したヒューマンの一群と遭遇するが、星を支配する知能の高い類人猿に攻撃され捕縛される。
 ここからいくつかのテーマが語られるが、一つはダーウィンの進化論で、映画公開当時アメリカでは保守的な学校で神学的理由から進化論を否定していた。作中ではヒューマンと類人猿の立場が逆転していて、類人猿の祖先がヒューマンなのではないかと進化論を唱える科学者たちが、反宗教的だと攻撃される。祖先がヒューマンでは猿の尊厳にかかわるという、保守派への皮肉。
 もう一つは人間が地球を滅ぼすという文明論で、ヒューマンは野獣と呼ばれていて、星の過去に関係している。その教訓を伝承するのが類人猿の聖書で、禁断の地の遺跡発掘調査で明らかになる過去は封殺され、生き延びた飛行士(チャールトン・ヘストン)はイブとなるべきヒューマンの美女とともに類人猿の地を去る。
 海岸の砂浜に顔を出している自由の女神像という衝撃的なラストシーンで映画は終わるが、半世紀経つと科学設定の粗が気になる。
 二千年の経過は地質学や生物学的には非常に短い時間で、遡ればキリスト誕生の頃の時代でしかない。様変わりした地形変化や類人猿の生物進化はありえないわけで、SFとしては今一つの内容。
 ただ類人猿の特殊メイクは公開時も話題になり、映画的には着ぐるみからの大きな転換点となって、その後の映画での特殊メイクの発展に寄与した作品。猿でありながら色っぽい演技をする女性科学者のキム・ハンターも見どころ。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1969年9月6日
監督:フランク・ペリー 製作:フランク・ペリー、ロジャー・ルイス 脚本:エレノア・ペリー 撮影:デヴィッド・L・クエイド、マイケル・ネビア 音楽:マーヴィン・ハムリッシュ
キネマ旬報:6位

なぜ海パン一丁なのかという点を問うてはならない
 原題"The Swimmer"。ジョン・チーヴァーの同名短編小説が原作。
 バート・ランカスターが森の道を海パン一丁で現れ、高級住宅街の友人の邸のプールにやってくるというのがオープニング。自宅まで、友人の邸のプールを泳ぎ渡りながら帰るという台詞から奇異な設定のドラマであることがわかるが、渡り歩くうちに主人公の人物像が少しずつ明かされ、最初は好意的な友人たちが次第にそうではなくなってくるところで、これが主人公の人生行路の物語、つまり彼が人生を泳いできた過程を物語る作品だということがわかる。
 かつてこの高級住宅街の一員だった彼は、今は無一文となって妻と娘にも逃げられ、社交界からも離れている。奢侈な生活と女遊びを繰り返していた彼に対し、遠くの友は優しいが、家が近づくにつれて近しい人々は嫌悪を抱く。専業主婦の妻は社会運動に精出すスノッブ女で、娘たちは堕落している。
 俗悪な上流階級をシニカルに描くという70年前後のニューシネマで、当時としては批判精神にあふれていたが今となっては、観念的な設定と描写を含めて上滑り感は免れない。
 当初、青々とした緑と眩い光を反射するプールの水が、次第に秋景色に移ろい光を失っていく情景、バート・ランカスターの若々しい肉体が次第に精気を失っていく映像など、当時のニューシネマらしさが鑑賞できるが、男が何処からやってきたのか? なぜ海パン一丁なのかという点を問うてはならない。 (評価:2.5)

囚われの女

製作国:フランス、イタリア
日本公開:劇場未公開
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 製作:ロベール・ドルフマン 脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、モニク・ランジェ、マルセル・ムーシー 撮影:アンドレア・ウィンディング 美術:ジャック・ソルニエ

カウンターカルチャーを風刺して引退するA.J.クルーゾー
 原題"La Prisonnière"で、拘束された人の意。
 アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの前半は変態映画と見紛う恋愛作品。
 内容もさること、現代美術界を舞台にした視覚的な現代アートが多数登場し、舞台セットや倒錯的なシーンを含めてアバンギャルドな映像効果を駆使した作品となっているのが最大の特色。
 こうした目眩ましに騙されて、SMを描いた変態作品と思うと大間違いで、恋愛における究極の愛の姿を追究する。
 現代芸術家のジルベール(ベルナール・フレッソン)とジョゼ(エリザベート・ウィネル)は私生活において互いを束縛せず自由を尊重するという、当時流行りの現代的な夫婦。唯一の約束事は秘密を持たず嘘をつかずにすべてを相手に話すというもの。
 その2人の関係に亀裂を生じさせるのが画商で友人のスタン(ローラン・テルジェフ)で、ジョゼに女のマゾ写真を見せ、女を精神的に服従させ、その写真を撮るのが趣味だと打ち明ける。
 きっかけはTV局に勤めるジョゼがサド男の被害に遭った女がマゾの快感から逃れられなくなるというドキュメンタリー番組を手がけたことで、その心理が理解できないジョゼがスタンの誘いに乗って、自らも「囚われの女」になってしまうというもの。
 2人の関係を知ったジルベールが不干渉の約束を破り家を出てしまう。不能が原因で恋愛を拒絶していたスタンは、意に反してジョゼを愛してしまい、自らも「囚われの男」となってしまう。
 愛とは互いに相手を精神的に拘束するものというのが結論で、ジョゼがスタンの言いなりになるのも愛すればこそ。  スタンは恋愛同様に芸術もビジネスで精神性を否定している世捨て人だったが、ジョゼを愛してしまったことでクールであることのアイデンティティに葛藤、死を望むがそれも果たせない。
 ジョゼは鉄道事故に遭い生死を彷徨うが、うわ言にスタンの名を口にしたのを聞いたジルベールが静かにICUを去るというラスト。
 芸術や性愛についてアバンギャルドな人々、当時のカウンターカルチャーを風刺するアンリ=ジョルジュ・クルーゾーらしい作品で、本作を最後に引退してしまう。 (評価:2.5)

華麗なる賭け

製作国:アメリカ
日本公開:1968年6月28日
監督:ノーマン・ジュイソン 製作:ノーマン・ジュイソン 脚本:アラン・R・トラストマン 撮影:ハスケル・ウェクスラー 音楽:ミシェル・ルグラン

1960年代の庶民の憧れを描くファンタジー映画
 原題"The Thomas Crown Affair"で、トーマス・クラウン事件の意。
 大富豪のトーマス・クラウン(スティーブ・マックイーン)が、ちょっとしたスリルから配下を雇って銀行強盗をし、保険調査員のビッキー(フェイ・ダナウェイ)が事件を捜査するというサスペンス。もっともサスペンスに関しては、クラウンの写真を見たビッキーが勘で犯人だと特定する見込み捜査で、相当に杜撰。
 その後は単身接近してキスする仲となり、あとはラブ・ストーリーになってしまう、どこがサスペンスという内容で、シナリオ的には凡庸か、それ以下でしかない。
 そもそも本作の狙いは、フェイ・ダナウェイの美貌とスティーブ・マックイーンのカッコ良さを100%描き切ることにあって、シーンごとに衣装を変えるダナウェイのファッションショー、高級車を次々乗り回すマックイーンのドライブテクニックを堪能するために作られたオシャレ系映画。
 その点では、最後はロールスロイスまで登場するモーターショーから高級ホテルや邸宅、スイス銀行、海辺のリゾートなど大道具からシチュエーションに至るまで、どのシーンをとってもハイソなグラビア雑誌風。
 メルヘンな王子様とお姫様の豪勢な生活とゲーム感覚のサスペンスごっこを楽しむようにできていて、1960年代の庶民の憧れを描くファンタジー映画となっている。
 「風のささやき」がアカデミー歌曲賞受賞。マルチスクリーンの映像編集もオシャレ。 (評価:2.5)

奴らを高く吊るせ!

製作国:アメリカ
日本公開:1968年5月31日
監督:テッド・ポスト 製作:レナード・フリーマン 脚本:レナード・フリーマン、メル・ゴールドバーグ 撮影:レナード・サウス、リチャード・クライン 音楽:ドミニク・フロンティア 

妙に新鮮な気持ちになれる人権重視の西部劇
 原題"Hang 'Em High"で、邦題の意。クリント・イーストウッド主演の西部劇。
 知らずに牛泥棒から牛を買ってしまったイーストウッドが元大尉(エド・ベグリー)ら討伐隊9人のリンチで縛り首に遇い、それを助けた保安官(ベン・ジョンソン)と判事(パット・ヒングル)によって、9人を逮捕するためにオクラホマ準州の保安官になる。
 判事は9人を生きたまま連れて来いと言うが、イーストウッドの西部劇でそうなるわけがないのは承知。6人が死亡し、1人が自首。
 この間、夫を殺されレイプされた未亡人(インガー・スティーヴンス)と懇ろになるが、ヒーローに花を添えるハリウッドらしいエピソードが退屈。娼婦とのベッドシーンもあって、茹ですぎたマカロニウエスタンのよう。
 自首した男の処遇を巡り、イーストウッドが判事のやっているのは法の下のリンチで公正さに欠くと非難し、残りの2人に法の裁きを受けさせるために出掛けるというラスト。
 イーストウッドの復讐も完了せず、未亡人の仇敵もほったらかしで、え?という幕切れだが、復讐するは我にあり、リンチはダメよ、法の下の正当な裁きをするべしという順法精神がテーマとなっている。未亡人に対しても、相手が死んでるかもしれないのにいつまでも復讐のために生きるのか?と諭し、イーストウッド自身の復讐もあくまでリンチを行ったことに対する法の裁きが目的で、イーストウッドらしからぬラスト。
 人権重視の西部劇に、それはそれで有りかと、妙に新鮮な気持ちになれる。 (評価:2.5)

かわいい毒草

製作国:アメリカ
日本公開:1968年10月22日
監督:ノエル・ブラック 製作:マーシャル・バックラー、ノエル・ブラック 脚本:ロレンツォ・センプル・Jr 撮影:デヴィッド・クエイド 音楽:ジョニー・マンデル

毒婦に大変身する女子高生25歳が妙に色っぽい
 原題"Pretty Poison"で、きれいな毒の意。ステファン・ジェラーの小説"She Let Him Continue"が原作。
 少年の時に放火で叔母を焼死させ、矯正施設に入れられていた空想癖のある青年(アンソニー・パーキンス)が出所。町工場で働き始めるが、工場が廃液を川に垂れ流しているのを見て、義憤に駆られて工場内を盗み撮りする。
 一方、町で見初めた女子高生(チューズデイ・ウェルド)に恋し、自らをCIA諜報員と思わせてパートナーに引き入れるが、破壊工作中に警備員に見つかり少女が殺害、拳銃を奪う。可憐だったはずの少女が毒婦に大変身。あとは原作タイトル通りに青年が少女に引きずり回される展開になる。
 小煩いママ(ビヴァリー・ガーランド)も実は少女が淫蕩なのが理由。銃でママを殺し罪を青年に着せ、青年は空想を自由に羽ばたかせられる安住の地・刑務所を望む。少女は次のターゲットに向かって物語は終わるが、ストーリー的には今一つ間が抜けていて締まらない。
 「きれいな花には棘がある」どころか、少女そのものが「きれいな毒」というのがタイトルの由来。工場で製造しているものが何なのかよくわからないが、瓶に入ったきれいな液体で、これも公害を垂れ流す「きれいな毒」。
 話の中心が少女の毒婦ぶりにあるので、環境がテーマというほどでもなく、サスペンスとしてもB級感は否めないが、チューズデイ・ウェルドの女子高生25歳が妙に色っぽい。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1970年4月11日
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ 音楽:エンニオ・モリコーネ
キネマ旬報:6位

1968年の思想・政治運動の混迷を絵に描いたような作品
 原題"Teorema"で、定理の意。
 ミラノ郊外の工場経営者の邸宅に、ある日突然一人の男が訪れたことにより家族が崩壊。経営者は工場を労働者に譲ってしまうという、シュールなのか風刺なのかよくわからない作品。
 倒置法で、会社を労働者に譲った経営者がマスコミにインタビューを受けている場面から始まる。この中で、ブルジョワがブルジョワであることをやめ、プロレタリアがプチブル化すると、プロレタリアがいなくなってみんなブルジョワになるという定理が提示される。
 訪問者(テレンス・スタンプ)の洗礼を受けるのは、工場主(マッシモ・ジロッティ)、妻(シルヴァーナ・マンガーノ)、娘(アンヌ・ヴィアゼムスキー)、息子(アレドレ・ホセ・クルス)、家政婦(ラウラ・ベッティ)で、それぞれが精神的に解放され、同性愛や性欲に対して自由になる。妻は車で若い男を漁り、恥じてガス自殺を図った家政婦は故郷に帰り、奇跡を起こす聖女となる。
 最後に工場主が工場を訪れてプロローグに結び付くが、共産主義的な定理を含めて正直理解不能で、1968年の思想・政治運動の影響と混迷を絵に描いたような作品になっている。 (評価:2)

モード家の一夜

製作国:フランス
日本公開:1988年11月23日
監督:エリック・ロメール 製作:ピエール・コトレル、バーベット・シュローダー 脚本:エリック・ロメール 撮影:ネストール・アルメンドロス 音楽:ウォルフガング・モーツァルト

話は退屈だがクレルモンには行ってみたくなる
 原題"Ma nuit chez Maud"で、モード家での私の一夜の意。連作「六つの教訓話」第3作。
 フランスの地方都市クレルモンが舞台。クレルモンは古代ローマ期からの都市。『パンセ』など度々引用されるパスカルはクレルモン出身で、主人公が勤めるタイヤメーカー、ミシュランの本社がある。遠景に映る尖塔は、巡礼路として世界遺産に登録されているノートルダム=デュ=ポール寺院。
 主人公は海外赴任から戻ったばかりで、敬虔なカトリック信者というクレルモンに相応しい設定。ミサで美しい金髪娘フランソワーズ(マリー・クリスティーヌ・バロー)に出会い、自転車で彼女を車でストーカーして古い街並みを紹介するという観光案内もある。
 物語自体は、そんな主人公が友人にシングルマザーで無神論者の女医モードを紹介され、誘惑されて一夜を過ごすというもので、宗教的道徳観からその場を回避。翌朝彼女の怒りを買うが、帰り道にフランソワーズに出会い、彼女を送るものの大雪で彼女の家に泊まらざるを得ず、今度はフランソワーズと一夜を過ごす。
 互いに敬虔なカトリック信者なので、彼女の存在は気になりつつも何事も起きない。
 二人は結婚し、5年後、子供と行ったビーチでモードと再会。彼女の離婚の原因となった夫の愛人がフランソワーズだったというオチ。
 カトリックと道徳がテーマで、日本人にとってはどうでもいい話だが、クレルモンには行ってみたくなる。 (評価:2)

サンダーバード6号

製作国:イギリス
日本公開:1968年8月3日
監督:デヴィッド・レイン 製作:シルヴィア・アンダーソン 脚本:ジェリー・アンダーソン、シルヴィア・アンダーソン 撮影:ハリー・オークス 音楽:バリー・グレイ

世界一周と複葉機が売りというのはサンダーバードか?
 TVシリーズ"Thunderbirds"(1965-66)の劇場用第2作。映画の原題は"Tunderbird 6"。前作の失敗に懲りずに作って再び失敗したSF特撮人形劇。もっとも、飛行シーンは本物の複葉機やラジコン飛行機が使われており、実写シーンがかなり多い。その部分は、評価の割れるところかもしれない。
 物語は反重力動力の飛行船スカイシップ1号の処女航海にペネロープ、パーカー、アラン、ミンミンが乗り込むが、乗組員にすり替わったブラックファントムが陰謀を企てる。処女航海は世界一周旅行という豪勢なもので、実写映像ともども世界旅行が楽しめるという趣向。危機はラストに集中するという、のんびり長期休暇の物語。
 劇中、アランがミンミンとの結婚について、国際救助隊員は結婚生活を営む暇がないので無理だというが、全く矛盾したストーリーとなっていて、世界旅行中、アランたちはアルプスでのスキーも楽しんじゃったりする。
 そういう突っ込みどころの多いシナリオだが、基本は映画なんだから豪勢に作って豪勢に楽しませようという姿勢は見える。海外旅行が夢だった時代が偲ばれ、『八十日間世界一周』『兼高かおる世界の旅』を思い出す。
 ストーリーは前作よりはましだが、空撮シーンなどの実写に金をかけた分、特撮シーンは前作に比べかなりレベルダウン。複葉機のシーンが映像的な売りというのも違う気がするし、新メカ・サンダーバード6号を含め、サンダーバード・ファンには期待外れかもしれない。 (評価:2)

宇宙大征服

製作国:アメリカ
日本公開:1969年1月3日
監督:ロバート・アルトマン 脚本:ロリング・マンデル 撮影:ウィリアム・W・スペンサー 音楽:レナード・ローゼンマン

ドキュメンタリーのようでいて生々しさに欠ける
 原題"Countdown"で、秒読みの意。ハンク・サールズの小説"The Pilgrim Project"が原作。
 米ソの有人月面着陸競争を描くもので、国家の威信のために人命が使い捨てられる愚かさがテーマ。
 アメリカの月面への有人飛行計画、アポロ計画の進行中に、ソ連が先駆けて月への有人着陸を4週間以内に計画していることが判明したという設定で、アメリカは月面着陸第1号の栄誉を獲得するために国家の威信をかけて急遽、ピルグリム・プロジェクトをスタートさせる。
 プロジェクトは、すでに終了したジェミニ計画のタイタンⅡ型ロケットで先ず酸素と食料を積んだシェルターを嵐の海に送り込み、続けて有人宇宙船を月面に着陸させ、シェルターで3か月間過ごさせるというもの。この間、継続的にシェルターを月面に送り込み、1年かけて開発されたアポロ宇宙船で、シェルター内の宇宙飛行士を回収するという、壮大にして無謀な代替案。
 プロジェクトにはもう一つ条件があって、軍人ではなく民間人が実行者に選ばれ、短期間で操縦とメカニックを習得しなければならない。
 選ばれたリー(ジェームズ・カーン)は無事月面周回軌道に入り、シェルターらしきものを目視して着陸を決行。ところが月面に降りるとそれは墜落したソ連の月面着陸船だったというオチが衝撃的。息子がくれたマスコットに導かれて月面を彷徨うと、シェルターを発見するという希望的ラストで終わるが、これはアルトマンの意に反してプロデューサーが付け加えたものらしい。
 全体は準備場面が大半で、終盤を除けば宇宙計画のドキュメンタリーを見させられているような作品。もっともドキュメンタリーのような生々しさに欠けるのがフィクションの弱みで、テーマはともかく映画としては楽しくもドラマチックでもなく、成功しているとは言い難い。 (評価:2)

ベルトルッチの分身

製作国:イタリア
日本公開:2013年3月9日
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、ジャンニ・アミーコ 撮影:ウーゴ・ピッチョーネ 音楽:エンニオ・モリコーネ

理解しようなどとは考えない方が良い・・・以上
 原題"Partner."。フョードル・ドストエフスキーの『分身』が原作。
 ベルトリッチの初期作品で、前衛的といえば前衛的、シュールといえばシュール、支離滅裂といえば支離滅裂で、二重人格の分身(Partner)を幻覚してしまう主人公の青年同様の精神分裂の作品で、ストーリーなりテーマなりをまともに考えようとすると精神分裂になるので止めた方が良い。
 主人公の青年(ピエール・クレマンティ)は大学の教官で、喫茶店で奇妙な言動を取るところから映画は始まる。突然せむし男になったり、街頭で「ベトナムに自由を」のビラが貼られたりしながら、ピアノを弾いている友人を無意味に銃殺し、青年を変人扱いしている教授の娘(ステファニア・サンドレッリ)の誕生日パーティに呼ばれもしないのに押しかける。
 やがて、自分の影を見て分身を幻覚するようになり、どういうわけか教授の娘に駆け落ちを持ち掛けられ、絞殺してしまう。次に瞼に碧眼を描いて目を瞑る女が現れ、これまた泡まみれにして殺す。
 青年と分身のわけのわからない自問自答が続き、唐突に終わるという流れで、ストーリーとセリフとシーンの整合性はすべてベルトリッチの中にしかないので、この作品を見て何かを理解しようなどとは考えない方が良い・・・以上、という作品。
 学生運動、ベトナム反戦、ヒッピー、ドラッグ華やかし時代の映画で、ベルトリッチの脳内もトリップしている。 (評価:1.5)