海月衛 映画帖
~映画の大海原をたゆたう~

外国映画レビュー──1956年

製作国:イタリア
日本公開:1958年10月18日
監督:ピエトロ・ジェルミ 製作:カルロ・ポンティ 脚本:アルフレード・ジャンネッティ、ピエトロ・ジェルミ、ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ 撮影:レオニーダ・バルボーニ 音楽:カルロ・ルスティケリ
キネマ旬報:5位

60年前のこの一家の姿が眩しい
 原題は"Il Ferroviere"で邦題の意。ピエトロ・ジェルミが監督と、主役の鉄道機関士を演じている。
 30年鉄道機関士を続けてきた武骨な父、山師のようなことに手を出しているニートの長男、未婚で妊娠してしまった長女、小学校に通う歳の離れた末弟、そのバラバラになりそうな一家を繋ぎとめようとする愛情深い母の5人家族。こう書くと、まるで現代の家族の話のようだが、これは約60年前の家族の物語。ジェルミが捉えた普遍的な家族の姿と、そのテーマが60年後の今も少しも古びず、むしろ新鮮であることに驚かされる。
 末弟サンドロを演じる8歳のエドアルド・ネボラがいい。父と家族の姿を淡々と伝えるナレーションが子供らしい愛情に満ちている。ネボラはジェルミ監督の『わらの男』の出演後も近年までイタリアで俳優や吹き替えを続けていた。
 彼の目を通した特急電車機関士の父は英雄であり、やさしい父でもある。しかしそれでも家族は崩壊し、父の仕事上の失敗がそれに拍車をかける。家を出る長男と長女、スト破りをした父は職場でも仲間外れにされ、家族からも友人たちからも離れて孤高を貫くが、それをもとの場所に引き戻すのはこの純真な末っ子の父への尊敬に他ならない。
 この物語はハッピーエンドでは終わらない。しかし父の家族と友人たちとの和解があり、父の仕事を引き継ぐ長男のラストシーンが家族の真のハッピーエンドを伝える。長女を思い続ける食料品店の息子もいい。
 殺伐とした現代からは、60年前のこの一家の姿が眩しく映る。 (評価:4)

製作国:フランス
日本公開:1956年10月18日
監督:ルネ・クレマン 製作:アニー・ドルフマン 脚本:ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト 撮影:ロベール・ジュイヤール 音楽:ジョルジュ・オーリック
キネマ旬報:1位

男も女も浮気者という上流から下流までのフランス人気質
 原題"Gervaise"で、主人公の名。エミール・ゾラの"L'assommoir"(ラソモワール)が原作。ラソモワールは、作中の居酒屋の店名。
 19世紀半ば、パリの裏町を舞台とした不幸な女ジェルヴェーズ(マリア・シェル)の物語。
 内縁の夫(アルマン・メストラル)は二人の息子までいるのに向かいの家の女と家出。屋根職人(フランソワ・ペリエ)と結婚し娘ナナが生まれ幸せを手にしたと思いきや、夫が屋根から落ち、治療にジェルヴェーズは洗濯屋開業資金を使い果たしてしまう。
 彼女に想いを寄せる鍛治職人(ジャック・アルダン)が開業資金を貸してくれ、店は繁盛するが、夫は働かず酒浸り。そこに元夫が舞い戻り同居してしまう。呆れ果てた鍛治職人はジェルヴェーズの長男と町を出、心の支えを失ったジェルヴェーズはアル中夫と沈没。元夫の新しい愛人(シュジ・ドレール)に店を乗っ取られ、哀れ居酒屋の外で朽ち、幼いナナは不良たちの仲間となる。
 ゾラの原作を忠実に描いた映像が見どころで、当時のパリの裏町や庶民の暮らし、風俗が興味深い。ヒモ同然の男を養う女たちが力強いが、男も女も浮気者という上流から下流までのフランス人気質が何とも言えない。
 ある意味、自我を確立できない無教育なジェルヴェーズの自業自得の物語だが、演じるマリア・シェルの純粋無垢な可愛らしさが、本作を悲劇の女の物語に昇華させている。 (評価:3)

ジャイアンツ

製作国:アメリカ
日本公開:1956年12月22日
監督:ジョージ・スティーヴンス 脚本:フレッド・ジュイオル、アイヴァン・モファット 撮影:ウィリアム・C・メラー、エドウィン・デュパー 音楽:ディミトリ・ティオムキン、レイ・ハインドーフ

古き良き時代のアメリカを描くJ・ディーンの遺作
 原題は"Giant"で単数形。邦題が複数形なのは、ジャイアントでは語感が悪いということか。女性作家エドナ・ファーバーの同名小説が原作。Giant は、ここでは偉人といった意味。
 テキサスの大牧場主ジョーダン・ベネディクト2世(ロック・ハドソン)とレズリー(エリザベス・テイラー)夫妻の半世を描く長大な物語。201分の長尺だがそれでも駆け足で、二人は出会って即結婚。子供たちの成長も促成栽培だが、展開が早いので飽きない。
 1900年代初めから半ばにかけての物語で、テキサスが舞台となれば保守的で人種差別が当然の時代。レズリーは東部の上流に育った進歩的な女性。物語の結末からいえば、テキサス男のジョーダンが妻と彼女が育てた子供らによって偏見から脱皮していく姿を描いたもの。
 ジョーダンの大牧場主ぶりが半端ではない。敷地にある駅の名がベネディクトなら、家までは80キロ、隣家までも80キロ、牧場の広さは約59万エーカー(2,388平方キロメートル)で神奈川県の面積に匹敵するという壮大さが如何にもアメリカ的。アメリカ人がメキシコ領テキサスに入植し、アラモの戦いを経て独立したのが1836年、州に併合されたのが1845年で、ベネディクトの祖父が1エーカー5セントでメキシコ人から土地を収奪したという話も出てくる。
 男尊女卑や人種差別が当たり前の南部社会。名誉と誇りを重んじ、レズリーを愛する善良なジョーダンは、彼の常識に盾つく妻と周囲の人間たちとの間で板挟み。我慢しきれなくなった妻はとうとう子供を連れて実家に帰ってしまい、ジョーダンは葛藤に身を置く。長男は牧場を継がず医師となる。
 一方、ジョーダンの牧童で、レズリーを密かに愛する性格の捩じれたジェット・リンク(ジェームズ・ディーン)はジョーダンの姉の遺産を割譲され、その沼地から石油を掘り出す。石油王となったジェットは空港やホテルまで経営するようになるが、ジョーダンの長男のメキシコ人妻を侮辱したことから争いになり、ジョーダンは名声や地位に縛られない真にリベラルな人間に目覚める。
 妻も子も思い通りにはいかなかったが、ジョーダンは本当の家族と幸福を手に入れる。ラストでジョーダンとレズリーは真に精神で結ばれた夫婦となるが、それはレズリーの愛の勝利でもある。
 自立する妻と、保守の殻を破って変わっていく夫のユートピア物語であり、話としてはできすぎている。理想と人の善意を信じることのできた古き良き時代のアメリカ映画だが、なぜかその絵空事に心が安らぐ。
 ジェームズ・ディーンは撮影終了後に自動車事故で死亡、これが遺作となった。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1956年10月5日
監督:アンリ・ヴェルヌイユ 脚本:フランソワ・ボワイエ、アンリ・ヴェルヌイユ 撮影:ルイ・パージュ 音楽:ジョセフ・コズマ
キネマ旬報:8位

取るに足らない人々の取るに足らない日常の風景
 原題"Des Gens Sans Importance"で、取るに足らない人々の意。セルジュ・グルッサールの同名小説が原作。
 しがない中年の長距離トラック運転手とドライブインのウエイトレスの不倫の物語で、思えば『マディソン郡の橋』(1996)の逆ヴァージョンの設定であることに気付く。
 メリル・ストリープに対するのがジャン・ギャバンで、妻と子供たちとの満ち足りない生活を送っている。
 一方、クリント・イーストウッドに対するのがフランソワーズ・アルヌールで、ギャバンに新しい空気をもたらしてくれる。
 二人は恋に落ち、長距離トラックという家族の不在を利用して逢瀬を重ねるが、ここからは『マディソン郡の橋』とは違い、浮気がばれて男は娘との駆け落ち。娘は妊娠していたのを隠して堕胎し、回復しないままに駆け落ちのトラックの中で衰弱し、ついには命を落としてしまうという悲劇。
 男は再び元の生活に戻り、やるせない思いのまま、娘と知り合ったドライブインを今日も訪れる。
 本作のよくできているところは、二人の恋物語を回顧の形で描いているのが効果的なこと。新しいウエイトレスが客に誘われて車に乗り込むのを見送りながら、ドライブインの主人の嘆きを聞いているという枠に収めていることで、「取るに足らない人々」同様の取るに足らない日常の風景に落とし込んでいる。
 取るに足らないやるせない男を演じるジャン・ギャバンの渋い演技が見どころ。 (評価:3)

製作国:フランス
日本公開:1956年8月24日
監督:アルベール・ラモリス 脚本:アルベール・ラモリス 撮影:エドモン・セシャン 音楽:モーリス・ルルー
キネマ旬報:6位

風船とドラえもんのような友達になるメルヘン
 原題"Le Ballon Rouge"で邦題の意。
 35分の短編作品で、小さな少年と赤い風船の交流を淡々と追った、台詞もほとんどない作品。カンヌ映画祭短編パルム・ドールを受賞した。
 モンマルトルの丘のアパルトマンに住む少年が登校途中に赤い風船を発見、それを持って登校・下校。母親が赤い風船を窓から放つも、風船は少年を慕って離れようとせず、友達となるというファンタジー。
 この少年と風船との交流をほのぼのと味わうというのが本作の趣旨だが、モンマルトルの丘から望む当時のパリの街並みや通学時の街の様子がむしろ見どころ。
 物語は、少年の風船を羨む悪友たちがそれを奪おうとし、石をぶつけられて萎んでしまい、少年は親友を失ってしまうが、少年の下にパリ中から風船が集まり、それらを掴んだ少年が宙に浮いてパリの空を飛んでいくという、メルヘンなラストとなる。
 風船は子どもが大好きで、風船とドラえもんのような友達になりたい、風船は夢を運んでくれるという、アルベール・ラモリスとともに童心に帰って楽しむ作品。
 少年のパスカル・ラモリスはラモリス監督の息子、劇中青い風船を持って現れる少女はその妹。 (評価:2.5)

大河のうた

製作国:インド
日本公開:1970年11月28日
監督:サタジット・レイ 脚本:サタジット・レイ 撮影:スプラタ・ミットラ 音楽:ラヴィ・シャンカール
ヴェネツィア映画祭金獅子賞

クールでなければガンジス河の呪縛から逃れられない
 原題"অপরাজিত"で、ベンガル語で打ち破られない者の意。ビブティブション・ボンドパッダエの"পথের পাঁচালী"(道の歌、邦題:大地のうた)と本作同名の自伝的小説が原作。『大地のうた』(1955)の続編。
 西ベンガル州バラクプール村を出た一家はガンジス河岸、ヒンドゥー教の聖地ベナレスのアパートで相変わらずの極貧生活を送る。僧の父親(カヌ・バナールジ)は風邪を引いた上に聖水と信じるガンジスの水を飲んで死亡。オプ(ピナキ・セン・グプタ)は母親(コルナ・バナールジ)とともにベンガルの叔父の村に引き取られる。
 村で学校に通う子供たちを見たオプは母に頼んで学校に通い始め、たちまち秀才と認められ、奨学金を得てカルカッタ大学に進学。都会の生活と勉学に打ち込むオプ(スマラン・ゴーシャル)は息子の帰りを待ちわびる故郷の母を次第に厭うようになり、病気の母を気にせずに休暇に帰省せずにいると叔父から訃報が届く。
 父親と同じ僧になることを望む信心深い叔父の願いを退け、オプがカルカッタの生活に戻るまでが第2部。
 才能とチャンスを得たオプが、ヒンドゥーの因習と貧困、すなわちガンジス河の呪縛を解き放ち、父母の死を横目に見ながら青雲の志を抱く姿を描く成長物語だが、ドラマ性は薄い。とりわけ父母の死に対するオプの感情なり感傷がまるでなく、自己本位な冷血漢に見えてしまうが、裏を返せばその通りであったからこそ、オプはガンジス河の呪縛から逃れることができたということかもしれない。
 別に感動的なヒューマンドラマを期待するのではなく、ヒンドゥーを捨てた男の物語としてクールに見れば、そうすることでしか希望を手にすることのできない土地だと受け止めるしかない。ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞。 (評価:2.5)

製作国:フランス
日本公開:1956年8月24日
監督:ジャック=イヴ・クストー、ルイ・マル 撮影:エドモン・セシャン、フレデリック・デュマ、アルベルト・ファルコ 音楽:イヴ・ボードゥリエ、セルジュ・ボド
キネマ旬報:9位
カンヌ映画祭パルム・ドール

海洋シーンは美しいが素直にドキュメンタリーとして楽しめない
 原題"Le Monde du silence"で、邦題の意。
 海洋学者のクストーとルイ・マルによる海洋調査船・カリプソ号の調査を記録した海洋ドキュメンタリーだが、半世紀前の作品ということもあって、動物虐待や環境破壊、ドラマ作りのための演出臭いところもあって、美しい海洋シーンにも拘らず、素直にドキュメンタリーとして楽しめないのが残念なところ。
 調査の主目的はインド洋におけるサンゴ礁の調査だが、船と並走しながら群舞するイルカの大群や水中スクーターによる海中シーンが印象に残る。
 潜水病の説明が面白いが、ゲージを使っての魚の餌付けを友情と表現したり、クジラの子供をスクリューに巻き込んでケガさせ、銃で安楽死させるあたりから演出臭くなり、クジラの死体を貪る海のギャングのサメ退治、偶然発見したような無人島への上陸、リクガメに乗って虐待するあたりから、期待していた海の美しさや脅威から離れて、観客に媚びた演出が目立ち始める。
 極めつけはサンゴ礁の生態調査と銘打ったダイナマイト漁で、死亡した魚の標本を作るのだが、その結果というのが示されないために、どこが学術調査なのかわからず、単に映画のための演出にしか見えない。
 カンヌ映画祭パルムドールを受賞しているが、ドキュメンタリーの世界においても時代の流れを感じる。 (評価:2.5)

製作国:アメリカ
日本公開:1957年7月20日
監督:マイケル・アンダーソン 製作:マイケル・トッド 脚本:S・J・ペレルマン、ジェームズ・ポー、ジョン・ファロー 撮影:ライオネル・リンドン 音楽:ヴィクター・ヤング
アカデミー作品賞 ゴールデングローブ作品賞

ゲスト出演者に目が離せないが作品そのものは凡庸
 原題"Around the World in 80 Days"で邦題の意。ジュール・ヴェルヌの小説"Le tour du monde en quatre-vingt jours"(八十日間世界一周) が原作。
 物語はほぼ原作通りで、1872年のロンドンから始まる。英国領インドの鉄道敷設のニュースをきっかけに、博打好きのフォッグがクラブの紳士連中と80日間で世界一周できるかという賭けをし、世界一周の旅に出る。スペイン、スエズ運河、インド、香港、日本、アメリカを巡るが最後に一日足りずに失敗に終わったかに見えたが、東回りだったために・・・というのがオチ。
 ポスターなどで目にする気球の旅はスペインまでで、後は船と汽車の旅が中心。船旅では帆船や外輪船が登場する。
 1872年というのがポイントで、明治5年の日本ではマゲもいればザンギリ頭もいて意外と考証はできている。もっとも風俗的には珍奇なものが登場するのが笑いどころ。アメリカではスー族との戦いが描かれるが、白人の偏見に満ちていてジョン・フォードの西部劇との意識のギャップが大きい。
 1872年の科学技術と世界の歴史が俯瞰でき、映像的には観光ガイドも楽しめるが、作品そのものは凡庸。
 フォッグにデヴィッド・ニーヴン、同行する執事にコメディアンのカンティンフラス、途中から旅に参加するインド王妃をシャーリー・マクレーンを演じ、全体に喜劇色が強い。
 当時のスター俳優が多く登場し、マレーネ・ディートリヒ、シャルル・ボワイエ、フランク・シナトラ、バスター・キートンなどがゲスト出演しているのも目が離せない。
 冒頭、『グッドナイト&グッドラック』(2005)で描かれるジャーナリスト、エドワード・R・マローによるジュール・ヴェルヌの解説で、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』が映写されるのもみどころか。 (評価:2.5)

ボディ・スナッチャー 恐怖の街

製作国:アメリカ
日本公開:劇場未公開
監督:ドン・シーゲル 製作:ウォルター・ウェンジャー 脚本:ダニエル・メインウェアリング、サム・ペキンパー 撮影:エルスワース・フレデリックス 音楽:カーメン・ドラゴン

アイディアだけでま、いっかという不思議なB級作品
 原題"Invasion of the Body Snatchers"で、ボディ・スナッチャー(体泥棒)の侵略の意。ジャック・フィニイのSF小説"The Body Snatchers"が原作。
 宇宙生命体が地球にやってきて人々の体を乗っ取り、本人になりすますというアイディアが秀逸で、3回リメイクされたほか、1967~68年のTVドラマ"The Invaders"(邦題:インベーダー)にもパクられているという作品。日本で公開されなかったのが不思議だが、当時は洋画を公開できる映画館が少なかったということか。
 宇宙から降ってきたボディ・スナッチャーの種子がカリフォルニア州の田舎町で繁殖。鞘が割れると中から町の人間そっくりのコピーが現れ、最後に魂を奪ってなり替る、というのが基本設定。やがて町全員が入れ替わって乗っ取られてしまうことになるが、ストーリーに粗が多いのがやや残念なところ。
 主人公の医師が元恋人とともに謎を解き明かし、やがて自分たちが追われる身になって町からの脱出を図るというのが大筋だが、ドラマ部分のご都合主義はともかく、ボディ・スナッチャーの鞘を見つけたのに破壊もせずに反撃しないのが何とも不自然。
 おまけに、元恋人が眠ってしまって体を乗っ取られてしまうのが、鞘から生れた新しい肉体ではなく、オリジナルの肉体で、意識だけが入れ替わるというのは、SF設定上の肝心要のミスで、シナリオで気づかないわけがないのに通してしまうのが何とも遺憾。
 さらには、眠ったらダメといういう割に、じゃあ主人公は都市の警察に駆けこむまで一睡もしていないのか? と突っ込みたくなる。
 そんな粗はそこら中にあるが、古いフィルムなので、アイディアだけでま、いっかという気にさせてくれる不思議なB級作品。 (評価:2.5)

悪い種子

製作国:アメリカ
日本公開:1957年4月4日
監督:マーヴィン・ルロイ 製作:マーヴィン・ルロイ 脚本:ジョン・リー・メイヒン 撮影:ハル・ロッソン 音楽:アレックス・ノース

悪人は種から育つという遺伝説に立つ物語
 原題"The Bad Seed"で、邦題の意。ウィリアム・マーチの同名小説を原作とする、同名戯曲の映画化。
 あどけない女の子が実は鬼女だったというサイコ・スリラーで、悪人は種から育つという遺伝説に立つ物語。
 少女の母クリスティーン(ナンシー・ケリー)は「自分は貰われ子ではないか」と子供の頃から思い続けていて、実はそうだったということを知る。クリスティーンの母は電気椅子で死刑となった悪名高い連続殺人犯で、幼い頃に養父に引き取られたという微かな記憶が手がかりだった。
 クリスティーンの娘ローダ(パティ・マコーマック)には常に不可解な事故が付き纏っていたが、頭のいいローダは無垢な子供を装って大人たちの疑惑を遠ざけていた。
 学校の遠足で、ローダのクラスメートの少年が池に嵌って事故死するが、担任(ジョーン・クロイドン)も少年の母親(アイリーン・ヘッカート)も、ローダが何か知っているのでは、と疑うところから話が動き出す。
 悪い種子は隔世遺伝するらしく、クリスティーンは娘の悪事に怯えるだけで当人は善良そのもの。だからこその対比でローダの不気味さが際立つという演出になっている。
 ローダを演じるパティ・マコーマックの人非人の演技が素晴らしく、アカデミー助演女優賞にノミネートされたが受賞はならなかった。
 クリスティーンは母子心中を図ろうとするが、原作ではローダが生き残ってしまう。映画の結末は原作とは異なり、このためクライマックスは漏らさないでほしいというメッセージが最後に入るので、結末は書かない。 (評価:2.5)

七人の無頼漢

製作国:アメリカ
日本公開:1957年6月22日
監督:バッド・ベティカー 製作:アンドリュー・V・マクラグレン、ロバート・E・モリソン 脚本:バート・ケネディ 撮影:ウィリアム・H・クローシア 音楽:ヘンリー・ヴァース

オープニング主題歌で物語のネタばらしをする
 原題"Seven Men From Now"で、これからの7人の意。西部劇。
 オープニング主題歌があって、人殺しをした7人の男が追い詰められて一人一人殺される物語というネタばらしが歌詞でなされる。説明通り、最初に二人の男が洞穴で殺され、残り5人という主題歌を追うわかりやすい筋運び。主題歌で説明されないのは、殺人事件の内容で、これが少しずつ明かされていく。
 犯人を追う主人公のストライド(ランドルフ・スコット)が次に出会うのが、幌馬車でメキシコ国境の町に向かう夫婦連れで、ストライドに同行することになる。必要性のない登場人物であることと殺人事件の起きたシルバースプリングスから来たと言う時点で、この二人が事件に関与していることが容易に想像がつき、7人が集配所から金塊を奪って逃げたということがわかると、幌馬車に積まれているのが金塊だと予想がついてしまう。
 夫婦連れにしたのは紅一点の美人(ゲイル・ラッセル)が欲しかったのだろうとか、楽屋裏が透けてしまい相当に工夫がないが、予定調和ながらも意外と最後まで見れてしまうのは、美人と中盤から登場するガンマン、マスターズを演じるリー・マーヴィンの演技の賜物か?
 主題歌通りに7人が死んで、ハイエナの如くマスターズが金塊を横取りしようとするが、主人公の名誉挽回とばかりにストライドがタイマンで射殺。夫が死んで寡婦となった美人をストライドがカリフォルニア行きの駅馬車で送り出して一件落着…しないのもハリウッド的予定調和で、美人は幌馬車を下りて町に残るというハッピーエンドとなる。 (評価:2.5)

傷だらけの栄光

製作国:アメリカ
日本公開:1956年12月15日
監督:ロバート・ワイズ 製作:チャールズ・シュニー 脚本:アーネスト・レーマン 撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ 音楽:ブロニスラウ・ケイパー

ヒューマンドラマに仕立てようとするシナリオが鼻につく
 原題"Somebody Up There Likes Me"で、遥か上にいる誰か(神)が私を好いている、私はツイている、の意。
 1940年代のアメリカの実在のボクサー、ロッキー・グラジアノが世界ミドル級チャンピオンになるまでの物語。 ロッキー・グラジアノとローランド・バーバー共著の伝記が原作。
 ニューヨークの貧しいイタリア人家庭に育ったロッコ・バルベラ(ロッキー・グラジアノはリングネーム)は、幼い頃から札付きの不良で、感化院に入れられ出所したところを陸軍に徴兵されるが脱走。感化院仲間に教えられたボクシングジムに逃げ込み、そこで才能を認められて偽名ロッキー・グラジアノを名乗ってボクサーに。
 6戦全勝したところで軍に見つかり刑務所に入れられるものの、才能を見極めた大佐によってボクシングの基礎を教わり、出所後、チャンプを目指す。
 これに芽の出なかった元ボクサーのアル中親父、その原因を作った母親、ロッコの結婚、マフィアの八百長の誘い、資格剥奪などのエピソードが絡むが、要は手に負えない不良だったロッコがボクサーを目指すことで更生し、チャンプに成れたのも周りにロッコを支え励ましてくれる良き仲間がいたから、つまり"Someone up there likes me"、ラッキーだったからというある種のヒューマンドラマになっている。
 そのロッコをポール・ニューマンが好演するが、その妻となるピア・アンジェリがボクサーと知ってて粉を掛けてきたのに、結婚する段になると殴り合いは嫌いだと、なかなかウザい女を演じる。
 実話ベースで楽しめるが、ヒューマンドラマに仕立てようとする見え透いたシナリオが若干鼻につく。 (評価:2.5)

炎の人ゴッホ

製作国:アメリカ
日本公開:1957年9月5日
監督:ヴィンセント・ミネリ 製作:ジョン・ハウスマン 脚本:ノーマン・コーウィン 撮影:フレデリック・A・ヤング、ラッセル・ハーラン 音楽:ミクロス・ローザ

伝記映画の域を出ていないのが物足りない
 原題"Lust for Life"で、生命への欲望の意。アーヴィング・ストーンの同名伝記が原作。
 ゴッホが伝道師を志してから画家となり、精神を病んで拳銃自殺するまでの半生を描く。
 ゴッホの半生を概観できる構成になっているが、画家ゴッホの伝記映画の域を出ていないのが物足りない。
 炭鉱町で伝道師となり、聖職者の特権的地位に疑問を持ち、人々の生活に入って行く中に、ゴッホの自然主義が形成されていく様子が描かれ、破門されて実家に戻り画家の道を志し、弟テオの仲介によりパリの印象派画家たちと出会い、ゴーギャンとの共同生活、耳たぶ事件、精神病院を経て自殺に至る。
 ゴッホの人間的であり狂気的な半生の過程は、ゴッホの作品を鑑賞・理解する上ではとても役立つものの、映画として見た場合には、ゴッホの人間的理解にまでには迫れてなく、狂気の原因も自殺の理由もわからず、ただヒストリカルに画家ゴッホの半生を眺めただけに終わる。
 ゴッホにカーク・ダグラス、ゴーギャンにアンソニー・クインを揃え、アンソニー・クインはアカデミー助演男優賞を受賞しているが、カーク・ダグラスのゴッホ像は今ひとつ明瞭さを欠いている。 (評価:2.5)

襲われた幌馬車

製作国:アメリカ
日本公開:1956年12月1日
監督:デルマー・デイヴィス 製作:ウィリアム・B・ホークス 脚本:ジェームズ・エドワード・グラント、デルマー・デイヴィス、グウェン・バグニー・ギルガット 撮影:ウィルフリッド・クライン 音楽:ライオネル・ニューマン

人道主義的西部劇で爽快感がないのが物足りない
 原題"The Last Wagon"で、最後の幌馬車の意。
 西部に移住する農民を乗せた幌馬車隊がアパッチ族に襲われ、生き残った6人の若者が途中出会ったお尋ね者の助けで無事生還するという物語。
 お尋ね者トッド(リチャード・ウィドマーク)とはハーパー保安官に護送されていた途中で出会うが、アパッチの襲撃で保安官は死亡。トッドが西部の事情に長けているのは白人ながらコマンチ族に育てられたからで、お尋ね者になった理由はコマンチの妻と子供を虐殺したハーパー兄弟に復讐したため。
 騎兵隊とともにアパッチを撃退した後、裁判にかけられるが、6人の証言に助けられる。トッドと恋の芽生えたジェニー(スーザン・コーナー)の保護観察下に置くという裁判長の大岡裁きで、気持ちよく終わる。
 冒頭より人権重視の押しつけがましい展開がいささか鼻に付くが、人道主義的西部劇という趣向がユニークといえばユニーク。もっとも、白人に融和的なコマンチはいいが反抗的なアパッチはダメという点では、本作の人道主義は薄っぺらく、善人ばかりの予定調和なラストも偽善的で嘘くさい。
 アパッチの撃退方法も騎兵隊の爆薬で、肉弾戦のアクションがなく、爽快感がないのも西部劇としては物足りない。 (評価:2.5)

禁断の惑星

製作国:アメリカ
日本公開:1956年9月8日
監督:フレッド・マクロード・ウィルコックス 製作:ニコラス・ネイファック 脚本:シリル・ヒューム 撮影:ジョージ・J・フォルシー、メイクアップ、ウィリアム・タトル 美術:セドリック・ギボンズ、アーサー・ロナーガン

UFOが宇宙最新技術と思われていたというのが面白い
 原題"Forbidden Planet"で、邦題の意。シェイクスピアの『テンペスト』を下敷きに、舞台を宇宙にしたとされる。
 地球…というよりはアメリカ合衆国が宇宙進出を始めた2200年代という設定で、地球を飛び立った宇宙船が20年前に連絡を絶った移民星アルテア4に向かう。この時の宇宙船というのが空飛ぶ円盤で、当時UFOが宇宙最新技術と思われていたというのが面白い。
 降り立った星にはモービアス博士(ウォルター・ピジョン)と死んだ妻との間に生まれた娘(アン・フランシス)の二人だけがいた。後の住民は全員、星を逃げ出そうとして、滅亡した先住民クレールが遺した怪物に殺されたというのが博士の説明。残留した博士はクレールが遺した装置から知識を授かり、分子から食事でも何でも作ってしまう超絶便利なロボットをメイドとしている。
 救助隊は博士たちを連れ帰ろうとして目に見えない怪物の攻撃を受けることになるが、実は怪物は人の攻撃的な潜在意識が生み出したものというのが真相。
 SF映画としての設定はそれなりなのだが、映画の作りは通俗的で、なぜ娘が生まれたかというと、このままでは登場人物が男だけになってしまうため、若くてお色気たっぷりの超ミニ美人が、映画的には必要だったという理由。
 やってきた救助隊の隊長(レスリイ・ニールセン)以下、早速娘のナンパを始め、隊長は娘とイイ仲になってしまうという通俗劇。これで怪物を生み出したのが娘の潜在意識ならまだ面白いが、博士だというのが凡庸でつまらない。
 最後は博士が責任をとって核爆発でアルテア4は消滅。娘と一緒に隊長が脱出するというラスト。見どころはアン・フランシスの3回のお色直しと、全裸水浴シーン。 (評価:2.5)

地下水道

製作国:ポーランド
日本公開:1958年1月10日
監督:アンジェイ・ワイダ 脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキ 撮影:イエジー・リップマン 音楽:ヤン・クレンツ

絶望しか残らず、汚くて見てられない
 原題は"Kanał"で管の意。1944年のポーランドが舞台で、ワルシャワ蜂起でドイツ軍に追い詰められた中隊が下水道に降りて脱出を図る話。
 ワイダの抵抗3部作の2作目だが、最後は絶望しか残らないという、ペシミスティックな作品。
 兵士たちは汚泥に塗れ、悪臭や有毒ガス、酸欠に苦しみながら下水道をさまよう。ある者は辛さに耐えかねて地上に出て銃殺。ある者は河に出ようとするが出口の鉄格子に阻まれる。発狂する者もいる。中隊長はようやく地上に逃れるが、部下がついてこなかったのを知って再び下水道に戻る。
 そうして出口のない状況で、ドブ鼠のように地下に潜って抵抗するしかないポーランドの絶望を象徴するが、ドイツ、ロシアによるポーランドの長い暗黒の日々を考慮しても、この救いのない物語に正直、価値を見いだせない。
 それにしてもみんながドブ鼠のように下水道をさまようシーンは、モノクロだからまだしも、汚くて見てられない。 (評価:2)

製作国:フランス
日本公開:1957年7月20日
監督:ロベール・ブレッソン 脚本:ロベール・ブレッソン 撮影:レオンス=アンリ・ビュレル
キネマ旬報:4位

脱走のためのハウツー映画になってしまったのが惜しい
 原題"Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut"で、死刑囚は逃げた、あるいは風はその望むところに吹くの意。アンリ・ドヴィニの手記を基にした実話。
 1943年ドイツ占領下のリヨンで、ドイツ軍に逮捕されたレジスタンスのフランス軍中尉(フランソワ・ルテリエ)が監獄に護送され、脱走するまでの話で、ほぼ全編、脱走のための地道な準備の過程が描かれる。
 スプーンを削ってミノにし、独房のドアの羽目板を外すもののそこから逃げる方法がないことを知り、衣類や寝具、ベッドの金具、天井の通気口の枠を使って、ロープやフックを作って脱走のチャンスを待つ。
 そこに死刑判決が下り、脱走を迫られる中、少年の同房者(シャルル・ル・クランシュ)が現れ、スパイかもしれないと疑いつつ脱走計画を打ち明けるか殺すかの二者択一を迫られることになり、ドラマとしては急にサスペンスフルになる。
 結局、少年とともに脱走に成功するが、中尉が逮捕された経緯も中尉の人物像も描かれず、そもそもリオンを含めて当時のフランスの状況やレジスタンスの背景にもまったく触れられなくて、単なる脱走のためのハウツー映画になってしまっているのが惜しい。 (評価:2)

1984

製作国:イギリス
日本公開:劇場未公開
監督:マイケル・アンダーソン 脚本:ウィリアム・テンプルトン、ラルフ・ベッティンソン 撮影:C・M・ペニントン=リチャーズ 音楽:マルコム・アーノルド

今の世界を予見した原作に届かない物足りなさ
 原題"1984/Nineteen Eighty-Four"。ジョージ・オーウェルの小説"Nineteen Eighty-Four"が原作。
 原作は第二次世界大戦後に書かれ、核戦争後に世界が3つの全体主義国家に統治されているという設定の近未来SF。映画はほぼ原作通りで、ラストシーンの曖昧さを除けば、原作以上のものはない。
 人々が四六時中監視され、配偶者をあてがわれ、思想を統制され、個人的自由の全くない世界で、中国・北朝鮮などを彷彿させて、70年前のこの作品が今も少しも古びていないことに驚かされるとともに、どのように時代を重ねようとも為政者が国家主義を楯に独裁・専制を望むという原理は変わらないことを改めて知る。
 1984の世界では人民は党員とプロレの2階層に分かれ、主人公のウィンストンは公僕の党員。真理省記録局という公文書や歴史を捏造する係というところが、日本を含む世界の国々を思い出させる。
 そうした現代国家や政治とのアナロジーと多くの示唆を含むが、世界観についての映画の説明は不足気味で、原作を読んでいないと理解しにくい。
 体制に疑問を持つウィンストンは、同僚のジューリアという娘と肉体関係を持ち、このために思想犯罪として摘発されるが、物語の核心は彼の思想改造にあって、拷問の結果、黒を白と信じるようになるのが結末。この過程は丁寧に描かれていて、テーマは全体主義の本質というよりは、個人的自由を失う洗脳の怖さに主眼が置かれている。
 ストーリーは原作に沿っていながらも、テーマ的には原作に届かない物足りなさが残る。 (評価:2)

戦争と平和

製作国:アメリカ、イタリア
日本公開:1956年12月22日
監督:キング・ヴィダー 製作:ディノ・デ・ラウレンティス 脚本:ブリジット・ボランド、マリオ・カメリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ、イヴォ・ペリリ、キング・ヴィダー、ロバート・ウェスタービー 撮影:ジャック・カーディフ、アルド・トンティ 美術:マリオ・キアリ 音楽:ニーノ・ロータ

見どころはナポレオン軍との会戦シーンとモスクワのオープンセット
 原題"War and Peace"で、邦題の意。レフ・トルストイの小説"Война и мир"(戦争と平和)が原作。
 原作は学生時代の夏休みに読んだことがあるが、人物とエピソードが煩雑な上にストーリーが長すぎて、夏休み内に読み終わらなかった。
 それを3時間半に纏めた本作は大作『戦争と平和』の概要を知るには便利で、それが最大の見どころともいえるが、それでも3時間半は長く、同時に割愛された人物やエピソードも多く、ダイジェストたり得ていない。
 主人公はトルストイの反映とされるべズーホフ伯爵家を継いだピエール(ヘンリー・フォンダ)で、ロストフ伯爵家の幼き令嬢ナターシャ(オードリー・ヘプバーン)との馴れ初めから、ナポレオン戦争を経て結婚に至るまでが縦軸となる。
 これにピエールの親友でナターシャの婚約者となる、ボルコンスキー公爵家のアンドレイ(メル・ファーラー)の出征話、ピエールの妻エレン(アニタ・エクバーグ)の浮気話等々、ナポレオン軍との会戦からモスクワ入城、退却までの歴史経過が語られる。
 その8年間を語るにはあまりに枝葉が多く、幼いナターシャがピエールに淡い恋心を抱き、帰還したアンドレイに恋して婚約、再び出征した1年の婚約期間にエレンの兄で女たらしのアナトール(ヴィットリオ・ガスマン)に引っかかり、戦死するアンドレイの許しとともにピエールに回帰するでは、可憐なヘプバーンを持ってしても多情で愚かな娘にしか見えない。
 戦時下での少女の葛藤を描くには3時間半でも足りなかったか、はたまたヘプバーンの演技力の問題か。
 戦争に興味のなかったピエールが、ナターシャのために前線のアンドレイに会いに行き、そこで戦争の悲惨を目撃する段になって漸くテーマが浮上してくるが、銃後の戦争に引き裂かれた平和の描写が不十分なため、「戦争」はともかく「平和」が描けていない。
 結局のところ、スター女優ヘプバーンの揺れ動く乙女のラブストーリーでしかなく、終盤のナポレオン軍のロシア侵攻の壮大な会戦シーンと、モスクワの見事なオープンセットに見どころを見出すしかない。 (評価:2)

知りすぎていた男

製作国:アメリカ
日本公開:1956年7月26日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:ジョン・マイケル・ヘイズ、アンガス・マクファイル 撮影:ロバート・バークス 美術:ヘンリー・バムステッド 音楽:バーナード・ハーマン

ストーリーは杜撰だがドリス・デイの主題歌はヒットした
 原題"The Man Who Knew Too Much"で、邦題の意。1934年の同名映画(邦題『暗殺者の家』)のセルフリメイク。
 仏領モロッコに旅行に来たアメリカ人のマッケナー夫妻(ジェームズ・ステュアート、ドリス・デイ)が某国首相暗殺計画を巡るスパイ戦に巻き込まれ、人質に取られた息子を救出するために活躍するというサスペンス。
 ヒッチコックにありがちなサスペンスだけを狙ってストーリーの整合性はどうでもいいという作品で、ご都合主義のシナリオは相当に杜撰。伏線はバラ撒いただけで回収されず、随所に???が続く。
 マッケナ一夫妻はフランス諜報員(ダニエル・ジェラン)に暗殺計画の伝言を託されるが、伝達先のイギリス教会牧師が敵側の暗殺計画の張本人というのが訳が分からない。あるいは本物の牧師に成り代わっていたのか? だとすれば本物の牧師は何者なのか? 教会信者は不審にも感じず成り代わった牧師の説教を聞いていたのか? 
 フランス諜報員の行動も謎で、マッケナー夫妻をなぜ連絡員と間違えたのか? なぜアラブ人に変装したのか? なぜマッケナー夫妻との予約をキャンセルしたのか? 等々、思わせぶりな行動だけの雰囲気シナリオ。
 マッケナー夫妻の行動も謎で、モロッコで子供が誘拐されながらロンドンに行けば子供を救えると思う発想が不思議。緊急時にロンドンのホテルに客人を招き入れる神経もわからない。
 ロンドンの警察は夫妻が隠していた誘拐をどうして知ったのか? 狙撃犯は2階席から転落しただけで即死するのか? 某国首相はマッケナー夫人の悲鳴を聞いただけでなぜ助けられたと思ったのか? そもそもチケットを持たない夫妻がどうしてホールに入れるのか? 二人の行動の方が相当に怪しいのになぜ咎められないのか? そもそもシンバルの音で銃声が消せるのか?
 息子救出の鍵になる『ケ・セラ・セラ』の歌と口笛は、広い大使館内で果たしてそれぞれの耳に届くのか? そうした数々の疑問を残すケ・セラ・セラなシナリオだが、ドリス・デイの主題歌はヒットした。 (評価:2)

捜索者

製作国:アメリカ
日本公開:1956年8月22日
監督:ジョン・フォード 製作:C・V・ホイットニー 脚本:フランク・S・ニュージェント 撮影:ウィントン・C・ホック 音楽:マックス・スタイナー

先住民への偏見がテーマらしいが伝わらない
 原題"The Searchers"で、邦題の意。アラン・ルメイの同名小説が原作。
 物語は、コマンチ族に弟一家を惨殺された元南軍兵士イーサン(ジョン・ウェイン)が、酋長スカー(ヘンリー・ブランドン)に連れ去られた姪を奪い返すため、マーティン(ジェフリー・ハンター)とともに6年間、テキサスを放浪するというもの。
 マーティンはインディアンと白人女との混血児で、イーサンが助けて弟夫婦が養育した青年。インディアンを憎むイーサンは当初マーティンを家族とは認めなかったが、探索の終わりに友と認めるという、先住民への偏見と和解をテーマにしているが、イーサンがなぜインディアンを憎むのかが語られず、ジョン・ウェインの演技も下手なために何を憎んでいるかが伝わって来ない。ラストシーンで二人の和解の物語とようやく気づく程度にしか印象を残さない。
 そもそも発端となる弟一家惨殺事件にしても、スカーが牛泥棒で白人をおびき出して狙い撃ちするという理由や背景が説明されてなく、なぜ弟一家が狙われたのかがよくわからない。
 6年間の探索行にしても、家に帰らずにずっと放浪しているという描写なので、資金はどうしたのかとか、憎しみだけで続けられるのかとか、虚構性ばかりが気になり、後半の西部の旅もまったりとして緊張感に欠ける展開となっている。
 前半と後半で、モニュメント・バレーの同じ場所が二度出てきて、絵としては映えるのだが、二度目がコマンチ族のキャンプ地なので、6年間の探索も灯台下暗しに見えてしまって、ロケ地の選定としてはいささか配慮不足か。
 誘拐されるデビーをナタリー・ウッド、その子供時代を妹のラナ・ウッドが演じているのがネタ。 (評価:2)

世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す

製作国:アメリカ
日本公開:1956年8月10日
監督:フレッド・F・シアーズ 製作:サム・カッツマン 脚本:カート・シオドマク、ジョージ・ワーシング・イエーツ、レイモンド・T・マーカス 撮影:フレッド・ジャックマン・Jr 音楽:ミッシャ・バカライニコフ

傲慢なのは宇宙人か? それともアメリカ人か?
 原題"Earth vs. the Flying Saucers"で、地球対空飛ぶ円盤の意。ドナルド・キーホーのノンフィクション"Flying Saucers from Outer Space"を基に制作されたSF作品。
 アメリカでUFOが多数目撃されるようになり、UFOの意図がわからない国防部はUFOに遭遇したら攻撃するようにという指示を出す…というのが如何にもアメリカ的。UFOと平和に話し合うようになる『未知との遭遇』(1987)まで30年かかる。
 マービン(ヒュー・マーロウ)と婚約者のキャロル(ジョーン・テイラー)が勤める研究所にもUFOがやってきて、国防部の指示通りに攻撃。キャロルの父・ハンリー元帥がUFOに連れ去られ宇宙人に脳内をスキャンされ、地球に関する情報を抜き取られる。
 UFOに接触したマービンは、宇宙人が母星を失い、地球に住むためにやってきたことを知る。もっとも宇宙人も植民地主義で、圧倒的な科学力の武器で地球を支配するので、アメリカ大統領と相談したいという図々しさ。
 アメリカ側はマービンが開発した磁場でUFOを墜落させるという装置で立ち向かい、宇宙人と大戦争。ワシントンは壊滅するが、UFOも全部落とされてアメリカ側の勝利。無事マービンとキャロルはマイアミ?あたりに新婚旅行に出かけ、メデタシメデタシ…という詰まらない物語。
 アメリカ=地球という原題からもわかるように、傲慢なのは宇宙人か? それともアメリカ人か? というのが制作者の意図しないテーマで、母星が滅んだ原因や宇宙人が何を考えているのかは、どうでもいいというスタンス。
 UFOがワシントンのミニチュアセットを破壊しまくる、レイ・ハリーハウゼンの特撮シーンがすべてだが、『ゴジラ』(1954)のような文明批判もないのが、これまたアメリカ的。 (評価:2)

白鯨

製作国:アメリカ
日本公開:1956年10月31日
監督:ジョン・ヒューストン 製作:ジョン・ヒューストン 脚本:レイ・ブラッドベリ、ジョン・ヒューストン 撮影:オズワルド・モリス 音楽:フィリップ・サントン

悪の王者・鯨を退治する時代遅れの寂しい作品
 原題"Moby Dick"で、鯨に付けたニックネーム。ハーマン・メルヴィルの冒険小説"Moby-Dick; or, The Whale"が原作。
 白鯨は白いマッコウクジラで、捕鯨船船長のエイハブ(グレゴリー・ペック)の片足を食いちぎったために、エイハブが復讐のために追い求めるという物語になっている。
 子供の頃に観た時はそれなりの海洋冒険作品だったが、改めて観ると1851年に書かれた小説を原作にしているため、鯨の食性や生態などについて余りに無知で、とりわけ前半はコメディを見ているようにズッコケる。
 エイハブ船長がかつて銛を突き立てたモビィ・ディックがそのままの姿で世界の海を回遊し、なんと大西洋から喜望峰を回ってインド洋から太平洋へと船で追いかけるという笑い話。台詞も相当に時代がかっていて、吹き出しそうになる。
 それでも後半はエイハブvsモビィ・ディックの対決となり、それなりの格闘が演じられるが、哀れエイハブ船長は何本もの銛に結ばれたロープが絡み合ってモビィ・ディックに磔となり、最後に笑わせてくれる。
 モビィ・ディックの突撃で捕鯨船は木っ端微塵、捕鯨船員の青年(リチャード・ベースハート)だけが仲間が作った棺桶にすがって助かり、一部始終を物語るというファンタジーになっている。
 見どころはモビィ・ディックが暴れまわる特撮シーンだが、円谷英二の海戦シーンに比べると、やはり鯨がモノだけに今ひとつ盛り上がらない。
 鯨の食性・生態の知見不足という作品の経年劣化は致し方ないが、環境保護と動物愛護の時代に鯨油だけを目的に鯨をバカスカ殺した挙句、殺人鯨と悪者にして良いわけもなく、時代遅れの寂しい作品となっている。 (評価:2)

間違えられた男

製作国:アメリカ
日本公開:1957年6月19日
監督:アルフレッド・ヒッチコック 脚本:マックスウェル・アンダーソン、アンガス・マクファイル 撮影:ロバート・バークス 音楽:バーナード・ハーマン

熊倉一雄の声ではないと本物のヒッチコックか? と疑ってしまう
 原題"The Wrong Man"で、邦題の意。誤認逮捕の実話を描いたマックスウェル・アンダーソンの著書"The True Story of Christopher Emmanuel Balestrero"とLifeに掲載されたハーバート・ブリーンの記事 "A Case of Identity"が原作。
 生命保険会社の強盗犯によく似ていたために犯人と間違えられたマニー(ヘンリー・フォンダ)が、警察に誤認逮捕されるという物語。保釈後、アリバイの証人捜しをするが困難を極め、妻(ヴェラ・マイルズ)は精神を病んで入院。果たして審理の行方は? というところで、真犯人が捕まってあっさり無罪にという、冤罪劇、法廷劇としては肩透かしの作品。  マニーは早速妻に報告に行くが、病は癒えずというラストシーン。
 犯罪を題材にしたヒッチコック作品だけにサスペンスやミステリーを期待するが、そのどちらでもなく、さては冤罪を背負うマニーと妻の愛情物語かと思えばそうではなく、冤罪を生む警察の見込み捜査を告発する社会派映画にもなってなく、一人の不幸な男とその妻の悲劇を描いただけの捉えどころのない作品。
 話の整合性や筋道よりは、畳みかけるテンポの良いサスペンスで押し切るヒッチコックらしく、犯罪劇、法廷劇の緻密さに欠け、社会派作品にも人間ドラマにも向いていないのが良くわかる。
 目撃証言に頼るだけで捜査をしない警察や、証拠集めを依頼人に指示するだけで何もしない弁護士というのも不自然な描写。マニーの妻がいきなり精神病になるのも唐突すぎて、下手な芝居を見せられているよう。
 冒頭、ヒッチコック本人が登場して実話であることを話すが、熊倉一雄の声ではないために、思わず本物のヒッチコックか? と疑ってしまうのが可笑しい。それにしても熊倉一雄とは声のイメージが違い過ぎる。 (評価:1.5)

王様と私

製作国:アメリカ
日本公開:1956年10月26日
監督:ウォルター・ラング 製作:チャールズ・ブラケット 脚本:アーネスト・レーマン 撮影:レオン・シャムロイ 音楽:ケン・ダービー
ゴールデングローブ作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)

"Shall We Dance?"以外には見るべきところがない
 原題"The King and I"。オスカー・ハマースタイン2世戯曲の同名ミュージカルの映画化で、原作はマーガレット・ランドンの小説"Anna and the King of Siam "(アンナとシャム王)。
 1860年代のシャムの宮廷が舞台で、ラーマ4世の妻子のイギリス人英語教師アナ・リオノウンズの回顧録が基になっている。
 未亡人のアンナ(デボラ・カー)がシャム王(ユル・ブリンナー)の妻子の家庭教師となり、英語や世界地理について教えながら王にシャムの文化風俗の野蛮性を教え諭すという物語で、ビルマからの側室(リタ・モレノ)がその恋人と逃亡しようとした事件がきっかけでアンナに叱責された王は衰弱死。アンナの薫陶を受けたシャム王子が王位を継ぐ。
 タイに対する偏見と侮辱に満ちた作品で、文化衝突もタイ蔑視、西洋優位主義が露骨に描かれる。アンナ自身が金儲けのために宮廷入りし、本心ではイギリスに戻りたがっているのが見え見えなのだが、制作者たちはそう描かれていることに気づいていないほどに鈍感。
 ミュージカルとしても、"Shall We Dance?"以外にこれといった歌曲もなく、演出・美術共に西洋人にしか受けない珍奇なオリエンタル趣味を見せ物にしているだけなのが何とも悲しい。
 ユル・ブリンナーとデボラ・カーが"Shall We Dance?"を躍る数分間以外には見るべきところがない。 (評価:1.5)

恋多き女

製作国:フランス、イタリア
日本公開:1957年9月10日
監督:ジャン・ルノワール 脚本:ジャン・ルノワール、ジャン・セルジュ 撮影:クロード・ルノワール 音楽:ジョセフ・コズマ

フランス人にはなれない自分を再確認できる
 原題"Elena et les Hommes"で、エレナと男たちの意。
 エレナはポーランドの未亡人の公爵夫人。19世紀末のパリで、フランスの独身貴族、将軍、裕福な製靴業者を相手に恋愛を繰り広げるというロマンチック・コメディ。
 エレナ役を41歳のイングリッド・バーグマンが演じるが、美貌は衰えず、多情で妖艶な女が年齢なり。もっとも、バーグマン以外には見どころはなく、コメディが寒い上に、シナリオもつまらない。
 演出も、ルノワールらしい美しい風景のカットが時折あるだけで、ストーリーも単調な上にカットの繋ぎもブツブツで、まともなドラマにもなっていないのが辛い。
 レオナは何かを成し遂げようという男に力を与える女神で、最初の男が作曲家として成功すると途端に興味を失くす。2番目の男は、現実主義の叔母の助言で婚約する年の離れた製靴業者。ところが、フランスの気球観測員が漂流してドイツ軍に捕まってしまったことから、エレナに好意を寄せるフランスの将軍にアプローチして観測員の奪還をさせる。
 人気を得た将軍をフランス政府は危険に感じて左遷。エレナが将軍にクーデターを促しその気にさせると、今度はフランス貴族に乗り換えるという物語。
 ラストは高い志よりも恋が大事と、登場人物がみんなカップルとなって抱き合ってキスするという、フランス的大団円で、これで何が面白いのかよくわからないままに、フランス人にはなれない自分を再確認する。 (評価:1.5)