海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1965年

製作国:アメリカ
日本公開:1965年6月19日
監督:ロバート・ワイズ 製作:ロバート・ワイズ、ソウル・チャップリン 脚本:アーネスト・レーマン 撮影:テッド・マッコード 音楽:リチャード・ロジャース、オスカー・ハマースタイン二世、アーウィン・コスタル
キネマ旬報:9位
アカデミー作品賞

音楽こそが人々に幸福と平和をもたらす力
 原題"The Sound of Music"で、音楽の調べ。マリア・フォン・トラップの自叙伝"The Story of the Trapp Family Singers"を基にした、ブロードウェイ・ミュージカル"The Sound of Music"の映画化。
 1930年代末、ドイツにオーストリアが併合された直後のザルツブルグが主舞台で、トラップ家の家庭教師となった修道女マリアが、子供たちと仲良くなり、退役軍人のトラップ大佐と結婚、ドイツ軍に召集される前夜に音楽祭で合唱を披露した後に、山越えしてスイスに逃れるまでの物語。
 本作のテーマは音楽の力であり、抑圧されている子供たちの頑なな心を開くのがマリアの歌なら、妻に先立たれたトラップ大佐の心をほぐすのもマリアの歌。その音楽が家族の融和と絆とを取り戻し、音楽会の夜、その歌によって一家がオーストリア脱出するクライマックスは白眉の名場面。
 つまり本作で語られるのは、音楽こそが人々に幸福と平和をもたらす力だということで、その音楽の力を体現しているのがマリアだということになる。
 その常に明るく前向きで、苦境にもめげないマリアを、美しい歌声と共にジュリー・アンドリュースが演じる。
『ドレミの歌』を始め、挿入歌のほとんどがスタンダード・ナンバーとなっている稀有なミュージカルで、7人の子供たちと家庭教師のマリア、父のトラップ大佐(クリストファー・プラマー)が合唱するファミリーで楽しめる歌になっているのもポイント。
 導入部とエンディングの美しいアルプスの映像も見どころで、山脈から草原のジュリー・アンドリュースに寄っていく、今ならCGの空撮も見どころ。
 約3時間の長尺でありながら、まったく緩まないロバート・ワイズの演出も見事で、マリアの熱意に応える子供たちの純真さに、今の映画からは失われた人間の温もりを感じて心なごむ。
 トラップ一家を追いかけるナチの車から点火プラグを盗む修道女たちのシーンがユーモラスでいい。 (評価:4.5)

製作国:ソ連
日本公開:1966年7月23日
監督:セルゲイ・ボンダルチュク 製作:セルゲイ・ボンダルチュク 脚本:セルゲイ・ボンダルチュク、ワシリー・ソロビヨフ 撮影:アナトリー・ペトリッキー 美術:ハイル・ボグダノフ、ゲンナジー・ミャスニコフ 音楽:ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
キネマ旬報:10位
アカデミー外国語映画賞

平和の中で地虫のように這う人間の矮小さが胸に突き刺さる
 原題"Война и мир"で、戦争と平和の意。レフ・トルストイの同名小説が原作。
 4部シリーズのの第1部"Андрей Болконский"(アンドレイ・ボルコンスキー)、第2部"Натала Ростова"(ナターシャ・ロストワ)で、日本では併せて第一部として公開された。
 第1部はナポレオン戦争へのロシア参戦前夜、1805年のペテルブルク社交界から始まり、ピエール(セルゲイ・ボンダルチュク)のベズーホフ伯爵襲爵、クラーギン公爵(ボリス・スミルノフ)の令嬢エレン(イリーナ・スコブツェワ)との結婚、エレンの愛人ドーロホフ(オレグ・エフモレフ)との決闘。
 ボルコンスキー公爵(アナトリー・クトーロフ)の嫡子アンドレイ(ヴャチェスラフ・チーホノフ)がクトゥーゾフ将軍(ボリス・ザハーワ)の副官として参戦、アウステルリッツの戦いで負傷するまでが前半。
 後半はアンドレイが帰還し、妻リーザ(ヴィクトル・スタニツィン)が出産時に死亡するまで。人間の生と死の儚さに虚無的になるアンドレイが描かれる。
 第2部はロストフ伯爵(ヴィクトル・スタニツィン)の令嬢ナターシャ(リュドミラ・サベーリエワ)が社交界デビューする1810年から始まり、アンドレイとの婚約、エレンの弟アナトリー(ワシリー・ラノヴォイ)との駆け落ち騒動、アンドレイとの破談、ピエールからの愛の告白まで。
 終末を告げる1812年のハレー彗星がピエールには未来への希望に映る。
 退廃的なロシアの貴族社会に生きる意義を見出すことができず、既存の体制に挑戦するナポレオンにむしろ共感するピエールの煩悶を中心に、戦争で無意味な死を重ねる人間の愚かさ、日常の平和の中で無為に生きる人間の愚かさが描かれていく。
 ソ連の国家事業として巨費が投じられ、ソ連軍の全面的協力の下に撮影された戦争シーンは空前絶後の大パノラマ。
 貴族の館の壮麗さ、体育館のような広さの舞踏会場に華麗な衣装で集まる膨大な数の貴族たちのモブシーンなど、挙げればキリがないほどの映像美が繰り広げられ、それに勝るとも劣らないトルストイの人間ドラマは圧巻。
 戦争よりもむしろ、平和の中で地虫のように這う人間の矮小さが胸に突き刺さる。 (評価:4)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1967年7月7日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール、ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 美術:ピエール・ギュフロワ 音楽:アントワーヌ・デュアメル
キネマ旬報:5位

ストーリーは添え物、見どころは道化師的ベネトンカラーの色彩
 原題"Pierrot Le Fou"で、邦題の意。ライオネル・ホワイトの小説"Obsession"(妄想)が原作。
 ヌーベルバーグかつゴダールらしいアバンギャルドな作品なので、ストーリー性とか、ドラマ性とか、一般的な映画についてのドラマツルギーは無視されていて、このアナーキーな作品に共感ないしは価値を見い出せないと、けばけばしい色使い以外、退屈な作品となる。
 冒頭よりの赤・白・青のフランス、および赤・白・緑のイタリアのトリコロール、プラス黄色の鮮やかな色彩が衣装・大道具・小道具に散りばめられていて、ベネトンカラーの映像が従来のナチュラルカラーから脱した道化師的人工美で目を楽しませる。
 本作の見どころはほぼこれに尽きていて、添え物のストーリーにどこまで耐えられるかにかかっている。
 そのストーリーは、パリの退屈な日常に倦んだ男フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)がパーティで昔の恋人マリアンヌ(アンナ・カリーナ)に出会い、殺人事件に巻き込まれてパリから南仏へと逃避行する。
 地中海にたどり着きフェルディナンはマリアンヌとの生活に満足するがマリアンヌは飽いてしまい、殺人事件を起こして失踪。漸く探し当てるが裏切られ、フェルディナンはマリアンヌを銃殺してダイナマイトで自爆して終わり。この作品に、なぜ? どうして? を問うてはならない。
 マリアンヌは終始フェルディナンを本名では呼ばず、ピエロという。ラストは道化師よろしく青いペンキで顔を塗りたくってダイナマイトを巻き付けるが、まさしく人間の存在そのものがピエロということかもしれない。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ、イタリア
日本公開:1966年6月18日
監督:デヴィッド・リーン 製作:カルロ・ポンティ 脚本:ロバート・ボルト 撮影:フレデリック・A・ヤング 美術:テレンス・マーシュ 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:9位
ゴールデングローブ作品賞

美貌だけで何を考えているのかわからないラーラ
 原題"Doctor Zhivago"。ボリス・パステルナークの同名ノーベル文学賞受賞作が原作。
 物語はロシア革命前夜から始まり、医学生で詩人の青年ジバゴ(オマー・シャリフ)が主人公となる。第一次世界大戦でロシア軍の軍医を務め、革命後も赤軍兵士の治療に貢献するが、妻(ジェラルディン・チャップリン)のいるモスクワに帰ると屋敷は召上げられ、ボルシェビキの兄(アレック・ギネス)の勧めに従ってウラル地方の別荘に転居。
 隣町に軍医時代に恋仲となった人妻ラーラ(ジュリー・クリスティ)がいて、不倫してしまう。このラーラの夫が赤軍将校で、赤軍内の対立による死によってラーラに危険が及び、極東へ逃すことで二人は離れ離れとなるが、ラーラがジバゴの子を宿していて、後に成人した娘をボルシェビキの兄が探すというのがプロローグとエンディングになっているが、物語上は不要。
 本作の主題は、ブルジョア家庭に育ったジバゴの革命による人生の変転の中で、彼の書く詩が個人的で共産主義の理念に反すると排撃され、それでもジバゴは個人の自由と尊厳、愛の尊さの主張を捨てないというところにあって、そのテーマはきちんと描かれている。
 もっとも不倫の自由までが正当化されるかという点は、ジバゴの高潔さやラーラの健気さ、ジバゴの妻の寛容さといったオブラートに上手に包まれてしまって、一瞬頭を過るだけというデヴィッド・リーンの演出に誤魔化されてしまう。
 この肝心要のラーラを演じるジュリー・クリスティが、美人なだけで演技力がないため、冒頭でロッド・スタイガー演じる母の愛人コマロフスキーになぜ誘惑されてしまったのか、夫の赤軍兵士を本当に愛していたのか、ジバゴの愛人に何故なってしまったのか等々、何を考えているのかよくわからない女になってしまっている。
 美貌でデヴィッド・リーンは騙せても、ラーラのキャラクターのあやふやさは残ったままで、アカデミー作曲賞を受賞したララのテーマの甘美なメロディで、ま、いっかと思うしかない。 (評価:2.5)

夕陽のガンマン

製作国:イタリア、西ドイツ、スペイン
日本公開:1967年1月27日
監督:セルジオ・レオーネ 製作:アルトゥーロ・ゴンザレス、アルベルト・グリマルディ 脚本:セルジオ・レオーネ、ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ 撮影:マッシモ・ダラマーノ 音楽:エンニオ・モリコーネ

『荒野の用心棒』の次のマカロニは茹ですぎ
 『荒野の用心棒』に続いて作られたセルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン。原題は"Per qualche dollaro in più"で、「さらに数ドルのために」の意で、前作"Per un pugno di dollari"(一握りのドルのために)を引き継いだタイトル。
 今回はイーストウッドとリー・ヴァン・クリーフの二人の賞金稼ぎが協力して最凶の銀行強盗ギャング首領の首をとる話。二人が協力して、というあたりにすでに一匹狼感がなく、仲良くマカロニを食べましょう的和みが食欲をなくす。二人のガンマンの腕もショーアップされすぎていて、相手の弾を避けない、見ないで撃っても当たるという超人技に少々白ける。ニヒルなマカロニ・ガンマンをカッコよく見せようという意図が強く出過ぎ。
 ラストでクリーフがギャングの首領の首を狙う理由が、賞金ではなく別にあることが明かされるが、このウエットさが茹ですぎたマカロニのようで、本作全体を湿らせている。
 べとべとしたマカロニが好きだという人には人情ドラマ的な楽しさがあるが、個人的にはアルデンテが好み。もっとも西欧で食べるパスタは大抵茹ですぎで、意外と西欧人はべとべとが好きなのかもしれない。茹ですぎは、前作がパサパサしていたというレオーネの反省か?
 映像的には、オープニングの超ロングショットの荒野を馬が放浪するシーンがいい。
 主人公の名前Mancoはイタリア語で欠陥という意味で、マンコと発音しているが字幕ではモンコとなっているのは翻訳者の配慮か? (評価:2.5)

黄金の七人

製作国:イタリア
日本公開:1966年3月19日
監督:マルコ・ヴィカリオ 製作:マルコ・ヴィカリオ 脚本:マルコ・ヴィカリオ、マリアノ・オゾレス、ノエル・ギルモア 撮影:エンニオ・グァルニエリ 音楽:アルマンド・トロヴァヨーリ

イタリア映画らしい能天気さが全開
 原題"Sette uomini d'oro"で、邦題の意。
 男7人組と女1人が、ジュネーブのスイス銀行の金塊を盗み出すという物語で、大金庫の金塊の山が外から丸見えだったり、真下に地下通路があったり、水道管が出入り自由な上に人が泳げるほどに太かったり、水の流れがなかったり、地下で爆発させても地響きが起きなかったり、工作機械の騒音が自動車の警報音で聞こえなくなったりと、突っ込みどころは満載で、そもそも金庫破りそのものが漫画チックで、これはドリフターズやクレージー・キャッツ同様のコメディだと思って見る映画。
 それからいえば、B級もB級だが、予想通りに金塊を盗んだ後の展開が二転三転して、最後にどうなるのか予想できないところが映画的には上手い。もっともローマに舞台を移してからの最後のオチは、能天気なイタリア映画らしく、ストーリー的にはネバーエンディングで、端から続編を作るつもりのクレジットが、これまた能天気なイタリア人らしくていい。
 盗賊団のリーダーと美女のコンビが、その後のヒールの原型となるキャラクターで、とりわけマスカレード・マスクをつけた妖艶でお洒落なロッサナ・ポデスタがハマっている。 (評価:2.5)

製作国:イタリア
日本公開:1967年4月1日
監督:フランチェスコ・ロージ 脚本:フランチェスコ・ロージ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ピエロ・ピッチオーニ
キネマ旬報:10位

闘牛の残虐だが貴重な映像を残した点が皮肉
 原題"Il Momento Della Verita"で、邦題の意。
 貧農の若者が闘牛士として成功しながらも短い一生を終える物語で、背景にフランコ政権下で貧困と失業に喘ぐスペイン社会を描く。
 主人公の若者ミゲルは貧困を脱するために村を捨て、バルセロナに出るものの仕事が見つからず、手配師の下で日雇い労働者として搾取される。1日17ペセタの稼ぎで、100ペセタの娼婦を買うといった惨めな生活を続けるが、闘牛士になれば100万ペセタ稼げると知って、村闘牛の経験を売り込んで老闘牛士の弟子にしてもらい、闘牛士としてのデビューを果たす。
 それからは人気闘牛士となり故郷の家族に裕福な生活をプレゼントするが、興行の疲れから闘牛に失敗し死を怖れるようになる。やがて運命の時を迎えるが、牛を殺し続けてきた彼が牛に天罰を下されるという結末となる。
 貧しき若者の光と影と悲劇、金のために命を賭ける闘牛士の裏側を描くが、実際の闘牛の場面が残酷で、剣を何本も突き立てられ、いたぶられながら最後にとどめを刺される姿が、フランコ政権下の貧しい人々を象徴する。
 ミゲルを演じるのは本物の闘牛士ミゲル・マテオ・ミゲランで、実際の闘牛場面がリアルで大きな見どころとなっているが、その残虐さを描くために執拗に繰り返されるので、動物虐待や残酷シーンが苦手で嫌悪感を抱く人は要注意。
 その残酷さゆえに今ではほとんど興行が行われなくなっているので、闘牛のリアルな映像を残している点で貴重となっているのが何とも皮肉といえる。 (評価:2.5)

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1965年8月14日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:ジョン・コーン、ジャド・キンバーグ 脚本:スタンリー・マン、ジョン・コーン 撮影:ロバート・サーティース、ロバート・クラスカー 音楽:モーリス・ジャール
キネマ旬報:6位

蝶になる娘はコレクションしたいような美少女ではない
 原題"The Collector"。、ジョン・ファウルズの同名小説が原作。
 子供の頃からチョウの標本をコレクションしていた青年が、好きな女の子をコレクションしようとする話。
 いわば変態的狂人の物語で、貧しい家に生まれ、しがない銀行員をしていて、その暗い性格ゆえに同僚からもイジメられているが、ある日サッカー籤で大富豪となり、豪邸を手に入れて、その納屋の地下室に女の子を拉致監禁してしまう。
 女の子とは通学バスに毎日乗り合わせ、隣に座ったこともあるが、女の子が全く顔を覚えていないというくらいに空気みたいな青年で、女の子がロンドンの美術学校に通うようになってもストーカーを続けていて、遂に採集してしまう。
 ストーリーと気味の悪さで見せるサスペンスで、公開後にテレビで見て現実にはあり得ないドラマと思っていたが、その後、10年間少女を拉致監禁していた新潟の事件や、8年間のオーストリア少女監禁事件などの類似事件が実際に起きて、この映画を思い出したことがある。
 再見すると、実際に起きた事件が思い出されて、50年前とは同じ気持ちでは見られないが、この映画の根底にはイギリスの階級社会への批判があって、アッパーミドルクラスの医者の娘に近づくことのできない、ワーキングクラスの青年の鬱屈と屈折が犯行の背景となっている。
 そのため、アッパーミドルの娘のコレクションに失敗した青年は、次に同じワーキングクラスの看護婦をコレクションすることに決める。
 主演のサマンサ・エッガーはゴールデングローブ主演女優賞を受賞しているが、コレクションしたいような美少女ではなく、高慢な感じのするいかにもなアッパーミドルの娘なのが作品に合っている。
 車のサイドミラーに娘が映るシーンは、虫取り網に入る蝶を象徴していて、印象的なシーンとして有名。 (評価:2.5)

砂漠のシモン

製作国:メキシコ
日本公開:2017年12月23日
監督:ルイス・ブニュエル 製作:グスタヴォ・アラトリステ 脚本:ルイス・ブニュエル、フリオ・アレハンドロ 撮影:ガブリエル・フィゲロア 音楽:ラウル・ラヴィスタ

皮肉の度合いも51分に短縮されているのが残念
 原題"Simon del desierto"で、邦題の意。
 シモン(シメオン)は5世紀、アナトリアに実在したと伝えられるキリスト教の聖者で、砂漠に立てた高い柱の上で6年6週6日修行。毎日レタスしか食べず、食料を運ぶ男やセーラー服の女に変身する悪魔の誘惑を撥ねよけようとするが、最後は飛行機の出現と共に禁断の現代に連れて来られ、ダンスホールで踊り狂う若者たちの狂乱に呑み込まれてしまうという、ブラック・コメディ。
 そもそも柱の上での修行というのが聖人というよりは奇人、ギャグで、手を失った男に奇跡を施したりと、ブニュエルは最大の皮肉を込めてこの行者を戯画化する。手を変え品を変えて悪魔が誘惑するが、シルヴィア・ピナルの色仕掛けが一番の見どころ。
 聖者も不毛の砂漠にいるから聖者たりえるので、世俗の中に塗れればただの俗人というカトリック教会を皮肉った内容。
 制作費の資金繰りが出来ずに51分に短縮されたという中編だが、皮肉の度合いも51分に短縮されているのが残念で、ブニュエルのフルヴァージョンのカトリック教会への皮肉を見たかった気がする。 (評価:2.5)

国境は燃えている

製作国:イタリア
日本公開:1966年4月7日
監督:ヴァレリオ・ズルリーニ 製作:モリス・エルガス 脚本:レオナルド・ベンヴェヌーチ、ピエロ・デ・ベルナルディ 撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:マリオ・ナシンベーネ

ギリシャ人従軍慰安婦とのセンチメンタル・ラブストーリー
 原題"Le Soldatesse"で、兵士たちの意。ウーゴ・ピロの同名小説が原作。
 第二次世界大戦でのイタリア軍のギリシャ人従軍慰安婦を描いた作品。
 ドイツ軍の支援によりイタリアが激戦の末にギリシャに勝利。アテネ市民が飢餓に苦しむ中、イタリア軍のマルチーノ中尉(トーマス・ミリアン)は、12名の従軍慰安婦をアルバニア国境の前線部隊にトラックで輸送する任務を与えられる。
 12名は優先的に配られる食糧のために慰安婦に志願した女たちで、マルチーノはその中の一人、無口なエフティキア(マリー・ラフォレ)に心惹かれるようになる。
 途中、ファシスト党・黒シャツ隊のアレッシ少佐(アッカ・ガヴリック)が同乗、慰安婦の一人トゥーラ(レア・マッセリ)と森にしけこむために運転手のカスタニョーリ軍曹(マリオ・アドルフ)に停車させたりと、勝手な振る舞いをする。
 道中、マルチーノは中間地点の部隊で慰安婦を供給しながら進むが、ギリシャのパルチザンに襲われトラックが炎上。瀕死の慰安婦をアレッシが射殺するなど、戦争の非人間性を目の当たりにしながら目的地に到着するが、エフティキアはイタリア軍の慰安婦になることを拒否して逃亡。
 慰安婦たちを思いやるマルチーノに恋したエフティキアは、夜中に舞い戻り、一夜を共にした後、パルチザンに参加するために山の中に消えて行く。
 最後に蛇足気味の後日談が語られ、戦後エフティキアに再会するためにマルチーノがギリシャを訪れたが叶わなかったという一人称の語りで終わる。
 戦争の非人間性を描く反戦映画の体裁をとっているが、実際にはノンポリ青年のセンチメンタルなラブストーリーでしかなく、慰安婦についてもファシスト党についても表面的な描写だけに終わっていて、本質に迫れていないのが残念なところ。 (評価:2.5)

007 サンダーボール作戦

製作国:イギリス、アメリカ
日本公開:1965年12月25日
監督:テレンス・ヤング 製作:ケヴィン・マクローリー 脚本:リチャード・メイボーム、ジョン・ホプキンス、ジャック・ホイッティンガム 撮影:テッド・ムーア 音楽:ジョン・バリー

水中格闘シーンではショーン・コネリーも高露出度の短パン姿
 原題は"Thunderball"で、本作でボンドがあたる作戦名。原爆のことを指す。シリーズ第4作。イアン・フレミングの同名小説が原作。
 スペクターが核弾頭2基を積んだNATOのイギリス空軍機を乗っ取り、1億ポンドのダイヤモンドを要求。ボンドが原爆を奪還するという物語。
 スペクターの実行犯がバハマにいるのを休暇中のボンドが偶然知るという都合の良さで、Qから渡される秘密の小道具も、シナリオの展開上必要なものばかりというご都合主義。
 本筋とは関係ないオープニング・エピソードで使われるロケットベルトはかっこいいが、ガイガー・カウンター、水中スチールカメラ、救難用発煙筒ピストル、小型酸素カプセル、経口GPSカプセルとなんとなくセコイ。
 おまけにラストシーンでは、ボンドが救出したのは原爆ではなくボンドガールで、おいおい原爆の方はどうなったの? という能天気ぶり。
 スパイ映画としてのシナリオは突っ込みどころだらけで相当にひどく、とりわけ敵の水中眼鏡を奪うシーンでは必要なのはそれなの? という間抜けぶりだが、全編にわたってお色気とエンタテイメントは全開で、ショーン・コネリー版007としては完成されたスパイアクション映画となっていて、娯楽満足度は高いかもしれない。
 見どころはバハマ、ナッソーの美しい海とジャンカヌーの祭。アクション的には水中での格闘シーン。
 クローディーヌ・オージェ始め、ボンドガールは美人ぞろいで露出度も高いが、ショーン・コネリーもウエットスーツを着用せず、リゾートっぽい短パン姿で海に陸にと、こちらも露出度が高い。 (評価:2.5)

寒い国から帰ったスパイ

製作国:イギリス
日本公開:1966年5月26日
監督:マーティン・リット 製作:マーティン・リット 脚本:ポール・デーン、ガイ・トロスパー 撮影:オズワルド・モリス 音楽:ソル・カプラン

原作に忠実で、可も不可もない出来
 原題"The Spy Who Came in from the Cold"で、邦題の意。ジョン・ル・カレの同名小説(邦題:寒い国から帰ってきたスパイ)が原作。
 物語はほぼ原作に忠実で、演出もオーソドックス。可も不可もない出来となっている。  ベルリンの英国諜報員リーマス(リチャード・バートン)が本国に呼び戻され、左遷に見せかけて新たな指令を受け、東独に潜入するという物語。
 東独スパイのフィードラー(オスカー・ウェルナー)は、失業したリーマスから英国諜報部組織の情報を得るために買収、東独に連れ帰る。フィードラーはリーマスの情報をもとにムント(ペーター・ファン・アイク)が二重スパイだと弾劾するが、逆にリーマスの恋人でコミュニストのナンシー(クレア・ブルーム)の証言で、リーマスが潜入スパイでフィードラーが騙されていることがわかってしまう。
 窮地に立つリーマスというところで大どんでん返しがあり、これがストーリー上のクライマックスとなっているが、ラストシーンは非情なスパイのリーマスが人間性を見せるという、ハードボイルドではない結末となっている。 (評価:2.5)

ビバ!マリア

製作国:フランス
日本公開:1966年4月22日
監督:ルイ・マル 製作:ルイ・マル 脚本:ルイ・マル、ジャン=クロード・カリエール 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ジョルジュ・ドルリュー

革命の気分だけで、ビバ!バルドー以上のものがない
 原題"Viva Maria!"で、マリア万歳!の意。
 ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローの二人のマリアが主人公。
 世界を巡る旅芸人一座でストリップ紛いの踊りを披露して人気者となるが、中米の架空の国で民衆の一揆に巻き込まれる。
 モローは一夜契った一揆青年の遺言に従い、バルドーは元テロリストの血が騒いでともに銃を取り、一揆に成功。ジャンヌ・ダルクよろしく革命軍を率い、聖母マリアを凌ぐ人気者に。独裁側に付く教会も粉砕して、民衆革命成功へと導くというお話。
 中米の国のモデルは20世紀初頭のメキシコ。バルドーは19世紀末のイギリス植民地下のアイルランドで幼い頃から父の爆弾テロの手伝い。父娘コンビのお尋ね者となって、ロンドン、ジブラルタルに渡り、中米で父と死に別れるまでの破壊活動がスペクタクルで面白い。
 旅芸人一座のモローに救われ、テロリストから踊り子、さらに一揆に巻き込まれて革命家へ。
 旅芸人一座の出し物を革命劇に変えて旅を続けるという、コメディながらハチャメチャでわけのわからない作品になっている。
 本作の見どころはバルドーの可愛いお色気に尽き、モローも肌を露出して頑張ってはいるが若さの衰えは否めない。
 フランス革命以来、革命の伝統色濃いフランスでは、制作当時、1962年のアルジェリアなど植民地独立問題、インドシナ戦争、中華人民共和国承認を背景に学生運動が盛り上がり始めていた時期で、そうした時代の空気が本作に反映しているように感じるが、それも気分だけに終わっていて、「ビバ!バルドー」以上のものがない。 (評価:2)

反撥

製作国:イギリス
日本公開:1965年8月18日
監督:ロマン・ポランスキー 製作:ジーン・グトウスキー 脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ 撮影:ギルバート・テイラー 音楽:チコ・ハミルトン

イギリス映画だがドヌーヴが英語を話すのが何だか変
 原題"Repulsion"で、嫌悪、反感の意。
 姉(イヴォンヌ・フルノー)と暮らす妹(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、姉が妻子ある男をアパートに引き込んでいることに嫌悪感を持ち、男性恐怖症に陥る一方で知らない男に襲われる妄想を抱き、狂気に陥っていく物語。
 仕事も手に付かなくなって家に引き籠り、姉の旅行中に訪ねてきた彼女のボーイフレンド、次には家主を殺害。憔悴して倒れているところに姉と愛人が戻って警察に連絡してエンド。状況的には2人の死体と共に妹も被害者のように見え、かつ気が狂っていることから、結末はよくわからない。
 後の『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)へと続くサスペンス色が現れていて、『水の中のナイフ 』同様にナイフも登場。ポランスキーらしい刃物の鋭利な痛さと恐怖感で粟立つ。
 しかし作品そのものは、主人公の妹を演じるカトリーヌ・ドヌーヴの下着姿とポランスキーのとんがった映像がすべてで、一人の美しい内気な狂女を描いただけに終わっている。
 イギリス映画でロンドンが舞台なので仕方がないが、ドヌーヴが英語を話すのが何だか変。 (評価:2)

いそしぎ

製作国:アメリカ
日本公開:1965年8月21日
監督:ヴィンセント・ミネリ 製作:ベン・カディッシュ 脚本:ダルトン・トランボ、マイケル・ウィルソン 撮影:ミルトン・クラスナー 音楽:ジョニー・マンデル

名作たりえたが単なる美男美女の不倫物語になってしまった
 原題"The Sandpiper"で、邦題の意。イソシギ(磯鷸)はシギ科の小型の水鳥。
 妻子持ちのミッションスクールの校長が、自由奔放なシングルマザーに恋してしまうという物語で、レッドパージされたトランボのシナリオの全般を見渡せば、宗教の偽善に目覚めた校長が自由な精神を解き放ち、己に誠実な生き方に目覚めるというのがテーマであることがわかる。
 その価値観の転換をもたらすのがシングルマザーで、トランボの意図通りに仕上がっていれば名作たりえたが、ヴィンセント・ミネリの演出が今一つだったのか、あるいはこれが結婚後初共演となったエリザベス・テイラーとリチャード・バートンの演技力不足だったのか、単なる美男美女の不倫物語になってしまったのが惜しい。
 夫婦の共演に二人が恋に落ちる過程も理由も必要なく、熱情ばかりが表に出るため、なぜ校長が彼女に魅かれたのか、なぜシングルマザーが男に対して急にジュリエットになってしまったのかが合点がいかない。
 エリザベス・テイラーの半裸などのサービスシーンも多いのだが、この物語にグラマーは必要なく、観客の目が彼女の肢体に奪われて心情に向かない。
 男遍歴を重ねながらも男性不信で、ヒッピー仲間と暮らす反体制的な女は子どもを学校に入れず、そのために強制的にミッションスクールに入れられてしまう。体制側の校長は彼女を手懐けようとしてミイラ取りがミイラになるが、脚本の意図は彼女の生き方に魅かれたから。
 妻に不倫を告白し、校長を辞して一人メキシコに旅立つ。ここで女と生活を共にしないのが不思議に映るが、脚本の意図は女への愛ではなく男の精神の解放がテーマだからという物語。
 劇中、女が傷ついたイソシギの幼鳥を世話し終盤回復して飛び立たせるが、これが女によって心の束縛を解き放つ男を象徴する。
 テーマ曲の"The Shadow of Your Smile"がアカデミー歌曲賞を受賞。この曲を背景にした、サンフランシスコの海岸の映像が美しい。
 チャールズ・ブロンソンがヒッピーの彫刻家として出演している。 (評価:2)

バルジ大作戦

製作国:アメリカ
日本公開:1966年4月1日
監督:ケン・アナキン 製作:ミルトン・スパーリング、フィリップ・ヨーダン 脚本:フィリップ・ヨーダン、ミルトン・スパーリング、ジョン・メルソン 撮影:ジャック・ヒルデヤード 音楽:ベンジャミン・フランケル

アメリカ人にとってのカタルシス以外には何もない
 原題は"Battle of the Bulge"でバルジの戦い。1944年12月、ベルギー・アルデンヌ地方で行われたドイツ軍とアメリカ軍の戦車戦を描く、スペクタクル戦争娯楽映画。バルジは戦線の突き出た部分の意味で、地名ではない。
 ドイツ軍はアントワープのアメリカ軍の兵站基地を占領するため、最新鋭のタイガー戦車隊で奇襲をかけ、アメリカの前線を突破する。アメリカ軍は後退しながらも、タイガー戦車の弱点が燃料補給にあることに気がつき、アメリカ軍の燃料集積所に進撃してくるバルジを迎え撃って、勝利に導くという物語。
 史実を脚色したフィクションで、逆境を乗り越えて勝利を手にするヒーローという、アメリカ人が喝采するように創られた戦争映画で、人が良くてジョーク好きなアメリカ人と、非人間的で冷酷なドイツ人という、これまたアメリカ人が喜ぶステレオタイプな人物描写をしている。
 警察上がりの作戦参謀ヘンリー・フォンダが主人公で、堅物の将校たちの中で奮闘するという、これまたアメリカ人が喜びそうなドラマを織り込んでいる。
 対するドイツ軍の戦車隊長にロバート・ショウ、チャールズ・ブロンソンもアメリカ軍将校として登場する。
 最大の見どころは多数登場する戦車の合戦シーンで、爆発炎上シーンでは一部ミニチュアや実物大模型が使われているが、空撮を含めた戦車隊の行軍シーンは迫力がある。
 苦しい闘いに勝ってよかったという、アメリカ人にとってのカタルシス以外には何もない、戦後の戦勝国にとっての娯楽映画。 (評価:2)

バニー・レークは行方不明

製作国:イギリス
日本公開:1966年7月9日
監督:オットー・プレミンジャー 製作:オットー・プレミンジャー 脚本:ジョン・モーティマー、ペネロープ・モーティマー 撮影:デニス・クープ 音楽:ポール・グラス

後半の急展開についていけず理解できない方がまとも
 原題"Bunny Lake Is Missing"で、邦題の意。バニー・レークは少女の名。イヴリン・パイパーの同名小説が原作。
 アメリカからロンドンに越してきたばかりのアン(キャロル・リンレイ)の娘が行方不明になり、ロンドン在住の兄(キア・デュリア)を頼み、警察が捜査を開始するが、兄の言から娘は空想で妹の妄想癖を兄が庇っているのではないかと疑い出す。
 観客も誤誘導されるが、実は犯人は兄で、娘の存在を消すために身の回り品をすべて処分。最後に娘を殺す手筈を、修理に出したバニーの人形をアンが手に入れたことから予定が狂い、人形を焼却して隠滅、アンを入院させて精神病に仕立てようとする。
 犯人が兄であることに気付いたアンは病院を抜け出し兄の家に潜入。娘を無事救出するというストーリー。
 演出的には前半の誤誘導が利きすぎて、人形の焼却以降、何が何だかわからなくなって、見終わっても真相に気づけないのが作品的に難。
 何が何だかわからなくなる最大の原因は、アンの妄想なら娘の身の回り品を総て処分する必要のないことで、それを前提に組み立てたミステリーに整合性が欠けること。
 兄のアンへの近親相姦的な偏愛による変質者への転換も唐突で、アンが子供時代の遊びに戻って兄を騙すのもあまりに幼稚。そんなことで兄を騙せるとわかったいるなら、その前に兄の精神異常に気付いていたはずで、理性的な観客なら、後半の急展開についていけず、真相が理解できない方がまとも。
 ただ前半のサスペンスフルな展開と、バニーが存在するのかしないのか宙ぶらりんの気分にさせる演出が効果的で、ラストに観客への説明を入れれば親切だった。
 兄役キア・デュリアは、『2001年宇宙の旅』のボーマン船長。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1966年6月4日
監督:アニエス・ヴァルダ 製作:マグ・ボダール 脚本:アニエス・ヴァルダ 撮影:ジャン・ラビエ、クロード・ボーゾレーユ 音楽:ジャン=ミシェル・デュファイ
キネマ旬報:3位

浮世離れした内容に向日葵の花同様に呆ける
 原題"Le Bonheur"で、邦題の意。
 半世紀前ならともかく、今観ると全く意図の理解できない作品。
 プロローグはモーツァルトのクラリネット五重奏曲の調べに載せて、若夫婦と幼子2人がピクニックを楽しむシーンが描き出される。ジャン・ルノワールの『ピクニック』(1936)を髣髴とさせるのソフトタッチのカラー映像で、一家がこの上ない幸福に包まれているように感じられる。
 ところが、夫がたまたま出張先で知り合った電話局の美人と意気投合。妻子がいることを前提に美人を恋人にし、恋人も結婚を求めない自由な関係を望む。
 万事都合よく進むから能天気なのか、それとももともと能天気なのか、僕は嘘が嫌いだからと妻に愛人がいることを告白し、僕はリンゴ園を二つ持っているようなものだから二人とも愛せると訳のわからない理屈で妻を説き伏せる。
 こんな都合の良い理屈が通るなんて、なんてフランスの男は幸せなんだと思う間もなく妻は入水自殺。なるほどそうは問屋が卸さないのかと思いつつも、大和撫子さえ夫と大喧嘩するだろうに、フランス女はこんなに男に従順なのかと複雑な気にさせる。それとも能天気すぎる夫に愛想を尽かすどころか人間に絶望してしまったのか?
 うーむ哲学的、これぞサルトルの実存主義かと考えに沈んでいると、能天気男は電話局の恋人に、僕と結婚しない? ついでに子供たちの面倒を見てもらえると有難いんだけど、と都合のいいことを申し込み、都合のいいことに恋人はこれを受け入れてしまう。そして自殺した妻のことなどは忘れてしまったかのように、再び幸福な日々が戻ってくるという結末。
 女は抑圧されているとか、フェミニズムがどうとかいう前に、これは単なる能天気で自己中心な男の特殊な物語で、これが一般的な男性像だというには相当無理がある。それとも1965年にして、自由・平等・博愛の国フランスはこんなにも封建的だったのか?
 あまりに浮世離れした内容に、美しい向日葵の花同様に呆けるしかない。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1965年10月9日
監督:ケン・アナキン 製作:スタン・マーガリーズ 脚本:ジャック・デイヴィス、ケン・アナキン 撮影:クリストファー・チャリス 音楽:ロン・グッドウィン
キネマ旬報:10位

見せ場の空撮映像も今となると珍しくもなくて退屈
 原題"Those Magnificent Men in Their Flying Machines or How I Flew from London to Paris in 25 Hours and 11 Minutes"で、「あの素晴らしき飛行機乗りの男たち、またはロンドンからパリまで25時間11分で私は如何にして飛んだか」の意。
 1910年を舞台にイギリスの新聞社主催のドーバー海峡横断の飛行機レースが開催されたという設定で、そこに各国の飛行機乗りたちが集まる。
 基本はコメディなのでお気楽に見なければならないが、自動車に翼をつけたり翼をバタバタさせたりと、アイディアを凝らした様々な飛行機が登場する前半は面白いが、レースに入ってからは当時としては空撮映像が見せ場だったが、今になると珍しくもなくて退屈。
 英米仏日独伊がレースに参加。そこはハリウッド映画なので、新聞社社長令嬢を巡って、イギリス青年とアメリカの西部男が恋の鞘当てを演じ、1位となった青年と炎上したイタリア人を助けて2位となった西部男が仲良く優勝を分け合うという結末。
 日本代表を演じるのが石原裕次郎で、本命だが飛行機に細工をされて最初に墜落してしまう。流暢な英語は吹き替え。
 各国のパイロットはステレオタイプに戯画化されていて、女好きのフランス人、融通の利かないドイツ人、お気楽なイタリア人というように描かれる。
 面白いのは英米仏日独伊が1910年当時も公開当時も世界を代表する国々だったということで、日本は顔のない工業国で国民性は描かれていない。
 フランス男が次々に声をかける女をイリナ・デミックが1人6役で演じているのと、タイトルバックに使われるアニメーションも見どころ。 (評価:2)

製作国:イギリス
日本公開:1966年8月6日
監督:フレディ・フランシス 製作:マックス・J・ローゼンバーグ、ミルトン・サボツキー 脚本:ミルトン・サボツキー 撮影:ジョン・ウィルコックス 音楽:エリザベス・リュトンス、ジェームズ・バーナード

頭蓋骨が襲ってきてもあまり怖くない
 原題は"The Skull"で頭蓋骨の意。ロバート・ブロックの怪奇短編小説"The Skull of the Marquis de Sade"(マルキ・ド・サドの頭蓋骨)が原作。
 主演はピーター・カッシング、ゲスト出演にクリストファー・リーという2大ホラー・スターが競演する。
 マルキ・ド・サドの頭蓋骨の呪いともいうべき物語だが、ファラオの呪いでも貞子の呪いでもないので、十字架が有効というところが如何にもキリスト教圏。
 物語はこの呪いに終始していて、ホラーのストーリーとしては同じ場面の繰り返しでいささか単調。折角、ベルゼブブなどの悪魔の像も登場するのだから、ホラーシーンにもう少しバリエーションが欲しい。
 しかも、頭蓋骨が襲ってきてもあまり怖くなく、終盤の追いかけてくるシーンに至っては、叩き壊せばいいのにと、突っ込みたくなる。
 もっとも特撮シーンが結構頑張っていて、空中を移動する頭蓋骨やホラー的自動ドアの動きも自然。折角のクリストファー・リーの出演にしては活躍がないのが残念。 (評価:2)

アルファヴィル

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1970年5月30日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 製作:アンドレ・ミシュラン 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ポール・ミスラキ
ベルリン映画祭金熊賞

アンナ・カリーナの美貌をもってしても眠気に勝てない
 原題"Alphaville, une étrange aventure de Lemmy Caution"で、アルファヴィル、レミー・コーションの奇妙な冒険の意。
 主人公のレミー・コーションはイギリスの作家ピーター・チェイニーの小説に出てくる秘密諜報員で、主にフランスで映画化されているため、元ネタを知らないとクソつまらないだけのパロディ。
 本作では近未来、星雲都市アルファビル(α市)にコーション(エディ・コンスタンティーヌ)が新聞記者に成りすましてやってくる。アルファビルはコンピュータシステムα60によって統治されているディストピアで、論理以外の感情や思想・文化といった非論理的なものは排除されている。
 コーションのミッションは、行方不明の諜報員アンリ・ディクソン(エイキム・タミロフ)の発見、アルファビルの創始者フォン・ブラウン教授(ハワード・ヴェルノン)の排除、α60の破壊の三つ。
 コーションはミッションを遂行しながら、世話係に付けられた博士の娘ナターシャ(アンナ・カリーナ)に恋し、無感情の彼女の洗脳を解き、最後は破壊されるアルファヴィルから彼女と共に脱出する。
 ゴダールらしい科学文明批判だが、半世紀経つとゴダールらしい陳腐なSFになっていて、ゴダールらしい独りよがりな言葉遊びと道具立てに飽いて、アンナ・カリーナの美貌をもってしても眠気に勝てない。 (評価:1.5)

製作国:イギリス
日本公開:1966年2月15日
監督:リチャード・レスター 製作:オスカー・レヴェンスティン 脚本:チャールズ・ウッド 撮影:デヴィッド・ワトキン 音楽:ジョン・バリー
カンヌ映画祭パルム・ドール

男に都合の良い性の解放が描かれているだけのポップカルチャー
 原題"The Knack ...and How to Get It"で、コツ...そしてそれを会得する方法の意。アン・ジェリコーの同名戯曲が原作。
 奥手でナイーブな学校教師の青年コリン(マイケル・クロフォード)が、彼が所有するテラスハウスに間借りしているプレイボーイのトーレン(レイ・ブルックス)に恋の手ほどきを受けるというコメディで、ロンドンに上京してきた田舎娘ナンシー(リタ・トゥシンハム)と知り合い彼女がテラスハウスにやって来る。
 テラスハウスには越してきたばかりのトム(ドナル・ドネリー)がいて、この4人を中心に話が展開する。もっともストーリーはナンセンスギャグの繰り返しで、イギリス風のシニカルなセンスについて行けないとバカバカしくて笑いも凍る。
 背景には当時のロンドンのポップカルチャーがあって、性の解放を中心に描かれ、女の子たちの解放的なファッションに周囲の大人たちが眉を顰めるという風俗描写がある。
 もっとも当時としては斬新な描写も、現代から見れば女性蔑視に満ちていて、女の子たちはただヤルだけの対象としか描かれてなく、トーレンがナンシーを口説く段になると #Me Too のセクハラでしかない。
 男にとって都合の良い性の解放が描かれているだけで、ラストはコリンがナンシーをモノにして、取り敢えずは純情カップルが勝利するが、女たちは全員トーレンを捨ててコリンに群がるという単なるコインの裏返しで終わるのが情けない。 (評価:1.5)


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