海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1963年

製作国:アメリカ
日本公開:1963年7月5日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:エヴァン・ハンター 撮影:ロバート・バークス 音楽:バーナード・ハーマン
キネマ旬報:4位

何十年ぶりに見直してとんでもないミスシーンを発見
 ​原​題​は​"​T​h​e​ ​B​i​r​d​s​"​。​ダ​フ​ネ​・​デ​ュ​・​モ​ー​リ​ア​の​同​名​短​編​小​説​が​原​作​。
​ ​ヒ​ッ​チ​コ​ッ​ク​の​代​表​作​に​ひ​と​つ​で​、​久​し​振​り​に​観​た​。​鳥​に​襲​わ​れ​る​シ​ー​ン​ば​か​り​が​強​烈​に​印​象​的​で​、​前​半​の​ス​ト​ー​リ​ー​が​こ​ん​な​に​長​か​っ​た​こ​と​に​驚​く​。
​ ​主​人​公​の​メ​ラ​ニ​ー​が​ミ​ッ​チ​と​出​会​う​の​が​ペ​ッ​ト​シ​ョ​ッ​プ​。​ど​っ​ち​も​高​慢​な​女​と​男​で​、​一​目​惚​れ​し​て​し​ま​う​が​、​女​は​男​の​居​所​を​探​し​て​高​級​毛​皮​に​身​を​包​ん​で​モ​ー​タ​ー​ボ​ー​ト​を​操​縦​し​て​ラ​ブ​バ​ー​ド​を​届​け​る​。​冒​頭​、​サ​ン​フ​ラ​ン​シ​ス​コ​の​町​で​女​が​や​け​に​鳥​が​多​い​と​思​う​の​が​伏​線​。​女​は​ど​う​で​も​い​い​手​練​で​男​を​誘​い​、​男​も​そ​れ​に​応​じ​て​夕​食​に​招​待​さ​れ​る​が​、​男​の​母​親​は​精​神​病​質​。​そ​ん​な​不​安​感​を​ち​ら​つ​か​せ​な​が​ら​、​湾​上​で​女​は​初​め​て​カ​モ​メ​に​襲​わ​れ​、​宿​泊​し​た​小​学​校​女​教​師​の​家​に​カ​モ​メ​が​激​突​死​し​、​パ​ー​テ​ィ​で​子​供​た​ち​が​鳥​に​襲​わ​れ​、​男​の​姪​が​通​う​小​学​校​が​カ​ラ​ス​の​集​団​に​襲​わ​れ​、​よ​う​や​く​殺​戮​ゲ​ー​ム​が​始​ま​る​。​こ​こ​ま​で​が​長​く​、​ク​ラ​イ​マ​ッ​ク​ス​を​知​っ​て​い​る​せ​い​も​あ​っ​て​半​世​紀​前​の​テ​ン​ポ​の​悪​さ​に​ち​ょ​っ​と​退​屈​。
​ ​一​段​落​し​て​メ​ラ​ニ​ー​が​2​階​の​ド​ア​を​少​し​開​け​る​と​屋​根​が​破​れ​て​鳥​だ​ら​け​。​こ​の​後​が​ど​う​に​も​不​自​然​で​、​驚​い​た​メ​ラ​ニ​ー​が​ド​ア​を​閉​め​て​逃​げ​ず​に​、​わ​ざ​わ​ざ​ド​ア​を​開​け​て​体​を​部​屋​に​入​れ​て​か​ら​進​退​極​り​鳥​に​襲​わ​れ​る​と​い​う​、​絶​対​に​あ​り​得​な​い​シ​ー​ン​。​何​十​年​か​ぶ​り​に​見​て​、​演​出​の​た​め​と​は​い​え​、​こ​ん​な​ミ​ス​シ​ー​ン​を​発​見​し​て​名​作​に​も​粗​が​あ​る​も​ん​だ​と​気​づ​く​。
​ ​そ​れ​に​し​て​も​な​ぜ​鳥​は​人​を​襲​う​よ​う​に​な​っ​た​の​か​?​ ​住​人​が​言​う​よ​う​に​ビ​ッ​チ​な​メ​ラ​ニ​ー​が​魔​女​だ​か​ら​と​い​う​方​が​納​得​で​き​る​の​だ​が​・​・​・
​ ​内​容​的​に​は​凡​作​。​た​だ​、​本​作​が​不​気​味​な​鳥​肌​立​つ​映​画​と​し​て​エ​ポ​ッ​ク​メ​ー​キ​ン​グ​で​あ​っ​た​こ​と​は​確​か​で​、​そ​の​恐​怖​は​今​も​古​び​ず​、​映​画​史​に​残​る​歴​史​的​作​品​​。 (評価:4)

製作国:アメリカ
日本公開:1964年10月6日
監督:スタンリー・キューブリック 製作:ヴィクター・リンドン 脚本:スタンリー・キューブリック、ピーター・ジョージ、テリー・サザーン 撮影:ギルバート・テイラー 音楽:ローリー・ジョンソン 美術:ピーター・マートン

国防も最後は政治家や軍人の良識頼みという不変を描く
 原題は"Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb"。邦題とは若干異なるが、Dr. Strangeloveは劇中に登場するアメリカに帰化したドイツ人科学者の姓で、ドイツ名Merkwürdigliebeを英語に直訳したという説明がある。the Bombは水爆のこと。原作は脚本にも参加しているピーター・ジョージの小説"Red Alert"。
 米軍基地の少々頭のいかれた司令官が、R作戦を発動、B52にソ連基地への核攻撃を命じるというブラックコメディ。R作戦がアメリカの都市が攻撃されたという前提のため、基地は通信を含めてロックアウト。爆撃機への通信も謀略を防ぐために遮断され、攻撃解除の暗号は将軍しか知らない。ホワイトハウスはソ連首相に情報を渡して爆撃機撃墜を依頼するが・・・という物語。
 米ソ冷戦時代の核戦争の恐怖というものを描いた初期作品で、その後類似の映画が登場した。
 本作公開後、米ソの核競争は激化していき、軍事技術も格段に進歩したため、半世紀前の非近代戦を見るような若干長閑に感じるところもあるが、国防といっても所詮は人間のやっていることで、どれだけ機械化が進んでも最後は政治家や軍人の良識頼みのところがあって、国防論議がかまびすしい中で今見ても面白く有意義。
 本作がそうした時代性を保てたのは人物造形によるところが大きく、愛国心による確信から防共のためにソ連先制攻撃を命じる司令官、世界破滅の危機に瀕してもソ連を信ぜず大統領に協力しないタージドソン将軍、隙あらばホワイトハウスの情報を盗もうとするソ連大使、ヒトラーへの忠誠心が抜けないマッドなドイツ人科学者、国防のために軍人として命令に忠実な爆撃機の指揮官など、カリカチュアされながらも実際にいそうなところが怖い。
 どれだけシステムを整備しても、もしもの場合に備えればどこかに不完全さを生じ、たった一人の狂気やミスで戦争は始まってしまうということを、核戦争の恐怖に怯えた時代のこの映画は教えてくれる。
 クルーゾー警部のピーター・セラーズが、ストレンジラブ博士、爆撃機の指揮官、狂気の将軍の副官のイギリス将校の3役をこなすのがブラックコメディ最大の見どころ。タージドソン将軍は『パットン大戦車軍団』(1970)のパットン役ジョージ・C・スコット。
 爆撃機の指揮官が核爆弾とともに落下していくシーンが笑える。最後に流れる歌は、第二次世界大戦時の流行歌、『また会いましょう』。 (評価:3.5)

山猫

製作国:イタリア、フランス
日本公開:1964年1月18日
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作:ゴッフリード・ロンバルド 脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、エンリコ・メディオーリ、マッシモ・フランチオーザ、ルキノ・ヴィスコンティ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ
カンヌ映画祭パルム・ドール

貴族は我々とは価値観が違うを実感するための映画
 原題"Il gattopardo"で、邦題の意。ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの同名小説が原作。
 1960年、イタリア統一運動下のシチリア島を舞台に、シチリアの名家であるファブリツィオ=サリーナ公爵(バート・ランカスター)が、時代の変化の中に貴族の黄昏を感じる姿を描く。タイトルの山猫は、サリーナ公爵の紋章。
 物語は両シチリア王国に対する市民の暴動と王国軍の鎮圧、統一派のガリバルディ率いる義勇軍・赤シャツ隊の侵攻、住民投票によるサルデーニャ王国との合併というシチリア島の歴史を縦糸に、公爵の甥タンクレディ(アラン・ドロン)、公爵の娘コンセッタ(ルッチラ・モルラッキ)、市長の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)の恋愛話を横糸に進む。
 貴族の格式に拘りながら時代の変化を感じ取るファブリツィオは、ブルボン家やオーストリアの外国支配を脱しようと革命軍に加わる甥を支援し、娘の気持ちを知りながらも新興ブルジョアジーである市長の娘との縁談を取り持つ。
 娘は貴族の格式を失い時代の波に乗っていくタンクレディの変化を歎くが、ファブリツィオは変化についていけない自分を諦観しつつ、生き延びる術を持つ甥に期待と憧憬を寄せる。
 古い貴族の殻から抜けられない彼は、王国の新議会の貴族院議員の申し出を「名誉職なら受けるが」という言葉で断る。そこには貴族は世事に手を染めてはいけないという彼の矜持が示されていて、同時に貴族の在り方が時代とともに変容し、彼の考える貴族の形が終焉を迎えていることを感じている。
 本作にはいくつかの名言があって、タンクレディの「変わらずに生きてゆくためには、自らが変わらなければならない」のほか、「部屋数が数えられるような屋敷には意味がない」「愛は1年で燃え尽きて、後の30年は灰だ」の公爵の言葉がいい。
 とりわけ神父の「貴族は我々とは価値観が違う」という言葉に、実利主義や近代合理主義とは相容れない貴族の原像が表れている。
 真っ青なシチリアの海と青を基調とする公爵邸のインテリア、延々と映し出される舞踏会シーンに、ヴィスコンティらしい貴族的な映像美が楽しめる。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。 (評価:3)

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製作国:アメリカ
監督:エリア・カザン 製作:エリア・カザン 脚本:エリア・カザン 撮影:ハスケル・ウェクスラー 音楽:マノス・ハジダキス
キネマ旬報:5位

ギリシャ人のアメリカ移民史の断面を語る好編
 原題"America, America"で、アメリカ移住を目指す主人公のギリシャ人青年の口癖から、仲間が彼に付けた綽名。
 オープニングとエンディングにエリア・カザンのナレーションが入り、19世紀末、オスマン帝国に支配されていたギリシャからアメリカに移住したカザン一族の祖、伯父の話だと説明される。
 当時、ギリシャ人・アルメニア人がトルコ人の圧政と差別に虐げられていた状況下で、主人公スタヴロスはアルメニア人の友人からアメリカの話を聞き、移住を決意する。
 父はトルコ人の圧政を逃れるためのコンスタンティノーブル行きを決心、スタヴロスを先遣として全財産を渡し、家族を呼び寄せるように言う。コンスタンティノーブルの従兄の家を目指したスタヴロスは、トルコ人に財産を騙し取られ、すっからかんで到着。
 金持ちのギリシャ商人のブスの娘に粉をかけ、アメリカへの渡航費用を手に入れて船に乗るものの、船客のアメリカ人夫人に同情してデキてしまったことが夫にばれ、強制送還の憂き目に。ところが、かつてボロ靴をプレゼントした青年に助けられ、上陸することができる。
 ここまでの苦労話が延々と語られるが、世界中が貧しい時代にアメリカ移住を決意した人々の心情や苦労、その苦労を乗り越えても移住しなければならなかった事情が切々と伝わってきて、アメリカ移民史の断面を語る好編となっている。
 コンスタンティノーブルではなかったが、スタヴロスは一族をアメリカに呼び寄せ、父の命に従うことができるが、移住が彼一人の問題ではなく、一族の使命と責任を帯びていたという事実が重い。そして最後に残った父だけが、故郷を離れずに死んだというナレーションが胸に響く。 (評価:3)

007 危機一発

製作国:イギリス
日本公開:1963年6月8日
監督:テレンス・ヤング 製作:ハリー・サルツマン、アルバート・R・ブロッコリ 脚本:リチャード・メイボーム、ジョアンナ・ハーウッド 撮影:テッド・ムーア 音楽:ジョン・バリー

スケベオヤジの007の代表的作品
 原題は"From Russia with Love"で「ロシアより愛をこめて」。現在では初公開時の邦題よりも、原題邦訳の方が一般的。
『007は殺しの番号』(DR. NO、1962)に続く映画第2作。原作はイアン・フレミングの小説"From Russia with Love"。
 犯罪組織スペクターの元ソ連幹部に騙されたソ連美人スパイ(ダニエラ・ビアンキ)が、ボンドガールとして登場。ソ連の暗号解読器を手土産にボンドの護衛でイギリスに亡命するという指令を受けるが、実は暗号解読器を奪ってボンドを殺し、両国関係を悪化させようというスペクターの企み。スペクターは原作ではソ連の諜報機関スメルシュ。
 イスタンブールのロマ部落での派手な銃撃戦があるが、今から見るとテレビドラマ並みのアクションも可愛く、チープなのが受ける。オリエント急行に乗ってロンドンへと向かうが、スペクターとの戦いではヘリコプターやボートでのアクションシーンもあって、未完成ながら後の007の派手で切れ目のないアクションの原型となっている。
 Qの小道具も登場するが、素朴でまだまだ秘密兵器とはいえないものばかりで、スパイ映画としてのリアリズムの枠に留まっていて、後年の奇抜なアイディアには至っていない。
 前半のイスタンブールのシーンでは、地下宮殿、アヤソフィア、ラストのベネツィアと観光シーンも入った当時としては贅沢なロケで見どころも多い。
 最大の見どころは美人スパイを演じるダニエラ・ビアンキで、美貌のブロンドに白い肌の濡れ場のシーンは公開時より魅力的だった。
 女体に映し出されるオープニング・クレジットから始まる、ショーン・コネリー版スケベオヤジの007の代表的作品。 (評価:2.5)

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1964年11月22日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:7位

『オデュッセイア』に対比される妻と欧州映画の貞操
 原題"Le Mépris"で、邦題の意。 アルベルト・モラヴィアのイタリア小説"Il disprezzo"(軽蔑)が原作。
 夫婦の関係がテーマの作品。
 主人公のシナリオライター(ミシェル・ピッコリ)は、アメリカ人プロデューサー(ジャック・パランス)からフリッツ・ラングが撮影中の映画『オデュッセイア』が難解すぎるため脚本の書き直しを頼まれる。
 『オデュッセイア』はトロイア戦争が終わり、オデュッセウスがギリシャに帰還するまでの物語で、地中海で難破して12の冒険を重ねて帰還までに10年の歳月がかかる。
 この間、妻のペネロペは男たちの求婚を受けるものの拒絶、貞節を守るが、本作はこの物語に対比されている。
 プロデューサーは主人公の女優の妻(ブリジット・バルドー)を紹介されると、早速モーションをかける。それを知ってか主人公は妻をプロデューサーと二人きりにし、そんな夫の態度に妻は苛立つ。ロケ地への同伴をプロデューサーに誘われるが、夫は判断を下さず妻に任せたため、妻は「軽蔑する」という言葉を夫に投げる。
 ロケ中、プロデューサーは妻と撮影現場を離れようとし、それを夫が承諾したため妻は失望、プロデューサーの車でローマに帰ってしまう。
 オデュッセウスの故事に倣って、夫が妻の貞節を試そうとしたのか、単に仕事人間なだけだったのかは明確には描かれない。
 劇中で語られるハリウッド化されていく斜陽のヨーロッパ映画同様、アメリカ人プロデューサーに女優兼妻は奪われていき、抵抗するもしないもなるがままにするしかないという諦観にも近い。
 本作では、プロデューサーと妻が事故死するという結末を迎え、破滅によって清算される。 (評価:2.5)

昨日・今日・明日

製作国:イタリア、アメリカ
日本公開:1964年6月1日
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:カルロ・ポンティ 脚本:エドゥアルド・デ・フィリッポ、ヴィラ・ヴィラ、チェザーレ・ザヴァッティーニ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:アルマンド・トロヴァヨーリ
アカデミー外国語映画賞

M.マストロヤンニとS.ローレンの洒脱な演技が見どころ
 原題"Ieri, Oggi, Domani"で、邦題の意。
 マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが、3つのストーリーで3組の男女を演じるというオムニバス形式の艶笑コメディ。
 二人の洒脱な演技が最大の見どころで、女に振り回される3人の情けないイタリア男を芸達者なマストロヤンニが好演。ローレンも腹ボテ女からストリップまで披露してくれる。
 1つ目はナポリの夫婦で、罰金未納で収監されることになったローレンが、妊娠と授乳期間中は刑の執行が延期されることを知って、妊娠を繰り返すうちに子沢山になってしまう。種牛のマストロヤンニは消耗してインポに。ついにローレンは子連れで収監されるが出所してめでたく家族団欒となるハッピーエンドな庶民話。
 2つ目はミラノの社長夫人と青年のカップルで、夫の留守中にロールスロイスで浮気ドライブ。夫人は青年のためなら金も車もいらないと口説くが、青年が事故を起こして車が大破すると豹変。夫人は通りかかった男の車を止め、庶民には高級車の扱いはわからないと、青年と愛車を捨てて行ってしまうという、金持ち女の気まぐれな本性を描く。
 3つ目はローマの高級娼婦と得意客で、娼婦が隣のアパートに住む老夫婦の孫に一目惚れされる。神学生の孫は恋のために神学校を辞めると言い出し、祖母が普段蔑んでいる娼婦に懇願。ローレンが説得して神学校に戻す。騒動に巻き込まれてベッドインできないマストロヤンニと、人が良くて憎めない娼婦の話。 (評価:2.5)

ピンクの豹

製作国:アメリカ
日本公開:1964年2月29日
監督:ブレイク・エドワーズ 製作:マーティン・ジュロー 脚本:モーリス・リッチリン、ブレイク・エドワーズ 撮影:フィリップ・H・ラスロップ 音楽:ヘンリー・マンシーニ

オヤジギャグを連発するクルーゾー警部が可愛い
 原題は”The Pink Panther”で邦題の意。
 ピンクパンサーは中東の王女が所有するダイヤモンドのことで、中にピンクの豹の絵が浮かび上がるというもの。オープニングとエンディングにピンクパンサーのアニメーションが取り入れられていて、キャラクターが人気となったほか、ヘンリー・マンシーニのテーマ曲が有名になり、クルーゾー警部を演じたピ-ター・セラーズが当たり役となった。
 パリとローマを舞台に王女の持つピンクパンサーを狙う怪盗ファントムと愛人、ファントムを逮捕しようとするパリ警察のクルーゾー警部の織りなす刑事ものコメディだが、制作年が古いだけあってコメディも古典的。段差で躓くといったまさかと思われるギャグが次々登場するので笑いも失笑に近くなるが、次第にその古典的ギャグに慣れてくると、どこかほのぼのとした古き良き心に潤いのある笑いが妙に心地よい。そうしたオヤジギャグを連発するクルーゾー警部も可愛いオジサンに見えてきて、予定調和的ギャグを見終わってなぜか心の安らぎのある幸せな気分になれる。
 ファントムの愛人がなぜクルーゾー警部夫人なのか、といった設定上の乱暴さはあるが、それもまたギャグのうちと大らかな気持ちで見るべき作品。
 王女役はエキゾチックな容姿が魅力のセクシー女優クラウディア・カルディナーレ。 (評価:2.5)

野のユリ

製作国:アメリカ
日本公開:1964年10月24日
監督:ラルフ・ネルソン 製作:ラルフ・ネルソン 脚本:ジェームズ・ポー 撮影:アーネスト・ホーラー 音楽:ジェリー・ゴールドスミス

ピューリタニズムの教科書だがポワチエが清々しく嫌味がない
 原題"Lilies of the Field"で、邦題の意。ウィリアム・E・バレットの同名小説が原作。
 タイトルは、劇中、修道院長が引用する新約聖書マタイ伝6章28節「又なにゆえ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり」から。
 アリゾナの荒野を一人旅していた黒人青年(シドニー・ポワチエ)が、車のオーバーヒートで水をもらいに近くの家を訪ねると、ドイツ、オースリア、ハンガリーの修道女たちが住んでいて、院長(リリア・スカラ)にいきなり神が遣わした者だと告げられる。
 神の使者とは、彼女たちが荒野に建てようとしている教会の建築を手伝うことで、金の尽きかけていた青年はアルバイトのつもりで1日だけ働く。賃金を請求すると院長は英語のわからないふりをし、一日延ばしにしながら結局完成まで青年は手伝うことになる。
 青年の名はホーマー・スミス(Homer Smith)だが、院長たちはドイツ語読みでホメロス・シュミットと呼んで、全体はコメディタッチ。
 修道女たちはおそらく東独などの当時の東欧共産圏からアメリカに亡命してきた者たちで、唯物論に対して唯神論を唱える。
 労働に対価を求めるスミスに貧しい食事で遇し、パンは対価ではなく神の恵みと諭す。教会建築のために煉瓦の寄進を町の建設業者に頼んで断られ、ニューヨークの企業に寄付を依頼して1セントも集まらない。
 見かねたスミスが教会建築を請負い、町の建設業者でバイトした金で修道院の食糧と資材を調達。それでも院長が神の思し召しとスミスに言うのが可笑しい。
 スミスに触発されて町の人たちや建設業者も教会建築に協力、完成。落成式を待たずにスミスは旅立つ。
 それまで何事もなすことのなかったスミスが、何事かをなすために無償の愛によって教会を建築。正しく神の使いとして現れ、黒人霊歌とともに去っていく姿をイエスになぞらえる。
 ピューリタニズムの教科書的な作品だが、黒人初のアカデミー主演男優賞を受賞したポワチエが清々しく、嫌味がない。 (評価:2.5)

大脱走

製作国:アメリカ
日本公開:1963年8月10日
監督:ジョン・スタージェス 製作:ジョン・スタージェス 脚本:ジェームズ・クラヴェル、W・R・バーネット 撮影:ダニエル・ファップ 音楽:エルマー・バーンスタイン

アメリカ人が喜ぶ悲劇的ヒーロー活劇娯楽作
 原題"The Great Escape"。オーストラリアのポール・ブリックヒルが収容所体験を基に書いた同名小説が原作。ブリックヒル自身は脱走していない。
 映画の冒頭の字幕にもあるように、事実を大幅に脚色したエンタテイメント作品。アメリカ人が喜ぶように、脱走した連合国兵士をヒーローとして描いているので、映画に歴史性やリアリティを求めると期待外れに終わる。
 捕虜収容所内で脱走計画を進める前半は、後半が暗くなるために意識して明るく描かれる。それがいいかどうかは判断が分かれるが、兵士たちが全員いかにもアメリカ的な男らしくユーモアと誇り・勇気・知恵があるナイスガイに描かれていて、西部劇かアクションコメディにしか見えない。
 対するドイツ兵が謹厳実直な上に間抜けというアメリカンコミック的勧善懲悪かつステレオタイプなキャラクターシフトで、正直、戦争映画として見ているとあまりの大衆迎合主義にうんざりする。
 それでも脱走後の後半は、スティーブ・マックイーンのバイクシーンや、ジェームズ・ガーナーの飛行機シーン、ジェームズ・コバーンの長閑な自転車シーンと見せ場も多く、アクション映画らしさを発揮する。リチャード・アッテンボローが最期の場面で、脱走計画があったから捕虜の生活に耐えられたと言うのが泣かせる。
 脱走計画そのものは男たちが『トム・ソーヤの冒険』に夢中になっている感じで、これもアメリカ的。
 大ヒットしたテーマ曲"The Great Escape March"が徹頭徹尾流れるが、捕虜収容所から悲劇に終わる脱走劇には、この意気揚々とした行進曲は違和感があって、時々気分を削がれる。  (評価:2.5)

シャレード

製作国:アメリカ
日本公開:1963年12月21日
監督:スタンリー・ドーネン 製作:スタンリー・ドーネン 脚本:ピーター・ストーン 撮影:チャールズ・ラング・Jr 音楽:ヘンリー・マンシーニ

34歳の少女ヘップバーンにドキドキ、クラクラ
 ヘップバーン主演のある意味、名作。原題は"Charade"。2002年にリメイクされているが、ファラ・フォーセット主演の『シャレード79』(Somebody Killed her husband)は邦題を借用した別物。charadeはもとはフランス語で、ジェスチャー・ゲームのこと。虚偽の芝居といった意味もあって、タイトルの意味はこれに近い。
 富豪の夫が殺され未亡人となったヘップバーンに、夫の過去のミステリーが襲いかかるという物語で、全体にはミステリーだが話の筋はそれほど綿密でもなく、コメディタッチでケーリー・グラントとの恋もあり、ジバンシーのファッションショーも楽しめるといった、お洒落なライトノベルといった感じ。
 一言でいえばヘップバーンのアイドル映画で、ヘップバーンの魅力を引き出すことに全精力が傾けられている。夫が家財道具を売り払って死んだために、ヘップバーンはコンパクトなホテルでの暮らし。数えなかったがヘップバーンの衣装替えは両手の指では足りず、どこに魔法の箪笥があるのだろうと余計なことを考える。ヘプバーンの怯える顔、恋する顔等々の七変化。アイドルには薹が立ち過ぎているが、34歳の少女っぷりを如何なく発揮して嫌味がない。恐るべしヘップバーン。グラント59歳と、おじさまが永遠のアイドルを引き立てる。
 定番のオチも安心感があり、ちょっとだけドキドキ、ちょっとだけワクワクしながら、着せ替え人形ヘップバーンの美貌を難しいことを考えずに鑑賞するための映画。 (評価:2.5)

モンソーのパン屋の女の子

製作国:フランス
日本公開:1996年8月23日
監督:エリック・ロメール 脚本:エリック・ロメール 撮影:ジャン=ミシェル・ムリス、ブリュノ・バルベ

恋の虜となった若者のナイーブな心理を瑞々しく描く
 原題"La boulangere de Monceau"で、モンソーのパン屋の意。連作「六つの教訓話」第1作で、23分の短編。
 大学生が街角でよく擦れ違う女の子と互いに意識し始め、彼女に声を掛けたいと思いながらも気後れしてしまうという、若い頃には誰にも心当たりのあるエピソードを基にしたお話。
 大学生(ベルベ・シュロデール)は偶然から女の子シルヴィ(ミシェル・ジラルドン)と話すことになり、勇気を出してお茶に誘うが、急いでいて断られる。その後、待てど暮らせど連絡はなく、彼女と会えそうな場所を探して街を彷徨うが再会できず。その際に頻繁に買いに行くようになったパン屋の女の子ジュリエット(クローディーヌ・スブリエ)が自分に気があるのに気づき、シルヴィへの当てつけと腹いせにジュリエットをデートに誘う。
 デート当日、パン屋の前でシルヴィに出会い、彼女が向かいのアパートに住んでいて、捻挫で出かけられず、毎日パン屋に出入りする大学生を窓から見ていたことを知る。
 大学生はシルヴィの家を探すためにストーカーすることを躊躇していたのだが、シルヴィは大学生が家を知っていると誤解しているわけで、それが幸いしたのか、ジュリエットとのデートをすっぽかして本命のシルヴィを食事に誘い、結果、結婚。フラれたジュリエットはパン屋を辞めてしまう。
 大学生が世慣れていれば二股掛けてジュリエットを遠ざけただろうが、それができないのが若さの特権で、大学生は身勝手でも不実でもなく、恋に平常心を失ってしまう若者のナイーブな心理を瑞々しいタッチで描く。 (評価:2.5)

製作国:イギリス
日本公開:1968年3月9日
監督:ジョセフ・ロージー 製作:ジョセフ・ロージー 脚本:ハロルド・ピンター 撮影:ダグラス・スローカム 音楽:ジョン・ダンクワース
キネマ旬報:10位

英国階級社会の風刺が日本人にはピンとこない
 原題"The Servant"で、邦題の意。
 アフリカ帰りの独身紳士が召使いを雇ったところ、料理上手・インテリア上手で超優秀。婚約者よりも主婦能力の高い召使いの方が大事になり、召使いの情婦の色仕掛けまであって絡め取られた挙句、やがて召使いの縁者たちに屋敷を乗っ取られてしまうという顛末の物語。
 婚約者は召使いを一目見て何かを企んでいると紳士に告げ、召使いと情婦の意味深なシーンもあって、それが引きになってステリー風に話は進むが、最後まで召使いの企みはわからずじまい。
 おそらくはイギリス流のブラックコメディなのだが、イギリス人のシニカルなセンスというのは今ひとつわからないところがあって、若干呆気にとられた幕切れとなる。
 紳士の家は棟割長屋で屋敷には程遠く、召使いにおまえよりは俺の方が紳士だと言わしめるなど、貴族と労働者階級の力関係が逆転した現状とイギリスの階級社会を風刺しているが、日本人にはピンとこない。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1965年5月11日
監督:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール 撮影:ラウール・クタール 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キネマ旬報:4位

涙ぐましい浮気心と努力が身につまされる
 原題"La Peau douce"で、心地よい肌の意。
 一言でいえば男が浮気をする物語で、それ以上でもそれ以下でもないので、トリュフォーだからと何かを期待しない方が良い。
 男は文芸評論家で、リスボンへの講演旅行の際のスチュワーデスがイイ女。宿泊先のホテルのエレベーターで再会して運命と思ったのか、ナンパのチャンスと思ったのか部屋から電話をかけてデートを取り付ける。
 以下、パリに戻ってからも密会を重ね、ランスへの仕事に愛人を同伴。ところが彼女を連れ歩くことができず、何もすることがない愛人が不満を爆発。妻にも同伴出張がバレてしまい、離婚騒ぎに。
 愛人は去り、本気ではない妻とよりを戻そうとした矢先、愛人とのスナップ写真を妻が発見して逆上。男が何時も食事をするレストランにライフルを持ってやってきて射殺してfinとなる。
 見どころはといえば、男の涙ぐましいばかりの浮気心と努力が身につまされるところで、一途に思い込んだら家庭のことも愛人の気持ちもそっちのけ、彼女と如何に一緒に過ごすかだけを考えるという悲しい男のサガを描いている点ではまさに、ドキュメンタリーなヌーベルバーグ。
 ナンパと浮気に精出すどうしようもない男ながら、プレイボーイではない、何処にでもいる男の平均像ともいえるが、その意味では所詮は凡庸な浮気物語にすぎない。 (評価:2.5)

ドノバン珊瑚礁

製作国:アメリカ
日本公開:1963年7月19日
監督:ジョン・フォード 製作:ジョン・フォード 脚本:フランク・ニュージェント、ジェームズ・E・グラント 撮影:ウィリアム・H・クローシア 音楽:シリル・モックリッジ

現代劇ながら西部劇の世界を楽しめる
 原題"Donovan's Reef"で邦題の意。ドノバンは主人公(ジョン・ウェイン)の名前で、南太平洋の島ハレアコロハで"Donovan's Reef"という店名のバーを経営している。
 ジョン・フォード後期の西部劇でないコミカルな作品で、太平洋戦争で日本軍が支配する島に漂着して生き残った3人の兵士が、除隊後、国連軍統治下の島で気儘に暮らしている。そこに富豪の娘(エリザベス・アレン)が軍医だった父(ジャック・ウォーデン)に会いに来て、すったもんだの挙句、ドノバンと恋に落ち、ボストンには帰らずに島に居ついてしまうというラスト。
 ドノバンの喧嘩友達をリー・マーヴィンが演じ、西部劇さながらのバーでの殴り合いをして、武骨な男の世界を展開する。
 これに魅かれるのが富豪のじゃじゃ馬娘という、ジョン・フォードの西部劇のパターンそのもので、現代劇ながら西部劇の世界を楽しめるという作品だが、現実のストレスな世界を離れて夢の世界に暮らすという南の島幻想となっているのが監督研究の上では興味深い。
 娘の父は島の女王を現地妻にして3人の子供を設けていて、ボストンで家督を継いだ娘の一族が人種差別傾向にあることも冒頭で紹介され、逆にそれを怖れた元兵士の3人が真実を隠そうと画策する。
 結局、娘は異母弟妹を受け入れ、ボストンにも帰らず、ジョン・フォードの反人種差別の姿勢は西部劇同様に貫かれるが、ジョン・ウェインがじゃじゃ馬娘の尻を叩いて言うことを聞かせるという男性優位思想は残っていて、時代を感じさせる。
 ハレアコロハ島は架空の島で、ポリネシアということになっているが、ハワイ・日本・中国もミックスされた無国籍なオリエンタルの島になっているのも笑いどころ。  (評価:2.5)

ハッド

製作国:アメリカ
日本公開:1963年11月2日
監督:マーティン・リット 製作:マーティン・リット、アーヴィング・ラヴェッチ 脚本:アーヴィング・ラヴェッチ、ハリエット・フランク・Jr 撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ 音楽:エルマー・バーンスタイン

親子の確執を描くがP・ニューマンに感情移入できない
 原題"Hud"で、主人公の名。ラリー・マクマートリーの小説" Horseman, Pass By"(馬乗り、通り過ぎる)が原作。
 テキサスの牧場を舞台に親子の確執を描くが、主人公となるハッド(ポール・ニューマン)に今一つ感情移入できないため、深みのない単なる仲の悪い父子の話になってしまっている。
 原作は『ラスト・ショー』(1971)、『愛と追憶の日々』(1983)のラリー・マクマートリーであり、父親役のメルヴィン・ダグラスと家政婦役のパトリシア・ニールがともにアカデミー助演男優・主演女優賞に相応しい演技を見せていることからも、ポール・ニューマンの役作りかマーティン・リットの脚本・演出のどちらかが悪かったことになる。
 34歳で独身のハッドは、夜になると酒場で喧嘩し、間男する札付きのワル。父親の牧場の手伝いも死んだ兄の息子に押し付ける。物語が進むに従ってその原因が酒酔い運転の自動車事故で兄を死なせたことにあり、その呵責から父との仲が悪化し自堕落な人間になったことがわかる。
 さらに、事故の前から父に嫌われていたことを知って自暴自棄になり、家政婦の未亡人を強姦しようとして甥に止められ、父の高齢を利用して牧場乗っ取りまで図るという有様で、ハッドに同情する余地が1ミリもない。むしろ、何故牧場を出て行かないかが不思議なくらいで、実際にはハッドの父に対する愛情とその裏返しの反抗心をハードボイルドに描こうとしたのだろうが伝わってこない。
 そうした点で凡作なのだが、牧場一途の父を好演するメルヴィン・ダグラスがそれを救っていて、口蹄疫で牛が全滅になりながらも再起に賭け、牧場を廃業して石油採掘を勧めるハッドや周囲に対し、働かずして金を稼ぐことは嫌だと拒否するカウボーイぶりが良い。
 父亡き後、ハッドが牧場を一から建て直す描写があれば、少しは違った作品になったかもしれない。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1977年8月6日
監督:ルイ・マル 脚本:ルイ・マル 撮影:ギスラン・クロケ 音楽:エリック・サティ
キネマ旬報:3位

喪失感のみで先に進まないのが村上春樹に似ている
 原題"Le Feu follet"で、邦題の意。ドリュ・ラ・ロシェルの同名小説が原作。
 フランスの高等遊民の話で、パリで放蕩なサロン的生活を送っていた主人公が、アル中になって病院で療養を続け退院間際という設定。入院直前まではニューヨークに暮らしていたらしく、妻の依頼で男の恋人がパリに様子を見に来ている。
 退院して放蕩生活に戻るのを恐れてか、はたまた愛のない夫婦生活を忌避するためか、それとも人生に絶望してか、男は退院を先延ばしにしてきたが、院長の勧告を受けて退院することになり、拳銃自殺するつもりでヴェルサイユの療養所を出る。
 男はかつての友人らを訪ねるが、身を落ち着けて居たり、麻薬に溺れて居たり、金持ち男と結婚していたりと、青春の楽しき日々は失われ、居場所を見つけられない男は、誰にも愛されていない、誰も愛してはいないことを再確認し、療養所に戻って銃口を胸に当てる。
 人生に目的を喪失した男にとって人生の歩みは緩慢で、そのために自らの手で歩みを早めるという台詞もあって、ふた昔前に流行ったニヒリズムの物語。自らのニヒリズムに酔ってアイデンティティを感じるという類の作品で、今なら中二病の一言で片付けられる。
 喪失感のみで同じ場所をぐるぐる回り、その先に進もうとしないのが村上春樹作品に似ている。虚無に酔って干乾びていく男にサティの曲がピッタリ。 (評価:2)

いぬ

製作国:フランス
日本公開:1963年11月16日
監督:ジャン=ピエール・メルヴィル 製作:カルロ・ポンティ 脚本:ジャン=ピエール・メルヴィル 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ポール・ミスラキ

筋は気にせず雰囲気だけを楽しむフィルム・ノワール
 原題"Le Doulos"で、帽子を意味するスラング。ギャングの間では密告者の隠語と冒頭で説明がある。
 ピエール・ルズーの同名小説が原作。
 服役を終えたばかりのギャング、モーリス(セルジュ・レジアニ)は、妻を殺したジルベール(ルネ・ルフェーヴル)に復讐。殺して盗品の宝石を奪う。仲間のレミー(フィリップ・ナオン)と気の進まない金庫破りに行くが、密告で駆け付けた警官隊と撃ち合いになりレミーは死亡。気を失ったモーリスは何者かに助けられるが、情婦のテレーズ(モニーク・エネシー)が殺され、モーリスはジルベール殺しで逮捕される。
 一方、仲間のシリアン(ジャン・ポール・ベルモンド)は終始怪しげな行動をとり、観客にはシリアンが密告者ではないかと思わせる。そのシリアンは別のギャング、ヌテシオ(ミシェル・ピッコリ)を消し、モーリスの宝石を手に入れてヌテシオにジルベール殺しの罪を着せる。
 モーリスは釈放され、密告者がテレーズだったことを知る。しかしシリアンが密告者だと疑っていたモーリスは、留置所で同室だった男にシリアン殺しを依頼していて、それを阻止しようとして殺され、シリアンもまた男と相討ちになるという、そして誰もいなくなるフィルム・ノワール。
 話の筋が複雑な上に、タイトル通り、密告者は誰かというのを観客に錯誤させるように作られているため、さらにシナリオが込み入って、見ていて話の筋が追えずに訳が分からない。シリアンの密告者の謎解きも安手の推理小説風。
 筋は気にせずに、雰囲気だけを味わい、素直に「ああ、そうだったのか」と楽しむ作品。 (評価:2)

地下室のメロディー

製作国:フランス
日本公開:1963年8月17日
監督:アンリ・ヴェルヌイユ 脚本:ミッシェル・オーディアール、アルベール・シモナン、アンリ・ヴェルヌイユ 撮影:ルイ・パージュ 音楽:ミシェル・マーニュ
ゴールデングローブ外国語映画賞

おフランス好きにはたまらないワルかっこいい映画
 原題は"Melodie en sous-sol"で邦題の意味。アラン・ドロンとジャン・ギャバンの2大スターが組んでカジノ強盗をするという、豪華犯罪映画。カンヌの高級リゾートホテルも豪華なら、そこに泊まるドロンの遊びっぷりも豪華。2大スター競演だけにとにかく豪華な映画で、ドロンのイケメンぶりもギャバンのワル親父のカッコよさもいい。
 おフランスのカッコよさ、お洒落ぶりは全編に行き渡っていて、それがこの映画製作の狙いでもあるが、見どころはそれだけ。エスプリが利いたラストシーンは、おフランス好きには堪えられないが、あまりにシュール過ぎて、エスプリのためならシナリオは何でもアリといった感じ。
 ギャバンも偉そうでムショ帰りとは思えない風格がシュールだし、カジノ強盗も何年も計画していた割には周到さの欠片もなく杜撰で成り行き任せ。それを補うかのように強盗実行のシーンを丁寧に描くのだが、いわゆる段取りばかりを描くために緊迫感もなくテンポも悪く、間延びして眠くなるほどに退屈。
 ドロンとギャバンさえカッコよく描ければ、シナリオも演出もどうでもいいという、昔のスター映画の見本だが、それでもドロンさえ見られればいいという人や、おフランス好きには楽しめるのかもしれない。ゴールデングローブ外国語映画賞受賞。 (評価:2)

シュザンヌの生き方

製作国:フランス
日本公開:1996年8月23日
監督:エリック・ロメール 製作:バルベ・シュローデル 脚本:エリック・ロメール 撮影:ダニエル・ラカンブル

若い男女の表層だけで蹉跌というには物足りない
 原題"La carriere de Suzanne"で、シュザンヌの経歴の意。連作「六つの教訓話」第2作で、52分の中編。
 大学生のベルトラン(フィリップ・ブーザン)が主人公。カフェで友人のギヨーム(クリスチャン・シャリエール)がシュザンヌ(カトリーヌ・セー)をナンパ。すぐに手を出してシュザンヌは恋人気取りだが、ギヨームにその気はなく、貢ぐシュザンヌを食い物にする。
 金がなくなりギヨームに捨てられて別の男を探し始めたシュザンヌに真面目なベルトランは同情し、ダクシー代も払えない彼女を自宅に泊めるが、男なら誰でも良さそうなシュザンヌを軽蔑する。
 しばらくして新しい男と婚約したシュザンヌが幸せそうにしているのを知り、彼女を憐れんでいた自分やギヨームの浅薄さを知るという物語。
 地に足の着かないベルトランとギヨームと現実的に生きるシュザンヌを対比するが、シュザンヌが愚かな女にしか見えず、ベルトランが心を寄せるソフィー(ディアーヌ・ウィルキンソン)との関係も生煮えで主体性を持たない傍観者でしかなく、若い男女の表層だけを描いただけの作品に終わっていて、青春の蹉跌というには物足りない。 (評価:2)

クレオパトラ

製作国:アメリカ
日本公開:1963年11月26日
監督:ジョセフ・L・マンキウィッツ 製作:ウォルター・ウェンジャー 脚本:ジョセフ・L・マンキウィッツ、シドニー・バックマン、ロナルド・マクドゥガル 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:アレックス・ノース

海戦シーンを除けばレビューか見世物程度のスペクタクル
 原題"Cleopatra"。
 シーザーとの出会いから毒蛇で自殺するまでのクレオパトラの半生涯を描く、とにかく金のかかった作品。これまでテレビ放映で途中まで見かけて止めた経験が何度かあるが、4時間余りと無茶苦茶長尺でその上冗長なため、見切るのに相当な覚悟と忍耐が要る。
 序曲を含めて前後編に分かれるが、前半はシーザー(レックス・ハリソン)、後半はアントニウス(リチャード・バートン)が主役で、要はクレオパトラ(エリザベス・テイラー)はこの二人の英雄に乗っかっているだけの受動的な女で、主役として物語を引っ張れていないのが痛い。
 ドラマの退屈さもこれが原因で、エジプトをローマから守るための策略家という影も薄く、シーザーをエジプトとローマの王にして自分は王妃としての地位を得る、アントニウスにエジプトとローマを統合させて息子を後継王に据えるという、いずれもタバボタ戦略しかない。
 エリザベス・テイラーに悪女は演じさせられなかったのか、二人の英雄を手玉に取るというよりは愛を捧げる女になってしまって、どちらかといえば悲しい女の恋愛映画で、かといってエジプトの運命を背負った女の葛藤というようなドラマ性も皆無。
 要は絶世の美女にエリザベス・テイラーを起用しただけのスター映画に過ぎず、スペクタクルも海戦シーンだけで、クレオパトラのローマ入城なども、舞台セット、大道具、エキストラ、演舞など大掛かりだが、レビューか見世物でしかないのが映画としてはつまらない。 (評価:2)

ラスベガス万才

製作国:アメリカ
日本公開:1964年5月1日
監督:ジョージ・シドニー 製作:ジャック・カミングス、ジョージ・シドニー 脚本:サリー・ベンソン 撮影:ジョセフ・バイロック 音楽:ジョージ・ストール

エルヴィスよりもアン=マーグレットのセクシーが魅力
 原題"Love in Las Vegas"で、ラスベガスの愛の意。
 エルヴィス・プレスリーの音楽映画で、エルヴィスと共演のアン=マーグレットが全ての作品。
 物語は、貧乏レーサーのエルヴィスが、ラスベガスで資金作りをして手作りのレーシング・カーを完成させるというもので、最後のエンジンを手に入れるところで、セクシー美人のマーグレットを見初めて夢中になり、肝腎の資金を紛失してしまい、ホテル代を払えずにボーイになってマーグレットにアタックするという他愛のないもの。
 最後はもちろんマーグレットもエンジンも手に入れてレースに優勝するが、ラスベガスでのショー巡り、エルヴィスの歌、砂漠コースのマリオカートと至れり尽くせりのエンタテイメント。
 最大の見どころは、歌と踊りにお色気と三拍子揃ったスウェーデン金髪美人マーグレットの溢れる魅力で、とりわけミニスカートに水着、レオタードと、これでもかというくらいに披露してくれる美尻・脚線美のボディラインが極め付け。
 もともと陳腐なストーリーなので、エルヴィスの歌もマーグレットのセクシーもないカーレースシーンが少々退屈する。
 MGMミュージカル風のマーグレットの歌と踊りが楽しい。 (評価:2)

カラビニエ

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1970年11月7日
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・グリュオー 撮影:ラウール・クタール 音楽:フィリップ・アルチュイ

戦争について寓意が示されるが風刺以上のものはない
 原題"Les Carabiniers"で、騎銃兵の意。
 戦争をパロディ化した作品で、無知な農民の家に二人のカラビニエ(機銃兵)が現れ、王様の手紙=召集令状を見せる。
 徴兵されるのは息子のユリシーズ(マリノ・マッセ)、ミケランジェロ(アルベール・ジュロス)で、それぞれの妻クレオパトラ(カトリーヌ・リベイロ)とヴィーナス(ジュヌヴィエーヴ・ガレア)は反対するが、戦争に行けばあらゆる富と女を戦利品として手に入れることができると甘言で誘い、二人は戦争に参加する。
 甘言に従い、二人は破壊と略奪、捕虜銃殺と戦争犯罪を繰り返し、戦利品を手にして凱旋する。
 ところがトランクを開けると、それらは写真を束ねたカタログ。戦争が終われば好きなものと交換できるとカラビニエに言われるが、王党派の敗戦に終わり、二人は戦犯として処刑されてしまう。
 戦争について多くの寓意が示されるが、無知な民衆と狡猾な権力者という類型を漫画的に対比させているだけで、風刺以上のものはない。
 一言で言えばゴダールの自己満足な素人芝居で、俳優たちが面白いと思って演じているように見えない。
 初めて映画を見たミケランジェロが、スクリーンの中で風呂に入る女を実像と勘違いするシーンが、戦利品の写真のカタログと共に笑えるくらいで、おふざけプライベートフィルムの域を出ていない。 (評価:2)

製作国:イタリア
日本公開:1965年9月26日
監督:フェデリコ・フェリーニ 製作:アンジェロ・リッツォーリ 脚本:フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 音楽:ニーノ・ロータ
キネマ旬報:1位
アカデミー外国映画賞

他人の見たくもない裸を見せられている感じ
 原題"8 1/2 Otto e mezzo"。Otto e mezzoは、算数の8と1/2のこと。公開の頃は、8か1/2と読んだ。
 精神的に疲れた映画監督が主人公の作品で、マルチェロ・マストロヤンニが映画監督を演じる。
 医者に勧められて温泉地に療養に出かけるが、次回作の打ち合わせにやってくるプロデューサーやシナリオライター、出演を希望する俳優たちがやってきて、仕事から逃れられない。夢と現実が交錯する中で、神学校になじめなかった少年時代の回顧、まとまらない次回作の構想、愛人と妻との私生活に苦悩を深めていく。
 いわば、フェリーニ自身の映画論を語る作品で、映画に登場する一人ひとりの人生を描くことに疲れ果ててしまったフェリーニの苦悶を描く。
 しかし、そんなことは観客にはどうでもいいことで、映画監督が映画作りでどう悩もうが、それはあくまでも監督自身の問題でしかなく、そうした極私的テーマを映画にすることに、少なくとも商業映画としては意味を見いだせない。
 作品そのものは、ある種芸術性を帯びたファンタジーに仕上がっていて、観ていて飽きることもないが、かといって他人の見たくもない裸を見せられているようで、個人的には有益性を感じない。
 終盤は、すべての女たちに理解され愛されるという楽しいハーレムの夢から、女使い捨ての冷酷へと変わり、主人公自身が拳銃自殺するという夢か現実かわからないままに、映画撮影のシーンとなる。出演者全員が輪になって踊る、ヤケクソともいえる大団円となり、輪から抜けて独り少年時代の主人公だけが残るラストシーンとなる。
 人生のカラ騒ぎと、置き忘れてきた少年時代の真実の自分という、誰にも共通する思いだけが共感を呼ぶ私小説。
 妻を演じる知性的なアヌーク・エーメ、愛人役のセクシーなサンドラ・ミーロといろいろなタイプの女性が出てくるのが見どころで、最後に登場する娘のクラウディア・カルディナーレが妖艶で美しい。 (評価:1.5)

審判

製作国:フランス、イタリア、西ドイツ
日本公開:1964年1月28日
監督:オーソン・ウェルズ 脚本:オーソン・ウェルズ 撮影:エドモン・リシャール 音楽:トマゾ・アルビノーニ

不条理には不条理な愉しみ方をするしかない
 原題"Le Proces"で、邦題の意。フランツ・カフカの同名小説が原作。
 銀行の業務主任ヨーゼフ・K(アンソニー・パーキンス)が理由のわからないままに逮捕され、裁判を受けるというもので、その不当性を訴えて職場や裁判所、弁護士事務所、肖像画家をめぐり無罪を晴らそうとするが結局処刑されてしまうという、悪夢を見ているように辻褄の合わない、不条理な物語。
 不条理というだけでストーリーが面白いわけでもなく、整合性もなく辻褄の合わない話が延々と続くので退屈極まりない。活字で読めばそれでも不条理が罷り通る世の中について思考することもできるが、コミュニケーションも時間も一方通行で、反芻することのできない映像で見せられてもただつまらないだけ。
 ヨーゼフの隣室のダンサー、ジャンヌ・モローの太腿や弁護士秘書ロミー・シュナイダーのお色気を楽しんだり、体育館のように広い銀行オフィスに整然と並ぶ机とロボットのような銀行マンたちの壮大なモブ、劇場のような群衆の中で行われる裁判のモブを、これまた不条理の極みとその絵作りに感嘆したり、肖像画家のアトリエの螺旋階段に群がる少女たちのローアングルなカメラワークを楽しんだりと、不条理には不条理な愉しみ方をするしかない。
 次々登場する大きな扉は天国への審問の扉なのか、ヨーゼフの明らかにされない罪は原罪なのか、あるいは監視社会、全体主義、国家の法の支配への警鐘なのか…といったメタファー探求もできるが、せめてもう少しわかりやすくしてほしいと、欠伸を堪えながら見る作品。 (評価:1.5)


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